集中すればするほど瞑想が深まる - 瞑想録 2020年9月

2020-09-08 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

君が代の祝詞の唱え方を夢で見た

国家は福岡県の志賀海神社の古い祝詞の一部だと言う噂を前々から聞いていまして、噂でしかなかったために今まで確認のしようがありませんでしたが唱え方が気にはなっていました。

国家:
 君が代は
 千代に八千代に
 さざれ石の
 いわおとなりて
 こけのむすまで

このメロディは国家として当然あるわけですが、祝詞としての節もあった筈です。

前々からその祝詞の節が気になっていて、どこかで聞くことができないかな・・・ と思っていたら、夢で見ました。

単にメロディだけではなく、和服を着た神主っぽい人がきっちりと唱えてくれたのでそれっぽいです。

夢ですので、本当の節かどうかはわかりませんけど。

それによりますと、基本的には一本調子で、一文字づつ区切って歌い上げるのが基本。最後の方だけ少し伸ばします。

具体的には、最初から以下の手前までは一音ずつ区切るようにして男性の少し高めのテノールではっきりと1文字づつ発音。全て一音節。最後の以下だけ伸ばします。

むーーー 3音節
すーーー 3音節
まーーー 3音節
でーーーー 4音節

音量は、最後の「で」の2音節目くらいまではずっとその前と同じ音量。最初からずっと同じ音量で、最後の「で」の最後の2音節だけ音量を下げる。「で(祝詞の最初から同じ音量)→で(同じ音量)→で(ボリューム2/3)→で(ボリューム1/3)、終了。

国家ですと1行づつ区切ってますけど、そこも区切らないです。

君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむーーーすーーーまーーーでーーーー

と言う感じですね。

もっとはっきり書くのであれば

き・み・が(・ぁぁ)・よ(・ぉぉ)・は・ち・よ・に(・ぃ)・や・ち・よ・に(・ぃ)・さ・ざ・れ・い・し・の・い・わ・お・と・な・り・て・こ・け・の・むーーーすーーーまーーーでーーーー

と言う感じですね。

更に言うと、音程は各音ごとに母音のところだけちょっと上げます。文字の子音部分は全て同じ音で、母音だけ上げます。

きぃ↑・みぃ↑・がぁ↑(・ぁぁ↑)・よぉ↑(・ぉぉ↑)・はぁ↑・ちぃ↑・よぉ↑・にぃ↑(・ぃ↑)・やぁ↑・ちぃ↑・よぉ↑・にぃ↑(・ぃ↑)・さぁ↑・ざぁ↑・れぇ↑・いぃ↑・しぃ↑・のぉ↑・いぃ↑・わぁ↑・おぉ↑・とぉ↑・なぁ↑・りぃ↑・てぇ↑・こぉ↑・けぇ↑・のぉ↑・むぅ↑→すぅ↑→まぁ↑→でぇ↑→→→

こんな感じですかね。凄く上げるわけではなくてちょっと上げるくらいです。おそらく勝手にちょっと上がるのではないかと思います。

神社で聞くような笛の感じと合わせるとそれっぽくなります。最初に神社の笛をイメージすると歌いやすくなります。

・・・夢ですけどね。夢と言っても起きた時に覚えていたと言うよりは、寝ようとして横になって意識が落ち着いたらすぐに見えて聞こえてきて、そのまま寝ずに起きてメモしたのです。ですから白昼夢に近いものではありますけど。


2021/3/29 「ぁぁ」「ぉぉ」「ぃ」「ぃ」を追記



悟っていると言われて試される

朝、瞑想から終える瞬間に目の前の2〜3m離れたところにある窓の空間から「悟っています」と話しかけられました。明らかにこちらに向かって言っていた思念波でしたし、あまりにも唐突に言われたので「はい?」と疑問符が頭の中にいくつも浮かんでしまいました。姿は見えませんでした。空間が私に話しかけてきました。おそらくそこに何某かの意識体がいたのだと思います。

特にここ数日で大きな変化があったわけでもないですし、基本的には静寂の境地の瞑想をしていたわけで、それ以上になったわけでもありません。

何だろうな・・・? と、あまり腑に落ちないでいました。 ひょっとして、悟りってこの程度のものだったのかな・・・? と少し考えてみましたが、どうもしっくりきません。

私の中の悟りというのは、いわゆる「宇宙意識」と一体になって自他の区別がなくなるのはもちろんのこと、他人の思考や民族・集団としての集合意識もよくわかるようになり、それだけでなく、意識的に時空を超えて過去と未来を行き来できて見てこられる状態にまで達して初めて悟りだと思っているわけです。

宇宙意識にしても最初は「一瞥(いちべつ)」とでも言えるような瞬間的なものから始まり、それはまだ悟りではなく、意識的に宇宙意識とほぼ常に繋がって時空を超える際も意識的に行えるようになってようやく悟りと言える状態になるのだと思うのです。

ですから、いくら、空間にいる何某かの意識体から「悟っています」と言われたからと言って、それを鵜呑みにはできないのです。

数日経って、気持ちの整理がついた今、おそらくそれは、「悟っています」と言われた時にどのように反応するのか、心の状態を試されたのではないかなと思います。そう考えるのが一番しっくりきます。

試されたからと言って、その意図がきっとある筈ですけどそこまではまだわかりません。単に守護霊が成長を確かめるために意図しただけかもしれませんし、あるいは、もっと重大な意味があるのかもしれません。とは言いましても、そんなことを気にしても仕方がないのです。そのように、想像を膨らませることも含めてどのように心が反応するのか、最初から最後まで全部試されていて、全てお見通しなのかな、という気が致します。であれば、取り繕っても仕方がないですしね。

私はきっと試されたのだと判断しましたけど、実際は違うのかもしれません。ですけど、それもまた、どうでもいいことです。



ライトボディ第八レベル、あるいは前兆

書籍「ライトボディの目覚め」に基づきますと私は現時点で第八レベルかその前段階(第7レベルと8レベルの間)だと思われます。

昨年末に視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナーになった頃から第八レベルの前兆を感じています。それ以前は第七レベルで、それは雑念が減り、「いま」に生きるというような、割とアナハタ優勢の段階だったように思います。

ざっくりいうと以下のようになるかと思います。

・第七レベル アナハタ優勢
・第八レベル アジナ優勢

第八レベルでの大きな変化は、自らの奥深くにある自らのスピリットに従うようになる、という点だと思います。第七レベルまではまだ「私」という感覚が残っていました。第八レベルになると次第に「自分」というものが幻想だということがよくわかるようになってきます。

第七レベルまでは、自分というものは本当はいない、ということを「知識」として知っており、実感も伴っており、理屈にも合っていて、正しいと思ってはいるものの、自分という感覚と宇宙意識とを比べるとまだ自分という感覚の方が優勢な状態でした。自分という意識と宇宙意識の比率は8対2から7対3です。

第八レベルでは深い実感を伴って、やはり自分というものは本当はいないんだ、ということを実感します。それは自分がいなくなるというよりは宇宙意識の方が徐々に表に出てきている状態で、自分という意識と宇宙意識との比率は6対4あるいは5対5に近づいた状態だとも言えます。自分が消えるだけでは十分ではなく、宇宙意識との融合が伴います。宇宙意識との統合のことを、自分の奥底のスピリットと繋がる、と言い換えてもいいと思います。言葉で言うと別々の事柄のように思えてしまいますが、同じ現象を別の表現で言い表しただけのことで、同じことです。

第七レベルでは光の意識と平凡な意識を行き来して起こる葛藤がそれなりにありました。光の存在であると言う自覚が深まったものの、まだ平凡な自分としての意識に戻ることがあり、揺れ動く意識の中で、ある種の、躁鬱状態に似たような光の彷彿と平凡な意識を行き来していたと言えます。

その悩みが第八レベルではほとんどなくなり、基本的には光の意識の中に存在するようになりました。

昔、最初にこの本を読んだときは第七レベルと第八レベルの違いがいまいち分かりにくかったのですが、今思えばこのレベルはかなり明確な違いがありますね。

それ以前のレベルはあまり意識しておりませんでしたが、今改めてざっと読むと以下のような感じでしょうかね。本文ではヨーガの用語は使っていませんが、自分が分かりやすいようにヨーガに当てはめてみました。

