胸の奥の神意識に恐怖を感じる - 瞑想録 2020年12月

2020-12-03 記
トピック:スピリチュアル: 回想録

大きな心臓の鼓動が時々瞑想中に起こる

1回の大きな鼓動が心臓で「ドックン」と脈打って、胸が前および肩がも少し上に急に飛び上がることが最近、時々あります。宙に浮くというほどではないですけど胸の鼓動で上方向に少し上がるので腰も少し伸び気味に一瞬だけなりますけどあぐらの足と腰が浮くほどではありません。多少、胸のショックで下半身にかかっている荷重が少し抜けるというくらいです。

少し前から度々あって、昨日今日とは続けて1回づつ起こっています。

起こったからと言って何があるわけでもないですけど、一応のメモです。

電気ショックのようなビリビリ感はないです。体の動きとしてはドラマの心拍停止の人が心臓の電気ショックを受けて胸が開き気味にビクっと動く感じに似ていますけど、私の場合は電気ではなくて単に心臓の鼓動が急に1回だけ大きく脈打ってそれにつられて胸の周囲も動いて、それによって下半身の荷重も少し抜ける、という感じです。

瞑想の段階としては、まだ完全な静寂の境地には達していなくてその少し前の段階的に静寂が深まる状態で、何回かその段階がやってきて、細かな体の緊張もそれに応じて更に段階的になくなって、それなりに静寂の境地に近づいてきたところで大きな心臓の鼓動がありました。

感じとしては、漫画「幽遊白書」で主人公が仙水と戦っている時に心臓にドクンと脈打ったシーンがあったかと思うのですが、それと似ていますね。

その後、心臓より少し下のところでも同じく脈動がありましたけど、心臓というより筋肉が反応した、という感じですね。
心臓と思っているだけで心臓のあたりで起こっていることも単に筋肉が反応しただけといえばそうかもしれないです。心臓の鼓動とはちょっと違う感じです。
心臓での脈動も心臓の少し下での脈動も同じように筋肉が脈打ったと理解した方がしっくりきます。

そして、関連しているのかどうかはわかりませんけど後頭部の真ん中あたりで骨が鳴る時のようなカクンという感じと、何やら、卵の中から殻を割って外に出ようともがいているような感覚になりました。頭の中に埋まっている卵にヒビが入ったような感覚ですね。これは単なるイメージです。

だからと言って特に何か日常生活に変化が起きたわけではありませんが、日常生活に置いても心臓のあたりが少しだけうずきます。痛いわけではないですけど息を吸って胸が開く時に窮屈な感じになります。

単に運動不足なだけかもしれないですけどね。 一応、メモしておきます。


[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。



使い捨てにされるチャネラーや霊能者たち

思うに、神様はチャネラーや霊能者を、言葉は悪いですけど使い捨てにしているように思われます。
最初、目をつけた人がいたとしたらコンタクトをしてメッセージを伝えます。

そのうち、その人が得意気になって神の言葉を偽るようになると神は離れてゆきます。

だいたい、この繰り返しです。私の見た範囲ではそんな感じです。

神の言葉を聞けなくなると、今度は自分の頭の中で想像の神の言葉を作り出します。
新興宗教にありがちですね。最初は良くてもそのうち教祖様になってしまうわけです。

「神の言葉です」と言われたら周囲の人はそうそう反論できませんから、ほとんどの人はその真偽を確かめることなしに受け入れざるを得ません。そうするうちに、大人しく従う人だけが集うことになるのです。

その姿は、本来神が望む姿とはかけ離れています。

神道であれば審神者というものがありますし、ヨーガですとそもそもチャネリングを良いものとはしておらず、チャネリングに否定的な流派がヨーガでは主流です。そのような力を持った神々との接触は悟りへの妨げになる、というのがヨーガの基本的な立場です。

この世には力を持った霊や人間が沢山いて、神のごとき力を持っている人もいます。しかし、最終的な悟りという観点からすると、最高の悟りに達したのであれば力からは開放されています。誤解があるかもしれませんが、最終的な悟りを開いたならばこの世の理から開放されるので、強いも弱いも関係のない世界へと到達するということです。

幽霊とか悪霊とか天狗とか神話に出てくるような人格神の力というのはいわゆるアストラルな思いの力によるものです。しかしながら、悟りを開いた人はその次のコーザル(カラーナ、原因)の世界に住むようになりますのでアストラルを超越しています。

いわゆる人格神としての霊能力はファンタジーに出てくるような魔法の世界で、思いの力を蓄えたり奪ったり利用したりして超常的な力を作り出します。それはそれで凄い能力ではあるのですが、その世界に関わっていると悟りに到達しないのです。

よく、覚醒という言葉がありますけど、人によってその意味するところは違いますけどアストラル的な能力の覚醒という意味と悟りという意味での覚醒とがあると思います。アストラル的な覚醒であればまだ感情の世界であり、悟りとしての覚醒であればコーザル的なものになります。

悟りという言葉も流派によっていろいろですのでアストラル的な悟りの場合もありますけど、言葉の定義というよりは、魔法的なものであればアストラル、魔法や感情を超えた世界であればコーザルですね。コーザルのほうが悟りというのに相応しいと思います。

どこかの本に書いてありましたが古代のミラレパという聖者はコーザルの悟りを得ており、周囲にいる一般の修行者はアストラルの悟りでしたのでその能力にも違いがあり、例えばアストラルの悟りを得た一般の修行者は空中浮遊で数メートルあるいは数十メートル浮上することができたのに対し、コーザルの悟りを得たミラレパは山の頂上まであっという間に登ることができた、という違いがあるそうです。アストラルの段階では能力にも限界がありますが、コーザルに至るともはやこの世界と一体になったかのような偉大な能力を得るようです。

アストラルの段階では善と悪があり対立がありますが、コーザルに至ると善悪を超える、という面もあります。

チャネラーや霊能者は、往々にしてこのアストラル的な覚醒をして神の言葉を受け取るようになります。自らが神の代理人かのように振る舞ったりするわけですけど、そうこうしてうるちに神様の意図をうまく伝えなくなって、そして神様に捨てられてしまうわけです。

まあ、それも全ては学びなのでしょうね。

だいたい、ちやほやされて3年持てばそこそこですけど、7年や10年もすればかなりの確率で神様に見放されて過去の栄光で生きるようになる気がします。

その頃には神様も新しい手足を見つけてそちらと仲良くやっていると思います。

チャネラーや霊能者は、使い捨てにされると最初から覚悟しておいた方がいいと私なんかは思います。

私はそうではない! と思う方もいらっしゃると思いますし、そうではない方も、もちろんいらっしゃると思います。しかしながら、指導霊や神様との付き合いも人間の付き合いと一緒で、ふてぶてしい人や傲慢な人とは付き合いたくないでしょう? それと一緒ですよ。神様が離れたくなるような生活をしていたらさっさと離れてしまいます。

離れないまでも、神様は時空を超えることができますので「早送り」をしてその人の一生をざーっと見て終わりにしてしまうかもしれません。一生の守護を約束したからと言って、必ずしも詳細に毎日付き添ってくれるとは限らないということです。ただしこれは神様のレベルによって、時空を超えられない神様っぽい人、天狗とかそのくらいのレベルですと否応なしに付き合うでしょうし、時空を超えられる神様、天使などは割と大雑把に概観しているような気が致します。

神様や天狗、天使は割と気まぐれで、お気に入りのチャネラー、霊能者がいるとそこでしばらく遊びますけど、そのうちどっかに行ってしまいます。その人に一生付き従う守護霊はもちろんいますけど、その場合、守護霊だけになると多様な神様が入れ替わりに来るという感じではなくなりますよね。最初は面白がって多くの神様が来ていたチャネラーのところでも、チャネラーが得意気になったりして教祖と化してくると離れてゆき、守護霊だけが残ります。それでも守護霊からメッセージが来たりしますけど、守護霊にしても天狗だったり龍だったりいろいろですよね。

まあ、そのように、最初は面白がって多くの神様が出入りしているところでも、やがて神様は来なくなって守護霊だけが一生付き従って見守る、というパターンが多い気が致しますね。

これは個人的な感想ですので、特定の誰かをどうこう言っているわけではありません。

個人的に思うのは、チャネリングとか霊媒としての霊能の技能によってメッセージを受ける段階と、自分自身の頭・・・ というと語弊がありますが、自分自身のスピリットが主体的に動いて自分で肉体を動かすなり幽体離脱をするなりして調査することで自分でしっかりとものを見て結論を出す場合とではかなり段階に違いがあるように思いますね。

1.肉体の頭が主体となっていてスピリットと繋がっていない段階
2.肉体の頭と自分のスピリットが繋がり始めた段階。
3.自分のスピリットが主体になった段階

これらの段階のうち、どの段階でもチャネリングや霊媒というのは可能です。

1+チャネリング → ただのチャネラー
2+チャネリング → 教祖様
3+チャネリング → マスター

表現としてはいろいろとあるとは思いますけど、3番目の段階に至っていなければ教祖様として生きて終わりです。そして、3番目の段階に至るためには一般的には修行が必要になるわけで、それは必ずしもチャネリングとは関係しないわけで、むしろチャネリングは邪魔になったりもします。

1や2の段階で神様に目をつけられてチャネリングや霊媒あるいは教祖様になって、やがて神様に飽きられて守護霊だけが残る、というパターンが多い気が致します。神様は気まぐれですからね。興味がなくなったら割とすぐどっかに行ってしまいます。そして、残されるのは教祖様というわけです。



サハスララからエネルギーが上に抜ける瞑想

最近はヴィシュッダに頭のタマスを吸い込むという感じがなくなってきて、後頭部に集中していてもそれほど変化がなく、割と第二の涅槃とも言えるような意識付きの涅槃に準じた状態になっています。

この状態ですと、後頭部の集中よりも頭頂の付近に集中していた方が安定します。

頭頂はサハスララ・チャクラですけど、頭頂の、特に頭の皮膚の内側あたりに集中しているとオーラが少しずつ溜まってきて、少し貯まると上の方に抜けてゆきます。

今まではサハスララに集中してもさほどの変化がありませんでしたし、上に抜けるという感じもそれほどありませんでした。

最初に起こっていた静寂系の涅槃ではエネルギーが後頭部に集中していて下のヴィシュッダに抜けていたのですが、これはおそらく後頭部とヴィシュッダの間のエネルギー・ルート(ナディ)があまりよく通っていなかったのかなと思います。

今はそこのナディの通りが良くなっているので後頭部への集中はさほど必要ではなくなってきて、その状態では意識の伴った涅槃とも言える状態になって、更には、集中するなら後頭部よりは頭頂の方がしっくりくる、という感じになりました。

頭頂の方がしっくりくる、というのは、やってみたらそうだった、というお話で。なんとなく自然にそうなりました。理屈ではありません。体が一番わかっているのかもしれません。

そうすると、頭頂にエネルギーが集まって、やがて、ある程度貯まると頭頂から上に少しずつ抜けてゆくのです。これはきっと、サハスララの上が通り初めたのかなと思います。

感じ的にそこはまだきちんと通っていなくて、だから瞑想での集中が必要でエネルギーを貯めて少しずつ上に抜けるルートを開いてゆく必要があるのかなと思います。


(追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)


▪️ムーラダーラを意識しただけで登頂のサハスララまでエネルギーが通る

以前はそんなことはありませんでした。ヴィシュッダの詰まりが取れた状態になってからは、頭と下半身の間のエネルギーの通りが以前より良くなったように思います。

本山博先生の著書によれば「ムーラダーラとアジナは直結している」とのことです。

ムーラダーラとアジナは、イダ、ピンガラ、スシュムナの3ナディによって直結しているので、一方に生ずることは必ず他方にも生ずるという密接な関係にあります。「密教ヨーガ(本山博著)」

このことは知ってはいたのですが今までピンときていませんでした。しかしながら、ここに来て急にこの感じが強まってきました。

ムーラダーラを少し意識しただけで特にそうと意図せずとも頭のあたりにエネルギーが集まります。以前はこんなことはありませんでした。

瞑想でずっとムーラダーラに集中するとエネルギーが集まり過ぎてしまうので、少しムーラダーラに集中しては様子を見て、またムーラダーラに集中する、という感じです。今のところは。

そうして観察していると、どうやら私の場合、頭のアジナ付近までスシュムナが来ている感じはあるのですが、イダとピンガラはアジナの少し離れた近くまで来ているものの、少しだけ、感覚的には3cmかそのくらいだけ最後の最後が繋がっていない感じを受けます。

ムーラダーラに集中するとエネルギーが3つのナディを伝わって上がりますが、スシュムナはまっすぐ、イダとピンガラはスシュムナの周囲を何回か螺旋状に回転しながらアジナに繋がっていますが、イダとピンガラのその最後の部分が繋がっていない感じです。

イダとピンガラは同書によればアジナと繋がっているとありますけど、どうなのでしょうかね。最初からは繋がっていないものなのか、私がたまたまそうなのか、そこはよくわかりませんけど。

今後繋がるのか、あるいは、そのままなのか。それは様子見をしますけど、今はこんな感じです。


▪️ナーダ音に共振する瞑想

ここ最近はナーダ音は割と無視してきましたけど、ここに来て、ナーダ音に体を共振させるような瞑想をしてみました。

今までは体を固定してナーダ音は割と聞き流して、眉間あるいは後頭部に意識を固定・軽く集中することで静寂の意識へと導いてきました。

ここにきて後頭部よりも頭頂への集中の方が安定するようになってきましたので、そうすると、割とナーダ音の波動により近くなったような気がしました。ほんの少しではありますけど。

頭頂に意識を合わせると、特に何か考えたり読んだりしたわけではないのですが、自然にナーダ音に身を任せる、という感じになりました。

そうこうするうちにナーダ音に体を合わせて、ナーダ音に体を共振させるような感じになってきました。

ナーダ音は頭の中の左右から聞こえていて、それに共振させますので共振するのは頭の周辺が主で喉より下は共振という感じでもありませんけど、それだけでも何か奥深くに繋がるような、そうでないような、ちょっとした未来の予感のようなものを感じて、きっとこれは何かある、と感じました。

まだ何があるのかはわかりませんけど、ナーダ音に共振させることでナーダ音の奥底が見えてくるのかな、という気もしますけど。これでナーダ音に乗っかっている、「意味」のようなものが読み取れるといいのですけど、どうでしょうかね。

このあたりはこれから様子見をしていくところです。


▪️ムーラダーラに意識を少し当てるだけで静寂の意識に近づく

以前はそれなりに長い時間の瞑想をしてヴィシュッダにタマスを吸い込むということを何度かしてから静寂の意識に至ることができました。

今は、ムーラダーラを意識しただけで登頂のサハスララまでエネルギーが通るようになってきて、この状態ですとムーラダーラを意識しただけで体中のエネルギーが活性化され、そのエネルギーによって雑念のほとんどが崩壊し、静寂の意識に近付きます。

あぐらをかいて瞑想の姿勢を取った方がやりやすいですが、日常生活をしている間にふとムーラダーラに意識を合わせるだけでエネルギーが上昇して、それにより雑念が減り、うまくいけば静寂の意識にかなり近い状態にまで意識が変化します。

ムーラダーラはずっと長く意識を当てるというものではないようで、今後のことはわかりませんが少なくとも今はそうで、少し意識を当てるだけでも膨大なエネルギーが開放されて上昇し、体中をエネルギーで包み込むようです。

今まではムーラダーラは割とスルーしていましたし、何度か同様に意識を合わせるということも時々していましたけどこんな感じにはなりませんでした。こうなってきたのはごく最近のことです。

雑念がムーラダーラから上昇するエネルギーによって洗い流されるかのようです。

以前と下半身のエネルギーの質も変わっていますね。少し前は喉のヴィシュッダあたりを境目にして下半身は少し重ためのエネルギーで頭が清浄な意識でした。今は、そのエネルギーの質が均一化してきて、下半身は以前より清浄になり、頭のあたりに下半身のエネルギーが入ってきても不安定にならないほど全体的に浄化されてきたように思います。

頭だけを見ると以前の清浄なだけの状態よりも少しだけ下半身の重ためのエネルギーが混ざるようになってきて、以前のようにヴィシュッダで分断しているのではなく、グラデーションのように下半身から頭まで繋がっている感じも多少はあります。そのグラデーションの濃淡が以前はきついものでしたが今は淡いグラデーションになっていて、エネルギーの質として割と均一化されてきましたのでムーラダーラのエネルギーがアジナ近くまで上昇しても不安定にならず、多少のエネルギー酔いのようなものは若干ありますけど以前のように気分が悪くなるということはなく、そのエネルギーが雑念を洗い流して全体の意識としては静寂の意識の状態に近づくわけです。

おそらくは、最初に静寂の意識に達していた時はヴィシュッダでエネルギーが分断されていて頭だけが特に清浄な状態になることで意識の平穏がなされていたのでした。

今は、ヴィシュッダのあたりのブロックが取れてエネルギーが均一化されてきて、天からのエネルギーが下半身にまで浸透するようになって下半身のエネルギーの浄化もそれなりに進み、その状態になったことでムーラダーラからのエネルギーを頭まで上げても不安定にならずに静寂の意識に近い状態になることができるのだと思います。

頭だけを見れば以前のヴィシュッダで分断されていた頃の方がより静寂の意識と言うに相応しい平安な状態で、今は下半身のエネルギーと均一化されていてそこまでの完璧に純粋な静寂の意識というわけではないですがそれなりに静寂で、これはこれで問題ないと思っています。



アジナへの瞑想中、力が欲しいか? と聞かれる。

瞑想中、ムーラダーラに意識を当て、それによってアジナにざわざわとした感覚を感じていました。ムーラダーラにほんの少しだけ意識を合わせると、アジナのことを考えずとも自動的にアジナのあたりにざわざわとした感覚が現れます。それは時には背筋を通ってエネルギーが上昇していると感じられることもありますし、単にアジナのあたりに感覚が来てオーラのエネルギーを感じることもあります。

そのようにムーラダーラとアジナへの意識の合わせる瞑想、いわゆるアシュヴィニムドラ(Ashwini Mudra)っぽいことをしていました。同ムドラでは呼吸に合わせて会陰を収縮・弛緩させます。この収縮・弛緩はほんの少しの軽いもので、筋肉をほとんど動かさずに意識を少し合わせて皮膚に軽く電気信号を通すくらいでいいような気が致します。最初は収縮・弛緩だけを行って、やがて、呼吸と合わせて吸気で会陰を収縮、呼気と共に弛緩させるようです。この呼吸への自覚が重要とのことです。このムドラのやり方は「密教ヨーガ(本山博著)」の記述に基づきます。

そのようにしていると、不意にどこかから「力が欲しいか?」と聞く深い声がしました。

それに対し私は一瞬沈黙し、その後「(現世的な)強い力は悟りの妨げになる。悟りの妨げにならない範囲の力が欲しい」と答えました。

するとその深い声は「わかった」と言いました。

・・・とは言ってもすぐに何か変化があるわけでもなく。どうなんでしょうね。まあ、あまり気にしてもしょうがないので様子見、といったところです。



ソーハン瞑想あるいは小周天のようになる

ソーハン瞑想(ソーハム瞑想、So Ham瞑想)はソー(so)で息を吸ってハン(ハム、Ham)で息を吐く瞑想で、ソーの時にエネルギーをムーラダーラから背骨(スシュムナ・ナディ)を通って頭頂(サハスララ)まで上げ、ハンで体の前を通ってムーラダーラまで戻す瞑想です。

小周天も似たようなもので体の前と後ろをぐるりとエネルギーを回します。

細かくは違いがありますし、流派によっても違いがあります。

一例として「タントラ・ヨーガ瞑想法」(スワミ・ジョーティルマヤナンダ著)には、最初は呼吸とソーハンを合わせた後に次第にソーハンを聞くだけの状態に遷移させてからエネルギーの循環した流れだけになるまで瞑想を続ける、といった詳細な説明があります。

そのように流派ごとに違いこそあれ、背骨から上げて前方から下ろす、という点では共通しているように思われます。

ここ最近、ムーラダーラに意識を合わせるだけでエネルギーがアジナまで上がるようになり、この状態は、特に狙っていたわけではなかったのですが、ふと気付いてみるとソーハン瞑想あるいは小周天の状態にとても似ていることに気が付きました。

べつにソーハンと唱えているわけでもありませんが、気づけばソーハンとは単に呼吸の擬音のような気もしますし、ひょっとしたら元々は単に日本語の「スー、ハー」みたいに呼吸の呼気・吸気を擬音で表現していただけのものがそのまま名前になったのではないかとも思ってしまいます。

だとすれば特にソーハン、ソーハムという言葉に注目するより、エネルギー的なものに着目すればいいわけです。このあたりの根拠は推測でしかないですけど、瞑想中にやってきたインスピレーションを元にしていますのでそう間違いでもないのかなと。

どちらにせよソーハム瞑想そのものを真似するというよりも、あくまでも自分の最近の瞑想がたまたま似ていた、というだけのお話です。真似しようとしているわけではありません。

この現在の状態は、ソーに対応する状態でムーラダーラを少し意識すると、それだけでエネルギーがアジナまで一瞬で上がり眉間にちょっとしたゆらゆらとした感覚が現れます。これがソーの部分で、特にマントラのソーを唱えることなしに単にムーラダーラを意識するだけでこうなります。その後、息を吐くタイミングで意識を抜くと自然に眉間がリラックス状態に戻り、エネルギーが少しだけ平準状態の方に戻り、半分くらいは発散し、それでもまだ眉間の周囲にエネルギーが残っている状態になります。そして次の吸う息でまたムーラダーラを意識するとそれだけで再度エネルギーがアジナまで上がります。その繰り返しです。

