天からの光のエネルギーでタマスをアナハタ以下に押し返す
タマスが頭にあるときに淀んだ感覚になりますので、タマスをアナハタ以下に押し返す必要があるように思います。
今までは、アジナに集中することでタマスをヴィシュッダから下に吸収するの感覚でいましたけど、実はそれを成り立たせているのが天から来る光のエネルギーによるものだったようです。
スピリチュアルでは天からの光のシャワーで不浄なものを洗い流して浄化するみたいなことが言われていますけど、それは理屈としてはわかりますけど今までどこかピンときていませんでした。しかしながら、どうやら瞑想でタマスを浄化することを成り立たせていたのが実は天から来る光のエネルギーなのだとすれば、表現こそ違えどもスピリチュアルで言っているのと同じことがヨーガでも行われているのだということがわかります。
スピリチュアルな言い方はどこか神秘的ですけど、ヨーガにしても集中瞑想でサハスララを開いて光の意識に到達するなんてことは実は同じことだということが分かるわけです。
光のシャワーと聞くと、実際のシャワーは水ですから体を簡単に通り抜けるようなものだと思っていましたけど、私の場合はもっと質感のあるもので、透明で光ではあるもののゼリーのような粘着性のある光の物質・・・ 物質と言うと語弊がありますけど、光ではあるものの粘着性があってそれは物質の水のように何かを押し出すことができる性質のものです。
光ではあるものの、性質としては粘着性のある水のような気体のような液体と気体との中間のような粘着性の光だと思っていただければ割と近い気が致します。
そのような粘着性の気体と液体の中間の光が天から頭の上を通って入ってきて、それがタマスをアナハタ以下に押し返している感覚です。
これを光のシャワーだと言われればそうかもしれませんけど、シャワーというよりも頭上から来る光の洪水とか言った方がしっくり来る気が致します。まあ、表現の違いだけだとは思いますけど。
そのような光の洪水が頭上から実は来ていて、それがタマスをアナハタ以下に押し返していたわけです。
今まで、その光の洪水の存在を知覚できていませんでしたが、ふと、それが来ていることに気が付いたのです。どうやら半年かそのくらい前からその影響が強くなってきていたのかな・・・ と今になっては思います。
感覚として、アナハタで下半身のタマスと上半身のサットヴァな清浄な意識とが拮抗している時が心身共に充実している気が致します。
アナハタより上にタマスがあると意識が淀んでしまいます。サットヴァが下半身を充実したことはない気も致しますけど、過去生を見てみると地上に転生してすぐの頃はサットヴァしかなかったような気も致します。今生の目的からしても今回はタマスの割合が多くて、天のエネルギーを弱めないように気をつける必要がありそうです。
今までは、アジナに集中することでタマスをヴィシュッダから下に吸収するの感覚でいましたけど、実はそれを成り立たせているのが天から来る光のエネルギーによるものだったようです。
スピリチュアルでは天からの光のシャワーで不浄なものを洗い流して浄化するみたいなことが言われていますけど、それは理屈としてはわかりますけど今までどこかピンときていませんでした。しかしながら、どうやら瞑想でタマスを浄化することを成り立たせていたのが実は天から来る光のエネルギーなのだとすれば、表現こそ違えどもスピリチュアルで言っているのと同じことがヨーガでも行われているのだということがわかります。
スピリチュアルな言い方はどこか神秘的ですけど、ヨーガにしても集中瞑想でサハスララを開いて光の意識に到達するなんてことは実は同じことだということが分かるわけです。
光のシャワーと聞くと、実際のシャワーは水ですから体を簡単に通り抜けるようなものだと思っていましたけど、私の場合はもっと質感のあるもので、透明で光ではあるもののゼリーのような粘着性のある光の物質・・・ 物質と言うと語弊がありますけど、光ではあるものの粘着性があってそれは物質の水のように何かを押し出すことができる性質のものです。
光ではあるものの、性質としては粘着性のある水のような気体のような液体と気体との中間のような粘着性の光だと思っていただければ割と近い気が致します。
そのような粘着性の気体と液体の中間の光が天から頭の上を通って入ってきて、それがタマスをアナハタ以下に押し返している感覚です。
これを光のシャワーだと言われればそうかもしれませんけど、シャワーというよりも頭上から来る光の洪水とか言った方がしっくり来る気が致します。まあ、表現の違いだけだとは思いますけど。
そのような光の洪水が頭上から実は来ていて、それがタマスをアナハタ以下に押し返していたわけです。
今まで、その光の洪水の存在を知覚できていませんでしたが、ふと、それが来ていることに気が付いたのです。どうやら半年かそのくらい前からその影響が強くなってきていたのかな・・・ と今になっては思います。
感覚として、アナハタで下半身のタマスと上半身のサットヴァな清浄な意識とが拮抗している時が心身共に充実している気が致します。
アナハタより上にタマスがあると意識が淀んでしまいます。サットヴァが下半身を充実したことはない気も致しますけど、過去生を見てみると地上に転生してすぐの頃はサットヴァしかなかったような気も致します。今生の目的からしても今回はタマスの割合が多くて、天のエネルギーを弱めないように気をつける必要がありそうです。
天の光のエネルギーを喉を通ってお腹まで下ろす
天の光のエネルギーが不足している時にタマスな愚鈍な状態になります。瞑想をして天のエネルギーが充実すると頭のタマスが喉のヴィシュッダに吸い込まれて清浄な静寂の境地に達します。
感覚的には、胸のアナハタまで天の光のエネルギーが来ると清浄な静寂の境地になる気が致します。
それで割と十分なのですが、最近は更にお腹や腰および足の方にまでなるべく天の光のエネルギーを届かせるように意識しています。
光のエネルギーが届くとその部分の緊張が抜けてゆき、リラックスできます。
これは、白隠禅師の軟酥(なんそ)の法に似ているような気が致します。もしかしたら同じことなのかもしれませんね。今までも同じようなことができていた気がしておりましたが、今思えば、今まではかなり天のエネルギーが弱くて、最近の状態こそが本当の軟酥の法かなと言う気が致します。
プレアデスのワークの本を見るとこれには3段階あって、最初は肉体のクンダリーニを上げる段階、次は天のエネルギーを下ろす段階、次は地のエネルギーを胸まで上げる段階とあります。この内容がしっくり来ます。詳しい内容は機会があればその時にでも。
感覚的には、胸のアナハタまで天の光のエネルギーが来ると清浄な静寂の境地になる気が致します。
それで割と十分なのですが、最近は更にお腹や腰および足の方にまでなるべく天の光のエネルギーを届かせるように意識しています。
光のエネルギーが届くとその部分の緊張が抜けてゆき、リラックスできます。
これは、白隠禅師の軟酥(なんそ)の法に似ているような気が致します。もしかしたら同じことなのかもしれませんね。今までも同じようなことができていた気がしておりましたが、今思えば、今まではかなり天のエネルギーが弱くて、最近の状態こそが本当の軟酥の法かなと言う気が致します。
プレアデスのワークの本を見るとこれには3段階あって、最初は肉体のクンダリーニを上げる段階、次は天のエネルギーを下ろす段階、次は地のエネルギーを胸まで上げる段階とあります。この内容がしっくり来ます。詳しい内容は機会があればその時にでも。
天のクンダリーニを体に満たす瞑想
表現としては古来から色々と言われていますけど、以下は全て同じことであると解釈しました。
・白隠禅師の軟酥(なんそ)の法
・スピリチュアルの天のエネルギー。天のエネルギーを体に満たす。
・プレアデスのワークの第二ステップ、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニを体に満たす。
・キリスト教のキリスト意識、あるいは天使として象徴されるエネルギーを感じること。
・クリヤ・ヨガの手法(特に第一段階)
軟酥の法は、頭の上に光の卵のようなものを想像してそこから光が水のように落ちてくるのでそれを身体中に巡らせてくすんだオーラを洗い流す方法で、白隠禅師は特にクンダリーニ症候群を治すためにこれを行なったとされます。
実質的に同じことが、各種の流派によって別々の言い方をされているのだと思います。
基本的には全ていわゆるクンダリーニが動き出してから行うもので、それ以前ではあまり効果がなくて単なる想像に過ぎないものになってしまのかなと思います。
■3つのクンダリーニ
世間ではクンダリーニは1つですけど、プレアデスのドルフィン・スター・テンプルと言う流派では3つのクンダリーニとして解釈されているようです。
・あなた自身のボディ・クンダリーニ(多くのスピリチュアルな道において一般的に教えられ実際に使われているクンダリーニ)
・ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニ
・アース・クンダリーニ
「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」より
同書によれば、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニはクラウンチャクラ(サハスララ・チャクラ)から取り込み、アース・クンダリーニは足あるいは会陰から吸い込むようです。まずコスミック・クンダリーニをいわゆるスシュムナを通してベースチャクラ(ムーラダーラチャクラ)である会陰にまで降ろし、それからアース・クンダリーニを活性化させるようです。
私の場合、特にこれだと意識していたわけではありませんが、最近の瞑想においては以下のようなステップが相当しているように思います。
・頭のタマスがヴィシュッダに吸い込まれていって意識がクリアになり静寂な意識に至る。これはコスミック・クンダリーニが天のサハスララチャクラから入ってきている段階に相当。
・クリアな意識がヴィシュッダより上に満たされる。これはコスミック・クンダリーニがヴィシュッダより上に満たされる段階に相当。
・最近は、そのクリアな意識が完全ではないもののお腹や腰および足の方にまで少しずつ行き届くようになってきています。これは、コスミック・クンダリーニが会陰にまで到達しつつあると解釈できます。
アース・クンダリーニがどのようなものかはまだいまいちピンときませんが、これからの段階で何かがあるのかもしれません。今の段階では、ひとまずムーラダーラや手足の先にまで天のクリアな意識を行き渡らせて安定させることが重要なかなと思います。
私の場合はアース・クンダリーニを探そうとするとボディ・クンダリーニとアース・クンダリーニの区別がつかなくなってボディ・クンダリーニが活性化してしまって天のコスミック・クンダリーニが弱まってしまうので、おそらくはアース・クンダリーニの実体がまだ掴めていないのかなと思います。
■白隠禅師のクンダリーニ症候群
私の解釈では、ボディ・クンダリーニが活性化したもののまだハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが十分に動いていない状態のことをクンダリーニ症候群と呼ぶのかなと思います。確かにその状態では不安定な気が致します。であればそれは病気でもなんでもなく、成長の一過程に過ぎないのだと思いますが、適切なグルがいないとそれを解釈するのが難しく、周囲に誤解を与えてしまったりするのでしょう。
クンダリーニの手法はグルがいる元で行うべきで、一人で行うべきではありません。
同書にあるコスミック・クンダリーニの手法も、少なくとも3ヶ月はスシュムナにクンダリーニを流してからでないと行なってはいけないと書かれてあります。このような手法は時間をかける必要があるのだと思います。