・第一レベル クンダリーニの目覚め
・第二レベル クンダリーニの安定
・第三レベル ムーラダーラチャクラ活性化。「匂い」に敏感になる。性の活性化。
・第四レベル スピリチュアルの始まり。
・第五レベル スワディスタナチャクラ活性化
・第六レベル マニプラチャクラ活性化
・第七レベル アナハタチャクラ活性化
・第八レベル アジナチャクラ活性化

ただ、必ずしもクンダリーニやチャクラと関係しているわけではなく、第五や第六くらいまでは色々なものが混ざっているような気が致します。これはスピリチュアル系の階梯の作り方として必ずしもチャクラを基準にはしていないようです。

第九レベルは「神聖さ」を宿し始める段階とのことで、いわゆる「悟り」とは第九レベル以上のことだと言っていいと思います。



マインドフルネスはダーラナではなくプラティヤーハーラ(制感)

朝の瞑想で見えない存在にインスピレーションで教えられました。どうやらマインドフルネスはダーラナではなくプラティヤーハーラ(制感)のようです。なんてこった・・・。私はどうやらマインドフルネスを買いかぶっていたようです。確かに、初心者向けのマインドフルネス瞑想はやっていることはプラティヤーハーラですね。

マインドフルネスあたりですとダーラナ(集中)にすら達していなくて、プラティヤーハーラ(制感)なのですね。プラティヤハーラは感覚器官の呪縛から逃れて雑念から逃れよう、雑念と自分の心を引き離そうとする段階ですので、確かに、プラティヤハーラのことを「観察」と言うとそれっぽく聞こえるかもしれませんね。プラティヤハーラですとゾーンに入ることはなくて、雑念から一時的に少し離れるだけです。マインドフスネスは新たな流派ですので説明が混乱していますけど、確かに、いくつかを読む限りプラティヤハーラを観察と表現しているとすれば筋が通ります。

5.プラティヤーハーラ 雑念を取り払いましょう! 観察するのです!
6.ダーラナ → 集中しましょう! 集中による至福! ゾーン!

ヨーガスートラ的にはプラティヤーハーラのことを観察とはあまり言わないと思いますけど、確かに、説明としては観察と言った方が分かりが良い気が致します。ヨーガとかの古典瞑想をしていて観察とか言われるとディヤーナやサマーディのことかなと勘違いしてしまいますけど、プラティヤーハーラのことだとすればスッキリします。

この理解は最近流行のヴィパッサナー瞑想についても言えて、私はどうやらずっと勘違いしていたのかもしれません。ゴエンカ式が観察のヴィパッサナー瞑想とか言っているのは、長らくディヤーナやサマーディのことかと思っていましたけど、実際はプラティヤハーラのことを観察だと言っていたのだとすれば全ての説明がつきます。と、すれば、私は長い間、ゴエンカ式も買いかぶっていたことになりますね・・・。なんてこった。

マインドフルネスやゴエンカ式が割と宗教色を無くして一般人に受け入れやすくなっているのは、やっていることがプラティヤハーラで雑念を取り払うように「観察」することを瞑想手法として取り入れているからなのですね。

プラティヤハーラで雑念から離れることとサマーディで観察状態に入ることとは天と地の差がありますけど、どちらも言葉で言い表すと「観察」と言うこともできるのですね。これはしてやられました・・・。

であれば、今後、マインドフルネスやゴエンカ式の人が「観察瞑想」と言ってきたときはプラティヤハーラのことを言っているのかもしれない、という頭の切り替えができます。人によってコンテキストは違いますけど、私の中にこのコンテキストは今までありませんでした。サマーディとかの高い境地のことを言っているのかなと思っておりましたが・・・・、まさか、観察瞑想がプラティヤハーラのことだったとは・・・。

最初からそう言ってくれれば何も悩むことはなかったのに。ほんと、買い被りもいいとこです。瞑想の世界というのは本当に落とし穴がいっぱいですね・・・。ブッダを持ち出してきて観察瞑想の名を掲げ、ヴィパッサナー瞑想と言っているものは、実際にはヨーガスートラ的にはプラティヤハーラだったりもするのですね。

マインドフルネスの説明でサマーディっぽいお話もあったりしますので勘違いしていましたけど、手法や説明をしっかりと見るとプラティヤハーラのことを言っており、それを観察とか表現しているのですね。宣伝する方としては何か凄いことを言いたいでしょうからサマーディっぽいお話もするのかもしれないですけど、手法としてはプラティヤハーラで、よくてダーラナ(集中)でゾーンに入って歓喜に至る、というくらいなのでしょうね。

ゴエンカ式はそれが顕著で、サマーディとか悟りとかのお話をしているのでそれっぽく聞こえてしまいますけど、やっている手法だけを着目してみると息の観察やら感覚(五感)の観察だったりしますので、確かにプラティヤハーラと結びつけた方がしっくりきます。息の観察をするアーナパーナ瞑想のことをゴエンカ式では集中瞑想と説明していましたので私はダーラナ(集中)だと思っていましたけど、アーナパーナ瞑想も含めてゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想でやっていることは全てプラティヤハーラだとすれば違和感がほぼなくなります。

宗教を切り離して手法だけ取り出した瞑想の手法はプラティヤハーラが中心という共通点があるのですね・・・。今までずっと買い被っていました。

これらの理解があると、各種の疑問が氷解します。特に観察系のヴィパッサナー瞑想の流派で感じていた違和感の根本理由がわかったような気が致します。


■プラティヤハーラだとわかってしまえば指摘するなんて野暮なことはしない

もしかしたら、これらのことに気付いた先人たちがかつてゴエンカ式で素直に指摘したのかもしれないですね・・・。一つの仮説を立ててみます。

ゴエンカ式をやっている当人たちは悟りを開くための瞑想だと思っているようですから、その人たちに自分たちがしているのはプラティヤハーラだと指摘したらいい顔されないどころか、プライドが傷付けられてキレられるのも当然のような気が致します。

そんなプライドが残っていてキレるような人たちが先生をしている団体はその程度のレベルなわけですけれど、それでも、一般向けのビジネス講座だとすれば十分すぎるほどであると思うのです。この時代、瞑想が蔑ろにされていますから、プラティヤハーラであろうとも有益だと思います。

しかしながら、当の本人たちは悟りを開くためのブッダの瞑想だと思っているわけです。

これは、悲劇というか喜劇ですね・・・。一応はやっていることはプラティヤハーラですので悟りに向かう一段階であるわけで、特に間違ってはいないのですが、それだけしていれば悟ることができるかのように思っているのが喜劇です。わかってしまえばギャグのように笑い飛ばせますし、無駄ではないので悲劇ではないですけど、やっている当人はまだプライドの塊ですので、わかってしまうまでは喜劇のように深刻になってやっているわけですし、他人のそのような指摘はプライドを傷つけるのでキレて拒絶するわけです。

ですから、ゴエンカ式のようなビジネスマンが始めた一般向け非宗教を装っている瞑想コースでヨーガの人が嫌われるのかもしれないですね。本当の自分たちの姿がさらけ出されてしまうとプライドが消えてしまうので拒否反応を起こしているのでしょう。

ゴエンカ式の人がどうしてあれだけ怒りの沸点が低くてキレやすくなるのか疑問に思っておりました。今まで私はそれは瞑想手法に問題があるのではと思っておりましたが、瞑想手法は単にそこらのとそんなに変わりなく、どうやら、手法そのものというよりもそれに関わる人々のスタンスと考え方に問題があって、ゴエンカ氏もキレやすい性質だったと言いますから、おそらくは歴史的に団体の性質としてそのような文化が熟成されているのでしょう。であれば、キレやすい団体に私は関わり合いたくはないです。

その先のレベルに達する人もいる筈だとは思いますが、もはやカリスマのゴエンカ氏は死去しておりますので団体としての性質が変わることは考えにくいですね。であれば、わざわざ指摘するなんて野暮なことはしない方がいいと私なんかは思います。

プラティヤハーラの修行を必要としている人たちであればまだプライドもエゴもたっぷり残っているでしょうから、その運営者にしても参加者にしても大概はエゴ丸出しなのは当然といば当然でしょうね。

それを否定する必要はなくて、これは一段階ですので、それを超えてゆけばいいわけです。

この世界には瞑想が足りていませんので、プラティヤハーラをして悟りを求める団体があったとしても全く問題ないわけです。むしろもっとそのような団体が増えてもいいくらいです。