これは、以前、かなり昔にソーハム瞑想あるいは小周天を試した時はそれなりに意識を集中させてエネルギーをちょろちょろと水脈を乾いた土地に流すかのごとく努力が必要だったように思います。

今は、どこがエネルギー・ルート(ナディ)なのかわからないくらい太いというかオーラが広がっている感じで、体全体の少し背骨よりから全体的にエネルギーが上がって一部だけ戻る、という感じになっています。

そのように、今はムーラダーラからアジナ・サハスララまでエネルギーのルート(ナディ)が繋がった状態になったように思います。



精神世界の上級者はチャネリングに頼らない

ヨーギにせよ神道にせよスピリチュアルにせよ、上級者はことごとくチャネリングに頼らない気が致しますね。

まず神道には「審神者」というものがあって、出てきた存在が神の意識なのか動物などのいたずら物なのか見極める手順があります。ヨーギはそもそもチャネリングに否定的で「時間の無駄でしかない」とばっさり切り捨てています。

スピリチュアルは色々ですけど、チャネリングを主にしている人もいれば、スピリチュアルでもチャネリングを否定している人もいらっしゃいます。これは新しい分野ですので立場は色々ですね。

ですけど、上級者になればなるほどチャネリングに重きをおかない、というのは共通しているように思います。

これは、我々、肉体を持って生きている人間には見えない存在の言っていることの真偽がなかなか判別しにくい、という理由もあるにはあるのですが、それよりも、本質は言うと「物事は自分で確かめるべき」というところに行き着きます。

チャネリングで聞いたお話を真に受けるのですか? それは自分で腑に落ちた答えではなくてもらった答えでしょう。 例えそれが正しいとしても、それが自分の精神の成長に役に立ちますか? 役に立たない知識ならいりません、ということです。

ただし、チャネリングと言っても色々で、チャネリングの基本は「誰かと話しているだけ」ということですので、相手によるわけです。

人間だって色々で、グル、師匠のような頼りになる人もいますがほとんどの人間はそうではないでしょう。
グルの言葉であれば頼りにすべきですけど、グルとは言ってもグルに依存せずに自分で精神修行をするのが第一です。

それと同じような位置づけで守護霊が指導してくれるのであればそれをしっかりと受け止めるべきですが、あくまでも成長するのは自分自身であるわけで。

生きている人間のグルがいるのであればそちらに頼った方が良いですが守護霊が助けてくれるのならばそれもいいとは思いますが、それはあくまでも依存ではなく、グルとしての指導になります。

どちらにせよ上級者になったら自立してゆくのですから、自分で見聞きして自分の頭でしっかりと考えることが第一になります。

ですから、途中で誰かに頼るとしたら相手をしっかりと見極める必要がありますし、どちらにせよ最終的には自立するのですから、チャネリングなんかに頼る必要はなくなるのです。

まあ、ある程度の精神的成長がなされればチャネリングなんて簡単にできますしね。ただ、それなりに成長していない段階ではチャネリングは修行の邪魔になったりもしますから、それなりにわかってくるまではチャネリングは無視でもいいと思います。


▪️私にチャネリングしてこないように禁止札を出している

私は守護霊に頼んで半径2〜3mの空間になるべく霊のいない状態にしてもらっています。

「(本当に必要なこと以外は)私に(チャネリングで)話しかけないで」と言ってありますし、他の霊にも「近付きすぎないで」と注意しています。

実際に何かを掲げているわけではないのですが、チャネリングしてこないように無言で禁止札を出しているような状態です。

こうしないと、むやみに誰かが話しかけてきてとても煩いです。

瞑想しにくくなりますし、私の知っている過去生の妻だったりすると対応しないと失礼な感じになってしまいますし。

ですけど、今は霊界のマントを使って遮断していますし、少なくとも止まっている時は近くに霊が近寄らないようにしてもらっていますので静かなものです。

精神修行はとてもしやすい状態であると言えます。

それに、何でも聞いてしまうのは良くなくて、自分の頭で考えることが重要ですので、そのような意味においてもあまり話しかけない方がいいのです。

間違っていても自分の頭で考えることが重要です。そのためには自分の目でしっかりと見て、自分の頭できちんと考える必要がありますから、そのために、チャネリングは時に邪魔になったりします。

最終的に自分で考えられるようになったり、あるいは、見るにしても自分の目で霊視とか、あるいは幽体離脱して時空を超えられるようになったらもっとはっきりと知ることができますし。前世では幽体離脱で得た知識を使ってカウンセリングとかしていましたけどね。その時のことを思えば、なにもわざわざチャネリングで他人に聞かなくても幽体離脱で自分で調べに行けばいいわけですし。

幽体離脱ができないにしても自分の目で見て自分の頭で考えるのは一緒ですしね。どちらにせよチャネリングは「(肉体のある人間との)おしゃべり」と大差ないです。体がないだけで、喋っている相手はただの普通の人だったりしますからね。このあたりは少し前にも書きましたけど。

昔から私はチャネリングとは無縁だった気が致しますね。中世で魔女だった時もチャネリングなんてしていませんでしたし、変な霊が近寄ってきても雑魚あるいは虫の扱いでしたし、占い師として生きた時も自分のサードアイで遠隔視や過去未来を見たものの、誰か他の霊に頼るなんて手法は、ずっと昔まで思い返してみても1回もありませんね。ですから、そもそもチャネリングというものが私にはよく分かりません。本当にしっかりと過去未来まで含めて見たいのであれば幽体離脱して時空を超えて過去未来および他の可能性のあった、あるいはこれから可能性のあるパラレルワールドのタイムラインまで含めて観察してきちんと理解すればいい話ですし。何故にわざわざ他人に頼ってチャネリングなんて手法をするのか、私には根本のところからよく分からないのですけど。

おそらくはチャネリングという用語が出てきたのは宇宙系と関連があって、私の子供の頃には同級生で宇宙人とチャネリングをしていた人がいましたし、その通信をジャックして私が宇宙人とテレパシーしたこともあります。宇宙人と言ったってただの人ですよ。アメリカ人みたいな明るくて陽気な気質です。ですので、そういうおしゃべりのようなチャネリング、テレパシーはあると思います。これは喋るのと同様の感覚でチャネリングをしているのでしょう。ですけど、普通の人の場合はチャネリングなんて関係ないと思いますし、成長のためにチャネリング自体は喋るのとそう変わらないので、おしゃべりが煩いのと同様にチャネリングも時に煩かったりするので、精神修行とチャネリングは相反することもあって、おしゃべりを少なくするという意味と同様の意味でチャネリングも最小限にすべきだとは思います。チャネリングなんておしゃべりと変わらないと思った方が良くて、特別視しないことですね。

要はね、霊たちに対して「近くでは静かにして」と、注意をしてもらっているということです。



悟りとは日常生活において常に意識が時空を超えていること

一時的に瞑想をしたり幽体離脱して同様の状態になったのは悟りを垣間見たことであり、悟りの状態には違いありませんけど、日常生活でその状態を保ててこその悟りなわけです。垣間見ただけでも素晴らしいことですけどね。

幽体離脱で時空を超えることは、他の人に手伝ってもらって幽体離脱すれば割と誰でも体験できます。

私も、大学生の頃に知り合いの女の子の魂を体から引き抜いて世界を見せたことがあります。まあ、はっきり言って「わかってない」子でしたけどね。哲学とか勉強はそこそこできましたけどスピリチュアルな事柄に関しては無知というか斜め上を向いて理解していて、本質がわかっていない感じでした。

そんな子であっても、私が幽体離脱をして、両腕を脇の下から引っ掛けるようにしてその子の幽体を体から引き離してあげたら、最初はちょっと力がいりましたけど体から幽体が離れて幽体離脱状態になりました。

自分では動けないようでしたので私がそのまま引っ張って時空を超える形でいろいろ見せてあげましたけどね・・・。

まあ、あの程度の未熟な魂でも、誰かに見せてもらうという方法であれば時空を超えられるのです。

ですけどね、肉体に戻ってからも幽体離脱で時空を超えた記憶こそあれ、その子の意識は日常生活では時空を超えることができないわけです。

幽体離脱も、悟りの階梯の途中で自然にできるようになるのと、テクニックや他人に手伝ってもらって行うのとではちょっと違うわけです。テクニックは色々とありますけどね・・・。でも、テクニックでやる場合は日常生活との乖離が大きい気がいたします。

瞑想も似たようなもので、瞑想中で色々と見聞きするでしょうけど、それが日常生活に活かせてこその悟りなわけです。

瞑想には色々とあって、トランスとか静寂とか色々とりますけど、種類によっては自我を麻痺させる種類のものがあります。自我を麻痺させる種類のものですと日常生活と瞑想の差が激しくて、瞑想中の体験と日常生活の間に乖離ができると思います。

そうではなくて、瞑想中の状態と日常生活との間の差がどんどんなくなるのが理想的なわけです。

幽体離脱も一緒で、テクニックで幽体離脱して一時的に宇宙意識や時空を超えた意識になったとしても肉体に戻ってきて日常生活をする時にどれだけ活かせるかが重要なわけで。

最終的な悟りの状態というのは日常生活を送りながら意識は宇宙と繋がっていて更には時空を超えて過去や未来およびパラレルワールドやそれらの間の「線(比喩)」までも把握できる状態なわけです。そうなれば過去も未来も、あるにはありますけどただ単に一つづつ順を追って理解したいから存在しているだけ、ということもわかります。意識は時空を超えていますけど、意識が理解するために時間というものがあって分割して物事が理解できるようになっているわけです。時間がなければ物事の理解が「一瞬」でやってきて、分かる人にはわかりますけど新しいことの理解は難しくて、順を追って理解するために分割したらそれが時間というものになっただけなんですね。元々は時間なんてありませんでしたけど、理解したい気持ちが分割するという手段を選んで、それが時間というものになったわけです。ですから本来の意識は時空を超えているわけです。意識が日常生活においても時空を超えて時空そのものを把握しているのが悟りの状態なわけです。その時に三次元の肉体としての意識が失われることはなくて、トランス状態のように意識を失うこともありませんし、日常の普通の意識と悟りの意識とが一続きで繋がっている状態なわけです。

それが「本来の自分と繋がっている状態」とも表現できますけど、言葉通り読んでしまうとただ単に意識が静まってきた状態のように読めるかもしれませんが、本来はそれはヴェーダで言うところの「アートマン(自分の魂に相当するもの)」が実は「ブラフマン(この世の全て)」と同一だった、という知識のお話で、自分がアートマンだと思っていたけれども実はブラフマンで、確かにアートマンで分かれてはいるけれども宇宙意識としてはブラフマンで繋がっている、それは時空を超えていてパラレルワールドや過去や未来も全て私の意識の中にある、それが瞑想中や幽体離脱中だけでなく日常生活においてもその意識状態にいる、というのが悟りの状態なわけです。アートマンであって同時にブラフマンであるということは、アートマンとしての個の意識は存在していつつもブラフマンとしての宇宙意識も同時に存在しているわけです。どちらか片一方になるわけではないわけです。個としての意識はありつつも宇宙意識とも言える時空を超えた意識もまた同時に存在しているわけです。

であれば、日常生活中にちょっと意識すれば過去や未来の行く末なんてのもすぐに分かりますし、誰かが平行世界でどんなことをしでかしたのかとか、今生での学びがどのようなものなのか、知ろうと思えばすぐに分かります。ですけどそこは紳士の誇りのようなものがあって誰それ構わず見るなんてことはしないです。悟っている状態なら見ようと思えば何でもわかってしまうわけですけど、我々は肉体を持って生きているわけですからわかったところでそれを構わず言うなんて野暮なことはしないですし、そもそも、興味がなければ見ようとも思わないことも多いです。

どちらにせよ、そこには顕在意識と宇宙意識とも呼べるものが共存していて、日常生活において悟りが継続してこその悟りの状態なわけです。

もっと意識が進むとアバターとも言われている状態になって、この世を自由に変換できる能力が現れます。ヒマラヤ聖者の中でも特に突出した聖者がアバターと呼ばれていますけど、アバターにまでなりますと天気なんてのは割と簡単に変えられますし物体も自由自在、いわゆる瞬間移動みたいなこともできます。宇宙意識にしてもレベルの違いがあるわけです。

単に意識で宇宙意識と繋がったのが悟りで、この世界を自由自在にできるのがアバターなわけです。
アバターにしてもレベルの違いがあるようでそれすらもゴールではないようです。

アバターがどのようなものなのか理解することはこのように文章で説明されれば一応は理解できるでしょうし、アバターな人はそんなにはいないですけどどこかの聖者に会えたり幽体離脱して運良くアバターを垣間見ただけでもその凄さがもっと直接的に理解できるわけですけれども、実際に自分がアバターになるのは常人には長い道のりです。まずは悟ってからですね。人生を生きる上では悟りですら十分であると言えると思います。それを言ってしまうと、単にリラックスできたり静寂の意識にいるだけでも十分と言えば十分であるわけで。もっと言えば、この世に生きているだけで十分とも言えるわけで。どのレベルを自分が目指すか、ですよね。悟りを目指すのかアバターを目指すのか。あるいはリラックスで満足するのか。悟りを知って満足なのか、それとも実際に悟りたいのか。

私の人生の元々の目的は悟りまでですけど一応は目標は高く持ってアバターとしてあります。きっとアバターには到達できないでしょうけど、それはそうでも構わないわけです。こういうのは目標だけ一応掲げて、あまり片意地を張らないのが重要です。



2020年のスピリチュアル・バズワード 振り返り

  • 「覚醒」伝統的業界では今も昔も「悟り」ですけど、スピ業界では覚醒というのが流行りみたいです。前から一般用語として使われていましたが今はバズワードと化している感じが致しますね。
  • 「ライオンズゲート」私はよく分からないです。ゲートが閉じるとかいう噂がありましたけど、なんのことやら。
  • 「設定」誰が言い出したのかは知りませんけど、色んな所で「人生は設定だ」みたいなお話が増えてきました。「人生はゲーム」というお話の派生版っぽいです。昔は「人生は自分で決めて生まれてくる」みたいな言い方をしていましたよね。言い方は変われども十数年おきに定期的にバズワードに上がってくる話題ですかね。
  • スピリチュアルから目が冷めた、というお話。新興宗教とかスピにハマっていた人が目が覚める系のお話は昔からありますけどYouTubeのおかげか今年は目立った気が致します。
  • 「次元」長い人気ですね。長く使われてきたが故か、「次元って意味あるのですか?」みたいな揺り戻しが起きた年だったようにも思います。
  • 「風の時代」占星術のお話みたいですけど具体的にはさっぱりわかりません。水瓶座時代みたいなお話ですかね? 誰が言い出したのですかね? よくもまあ、次々に新しいネタを作り出すものですね・・・。
  • 「バシャール」10年くらい前から盛り上がっているスピリチュアルな宇宙人で、昔から名前は知ってはいましたけど個人的には興味がなくて一度もちゃんと調べたことがありません。なんでこんなに未だに人気なのかも謎です。
  • 「スターシード」ルーツを見ればかなりの地球人がスターシードだと思いますので、特に取り立てて言う必要もないんじゃないかなと思いますけど。個人的には特別感ないですね。
  • 「クラリオン星」真偽のほどはよく分かりません。
  • 「カタカムナ」細々と人気が続いていますね。そろそろマイナーを脱出してメジャーに?
これは個人的な印象です。統計を出したわけではありません。

「覚醒」は人によって定義が違っていてよく分からないです。おそらくは静寂の意識のことを意味しているように思いますが悟りという意味で使っている人もいますし。新しい業界の新しいバズワードは人によってコンテキストが違うのが困りものですけど、それはそれで内容を読み解くのが面白いという面もあります。とは言え、もうちょっと定義をしっかりしてから使ってほしいものです。「悟り」にしても流派によっていろいろですのである程度は仕方がない面はあると思いますけど。

「ライオンズゲート」は、私には全く心当たりが無いです。何なのかもよく分からないです。私の見えないガイドが教えてくれたことによりますと、「そういうイベントにした方が成長しやすい人がいるのですよ」ということみたいです。ガイドも何のことかよくわからないみたいです。元々はなくて最近作ったものではあるけれども、成長のためにイベントとして盛り上げているグループがあるようです。特に悪い意図は感じなくて純粋なものでしたが、盛り上がるにつれてちょっと金儲けの人も入ってきている、というのはこの業界ではよくあることです。そうして、最初は良くても途中から金儲けの人に乗っ取られてそのバズワードは使われなくなってゆくのですね。今はまだそこまで行っていなくてまだ盛り上がっている感じではありますけど。そういうイベント好きな人もいるので、どっかの天使か宇宙人が企画して盛り上げている感じですね。こういう見えない存在による企画はスピリチュアル業界ではよくあります。アセンションとかもそうでしたね。アセンションは盛り上がりましたね。確かに大きな変革はありますけど、それをアセンションと呼ぶかどうかは別問題なわけで。レムリアのアセンションはアセンションと呼ぶに相応しいものではありましたけど、これから同様のことが起こるかと言えば同じではないと思いますし。ですけど皆さんの目を向けさせて意識を変革するという効果はありましたので、アセンション企画は割と大成功と評価されていると思います。

「設定」についてですが、昔から「人生は自分が決めて生まれてきた」みたいなお話はありましたけど、最近のお話ではそれに加えて「魂の経験が豊富な人は厳しい環境に自分を追い込んで苦しい人生を選ぶ」みたいなお話が加わりました。私がまさにこれなんですけど、数十年前まではオーラの色でその人の魂のレベルまで一律に決めつけられてしまう風潮があって、魂の経験が豊富なので苦しい人生で人生経験を沢山積もうと思っている人が辛い系の赤いオーラで頑張っていたりすると昔は「オーラが赤だからスピリチュアル的に程度の低い人」として一律で評価されてしまっていました。まあ、普通の人は優越感を感じたいですから、オーラの色で一律で他人を見下したい、という弱い心がスピリチュアルの罠にハマってしまっていたのでしょうね、特にいま50代以降になっているバブル世代はそういう傾向があったように思います。スピリチュアルを優劣付けのための道具にしている人が昔から一定数いて、昔は特に多くて、そのような人にオーラの色での優越レベルはドンピシャではまって他人をオーラの色で評価しまくっていたように思います。その当時から「人生はゲーム」という言葉はありましたけど最近のバズワードで言う「人生は設定次第」というお話があまり理解されていなくて、例えば私は特殊なマントを被って霊能力なしに生まれてくるということをしていましたしカルマの精算が人生の目的の1つでしたから、私のように一時的に意識的に自分をどん底まで叩き落とした人にとってはそのようにオーラで一律で決めつけられてしまう風潮は生き辛い世の中でした。そういうこともあって、ここにきてようやく「人生は設定」というお話が世間に広まってきて、「ようやく、ですか?」という感はありますけど、このまま広まって常識になってくれればいいと思います。

スピリチュアルの罠から目が冷めた、というお話は昔も今も一定数ありますけど、昔から真理の世界では「先生は真理を指差すことしかできない(直接的に教えることはできない、完璧に近づけることだけ可能)」というのは昔からあるたとえ話で、最終的な真実は本人が見つけないといけないのですよね。そんな当たり前のお話が意外に浸透していない気がしますね。スピリチュアルの人たちって古典的な精神世界を勉強していないのですかね? 割とどこでも言われているのに、聖典に書かれてある真理を新しくて自分だけが知っている真実かのように語るスピリチュアル・リーダーがぼちぼちいて、違和感しかありません。スピリチュアルの人ってスピリチュアルのことしかやらないのですかね? このような精神修行の世界の基本を抑えておかないと「なんで先生は間違ったことを教えていたのですか」みたいなお話になってしまいます。そもそも真理を直接的に表現して教えることは不可能なのですけどね。真理を知った時に人がどのように行動するのかはだいたい2種類に分かれていて、完全に表現できないけれども何とか自分の知った真理の輪郭を表現しようと努力する人。あるいは、真理を表現することは不可能だと判断して沈黙を守る人です。言葉の表現が上手いグルならいいですけど口下手、表現が下手なグルもいますし。昔からそんなもんです。グルの口数が少なかったり言葉が多かったり。そんなもんです。それでも何とか表現してくれる先生に感謝するのが普通です。先生の中には実際に悟っていない人ももちろんいるでしょうけど、それは自分にはどうだっていいことではないですか。片鱗であっても教えてくれる人には変わりがないです。何も言わなくても態度で教えてくれるグルもいます。それに、明らかに悟っていないような普通に見える人でも悟っていることがあります。精神修行の世界では「良い師匠に出会えるのは幸運である」とも言われているように、そうそう良い師匠に会えることはないです。そんなもんです。思えば私自身の過去の態度についてもこれらは多少ながら反省がありますけど、過去を見て反省する良い機会になりました。