私の場合は人間のグルはいるようないないような、と言う感じでこんなところまで教えてはくれませんけど、守護霊の1人が元チベットの修行僧で今は天使と共に働いているマスターなのでこの辺りは適切に導いてくれます。
・白隠禅師の軟酥(なんそ)の法
・スピリチュアルの天のエネルギー。天のエネルギーを体に満たす。
・プレアデスのワークの第二ステップ、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニを体に満たす。
・キリスト教のキリスト意識、あるいは天使として象徴されるエネルギーを感じること。
・クリヤ・ヨガの手法(特に第一段階)
軟酥の法は、頭の上に光の卵のようなものを想像してそこから光が水のように落ちてくるのでそれを身体中に巡らせてくすんだオーラを洗い流す方法で、白隠禅師は特にクンダリーニ症候群を治すためにこれを行なったとされます。
実質的に同じことが、各種の流派によって別々の言い方をされているのだと思います。
基本的には全ていわゆるクンダリーニが動き出してから行うもので、それ以前ではあまり効果がなくて単なる想像に過ぎないものになってしまのかなと思います。
■3つのクンダリーニ
世間ではクンダリーニは1つですけど、プレアデスのドルフィン・スター・テンプルと言う流派では3つのクンダリーニとして解釈されているようです。
・あなた自身のボディ・クンダリーニ(多くのスピリチュアルな道において一般的に教えられ実際に使われているクンダリーニ)
・ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニ
・アース・クンダリーニ
「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」より
同書によれば、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニはクラウンチャクラ(サハスララ・チャクラ)から取り込み、アース・クンダリーニは足あるいは会陰から吸い込むようです。まずコスミック・クンダリーニをいわゆるスシュムナを通してベースチャクラ(ムーラダーラチャクラ)である会陰にまで降ろし、それからアース・クンダリーニを活性化させるようです。
私の場合、特にこれだと意識していたわけではありませんが、最近の瞑想においては以下のようなステップが相当しているように思います。
・頭のタマスがヴィシュッダに吸い込まれていって意識がクリアになり静寂な意識に至る。これはコスミック・クンダリーニが天のサハスララチャクラから入ってきている段階に相当。
・クリアな意識がヴィシュッダより上に満たされる。これはコスミック・クンダリーニがヴィシュッダより上に満たされる段階に相当。
・最近は、そのクリアな意識が完全ではないもののお腹や腰および足の方にまで少しずつ行き届くようになってきています。これは、コスミック・クンダリーニが会陰にまで到達しつつあると解釈できます。
アース・クンダリーニがどのようなものかはまだいまいちピンときませんが、これからの段階で何かがあるのかもしれません。今の段階では、ひとまずムーラダーラや手足の先にまで天のクリアな意識を行き渡らせて安定させることが重要なかなと思います。
私の場合はアース・クンダリーニを探そうとするとボディ・クンダリーニとアース・クンダリーニの区別がつかなくなってボディ・クンダリーニが活性化してしまって天のコスミック・クンダリーニが弱まってしまうので、おそらくはアース・クンダリーニの実体がまだ掴めていないのかなと思います。
■白隠禅師のクンダリーニ症候群
私の解釈では、ボディ・クンダリーニが活性化したもののまだハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが十分に動いていない状態のことをクンダリーニ症候群と呼ぶのかなと思います。確かにその状態では不安定な気が致します。であればそれは病気でもなんでもなく、成長の一過程に過ぎないのだと思いますが、適切なグルがいないとそれを解釈するのが難しく、周囲に誤解を与えてしまったりするのでしょう。
クンダリーニの手法はグルがいる元で行うべきで、一人で行うべきではありません。
同書にあるコスミック・クンダリーニの手法も、少なくとも3ヶ月はスシュムナにクンダリーニを流してからでないと行なってはいけないと書かれてあります。このような手法は時間をかける必要があるのだと思います。
私の場合は人間のグルはいるようないないような、と言う感じでこんなところまで教えてはくれませんけど、守護霊の1人が元チベットの修行僧で今は天使と共に働いているマスターなのでこの辺りは適切に導いてくれます。
天のコスミック・エネルギーで上半身が満たされた静寂の境地
静寂の境地はまだ悟りではありませんがその重要な前兆の1つだと思います。
天のエネルギーが上半身、特に喉のヴィシュッダより上に満たされて、喉より上のタマスがヴィシュッダに吸い込まれて喉より上が清浄な状態になり、意識が静寂に満たされた状態になります。
この時、下半身の状態は様々でまだタマスが残っているかもしれませんけど意識に大きな影響は与えず、意識は静寂の境地を保てています。
この後のステップとしては下半身も天のコスミックエネルギーで満たしてゆくわけですが、そこまで行かないまでも意識の状態としては静寂になっております。
静寂の境地というとまるで涅槃か悟りかのように聞こえてしまうかもしれませんが、確かに悟りの性質の1つではあると思いますがそれだけでは悟りとは言えないように思います。
このあたりは流派がいくつもあって、涅槃を悟りとしている流派もあると思いますし、静寂の境地が涅槃としている流派、あるいはもっと先の状態を涅槃としている流派がありますのでそれはその流派の言い方に従えばいいと思います。その流派の言い方をすれば涅槃が悟りとも言えるでしょう。しかし、私の感覚としてはこの静寂の境地としての涅槃はまだ悟りとは思えません。
このあたりは、何を求めるかによってゴールが違うのでしょうね。
私は、自らのスピリットが宇宙意識と一体になって意識が時空を超え、過去も未来も一体のものであると感じられるようになった状態こそが悟りだと思っておりますので、意識が静寂の境地になって流派によってはそれを涅槃と読んだとしてもまだ悟りとは思わないのです。
[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換え、文脈を見直しました。
天のエネルギーが上半身、特に喉のヴィシュッダより上に満たされて、喉より上のタマスがヴィシュッダに吸い込まれて喉より上が清浄な状態になり、意識が静寂に満たされた状態になります。
この時、下半身の状態は様々でまだタマスが残っているかもしれませんけど意識に大きな影響は与えず、意識は静寂の境地を保てています。
この後のステップとしては下半身も天のコスミックエネルギーで満たしてゆくわけですが、そこまで行かないまでも意識の状態としては静寂になっております。
静寂の境地というとまるで涅槃か悟りかのように聞こえてしまうかもしれませんが、確かに悟りの性質の1つではあると思いますがそれだけでは悟りとは言えないように思います。
このあたりは流派がいくつもあって、涅槃を悟りとしている流派もあると思いますし、静寂の境地が涅槃としている流派、あるいはもっと先の状態を涅槃としている流派がありますのでそれはその流派の言い方に従えばいいと思います。その流派の言い方をすれば涅槃が悟りとも言えるでしょう。しかし、私の感覚としてはこの静寂の境地としての涅槃はまだ悟りとは思えません。
このあたりは、何を求めるかによってゴールが違うのでしょうね。
私は、自らのスピリットが宇宙意識と一体になって意識が時空を超え、過去も未来も一体のものであると感じられるようになった状態こそが悟りだと思っておりますので、意識が静寂の境地になって流派によってはそれを涅槃と読んだとしてもまだ悟りとは思わないのです。
[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換え、文脈を見直しました。
答えは全て自分の中にある
ニューエイジ時代にスピリチュアルでよく言われたことですが、これは真実だと思います。
ですから、理想を言うのであればそれを踏まえた上で多くの流派の良いとこ取りをするのが一番成長が早いと言えます。まず基本として答えは自分の中にあるのですから外にあるものは全て「確かめ」でしかなく、どんな流派のどんな高度な説明であっても基本は「外」の「ノイズ」に過ぎないと言えます。
真理を求めるのは完全なる自立した個人が行うべきであり、その完全なる個人が自らの中に答えを求めるのが理想であり、外にある聖典やグルなどはその自分が知り得たものを確かめるためのコンサルタントとして存在していると言えます。
それを勘違いして、答えを外に求めてしまうと流派に拘ったり他の流派を批判したりしてしまいます。
ヨーガや宗教の流派で「多くの流派をかじっても悟りには到達しない。1つの流派に従うべき」とか言われていますけど、「答えは全て自分の中にある」ということを踏まえたのならば本質は自分の中にあるのですから、何の流派をしていてどの流派でもあちこちかじっていたとしても大差ないと言えます。
人によって得手不得手があるように流派に向き不向きがありますから、自分にあった流派を探すのはいいと思いますが、理想をいうのならば、多くの流派をかじって良いところを組み合わせた方が成長が早いと思います。
実際は、ちょっと通っただけでは教えてはくれませんので、1つの流派に集中することになることが多いかとは思います。
ですが、完全なる独立した個人が自らの中に答えを求める、というのが基本にあるべきなのです。
1つの流派に従うべきと言っているのは、目的地ではなく中継地であると心に留めるべきです。まだ自立していない子供に対して広い世界を見てこいと簡単に言う親がいないのと同様に、まだ本質を知らない子供に対しては1つの流派に従うべきと言うのは親心と言えるかもしれませんが、その流派は単なる経由地であり、やがて子供は大人になり羽ばたいてゆくものです。羽ばたいて行けるようにするのが流派の役割であると言えます。
時に人は「多くの流派を彷徨っても悟りには到達しない」と言います。それは答えを外に求めている人のお話で、自らの内にあると知っていて自らの中を探求しているのならば流派は大差ないわけです。
答えを外に求めている、あるいは、内に求めてはいるもものまだ見つかっていない人だけが流派にこだわり、流派の差を気にするわけです。
答えが自らの中に見つかったとしても、成長するにおいてそれを説明してくれる人が自分の属する流派にいないかもしれません。だとしたら、他の流派のグルを頼ることに何の躊躇があると言うのでしょうか。
他派の説明を聞いて、何やら前提条件が違ったとして混乱するかもしれません。その混乱に何の罪があると言うのでしょうか。
闇雲に1つの流派だけを信じていれば悟りに至ると思い描くことこそ混迷の原因であり、答えが自らの中にあるのだとすれば、その説明として外にあるものを何でも利用すると言うのが真理を探求する人の本来の姿なのではないでしょうか。
流派に属する人は、やもして多くの流派を勉強する人を「多くをかじっている」と言って批判します。
確かに、答えを外に求めている人が多くの流派を勉強していたらその批判は正しく、「1つの流派に集中すべき」と言えます。その意味においては批判は正しいと言えます。
しかしながら、理想はと言うと答えは自らの中にあるのですから、自らの中を探求している完全なる独立した個人がたまたま1つの流派に属しているとして、その流派の中に自分の見つけた答えに対応するものが見つからないとすれば、他派を見たところで全く問題ないと言えます。