ゴエンカ式が他人の指摘を素直に受け入れずに自分たちの考えに固執しているからこそすぐキレる性質になってしまっているのだとしても、それはプラティヤハーラを必要としている人たちが運営しているのであればそのくらいなのは当然です。

ゴエンカ式がブッダの悟りを求める瞑想をしている筈なのにどうしてそんなにプライドが高くてエゴが大きくてキレやすい人がゴロゴロしていて、また、ゴエンカ式をすることで自分を見失って精神的に混乱する人が大勢いたとしても放置するのが何故なのか理解できないでいました。

ですが、ゴエンカ式の運営者・指導者にしてもプラティヤハーラのレベルだとしたら同レベルでありそれらの精神的な混乱をしている人を助けることはできず、ただ静観するしかないのは当然と言えます。

ゴエンカ式は、運営者もプラティヤハーラのレベルで、参加者も多くはプラティヤハーラあるいはそれ以前の段階だとすれば、教えられることもプラティヤハーラですし、混乱してしまった人を助けることができないのも当然なのです。

ゴエンカ式では鼻呼吸への集中であるアーナパーナ瞑想をヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)の準備のサマタ瞑想と位置付けていますが、これも実際には違うということになりますね。

■ゴエンカ式による説明
・アーナパーナ瞑想 観察のヴィパッサナー瞑想に入る前準備としての集中瞑想(サマタ瞑想)おそらくこれはヨーガスートラのダーラナ(集中)に相当すると推測。
・ヴィパッサナー瞑想 皮膚の観察。観察瞑想。悟りへと導く瞑想。ヨーガスートラのディヤーナ(瞑想)からサマーディ(三昧)に相当すると推測。

■ゴエンカ式の実際
・アーナパーナ瞑想 プラティヤハーラの準備として集中力をつける集中瞑想
・ヴィパッサナー瞑想 プラティヤハーラの実践

ですので、説明と実際やっていることと乖離があるわけですね・・・。どこまで本人たちが気づいているかどうかは人それぞれでしょうが。

・・・そのように考える方が素直な気がしてきました。これらのことがあらかじめ全てわかっていれば本人たちにわざわざプラティヤハーラだと指摘するなんていう野暮なことはしませんし、自分がヨガをしているなんていう野暮なことをゴエンカ式のところで明かしたりもしません。

おそらく昔から同様の指摘をする人がいて、まるで戦争が何代も続くうちに理由が忘れ去られてしまっているのと同じように、ゴエンカ式でキレやすい性質が何代も続いていてもはやキレやすい理由が忘れ去られてしまっているような気も致しました。

しかしながら、これらの仮説を立ててみるとゴエンカ式がキレやすい理由もしっくりきます。この仮説は、私の中ではしっくりきます。

これは、ゴエンカ式の程度が低いと言っているわけではありません。説明がちょっと拡張気味で、誇大宣伝だな、と言っているだけです。


▪️集中瞑想はヨーガスートラ的にはまだ瞑想ではない

いわゆる集中による瞑想は、まだ本格的な瞑想ではないわけです。

■ヨーガスートラの八支則
1.ヤマ(アヒムサ、サッティア、アステヤ、ブランマチャリア(禁欲、ブラフマチャリア)、アパリグラハ)
2.ニヤマ(シャウチャ、サントーシャ、タパス、スヴァスティアーヤ、イーシュワラ・プラニダーナ)
3.アサナ
4.プラーナヤーマ
5.プラティヤーハーラ
6.ダーラナ → 集中
7.ディヤーナ → 瞑想
8.サマーディ → 三昧

何かに集中する瞑想はヨーガスートラ的にはディヤーナではなくダーラナです。
多くの場合、瞑想していると思っていてもヨーガスートラ的にはダーラナ(集中)です。

ダーラナとディヤーナ、サマーディは割とはっきりとした区別があるのですが、最初は自分ではその違いはわからないと思います。

ざ〜っくり言うと以下のような分類です。

1&2.ヤマ・ニヤマ 道徳を大切に!
3.アサナ 体を動かしましょう!
4.プラーナヤーマ 呼吸をしっかりしましょう!
5.プラティヤーハーラ 雑念を取り払いましょう!
6.ダーラナ → 集中しましょう! 集中による至福! ゾーン!
7.ディヤーナ(瞑想) → 落ち着いてきましたね!
8.サマーディ(三昧) → 静寂の境地!

以下のようなものは、基本的には全てダーラナ(集中)だと思った方が良いと思います。
・呼吸瞑想
・皮膚を観察する瞑想
・歩く瞑想
・眉間に集中する瞑想
・マインドフルネス(息を観察する瞑想)

もちろん同じ手法を用いていてもその先のディヤーナ(瞑想)やサマーディ(三昧)の境地に辿り着くこともありますけど、違いがわからないうちはそれは単に「集中(ダーラナ)」だと思っておいた方がいいと思います。

世間で最近は「観察瞑想」とか言われていますけど、そんなのは名前が観察というだけで、確かに上級者は観察だと言うのは分かりますけど、初心者が真似て見たところで全て「集中」瞑想です。 初心者であれば例外なくみんな「集中」瞑想です。前世で修行した人とかであればいきなり観察瞑想と言うかディヤーナやサマーディできるかもしれませんけど、初心者であればみんな例外なく「集中」瞑想です。何やら世間で「観察瞑想」がどうこう言われていますけど、例外はないです。・・・こんなこと言うと反感を感じる人がいるかもしれませんけど、初心者であればみんなダーラナ(集中)です。それに疑問の余地はないです。

そう言うわけで、瞑想はいろいろありますし、言い方や説明で「観察」とか言ったりしますけど、観察という説明であってもやっていることは集中瞑想です。

初心者に向かって上級者向けの指示で「力を入れずにただ観察しろ」とか教えている流派もありますけど、それは無茶というものです。初心者は観察瞑想であるディヤーナ(瞑想)やサマーディ(三昧)なんてできないですよ。であれば、やっていることは集中瞑想でしかないわけです。いくら観察瞑想だと思っていても集中瞑想をしているのが初心者です。

マインドフルネスとかでも、息を「観察」しましょう、とか言っていますけど、それは息に意識を「集中」しましょう、ってことですよ。本当の観察であればそんな焦点など必要なしに体全体の動きをただ観察できます。それはディヤーナ(瞑想)を超えてサマーディ(三昧)くらいにまで達したらそうなりますけど、それができるのであればもはや初心者ではありません。初心者であればディヤーナ(集中)しかできません。そんなものです。あまり気負いせずに、観察だとか放っておいて、とにかく集中瞑想(ダーラナ)をした方が早道だと思いますよ。

ダーラナ(集中)を深く経験して次の段階に進むのが良いと私なんかは思うのであって、ダーラナ(集中)を抜きにして上の段階の「観察」なんて成り立たないと思うのですけどね。もともと葛藤がかなり少なくてダーラナ(集中)がほとんど不要な人もいらっしゃる気も致しますけど、それはダーラナ(集中)が完全にいらないわけではなくて早くダーラナ(集中)を通り抜けると言うだけで、飛び越してはいないでしょうからね。多くの人は葛藤や雑念に悩まされているでしょうから、まずはプラティヤハーラから初めてダーラナに進むのが普通だと思います。

マインドフルネスとかは、説明を読むと「観察」となっているので何やら上級な雰囲気がありますけど、実際のところやっているのはダーラナ(集中)です。それを瞑想と呼んでいるわけですし、説明では「観察です」とか言ったりするわけれども、それは説明のために言っているだけであって、本質はダーラナ(集中)です。一般向けに観察とか瞑想とか言っても違いが分からないと思いますし、観察と言った方が受けがいいから観察と言っている、という面もあると思います。観察という言葉を使っていても、説明の全体を聞く限り、ダーラナ(集中)の瞑想をしています。一般人は単に「ふむふむ」と聞いて、わかったような分からないようなもやもやした気持ちになっているだけなのかなと思います。はっきりと分からない、というのは当然で、そんなものだと思います。