「次元」について
何やら「次元という概念はおかしい」とスピ業界で言われ始めた年のような気が致しますね。改めて次元とは何かと問われると、私は次元の数字についてはよく分からないので数字は私は言いませんね。単純に「高次元」というのであれば私の守護霊やハイヤーセルフの存在している領域はきっと高次元だろう、というくらいの軽い意味で使っていて、そこに明確な定義はないですね。そういえば前に次元が上がると言うよりは次元が下がって消え去るみたいなお話を書きましたけど、次元が下がるという感覚の方が近いです。イメージで言っているわけではなくて幽体離脱で見聞きした領域のことを言っているわけです。ですからそもそも現実が先にあって、それを表現するために何とか言葉を選んでいるわけで、高次元というよりもっと良い表現があるのならば私が知りたいくらいです。「あの世界」と言っても通じないでしょう。「高次元」といいつつ「次元が下がる」なんて、なんのこっちゃ? と思われるかもしれませんが、別に矛盾していません。現実がそうなのですから。でも、数字のことはよくわかりませんね。もし誤解があるのならば別の言葉を使いたいですが、代わりになる言葉が今の所思い浮かばないです。現実は変わらないので、もっと誤解のない直接的な言葉があればその方がいいのですけど。「天使界」とか言った方がいいですかね。でも、べつに他の場所にあるわけではなくてすぐそこにあるのですからね。天使界というと遠くの天国にあるかのような印象を与えてしまいますけど、いわゆる次元のようなものがちょっと違うだけですぐそこにいますからね。やっぱり高次元というのがしっくりきますけど。とは言いつつも感覚としては「次元がなくなる」という方が実感に近いのです。やっぱり聞いていて訳わからないですよね。そんなもんです。私の基本は幽体離脱で時空を超えて見聞きした内容ですから、時空を超えるというお話とそれによるパラレルワールドが無数にあるところまでは理解できますし、高次元というのは存在していますけど、人によって次元という言葉の定義がまちまちで、時に他人がどこのことを次元と言っているのかよくわからないこともあります。特に数字についてはわからなくて、7次元だとか12次元だとかはただ単に「そのくらい進歩した魂」というくらいにざっくりと捉えています。何やら次元が意識のレベルを意味しているようですけど、定義がよくわかりませんからね。私は「高次元」とは言いますけど数字はほとんど言いません。数字はよく分かりませんから。そもそもヨーガやヴェーダや仏教では次元なんてお話は出てきませんし、次元なんて言い出したのはごく最近のお話です。なんとなく概念的に高次元という言い方がしっくり来るので使っているだけです。私の見えないガイドに「数字はどういう意味なのでしょう?」聞いても回答ないですし。数字はあまり関係ないんじゃないかな、と個人的には思ってますけど。


他にも多種のバズワードがありましたけど、よくもまあ新しい言葉が出てくるものですね。ある意味、感心します。


・・・今年も色々とありました。たまには振り返るのも良いものです。



悟りの一瞥をするだけで満足しない

宇宙意識の悟りがどのようなものなのか一時的にでも知ることは重要で、私の場合は小学校の頃の幽体離脱で知ったわけですけれども、それは始まりに過ぎないわけです。知ることは重要であっても、日常生活の意識で同様の宇宙意識とはまだ繋がっていないわけで、日常生活を送りながら宇宙意識と繋がることができるようにするのが修行であるわけです。

伝統的業界ですと瞑想をして意識の平穏を教えるところから段階的に悟りを目指しますけどスピリチュアルなやり方は色々で、特に最近は感情に焦点を当てて感情面から意識を一時的に平穏にして宇宙意識と繋がるという方法も取られているようです。であればその意識の平穏および宇宙意識は一時的なもので、真実を知ってから戻ってきた後にギャップを感じてヒステリーになったり怒りっぽくなるのも当然かなという気が致します。そもそもアプローチが違うので結果も異なるわけですね。「怒り」が結果として残るのであれば一時的に宇宙意識を得たとしてもある意味失敗だったのかなという気が致しますけど、それは個人的な個別のお話ですので、好きにすればいいと思います。長期的に見ればなんだって大差ないですけど、大差ないなら怒りなんてない方がいいと思いますけど。私なんかが思うには日常生活を平穏で過ごすことができないのならば宇宙意識なんて意識が広がるばかりで邪魔でしかなくて意識を乱すだけのものであると思います。伝統的なやり方で悟りの状態に至った場合は意識の平穏を先に達成しますから、意識の平穏を保ったまま宇宙意識と繋がって平穏な意識を保ちますけど、感情を抑えるやり方で宇宙意識と繋がると意識の平穏が不安定ですから感情に左右されて宇宙意識の方からのフィードバックによって感情が爆発してしまうことも多々あるように思います。これは、宇宙意識への意識の拡張が必ずしも幸せに繋がらなかったという悲しい例ですね。悟りを目指す人はそうであってはならないと個人的には思いますけど歴史的には伝統的流派であってもそのように悟ったけれども荒っぽい人はいて、それはそれで一定数の割合でそのような人は出てくるものとは思います。まあ、そういう人は揺り戻しがあって、来世には平凡な人生を送ってからまた悟るということになるのでしょうけど。悟って平穏でいられる人は来世でも悟ったまま生まれて来れたりします。

私は小学校の頃に幽体離脱して宇宙意識を知って多次元の時空を超えた視点を得て過去も未来も見れてパラレルワールドも俯瞰して未来も自分で設計し直したりしましたけど、その後、肉体に戻った時の認識はあくまでも人間でしたからね。理解と経験の感覚は残りましたけどね、それがそのまま日常の生活の意識とリンクしているかというと日によってシンクロ率が高かったり低かったり、いろいろでした。宇宙意識のことを話しても誰も理解しませんでしたし、周囲は私のことをニューエイジか何かかと理解したみたいでしたけど、私は一応は説明としてニューエイジの言葉を使いはしましたけど根底にあるものはニューエイジとは関係なくて幽体離脱の時に得た知見でしたので、どちらにせよ話は通じませんでしたね。当時から時空を超えた宇宙意識を知ってはいましたけど、今から思えば、最近で達成した伝統的な悟りへの道でのある程度の達成と、一時的に宇宙意識を知って時空を超えて戻ってきた日常生活の状態では全く状態は異なると断言できます。一時的な幽体離脱で宇宙意識を知ることなら手助けさえあれば割と誰でもできますし、私も大学生の頃に知人の女の子の幽体を引っ張り上げていろいろ見せたことありましたけどその子自身は「わかっていない」子でしたけどね。手助けがあれば見聞きすることはできます。瞑想で一時的な宇宙意識も得られますけど、それもまた日常生活での宇宙意識とは異なりますから、一時的に宇宙意識を知ったところであまり得意気にならないことですね。 まあ、そうは言っても、それは本人の自由ですから、好きにすればいいと思います。私はそう思うというだけです。自由にすればいいと思います。これはただの個人的な感想です。

ゴールが私の場合は先に示されたようなもので、幽体離脱した時の宇宙意識、時空を超えた意識がまずあって、ゴールが明らかで知ってはいますがそれがそのまま自分の悟りではないわけで。知っただけの状態でも以前とは変化していますけど、それでもあくまでも自分はただの肉体を持った普通の人間でしかないわけです。そのただの人間の状態から、宇宙意識を日常生活を送る中でも繋がったままでいられるようになるために修行があるわけです。記憶の中にある宇宙意識の感覚と自分の現在の意識との乖離があるわけですね。

ですから、宇宙意識を知っただけで自分は悟りを得たかのように思うのはとても愚かなことで、それは垣間見ただけで、それだけでも十分素晴らしいことではありますけど、日常生活での意識がそこまでではなかったり惨めなものであるならば悟ってはいないのですよね。

宇宙意識と一時的にでも繋がって時空を超えられれば人生も思い通りにできますので金銭的にも自由にすることもできますし逆に金銭的に追い込んで厳しい状況で修行することもできます。人生を自由にできたからと言って、貴方が悟っているとは限らないわけです。どちらにせよ、そのように宇宙意識と繋がってしまうと最初は色々と勘違いが生まれてしまいますので「自分は幽体離脱したことがあるし真実を知っています」と言って修行しなくなってしまったりします。これまた愚かなことです。

一時的に宇宙意識に繋がって時空を超えた真実を知ったとしても日常生活で宇宙意識と常に繋がるためには長い修行が必要になるのが普通なわけで。素質のある人でも数年は必要で、普通は10年とか数十年なんてのはざらです。

そのことを指摘しても、「私は知っているから」と言って聞く耳を持たない場合もあるわけです。ですけど、それは違うのですよね。

一時的に宇宙意識を知っただけで自分は皆と違っていると思うなんてのは、まあ、それは割とスピリチュアルの罠ですよね。知っているのはそうなのでしょうけど、別にそんなに特別に感じる必要はないわけですけど、最初は特別に感じてしまうものなのですよね。そんなもんだと思います。おそらくは誰しもが一度は通る道です。そこで立ち止まらずに修行を続ける必要があるわけですけど、そこに気が付いているかどうかは知りませんけど、たぶんそのくらいの人ならそのうち気がつくとは思いますけど。

インドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲンヴァラナンダは若い時にヒマラヤ聖者と出会って真理を知り、それを体得するために長い年月を費やしました。修行というものはそういうものだと思います。最初に真理を知ったところでそれを体得しなければ何にもならないわけです。真理を知ったところで、それを体得するのとは別物なわけで。

私は小学校の頃に幽体離脱して時空を超えて真理を知り、それを持ち帰ったものの、そのままの状態では悟った状態ではなかったのです。知ってはいるけれども体得していない状態だったわけです。それは幽体離脱とか瞑想とかで体得したものにも当てはまります。一時的な悟りの境地が得られることはそれはそれで素晴らしいことでありますけど、その一時的な悟りの状態を日常生活と共存させるには一般的には修行が必要なわけですよ。

確かに、私も幽体離脱してしばらくは自分が真理を知っているから皆とは違うと思い込んでいて、ちょっとした高飛車状態になっていましたね。まあ、小学校とか子供ですしね。そんな一時的な悟りは確かに素晴らしいお話ではありますけど、日常生活と悟りが共存しなければ何にもならず、むしろ、真理を知った意識と顕在意識とが乖離し始めて精神的にきつい状態になってしまいます。物欲だけに生きることもできず真理に生きることもできない。まあ、私の場合は理由はそれだけではありませんでしたけど。

幽体離脱した後も、その経験は本物だとしても、その当時は悟りの意識を体得した状態になっておらず、自分自身とその悟りの意識とが乖離していたたわけです。幽体離脱をして時空を超えた真理を知ったところで基本的なところでまだまだスピリチュアル初心者だったわけです。心が、真理を知っている部分と顕在意識の葛藤の部分とで分離して対立していたわけです。その真理の意識と日常生活の顕在意識とを融合するには修行が必要だったわけです。

他の人にも同じことがあてはまるかどうかは分かりませんし、他人は自分の好きに生きればいいですけど、私の場合はこうでした。



幽体離脱で時空を超えられるかどうか

超えられますけど、必ずしも超えられるわけではないようです。

・空間に対してだけ自由になり、現在という時間に囚われている場合。
・時間軸に対しても自由になるがパラレルワールドまではわからない場合
・パラレルワールドまでも含めて時空を超えられる場合

これは、意識のレベルによってどの範囲まで把握できるか、ということが違うように思います。

未熟な魂の場合は空間にだけ自由な幽体離脱になるように思います。
少し熟練してくると過去も未来もわかる、というか、移動できるようになってきます。幽体そのものが時間軸に妨げられることなしに移動できるようになります。

その後、更に慣れてくるとパラレルワールドまでも含めて時空を超えられるようになります。

どれも、ちょっとしたコツで可能です。

私が小学校の頃に幽体離脱をがっつり1週間くらいした時はそれなりに熟達して、その時は、自分自身の人生に対して操作が可能でした。

もっと熟達すれば他人の人生も変えられるのかもしれないですけど、そこはよく分からないですね。あくまでも自分の人生はその人本人が負っているわけですから、そう簡単に他人の操作は受け付けないと思いますけど。他人の周囲の環境の操作という意味でしたらいろいろ可能ですけど、そんなことしてもあまり意味がないような気がしますし。

そんなことをして欲望を叶えたとしても所詮はその程度で、向こうからも再度タイムラインをいじってきますので欲望が叶えられる世界がキャンセルされたりもします。

まあ、なるようにしかならないですよ。操作することより、もっと悟ることを学ぶべきですね。個人的にはそう思います。

もし操作をしたら、操作をし返されます。まあ、そんなもんです。普通の人間の人生とそうは変わらないですよ。

生きている人間の悟る生き方の延長線上に幽体離脱もあって、タイムラインも同様です。

欲望に基づく操作をすればそれなりに苦しむことになるというのは神秘のなせる技で、普通に生きている人間が苦しむのと変わりがないです。やったらやられる、みたいなのも同じですし。

一方で、悟りを目指した生き方を目指すのであればタイムラインもそのように意図されます。影響できる範囲が違うというだけで、幽体離脱した状態も肉体を持った状態も、基本はそんなに変わらないと思います。

誰しもが幽体離脱が可能で、幽体離脱できたからと言って偉いとかそういうこともありませんし。他人の手助けがあれば修行していなくても可能ですしね。幽体離脱して一時的に悟りのような超越意識を得たとしてもそれが日常生活で続かない限りその程度の一瞥でしかないのであまりいい気にならないことですね。特に他人に助けてもらって知った場合なんかは勘違いしないことです。



一瞥を最終的な悟りだと勘違いしないこと

昔からこの種の人たちはいて、新興宗教を立ち上げたりスピリチュアル・リーダーを名乗ったり悟りを得たとか覚醒したとか言っている人の中で割とこういう人が混じっています。全部とは言いませんけどね。それぞれです。ですけど、こういう人は一定の割合は必ず混じっているように思います。

先日、他者の手助けでも幽体離脱できて真理・悟りを垣間見ることができるというお話をしましたけど、そのように全く修行していなくて「勘違い」していて「斜め上」を向いている人であっても他者の助けがあれば一時的な覚醒・悟りの状態を体験できるのですよね。ですけど、それはあくまでも一瞥であって、それをもって最終的な悟りだと勘違いしない方がよいです。

実際は、その一瞥の悟りを自身の指針にしてその後の修行に励むようにとの恵みを頂いたようなもので、その後の人生で同様の悟りの状態ではなかったり惨めなものだったりするのであれば所詮はその悟りは一瞥でしかなかったということです。

まあ、こういう一瞥はいつにでもあって、瞑想中だったり幽体離脱だったり、一瞥の悟りはレベルはそれぞれ違うにせよ小さな悟りなんてしょっちゅうで大きな悟りだってたまにあります。ですけど、大きな悟りの最終状態が日常生活で24時間継続して続くようでなければ最終的に悟ったとは言わないのですよね。ある程度続くのであればそれは一応は悟りと呼んでも良い状態だとは思いますけど、その後も悟りが深まるように努力、というと語弊があるかもしれませんが、努力のようなものを続ける必要があるわけです。

一瞥しただけで悟りを得たと思って修行を辞めてしまったり他者に論じたりする人はとてつもなく多いです。ですから、そんな他人をいちいち気にしていても仕方がなくて、それ故に、色々言っている人がどのレベルにいるのか見極めが必要です。

言っている内容が本物であったとしても一瞥の内容を喋っているのかそれとも常に神意識と同一化していてそこから発しているのか、その違いはとてつもなく大きいです。

一般的には、このような一瞥は弟子がグル(霊的指導者)から与えられるインスピレーションによって起こることが多いような気が致します。

グルのお恵みによって弟子に悟りの状態を一時的に体験させるわけですね。その時は弟子ははっきりとその悟りがグルの恩恵によるものだとわかっていますので勘違いはしないのですが、最近のスピリチュアルですとセミナーや瞑想中に一時的な悟りを垣間見ただけで悟りを得たかのように勘違いしてしまう風潮がある程度はあるように思います。

見分け方は色々とありますが、「見るとお腹がジンジンと痛くなる」とか「いいこと言っている気もするのに何故か疲れる」ような人のことはすぐに離れたり見るのを止めます。マニプラ以下が優勢で情としての愛のレベルにいるのか、あるいは背後にいるのが妖魔系、あるいは稲荷系の可能性がありますね。いわゆるエネルギーヴァンパイアの類です。
それと、ヒステリー系スピリチュアルあるいは自己啓発系スピリチュアルも私は興味ないです。こちらは天狗系の可能性があります。

私が思う本物は、ただただ神を語ります。神のみを語り、神の恩寵と恵みがその言葉や態度の隅々からにじみ出てくるのが本物の覚者です。そうなってくると今のスピリチュアルのひと目を引くような風潮とはちょっと離れて、割と地味なものになりますけど、その本質は神の意識に溢れていて後光がさすような感覚を受けることもあります。

分かってしまえば割とすぐに見分けがつきますけど、まあ、最初はわかりにくいですよね。わからない内にそのように中途半端なグルのところに集うのも決して無駄ではなくて、それすらも学びであるので何も無駄なものはないのだとは思います。

勘違いして他者に教え始めてしまう一瞥の覚者にしてもそれは本人の学びで、教えるということを通じて自分が学んでいるわけです。それにしても特に問題があるわけではなく、そこに集うということは、同じレベルの人たちが先生と生徒という枠を超えてお互いに学び合っているわけです。

何も無駄はなくて、勘違いにしても全てが神の恩寵であるわけですね。ほんと、この世界は素晴らしいことだらけです。神の意識に満ち溢れています。



悟りの一瞥をしたいのか、あるいは永続的な悟りを得たいのかで修行方法は異なる

一瞥をしたいのならばいくらでも方法があります。簡単な方法であれば修行すらいらないです。

私はやったことありませんけど後遺症があってもいいのならば幻覚剤を使う方法も使えるかもしれませんし、魔女系の方法、スピリチュアルなトランス、あるいは先日書きましたように誰かに幽体離脱を手伝ってもらって時空を超えるという方法もありますね。全て「一瞥」です。一瞥でいいなら割と修行なんていりません。修行するにしても、魔女的あるいはテクニックを使う方法ですと自我(エゴ)が残っていても一瞥はできますから、ある程度のテクニックとラッキーさがあれば一瞥は可能です。

ゴールをどこに定めるかですよね。悟りが欲しいという目標があったとしても、一瞥の悟りを求めているのか、それとも永続的な日常的な生活における悟りを求めているのかで違いますよね。

瞑想中にだけ感じることのできる悟りは、たとえそれだけであったとしても素晴らしいことは確かです。幽体離脱で体感する悟りも、これまた素晴らしいことは確かです。それはそれで素晴らしいのですが、最終目標をどこに置きますか? というお話です。

最終ゴールが継続的な日常生活にまで行き届いた悟りの状態であるのならば、やはりそれは伝統的な方法に従うことになると思います。

一瞥であるのならばトランスだとか激しい瞑想だとかショックのある方法だとか・・・ いくらでも方法があります。一番簡単で修行が全くいらないのは、誰かに手伝ってもらって幽体離脱することですかね。

でも、戻ってきてからの顕在意識と幽体離脱で見聞きした内容のギャップに苦しむかもしれませんけどね。それは当人次第です。問題ないかもしれませんし。

どちらにせよ、一瞥は所詮は一瞥で、それでゴールにしたいならそれで構わないです。ただ、一瞥なんかが永続的な悟りだと勘違いしても幸せにはなれないと私なんかは思いますけどね。

一瞥がしたいなら瞑想なんてする必要がなくて、一時的に精神を落ち着けたり、トランスのように顕在意識を一時的に眠らせることで奥底の意識を浮かび上がらせたり・・・ 詳しくは言いませんけど、いくらでも方法があります。

どちらが自分のゴールなのか?