本意は「外を探してばかりいないで自分の中を探しましょう」と言うところに帰着するのであれば、1つの流派だろうが多くの流派だろうが理想的には大差ないと言えます。
とは言いましても、属する先として1つはあった方が落ち着きますし実際的な活動もしやすいのも確かです。
ですから、現実解としては1つの流派に一応は属しておいて、心の中では「私は完全なる独立した個人である」として、広く多くの流派に対してオープンでいることが大切であると言えます。
ですから、理想を言うのであればそれを踏まえた上で多くの流派の良いとこ取りをするのが一番成長が早いと言えます。まず基本として答えは自分の中にあるのですから外にあるものは全て「確かめ」でしかなく、どんな流派のどんな高度な説明であっても基本は「外」の「ノイズ」に過ぎないと言えます。
真理を求めるのは完全なる自立した個人が行うべきであり、その完全なる個人が自らの中に答えを求めるのが理想であり、外にある聖典やグルなどはその自分が知り得たものを確かめるためのコンサルタントとして存在していると言えます。
それを勘違いして、答えを外に求めてしまうと流派に拘ったり他の流派を批判したりしてしまいます。
ヨーガや宗教の流派で「多くの流派をかじっても悟りには到達しない。1つの流派に従うべき」とか言われていますけど、「答えは全て自分の中にある」ということを踏まえたのならば本質は自分の中にあるのですから、何の流派をしていてどの流派でもあちこちかじっていたとしても大差ないと言えます。
人によって得手不得手があるように流派に向き不向きがありますから、自分にあった流派を探すのはいいと思いますが、理想をいうのならば、多くの流派をかじって良いところを組み合わせた方が成長が早いと思います。
実際は、ちょっと通っただけでは教えてはくれませんので、1つの流派に集中することになることが多いかとは思います。
ですが、完全なる独立した個人が自らの中に答えを求める、というのが基本にあるべきなのです。
1つの流派に従うべきと言っているのは、目的地ではなく中継地であると心に留めるべきです。まだ自立していない子供に対して広い世界を見てこいと簡単に言う親がいないのと同様に、まだ本質を知らない子供に対しては1つの流派に従うべきと言うのは親心と言えるかもしれませんが、その流派は単なる経由地であり、やがて子供は大人になり羽ばたいてゆくものです。羽ばたいて行けるようにするのが流派の役割であると言えます。
時に人は「多くの流派を彷徨っても悟りには到達しない」と言います。それは答えを外に求めている人のお話で、自らの内にあると知っていて自らの中を探求しているのならば流派は大差ないわけです。
答えを外に求めている、あるいは、内に求めてはいるもものまだ見つかっていない人だけが流派にこだわり、流派の差を気にするわけです。
答えが自らの中に見つかったとしても、成長するにおいてそれを説明してくれる人が自分の属する流派にいないかもしれません。だとしたら、他の流派のグルを頼ることに何の躊躇があると言うのでしょうか。
他派の説明を聞いて、何やら前提条件が違ったとして混乱するかもしれません。その混乱に何の罪があると言うのでしょうか。
闇雲に1つの流派だけを信じていれば悟りに至ると思い描くことこそ混迷の原因であり、答えが自らの中にあるのだとすれば、その説明として外にあるものを何でも利用すると言うのが真理を探求する人の本来の姿なのではないでしょうか。
流派に属する人は、やもして多くの流派を勉強する人を「多くをかじっている」と言って批判します。
確かに、答えを外に求めている人が多くの流派を勉強していたらその批判は正しく、「1つの流派に集中すべき」と言えます。その意味においては批判は正しいと言えます。
しかしながら、理想はと言うと答えは自らの中にあるのですから、自らの中を探求している完全なる独立した個人がたまたま1つの流派に属しているとして、その流派の中に自分の見つけた答えに対応するものが見つからないとすれば、他派を見たところで全く問題ないと言えます。
本意は「外を探してばかりいないで自分の中を探しましょう」と言うところに帰着するのであれば、1つの流派だろうが多くの流派だろうが理想的には大差ないと言えます。
とは言いましても、属する先として1つはあった方が落ち着きますし実際的な活動もしやすいのも確かです。
ですから、現実解としては1つの流派に一応は属しておいて、心の中では「私は完全なる独立した個人である」として、広く多くの流派に対してオープンでいることが大切であると言えます。
静寂の境地の一歩手前の平静な意識で紫色のアストラル光が見える

場所としては前方少し下で、まるで天から地上を見下ろしているかのような角度です。
雲の上から雲の下を覗き込んでいるかのような感覚です。かと言ってその中には何も見えませんけど。
絵の色合いは実物とはちょっと微妙に違っていて、実物はもっと鮮やかに晴れ渡っていますけど、何となくの雰囲気は出ています。
これはヨーガ行者の本山博先生の本によればアストラル上層の色だとのことです。
自分に対しては厳密、外に対しては大らかでいる
答えは全て自分の中にあるのですから、自分に対しては厳密でいて、外に対しては大らかでいれば良いわけです。
比喩的に言えば、自分に対してはB型、外に対してはO型でいればいいのです。
聖典を読んだりする場合でも同様で、聖典とは言えども外のものですからO型の大雑把な態度が真理の探求には役立つと思います。このあたりは流派によって諸説あって、聖典はきちんと理解しないといけないと言う流派もありますのでそのような教えに従っているのであればそれは個人の勝手ですから好きにすればいいのですが、私からしてみたらそれすらも外のものでありますので大雑把な態度で良いと考えています。
あくまでも答えは自分の中にあって、外にあるものはその次であり、聖典の場合は「確かめ」のために使えますけど、聖典であろうと外のものであると思うわけです。
聖典の内容を自分の内に見出そうとする、と言うのはありです。それは最初のきっかけは外であろうとも答えは自らの内にあると言うことですから、そう言うのもありだと思います。そのために聖典を書き写したりして内容を自分の中に染み込ませるのも良いと思います。流派によっては書く瞑想だとか言ったりもしますし、経典を書写したりするのもこの範疇に入ると思います。その場合にしても、答えは自分の中にあるわけで、外にある経典はそのきっかけに過ぎないわけですね。
であれば、聖典は大切なものでありますけどそれでも外のものですから、外のものであればわからないものはわからないという大らかな態度で経典には接するべきだと個人的には思っていて、理屈で理解したものは外の理解でしかなくて、自分で体験するまではそれはまだ外の知識でしかないわけですよね。
自分の中の感覚を大切にして、外のものである経典に対しては「そうかもしれない」という大らかな態度でいるのが良いと思うわけです。
経典はいろいろなことが書いてありますし、「体験」は人によって違いますから、部分的には参考にできても全部の体験が自分に起きるわけではありません。真理のお話なんてそんなものです。しかしながら大きな流れとしては大体は一致しているわけで、聖典に書かれてあることの全てが自分に同じように起きることはなく、だいたいの流れは一致しているだけですので、あくまでも自分の中の感覚を大切にして、外のものである聖典はあくまでも参考程度にしかならないわけですよね。
聖典を大切にすることはそれはもちろんで、聖典を蔑ろにするわけではありませんけど、あくまでも自分の中に答えがあるのですから自分の中が第一であって、外のものである聖典は確かめのための道具にしか過ぎないわけです。
聖典だけでなくグルの言葉も同様で、外の言葉であればそれほど気にする必要はなく、自分の中に答えを求める中での導きとしてのグルや聖典が存在するわけです。
比喩的に言えば、自分に対してはB型、外に対してはO型でいればいいのです。
聖典を読んだりする場合でも同様で、聖典とは言えども外のものですからO型の大雑把な態度が真理の探求には役立つと思います。このあたりは流派によって諸説あって、聖典はきちんと理解しないといけないと言う流派もありますのでそのような教えに従っているのであればそれは個人の勝手ですから好きにすればいいのですが、私からしてみたらそれすらも外のものでありますので大雑把な態度で良いと考えています。
あくまでも答えは自分の中にあって、外にあるものはその次であり、聖典の場合は「確かめ」のために使えますけど、聖典であろうと外のものであると思うわけです。
聖典の内容を自分の内に見出そうとする、と言うのはありです。それは最初のきっかけは外であろうとも答えは自らの内にあると言うことですから、そう言うのもありだと思います。そのために聖典を書き写したりして内容を自分の中に染み込ませるのも良いと思います。流派によっては書く瞑想だとか言ったりもしますし、経典を書写したりするのもこの範疇に入ると思います。その場合にしても、答えは自分の中にあるわけで、外にある経典はそのきっかけに過ぎないわけですね。
であれば、聖典は大切なものでありますけどそれでも外のものですから、外のものであればわからないものはわからないという大らかな態度で経典には接するべきだと個人的には思っていて、理屈で理解したものは外の理解でしかなくて、自分で体験するまではそれはまだ外の知識でしかないわけですよね。
自分の中の感覚を大切にして、外のものである経典に対しては「そうかもしれない」という大らかな態度でいるのが良いと思うわけです。
経典はいろいろなことが書いてありますし、「体験」は人によって違いますから、部分的には参考にできても全部の体験が自分に起きるわけではありません。真理のお話なんてそんなものです。しかしながら大きな流れとしては大体は一致しているわけで、聖典に書かれてあることの全てが自分に同じように起きることはなく、だいたいの流れは一致しているだけですので、あくまでも自分の中の感覚を大切にして、外のものである聖典はあくまでも参考程度にしかならないわけですよね。
聖典を大切にすることはそれはもちろんで、聖典を蔑ろにするわけではありませんけど、あくまでも自分の中に答えがあるのですから自分の中が第一であって、外のものである聖典は確かめのための道具にしか過ぎないわけです。
聖典だけでなくグルの言葉も同様で、外の言葉であればそれほど気にする必要はなく、自分の中に答えを求める中での導きとしてのグルや聖典が存在するわけです。
最初の静寂の境地への到達は預流道果(よるどうか)
今年の9月頃に平穏な静寂の境地に達したわけですが、テーラワーダ仏教であるミャンマーの上座部仏教にあてはめてみると、最初の涅槃への到達は預流道果(よるどうか)と呼ぶようですね。このあたりは流派によって定義が微妙に異なるような気が致します。涅槃という言葉の定義も流派によってまちまちのようです。
「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると以下のような分類になるようです。
・預流道果(よるどうか) 預流とは涅槃に向かう流れの意味。始めて涅槃を発見し達する。
・一来道果(いちらいどうか)
・不還道果(ふげんどうか)
・阿羅漢道果(あらかんどうか)
道果(どうか)は流派によって果(か)とだけ言ったり省略したりするようです。
これら4つの段階は煩悩がどのくらい滅せられるかという分類で今まで理解してきましたし、それも正しいかとは思うのですが、それよりも上記のように涅槃に達しているかどうかという基準の方が重要な気が致します。
これは同じ上座部仏教でもテーラワーダ仏教とかの書物では見たことがない気が致しますが、入信しないと教えてくれないお話なのでしょうかね?