ダーラナ(集中)によってゾーンに入ることができて強い歓喜が沸き起こってきて仕事の効率が上がるわけで、ダーラナのゾーンだけを使うのであればビジネスに有益だからマインドフルネスが話題になっているのでしょう。でも、それはディヤーナではなくてダーラナ(集中)ですけどね。説明で「観察」とか言ってて混乱したり誤解したりしている方も多いですけど、やっていることはダーラナ(集中)です。マインドフルネスはそれ以上の世界を教えませんし、扱いませんからね。それ以上に達した人もいるとは思いますけど、その体験すらも同じ土壌で語られますのでマインドフルネスが何なのかがますます分からなくなってきます。マインドフルネスが扱うのは基本的にはダーラナ(集中)の世界であって、その準備あるいはそれ以上の世界を求めるのであればマインドフルネスでは不足なわけですよね。マインドフルネスが宗教を切り離してただの技法にしているから素晴らしいとかおっしゃる方も大勢いて、もちろん個人の自由ですから好きにすればいいと思います。マインドフルネスのレベルであるダーラナ(集中)を極めてゾーンに入るだけでも人生を豊かに過ごすことができますし、頭の回転も良くなって仕事も効率的にできるようになりますから、それが目的だとおっしゃるなら好きにすればいいのだと思います。現世利益を求める方が現世利益のためにするのがマインドフルネスであると言えます。私なんかは物足りなさを感じて面白くないのですけど、技法だけで満足している方も大勢いらっしゃいますし、マインドフルネスで満足している方の気持ちは私はよく分からないですけど、満足を否定はしませんので、好きにすればいいと思います。この世界は自由の世界ですから、好きに生きればいいのです。

ダーラナ(集中)瞑想を極める期間は個人的にはそれなりにかかって、最初の10年くらいはゾーンに入るだけで歓喜が沸き起こってきてそれが楽しみではありましたけど、次の段階へと進んだ今となってはあのような彷彿と葛藤を繰り返す世界に戻りたくはありませんけどね。ですけど、そのダーラナの段階が無駄とは思っていなくて、それはそれで有益だったと思いますし、必要な段階だったと思います。

今から瞑想を始める方は不幸かもしれなくて、昔なら素直に集中瞑想だけできたのに、小賢しい人が大勢出てきて「瞑想の本質は観察だ」とか瞑想のテクニックを煽って宣伝する人がちらほらいて、何が本質なのか分かりにくくなっています。

おそらくは、よく分からずに変な瞑想手法をするよりは、単に今やっている仕事に集中してゾーンに入って歓喜が沸き起こるくらいになる方が精神的成長が早いと思います。特に最初のうちは。

基本的には最初は瞑想というと集中(ダーラナ)なのですから、そこをわきまえておいた方がいいと思います。


▪️ゾーンの歓喜と瞑想の階梯

瞑想をして、ある程度の段階に達するには時間がかかるように思います。

■ステップ1 5〜20年
瞑想あるいは仕事に打ち込むことによって対象と一体となり、ゾーンに入る。
最初は1年に一度、あるいは数ヶ月に一度ゾーンに入ることができる。
強烈な感情の高揚、歓喜が沸き起こる。感情が沸騰したかのような激しい感情を伴う。
対象に対する強烈な集中。観察という感覚はあまりなく、100%集中しているかのように感じられる段階。集中すればするほどゾーンに入れて激しい歓喜が沸き起こる段階。
ゾーンに入っていない時は精神が不安定で雑念に囚われている段階。
個人的には、この段階であれば瞑想をするよりも仕事に打ち込んでゾーンに入って歓喜を感じる方が成長が早いように思います。

■ステップ2 3〜5年?
ゾーンに入りやすくなる。1週間〜数日に一度ゾーンに入ることができる。
ゾーンに入りやすくなるにつれて精神が安定し、歓喜の度合いが減ってゆき、心の平安が増えてゆく。歓喜が減ったからと言って不幸せになった訳ではなく、歓喜の変わりに心の平安が増えてゆく段階。激しい歓喜の変わりに静かな楽しさと心の平穏が伴って行く段階。
強烈な集中は必要だが以前ほど必要としなくなってゆく。心の平安が増えるにつれ観察している感覚が増して行く。集中と観察が共存し始める段階。集中と観察とを比べると集中が優勢な段階。
ゾーンに入っていない時は精神がまだ不安定。

■ステップ3 1〜数年?
集中は未だ必要だが以前ほど強烈に集中する必要はなくなる。
瞑想で心が安定し、一定段階を超えると浄化の印であるナーダ音が聞こえるようになる。
精神が安定し始める。まだ精神が不安定になることも多いが以前のように雑念に惑わされることが減って行く。
この段階になるともはや「ゾーン」と呼ぶような強烈な歓喜はほとんどなくなる。ゾーンの終わり

■ステップ4 1〜数年?
日常生活で瞑想状態が保てるようになり、動体視力が上がり、視界がはっきりとしてくる。思考がクリアになり、雑念に惑わされることもかなり少なくなる。
人によってはこれをサマーディ、あるいはヴィパッサナーと呼ぶ。(サマーディとヴィパッサナーは説明だけ読むと違うように見えるが実際は同じ
日常生活が映画のように鮮やかで落ち着いていて楽しげなものになります。


・・・・これらの段階は個人的な経験を基にしています。違った階梯を辿る方もいるでしょう。多様な人がいるのですからそれは否定しませんし、自分の道があるというのならばそれは好きにすればいいと思います。

これらは階梯であって対立軸ではないと思います。人によってはこれらの階梯を対立軸のように捉えてしまって、最初の方の段階を否定して「集中しているだけではだめ」とか言ったりしていますし、あるいは逆に「観察ではなく強烈な集中が必要だ」とか言っていますけど、それは私なんかからすると階梯の段階によって重要なことは異なりますので、それらを対立しているものと考えてもあまり意味がないんじゃないかなと思います。これらは対立すべき概念ではなくて、ただ単に、それぞれの段階において意識の状態が異なる、というだけのことだと思います。

もしかしたら最初の段階は全く不必要なのかもしれませんけど、自分がそうだと思ったとしても実際はそれらの段階を前世で既に終えているというだけのことかもしれませんしね。そして、前世でしっかりそれらの段階をやっているのにも関わらず覚えていないだけで不要と言っているだけかもしれませんしね。前世じゃなくて前の前の人生で終えていたかもしれませんしね。あんまり、不要とか必要とか、そんな議論はあんまり意味がないと思います。自分に必要なものは自分が一番わかっていて、他人のそういうノイズはあまり気にする必要がなくて、他人の言葉は足を引っ張るだけのことも多々ありますし、自分の奥底に聞いて自分に一番必要なことをやればいいのかな、と思います。自分の今の状態を蔑ろにしてステップを飛び越えてもあまりいいことはないと思いますしね。これらの階梯にしても他人にとってみればただの参考でしかなくて、自分の階梯は自分で確かめてゆけばいいのかなと思います。

多くの人は最初の段階のことをゾーンと言っていると思いますけど、ごく一部のアスリートの発言はサマーディあるいはヴィパッサナーの状態のことをゾーンと言っているような気も致しますね。ですが、基本はゾーンと言うと最初の段階にあるような強烈な歓喜のことだと思います。

それと、おそらくは昔の武士が言っていたお話もサマーディやヴィパッサナーの境地でしょうね。最近の人は瞑想をあまりしないですけど昔の武士は瞑想していたでしょうし、それらの境地を知っていたとしても不思議ではありません。アスリートにしても瞑想をしているのとしていないのとではパフォーマンスが大きく異なるでしょうね。日本人が世界で勝てなくなった理由もこの辺りにあるかもしれませんね。瞑想は勝負に勝つためにある訳ではありませんけど、生きる上においてパフォーマンス向上のために瞑想はかなり役に立つわけです。最終的には勝負とかそのようなものを捨てて静寂の境地に辿り着くのかなとは思いますが、それでも、生きる上において意識を鎮めて静寂の境地に達し、頭の回転を良くして動体視力を高めておくことは勝負とは無関係にそのまま人生を豊かにすることに繋がると思うわけです。静寂の境地に達すれば他人と比べる必要もないですし勝負をする必要もないわけです。最近の人は武術なんてそんなにしないですけど、昔の人は武術は当たり前だった訳で、そうだとしても静寂の境地に達すれば武術は意識から消え去るわけで、私は今生で武術は学んだことがありませんけど、同じ静寂の境地に達したとすればもはや勝負の勝ち負けなんて意識からなくなったのだということは容易に理解できるわけです。