ゴールが継続的な日常生活にまで行き渡った本当の悟りであるなら、やっぱり基本は瞑想ですよね。雑念を減らして沈黙の状態である静寂の意識に入り、宇宙意識に到達する。

それしかないです。 と、私は思っています。

YouTubeとかブログを見ると悟りとか覚醒について色々と言っている人がいますけど、一瞥の悟りあるいは一瞥の覚醒を本物の悟りであるかのように説明している方がそれなりにいて、ミスリードだなぁ、とか思ったりもしますけど、そのように偽物を見極めることも修行の1つだと思いますし、まあ、好きにすればいいと思います。そういう一瞥の悟りを求めていらっしゃる方もおられると思いますしね。何をするのも個人の自由です。

昔から、一瞥の悟りを得た人は教祖になって、本当の悟りを得た人は教祖にはならない、と言われていますけど、それはある程度は当たっていると思いますね。最近は新興宗教の教祖様ではなくてYouTubeチャンネルの教祖様みたいな感じですけど、スタイルは違えども同じことです。

一瞥をしただけで「私は悟りを得ました!!」と言って修行を辞めてしまう方はとても多くいらっしゃいます。そこらのスピリチュアルな集会に顔を出せば「私は悟りを得ています」とか「私は覚醒しました」「宇宙意識を得ました」と言う人なんて割と普通にいます。それが一時的なものなのか継続的なものなのか、見極めが重要ですよね。グルがいれば「君の悟りは一時的なものに過ぎない」とか指摘してもらえますけど、一人でやっていると勘違いもありますよね。

スピリチュアルとか宗教をやっている人って、悩んでその道に入った人もそれなりにいますけど、ある一定の割合で、子供の頃に神秘的な体験で悟りを垣間見るとかもともと見えないものが見えたとか聞こえたとかいう基礎があって、その方面をもっと知りたいとか悟りを確かなものにしたいという目的があってその道の修行に入ったりするわけです。そのように、一瞥は所詮は一瞥でしかなくて、やがて一瞥で得た感覚が薄くなっていくとそれを求めて修行を始める人もそれなりにいるとは思います。子供の頃に幽体離脱したり臨死体験で真理を見たことがきっかけでスピリチュアルや宗教をやって悟りを求めている方はぼちぼちいらっしゃいますよね。一瞥は一瞥でしかなくても良いきっかけになるわけです。

スワミ・ヨーゲンヴァラナンダのように若い頃にヒマラヤ大師と出会って感化されて死ぬまで修行に励んだ、という方もいらっしゃいますし。

一瞥をしたことで本物を知って感化されて修行を始める人も大勢いらっしゃいますので一瞥であっても無駄ではないですしね。最初は一瞥を求めていても最終的な悟りを求めるようになるということも沢山あると思います。



世界宗教会議で「皆、違っているからこそ素晴らしい」と喝破したスワミがいた

どこで読んだお話か忘れてしまいましたけど、昔、たしか半世紀ほど前にインドからはるばるアメリカに渡って世界宗教会議に出席したスワミがいたそうです。

覚えている限りの話を書きますと、まずその世界宗教会議のテーマは普遍的な統一的な宗教、という感じで、今で言うところの「ワンネス」がテーマだったと思います。

各宗教の流派が統一的宗教のお話をして、拍手喝采、その会場では「ワンネス」が叫ばれ、各派の宗教者がダンスを踊りながら「みんな一緒、ワンネス素晴らしい」と楽しげにしていたそうです。

それに違和感を感じたスワミは、次のようなことを言いました。

「ワンネスとは、皆が同じようになることではない。皆が違っていて、それでもそのまま素晴らしいのだ。違っているからこそ世界は美しいのだ。そのように宗教が1つになって統合される必要は全くない」

・・・その発言に、会場は固まったそうです。

これは、ヴェーダの教えでもあると私は理解しています。

ヴェーダでは人間の本質はアートマンで、いわゆる魂のようなものですけど、そのアートマンの本質は実はブラフマンで、ブラフマンとはこの世に偏在していて、ブラフマンこそがワンネスの本質なわけです。

ですから、人間は個としてのアートマンだと思っているけれども実はブラフマンだ、というのがヴェーダの教えで、その意味するところは、何もしなくても最初からブラフマンであって、アートマンとしての個はそのまま残るわけですよね。アートマンはそれぞれ違っていてそれでよくて、それでもブラフマンとして同一なわけです。ですからヴェーダでは個人を均一化するようなことをしなくて、それ故に、宗教を統一するなんてことはしないのです。そんなことをしなくても最初から全ての人間、人間だけでなくこの世の全てがブラフマンなのですから、最初からワンネスなのです。

結局、その宗教会議の本当の目的はワンネスといいつつ実は特定の宗派の拡大を狙っていたのかな・・・ とも勘ぐってしまいます。

それはさておき、そもそもヴェーダでは個人の均一化を説いていなくて、人は違っていてそれで良い、という考えが基本にあるわけです。

ですから、ヴェーダは最近における誤解されたワンネスとは相反しており、ヴェーダ的な本質のワンネスがあるわけです。



世界が自分を動かしているような感覚になる

ヨーガの説明で3つの要素、見るもの・見られるもの・見る手段が一体になる、みたいなお話があります。これはサマーディ(三昧)の説明なのですが、今まではわかるようでいてわからなくて、ヴィパッサナー状態のことかな、と漠然と理解しておりました。

文字通り読むと行動の主体と客体が消え失せ、行為そのものになる、とも読むことができますが、最近の私の状態によってようやくこのことが直接的に理解できるようになって、今までは理解が足りていなかったことに気が付きました。

最近はここ1年ほどスローモーションで視界が見えるヴィパッサナー状態が基本にあって、その状態から落ちることもあればその状態のまま生活することもあるのですが、次第にそのようなヴィパッサナー状態(サマーディ状態)でいることが多くなってきました。そうなってくると、最初は視界だけのヴィパッサナーあるいはサマーディとも呼べる状態でしたが、最近は、表現するのが難しいのですが、もっと「ふわふわ」とした感じになってきました。

視界は見ようと思えばスローモーションで見えるのですが、特に視覚を強く働かせようと思うときだけそうなって、今は以前ほどスローモーションのような感覚がなく、その一方で、体の中の感覚とか、漠然と周囲を感じる見えない結界というか気配を感じるアンテナのようなものが広がってきた感じです。まだ感覚は薄いですけどね。

そのアンテナは距離が離れるほど感覚が薄くなってゆくのですが、そのように視界だけでなく感覚までも遠くまで広がるようになってくると、自分がここにいるという感覚が薄れて「ふわふわ」とした感覚になってくるのです。

これはもちろん日によって深さが違いますけど、歩いていたり自転車に乗っている時に距離感がなくなったりするので、ちょっと危ないと思うこともあります。視界に意識を合わせてスローモーションで見ればそれなりに危険は避けられるのですが、そもそも感覚がふわふわしてきているのでそのように視界に意識を合わせるよりも感覚で周囲を把握していた方がよっぽど楽です。そのためにちょっとふわふわした状態になって、距離感も薄れて、乗り物を運転するのがちょっと危ない感じになってきています。この感覚に慣れていないだけですかね。

その状態で生活していてふと気が付いたのが「私」という感覚がとても薄くなっていることです。ふわふわと浮いていて、体を動かしていて、行為もしているのですが、体を動かしているという実感があまりないのです。ふわふわしています。

まるで、宇宙あるいは世界が私を動かしていて、私が動いているというより宇宙が動いているように感じるのです。もちろん私というのは個人ですから動くのは私という人の体ですが、人の体が動いているというよりは宇宙としての個人が動いている感覚なのです。もちろん周囲が勝手に動くわけではなく動くのは私の体だけですけど、宇宙が動いているかのような感覚になっています。周囲にあるものと自分の区別もあまりなくて、たまたま自分だけが動いた、という感覚です。

そうなると、感覚としては「ふわふわ」していて、それでいて、「主体」がなくて「客体」もなくて「動かす手段」もない感じです。探そうと思ってもそれらのいずれも見つかりません。

最近になって、ひょっとしたらこの状態がヨーガでの3つの状態のことなのかな、と思うようになりました。

例えば何気なく自転車に買い物に行く時、宇宙が私を動かしているので「わたし」という主体は見つからなくて、宇宙が自転車や自分の体を動かしているので「私が動かしているもの」、という「客体」も存在しなくて、「自転車をこぐ」という「動かす手段」も存在しなくて、宇宙が自転車をこいでいる状態なわけです。別に自転車だけでなく普段の生活でも割とそんな感じです。

この説明はヨーガの説明とは異なるかもしれませんけど、ヨーガでよく見る3つのお話の説明としては私としてはしっくりきます。

まあ、わかってしまえばなんてことはないですね。

職人さんとかで物事に熟練すれば「宇宙が私を動かして作品を作っている」という境地にまで到達しますけど、そのように職人さんが言っているのは何もその仕事のことだけを言っているわけではなくて、日常生活においてもそのように宇宙が自分を動かしている境地にいる、と言っているのですよね。

であれば、ヨーガではこのように3つの境地という言葉で説明していますけどそれは日本人には回りくどくて、日本人にはもっとストレートに説明および理解が可能で、要は「神様が私を動かして作品を作っている」とか「私が無心でいたら神様が手助けしてくれていつの間にかスポーツに勝たせてくれた」みたいなお話の方がよっぽど理解がしやすいと思います。

それを世界というのか神様というのかは人それぞれですけど、自分を超えた存在が自分を動かしているようになって自分とか相手とか何かしている、というような感覚が消え失せた状態があるわけです。それをヨーガではサマーディとかヴィパッサナーとか呼んでいるのだと思いますね。

改めて、この3つの言葉の意味を調べてみました。ヨーガスートラ1章41番ですね。

(1-41) そのヴィリッティがこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の印象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著)

ここにあるように、まず自己とはSelfですのでアートマン、いわゆる魂のことですね。心はヨーガでいうマナス、そして外界の印象とはヨーガではヴィリッティと呼びます。これらの3つが同一になる、というのは、心(マナス)が純粋になって魂(アートマン)が外界の印象そのものを直接的に映し出すようになった状態であると言えます。

まさに、最近の状態がそのものであると言えます。



必ず成功する筈だったのに行動しなくて成功しなかった人のお話

インドでグルをしていた時のことです。

・・・夢や瞑想で見たお話ですので本当のことかどうかはわかりません。

当時、グルをしながら寺院で参拝に来る方の相談に乗っていたりしました。

未来を見れましたから、参拝者の相談に乗って願い事が叶うかどうか見てあげたりもしていました。

ある日、おばあさんがやってきて、詳しくは忘れてしまいましたが、とあることが叶ってほしくて、そうなるかどうか聞きにやってきたのでした。

未来を見てみると、かなり確実にそれは起こりそうでしたので、「大丈夫だ。その願いは叶う」と答えました。

おばあさんは喜んで帰ってゆきました。

後日、そのおばあさんが再度やってきて、あの願いは実現しなかった、と言うのです。

どういうことだろうかとその願いの実現について確認してみました。

すると、その願いの実現の雛形になるものはアストラルの形でまだ存在しており、やはり実現するのは確かなようでした。

どうしたものかと思って聞いてみると、おばあさんは、実現すると聞いたので何も行動しなくて家でその願いが叶うのを待っていたそうです。

私は言いました。確かに叶うのは確実だけれども、それは自分が行動しなければ叶わないことでしょう。行動しなくて待っていたら叶うことはないのはその願いの性質から言ってそうだったようだ。

どうやら、私がおばあさんを勘違いさせてしまったのか、あるいは、おばあさんが早とちりしたのか・・・ どちらにせよ、本来叶う筈だったことが叶わなくなってしまったのです。

こういうことは、占いでもよくあります。叶うはずが占いで叶いそうだと出たから油断して行動せずに叶わなかった、なんてのは割とよくある話です。

実際に動かないといけないのですよね。

占いや未来予知は、時に罪作りです。

その後、私は言葉にもっと気をつけるようになりました。行動しなくてはならない、と一言付け加えるようになりました。何もしないでも叶うわけではない、と注意するようになりました。

それと、確率的にも、少し低めに言うことにしました。未来予知は割と高精度でしたけど、実際に行動しなくなってしまったり努力を怠るようになってしまうといけないので曖昧に言うことにして、努力が必要と言うようにしました。そうすることで、本人を油断させないよう気遣ったわけです。



サハスララとムーラダーラの陰陽エネルギー

ムーラダーラを意識するとエネルギーがアジナまですぐに上がります。
サハスララを意識するとエネルギーが喉元を通って下半身にまで広がります。

それぞれのエネルギーは陰陽を意味していて多少異なった性質を持っているように思います。

どちらのエネルギーにしても雑念は洗い流されて平穏な状態になります。それは言い換えれば、エネルギーが満ちることによって平穏になる、あるいは、エネルギーが満ちることによってポジティブになる、とも言うことができるように思います。ポジティブというと語弊があるかもしれませんが、ポジティブシンキングのような空元気ではなくて、エネルギーが満ちることで自然にポジティブになる、ということです。ですのでポジティブというより、ただ単にエネルギーが満ちて平穏になる、と言った方が語弊が少ないかもしれません。

サハスララの天のエネルギーの質は基本的には白ですが、白は白でも、漆黒が白く光っているかのような輝く白です。とは言いましても、色で示すのならばやはり白だと思います。

一方で、地のエネルギー、ムーラダーラから来るエネルギーは基本的には黒ですが、黒とは言っても白と言えなくもない、白と言えば白っぽく見える、それでもやはり黒です。灰色かと言われると灰色そのものではなく、基本的には黒なんですけど、白にも見えなくもありません。

・・・言葉で言っても意味不明だと思います。まあ、基本的にはサハスララは白でムーラダーラは黒だということでいいと思います。

太極図で陰陽の混ざりあったものがありますけど、よく見ると単純な陰陽ではなくて丸く点が入っているのですよね。太極図の解釈は色々あるのでしょうけど、サハスララから白いエネルギーが体の前面を伝わって下降し、ムーラダーラの黒いエネルギーが背筋を通って上昇する、というのであればこの図は理にかなっているように思います。そんな感じのイメージが瞑想中に見えました。右図では太極図に合わせて一応は丸い点を真ん中に2つ入れましたけど、実際に見たというか感じたものに真ん中の2つの丸い点はないです。

これらのエネルギーのバランスを取るのは重要で、ムーラダーラばかり意識してしまうと天のエネルギーが不足してしまうように思います。まだサハスララはそれほど開いていない感じですので天のエネルギーが優勢になってしまうという心配は今のところないのですが、そういうこともあるのかもしれません。きっとこれらはバランスが重要なのだと思います。

どちらのエネルギーで満たされたとしても体は充実してポジティブで平穏になりますが、天のエネルギーが足りない時は不安定になりやすいように思います。

最近は割とムーラダーラを意識してエネルギーをアジナまで上昇させるという瞑想をしてきたわけですけれども、それだけですと天のエネルギーが不足しがちになってしまう気がしますので、状態を見つつ天のエネルギーも取り入れるのがいいと思っています。

順番としては以下ですね。

1.体にエネルギーが通る状態になっているかを確認する。テストとして、ムーラダーラを少し意識してエネルギーがすぐにアジナまで通れば正常。通らないようであれば詰まっているので調整する。例えばアジナあるいは後頭部に意識をしてタマスがヴィシュッダに吸い込まれるまで待つ。段階的に平穏な意識になるところまで瞑想を続ける。もし何かが取り付いていてエネルギーを吸い取っているのならば引き剥がしてから平穏な意識にする。必ずしもこの段階で完全な静寂の意識になる必要はなく、だいたい平穏になれば十分です。
2.タマスが溜まっている時はサハスララを意識して天のエネルギーを降ろす。
3.ムーラダーラを意識してエネルギーをアジナまで通す。

2と3は同様にエネルギーが高まって雑念が減る、あるいは雑念に影響されにくくなる効果がありますけど、雑念という観点からすると3番のムーラダーラのエネルギーの方が効果があるような気が致します。ただし、ムーラダーラが天のエネルギーで浄化されていない状態でムーラダーラのエネルギーを上げてしまうと不快感を感じてしまうことがありますので、まずサハスララのエネルギーを下半身まで通して十分浄化することが必要のように思います。

その後、必要に応じてサハスララからエネルギーを降ろし、下半身を十分に浄化させます。ムーラダーラのエネルギーはいわゆるクンダリーニで、生命力としてはかなり強いものがあると思います。しかしながらそのままですと浄化が足りませんのでまずサハスララからの天のエネルギーで浄化が必要なのだと思います。



天のエネルギーを掴んで体に取り入れる

少し前までは頭頂のサハスララを意識すると少し天のエネルギーが漏れて降りてくるような感じで、その天のエネルギーを喉を通して下半身にまで浸透させていました。その頃は、感覚があるのがだいたい頭頂くらいまでで、その上にはほとんど感覚がありませんでした。それでも、それなりに天のエネルギーが降りてきて体に取り入れることができていました。特に頭に入るエネルギーが優勢で、一部が下半身にまで浸透するという感じでした。

ここにきて、頭頂のサハスララからの天のエネルギーの入り自体はそこまでは変わらないものの頭頂よりもう少し上のあたりまで感覚が出てきて、天のエネルギーを意識的に体にもっと取り入れることができるようになりました。

具体的には、頭頂よりもう少し上、感覚的なものですけど50cmとか1mとか上にまで見えない手のようなものを伸ばして、その手のようなものを右回転、見上げた時に右回転になる感じでぐるぐると回してそこにある天のエネルギーを絡め取って、そうして掴んだエネルギーをぐいっと頭および体、下半身にまで一気に取り込みます。

手と言っても指はなくて、グーの手のような感じです。それでも意外に天のエネルギー、オーラと言ってもいいかもしれないですけど、それはしっかりと天から取り込むことができるようです。

これは、ちょっと段階としては異なるのですが、マニプラ優勢だった頃にマニプラにまでしか上がっていなかったエネルギーをアナハタに上げる時にぐるぐると回してぐいっと持ち上げた時に似ています。その時も右回転でしたけどそれは下を向いた時の右回転でしたので、体との方向で言うと今回とは逆回転になりますね。移動させる方向としては右回転に対して手前ですから、その点は同じであると言えます。

おそらくはマニプラ優勢だった頃にはマニプラとアナハタの間のエネルギーのルート(ナディ)がブロックされていて、いわゆるグランティというものですが、そのブロック(グランティ)を超えるために意識的に自分のオーラを回転させてそのブロック(グランティ)を通過させる必要があったのかな、と思っております。

今回も、サハスララのあたりでエネルギーが少しは通り始めてはいるのですがまだ十分に通るようになってはおらず、それ故に意識的に回転をして天のエネルギーを取り込む必要があるのだと解釈しております。

この、回転させてエネルギーを通す、というのは、同記事も出てきた成瀬雅春先生の書いた「クンダリーニ・ヨーガ」という書物をその前に読んでいてそこからヒントを得たわけです。同記事に書いてありますように最初は半分うとうとしていたら急に夢の中に成瀬先生が出てきて腰をぐるぐると回していたので体を動かして真似しようと思ったらその頃は骨折していて横たわっていたので思うように体が動かなくて、仕方がなくイメージで指を動かしたらそれだけでもオーラが動いた、というのが原初の体験です。先生の書物には腰を回転させると書いてあって、私は実際には腰は動かさなくてイメージというかエネルギー的なものを動かすだけでエネルギーが動きました。おそらくは腰を動かすのと同じようなことなのかなと勝手に私は解釈しております。マニプラの場合は腰のところですので実際に体が動かせますけど、今回の場合は頭頂のサハスララのもっと上ですのでそもそもそこには体はないですからね。近いところとして代わりに頭をぐるぐると回してもいいのかもしれないのですが、そこはよく分かりませんね。流派によっては頭というか体全体を回転させる流派もあったとは思いますけど、個人的には体を動かす必要はない感じです。

この「回転」はナディ(エネルギーのルート)にあるブロック、いわゆるグランティを超えるのに重要なように思います。

このグランティは書物によってその場所が微妙に異なっていて、代表的なものは3つあってブラフマグランティ(ムーラダーラチャクラに存在)、ヴィシュヌグランティ(アナハタチャクラに存在)、ルドラグランティ(アジナチャクラに存在)とあるのですが通説ではチャクラにあるというお話ですが書物によってその場所が微妙に異なっていて、私の経験した感覚と一致するところもあればそうでないところもあります。

代表的なグランティが3つということで実際のエネルギー・ブロックがもっとあるというのはヨーガを勉強すればそう教わりますし、実際そうなんだと思います。

最近は天のエネルギーも取り込んではいましたけど地のエネルギーの方が優勢になってしまうことも多く、バランスという意味で天のエネルギーが不足がちになっていました。

そこで、最近になって感覚が頭頂のもっと上のあたりまで伸びてきましたので回転させてエネルギーを取り込んでみたら割と簡単にエネルギーを取り込めた、というわけです。

思い返せばことあるごとに同様のことを試していた気もしますが、最近ほどうまくエネルギーが降りてくる感じではなく、当時は体の前後に散ってしまっていた感じでした。

まだこれからどうなるのかは分かりませんが、もしマニプラで起きたことと同様であるとするならばそのうちサハスララのエネルギー・ブロック(グランティ)が開放されて、特に回転させなくてもエネルギーが天から降りてくる状態になるのかな、と思っておりますが、どうでしょうかね。そこの部分はこれからの様子見です。



聖典を理解するだけでは悟ることができないと昔から聖者は言う

これは古くからの言い伝え。

聖典を読んだ後、実践してこそ初めて悟ることができる、と聖者たちは口々に言う。

とあるスワミは言いました。

悟り、が真の宗教であって、他のすべては準備にすぎない。説法を聞いたり、書物を読んだり、論理をたどったりするのは、単に基礎を準備しているにすぎない。それは宗教ではない。(中略)悟りの全領域は感覚の知覚のかなたにある。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」

ヨーガでは悟りには誰しもが到達できると言います。

ヨーガは一部の宗教のように「信じなさい」とか「信じれば救われる」などとは言いませんが、聖典および教師(グル)に対する信頼は必要だと言います。おそらくはそれらの宗教の中には信頼という意味で「信じる」という言葉を使っている流派もあるとは思いますが、そうであれば同じことです。

聖典やグルは理解および信頼するものであり悟りは体験して会得するものであるとヨーガは説くわけです。
古くから、悟りを得た聖者は同様のことを言っています。



アジナに集中してアナハタの扉を開く

少し前までは、後頭部に集中してタマスをヴィシュッダに吸い込ませるという瞑想をすることで静寂の境地になり、それを続けて静寂の境地の状態になっていました。

その状態では下半身が充実していて、胸のあたりもそれなりに充実していた状態でした。

同様の瞑想を続けるうちに胸のあたりまで充実した感じになり、頭が清浄な透明なオーラ、喉より下が充実した感じになりました。これは、頭が天のエネルギーで満たされて喉より下が地のエネルギー、いわゆるクンダリーニで満たされた状態なのかなと解釈しております。

更に瞑想を続けたら喉より下にオーラが降りなくなり、クンダリーニが頭の下半分まで充実するようになりました。

この状態ですと、それなりに静寂の境地になるのですがちょっと不安定で、おそらくは地のエネルギーが優勢になりすぎていて不安定になっているのかと思われましたので天のエネルギーを掴むようにして降ろすという瞑想をすることで地のエネルギーであるクンダリーニと天のエネルギーとのバランスを取るようにしておりました。

そうこうしているうちに、クンダリーニがアジナのあたりまで充実するようになり、最初は不安定だったりもしましたが同様に天のエネルギーを降ろすことでバランスを取っておりました。

そのようにアジナへの集中を続けて、その際には会陰も度々意識してクンダリーニをアジナに上げるということをしておりました。そうしてアジナにオーラを集め、そこを全身の力で前方向に「押す」ようにして圧迫感を感じておりました。そうすることで安定するような気がしていたのです。

すると、特に感覚はなかったのですが瞑想中にふと気がつくとちょっとだけ緊張が取れて安定するようになりました。天のエネルギーとのバランスが取れたのかもしれません。アジナのあたりの圧迫感がかなりなくなっていました。

更にそのような瞑想を何回か続けていると、特に意図はしていなかったのですが、胸のあたりのアナハタで「パチン」という小さな感覚が一瞬した後、胸のあたりの緊張がそれなりに更に解けてリラックスが深まり、胸のあたりがスースー風通しの良い感じになりました。