煩悩という観点から判断してしまうと自分が上の段階にいるかもしれないという勘違いを産んでしまうような気が致しますので、それよりも、ここにあるように涅槃に達したかどうかの方がよりはっきりとした基準のように思います。4つの段階のうち一番下の預流道果(よるどうか)に「始めて涅槃を発見」と書いてありますので、まずは涅槃に達しないとこの4つのいずれでもないわけです。涅槃に達していないのに煩悩を基準にして4つの基準と自分を見比べても仕方がないわけです。とは言いましても、この基準は流派によりますから、自分の流派があるのであればその基準に従えば良いとは思います。
同書には、涅槃に関する記述はそれなりに詳しいのですが、その先のステップは割とあっさりとした表記で、不還・阿羅漢に関しての記述は詳しくはありません。
一来に関しては預流の涅槃に熟練したというような書き方で、預流と一来は熟練度が違うくらいなので預流で涅槃に一度でも達したならば一来には容易に達することができる、と書いてあります。であれば以下のような分類ですね。
・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見
・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者
・不還道果(不還果)
・阿羅漢道果(阿羅漢果)
更には、不還道果に関しては、「完全に定(サマーディ)を成し遂げた者」との記述がありますので、サマーディの精神集中と静寂な涅槃の状態が更に完全になったら不還道果になるのでしょう。
阿羅漢はよく知られているように完全に煩悩を滅却した者です。
・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見
・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者
・不還道果(不還果) 完全に定(サマーディ)を成し遂げた者。
・阿羅漢道果(阿羅漢果)全ての煩悩を滅した者
となれば、私は今年9月頃に始めて涅槃に達して預流道果になったわけですね。
そして、基本的には預流道果と一来道果は大差ないようですし、涅槃にも割とすぐに達することができるようになった上、同書によるとまだ不安定なところがあるような記述ですから、私は今は一来道果あたりにいるのだと判断するのが理にかなっていそうです。
不還道果に達すると色欲(情欲)や怒りなどが消え去るみたいですけど、情欲とか怒りなんてとっくの昔にほとんどなくなっていて、確かに生殖行為はまだ可能ですけどそれが色欲かと言われると、まあ、そうかもしれないですけどかなりなくなっています。不還道果に達して完全にゼロなんてあり得るのですかね? 阿羅漢でも完全にゼロなんてことはないような気がしますけど。
この辺りの、煩悩の欲望と照らし合わせての説明の部分は話半分に理解しておいた方がいい気もしますね。煩悩という意味ではきっともっと早く達することができて、涅槃という意味ではかなり後のような気が致します。
おそらくは流派によって解釈が異なっているところがごっちゃになってしまったが故に混乱している気が致しますが、煩悩という意味では涅槃よりももっと手前で起こって、涅槃に関しては2周目か3周目での基準であれば一致している気がしますね。
これは個人的な解釈ですので、仏教の流派の諸派の解釈とは異なるかもしれません。
追記→ 禅宗的には同状態は涅槃と言わなくておそらくは第四禅定のようです。
「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると以下のような分類になるようです。
・預流道果(よるどうか) 預流とは涅槃に向かう流れの意味。始めて涅槃を発見し達する。
・一来道果(いちらいどうか)
・不還道果(ふげんどうか)
・阿羅漢道果(あらかんどうか)
道果(どうか)は流派によって果(か)とだけ言ったり省略したりするようです。
これら4つの段階は煩悩がどのくらい滅せられるかという分類で今まで理解してきましたし、それも正しいかとは思うのですが、それよりも上記のように涅槃に達しているかどうかという基準の方が重要な気が致します。
これは同じ上座部仏教でもテーラワーダ仏教とかの書物では見たことがない気が致しますが、入信しないと教えてくれないお話なのでしょうかね?
煩悩という観点から判断してしまうと自分が上の段階にいるかもしれないという勘違いを産んでしまうような気が致しますので、それよりも、ここにあるように涅槃に達したかどうかの方がよりはっきりとした基準のように思います。4つの段階のうち一番下の預流道果(よるどうか)に「始めて涅槃を発見」と書いてありますので、まずは涅槃に達しないとこの4つのいずれでもないわけです。涅槃に達していないのに煩悩を基準にして4つの基準と自分を見比べても仕方がないわけです。とは言いましても、この基準は流派によりますから、自分の流派があるのであればその基準に従えば良いとは思います。
同書には、涅槃に関する記述はそれなりに詳しいのですが、その先のステップは割とあっさりとした表記で、不還・阿羅漢に関しての記述は詳しくはありません。
一来に関しては預流の涅槃に熟練したというような書き方で、預流と一来は熟練度が違うくらいなので預流で涅槃に一度でも達したならば一来には容易に達することができる、と書いてあります。であれば以下のような分類ですね。
・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見
・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者
・不還道果(不還果)
・阿羅漢道果(阿羅漢果)
更には、不還道果に関しては、「完全に定(サマーディ)を成し遂げた者」との記述がありますので、サマーディの精神集中と静寂な涅槃の状態が更に完全になったら不還道果になるのでしょう。
阿羅漢はよく知られているように完全に煩悩を滅却した者です。
・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見
・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者
・不還道果(不還果) 完全に定(サマーディ)を成し遂げた者。
・阿羅漢道果(阿羅漢果)全ての煩悩を滅した者
となれば、私は今年9月頃に始めて涅槃に達して預流道果になったわけですね。
そして、基本的には預流道果と一来道果は大差ないようですし、涅槃にも割とすぐに達することができるようになった上、同書によるとまだ不安定なところがあるような記述ですから、私は今は一来道果あたりにいるのだと判断するのが理にかなっていそうです。
不還道果に達すると色欲(情欲)や怒りなどが消え去るみたいですけど、情欲とか怒りなんてとっくの昔にほとんどなくなっていて、確かに生殖行為はまだ可能ですけどそれが色欲かと言われると、まあ、そうかもしれないですけどかなりなくなっています。不還道果に達して完全にゼロなんてあり得るのですかね? 阿羅漢でも完全にゼロなんてことはないような気がしますけど。
この辺りの、煩悩の欲望と照らし合わせての説明の部分は話半分に理解しておいた方がいい気もしますね。煩悩という意味ではきっともっと早く達することができて、涅槃という意味ではかなり後のような気が致します。
おそらくは流派によって解釈が異なっているところがごっちゃになってしまったが故に混乱している気が致しますが、煩悩という意味では涅槃よりももっと手前で起こって、涅槃に関しては2周目か3周目での基準であれば一致している気がしますね。
これは個人的な解釈ですので、仏教の流派の諸派の解釈とは異なるかもしれません。
追記→ 禅宗的には同状態は涅槃と言わなくておそらくは第四禅定のようです。
やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服の度合いは異なる
仏教では静寂の境地と煩悩の克服の度合いが組み合わさって理解されていることに対し、私の場合はちょっと違うなとは思っていたのですが、私のスピリット・ガイド(見えないガイド、いわゆる守護霊)が教えてくれたことによると、やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)の度合いは異なるようです。
仏教など特にマントラを使って修行する流派の場合は概ね仏教が定義しているような順番になって、静寂の境地への到達と煩悩の克服が割と同時期に起きるようです。
しかしながら、本来は煩悩の克服と静寂の境地への到達は別のもので、最終ゴールとしてはどちらも達成するものの、その到達度合いは必ずしも関連しているわけではないようです。
静寂の境地は雑念が抑えられた状態ですので、マントラを唱えていると静寂の境地に達することがあります。これは最初に静寂の境地に達すれば預流果(よるか) ですし、度々達すれば一来果(いちらいか)です。
ですけど、マントラに頼っている以上、それ以上の上の不還果(ふげんか)にはなかなか到達しない、とのことです。
マントラは顕在意識を鎮める効果がありますので、マントラを唱え終わったら雑念がまたふつふつと湧いてきて、実際のところ雑念があったとしても本来の安定した静寂の境地に達していればそれにさほど迷わされることがないのですが、マントラで一時的に抑えていた場合はまだ本来のサマーディの力が弱くて煩悩(カルマ)にそれなりに影響されてしまうようです。
本来のサマーディの力を強めればマントラに頼らずとも静寂の境地を維持することができますので、そうなると次の段階に進むとのことですが、マントラに頼っている以上は一来果(いちらいか)で足踏みし、不還果(ふげんか)にはなかなか到達しないとのことでした。
これは私がガイドから聞いたことですので本当にそうなのかどうかはわかりませんけど、理には叶っています。ガイドには「私はそのことはあまり気にする必要はない」と言われていますので、一応の知識として知っておくというくらいです。
このマントラは、レベルは違うものの、例えば白人のスピリチュアルでは大音量のクラブのミュージックが相当するようです。クラブやテクノあるいはダンスホール等で流れている大音量のDJミュージックのような外部の音を利用して一時的に自分の心をそれに惹き付けたり麻痺させたりして心を停止させる手法が白人たちの間では利用されています。それは、白人たちの自我があまりにも強くてそのくらいしないと自我を停止できない、ということでもあります。日本人の場合はそれほど自我が強くありませんからそこまでしなくてもマントラ程度で素早く自我を静止させることができますが、マントラに頼っている以上はマントラを止めたらまた自我が動きはじめてしまうわけです。
自我の奥底にある神の面の自分(ハイヤーセルフ、キリスト意識、アートマン)が目覚めてしまえばそのようなものに頼る必要はないのですが、マントラに頼っている以上、なかなか一時的な静寂の境地である一来果(いちらいか)から先に到達できない、ということのようです。
マントラに頼ると一来果(いちらいか)の静寂の境地にまでは割と素早く達するものの煩悩の克服が後回しになるので静寂の境地の到達と煩悩の克服への到達が割と同じ時期になることが多いようですが、必ずしも一致するわけではないようです。一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップでは煩悩がかなり克服されなくてはいけませんので、マントラに頼って素早く一時的な静寂の境地の一来果(いちらいか)に達した場合に煩悩の克服に時間がかかって不還果(ふげんか)へなかなか達しない場合もあるようです。
一方で、マントラに頼らず沈黙の瞑想をした場合は煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)が割と先に来て、しばらく経った後に静寂の境地に達して一来果(いちらいか)になるようです。そして、沈黙の瞑想の場合は静寂の境地に達した段階で煩悩が既にかなり克服されておりますので一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップで足踏みせずに割とスムーズに移行できるとのことです。
これはトータルで見れば途中でどちらを先にやるかという違いがあるくらいで、実際のところそれほど違いはなく、好きな方をすればいい、好きな道を通ればいい、好きな順番でやればいい、ということのようです。自分の流派のやり方に従いたければそうすればいいですし、直感に頼りたければそうすればいい、ということにもなると思います。
煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)を重視している流派なのか、あるいは、静寂の境地への到達を重視している流派なのかで視点が異なるということですね。
[2020/12/30 更新] 流派によって涅槃という言葉の意味は異なりますので元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。