▪️プラティヤハーラ、ダーラナ、それぞれにプラトーが存在する

多くの瞑想はプラティヤハーラだという前提に立つと、色々なことが見えてきます。

5.プラティヤハーラ(制感) 雑念から離れる。雑念に気付けるよう努力して観察する段階。一般向けのヴィパッサナー。
6.ダーラナ(集中) 集中してゾーンに入り、至福に至る。
7.ディアーナ(瞑想) 意識が安定し、穏やかな境地に至る
8.サマーディ(三昧)感覚の微細化。本来のヴィパッサナー。五感を超えた観察状態。

という分類になるわけですね。

この分類に対して世の中の瞑想手法を当てはめてみることができるわけです。

■マインドフルネス
観察と称してプラティヤハーラ(制感)を行い、葛藤から離れる。リラックスの手段。
一部の人はダーラナ(集中)のゾーンの境地に入り歓喜と共に仕事を効率的に行う。
現世利益の追求のための手段としての瞑想。

■ゴエンカ式ヴィパッサナー
本人たちはブッダの瞑想だと思っているが、実際やっているのはプラティヤハーラ。
ブッダの瞑想はサマーディのレベルで、説明も原始仏教を元にしているのでサマーディっぽい話もあるが、手法としては完全にプラティヤハーラ。
まず息の観察をしてプラティヤハーラに入る準備をする。そして、体の皮膚の観察をして本格的にプラティヤハーラに入る。
ゴエンカ式は観察瞑想のヴィパッサナー瞑想をうたっており、サマーディを超えた瞑想をしていると本人たちは思っているのでダーラナ(集中)やサマーディが徹底的にヒステリックに否定される文化。
実際はプラティヤハーラのレベルでほとんどの人はそれ以上に達しない。
ゴエンカ式をして精神的に混乱をきたしたり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、あるいはプライドが拡大するという効果は瞑想している人の多くがプラティヤハーラのレベルだということを示している。
実際はサマーディとヴィパッサナーは同じだが、それが理解できるようなレベルではない。

■他のヴィパッサナー
本を読む限り、ミャンマーのヴィパッサナー瞑想は本質を捉えているように思いました。
それと、テーラワーダ仏教も本質がわかっているように思いました。

同じヴィパッサナー瞑想の看板を掲げていても中身を見るとプラティヤハーラをサマーディだと勘違いをしているゴエンカ式もあれば、その一方で、本質をわかっていてプラティヤハーラ相当から始めている流派もあるのだなと思いました。

おそらくヴィパッサナー瞑想を勘違いしているのはゴエンカ式くらいで、他の流派は、プラティヤハーラ相当からのスタートだと明確にわかっていてヴィパッサナー瞑想をしているように思われます。そのように感じられます。ですからダーラナ(集中)もディヤーナ(瞑想)も否定しないのですね。ゴエンカ式だけが集中瞑想(サマタ瞑想)を下に見て自分たちのヴィパッサナー瞑想こそが悟りへと至る瞑想だと主張していますが、そのように自分たちだけが最高だと思うような思想であればスピリチュアル初心者ということですので、ゴエンカ式を信奉している人の多くはスピリチュアル初心者であるように思われます。これは悪いと言っているのではなく、この世界はいま、瞑想が足りていませんから初心者向けであっても瞑想は大切なものです。ただ、勘違いをせずに、自分たちがしているのはプラティヤハーラであると明確に自覚してほしいと思っているだけです。プラティヤハーラ相当をしていても無駄ではありませんので悲劇ではありませんが、自分たちはサマーディをしていると思っていても実際はプラティヤハーラだったりするのは喜劇のようなもので後で笑い飛ばすしかない状況です。まあ、本人たちが好きで喜劇しているのは勝手にすればいいのですけど、周りを巻き込んで他人の瞑想を貶めるのはやめていただきたいです。ゴエンカ式をしている人の、他の人の瞑想に対する評価と態度が酷すぎます。本来は瞑想を長年してきた人の指導を受けるべきなのに新たな手法にしてしまって歴史が足りないからこんなことになっているのかもしれませんね。ゴエンカ氏は古代の瞑想を数千年ぶりに発掘して復活させたと主張していましたがそれは無知というもので、実際はブッダの瞑想の手法は各種の流派で受け継がれていますからね。各種の瞑想の流派では千年以上の歴史がありノウハウも数多く蓄積されているのです。落とし穴に落ちないための知恵もそれらの流派では蓄積されていますから、新たに始めたゴエンカ式に蓄積がなくて同じような落とし穴に落ちていたとしても不思議ではありません。

■ヨガ瞑想
古典のヨガ瞑想は、時間がかかります。
プラティヤハーラにまず時間がかかり、ダーラナに至ってもそこでまたプラトーがあります。
感覚的には、ダーラナを超えてしまえばその先は早いのではないかなと思っています。


▪️顕教と密教とヨーガスートラ

瞑想の多くがプラティヤハーラだとわかったわけですが、それと同様に、おそらくは顕教(けんぎょう)もプラティヤハーラ以前を扱うのだとすればすっきりします。

顕教はわかりやすい教えで一般大衆に向けた道徳観などを解きますが、ヨーガスートラ的にはヤマ・ニヤマのような道徳を説いていますし、雑念から離れることを主目的にしているところなどはプラティヤハーラそのものです。

多くのお坊さんが道徳を説いて、あまり難しいことを考えずとも素直に穏やかに道徳的に過ごせば良い、と説くのも顕教的なヤマ・ニヤマ、そしてプラティヤハーラなのだとすれば納得がいきます。

お坊さんにヨーガスートラのダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)のことを聞いてもサッパリだったり「そんなことは考えなくても良い」などと言われたりするのは顕教であって目的がプラティヤハーラなのだからですね。

そのように顕教の教えを説いている宗派のお坊さんあるいは信者に対して他のことを聞いたり教えを疑問に思ったりすることは、いわば野暮な行為なわけですね。だって顕教ですからそんなことを答えてくれるわけもありません。

先日のマインドフルネスのお話やゴエンカ式ヴィパッサナーもそうでしたが、かなり高い教えっぽく聞こえるものであったとしてもその実態はプラティヤハーラだったりします。言葉で「悟り」とか色々言っていたとしても、実際はプラティヤハーラであることがほとんどな気が致します。そう分かってしまえば、わざわざそれ以上を説く必要はなくて、プラティヤハーラであるところの「感覚に囚われないようにしましょう」とか「雑念を取り払いましょう」と教えることで一般大衆向けには十分すぎるほど十分なわけです。それがきちんとできるだけでもこの世を幸せに過ごすことができますので、悩みに囚われている一般大衆を助けるにはプラティヤハーラが重要になってくると思うわけです。

私は長い間、それらの一般大衆向けの流派および瞑想団体・宗派を勘違いしておりました。どちらかというと、私は一部の大衆向け流派を、ある意味では買いかぶっておりました。これはいい意味に捉えていただきたいのですが、おそらくは団体を立ち上げた中心人物の多くはすべてを分かった上でプラティヤハーラをしているように思えるのです。それでいてそれより上のレベルである悟りとかを説いて人々を惹きつけていたのだと思います。一部、立ち上げた人がよく分かっていなかったのではと思われるような事例もありますけど、歴史のある団体であれば分かった上でプラティヤハーラを説いているような気が致します。

そうした、団体の布教の対象として大多数である庶民をターゲットにし、であるからこそプラティヤハーラを主目的にあげるのは信者を増やすという点で有効だったように思います。

一方で、それ以上の境地、ダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)は密教の領域であると言えると思います。

一般教養の本を見ると顕教と密教はもっと違う定義がしてあったように思います。例えば顕教は道徳やわかりやすい教えだとして、密教はタントラのようにイメージを使ったりマントラを使うとか、そういう話はあると思います。しかしながら、ここで言っているのはあくまでも私の理解の上での分類であって、一般的な分類ではありません。

私は一般教養の説明より、こちらのヨーガスートラを基にした分類の方がすっきりするのです。

今、割と世間で話題になっているマインドフルネスなどの瞑想は、以下のような構図になっているように思います。

・テクニックとしてはプラティヤハーラ。顕教。雑念から逃れてリラックスする。よくてダーラナ(集中)でゾーンに至る。
・宣伝としては現世利益のリラックスおよび仕事の能率アップ。