もの凄く風通しが良いという感じでもなく、なんとなく開いているという感じですが、それでも割と以前よりも何かが通っている感じです。

以前にも何回かはこのような感覚があったように思いますが、今回はよりはっきりと感じられています。段階的にアナハタが開いているのでしょうかね。

アジナに集中していましたので特にアナハタは意識しておりませんでしたが、このようなこともあるのですね。

この状態ですとアジナが地のエネルギーであるクンダリーニで充実していても不安定にならず、静寂の境地という感じよりは静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が動いている感じではありますけど、それでも安定しています。

イギリス時代にスパルタ教育した記憶に基づきますと、こうしてアジナにオーラを充満させて強力に集中することが重要だったように思います。その時の教育は具体的な細かいことは忘れてしまいましたけど、まあ、基本はこうしてオーラを充足させることだったかと思います。

そして、そのまま瞑想を続けるとアジナが充実したまま静寂の境地に達します。

主に2つの静寂の境地をここまで経験しました。

・ヴィシュッダより下が地のエネルギーであるクンダリーニで満たされ、頭が天のエネルギーの透明な光で満たされた時に起こった静寂の境地
・アジナまで地のエネルギーであるクンダリーニで満たされたまま充実して起こった静寂の境地

今は、ヴィシュッダでオーラの質が分かれていた頃の静寂の境地とはまた少し異なる状態ではありますが意識の静寂という観点から言えばどちらも静寂の境地のように思います。静寂の境地はオーラがとても安定した状態と言えるのかもしれません。



「手放し」が心を浄化する方向であればそれは正しい

聖典であるヨーガスートラでは、心を浄化することで魂(プルシャ)が対象をありのまま写すようになる、と言います。
スピリチュアルでは何やら色々な手放しがあるようですけど、そのように心を浄化することを「手放し」と言っているのであればそれは正しいです。
同様に、キリスト教とかで「キリストに許しをこう」ことが心を浄化する方向であればそれは正しいです。

ヨーガ的には集中して瞑想をして心を浄化するわけですけれど、流派によってやり方が違うわけです。

この種の浄化は1回で完成するものではなく、何年もしないといけなかったり、人によっては数十年かかったりします。まあ、割と普通の生活を送っている人であれば数十年かかっても達成せずに亡くなったりもしますし、世俗を離れればもっと早いかもしれません。どちらにせよ時間がかかるわけです。

どちらの方法にしても、十分に心が浄化されて魂が対象をありのままに鏡のように映し出す状態になるのが重要なわけで。

そのための手法や言い方には流派それぞれのものがありますけど、ゴールは割とここで同一であるように思います。心の浄化と魂、あるいは流派によっては心が映し出す、なんて言ったりもしますけど、魂あるいは心が対象をありのままに鏡のように映し出す清浄な状態が目的なわけです。

ヨーガだとそれをサマーディと呼んだりしますし、キリスト教の流派によっては「キリスト意識」とか言ったりするかもしれませんし、スピリチュアルでは覚醒とかあるいは「手放された状態」とか言ったりするかもしれません。言い方は色々ですよね。あとは「委ねる」みたいな表現もありますかね。

「手放し」にしても「祈り」にしても「集中瞑想」にしても「委ねる」にしても、中途半端では結果は出ませんよね。目的地を明確にしてしばらく続ければ結果として浄化が達成され、魂あるいは心が鏡のように対象をありのままに映し出すようになるわけです。

どちらにせよ、やり方は違えども、言い方がちょっと違うだけでゴールは割と似通っているわけですね。



第四禅定を達成しつつあるのかもしれない

最近、油井真砂さんという方を知って「信心と座禅」を読んでいますが、そこに今まで謎だった禅定およびその後の状態が事細かに書かれています。それと見比べると、どうやら私の最近の状態はちょうど第四禅定を達成したくらいにいるようです。まあ、自分での判断でありますので師匠に言われたわけではありませんけど、内容的にとても一致します。

今まで張り詰めていた気持ちが苦もなく緩んで、急に如何にものんびりした気持ちになるのである。ここではじめて、空大の気が自分の上へ脈々と通って来ているということが識得されるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

しかし、注意が色々と書かれてあります。

だが、ここはまだ、楽になれたというだけの境地に過ぎない。(中略)動きの無いということが少しも苦にならないのだから、これはちょうど鏡のようなもので、物が映れば映ったまま、消えれば消えれば消えたままでそこに何の変相も起きないという姿なのである。ただぼんやりとした安楽さに浸りきっているという「無」になりきった姿なのである。だから、うかうかとしてもしこの安楽さにあらわしてしまえば、無為無欲の屍に墜して、生き甲斐なき無益の座を守るやうになるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

安楽さの中にずっとい続けてしまうお話は仏教にしろヨーガにせよ注意すべき事柄として挙げられていますね。確かに、静寂の境地にはそのような魔力もあるようにも思います。仏教を志す者であれば禅定の安楽にい続けてはいけないと厳しく咎めていますし、ヨーガにおいても、そういえばヴィヴェーカーナンダでしたかあるいはヨガナンダかどなたかがサマーディにい続けたいという気持ちが強くて師匠(グル)からサマーディにばかり安楽にい続けてはいけないと指導を受けていたような気が致します。そのような落とし穴はあると思いますし、それに対する注意も伝統的な宗派であれば同様のようです。単純なサマーディを達成しただけで終わりではないのですよね。その中に細かいお話があって、そのあたりが細かく書かれてある本を長らく探しておりましたらこれを見つけることができました。

同書での説明は更に続きます。

何分まだ開発したばかりのものであるが故に、まだよく見、よく感じて、その在り方、動き方を因縁果の上から宇宙的に知り得るというだけに止まるのである。すなわち、純観察力としての活きを得ただけのことで、これ以上の妙融力(めうゆうりき)はまだ少しも出ていないのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

もう少しすると同書で言うところの「初地の菩薩境である四禪定」が達成されるとのことです。であれば、どうやら私の状況としてはどうやら第四禅定を達成したかあるいはしつつある状態なのかなと推測できます。確かに私の状態は「純観察力」とも言えるものが出てきているだけの状態ですし。しかもその範囲は自分の周囲のとても狭い範囲に限られていてとても宇宙的と言える代物ではありません。ですが、他の記述についてはかなり当てはまります。

妙融力というのは具体的にはよく分かりませんが、まあ、今のところ細かくは知る必要ないかな、という感覚です。

この方は禅宗で、「無」とか「有」とかの単語の使い方がとても興味深いですね。私の今まで思っていた定義とは異なる部分もあり、とても参考になります。

この方は病気になって結核で死にかけてから奇跡的に助かり、それ以降、不思議な力が現れるようになったとのことです。水の上を歩いた、なんてお話もあります。割と最近の人のようですね。

割と最近の時代の人がこうして細かく階梯を残しておいてくれたのはとても貴重で有り難いです。



禅的に解釈する最近の静寂の境地

先日に続いて油井真砂さんの著書を読んでいきます。禅宗の視点がとても興味深いです。

第四禅の境地というものでは(中略)その慧眼に映った涅槃境というものもも、僅かに影を映したに過ぎない幻相であるということになるのである。(中略)無想定というのは(中略)無為恒常の無念無想境が開顕(かいけん)して来るのだが、そこを直ちに涅槃境と心得て何時までも枯木死灰のような無為の座を守って非色非心の法を修するようになる外道定である。「信心と座禅(油井真砂著)」

とのことですので、禅でもきつく戒められているのは周囲のことだと思います。多少ながらスピリチュアルや禅あるいは仏教を学んだ人であれば日本であれば割と初心者であっても禅のこれらの教訓は話くらいは聞いたことがあるように思います。

ただ、同書によればこれは必ず通る道だと言います。そういえばテーラワーダ仏教でも似たようなことが書かれてありましたね。

尤も、この定は、佛教の内道修行をしている者の上へも、色界から無色界へ転ずる時の一時的な必然現象として現れる中間定になっているから、この点で、4空定後の無色界から法界へと転ずる時の滅尽定(めつじんじょう)と並べられて二無心定と呼ばれる難定になっているのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

同書では、この段階の注意として「仏にあったら仏を切れ」のような、とてつもなく有名なお話が載っています。それがこの段階のようです。

私に照らし合わせてみると最初の静寂の境地が涅槃っぽく見えたりもしましたが実は涅槃というよりも第四禅定あるいは無想定だったのかもしれませんね。少なくとも禅宗ではそのように言う感じでしょうかね。私の場合はもしかしたら涅槃かと思っていた境地でいたのは一時的でしばらくしたら胸の奥から突き上げる感覚が出てきてその安住に眠らせないといわんばかりに揺れ動く状態へと導かれましたけど。そして最近、それを超えてまた違った涅槃っぽい境地に達するようになりましたが、これはこれで違う境地のように思います。

少なくとも最初のものは禅的には涅槃ではなくて第四禅定あるいは無想定だったのであればそれも納得です。
最近の別バージョンもきっと同じようなものですかね。ただ、そこにも書いたように体の状態は異なりますけど。

私は、もしかしたら涅槃は一時的なもので悟りがその先かと思っていたのですが、禅宗の涅槃はもっと悟りに近いもののようですね。私はもう涅槃は終了かとも思っていましたけど、禅的に言うとまだ涅槃は達成していなくて本当の涅槃はまだまだ先のようです。

禅宗の言うところの涅槃はもっと永続的で確実な宇宙意識との繋がりがあるようです。私が体験したのは単に平穏の静寂の境地の極限、という感じでしたので、私も禅宗の用語に合わせた方がいいのかもしれません。

同書には、この無想定は涅槃と勘違いしやすい、という趣旨のことも書かれてありますね。涅槃と勘違いしてしまってそこに安住してしまう人がいるとのこと。

とは言いましても、私はそれにずっと浸ると言えるほどに熟練していたわけではなく、瞑想の終わりに度々、静寂の境地が極まった際に涅槃っぽい感覚になった、というお話ですし、それが禅宗的には涅槃でなくて第四禅定あるいは無想定だったとしても無想定に浸るとか無想定を超えるとかそんな大それた話にはまだなっていなくて、ようやく安定して度々、第四禅定あるいは無想定にまで達することができるようになったというくらいです。

上にありますように、これはきっと必ず通るところなのでしょうね。

無想定という名前にあるように何も思わない定(静慮、瞑想)の状態のようですけど、私は必ずしも想念がゼロになっていたわけではなくて、最初に静寂の境地に到達する瞬間には雑念が急速になくなっていきましたけど、その後は薄い感覚で多少の想念は存在していました。ですので名前の通りに想念が全くない定というわけではないので、私の状態とはちょっと違うかもしれません。ただ、その状態で何かの想念が起伏してもそれにはほとんど影響されません。完全に想念がなくなるわけではないですから、無想定とは違うのかもしれませんけど、ほとんど影響されなくなるという点と雑念が極端に減るという点では無想定と言えるかもしれません。

まあ、そのようにわかりにくいからこそ、せっかくここまで来たのに落とし穴に落ちる人がいるのかもしれないですね。

言い方は色々あるとは思いますけど、要は、無念無想の状態で眠り込むかのように安楽な瞑想をしてはいけない、ということですよね。

安楽な状態ではありますけど、そこはゴールではない、というのは感覚としてわかっていました。しかしながら何を次に行えばよいのかいまいち決め手がなくて、そんな時にこの本を入手したのでした。

ふと思ったのですが、無想定や滅尽定に眠り込まないために禅宗は半眼なのですかね??? そういえばチベットのゾクチェンも眼を開けた瞑想とかしていますね。もしかしたら、この無想定の段階を超えるには眼を開けた瞑想の方がいいのかもしれません。まだこれは仮説ですけどね。

ですけど、確かにそこを超えるのは眼を開けていた方がいいのかもしれませんけど、そこに至るには眼を閉じた方がしやすい気もするのですけど、どうでしょうかね。

最初に達成した涅槃っぽい静寂の境地が第四禅定で、そこから一時的に無想定に達してはいたけれども胸の奥から突き上げる感覚で次の段階に導かれた、と考えるのが自然かもしれません。



力が欲しいか? と何度も聞かれる

その度に、「力を統べる法が欲しい」と答えます。

イメージで、力を手に入れて英雄になれるであろう画像を何度も何度も瞑想中に見せられます。具体的な未来世のような映像や、世間で言われている聖者たちが成した神にのみぞ為せるかのように思われる技。そして、はたまたアニメの魔法使いのような映像までも使って「力が欲しいか?」と何度も聞かれます。

ですが、冷めたものです。

私の中の平穏な意識は変わることなく、それを眺め続けています。

そして、聞かれる度に「力を統べる法が欲しい」と答えます。

そうすると、やがてその誘惑は去ってゆきます。

去っていったからといって、何も思いません。そのまま瞑想が続くだけです。

特にその回答をしたところで私に何か変化が起きるわけでもありません。法が欲しいと言ったからといってすぐに法という何某かが得られたわけでもありません。

ただの茶番のようです。

思えば、数年前くらいまではこのような映像に瞑想中は吸い込まれていたような気が致します。

今は、そんなの関係なく瞑想が続けられます。

ヨーガスートラでも言われているように、力に対する誘惑があったら退けなくてはならない、ということでしょう。禅でもこのような魔境の誘惑を突破しなくてはならない、と言われています。きっとそのようなことなのだと思います。

昔は力に対する欲望が強くて飲み込まれていたのかなと思いますが、今は茶番だとわかっていますので冷めたものです。かと言ってがっかりするわけでもなく、ただの映像として受け流すわけです。

かなり以前から同様の声で誘惑されていたと思いますが、時が経つにつれて冷めてきた感じです。何度も見るので割とスルー気味でしたけどぼちぼち見ていた気もします。割と最近にも同様のことがありました。それより以前も何度も誘惑されていましたし、数年前であれば割と飲み込まれていたように思います。

力への誘惑は魅力的でしたけど、今はもう茶番にしか思えません。



既に空無辺処に入っているのかもしれない

禅定(サマーディ)は色界と無色界に分かれていて、色界は第一から第四禅定、無色界には4つの定があります。

・空無辺処(くうむへんしょ)→これ
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

これらはテーラワーダ仏教などでも説明されていて、わかるようなわからないような説明を読んだ記憶があります。流派によってはこれらをほとんど重視していないところもあるようです。以前にも考察したことがあるのですが、わかるようなわからないような、不思議な感じでした。それがここにきて、どうやら今までの理解は異なっていたのかもしれないと油井真砂さんの著書「信心と座禅」で気付かされました。

同書によれば、4つの禅定は「有から無」へと転ずる段階で、これら4つの無色界は「無から空へ」と転ずる段階だというのです。そして、無色界の禅定は一応は「物の形を取らない」ということにはなってはいるが、最初の段階である空無辺処ではその力は弱いと言います。

実はまだ有・無・空の中の無の世界であるが故に、見えぬ力である心所が、有の世界の影をたたえて残存しているのである。即ち、ただ茫乎(ぼうこ、広々)とした世界ではあるが、何処かに残存する自己というものが微かに感じられる境地である。(中略)定力が澄むにつれて(中略)心所相のみがただひとつ微かな色相をとどめて気付かれぬ最後のものとして残るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

これが空無辺処の段階ということです。4つの禅定を超えて、無想定を通り越して、その次は色(形)がなくなるまで瞑想を続ける、ということですね。であれば、私は今ここの段階にいると言えるかもしれません。

第四禅定を達成した状態が最初に感じた(偽の)涅槃に似た安住な状態で無想定とも呼べる状態だとすれば、そこから更に進んで静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が出てきた時が空無辺処に入った時だったのかもしれません。

無想定に安住しないように禅やヨーガでは注意がなされていますが、私の場合は否応無しに深い意識が現れてきて、(安住したいと思ったとしても)「安住することを許さない」という感じの強制的な奥深い意識の現れだったような気が致しますね。もちろん今も続いています。



空無辺処を突破するには「手放し」が必要

スピリチュアルでよく言われている「手放し」ですが、この段階を突破するにはまさに「手放し」が必要のように思います。

空無辺処(くうむへんしょ)とは先日書きましたようにまだ色(形)がまだほのかに残っている状態です。その残った最後の色(形)を「手放す」のです。

それ以前の「手放し」は言葉だけのもので、大した意味を持たなかったような気が致します。
ここにきて、まさに「手放し」とも呼べる、そう呼ぶのが相応しい状態になりつつあります。

元々スピリチュアルで言われている「手放し」が私にはピンとはきていなくて、私は自分で実感したものしか受け入れませんのでこの「手放し」も「ふうん。そういうこともあるのかな」というくらいで傍観していたのですが、ここにきてそのことを理解しつつあります。

とは言いましても言葉が同じだけでスピリチュアルで言っていることとは異なるかもしれないですけどね。まあ、それはそれでもいいです。スピリチュアルでは言葉の定義が曖昧で人によって色々ですから。私は言葉通りに解釈すると「手放し」がしっくりくる、というだけのお話です。

この空無辺処はほのかな安寧の気持ちあるいは何がしかの安楽なイメージ・映像が次々にやってきて自分がまるで涅槃にいるかのような錯覚にもなるようです。安楽な感覚に安住すればそれは偽の涅槃に落ち込んで安住の境地で成長が止まるでしょうし、その一方で、完全に心を停止させて安楽な気持ちになりたいという誘惑に負けてしまうとサマーディあるいは定という観点から言えば無想定というただ深く眠っているかのような状態にも落ち込むことがあるでしょうし、仏教の心という観点からすればそれは魔境ということにもなるのでしょう。

それ以前でももちろん雑念はありましたし想像で何がしかの映像が見えることはしょっちゅうで、それももちろん魔境ではあったかと思います。ですが、この段階以前であれば「手放し」は機能しなかったように思います。手放しをしようとしても離れてゆかず、それよりは「集中」が雑念を追い払う鍵になっていたように思います。それまでは。

第四禅定を超えますと集中しているという感覚が失われて、ただ周囲が遠くまで見えて、少し霧がかかったような安寧の気持ちになります。それはおそらく第四禅定の最初の段階としてスローモーションの視界として認識され、やがては、体の感覚の細かな動きを感じられるようになりました。どちらも集中しているという感覚があまりなくて全般的に観察しているという感じです。最初こそ集中が多少は残っている観察でしたが次第に観察が優勢になったように思います。

そのように、集中が次第に止んでいって観察が優勢になってくると、最初の頃のようにカニカ・サマーディとしての瞬間の観察という感じが薄れ、少し柔らかな感じになってきます。これは最初は観察が弱くなってきたと思っていたのですが、どうやらそうではなく、もともと集中が優勢だったものが集中より観察が優勢になってきたのだと今は解釈しています。

そうして進んでゆくと、まるで涅槃かとも思えた状態になったのですが、どうやらそれは禅宗的には涅槃ではなく第四禅定の無想定だったようです。そして、第四禅定の終わりから空無辺処にかけては安寧の気持ちの上に様々な想像が映像・画像・実感としてやってきて、それが涅槃と思い込んでしまうとそこで修行が停滞してしまう、ということのようです。

その状態を突破する鍵が「手放し」なのかな、と思いました。

普通に心の力を入れて突破しようとするとサマーディが解除されてしまいますし、かと言って、なされるがままほおっておいてもそれはなくなってゆきません。まさにサマーディの観察する定の力を強めなくてはならないのです。そして、それと同時に起こることが「手放し」のような気が致します。

ここで言う手放しとは「何もしない」ということではなく、特に最初は「(全体的な意思を働かせて力強く)手放します!」と宣言、あるいは、その意思に対してエネルギーを注ぎ込むことかなと思うのです。そして、次第にサマーディの力が強くなって更に色界(形)の力が弱まるにつれ、その「手放し」も穏やかなものにしてゆけばいいと思うのです。

ここで、手放しているのに力を入れてどうするの? と思われる方がいらっしゃるかもしれませんけど、顕在意識の心は継続してサマーディの状態を保っていて、その奥にある深い意識にエネルギーを注ぎ込んでその幻想、これこそマーヤー(幻想)と呼ぶに相応しいのかもしれませんが、そのエネルギーを使って幻想を突破するわけです。ですので、意思を伴った手放しであるわけです。意思というと顕在意識の心のように思われてしまうかもしれませんけど、顕在意識は落ち着いたまま、奥深い意識を動かす、ということです。顕在意識が動いてしまって幻想(マーヤー)に付き合ってしまうと囚われの状態になってしまいますので顕在意識の心は静寂の気持ちを保ったまま、マーヤーを突破するよう深い意識を働かせるのです。

まあ、言葉で書くと大げさに見えてしまうかもしれませんけど、要は、そう意図するという程度のお話です。
まだ完全に幻想(マーヤー)を突破した感じではありませんけど、きっとそうなのかな、という小さな実感があります。

「手放し」というとエネルギーが不要のように思えるかもしれませんけど意外にエネルギーがいて、エネルギー補給しながらしないといけない感じです。

「手放し」と聞くと「行為」のように聞こえてしまいますけど語弊があって、「手放し」という「結果」だと思った方がいいかもしれませんね。手放しを「する」わけではないのです。意思の力を働かせて見極めようとすると、手放しという行為が「結果」として「起こる」のです。普通の意識からすればそう解釈・説明できますし、その一方で、奥深い意識という観点からすると「手放し、という行為」と言えなくもありません。まあ、混乱するので、とりあえず「行為ではなくて結果だ」と思っておいても差し支えないと思いますし、言い方を変えて「行為ではなくて、理解だ」と言ってもそう間違いでもありませんがいずれにしても語弊がありそうです。このどれも直接的には説明していなくて、そう見えなくもない、というお話です。

どちらにせよ手放しは起きて、それは結果でもあるし、奥深い意識によるエネルギーを伴った意思でもあるわけです。



2021年は人生の節目の年

私の願掛けとしては、人生を大きく変えるスタートの年にしたい、ということです。

今までの人生は今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つでしたが、8割以上それは達成して、もう後は自由にしても良いとお墨付きを頂いておりますし、新たな人生をスタートしてもいいかな、と思っております。