仏教など特にマントラを使って修行する流派の場合は概ね仏教が定義しているような順番になって、静寂の境地への到達と煩悩の克服が割と同時期に起きるようです。
しかしながら、本来は煩悩の克服と静寂の境地への到達は別のもので、最終ゴールとしてはどちらも達成するものの、その到達度合いは必ずしも関連しているわけではないようです。
静寂の境地は雑念が抑えられた状態ですので、マントラを唱えていると静寂の境地に達することがあります。これは最初に静寂の境地に達すれば預流果(よるか) ですし、度々達すれば一来果(いちらいか)です。
ですけど、マントラに頼っている以上、それ以上の上の不還果(ふげんか)にはなかなか到達しない、とのことです。
マントラは顕在意識を鎮める効果がありますので、マントラを唱え終わったら雑念がまたふつふつと湧いてきて、実際のところ雑念があったとしても本来の安定した静寂の境地に達していればそれにさほど迷わされることがないのですが、マントラで一時的に抑えていた場合はまだ本来のサマーディの力が弱くて煩悩(カルマ)にそれなりに影響されてしまうようです。
本来のサマーディの力を強めればマントラに頼らずとも静寂の境地を維持することができますので、そうなると次の段階に進むとのことですが、マントラに頼っている以上は一来果(いちらいか)で足踏みし、不還果(ふげんか)にはなかなか到達しないとのことでした。
これは私がガイドから聞いたことですので本当にそうなのかどうかはわかりませんけど、理には叶っています。ガイドには「私はそのことはあまり気にする必要はない」と言われていますので、一応の知識として知っておくというくらいです。
このマントラは、レベルは違うものの、例えば白人のスピリチュアルでは大音量のクラブのミュージックが相当するようです。クラブやテクノあるいはダンスホール等で流れている大音量のDJミュージックのような外部の音を利用して一時的に自分の心をそれに惹き付けたり麻痺させたりして心を停止させる手法が白人たちの間では利用されています。それは、白人たちの自我があまりにも強くてそのくらいしないと自我を停止できない、ということでもあります。日本人の場合はそれほど自我が強くありませんからそこまでしなくてもマントラ程度で素早く自我を静止させることができますが、マントラに頼っている以上はマントラを止めたらまた自我が動きはじめてしまうわけです。
自我の奥底にある神の面の自分(ハイヤーセルフ、キリスト意識、アートマン)が目覚めてしまえばそのようなものに頼る必要はないのですが、マントラに頼っている以上、なかなか一時的な静寂の境地である一来果(いちらいか)から先に到達できない、ということのようです。
マントラに頼ると一来果(いちらいか)の静寂の境地にまでは割と素早く達するものの煩悩の克服が後回しになるので静寂の境地の到達と煩悩の克服への到達が割と同じ時期になることが多いようですが、必ずしも一致するわけではないようです。一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップでは煩悩がかなり克服されなくてはいけませんので、マントラに頼って素早く一時的な静寂の境地の一来果(いちらいか)に達した場合に煩悩の克服に時間がかかって不還果(ふげんか)へなかなか達しない場合もあるようです。
一方で、マントラに頼らず沈黙の瞑想をした場合は煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)が割と先に来て、しばらく経った後に静寂の境地に達して一来果(いちらいか)になるようです。そして、沈黙の瞑想の場合は静寂の境地に達した段階で煩悩が既にかなり克服されておりますので一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップで足踏みせずに割とスムーズに移行できるとのことです。
これはトータルで見れば途中でどちらを先にやるかという違いがあるくらいで、実際のところそれほど違いはなく、好きな方をすればいい、好きな道を通ればいい、好きな順番でやればいい、ということのようです。自分の流派のやり方に従いたければそうすればいいですし、直感に頼りたければそうすればいい、ということにもなると思います。
煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)を重視している流派なのか、あるいは、静寂の境地への到達を重視している流派なのかで視点が異なるということですね。
[2020/12/30 更新] 流派によって涅槃という言葉の意味は異なりますので元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。
クンバカ(止息)でエネルギーを上下させる
瞑想をしていると、クンバカしていない普通の状態ではエネルギーが常に細かく上下しているのを感じます。いまいち安定しません。意識が穏やかになって息が長くなってくると安定してくるのですが、意識的にクンバカ(止息)することでも意識およびエネルギーを変えることができます。
吸った後にする止息(プラーカ・クンバカ)
吐いた後にする止息(レーチャカ・クンバカ)
これらは、それぞれエネルギー的には以下のように動くように思います。これは教授をしているわけではなく、私の今朝の瞑想のただのメモ書きですので必ずしも他の人が同様になるとは限りません。
プラーカ・クンバカ(吸った後の止息)は、エネルギーが上がります。
レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)は、エネルギーが下がります。
上がった方がいいかというと、必ずしもそういうわけではなく、実際は3つのクンダリーニが動くようになっていて、ここで上がるとか下がるとか言っているのはあなた自身のボディ・クンダリーニのことです。
・あなた自身のボディ・クンダリーニ(多くのスピリチュアルな道において一般的に教えられ実際に使われているクンダリーニ)
・ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニ
・アース・クンダリーニ
「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」より
ボディ・クンダリーニは腰やお腹のあたり、特に仙骨を中心に普段は存在しておりますが、そのエネルギーを上げるためにはプラーカ・クンバカ(吸った後の止息)をして、逆に、下げる(仙骨に戻す)ためにはレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすればいいわけです。
そうすると、2つ目のハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが空いた空間に天から降りてきます。
ですから、特にレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすることでコスミック・クンダリーニを上半身で満たして静寂の境地に至ることができるわけです。
瞑想をして普通に静寂の境地になるのを待っても良いですけど、深呼吸だけで達せられればそれで十分ですけど深呼吸で静寂の境地に至らない場合はレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすればいいわけです。これは自分のメモ書きですので他の人も同様になるのかはわかりません。
段階としては、以下のようになるのかなと思います。
1.ボディ・クンダリーニを目覚めさせる。体全体が熱くなる。ブラフマ・グランティが解かれた状態。
2.ボディ・クンダリーニがマニプラ優勢の状態になる。
3.ボディ・クンダリーニがアナハタまで上がり、アナハタ優勢の状態になる。ヴィシュヌ・グランティが解かれた状態。
4.ボディ・クンダリーニがアジナまで上がり、アナハタとアジナが一体となるオーラの状態。ルドラ・グランティが解かれた状態に相当。
5.ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが天から降りてくるようになる。それに応じて、ボディ・クンダリーニは押し戻されるようになる。
6.上半身がハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニに満たされ、静寂の境地に至る。
これらは、それぞれのステップが数ヶ月とか半年とかで段階的に変わってきたように思います。
静寂の境地に至るために、今までは集中瞑想で時間がかかるときもあればすぐに静寂の境地に入ることもありましたが、それよりも、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をした方が素早く静寂の境地に入れることに気が付きました。
それは、意識という観点からすれば静寂の境地であるわけですけれども、実際にはエネルギーの動きがその背後にあって、上半身がハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニに満たされることで静寂の境地に至るというわけです。
ですから、まだハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが降りてきていない人がレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をしたところで何も起きないのかな、という気もいたします。
そういうわけで、6番のステップは2つ選択肢があるように思います。組み合わせてもいいかもしれません。
6A 集中瞑想をすることで頭のタマスを集めてヴィシュッダに送り、静寂の境地に至る。これは視点をかえればタマスが含まれているアース・クンダリーニを頭からヴィシュッダ以下に下ろすということでもあります。その空いたところに天からコスミック・クンダリーニが降りてきます。これは、タマスを集めるという意図をする必要はなく、単に集中瞑想をすれば勝手にそうなる、という種類のものです。
6B この場合、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすることでアース・クンダリーニの全体を下方に動かします。そうすると先端部である頭など上半身のアース・クンダリーニも下方に下がり、その分、空いたところに天からコスミック・クンダリーニが降りてくるわけです。これまた、アース・クンダリーニを動かすという意図は不要で、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすると勝手にそうなるというものです。
これは個人的なメモですので他の人のことはわかりません。
更には次のステップがあって、天のコスミック・クンダリーニが下半身にまでそれなりに満たされるとそれに応じて各所の緊張が解けてゆきます。
その状態になると、ボディ・クンダリーニやコスミック・クンダリーニとも違った、現在の地球の汚染された空気のような少しもやっとした汚れたオーラが下方に感じるようになります。それがおそらくはアース・クンダリーニなのかなと思います。
1.ボディ・クンダリーニを上げる
2.コスミック・クンダリーニを下げる(ボディ・クンダリーニは押し戻される)
3.アース・クンダリーニを(下半身を通じて)引き出す (→ 私はこれから)
というような順番になるのかな、と思います。
このあたりは、前出の「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」に詳しいです。
アース・クンダリーニは過去は綺麗だったのかもしれませんけど今は汚染されているような感じで、これは、土地にもよるのですかね? 田舎暮らしした方がいいのかもしれません。地方での瞑想で違いを試してみてもいいかもしれないとも少し思います。
吸った後にする止息(プラーカ・クンバカ)
吐いた後にする止息(レーチャカ・クンバカ)
これらは、それぞれエネルギー的には以下のように動くように思います。これは教授をしているわけではなく、私の今朝の瞑想のただのメモ書きですので必ずしも他の人が同様になるとは限りません。
プラーカ・クンバカ(吸った後の止息)は、エネルギーが上がります。
レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)は、エネルギーが下がります。
上がった方がいいかというと、必ずしもそういうわけではなく、実際は3つのクンダリーニが動くようになっていて、ここで上がるとか下がるとか言っているのはあなた自身のボディ・クンダリーニのことです。
・あなた自身のボディ・クンダリーニ(多くのスピリチュアルな道において一般的に教えられ実際に使われているクンダリーニ)
・ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニ
・アース・クンダリーニ
「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」より