他には、ゴエンカ式は以下のような組み合わせだと思います。

・テクニックとしてはプラティヤハーラ。顕教。雑念から逃れてリラックスする。そのことを「観察(ヴィパッサナー)」と呼んでいる。
・宣伝としてはブッダの瞑想。サマーディを超えた、悟りに至る観察瞑想(ヴィパッサナー)。

実際、大衆向け、特にビジネス向けであればプラティヤハーラを超えることはなく、サマーディを超えた瞑想とか言っていたとしても全然サマーディに達していないわけです。これは蔑んで言っているのではなく、プラティヤハーラはそれでもサマーディに達する一段階であるわけですから無駄ではないわけです。確かにそれは悟りに辿り着くことができますが、何やら勘違いがあるだけのお話です。

このように、一般大衆向けの宗派・団体であればほとんどがプラティヤハーラを主眼に置いているのだと思います。

特にそれが悪いわけでもなく、そうすることで多数が救われるのだと思います。

個人的にはプラティヤハーラはもちろん重要ですけど、それに絞った顕教の活動はあんまり興味がないです。色々なパターンがあるのでしょうね。

・プラティヤハーラが分からなくて信徒あるいは団体に入るパターン
・プラティヤハーラを超えてサマーディ等に達した後に一般大衆を導くため顕教の教祖になるパターン
・プラティヤハーラを完全には超えていなくて自分も信徒と一緒に学ぶために教祖になるパターン
・プラティヤハーラこそが悟りだと勘違いして信徒になるパターン
・プラティヤハーラを達成して自分が悟ったと勘違いして教祖になるパターン

色々あるのだと思います。信徒や教祖にしても様々ですし、団体も多様です。

しかしながら、その根元である、顕教はプラティヤハーラを目的とする、という1点さえ抑えていればかなり見極めができると思うわけです。



瞑想でうとうとしている時に3年後や銀河と少し繋がる

数日前、瞑想をしていると左の目の中に小さな光が飛び込んできてびっくりして目を開けました。光は何度となく瞑想中に感じておりますが大抵の場合は光がきらめいて消えるという種類のもので、今回のように光が飛んでくるということはほとんどなかったように思います。それほど大きな光ではなく、蛍あるいはもう一回り大きいくらいのささやかな光でした。瞑想は目を瞑っておりましたが、少し前に光を感じ、その光が左目の中に飛び込んできたのです。

それ自体はそれだけで終わり、何事もなく数日が過ぎました。

その光の体験と次の体験が直接的に関係があったのかなかったのかはわかりませんが、その数日後、また違った体験を瞑想中でしました。



それは、意識がもうろうとなり、意識が奥深くにまで引き込まれ、体の中が漆黒の銀河となり、3年後に向かって細く糸が伸びているかのような感覚でした。

どこか外に繋がっているというよりは、自分自身の体を中心とした縦長の楕円形の部分が奥の深いどこかに繋がっている感覚。自分の体が漆黒の実感のある厚い雲に覆われたようになっており、そこがワームホールになっていて、ワームホールの先を辿るように覗き込むと竜巻のような渦のような糸が3年後にまで繋がっている感覚です。

それはきっと30年後にまで繋がっているのではと思って探ってみたが、30年後に対する実感はなし。

自らを観察してみると、体の各所に銀河のように星の煌めきがあり、輝いているのを感じます。

更には、ハートの中心が反応して酷使しているような、ちょっとした圧迫感が点のように感じます。ごく一部の1点が特に使われている感じです。

体全体、特に上半身が銀河そのものとなり、奥深くの銀河を覗き込んでいる感じです。

外に銀河が広がっているという感じではありませんでした。上や横、あるいは後ろ、下などには何も感じませんでした。体そのものが銀河全体であって、体の中に小宇宙や銀河がいくつも存在している感じでした。あまりにもアニメとかの映像と似ていたのでこれは想像なのかなとも少し勘ぐりましたが、この「繋がっている」「存在している」感覚はイメージではありませんね。

人間の体は小宇宙であってその中に銀河や太陽系が存在しているというお話、今までそれは単なる理屈か何かかと思っていましたが、実際に体験してみると、「あれって本当のことだったんだ・・・」と、思いを新たにしました。

チャネリングみたいな感覚ですとどこか「外」に繋がる感覚がありますけど、これは完全に私の内で起こっていたことでした。

外部にいる意識体、あるいはテレパシーでは「外」に繋がる感覚があります。しかしながら、これは自分自身が小宇宙になって、自分自身の小宇宙に潜ってゆくとその先は時空を超えているのだと思いました。

今回は、半分は夢見のようなうとうととした感覚で小宇宙に繋がっていました。

まだ自由自在に探検できるというほどではないですけど、うとうとしていても意識を保てるという感覚があって、そのうち情報を引き出せそうな気も致します。

この状態はおそらくエネルギー的にも高まっていて、オーラが体の中に凝縮されているような感じが致します。

とりあえず、現在勉強中のサンスクリットの未来3年分の印象をちょっと辿ってみて、もう少し文字を読むのが早くなったらいいな・・・ という意図の元、未来の自分の印象を少し辿り寄せてみました。すると、急にサンスクリット文字がちょっとだけ読みやすくなったような・・・? 気のせいかも? まだ様子見ですけど。ほんのちょっとだけ繋がっていた気も致します。

これ、よくスピリチュアルで言われているように「過去から未来が作られるだけではない。未来から過去が作られる」というお話そのものかもしれませんね。過去から未来に向かって経験を積み重ねて、その結果を過去にフィードバックするわけです。それができるようになったら私の人生もガラリと変わる気が致しますが、さて、どうなりますかね。



霊視などの能力とエネルギー総量は別のお話

霊視はサードアイ等の能力。
エネルギー総量はクンダリーニの活性化などのお話。

それぞれ別です。

能力は周囲の霊的なものを感じ取る力。
エネルギーレベルはポジティブさに関連しています。

この両者はバランスよく育てる必要があります。

理想を言うのであればエネルギー総量を上げるのが先、能力は後がいいと思います。

能力だけ上げてしまうと、能力が上がったことによって感じやすくなったことで周囲のポジティブおよびネガティブの両方に感応しやすくなってしまい、エネルギーが足りないとネガティブの方に引き寄せられてしまいます。

パワーが上がればポジティブになって雑念が減ると言うのが基本です。

能力だけアップしてエネルギーが足りない場合は体調の不良に悩むことにもなります。

基本は自分で自分の能力を磨く、それは浄化ということですけど、浄化を進めることが1つ。
それと、エネルギー的に自分の体を活性化してクンダリーニを動かすことが重要です。

まあ、そうは言いましても人は色々で、このような地道な方法を選ばない人も多いのです。

例えば、自分のエネルギーを上げる代わりに妻などのパートナーあるいは会社の従業員からエネルギーを吸い取っている方も大勢いらっしゃいます。本人はそれと気付いていないことも多いですし、周囲から見るとポジティブに一見すると見えますけど、よく見れば本人のエネルギーが活性化していなくて他から奪っていたりするのがわかります。往々にしてそう言う人はうまく周囲からエネルギーを奪っていますので、あまり関わり合いにならないのが良いかと思います。

妻が年齢に対して衰弱しているのを見ると夫がよほどエネルギーを吸い取っているのだなあ、というのが一目瞭然なのですが、それは、妻を養う変わりにエネルギーをもらうという関係になっている場合もありまし、家庭のことには興味がなくて、ただ単にエネルギー的にそういう関係になっているという点が目につくだけのお話です。私なんかからすれば、よく妻が離れずついているなと思うわけですけど、その人の勝手ですから好きにすればいいと思います。

能力は自分が持つ必要がありますが、それすらも、他人から奪うことが一応はできます。古い神話を見ると「能力を奪う」お話がいくつも出てきていますけど、それは事実なわけです。とは言いましても最近の能力者は大したことないので能力を奪うとかそういうレベルではないですけど。

大抵の場合、能力があると言っても周囲の人の考えることがわかるだとか、オーラの感じがわかるとか、その程度であることがほとんどです。それは、本来は日本人であればほとんどの人に備わっていた能力で、特に特別でもなんでもない能力です。