これから始まる半世紀近い人生の節目になる年になる気がしております。

今まで40数年が前半で、微細な印象(サムスカーラ)という意味合いにおけるカルマの解消と覚醒への階梯を確かめるということをしてきました。ある意味、ここまでは「個」としての目的を追求してきたわけです。個人的な課題の解消と個人的な理解を深めるために生きてきたと言えます。趣味にしても個人的な興味で自転車で旅をしたりバイクに乗ったり海外旅行をしたりしてきました。

これからの半世紀は後半で、「公」の人生になるのかなと思っております。
これは個としての希望というよりは、もう私の意識が変革してしまったので、そうせざるを得ない感じです。

その節目はつい先日に瞑想中に経験した、アナハタの奥底で「創造・破壊・維持」の3つの力を感じて身体に宿し初めた時を境に「個」から「公」に転換したように思います。その力には抗い難く、私の「個」というものは奥に追いやられています。であれば、これからは「公」のために生きるしかない、と漠然と感じております。具体的にどうこうというのはまだ形にはなっておりませんが、一応のアイデアは降りてきてはいます。ただ、あまりにも世間離れしている話ですので本当かな、という気もしておりますが、そのうち本当かわかるのでしょう。今から心配しても仕方がないことです。

そして、日本の国および可能な限りは世界をも良くしていく方向に持っていければと思います。

その、スタートとなる年として2021年を位置付けたいと思っております。

私は占星術のことは詳しくないですけど時期的にちょうど「風の時代」(2020年12月22日以降)とこの私の意識の転換がだいたい一致していますね。アナハタの奥で「創造・破壊・維持」の3つの力を感じて「公」へ意識が転換したのが2020年12月26日ですから、4日しか違いません。私は「風の時代」とかいう話題をほぼスルーしていて興味もほとんどなかったのに時期が重なるとは、面白い話です。意外に影響あるのかもしれないですね。たまたまかもしれませんけど、日付が近いのは確かですので影響があるのかは置いておいて時期として同じなのは確かです。



すみれ色の朝焼けのような境地

心が静かになり、自分だけが残っているような感覚になります。自分の体というより自分の心だけが残っている状態です。その周囲に時折雑念も浮かびますが、ふと気が付いて我に返ることで再度、心だけの状態に戻ります。

その、心だけの状態は澄み切っているといえば澄み切っているのですが、完全な白というよりは、すみれ色の朝焼けのような境地なわけです。

その境地が、瞑想の間、長く続きます。

時折、小さな雑念が浮かぶと、それをちょっと観察するくらいで済んで、やがて再度、すみれ色の朝焼けの境地へと戻ってゆきます。

更に時折、想像の中に吸い込まれることもありますが、ふと気が付いて我に返れば、再度、すみれ色の朝焼けの中へと戻ってゆきます。

そこは、心だけが残っている境地。

私の心だけが自分のハートにいて、特に胸のあたりが前方向に広がる感覚がします。

これは、実際にすみれ色が見えているという意味ではないです。心境的にそのように感じられるということです。

この状態でいつものようにムーラダーラを意識してエネルギーをアジナに上げるということもできますし、サハスララを意識して天のエネルギーを降ろすこともできます。

しかし、そのエネルギーとこのすみれ色の朝焼けのような境地とは、共存できるようです。

特にエネルギーが高まると境地が変わるとか、そういうことはないようで、すみれ色の境地のまま、そのようなエネルギーワークも行うことができます。

少し前までは、雑念を追い払うためにエネルギーを高める、ということはよくありましたし、エネルギーと共に雑念が変わることはよく経験しておりました。

この私の中心にある、いわゆる心の本性のようなものは、エネルギー的な動きとは切り離されているかのようです。

その周囲でエネルギーが高まっても、心の本性のようなものは変わらずそこにあり、そして、その境地はすみれ色の朝焼けの状態を保っているわけです。

更には、その心というものは、瞑想の中であらかじめ意思を示しておくことで次第に小さくできるように思います。何かを思えばその心が大きくなり、思わなければ心が小さくなる。それは、意思をあらかじめ示すことで心はコントロールすることができる。心があまり動いていなくてもよい境地、あるいは、心が小さくなっても心が動揺せずに静かにしている境地を表すのならば、それは、すみれ色の朝焼けのような境地と言えるのかなと思います。

おそらく、ここで心を小さくしていってついには心をなくすと一応は安楽の状態にはなりますがそれは仏教で厳しく諌められている滅心定(あるいは無想定)になってしまうのかなと思います。(これは理屈で言うと無想定の筈ですけど、直感が滅心定だと言うのでひとまず併記してあります。)そうして心を無くしてしまった場合、安楽な状態で数百年が過ぎ、そしてまた少し前の段階から修行をやり直さなくてはならないと言います。心は浄化して仏にまで昇華させるべきもので、無くしてしまうものではない、ということなのかなと思っております。確かに、この段階にはそのような勘違いをしてしまう落とし穴があるような気が致します。グルの手ほどき、あるいは、聖典による勉強がこのようなつまづきを防ぐことなるのかなと思います。これはとても微妙で、気をつけていないと気付かず間違ってそれが良しと思って心を無くしてしまうかもしれないですね。精神修行にはこのような落とし穴がいくつもあると思います。

ここ半年ほどの間で度々このような状態になることもあって、時には揺り戻しが起きてそれより低い状態に戻ったりもしていましたが、そろそろ安定してきたように思います。

私の場合、心をなくす方向に安住しそうになると現実世界で心を乱すことが起きて少し後戻りし、やりなおししつつこのことの本質を理解していったような感じです。おそらくはそれは自分のスピリットがそのように意図したのかなとは思います。それと合わせて、心の奥底から奥深い意識が出てきて安住を許さなかった、という面もあります。

最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」に基づきますと、これは空無辺処(くうむへんしょ)あるいは識無辺処(しきむへんしょ)と呼ぶ状態のようにも思います。

・空無辺処(くうむへんしょ)→これから
・識無辺処(しきむへんしょ)→これへ
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

まず、心だけが残された状態が空無辺処とのことです。

有相の影から離れきる。(中略)識心というものが1つ、微かな有相をたたえた依所(えしょ)として残されているのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

そして、次の段階である識無辺処については以下のように記されています。

胸にとどろきを伝えて、広々とした感じが全身に広がるのである。(中略)自己の上に宇宙の広大さが感じられるという境地、これが空無辺処定が完全に成ぜられたところであると同時に、識無辺処定が開けたところになるのである。(中略)一切の有形を操る無相の力が、形なき気の動きとして如実に観じられるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

今は、宇宙の広がりと一体にはまだなっていないですが確かに自分の体が宇宙と一体だと感じられているので、該当していると思います。
識無辺処に達して初めて気の動きがわかるようになる、ということなのかもしれません。

私の場合、もともと気の感覚はあるにはありましたけど、ここにきて更に一層、細かくわかるようになった気が致します。スーパーの食品での波動の感知の感覚がより細かく分かって、波動の悪い食べ物を避けるのが更に容易になりました。以前はちょっと迷ったり他のと混ざってわからないことも多かったですけど、今はかなり明確です。

識無辺処に達してようやくスピリチュアルが実践できるのかもしれません。



識無辺処の前兆が現れてきているのかもしれない

油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。

・空無辺処(くうむへんしょ)→ここから
・識無辺処(しきむへんしょ)→ここへ到達する前兆
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

先日の記述に加え、識無辺処から無所有処への遷移について次のような記述があります。

やがてその識心の上へ、生物創生の根本相である陰陽両気相克の順萬字相(卍)がこつ然と権限するのである。(中略)最後に残された1つの依所(えしょ)としての識心が(中略)とざされた識心が、瞬間ぱっと開破されるのである。これで、最後に残された依所(えしょ)としての識心が空(くう)じられたのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

萬字(卍)によく似た形相としての太極図っぽい感覚であれば少し前に感じてそれ以来は基本的にその状態を基本としておりますので、萬字が太極図と同じような意味合いで使われているのであれば、半分くらいはこれに該当するような気が致します。

そして、最後に残された心が「ぱっ」と開けるというお話は、胸のあたりのハートが開くというお話であれば私の最近のアナハタで「パチン」という小さな感覚が一瞬したことが該当しているかもしれません。開く前は少し苦しい不安定な感じになりましたので、同書の記述にもそのあたりの状態が描かれていて開く前の状態は「重々しい状態で閉ざされている」ということですので、私の状態とも一致します。

ですけど、それはまだ後半の記述のように完全に開けたという感じでではないので、おそらくは前兆なのかな、という気が致します。

補足しますと、アナハタはこれ以前にも小さく何度も変化が起きていましたので今回だけ特別というわけでもないです。

他の人の体験談を読むと、アナハタが開く時は「思いっきり胸が千切れた感じがして口から泡を吐いて気絶する」くらいの衝撃を受ける時もあるようですので、人によるのかもしれません。私の場合は今の所、そんなびっくりするようなことはなくて、何度かに分けて開いてきた感じです。

まあ、それとは別に、チャクラが開く時に特別な体験が必ず起こるわけではないというチベット仏教の教えもありますので、このような感覚に頼りすぎる必要はないのかもしれないですけど。

(識無辺処は)外へ繋がれていた心眼の実気(じっけ)が、ここで完全に捨離されると同時に、内的にも空じられるという実相顕現の境地である。「信心と座禅(油井真砂著)」

このことがすみれ色の朝焼けのような境地と言えるのかもしれませんけど、完全に空じられたとかそういう感じはなく、どこかしっくりきません。よって、識無辺処には入っているもののそれは卒業していなくて、それでいて、少し次の段階の識無辺処を垣間見ている、という感じのような気が致します。

識無辺処の前兆が各所に現れてきているのかもしれません。



自分の姿が周囲に見える瞑想

ここ最近、瞑想中に自分の姿を外から見たような映像が瞑想中に見えます。

以前から時々は見えていたように思いますが、最近は割と頻繁に見えている気が致します。

それは鏡が空中に浮いていてその面に自分が映っていたり、あるいは、複数のクリスタルが周囲にあってそれらの複数のクリスタルのそれぞれに自分の姿が映っていたりします。1つだけ見えることもあれば複数同時に見えることもあります。

自分の周囲が沢山のクリスタルあるいは沢山の鏡に覆われていて、時にその1つから見えたり、複数から見えたりしています。

これは2つの可能性があります。

・想像で自分をイメージしている場合。これは本尊やオーム文字を観想するようなものですね。
・自分の心が平穏になり、心が対象を映し出すことがなくなったが故に心が活動を停止して心が水面のように穏やかになったが故に心に自分の姿が反射して見えている。

これらは似ているように見えてもかなり別物です。

私の解釈としては今の状態は後者で、心の動きが止まってきたので写すべきものがなくなってきて自分の姿が見えているのかな、と思っております。

考え事や雑念、あるいは思考がある時は心はその対象と一体化した形を取っています。特に雑念もなく瞑想している状態では心はその形をとるべき対象がなく、近くにある私の姿がそのまま映し出されるのかな、と思っております。そのように鳴るためにはある程度の心の浄化が必要です。

これはヨーガの聖典あるいは神道の鏡でも動揺の意味合いが言われていたような気が致します。そのうち該当する記述を見つけたら引用したいと思いますが、そんな記述は色々と読んだ気が致します。

これは、幽体離脱で見ている感じとは全然違いますね。幽体離脱の時はしっかりと眼が働いていてその眼から直接見えますけど、今回の場合は、自分の瞑想中の見る目(いわゆるプルシャ)は自分が座っているところに留まったままで、その周囲の心の姿に映し出された自分自身を見ている感じでした。

まあ、それは大して意味がないと思いますし、基本的には無視していいものだと思いますから無視していたら割とすぐに力を失って消えてゆきました。そんなものだと思います。

これ、もっと明示的に意図を持って「壊す」ようにした方がいいのかもしれませんけど、ひとまず今は単に無視して消えるのを待っているだけです。



静寂の境地でようやくゾクチェンのシネーの境地

もっと前にシネーの境地に達していた気がしておりましたが、2020年9月頃に目を開けていても平穏な瞑想状態が続く境地になったことでようやくシネーの境地に達したと考えるのが自然のように思えてきました。

個人的にはそれ以前にも何段階か階梯があったように思いますが、今までの理解は一段階ズレていたのかもしれません。今までシネーの境地だと思っていたシャマタ(集中)の境地は、ここ最近になってようやく達成した境地と考える方が今思えば自然です。

(1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地
 対象を決め、あるいは対象なしで、意識と視線を固定し、寂静の境地に入っていく。この状態が自然になり、さらに確固としたものになる。
(2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察
 寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。思考の動きがあっても、内的な「見張り人」なしで、修行は進められるようになる。寂静の境地は、もはや努力して作り上げるものではなくなる。
(3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地
 シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。
(4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地
 あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。

「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

同書の別の章、あるいは他の本にはシネーの後に続くのはテクチューとトゥガルとなっていましたが、流派によって若干異なるようです。

私の場合、シネーの境地は集中して静寂の境地に至るという段階に相当するように思います。
ラントンは、静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が該当するかもしれません。

ニメの段階は、よく分かりませんね。最後のルンドゥップはまだな気がします。

シネーとテクチューとトゥガルという階梯ですとシネーとテクチューの区別がつきにくくて勘違いしてしまいがちな気が致します。一方、上記の階梯ですと静寂の境地は1つしかありませんから割とはっきりしていますね。

こちらの階梯の方が私の状態に近くてしっくりきます。

であるならば、シネーは私の経験した涅槃のようにも見えなくもない静寂の境地で、次のテクチューは比喩的に言えばすみれ色の朝焼けのような境地が該当しているのであればしっくりきます。

であれば、割と達成したばかりのこの境地を深めてゆくことが今は肝心ですね。おそらくは。



鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がる

少し前はこうはならなくて、ムーラダーラに意識を少し当てることでエネルギーを頭まで上げるというようなことをしていました。

ここにきて、そうしなくても単に鼻頭あるいは眉間に意識を合わせて息を吸うだけでエネルギーが体の各所を通って頭まで上がるようになりました。

頭、特に眉間へのエネルギーの集中がしやすくなったように思います。

体を通ってエネルギーが上がる際、静電気のようなものが体の各所に現れて背筋が伸びる感じになります。

姿勢がどこか良くなって、瞑想中の頭の角度も、それまではやや前のめり気味になっていたのが背筋から割とピンと頭の上までまっすぐ伸びるようになりました。

体、特にハートのあたりに静電気の感覚があったり、背筋の途中で小さなブロックがあるらしきところに軽い刺激があったりするのを感じます。とは言っても瞑想の妨げになるほどではありませんが。

そのように、わざわざムーラダーラを意識しなくてもエネルギーが上がるようになりましたので、ムーラダーラを意識していた頃は意識の集中を眉間あるいは後頭部などからムーラダーラに一旦移すことで一瞬ムーラダーラを意識してからまた眉間や後頭部などに意識を戻す、という感じでしたけど、それは割と手順が多くて、瞑想を続けていくと割と忘れがちになってその手順をスキップしていることに気が付いたらまた再開する、というような感じでした。

ですけど、ここにきて、そのようにわざわざしなくても鼻頭(あるいは眉間)を意識しながら呼吸をするだけで息を吸うタイミングでエネルギーが下方のだいたいムーラダーラのあたりから頭のあたりまでしっかりと上がります。

これは楽ちんですし、今までよりもずっとエネルギーが集まりやすくなったように思います。

オーラの状態を見ると、ムーラダーラからサハスララのあたりまで割と均一になった感じ致します。以前は割と分かれていて、ヴィシュッダで陰と陽が分かれていた頃もありましたし、その後はもっとグラデーションっぽくなってきました。

それが、ここにきてより一層、均一化されてきたように思います。

この状態になると、天のエネルギーと体のエネルギーとの差異がなくなってきて、わざわざ天のエネルギーを取り入れるということをしなくてもエネルギー的に既に天のエネルギーに近くなっていて、具体的には、天のエネルギーを取り入れなくてもバランスが既に取れているのでムーラダーラからエネルギーを上げた際にバランスを取るために天のエネルギーを取り入れる必要がそんなになくなってきています。既に天のエネルギーと地のエネルギーとが均一化されているような感じです。

瞑想してあぐらの姿勢を取った方がもちろんしやすいですけど取らなくても日常生活の中で鼻頭を意識するだけで割と瞑想状態に近づいてそれと共にエネルギーも眉間まで上がる感じですね。いい感じです。

まだ頭の上まで突き抜けた感じはそれほどないですけど、少なくとも、体がある部分に関しては上下のエネルギーがそれなりに繋がった感があります。

鼻頭を意識していると、ムーラダーラのあたりからエネルギーが現れて頭に集まります。その一部は発散して消えてゆきますが一部は眉間に残ります。そしてまた次の息を吸う時にムーラダーラのあたりからエネルギーが現れて頭に集まり、また一部は発散します。

それはまるで、砂浜で波が永遠に打ち寄せているかのようなものです。エネルギーが現れては消える、そのさまが、ありありと感じられると共に、それが単なる現象というだけではなく、自らの呼吸によってコントロールされているものであるということがはっきりとわかるのです。

日によって調子が悪いときがあって鼻頭を意識しながら呼吸してもいまいちエネルギーが上がらないのであればムーラダーラを意識してエネルギーを上げるということを少し繰り返してあげるとそのうちエネルギーの通りが良くなって呼吸しただけでエネルギーが循環する状態になるようです。あるいはプラナヤーマのクンバカも効果がある気が致します。

それと、食事もこのエネルギーの流れに影響している気がして、健康的な食事を摂るとエネルギーの流れがいいように思います。同様に水もですね。(浄水器を使った)水道水よりペットボトルの水、それも産地によって変わる気が致します。



鼻頭を意識するだけで雑念が消える

特に瞑想のあぐらの姿勢を取っていなくても、ことあるごとに眉間を意識するだけでエネルギーが上昇し、それによって雑念が取り払われてゆきます。それは特に雑念のことを意識せずともエネルギー的な作用として起こっているようです。

かと言って私自身の意思がなくなるわけでもなく、単に雑念だけがなくなりますので顕在意識の行動に何ら支障はありません。

これは、先日書いたことの別の面を言い表しているだけで、現象的には同じことです。

鼻頭を意識するだけでエネルギーが高まってムーラダーラのあたりから眉間にまでエネルギーが移動します。そのエネルギーの高まりというのは単にエネルギーだけではなくて、雑念も一緒に洗い流すようなのです。

おそらくは、体の各所に張り付いていた雑念のかけらのようなものがエネルギーの波が来ることで押し流されて綺麗になるのでしょう。

特にその雑念のことを意識する必要は全くなくて、エネルギー的に多少ながら押し流されるようなザラザラとした感覚があって雑念が崩壊してゆきます。それは雑念というよりは単なるエネルギーの塊で、先日他者から受け取ったエネルギーの塊がまだ残っていたり、あるいは、空間を超えて遠くから私のことを想像しているエネルギーだったりします。

どちらにせよエネルギーの欠片が私の周囲に張り付いていますので、エネルギーの波によって不要なものを洗い流すわけです。そうすると雑念があっという間に消えてゆきます。最初はちょっとしたエネルギー酔いのようなものがありますけど割とすぐに雑念は消えてゆきます。

このような、鼻頭に集中する手法は昔から聖典で様々に伸べられていたことです。

そして、この最近の鼻頭への集中の状態は、今まで行っていた鼻頭への集中とはかなり異なります。昔から聖典で言われていましたのでその手法を行っていましたが、どちらかというと後頭部への集中の方が今まではしっくりきていました。

今は、鼻頭への集中がまさにしっくりきます。今は後頭部への集中は不要で鼻頭こそが良い、という感覚に変わりました。

今までであっても鼻頭あるいは眉間への集中瞑想というのはそれなりに効果がありましたが、実のところ、どうして眉間あるいは鼻頭なのか今まで深く理解できておらず、今日と比べるとあまりしっくりきていなかったと言えます。それなりに理解はしていましたしそれなりに効果もあって一応の納得はしていたのですが、後頭部への集中でも同じ効果のような気がしますし後頭部の方が安定するので、どうして聖典ではわざわざ眉間あるいは鼻頭と指定しているのか、そこのところがちょっとよく分からなかったのです。

ですけど、この状態になってみるとまさに鼻頭こそが正解なのだなと感じます。

今まで後頭部に集中していたのはそれはそれで効果があったのかもしれませんし、ずっと眉間に集中していたらどうなっていたのかはわかりませんけど、少なくとも今は鼻頭が一番効果がありますね。今は鼻頭以外は考えられないです。鼻頭がダントツに一番エネルギーが高まりますし雑念に対しても効果があります。素晴らしいです。

これなら、瞑想と日常生活を分けなくても日常生活の中でそれなりの静寂を保てそうです。

これは、ヨーガスートラの最初に書かれてあるヨーガの定義に相当するように思います。

yogas chitta vritti nirodhah

これは、「ヨーガとはチッタ(感情や記憶に関する心)のゆらぎ(振動)を停止(殺滅)させる」という意味です。

これをそのまま読むと「心をなくしてしまって意味があるのだろうか」と解釈してしまうかもしれませんがそういうことではなく、チッタの動きを静止させるという状態そのものを意味しているわけです。再度ゆらぎが起こればチッタ(心)は動きますので、消し去ってしまうわけではありません。言い換えれば、チッタ(心)をうまく制御する、ということです。感情に流されたり記憶やトラウマに流される人生ではなくチッタ(心)は道具として管理していく、ということがヨーガの根幹になります。