ボディ・クンダリーニは腰やお腹のあたり、特に仙骨を中心に普段は存在しておりますが、そのエネルギーを上げるためにはプラーカ・クンバカ(吸った後の止息)をして、逆に、下げる(仙骨に戻す)ためにはレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすればいいわけです。
そうすると、2つ目のハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが空いた空間に天から降りてきます。
ですから、特にレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすることでコスミック・クンダリーニを上半身で満たして静寂の境地に至ることができるわけです。
瞑想をして普通に静寂の境地になるのを待っても良いですけど、深呼吸だけで達せられればそれで十分ですけど深呼吸で静寂の境地に至らない場合はレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすればいいわけです。これは自分のメモ書きですので他の人も同様になるのかはわかりません。
段階としては、以下のようになるのかなと思います。
1.ボディ・クンダリーニを目覚めさせる。体全体が熱くなる。ブラフマ・グランティが解かれた状態。
2.ボディ・クンダリーニがマニプラ優勢の状態になる。
3.ボディ・クンダリーニがアナハタまで上がり、アナハタ優勢の状態になる。ヴィシュヌ・グランティが解かれた状態。
4.ボディ・クンダリーニがアジナまで上がり、アナハタとアジナが一体となるオーラの状態。ルドラ・グランティが解かれた状態に相当。
5.ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが天から降りてくるようになる。それに応じて、ボディ・クンダリーニは押し戻されるようになる。
6.上半身がハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニに満たされ、静寂の境地に至る。
これらは、それぞれのステップが数ヶ月とか半年とかで段階的に変わってきたように思います。
静寂の境地に至るために、今までは集中瞑想で時間がかかるときもあればすぐに静寂の境地に入ることもありましたが、それよりも、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をした方が素早く静寂の境地に入れることに気が付きました。
それは、意識という観点からすれば静寂の境地であるわけですけれども、実際にはエネルギーの動きがその背後にあって、上半身がハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニに満たされることで静寂の境地に至るというわけです。
ですから、まだハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが降りてきていない人がレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をしたところで何も起きないのかな、という気もいたします。
そういうわけで、6番のステップは2つ選択肢があるように思います。組み合わせてもいいかもしれません。
6A 集中瞑想をすることで頭のタマスを集めてヴィシュッダに送り、静寂の境地に至る。これは視点をかえればタマスが含まれているアース・クンダリーニを頭からヴィシュッダ以下に下ろすということでもあります。その空いたところに天からコスミック・クンダリーニが降りてきます。これは、タマスを集めるという意図をする必要はなく、単に集中瞑想をすれば勝手にそうなる、という種類のものです。
6B この場合、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすることでアース・クンダリーニの全体を下方に動かします。そうすると先端部である頭など上半身のアース・クンダリーニも下方に下がり、その分、空いたところに天からコスミック・クンダリーニが降りてくるわけです。これまた、アース・クンダリーニを動かすという意図は不要で、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすると勝手にそうなるというものです。
これは個人的なメモですので他の人のことはわかりません。
更には次のステップがあって、天のコスミック・クンダリーニが下半身にまでそれなりに満たされるとそれに応じて各所の緊張が解けてゆきます。
その状態になると、ボディ・クンダリーニやコスミック・クンダリーニとも違った、現在の地球の汚染された空気のような少しもやっとした汚れたオーラが下方に感じるようになります。それがおそらくはアース・クンダリーニなのかなと思います。
1.ボディ・クンダリーニを上げる
2.コスミック・クンダリーニを下げる(ボディ・クンダリーニは押し戻される)
3.アース・クンダリーニを(下半身を通じて)引き出す (→ 私はこれから)
というような順番になるのかな、と思います。
このあたりは、前出の「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」に詳しいです。
アース・クンダリーニは過去は綺麗だったのかもしれませんけど今は汚染されているような感じで、これは、土地にもよるのですかね? 田舎暮らしした方がいいのかもしれません。地方での瞑想で違いを試してみてもいいかもしれないとも少し思います。
知覚を内に向けることで純粋な意識の知覚を生じさせる
最近の涅槃と言ってもよい状態は、超越瞑想(TM瞑想)の書籍にも同様のことが書いてありました。これらの説明は仏教の涅槃の状態を表しているように思います。TM瞑想の目的はここにあるのですね。
内側に向かって心を働かせると、心は超越的な「絶対」の領域に入り、永遠「存在」の力で満たされることになります。次に、心が再び外側に向かって動き出すと、心の活動は超越的な絶対「存在」の光を外界にもたらし、粗大な現象界の知覚における至福を強めるのです。(中略)超越界から出てきた人間は、神の栄光を携えていますので、この世界における実生活のあらゆる分野を輝かすことになります。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」
これは涅槃の説明のように思います。
私の目的は涅槃の次の宇宙意識と同一になった状態ですので涅槃そのものはゴールではありませんけど、これらの表現からは宇宙意識らしき面も読み取れます。誰でも読める本にはきっとそこまでは深く立ち入らず、このくらいの表現にしているのかもしれません。
静寂に達する理想的な方法は、神経系の活動を「安らぎに満ちた機敏さ」の状態に持っていくことです。心の状態さえもゼロにして、思考過程をその源の一点にまで減少させることです。この点に達すると、知覚は絶対意識の状態にとどまり、悟りの状態が得られ、絶対の超越「存在」が生命の意識されるレベルにやってきます。逆の言い方をすれば、現在意識のレベルが「存在」の超越的なレベルに達するのです。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」
翻訳のせいか回りくどい表現が多いですけど、要するに、神意識が顕在意識にまで上がってきて普通に認識できるようになるということでしょう。
神意識のことを流派によっては「キリスト意識」とか「アートマン」とか「ハイヤーセルフ」とか色々言ったりしますけど、同じことだと思います。粗大な顕在意識が静まって静寂の意識、いわゆる涅槃に達することで神の意識が現れてくる、ということだと思います。
(追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)
内側に向かって心を働かせると、心は超越的な「絶対」の領域に入り、永遠「存在」の力で満たされることになります。次に、心が再び外側に向かって動き出すと、心の活動は超越的な絶対「存在」の光を外界にもたらし、粗大な現象界の知覚における至福を強めるのです。(中略)超越界から出てきた人間は、神の栄光を携えていますので、この世界における実生活のあらゆる分野を輝かすことになります。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」
これは涅槃の説明のように思います。
私の目的は涅槃の次の宇宙意識と同一になった状態ですので涅槃そのものはゴールではありませんけど、これらの表現からは宇宙意識らしき面も読み取れます。誰でも読める本にはきっとそこまでは深く立ち入らず、このくらいの表現にしているのかもしれません。
静寂に達する理想的な方法は、神経系の活動を「安らぎに満ちた機敏さ」の状態に持っていくことです。心の状態さえもゼロにして、思考過程をその源の一点にまで減少させることです。この点に達すると、知覚は絶対意識の状態にとどまり、悟りの状態が得られ、絶対の超越「存在」が生命の意識されるレベルにやってきます。逆の言い方をすれば、現在意識のレベルが「存在」の超越的なレベルに達するのです。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」
翻訳のせいか回りくどい表現が多いですけど、要するに、神意識が顕在意識にまで上がってきて普通に認識できるようになるということでしょう。
神意識のことを流派によっては「キリスト意識」とか「アートマン」とか「ハイヤーセルフ」とか色々言ったりしますけど、同じことだと思います。粗大な顕在意識が静まって静寂の意識、いわゆる涅槃に達することで神の意識が現れてくる、ということだと思います。
(追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)
瞑想で集中しても何にもならない、という人は静寂の境地を知らない
その可能性が高いです。
自分がまだ達していないだけなのに「何にもならない」などと断言できるその自信がどこから来るのか知りませんが、実際に、そのようなことを言う人は瞑想教師のような立場であってもいるものです。
例えば「瞑想で集中しても何にもならない。観察が重要だ」とか言っている方がいます。
あるいは、たまにヴェーダンタとかをインドで勉強された方で「瞑想で集中しても何にもならない。知識が重要だ」とか言っている方もいらっしゃいますけど、これはヴェーダンタは経験を超えたところを目的としているために瞑想の体験は一時的なものだという理解に基づいておりますので私がここで言わんとしていることとはちょっと異なるのでひとまず置いておきます。
ヴェーダンタのお話を抜きにすれば、瞑想で一般的にある要素は集中と観察で、時に「集中しても何もならない」とか言っている方がいらっしゃいますけど、そのような方の場合は静寂の境地を知らないのだな、と私なんかは思います。
ご本人はこう言っても否定されるかもしれないですけどね... まあ、私なんかからすればそう見えます。
静寂の境地あるいはその一歩手前くらいに達しないと「観察」は出てこないので、静寂の境地を知らずして「観察」はあり得ないのです。
こう言うと、「いやいや、皮膚の観察とか、想念の観察とか、視界の観察とか、いろいろあるでしょ」とか言いますけど、それは、集中しているのであって、瞑想で言うところの観察状態ではないです。
まあ、そんな集中であっても流派によっては観察と呼んでいるかもしれないですし、それは自由にすればいいですけど、そうであったとしても集中を否定する必要はないわけです。
瞑想で言うところの集中と観察は全く別物です。
五感に属する瞑想は、例えば皮膚の観察だとか眉間への集中だとか皮膚の観察だとか視覚の観察だとか、そのような瞑想は、初心者であればやっていることは全部一緒です。初心者が自分のやっている瞑想を「集中だろうか、それとも観察だろうか」などと深く考える必要はないです。自分の流派が集中と呼んでいれば集中と言えばいいし、観察と呼んでいるなら観察と言えばいいだけのことです。初心者の瞑想でそんな違いが出るわけもないです。ですから、どこかでかじった知識を元に「集中しても何もならない」なんて言っている人は初心者である可能性が高いのです。
もっとはっきり言えば、静寂の境地を知らずして瞑想における深い意味での「観察」はあり得ず、それ以前の瞑想であればそれを集中と言おうと観察と言うと表現だけのお話であって大差ないわけです。
[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。
自分がまだ達していないだけなのに「何にもならない」などと断言できるその自信がどこから来るのか知りませんが、実際に、そのようなことを言う人は瞑想教師のような立場であってもいるものです。
例えば「瞑想で集中しても何にもならない。観察が重要だ」とか言っている方がいます。
あるいは、たまにヴェーダンタとかをインドで勉強された方で「瞑想で集中しても何にもならない。知識が重要だ」とか言っている方もいらっしゃいますけど、これはヴェーダンタは経験を超えたところを目的としているために瞑想の体験は一時的なものだという理解に基づいておりますので私がここで言わんとしていることとはちょっと異なるのでひとまず置いておきます。