今更、それをわざわざ修行とかして開発したとか言っている人がいますけど、日本人にしてみたら当たり前すぎて「あ、そのことをサードアイとか霊視とか言っているのですか? な〜んだ。拍子抜け・・・」っていうくらい平凡なことだと思います。

まあ、そういう能力的なところと、エネルギー的なところですね。そのバランスが取れていないとネガティブに悩みます。

それと、それなりに修行が進んだ後であれば、尊敬を集める、権力を握るなどの方法でエネルギーを集める方法があります。例えば戦国時代の天下人にでもなれば全国からの尊敬を集めたわけで、スピリチュアルなエネルギーも相当に集まるのです。

現代人の有名人も同様ですね。世界にあまり良い影響を与えないような存在であってもそれなりに有名になればエネルギーが集まって、その集まったエネルギーで更に活動することができてしまいます。ですから、有名でエネルギーに溢れているからと言って良い存在とは限らないわけですね。有名になりさえすればポジティブ・ネガティブの両方のエネルギーが集まりますから、それを扱うことができる器がなければ壊れてしまうわけです。ある程度の修行をしてクンダリーニが活性化し、自分のオーラがしっかりした状態でないと有名になるのは危険なようにも思います。

現代はスピリチュアルなことが軽視されすぎていますけどね。有名になっている人を見ると前世などでしっかり何某か修行してきた人も多いような気が致します。今生では割と普通の人生であったとしても、ある種の基礎ができているわけですね。そうでなければ若くして有名になるのはもちろん、歳を取ってからであっても何某かのスピリチュアルな基礎がなければ有名になった後すぐに倒れてしまうと思うわけです。



諸派の見解から自分の状態に合ったものを引用する

私は色々な流派の見解を引用していますけど、これは流派を混ぜているとかそういうことではなく、自分の状態を一番よく説明できるものを流派に無関係に選んでいるだけです。

私の魂の遍歴から見ても色々な流派を世界各地で行っており、イギリスで魔法使いだったこともあればスペインで占い師だったりインドでグルをしていたり、色々ですので、混ぜているように見えるかもしれませんがそれは逆で、まず自分の状態があって、その自分の状態を一番きちんと表現できる流派の説明を引用しているだけです。

本来、このようなものをスピリチュアルとか仏教とかヨーガとかに分類することすら不要なわけです。そもそもスピリチュアルや本来の宗教というものは根元において同一ですので、スピリチュアルと言っても宗教と言っても本質的には変わりがないのです。

自分の属している流派が特別だと思っているのであればそれは大抵スピリチュアル初心者だと思います。あるいは本当に特別な場合も稀にあるとは思いますけど、大抵の場合は初心者がそう思っているだけだと思います。

私のように長い時代を生きてきてキリスト教が栄える前も知っていますしキリスト教が魔女を弾圧したりインドでヒンドゥー教が栄えた頃も知っていますから、今更諸派に属するとか1つの流派に属すべきだとか流派を混ぜるなとかいうお話をされても時代の視点が短すぎて困ってしまいます。

キリスト教や仏教は1000年以上の歴史がありますけど、まあ、それも多くあるうちの1つです。そもそもキリストもブッダも今は生きていませんからね。流派にこだわる必要はないのではないでしょうか。キリストやブッダも割と普通の人として今は生活しているかもしれませんしね。そういうことだって時代によってはあります。

根元は同一ですので精神的な修行をする流派は根本において大差なくて、人によってやりやすいかどうか、文化的に合っているかどうかの違いがあるだけです。ですから近所の行きやすいところに行ったらいいと思うのですよ。どこだってそうは変わりないですよ。ですから、本来はスピリチュアルにせよ仏教にせよ何を名乗っても良いのです。そうは言いましても、ある程度の整理をしたいので、一応はスピリチュアルという位置付けにしています。なんとなくスピリチュアルと言った方が広範囲をカバーできている気がしますからね。

ですが、基本は上に書いたように自分の状態がまずあって、それを表現する記述を探す、という順番です。逆ではないです。

色々書いたりすると「想像することと実際は違うとか」言ってくる人がいますけど、逆なのですよね。自分の状態が先で、記述を探すのが後ですので、想像とかそういうことではないのです。

書物を読むときに特定の流派だからと言って流派で選別して全てを鵜呑みにするということはなく、自分の状態と照らし合わせて納得できる表現を流派に関係なく探すという読み方をしています。そしてそれらの表現を見つけたら自分の状態と一つ一つ比較して、おそらくその記述が自分の状態と一致しているかどうかを確認した上で引用しています。このような読み方は諸派に属している人にとっては反感を買うこともありますけど、諸派の読み方が違うのであればそれは好きにすればいいのではないでしょうか。

私の場合、グルと言える存在があるとすればハイヤーセルフと守護霊で、ハイヤーセルフはあまり口出ししないですけど元チベット僧の守護霊の方は色々と細かく教えてくれます。守護霊のお姫様の方は基本的に見守っているだけですね。

ですから、系統があるとすればそれですので、特に流派に属する必要性を感じません。多少、諸派のグルのお話を聞いたこともありますが、弟子になりたいとは思いませんでしたしね。最近は大川隆法にちょっと興味がありますが、グルと弟子という感じではなく、もしかしたら本物かもしれない、と思ってウォッチしているくらいですね。

私の元々の魂の経歴から言ってそれがそのまま流派になっておりませんので諸派に属するのもちょっと違う気がしております。属するとしたらその他にいくつか候補がなくもありませんが、それはここでは関係のないことです。ある種の戯れ、あるいは、新たなる使命のために諸派に属するということは可能性としてはなくはないですけどね。

ですから、原始仏教であってもゾクチェンであってもピンとこない文章は基本的にスルーしていますし、ピンとこない記述を暗記するなんてこともしません。例えばそのような読み方をすると、おそらく今の自分の状態はシャルドルに相当するのでは、と読み解けたりするわけです。



馬陰蔵相が深まり、性的欲求が更になくなる

仙道に馬陰蔵相(ばいんぞうそう)というものがあります。

馬陰蔵相とはは性欲が収まってきたことにより体に具体的な変化が起こることですけど、男であれば性器が引っ込んできて子供のようになることですし、女性であれば胸が小さくなってきたりするようです。

ここ最近、おそらく半年以内は特にその傾向が強くなりました。

今後、また性的な夜の営みをすることがあるのだろうか? という疑問すら出てきます。

完全に性欲がゼロになったわけではなく、やろうと思えばそのような行為もできるようですし、夢精もゼロになったわけではないです。とは言いましても、普段の生活において性欲がかなりのところまで制御されてきたように思います。

最初はクンダリーニ経験(2回目)の時に始まり、マニプラ優勢になりました。
その後、アナハタ優勢になったときに更に10分の1くらいになりました。

約10ヶ月前、視界がスローモーションで認識されるようになってから更なる変化が現れました。性欲がどんどんと減っていったのです。

そうしているうちに、数ヶ月前から体に変化が現れ、性器が更に引っ込み始めたのです。その時はまだ小さな変化だったのですが、ここにきて、また更に引っ込んだ感じが致します。

性欲が完全にゼロになったわけではありませんが、こうして段階的に性欲が下がってきて、それと入れ替わるように平穏な意識が出てきております。

生殖行為はまだ可能なようですが、いつまで可能かはよく分かりません。

単に歳を取っただけというお話もなくはないですけど、こうして段階的に追ってみるとクンダリーニの経験と共に劇的に性欲が解消されていますのでヨーガ的な変化が関連しているのは間違いないと思います。

特に昨年末以降は、素敵な女性を見てもほとんどときめかなくなりましたので、仲が良くて時々話す女性と会ったりすると変化に驚かれます。ヨーガ的な観点がないと「私のこと興味なくなっちゃたのかな」と思われてしまう可能性は大いにあります。その辺り、なかなか難しいです。実際に性欲はほとんどないですけど生殖活動としては一応は可能ですが夜を楽しむなんて感じでもないですので、はてさて、どうしたものですかね。もはや、世間を離れて暮らすしかないのかなとも思ってしまいますが。まだそういう選択はしていないですけど。