そして、このように静止した状態は様々な方法で実現可能ですが、今回のようにエネルギーを高めることによっても可能だということだと思います。

それは、田植え前の、一見荒れ果てているかのように見える水田に水が引き入れられた瞬間に輝きを取り戻して静かな水面になることに似ています。細かな雑念があれやこれや現れていたとしても、エネルギーが高まることによってそれらの雑念は洗い流されてゆくわけです。エネルギーが足りていないからどこからか来た雑念やら何やらに翻弄されてしまうわけですね。

ただ、ここに来るまでにはステップがあって、基本は「集中」が必要だったわけですけれども、ここに来るとそこまでの集中は必要なくて、軽く意識を鼻頭に合わせるくらいでエネルギーが高まって雑念も瞬時に洗い流されていきます。

それが、おそらくはヨーガスートラに書かれてあるヨーガの定義の状態のことなのではないかなと思います。

ここで言うチッタは以下で構成されています。

心(チッタ,Citta)の構成要素
・ブッディ(Buddhi、覚、理性、認識、理論的な思考)
・アハンカーラ(エゴイズム、自我)
・マナス(Manas、意、感情、記憶)

ですので、これら全てが正常に動くためには雑念のような「ゆらぎ(ヴリッティ)」を鎮める必要があるわけです。これらが全くなくなってしまうわけではなく、ゆらぎを取る、というお話です。

雑念が消えた状態でも「意思」は変わらず働き続けることができます。明確な意思は動きつつ、雑念だけが消えるわけです。

その状態でも「見ている者」、いわゆるアートマン(真我)としての観察する意識は働き続けておりますが、それは上記のチッタとは別物で、チッタを眺めている存在としてのアートマン(真我)がいるわけです。アートマン(真我)は最初から変化しなくて、ただ、上記のチッタ(いわゆる心)のみが静まるのです。



深呼吸するだけでエネルギーが鼻頭から入ってリラックスする

昔から、深呼吸してリラックスしましょうということは様々なところで言われていて、それは多少はそういう面もありますけどリラックスというのは大げさだな・・・ とずっと思っておりました。

又、瞑想においても「呼吸を意識あるいは呼吸に集中するだけで意識が落ち着いていきます。雑念が減ります。」みたいなことがよく言われていますが、それは多少はそうだとはわかりますけど、意識が落ち着くとか雑念が減るとかいうのは大げさだなぁ・・・ これは単なるガイダンスなのかな、と漠然と解釈しておりました。

最近、鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるようになってきて、それにより、鼻頭を意識するだけで雑念が消えるようになりましたので、ここにきて、上記のような深呼吸によるリラックスとか呼吸を意識することでの瞑想への入り方がしっくりくるようになりました。

以前であっても時間をかければ少しずつ意識が落ち着いていって瞑想状態に近づくということはありましたので、確かに、効果がないわけではありませんでした。

しかしながら、今まではそれなりに時間がかかっていたわけですね。

ここにきて、たった1回の深呼吸あるいは瞑想中にただの1回だけ鼻頭に意識を合わせるだけでエネルギーが相当に眉間のあたりまで下半身から上がり、それにより、雑念がかなりの具合まで洗い流されてゆきます。

その結果、言い方としてはそれを「深呼吸によるリラックス」とも呼べますし、一方で、「鼻頭へ意識を合わせる」とも「鼻頭へ集中して瞑想」とも言うことができます。

これは瞑想の姿勢を取るに限らず常に起きて、ふとした時に日常生活中に雑念がやってきたら鼻頭に意識を軽く当てるだけですぐにエネルギーが眉間にまで上がって雑念を洗い流してゆき、結果として、リラックスが訪れます。

これは、集中と言うこともできますけど集中という言葉で想像するような極端な集中ではなく瞑想の用語として一応はこういうのも集中というという程度のもので、実際は軽く意識を合わせる程度のことです。その程度のことであっても瞑想のお話としては一応は集中と呼ぶのですよね。瞑想では集中と観察というお話があって、どちらですかといえば一応は集中の分類になるわけです。

そういうわけで、瞑想的に言えば集中ですけど普通の言葉を使えば意識を鼻頭に合わせるという程度のことで、それだけでエネルギーが眉間にまで上昇してそれにより雑念の現象とリラックスが起きるわけです。エネルギーが高まっていますのでもちろん活動的になり、普通に元気にもなります。

深呼吸するだけで雑念が減ってリラックスするというのは世間では誰しもがそうみたいな常識に一応はなっている気がしますけど、少なくとも私は昔はそれほどでもありませんでしたし、これは全員には当てはまらない気が致します。きっと、これはそのようにリラックスできる有名な人が最初に言い出してそれが定着してしまったのかなと思います。その人にとってはそれが当たり前だったのでしょうね。もし生まれながらにそうならば、そうではない人のことなんてわからないかもしれませんね。あるいは口下手なだけか、それとも、発言の一部だけが後世に残ってしまったのかも。どちらにせよ、そのような常識はそれがそのまま自分の起こる人と起こらない人がいるのだと思います。



あの世では周囲の環境は思いのままにできるというお話

死んだ後も基本的には生きているときと同じ姿、特に若い頃の姿を保って生き続けるわけですけれども、そのような魂というか幽体、平たく言えば幽霊さん、霊さん、のように意思を持った存在がまずいるわけです。

その一方で、その霊としての存在ではない存在、固定的なものもあるわけです。山であるとか家であるとか壁であるとかもろもろのものも霊界にはあります。

ですけど、それはこの世のように固定したものではなくて、人・・・ というか、意思を持った霊さんであればそのような周囲の環境はどうにでもできてしまうわけですよね。

例えば、私が昔やった時のお話。

私が死んだらあの世に帰って、今まで一緒に生きてきた過去生の人生での妻とか仲の良かった人が沢山集まっている場所があるわけですけど、その場所で、昔、こういうことがありました。

ある人生を終えて妻を連れてそこに行ったら、過去生の妻が沢山待っていて「おかえりなさい!!」と歓迎してくれたわけです。

ですけど、その最後の人生で妻をしていた魂は理解できなくて「え? え? え?」と、頭の中がグルグル回転しているわけです(苦笑)

魂というか、形は妻のままなので、まあ、平たく言えば妻があの世に行ったら、ということです。そんなに生きているときと変わりません。

もっと具体的に言うと、夫婦のうちで夫が先に死ぬか妻が先に死ぬかはそれぞれですけど女性が長生きする場合が多くて、夫が先に死んで仲の良い人がちが沢山いる場所に帰った後、少し時間が経った後に妻が死ぬわけです。

すると、妻はどこに行って良いのかわかりませんから、夫が迎えにいくわけですね。

・・・仲が悪かった夫婦の場合はどうなるか知りません。まあ、私の場合はこんな感じのことが多いです。

そして迎えに行って、「こっちだよ」と連れてきたら他の過去生の妻とかが沢山いるわけですから、頭が混乱します(苦笑)

・・・なんなのこれ??? って感じになるみたいです。

まあ、みんないい子たちですから割と仲良くやってくれるのですが、お互いに、ちょっと、どう接していいのかわからないこともあるようです。ちょっと戸惑い気味です。

そんな時、特に慣れずにいきなりそこに連れてこられた妻は混乱して、最初は特に夫(というか私ですけど)に泣きついて「えーん、えーん。私だけのあなた(私のこと)だと思っていたのに」みたいに甘えたり、あるいは、他の妻が親しく話そうとすると「いまは私の夫だから!」みたいに言ったりすることもあって、時折、特に人生が終わって帰ってきたばかりの頃はちょっとすれ違いが発生します。

ですけど、私の場合・・・・ 他の人はどうしてるか知りませんけど、私はあの世では1人を選ぶということはしなくて、みんな楽しく暮せばいいじゃない、と思っているのでそう説得するのですが、なかなか聞き分けが悪い子もいるわけです。

そして、なかなか理解せずにその新しい妻ばかりかまっていると、他の過去生の妻たちがどこか遠くから少し睨みつけるようになって、ちょっと怖くなったりします(苦笑)

こわーーー

と思いつつ、どうしようもないのでこの子を少しの間、外にお使いに出すことにしました。

実際のところそこは霊界なのですから遠くのところに行くにも一瞬で行けるのですけど、私の中でイメージを強く作り込んで、遠くの街まで歩きでお使いに行かなくてはならない・・・ そこに行くまでには山をいくつも超えて、何日もかかる。そのお使いをお願いしたい・・・ というストーリーを作って、その、困ったちゃんの最後の元妻の頭の中にイメージを送り込みました。

そうすると、その元妻は暗示にかかったようになってお使いに行かなくちゃ、みたいな気になって、他の元妻たちが「そうね! 遠くに行くのなら準備しなきゃね! これとかこれも持つといいわよ! 服とかもこれとかがいいんじゃない? 」みたいに、みんないい子ですからお世話をやいてくれたものでした。

もちろん、全ては暗示ではあるのですけど、あの世では暗示であってもいわば本当の出来事なのです。現実は思いが作り上げる、みたいなお話はあの世ではそのまんま本当に起こることです。

そして、その困ったちゃんの妻をみんなで壮大に送り出して、みんな家の外に出て「いってらっしゃいー!」の見送りをした後、私はようやく落ち着けて「ふう。やっと開放してくれたよ(苦笑)」と言って、そのさまをずっと眺めていた元妻たちと仲良く話し始めたのでした。

そして、どんちゃん騒ぎが何日も続きましたけど、その間も、困ったちゃんの元妻はずっと歩きでお使いに行っていたのでした。実際は一瞬でいけますし、実際のところお使いなんてのもなくてそれすらも暗示だったのですけど、あの世ですから、それも現実なのですよね。

そして、困ったちゃんの元妻が戻って、最初こそ困惑しましたけど、割と落ち着いてくれました。ふう。

そんなこともありました。

あとはね、元妻から時々アプローチがあって、今夜は貴方と一緒に寝たいわ・・・ みたいな積極的なお話がある時は、部屋とかベッドとかも一瞬でイメージしてそれが現れて、そこはプライベートルームになります。記憶とかは生きているものがだいたいはそのまま使われる気がしますね。

あとは、あの世でも料理や食事というものがあって、それもイメージすればすぐに出てきます。

味とかもしっかりあって、美味しいとか美味しくないとか、意外にはっきりとしていますね。

そんな感じであの世は好きにできるのですけど、それでも、人の魂というのは作り出せなくて、いい子というのは地上で見つけてくるしかない、という感じです。

会話する相手は見つけてこないといけないですけど、物であればいくらでも自由になるわけです。



雑念のあまりない状態で瞑想をしたり日常生活を送る

最近は、瞑想をするにしても日常生活を送るにしても雑念が減ってきています。

同様の表現で「雑念が減ってきた」ということは今までにも何度も段階的に変化してきていますが、この最近の状態は、それらとはまた違ったものです。言葉で言い表そうとすると似た表現になってしまいますが。

ここ最近は、意識的に意図を持って行動する際の意識は働きつつも雑念が減ってきています。

以前は割と、雑念が減ってきた時は意識的に雑念を抑えようという意図が働いていて、雑念を減らそうという意図と行動しようという意図とが共存できずに、意図としては1つだけで、雑念を抑えようという意図あるいは何かをはっきりと見ようという意図がある場合は雑念が減って、その時にヴィパッサナー状態になって例えば視界がスローモーションの映画のように見えたりしました。意図としての意思の状態によって雑念を抑えていた、とも言えますし、結果としてそうなっていた、とも言えます。どちらにせよ意図が必要だったわけですね。

最近は、瞑想をしたり日常生活を送る際に、意図としてはその時の瞑想だったり日常生活の目的があって意識もそれに向いているのですが、それとは別に、雑念を抑える別の力が働いているかのようです。

以前は、雑念というものを抑え込む力を発揮するために別の意図を使っていましたが、今は、特別に意図しなくても自動的に雑念を減らす作用が働いているようです。

これを、サマーディ的な言葉で表現するのであれば、以前は意図あるいは意識あるいは問いのあるサマーディ、いわゆるサヴィタルカ(問いのある)サマーディということになるかと思います。

最近は、この種の「問い」がなくなってきた感じです。完全になくなったというよりは移行期のような気も致しますが、次第に「問いのない」、いわゆるニルヴィタルカ・サマーディの方に近づいてきた感じも致します。

ヨーガスートラ
1-42) 音、意味、およびそこから生まれる知識が、まじりあって問いのあるサマーディ(とよばれる)。音はここでは、それをつたえる神経の流れである振動をさす。そして知識は、反応のことである。(中略)ことばと意味と知識のまじりあいから生まれる、主体と客体の二元性を保持している。
1-43) 問いのない、とよばれるサマーディは、記憶がきよめられたときに、すなわち(瞑想される対象の)意味だけがあらわれていて性質がまったくなくなったときに(くる)
「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」

スローモーションのヴィパッサナー状態と比較して理解すると、たとえば、ここで音となっているのは外界からの五感としての入力ですから視界の神経の信号に相当すると思います。その視界の神経の信号が脳に入ると意味が現れてきます。そしてやがて、その意味だけでなくそこに隠されているあるいは含意している知識が見えてきます。あるいは、知識が現れてくると言ってもいいと思います。

そのように、神経信号と単純な意味とそこに隠された知識(あるいは理解と言っても良い)という表層があるわけです。これらは、勉強のようにそうなっていると単純に暗記あるいは理解するものというよりは、実際に瞑想をして、そうなっていることを実感するという種類のものです。瞑想してこれらが正しいと確かめられた時にようやくこれらの内容が知識として身につくわけですね。

そうしてまずは、主体と客体が混じり合ったサマーディが来るということは、その段階は私のスローモーションのヴィパッサナー状態が相当しているように思います。その状態は、見る私と見ている対象という違いが存在していますから二元性を維持しています。

一方で、最近の状態はそのように特別に視界を意図しなくても自動的にそのようなヴィパッサナー状態が起こりますし、以前のように中心軸があるわけでもなく、以前の方がある意味激しさと焦点があってわかりやすいものでしたが、今は焦点が薄れてきていますので、一見すると以前より後退したかのような印象も最初は受けましたけど、その状態を続けていてわかったのは、きっとこれは二元性がなくなってきているのだな、と理解するようになりました。



意識が働き続けていてあまり眠れなくなる

瞑想による効果かなと思っております。ヨーガの世界でよく言われていることですが悟りに近づけば近づくほど眠りの時間は少なくなると言います。

このような体験談は色々なところで目にすることがあります。

マスターたちによれば、悟りにあると、大いなる意識がつねに鋭く冴えたままだという。通常は、眠ると思考のスイッチが切れ、意識がなくなる。ところが悟りにあると、決して意識がなくならない。それどころか、超意識的な状態が続くのだ。睡眠中に意識がなくならないということは、悟りの重要な兆しだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

私の場合、ずっと意識が続くというよりは以前より冴えて眠りにくくなったという感じですのでまだまだな感じではありますけど兆候はあります。

私の過去生というかグループソウルの記憶を辿りますとこのような状態だったこともぼちぼち記憶していて、例えばパリ郊外で暮らした霊能者としての人生の時は夜に意識が冴えたまま横になって、意識はまるで起きたまま身体だけ寝ていたことを覚えています。

ですから、このような睡眠中の意識の覚醒は普通にあることだと思いますし、私の場合は今まで色々と目的があって非覚醒状態でしたけど、ようやく戻ってきた感じです。

似たような症状は不眠症の疲れでもそうなることがあるでしょうが、特にストレスがあるとかそういうことはありませんので、特に問題とは思っておりません。

そういえば、以前にインド行った時に滞在したアシュラムのグルジは今でこそ年寄りで眠るけれども元気だった頃は夜も全く寝なかったと言いますから、元気な人はいて、特に悟りを得ていると夜の睡眠も少なくて済むのだと思います。



胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じる

瞑想中、神そのもの、あるいは神意識を胸の奥底に感じ、それは単に三世を見通せるというよりはこの世を思いのままに変更できるというもので、それには喜びというよりはむしろ恐怖を感じました。

恐ろしく感じましたが耐えられないほどではなく、おそらく数分ほどの間それを抱えていたらやがて恐怖が去ってゆき、神意識の影のようなものだけが胸の奥に残りました。

その意識がやってくるまでは最近の瞑想のように呼吸で雑念をなくしてエネルギーをアジナにまで通すという感じでやっておりましたが、ふと、このような神意識といいますか何か奥底の深い意識がやってきて、そういえば最初はちょっと想像にふけていたような気がして、漫画に出てくる神様たちのシーンが見えた後、胸の奥に不意に神意識らしきものが現れたのでした。

神意識というのが正しいのかどうかは分かりません。ヨーガで言うところのアートマンかもしれません。

瞑想を続けていると恐怖が出てくる、というお話は瞑想の本に色々と書いてありますが、それらと一致しているのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。

とある本には、自分というものが消え去る瞬間に恐怖が出てくる、みたいなことが書いてありましたが、今回のものは自分がなくなると言う感じはそれほどなくて、この世を自由にできることに対しての恐怖ですね。

神意識は、この世界を見通してこの世をありのままに感じるというよりはこの世界をもっと積極的に思いのままに変更できる意識であるのかもしれません。

であれば、世界は神意識次第でどうとでもなるということですから、そのような大きな力は恐怖を伴って当然かも知れません。正しい意思の力がなければ大変なことになりますから。

パワーに溢れていますのでかなりのポジティブですが歓喜と言えるような感情的な喜びはあまりなくて、強大な力に対する恐怖ですね。絶大なる力。この世がいかようにもなる意識。この世が神意識によって作られた世界、と言うのもあながち間違いではないことが直感でわかりました。

この地球が卵のような脆いもので、その卵の地球を手のひらの上に乗せています。もしその気になれば地球の卵を握りつぶしてしまうこともできるのを感じますが、そんなことはもちろんせずに、手のひらを緩く広げたままにしておきます。そのように、力でどうこうしようと思えば何とでもできそうなことに対する恐怖があるわけです。宇宙意識の力は強大で、どうとでもできてしまいそうな実感があります。

それは、未来が「そうなる」というよりは、未来を「そうする」という感覚です。予知ではなく創造です。創造主という解釈はここから来たのかもしれないとも感じます。創造主が胸の中にいる感覚です。

その意識にある時、意識が見ているものはこの世界であり、世界のために何かをするという感覚に自然になります。世界のために行うことが当然であると感じます。その状態が優勢である時は私個人の利益の行動という感覚がほとんどなくて、私個人のためという感覚はどこか遠くにぽつんと置かれてあるような感覚で、世界に行き渡る意思として何かを意図したりする状態になっています。

かと言って実際に遠くのものが見えたりするわけではなく、感覚としてそのように認識される、ということです。同様に、実際に世界を自由にできたりするわけではなく、感覚としてそのように認識されるということです。

その、胸の奥にあるものは最初は胸の少し離れた後ろにあって、感じ始めた最初の瞑想の中で少しずつ身体に近づいてきて、その日は背中の後ろにくっつている感じでした。それが、次の日くらいには胸の中の少し後ろ側で感じられるような状態に変化しました。

瞑想中にこれらを強く感じて、瞑想が終わったらその感覚は薄れていって、奥の方に少しだけ感覚が残った感じです。

恐ろしさを感じたのは最初だけで、後はそれほどでもない感じです。

ただ、おそらくは今回のことは最初の接触と言いますか最初の実感でしかなくて、最初こそ強烈に感じられましたがまだ始まりに過ぎず、やがてはこの感覚が深まっていくのかな・・・ という気が致します。

創造というのは破壊と一体であって、何でも創造できるというのは何でも破壊できるということ。そこに創造と破壊の恐ろしさがあるわけです。シバ神的な破壊の面と創造の面が組み合わさった感じですね。

この「創造」の意識と一体になることができればその時はこの世の法則までも変えることができて、例えば空中に浮かぶなんて簡単なことだ、というインスピレーションが来ましたけど本当のことかどうかはわかりません。これはすぐそうなるというわけではなくて、そのようなポテンシャルがある、ということのようです。

ヴェーダでは「創造」と「破壊」と「維持」の3つの力が言われていて、瞑想中には創造と破壊は感じられましたが「維持」がなかったかな...? としばらく思っていたのですが、ふと気がつくと、どうやら「(卵を)握りつぶそうと思えば握りつぶせるけれども、握りつぶさない」というように認識した力こそが「維持」の力なのだ、と認識を改めました。

であれば、この深い、いわば宇宙意識とか神意識とか言えるかもしれないものは創造・維持・破壊の全ての力を持っていると言えます。ヒンドゥで言うところのシバ神(破壊)、ヴィシュヌ神(維持)、ブラフマー神(創造)によってシンボル化されている力です。

もしかしてそのうちどれかが優勢だったり違いがあるのかもしれないと思って1つづつ検証してみましたが、どれも均等だ、という結論に達しました。3つとも感じたのですが、最初に感じたシバ神のような破壊の面が優勢かのようにも見えてそれと同じくらい創造(ブラフマ)のエネルギーも感じましたし、その両者と匹敵するぐらいの維持の力(ヴィシュヌ)も感じました。時と場合により表に出る面が違うだけで、3つのエネルギーが同時に存在している気が致します。そして、それらは質としては別々の力なれど、エネルギーとしては均一の力であるように思います。

この意識がやってきた時、瞑想中に「この創造・破壊の意識と一体になりたいか?」と聞かれて、その恐ろしさに答えることを少し躊躇しました。「あ、いや・・・。それは・・・。」と、私の自我意識がまずは反応的に拒否しました。私のエゴ(自我)は「いや、怖いです。嫌です。」と言っているのを私の「観察する心」は眺めていました。自我が怖がり、拒絶を表しているのです。