ヴェーダンタのお話を抜きにすれば、瞑想で一般的にある要素は集中と観察で、時に「集中しても何もならない」とか言っている方がいらっしゃいますけど、そのような方の場合は静寂の境地を知らないのだな、と私なんかは思います。
ご本人はこう言っても否定されるかもしれないですけどね... まあ、私なんかからすればそう見えます。
静寂の境地あるいはその一歩手前くらいに達しないと「観察」は出てこないので、静寂の境地を知らずして「観察」はあり得ないのです。
こう言うと、「いやいや、皮膚の観察とか、想念の観察とか、視界の観察とか、いろいろあるでしょ」とか言いますけど、それは、集中しているのであって、瞑想で言うところの観察状態ではないです。
まあ、そんな集中であっても流派によっては観察と呼んでいるかもしれないですし、それは自由にすればいいですけど、そうであったとしても集中を否定する必要はないわけです。
瞑想で言うところの集中と観察は全く別物です。
五感に属する瞑想は、例えば皮膚の観察だとか眉間への集中だとか皮膚の観察だとか視覚の観察だとか、そのような瞑想は、初心者であればやっていることは全部一緒です。初心者が自分のやっている瞑想を「集中だろうか、それとも観察だろうか」などと深く考える必要はないです。自分の流派が集中と呼んでいれば集中と言えばいいし、観察と呼んでいるなら観察と言えばいいだけのことです。初心者の瞑想でそんな違いが出るわけもないです。ですから、どこかでかじった知識を元に「集中しても何もならない」なんて言っている人は初心者である可能性が高いのです。
もっとはっきり言えば、静寂の境地を知らずして瞑想における深い意味での「観察」はあり得ず、それ以前の瞑想であればそれを集中と言おうと観察と言うと表現だけのお話であって大差ないわけです。
[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。
静寂の境地に達したら集中をやめる
集中瞑想を行います。そして、しばらくすると ふっ と意識が清浄になります。時にはそれが何段階か起こります。
そして、静寂の境地にだいぶ近づいたらもう集中をやめます。
そこからは、特別に集中をしなくても自然に意識がどんどんと静まってゆきます。
どのあたりで集中をやめるのかは試してみて大体のところを決めれば良いのですが、あまり長く集中しているとせっかく静寂の境地に達したのにどこかにちょっと力が入っているような状態になってしまいます。
静寂の境地にだいたい達して、ついつい癖でそのまま集中を続けてしまいがちになりますが、もうある程度静寂の境地に達したらもう集中は不要のように思います。
これはどこかで読んだというわけではなく、自分自身の瞑想をしていたらこの方が調子が良い、というだけのメモ書きであり、他の人が同様になるかどうかはわかりません。
最初は静寂の境地に達したらあまりにも違うので無意識的に集中をやめましたけど、最近は静寂の境地にも慣れてきて、時々、つい癖で集中し続けてしまうことがありました。ですけど、静寂の境地に近づいたら意識にでも集中をきちっとやめた方が調子が良いみたいです。
そして、静寂の境地にだいぶ近づいたらもう集中をやめます。
そこからは、特別に集中をしなくても自然に意識がどんどんと静まってゆきます。
どのあたりで集中をやめるのかは試してみて大体のところを決めれば良いのですが、あまり長く集中しているとせっかく静寂の境地に達したのにどこかにちょっと力が入っているような状態になってしまいます。
静寂の境地にだいたい達して、ついつい癖でそのまま集中を続けてしまいがちになりますが、もうある程度静寂の境地に達したらもう集中は不要のように思います。
これはどこかで読んだというわけではなく、自分自身の瞑想をしていたらこの方が調子が良い、というだけのメモ書きであり、他の人が同様になるかどうかはわかりません。
最初は静寂の境地に達したらあまりにも違うので無意識的に集中をやめましたけど、最近は静寂の境地にも慣れてきて、時々、つい癖で集中し続けてしまうことがありました。ですけど、静寂の境地に近づいたら意識にでも集中をきちっとやめた方が調子が良いみたいです。
サードアイのクリスタルは転生を重ねて少しづつ育てる
私の記憶では、中世にヨーロッパで魔女をしていた頃の自分(と同じグループソウルの分霊)のサードアイは親指と人差し指で円を作るくらいの大きさだったように思います。その後、もっと大きく育っています。
形としてはダイヤのような形です。正八面体よりはもうちょっと角が多いような、正16面体とはちょっと違うような、綺麗なダイヤがカットされているような感じです。
クリスタルっぽく見えますけど物理的なものではなくてアストラルなものです。
それが、頭の後頭部の真ん中あたりに収まっています。
これは、転生を重ねるごとに少しずつ育てるという種類のもので、人によっては「目」と言う人もいるかもしれません。形としては目というよりもクリスタルに似ていると思います。
言い方としてはサードアイということになるのでしょうが、日本的な言い方をすれば竜神の目とか天狗の目とか千里眼とか、そういうことになると思います。
転生を重なる間にもこのサードアイは受け継がれて、そのまま転生をする場合は同じサードアイを引き継ぎます。一旦グループソウルに合流する場合はサードアイはグループソウルが一旦受け取るかあるいは一緒に動いている守護霊が一旦は預かって、その後、必要な魂、大抵は同じグループソウルの魂ですが、転生する際にそのサードアイのクリスタルを受け取って転生するわけです。
私の場合、今生での目的が今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つだったので、そういうことであればむしろサードアイのクリスタルは邪魔で、何も見えない方が良いので全く何もクリスタルを持たずに生まれてきました。
ですけど、このクリスタルというものは何もなかったとしても人生を生きているうちに形成されてゆく種類のものですので、今はちっちゃいクリスタルがあります。そのようにクリスタルを育てる過程も含めて覚醒への階梯を確かめることが今生での目的でありましたので、予定通りとも言えます。
今まで私が主に使っていたサードアイのクリスタルは今は私の守護霊に預かってもらっています。そのうち、私が今生で育てた今使っている小さなクリスタルとその元々使っていたクリスタルとを交換しようかな、とも思いますけど、これは私が判断することというよりは、私のハイヤーセルフというかスピリットがその時期も含めて判断することのようですので、顕在意識の私は知る必要がないようですし実際のところその決断権は顕在意識の私ではなくスピリットの方にあるので時期とかは教えてもらっていません。
顕在意識の私からするともう十分なのでとっとと覚醒してもいいと思っているのですが、スピリットからすると、せっかくなのでもうちょっと細かく覚醒の階梯を確かめてもいいのでは、と思っているようです。それならそれでいいですけど。顕在意識の私からするとちょっとまどろっこしく感じてしまいますが、調査が今生の目的の1つなので致し方ないという面もあります。
サードアイのクリスタルがある程度育つと、以下の能力が現れます。
・(初歩的な力として)イメージで具体的に想像する力。例えば、頭の中でイメージでそろばんをする能力だとか、部屋や通路の空間をイメージして配置を組み替える能力。あるいは数学の問題をイメージで解く力。
・(もう少し慣れてくると)映像記憶の能力。
・(ある程度慣れてくると)周囲にいる霊を見る能力。いわゆる霊視。町中に霊がうようよいることがわかるようになります。
・(更に進むと。実際はフォースアイとの連携で)千里眼の能力。(同じ時間軸における)リモートビューイング。
・(熟練すると)時空を超えたリモートビューイング
私は久々にクリスタルなしで生まれましたが、霊視ができないというのはある意味、煩わしい霊を見なくて良いので意外にすっきりした印象を最初は受けました。サードアイが見えないということは、こんなにも周囲の景色に惑わされなくても済むのだ、という、意外な驚きがあったように思います。町中には霊がうようよいますし、おぞましい姿をした魑魅魍魎なんて普通にそこら中にいますから、そのような煩わしさがない反面、それらが見えないが故に避けにくい、というデメリットもありますけどね。
たぶん前世ではちょっと疲れた時に魑魅魍魎が見えることが煩わしく感じていて、それ故に、見えないというのはそれはそれで幸せな気もします。
エネルギー的な総量とのお話とも関連していて、エネルギーが枯渇していると魑魅魍魎が見えた時にそれに影響されてしまうのですよね。見えるだけでなく、エネルギー的に負けてしまっている。一方で、エネルギー的に充実していると魑魅魍魎が見えたとしても自分の平穏さを保てるのですよね。そういう観点からも、きっと前世でちょっと疲れてしまったが故に今生で一休みの意味も含めて一旦はクリスタルなしで生まれた、という理由もあるような気がいたします。メインではカルマの解消が目的ですけど、いろいろな理由が重なって今生ではクリスタルを持たずに生まれたのだろう、と理解しています。
ですけど、それは一時的な状態でしかなくていつかは元に戻る必要がありますので、もともとのクリスタルを戻すタイミングはスピリットが見計らっているのだと思います。
形としてはダイヤのような形です。正八面体よりはもうちょっと角が多いような、正16面体とはちょっと違うような、綺麗なダイヤがカットされているような感じです。
クリスタルっぽく見えますけど物理的なものではなくてアストラルなものです。
それが、頭の後頭部の真ん中あたりに収まっています。
これは、転生を重ねるごとに少しずつ育てるという種類のもので、人によっては「目」と言う人もいるかもしれません。形としては目というよりもクリスタルに似ていると思います。
言い方としてはサードアイということになるのでしょうが、日本的な言い方をすれば竜神の目とか天狗の目とか千里眼とか、そういうことになると思います。
転生を重なる間にもこのサードアイは受け継がれて、そのまま転生をする場合は同じサードアイを引き継ぎます。一旦グループソウルに合流する場合はサードアイはグループソウルが一旦受け取るかあるいは一緒に動いている守護霊が一旦は預かって、その後、必要な魂、大抵は同じグループソウルの魂ですが、転生する際にそのサードアイのクリスタルを受け取って転生するわけです。
私の場合、今生での目的が今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つだったので、そういうことであればむしろサードアイのクリスタルは邪魔で、何も見えない方が良いので全く何もクリスタルを持たずに生まれてきました。
ですけど、このクリスタルというものは何もなかったとしても人生を生きているうちに形成されてゆく種類のものですので、今はちっちゃいクリスタルがあります。そのようにクリスタルを育てる過程も含めて覚醒への階梯を確かめることが今生での目的でありましたので、予定通りとも言えます。
今まで私が主に使っていたサードアイのクリスタルは今は私の守護霊に預かってもらっています。そのうち、私が今生で育てた今使っている小さなクリスタルとその元々使っていたクリスタルとを交換しようかな、とも思いますけど、これは私が判断することというよりは、私のハイヤーセルフというかスピリットがその時期も含めて判断することのようですので、顕在意識の私は知る必要がないようですし実際のところその決断権は顕在意識の私ではなくスピリットの方にあるので時期とかは教えてもらっていません。
顕在意識の私からするともう十分なのでとっとと覚醒してもいいと思っているのですが、スピリットからすると、せっかくなのでもうちょっと細かく覚醒の階梯を確かめてもいいのでは、と思っているようです。それならそれでいいですけど。顕在意識の私からするとちょっとまどろっこしく感じてしまいますが、調査が今生の目的の1つなので致し方ないという面もあります。
サードアイのクリスタルがある程度育つと、以下の能力が現れます。
・(初歩的な力として)イメージで具体的に想像する力。例えば、頭の中でイメージでそろばんをする能力だとか、部屋や通路の空間をイメージして配置を組み替える能力。あるいは数学の問題をイメージで解く力。
・(もう少し慣れてくると)映像記憶の能力。
・(ある程度慣れてくると)周囲にいる霊を見る能力。いわゆる霊視。町中に霊がうようよいることがわかるようになります。
・(更に進むと。実際はフォースアイとの連携で)千里眼の能力。(同じ時間軸における)リモートビューイング。
・(熟練すると)時空を超えたリモートビューイング
私は久々にクリスタルなしで生まれましたが、霊視ができないというのはある意味、煩わしい霊を見なくて良いので意外にすっきりした印象を最初は受けました。サードアイが見えないということは、こんなにも周囲の景色に惑わされなくても済むのだ、という、意外な驚きがあったように思います。町中には霊がうようよいますし、おぞましい姿をした魑魅魍魎なんて普通にそこら中にいますから、そのような煩わしさがない反面、それらが見えないが故に避けにくい、というデメリットもありますけどね。