しかし、私の思考する機能(ブッディ)は「これは怖いものであるがそれは創造と、創造の反対の面としての破壊であるから、それはヴェーダで語られているこの世の3つの属性である創造・維持・破壊を示している。これは真理に違いない。であれば受け入れるべき」と割と直感的に判断をし、私のエゴの反抗を抑えつつ、エゴが躊躇しながら何とか意思を働かせて小さく「はい」と答えたのでした。

するとそれは少し離れ、一部だけが残りました。

勇敢な人であれば即座に「はい」と答えていたのかもしれません。しかし、それは本当にこの世をいかようにも創造・破壊できてしまいそうな強大な力で、それをそのまま受け入れるにはあまりにもその質問は急で、特にその時は圧倒的な創造と破壊の力を感じて圧倒されていましたので、すぐに答えることができませんでした。すぐに答えることができればもっとすぐに一体になっていたのかもしれません。それはわかりません。

最初こそ躊躇しましたが、数日経ち、思い返してみると、やはりあれこそが根本の、いわゆる宇宙の本質に繋がるもので、そこを避けて通ることはできないと思います。

当日、最初の圧倒的な感覚はほとんど消えて少しだけ感覚が残りました。ですので最初はそれは一時的なものかなとも思っていたのですが、その後、瞑想を続けるうちに少しだけ感覚が深まってきています。今後、あの圧倒的な恐ろしくも創造的な力と一体になることがあるのか・・・ それは今後、見極めてゆきます。

少なくとも、再度同様の質問を聞かれたら、もうこの身がどうなってもかまわないので「はい」と答えようと思っています。

色々と分析した結果、避けるべきではなく通るべき道、おそらくここしかない道であると判断しましたので、であれば「はい」と答えるしかないわけです。



ようやく瞑想初心者を卒業したような感覚になる

今までも、既に瞑想中級者のような気もしておりましたが、ここにきて、実はようやく初心者を卒業したばかりなのではないかという気になってきました。

いやはや、瞑想というのは本来は、鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるとか鼻頭を意識するだけで雑念が消えるといった意識状態でするものであって、単に座ってマントラを唱えたりエネルギーワークっぽいことをしてみたり雑念を抑えようとしてみたりするのは、まだまだ初心者の域を出ていなかったということです。

・・・・というような気になってきました。

どうやら、そう考えるのがしっくりきます。特に誰かに言われたというわけでもないですけど、この最近の状態を知ってしまうと今までの瞑想が瞑想と言えるような大層なものではなかったように思えてきたわけです。

であれば、実のところ今までずっと瞑想初心者で、ようやく瞑想の初心者を卒業したのかな・・・ とも思えてきます。

ようやく、壁を突破したのかなという気も致します。

ただ、まだ壁を突破しただけで、まだまだ自由自在の域には達していないのかな、という気も致します。

クンダリーニの経験をしたりエネルギーが高まったりナーダ音のことがあったりしましたが、これは、今までは個という意識においては多彩な大きな経験でしたが、神意識としては小さな経験だったのかな、という気も致します。

それは、神意識を知ってしまえば小さなもので、それらの瞑想体験は初心者のものと言っても良いのかもしれません。

神智学系の古い書物「輝く神智(三浦関造著)」に書いてあった次の段階が正しいものであることを感じます。そして、それぞれの段階での私の状態が対応しているように思います。

1.下方のチャクラの活性化、安定化。エネルギーを通す。クンダリーニによりマニプラ優勢になった状態に相当。その他細かくはヨーガ履歴参照。準備段階の前半。図における「試練の道」に相当。
2.上方のチャクラの活性化、同様にエネルギーを通す。アナハタ優勢になった状態、および、アジナ優勢静寂の意識、そして、ムーラダーラを意識しただけで登頂のサハスララまでエネルギーが通るとか、サハスララからエネルギーが上に抜けるような状態が相当していたような気が致します。準備段階の後半。図における「弟子の道」に相当。
 ↑ここまでが初心者

3.アナハタ・チャクラ、ヴィシュッダ・チャクラ(カンサ・チャクラ)、アジナ・チャクラ。これらはこの順番のことが多いようですが実際のところ順不同のようです。私の場合、最近の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じるという感覚はアナハタの奥で感じました。アナハタはもっと愛に満ちたものと思っておりましたのでこれはちょっと意外でした。愛には違いないですけど、もっと根本的な、恐怖をも感じるような破壊と創造が両方とも存在している広大な意識というか意思を持ったエネルギーです。何でも自分の思いのままにできてしまう創造のエネルギーは恐ろしくも感じました。
4.全てのチャクラが一体となる、統合されたチャクラ

であれば、私は今3番の段階にいるのでしょう。

チャクラも、本格的なチャクラと言えるのは3番目以降で、1番目と2番目のチャクラは調整するというくらいというのは私の実感と合っています。

下方のクンダリーニでマニプラ優勢になっただけでもかなりポジティブになって人生を楽しく生きられるようになりましたし、アナハタ優勢になっただけでも人生が素晴らしく感じられたものでした。しかしそれで終わりではなくて、更に上の方までエネルギーが通り、そして、ここにきてようやくアナハタの奥にある根源の創造の意思とエネルギーと繋がり、そこは今までとまるで別の世界になっており、今まで1番や2番の状態を経てきてそれなりに瞑想が上達した気になっておりましたが、おそらく3番目の状態になってみると今まで2番まででやってきた瞑想などほんの初心者のやることで、ようやくここに来て初心者を卒業したのかも・・・ という気になってきたのです。3番に入ってようやく神秘の世界へ入るのであって、2番まではきっと準備に過ぎないのですね。であれば2番までは初心者で、3番に来てようやく初心者を卒業と言える気が致します。

この3番の創造のエネルギーと意思を知ってしまったら、もう後戻りはできない、という感じを受けます。

スピリチュアルやオカルトで楽しいとか面白いとか言っていられるのはきっと2番までなんですね。3番はかなり現実的で、気をつけて触れなければ火傷しそうです。

この1番と2番の段階でもチャクラが活性化してエネルギー的にはそれぞれの部位が優勢になりましたので、それはそれで世間で言われれている「チャクラを開いた」ということなのかなと漠然と理解しておりまして、感情面や雑念の減少および性欲の克服およびエネルギー向上によるポジティブさのアップといった変化がありましたが、それでチャクラが開いたにしては古来から聖典や他の書で言われているような超常的な変化が起きていませんでしたので、ちょっとしっくり来ていませんでした。まあ、そんなもんかな、と。

しかしながら、今回、おそらく3番の過程に入ってアナハタに感覚が出てきて、チャクラと呼ぶに相応しい感覚になってきました。であれば、今までのはチャクラを開くとかそういう感じではなく、表にあるように「チャクラを調整する」というくらいのものだったのでしょう。ただ、表にはエネルギー的なことは書いておりませんので、もしかしたら、この著者の場合と私とはちょっと異なるのかもしれません。

同書は先にチャクラを調整してからチャクラを開き、それからエネルギーを高める、という順番のようにも読めます。私の場合、先にエネルギーが高まってからチャクラを調節し、それからチャクラを開く、という順番の方がしっくりきます。まあ、書き方だけの問題で実は一緒なのかもしれませんけど著者は故人ですし確かめようがないですけど。

とは言うものの、先にチャクラを下・上で調整(1番と2番)してからアナハタ(3番)、ヴィシュッダ、アジナ・サハスララ、という順番になるというのはしっくりきます。一旦上がってから、一旦アナハタまで戻ってから再度上がる、という感じになるのですね。それは私の今の状態とも今の所一致しているように思います。



アナハタで創造と破壊を感じる段階は後戻りのように外からは認識される

おそらくは、そういうことなのかなと思います。

先日、アナハタで創造と破壊を感じた体験は、そこにも書きましたがその前段階で一旦はアジナまである程度のオーラで満たされておりました。実際は今も似たようなものですが、外から見ると、この状態はアナハタ優勢の状態に戻ったかのように見えてしまうかもしれません。

ですけど、実際は、先日書きましたようにそれは一段階超えた、ということなのですよね。

しかしながら、外から見ると、オーラ的にはそれは後戻りしたかのように見えてしまうわけです。

意識としては奥深いところに繋がって変化したものの、それは、後戻りのように認識されるわけです。

例えば、イギリスの魔女の時にスパルタ教育をした時は生まれながらに覚醒状態でしたので、弟子への教育において「オーラを下げずに上げなさい」という一貫した教育をしていたわけですが、その時もその前もその後も基本的にはずっと覚醒状態で生まれて死んでおりますので、このように弟子が一旦は下がってそれから再度上がる、というような変化のことはよく分からなかったわけですね。

ですから、オーラだけを見れば「なんで戻ったのですか。オーラを上げなさい」となるわけですし、しかもスパルタ式ですから弟子は辛い思いをするわけです。

どうも、このあたり、私の教育方法が間違っていたようです・・・。

今更ながら、このことに気が付きました。

このことに気付くのが今生での目的の1つだったのかもしれないですね。

今もイギリスに続いているスパルタ式のスピリチュアル教育は、少し直した方がいいのかもしれません。とは言いましても既に私の手を離れていてどうしようもない面もありますけど。



アナハタの奥の破壊と創造は「魔」のように認識されることもある

先日、胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じたわけですが、実際はそれはそれなりに怖いですが、「魔」のような怖いものではなくて、創造と破壊という2面のうち破壊の方なのだと思います。

しかしながら、感覚としては「魔」として認識されてもおかしくはないものだと思います。

創造と破壊の、破壊の面が人によっては「魔」と認識されるのもあり得ると思います。そのくらい、感覚としては怖いものも感じますが、それと同時に創造のエネルギーが満ちていて、単なる「魔」というわけではありません。

ヨーガの人でこの感覚を「魔」と表現している人もいるような気も致します。

ですけど、それは「魔」というよりも、「創造」、と表現した方が適切のようにも思います。

これは修行を進めてゆけば必ず遭遇する「魔」で、これとは別に本当に悪魔のような存在もいますけど、それは別物です。必ず遭遇する「魔」ということであれば創造の破壊の面のことだと思います。それは恐ろしくも感じますから「魔」とも言えるのだと思います。

これとは別に雑念やトラウマなどに囚われる状態を「魔境」とも言ったりしますけど、それとも別物だと思います。

想像とかトラウマとかそういうお話ではなく、存在そのものが創造と破壊の両面を持っているという認識で、それが胸の奥底に存在、というか、近づいてきて現れて、最初は激しく、その後はずっと淡く存在している、というように認識されるわけです。

ちょっと違うかもしれませんけどこのようなことを言っているヨーガの大家もいらっしゃいますね。ちょっと表現が違うので別物かもしれませんが同じことかもしれません。

個人のカルマを超えたような世界へいこうとすると、必ず邪魔をする魔が出てきます。必ずね。魔に会わないようなやつは、宗教者としては、霊的な成長という点から見たらまだ駆け出しなのです。魔に会わないような人は、まだまだ宗教的には一人前ではない。まだ個人のカルマの中で動いているに過ぎない。霊が憑いた、怖い、などと言っても、そんなのとは全然違うのですよ、魔に出あうというのは。魔に会ったらそれこそ怖いから、どうしたって神様を拝むようになります。「超意識への飛躍(本山博著)」

本当にいるのかもしれませんけど、もし同じものだとすれば、私にはそんなに悪い怖い魔というよりは、創造と破壊の破壊の面のことだと思いました。これは避ける必要がない、と個人的には判断しました。

存在としての魔物であれば必ず遭遇するわけではないと思いますけど必ず遭遇する魔だとしたらこれと同一な気が致しますけどね。どうでしょうか。

そういえば、シュタイナーの説く「境域の守護者」というのもありましたね。もしかしたらこれも同じことかもしれません。であれば納得です。昔にも何やら怖く見える影のようなものを瞑想中に見て、それが越境の守護者かともその時は思いましたけど、それよりもこの創造と破壊の破壊の面が「越境の守護者」と認識されるのであれば、その方がしっくりきます。



創造と破壊の意識は必ず全体意識になる

創造と破壊(と維持)の意識が個としてのエゴを優先させることはあり得ないと思います。

創造(と破壊と維持)の意識とはそのまま宇宙意識とも言えるような広大な広がる意識であり、その時、「個」としての意識は片隅に追いやられています。

広い意識が先に来るのであって、その時、個の意識を優先させるなんてことは有りえませんね。

よく、宗教家が「個を優先させるのか公を優先させるのか」みたいなことを言いますけど、これはどちらを優先させるとかそういうお話ではなくて、絶対的に「公」が先に来て、「個」は隅に追いやられた状態になります。

ですから、別に、「創造と破壊(と維持)の力は強大だから個より公を優先させなくてはいけないな・・・」みたいに頭でどうこう考える必要は全く無くて、意識そのものが最初から「公」ですから、考えることが全て自動的に「公」になるわけです。

その意識と離れると個の意識が復活してきますので、そうなったらそのような質問や考え方も存在するようになりますが、創造と破壊(と維持)の意識と一体になっている時はもはや意識の9割が公で占められることになるわけですね。

ですから、創造と破壊(と維持)の意識と共にあるときに個を優先させるなんてことはあり得ないです。

しかしながら、まだその意識が不安定な場合においては、何かを公に基づいて判断したとしても個の意識に戻ってきた時に判断を誤る、ということはあるとは思います。その場合、生活の中で100%ずっと創造と破壊(と維持)の意識と一体になっているわけではありませんから、一体になっていない時に個を優先させないように気をつけましょう、ということであればそれは注意すべきとは思います。

とは言いましても、創造と破壊(と維持)の意識が深まるにつれ、あまりこういう心配は減ってゆくようにも思います。



空無辺処から識無辺処へ

油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。

・空無辺処(くうむへんしょ)→これから
・識無辺処(しきむへんしょ)→これへ
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

先日、識無辺処の前兆が現れてきているのかもしれない、という分析をしましたがここにきて胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じるという感じになりましたので、その感覚と同書の記述を見比べるとどうやら先日までは空無辺処の段階にいて、同経験を経てから識無辺処に入った、と解釈する方が妥当な気がしてまいりました。

この時はっと胸にとどろきを伝えて、広々とした感じが全身に広がるのである。(中略)こうして自己の上に宇宙の広大さが感じられるといふ境地、これが、「空無邊處定」が完全に成ぜられたところであると同時に、「識無邊處定」が開けたところになるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

ということであれば、私が胸の奥に「創造と破壊の意識」を感じて恐怖すら感じたことが該当するように思います。それは言い換えれば宇宙意識と言っても良いと思います。この世を統べる法とでも言いましょうか。人によっては神、あるいは神意識と言うかもしれません。

この状態では、自分の個としての心というものは端っこに追いやられている、というようなことが書いてあります。そして、次の段階に達すると隅に追いやられていた個としての心が完全に空じられる(なくなる?)と書いてありますので、その1つ前の段階として私の状態は一致するように思います。

であれば、私は「創造と破壊」の意識を知った時点で空無辺処が完成して識無辺処に移行した、とみなすのが良さそうです。

ただ、完全にその状態になったわけではなく完全にするためにはもう少し時間がかかるということだと思います。最初こそ創造と破壊の感覚は強烈でしたが今はそこまでではありませんので、瞑想を深める必要があるのだと思います。



胸の奥の「創造と破壊(と維持の意識)」が胸いっぱいに広がってゆく

最初は、胸の奥底にほんの少し残っていたくらいでした。

最初の日、まず広大な創造と破壊の意識を感じて、怖く感じたりもしました。

そして、その感覚が少し残った状態でいました。

今、瞑想を続けるうちに、その残った感覚、胸の奥にひっそりと現れて残っていただけだった「創造と破壊(と維持)」が広がってきて、今は胸いっぱいの範囲にまで広がり、喉にかかるくらいになってきました。

この状態では特に苦しいとか怖いという感じではなく、最初に感じた創造と破壊の感覚の弱い感覚、と言ってもそれなりに深いですが、最初と比べるとそうでもないですがそれなりに深い感覚が胸いっぱいに広がっている感じです。

最初は、私自身の身体と意識とその想像と破壊の意識とが分かれているような感じでした。

特に最初は胸の後ろの方から近づいてきて、最初の日は胸の後ろの方からそのような創造と破壊を強く感じたものでした。

そして、胸の少し後ろ側のところにほんのりと余韻が残っておりました。

その状態では、まだ私自身と一体化したという感じではなく、肉体の身体としては重なっている部分にはありますが、私自身の心といいますかオーラの感覚としてはちょっとまだ後ろ側に少しずれて存在しているような感じでした。

ですので、「外」にあるという感覚がその時点ではあったように思います。

一方、瞑想を続けていたら、最初はそのように「外」にあった創造と破壊の意識の欠片が胸の中に次第に入ってきて、今や胸いっぱいに広がっている感じです。

最初は怖くも感じた創造と破壊ですが、受け入れてしまえば基本的には怖くはなく、しかしながら、感覚として、ほんのりとその時感じたような恐怖の感覚もうっすらと感じております。

次第に馴染んでゆくのかなとも思います。

まだその感覚は胸の周囲だけで、喉のヴィシュッダにかかりはじめて少しヴィシュッダがガラガラしている感じもしています。

次はヴィシュッダに何かある気もしますけど、どうでしょう。

今の所、基本は鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるという瞑想をしていて、と同時に鼻頭を意識するだけで雑念が消えるという感じでもありますけど、特にヴィシュッダに対して何かをしているわけではありませんがヴィシュッダはエネルギーの通り道ですので反応している感じです。今後、ヴィシュッダも含めてどのように変化していくのか様子を見ていきます。



胸の「創造・破壊・維持」の意識が胸から下腹部および一部は頭にまで広がる

先日、胸の奥で創造・破壊・維持を感じて胸にまで広がった後、まずは喉のヴィシュッダに圧力を感じるようになりました。どうやらヴィシュッダでブロックされている感じでしたので、逆方向の、ムーラダーラに向けて下方にその意識を広げてみました。

すると、その創造・破壊・維持のエネルギーがムーラダーラに向かっては割とスムーズに広がってゆき、ムーラダーラのエネルギーと混ざり合ってゆきました。

すると、今までムーラダーラに存在していた「自我」の欠片のようなものがブルブルっと少し振動して自我による最後の抵抗のような反応をした後、ムーラダーラの自我がかなり減りました。元々自我は減っていたのですが、この創造・破壊・維持のエネルギーはまさに「公」と言っても良い全体意識ですので、その創造・破壊・維持のエネルギーによってムーラダーラが満たされたらそこに残っていた「個」としての意識、いわゆる自我の欠片は消え去るしかないということなのでしょう。

そうしてムーラダーラに残されていた自我がブルブルっと振動して最後の抵抗の後に消え、しばらくすると安定しました。

その後、ムーラダーラから背骨(ヨーガのスシュムナ)に沿ってエネルギーを頭まで上げようとすると、今までよりも太いしっかりとした粘着性のあるエネルギーが上がってゆく感じを受けました。

それまではムーラダーラからアジナまでエネルギーを上げるにしても、もう少し気体に近い軽いエネルギーが上がる感じでした。これは相対的なものですのでそれよりかなり昔に比べたら粘着性が上がってはいるのですが、相対的に見ると今回の創造・破壊・維持のエネルギーは更に粘着性が上がっていて、気体ではあるのですがちょっと粘着性があって、ちょっとだけ粘着性のある液体が上がっているような感覚になります。まあ、言葉で言ってもあまり通じない気もしますが一応書いておきます。

そのように、相対的には以前より固まった感じのあるエネルギーがムーラダーラから上り、その途中になると感覚が消えて、一部は頭まで上がっている感じです。

この粘着性のあるエネルギーが上がる時に背骨の筋に何か圧力ががかかるような感じになります。そして、ムーラダーラで起きたのと同様に、背筋のあたりに残されていた自我の意識が少しブルブルっと震えた後に消えてゆきます。

そして、再度、ヴィシュッダがざわざわした感じになります。ヴィシュッダはまだ動いていない、ブロックされている、という感じを受けます。

一部のエネルギーは頭にまで上がって、頭に残っている自我のうちいくらかを同様にブルブルっと震わせて消してゆきましたが、どうも、完全には自我がまだ消えていないようです。とは言いましても、瞑想前の状態と比べてみると随分と創造・破壊・維持の意識が体中に浸透してきた感じが致しますので成果としてはとりあえず十分で、また続きをすればいいだけだと思います。

この、ブルブルっと震えて自我が消えてゆく感覚は、消える瞬間に自我がほんのちょっとだけ抵抗をしている感じです。それを、「怖い」と表現することもできるのかもしれませんけど、怖いという感覚はほんのちょっとで、怖いと改めて言うほどのものではありません。一応要素としてはそういうのもあるのかもしれないですけど、主な感覚ではないですね。「もう、仕方がないね」と自我が最後の覚悟を決めて素直に消えていっているというような感じです。ですけど、自我はまだ残っていて、それは身体の中でかなり劣勢にはなっているものの、まだある感じです。

残しておかないと日常生活に支障が出ないかな、とか、そういう自我の抵抗らしき気持ちもちょっと出てきてはいます。それはそれで真実なのでしょうけど。でも、自我というのはアハンカーラ(エゴ)でブッディ(決定する能力)の反応としてアハンカーラ(自我、エゴ)が生まれるわけですので、ここで全て自我を一旦は消してしまったとしてもブッディがある限りは再度アハンカーラは出てくるでしょうから、特に問題ない気もしますけど。どうでしょうかね。

ここで消す自我というのは習慣になってしまっているような固定化された自我で、ブッディに伴ってその都度出てくるようなアハンカーラが出てくるのは仕方がなくて、それはその時々でアハンカーラの反応だと気付くことができるのでそれは問題ない気もしますね。

検証してみたところ特に問題なさそうですのでこのまま更に創造・破壊・維持の意識を広げてゆきたいと思います。