たぶん前世ではちょっと疲れた時に魑魅魍魎が見えることが煩わしく感じていて、それ故に、見えないというのはそれはそれで幸せな気もします。
エネルギー的な総量とのお話とも関連していて、エネルギーが枯渇していると魑魅魍魎が見えた時にそれに影響されてしまうのですよね。見えるだけでなく、エネルギー的に負けてしまっている。一方で、エネルギー的に充実していると魑魅魍魎が見えたとしても自分の平穏さを保てるのですよね。そういう観点からも、きっと前世でちょっと疲れてしまったが故に今生で一休みの意味も含めて一旦はクリスタルなしで生まれた、という理由もあるような気がいたします。メインではカルマの解消が目的ですけど、いろいろな理由が重なって今生ではクリスタルを持たずに生まれたのだろう、と理解しています。
ですけど、それは一時的な状態でしかなくていつかは元に戻る必要がありますので、もともとのクリスタルを戻すタイミングはスピリットが見計らっているのだと思います。
サードアイのクリスタルが小さい時は水晶球で強化する
ある程度育てば不要ですけど、サードアイが小さい人の場合は水晶球で強化できます。
水晶球は本物の水晶を使う場合はクラックの角を使ってサードアイのクリスタルと共振させます。クラックがある程度ないとうまく行かないですが、ありすぎてもちょっとやりにくいです。それなりに透明で、クラックもちょっとだけ入った水晶がいいと思います。
今は溶解水晶とかありますけど、完全に透明な溶解水晶だとやりにくい気がします。
ちょっとだけクラックがかすかに入っていて、それでいて、入りすぎないくらいが良いです。世の中にはそんなものはないかもしれないですね・・・。
中世くらいの昔はそれなりな本物の水晶球が手頃な値段で売っていましたけど、今は目が飛び出るほど高いですよね。
大きさは12cm前後あった方がいいと思います。そこまで大きいものである必要はないですけど、大きいほうがやりやすい、ということはあります。小さいと効果も微妙ですし、ちょっとやりにくいです。
水晶球は本物の水晶を使う場合はクラックの角を使ってサードアイのクリスタルと共振させます。クラックがある程度ないとうまく行かないですが、ありすぎてもちょっとやりにくいです。それなりに透明で、クラックもちょっとだけ入った水晶がいいと思います。
今は溶解水晶とかありますけど、完全に透明な溶解水晶だとやりにくい気がします。
ちょっとだけクラックがかすかに入っていて、それでいて、入りすぎないくらいが良いです。世の中にはそんなものはないかもしれないですね・・・。
中世くらいの昔はそれなりな本物の水晶球が手頃な値段で売っていましたけど、今は目が飛び出るほど高いですよね。
大きさは12cm前後あった方がいいと思います。そこまで大きいものである必要はないですけど、大きいほうがやりやすい、ということはあります。小さいと効果も微妙ですし、ちょっとやりにくいです。
経験する静寂の境地から経験しない静寂の境地へ
少し前までは、静寂の境地に入る時は何かに吸い込まれるような感覚を伴って意識が静寂になる急激な変化の体験と共に特に視覚の感覚が細かくスムーズになることによって静寂の境地を経験しておりました。
最近は、その経験がそれほど激しくなく緩やかに静寂の境地へ到達するようになったように思います。
少し前までは、頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至るような感じで、感覚にはっきりとそれとわかるものがありました。最近は、それらの経験がそれほど激しくなく、静寂とヴィパッサナーの観察が日常と融合した感じになってきました。
以前は、瞑想の前と後の静寂の境地がとても違うものでしたので「経験」「遷移」を伴って静寂の境地、平らな境地の静寂の境地に達していたわけですが、今は割とその境地と日常の境地との差が減ってきています。完全に同一ではありませんが。
このような変化が起こってきた時、最初は「瞑想がどうも調子が悪いのかな」とも思ったりしましたが、最近の理解としてはそうではなく、単に、瞑想と日常の状態との差が減ってきたために「体験」としての激しい感覚がなくなってきただけなのかなと解釈しております。
これらの状態は、ミャンマーの瞑想の本に記されていることのような気が致します。
少し前の状態は以下に相当するように思います。
■預流果への到達
大体においては非常に澄み切った気持ちが、次々と生じ続けて現れます。その時、心そのものしか存在しないような虚ろな気持ちで満足し、安楽の状態になっています。寛いでいます。この時の精神状態を念じることはできませんし、念じようとしてもはっきり分からないのです。(中略)ただ、澄み切った安楽な精神状態が続くだけです。しかし、かなり時間がたつにつれて、こうした澄み切った精神状態が力を落とし、普通の状態に戻っていきます。(中略)また叡智の力が十分になりますと、諸行の停止する前のような平安な状態に達します。(中略)初道果にたびたび達したのです。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」
これらに表現されているような、安楽になったり戻ったり、という静寂の境地への度々の到達は初道果である預流道果の状態だったように思います。預流道果に度々達して静寂の境地をその都度、一時的に体験していたわけです。
それと、以下の記述が私の少し前の状態に似ています。
対象と念じる心がうまくかみ合わず、互いにずれているように思われるかもしれません。これは、心身における無常・苦・非我の様相を徹底的に理解したいという気持ちが強すぎることによる不満なのです。(中略)しかし、絶望してはいけません。これは、心身行が好ましくないことを、ありのままに正しく悟ることや、行捨智(下記参照)のように無関心でいられないために、念じるのがうまくいっていても、うまくいかないと思い込んえしまうことによって生じた不満なのです。(中略)間もなく安楽に念じることができるようになります。そして、一生懸命に念じていれば、気持ちが次第に澄み切ってきて、最後は、現れたことや悟ったことだけで満足できない気持ちや不満は完全に治ってしまいます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」
これはそうですね。少し前までは、静寂の境地の筈なのにどこか瞑想がうまくいかない気がする、という感じがありました。それは、別の表現をするのならば心がこの新しい状態に慣れていなかっただけであるとも言えると思います。
■行捨智/激しい努力もせず、諦めもせず行を続ける智慧
さほど力を入れて念じなくても、心身の微妙な動作や状態まで自然に悟り続けられます。そして、特別に観察しなくても、心身が無常・苦・非我のうちのいずれかの状態として、はっきりと次々に悟られています。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」
私はこの最後の状態の入り口に達しつつあるという感じですかね。何かまだうまくいかないという気持ちがほんの少し残っていますが、そのまま続けていれば自然に悟り続けられる状態になるのかなと思います。ここでいう悟りとは同書での悟りのことであり、私の思う悟りとは異なりますが、それはそれでいいとします。
ヨーガですとこれらの階梯をひとまとめにして「雑念とか経験とかは気にしない」とかしてしまいますけどそれは大雑把すぎると私には感じていて、弟子たちは自分の状態を知りたいのでありますから、仏教、特にテーラワーダ系のこれらの階梯は参考になるように思います。ヨーガ系で細かい経験とか先生に言っても「そんなのは経験に過ぎないから重要ではない」とスルーされてしまいますけど、仏教のように細かく階梯を見て自分の状態を知れるのは良いと思います。これは個人的な感想であり、ヨーガのシステムをどうこう言っているわけではありません。両者にはそれぞれ良いところがあって、ヨーガはおおらかで万人を受け入れる素養があるところが良くて、仏教は勉強には向いているものの実践はしにくいという面がありますので実践はヨーガで理屈はヨーガだけでなく仏教の要素も取り入れると自分に対する理解が深まると思っています。
最近は、その経験がそれほど激しくなく緩やかに静寂の境地へ到達するようになったように思います。
少し前までは、頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至るような感じで、感覚にはっきりとそれとわかるものがありました。最近は、それらの経験がそれほど激しくなく、静寂とヴィパッサナーの観察が日常と融合した感じになってきました。
以前は、瞑想の前と後の静寂の境地がとても違うものでしたので「経験」「遷移」を伴って静寂の境地、平らな境地の静寂の境地に達していたわけですが、今は割とその境地と日常の境地との差が減ってきています。完全に同一ではありませんが。
このような変化が起こってきた時、最初は「瞑想がどうも調子が悪いのかな」とも思ったりしましたが、最近の理解としてはそうではなく、単に、瞑想と日常の状態との差が減ってきたために「体験」としての激しい感覚がなくなってきただけなのかなと解釈しております。
これらの状態は、ミャンマーの瞑想の本に記されていることのような気が致します。
少し前の状態は以下に相当するように思います。
■預流果への到達
大体においては非常に澄み切った気持ちが、次々と生じ続けて現れます。その時、心そのものしか存在しないような虚ろな気持ちで満足し、安楽の状態になっています。寛いでいます。この時の精神状態を念じることはできませんし、念じようとしてもはっきり分からないのです。(中略)ただ、澄み切った安楽な精神状態が続くだけです。しかし、かなり時間がたつにつれて、こうした澄み切った精神状態が力を落とし、普通の状態に戻っていきます。(中略)また叡智の力が十分になりますと、諸行の停止する前のような平安な状態に達します。(中略)初道果にたびたび達したのです。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」
これらに表現されているような、安楽になったり戻ったり、という静寂の境地への度々の到達は初道果である預流道果の状態だったように思います。預流道果に度々達して静寂の境地をその都度、一時的に体験していたわけです。
それと、以下の記述が私の少し前の状態に似ています。
対象と念じる心がうまくかみ合わず、互いにずれているように思われるかもしれません。これは、心身における無常・苦・非我の様相を徹底的に理解したいという気持ちが強すぎることによる不満なのです。(中略)しかし、絶望してはいけません。これは、心身行が好ましくないことを、ありのままに正しく悟ることや、行捨智(下記参照)のように無関心でいられないために、念じるのがうまくいっていても、うまくいかないと思い込んえしまうことによって生じた不満なのです。(中略)間もなく安楽に念じることができるようになります。そして、一生懸命に念じていれば、気持ちが次第に澄み切ってきて、最後は、現れたことや悟ったことだけで満足できない気持ちや不満は完全に治ってしまいます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」
これはそうですね。少し前までは、静寂の境地の筈なのにどこか瞑想がうまくいかない気がする、という感じがありました。それは、別の表現をするのならば心がこの新しい状態に慣れていなかっただけであるとも言えると思います。
■行捨智/激しい努力もせず、諦めもせず行を続ける智慧
さほど力を入れて念じなくても、心身の微妙な動作や状態まで自然に悟り続けられます。そして、特別に観察しなくても、心身が無常・苦・非我のうちのいずれかの状態として、はっきりと次々に悟られています。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」
私はこの最後の状態の入り口に達しつつあるという感じですかね。何かまだうまくいかないという気持ちがほんの少し残っていますが、そのまま続けていれば自然に悟り続けられる状態になるのかなと思います。ここでいう悟りとは同書での悟りのことであり、私の思う悟りとは異なりますが、それはそれでいいとします。
ヨーガですとこれらの階梯をひとまとめにして「雑念とか経験とかは気にしない」とかしてしまいますけどそれは大雑把すぎると私には感じていて、弟子たちは自分の状態を知りたいのでありますから、仏教、特にテーラワーダ系のこれらの階梯は参考になるように思います。ヨーガ系で細かい経験とか先生に言っても「そんなのは経験に過ぎないから重要ではない」とスルーされてしまいますけど、仏教のように細かく階梯を見て自分の状態を知れるのは良いと思います。これは個人的な感想であり、ヨーガのシステムをどうこう言っているわけではありません。両者にはそれぞれ良いところがあって、ヨーガはおおらかで万人を受け入れる素養があるところが良くて、仏教は勉強には向いているものの実践はしにくいという面がありますので実践はヨーガで理屈はヨーガだけでなく仏教の要素も取り入れると自分に対する理解が深まると思っています。