あるいは、そういうことに理解のある相手ならパートナーとしてありかもしれないですね。それで相手が満足してくれるかどうかはわかりませんけど。

以前は生殖器が小さくはなったもののまだ出ていましたので、馬陰蔵相の説明に書かれてある睾丸やペニスが、子供のように奥に引っ込んでしまいという部分が、程度としてはそれっぽいのですが完全にそうではありませんでした。今は、かなりそれっぽくなってきました。そのような違いがあります。

これは、目に見えてわかる変化のサインだと思います。



瞑想で、電波の悪い携帯電話の通話のように雑念が切られる境地

▪️真っ白い平らな大地の少し上に浮いている境地の瞑想

そこは静かで、何もありません。

少し前であれば、何もない状態になると心が動揺していました。その動揺にも程度があって、1年くらい前には動揺の度合いがかなり減って、それはそれで動揺がなくなった境地ではあったのですが、ここ最近、更にその動揺が減りました。

言葉で表すとどちらも同じようなものになってしまいますが、平静な状態になると何某か心が動揺するものです。あまりにも静かですから心が「これでいいのだろうか?」と騒ぎ始めるのです。

その大きな変化が1年前くらいにあって、心がかなり平穏になったが故に心が動揺すると言うことがそれから度々あったように思います。

今回は、平穏な境地と共に、動揺がほとんどない状態に変化しました。

平穏な境地そのものも1年前と比べて少し変化しており、もともと1年前でもそれなりの平穏の境地だったように思いますが、今回は地平線が見えるほどに真っ白な平らな大地がずっと続いています。

その上に、少し宙に浮くように私が漂っているのがわかります。

そして、そのような平穏な状態であっても心が動揺していません。

瞑想から終わった後にその状態を言葉で表現しようとして今回は色々と状態を言い表していますが、瞑想中は特に気にすることなく平穏な状態が続いています。

これは、「至福」と言う感じではない・・・ と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、「歓喜」と言う感じの激しい喜びではなく、平穏でいてささやかな幸せな境地とでも言えるものです。

言うならば、「あの世」が存在しているとすればこのような平穏なものなのではないかとも思えてきます。人の世界から離れ、あの世があるとすればこのような平らで平穏な境地なのではないかとも思えてきます。

実際には、幽体が存在している人間界に似た世界は割と騒がしいのでここで言う「あの世」の概念とは違っていて、ここで言う「あの世」とは、死ぬときに昇天することができて成仏する時のイメージとして「あの世」と表現しています。そのように、成仏する時があるとすればこのように平穏でささやかな幸せがある境地なのではないかと思います。

これが「涅槃」なのかどうか・・・? と言われると、よくわかりません。そうなのかもしれないですし、そうでないのかもしれません。
これが涅槃なのだとしたたらこれが「悟り」なのかもしれませんが、そうかどうかはよくわかりません。そうかもしれないですけどね。

おそらく、これで終わりではなく、単なるプラトーであるような気も致します。

もし悟りというものがあったとしても、もしかしたら、それは単に一つの段階を終えて次なるサイクルに入る、入り口であるようにも思えます。

であれば、この状態がプラトーであり、まだ先があるということが理解できます。

今の状態は瞑想中で起こる一時的なものと瞑想後にも緩く続く同じ感覚ですので、これが確かなものになるまで瞑想を続ける必要があるのだと思います。

最高の悟りというものは上には上があると思いますし、この状態では、今の状態がどうであれ思い悩むことのない境地ではありますので、上があったとしても「ああ、そうですか」というだけのお話です。気にすることでもないですが、たぶん、これより上があるのだな、というのはなんとなくわかります。

「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると似たようなお話がいくつか書かれてあり、涅槃に達したとしてもそれが継続して起こるようになるまで繰り返し修行しましょう、と書かれてあります。

日本での悟りのイメージですと一回でも涅槃に達したらそれで悟りとみなされるようですが、継続して涅槃の状態に留まれるようになるまで修行して、継続して涅槃にいられるようになってもまだ尚、その上の境地への修行があるようです。

これは私の感覚と合っていますので、この本はガイドとして利用できそうです。


▪️ヴィパッサナーと呼んでも良い平らな境地

真っ平らな平静な意識で瞑想を続けます。

ゾーンの時に沸き起こるような激しい歓喜はありません。ただ平静で、ただ、熱だけを感じています。

熱があって、それしかない。意識はあります。意識が存在していることを感じます。意識は寝ていません。

意識が深いところに行くと、体を忘れます。

そして、意識が戻ってくると意識は熱を感じます。あるいは、呼吸の動きを感じます。

意識がなくなってしまう状態ではなく、意識が起きたまま深いところに時々、辿り着くことがあります。あるいは、意識があって深く潜れていない時は熱や呼吸を感じています。

これらの状態は、言葉で言い表そうとすると昔の状態とかなり似ていて、読んだだけでは違いがわからないかもしれません。

世間では呼吸を観察する瞑想なども行われていますが、多くの場合、それはプラティヤハーラ(雑念からの離脱)あるいはダーラナ(集中、ゾーンによる歓喜)を意味すると思います。ここで言っている観察はプラティヤハーラのように雑念から逃れようとする行為ではなく、また、ダーラナのように集中しようとする行為ではありません。ここでいう静かに眺める、とは、意識が静かになっていることを前提としており、文字通りそのまま静かに眺める行為を指します。

熱を感じたり呼吸に意識しているとき、そこにはほんの少しだけ意識が動いています。雑念がなく、ただ、熱や呼吸を感じます。そこに雑念があるかないかが以前と今の違いです。

このメモのように、意識的に状態を観察して記録しようとする時は雑念ではないですけど分析的観察と思考が明確に働き、言語化します。その明示的な言語化はあります。また、雑念が完全にゼロになるわけではなく、雑念なく瞑想を続けられる時間が以前より長くなり、おおよそ50%を超えているのではないかと感覚的には思われるのですが、実際のところ瞑想はあっという間に時間が経ちますのでもっと割合は高いかもしれませんし低いのかもしれません。どちらにせよ雑念に惑わされなくなったという点においては確かです。

そのように意識が明示的に働く、あるいは、多少の雑念が働いたとしても、心の観察する力がかなり強くなっていますから、観察だけしていればやがて雑念は消え去ってゆきます。

実際、雑念を維持する方が大変で、同様に、思考や観察をしてこのメモのように瞑想中の状態を記録することの方が大変だったりします。瞑想的にはメモなんて何も取らない方が楽ですし、きっと時間的にはその方が早く進むのですが、私の場合は人生の目的の1つが悟りへの階梯を確かめることですので事細かに記録したいわけです。私に縁のある数々のグループソウルが転生する際は生まれながらにして悟っているのが当然だったために、私のように悟らずに生まれるパターンは貴重で、皆にフィードバックしてあげたいのです。それが人生の目的の1つであります。

そのように、想念が勝手に消えてしまう境地はリクパが動き出した境地と言うこともできると思います。

よく、瞑想の指導を受けたりすると「瞑想中に浮かんだ雑念とは戦わず、ただ観察しましょう。観察すればその雑念は力を失って消えてゆきます」とか教えられたりしますけど、それはある程度瞑想が上達してこの種のリクパが動き出した人であればその通りですけど、大抵の人はただ雑念に翻弄されるだけだと思います。聖者がかつてそのようなことを言ったのを真に受けているのでしょうけど、それっぽく聞こえますけどそれなりの瞑想中級者にならないとこれは真実ではないのですよね。

この種の、雑念が自動的に消える境地に達すればそれはおそらくヴィパッサナー(観察)と呼ぶ状態に相応わしいような気が致します。

流派や技法としてのヴィパッサナー瞑想は段階的にはもっと手前のプラティヤハーラ(制感)だったりしますので、ここで言っているヴィパッサナーはそう言った流派や技法のことではなくて、本来ブッダが言っていたであろうヴィパッサナーとはこのくらいの境地のことを意味していたのではないか、と言う私の推測です。


▪️目を開けていても平穏な瞑想状態が続く境地

平らな境地に達すると、やがて、瞑想中だけでなく日常生活にまで平穏な意識が広がってゆきます。

最初は視界がスローモーションで感じられると言うような動体視力による変化でした。やがてその視界の感覚は普通になり、特に視界だけに変化があると言うよりは五感全てに行き渡る感覚に変わりました。最初は、視界だけが強烈になったのですが、今はその頃のような強烈さはなく、目へのエネルギーは抑えられているようです。目に集中すれば視界が細かく入ってきますが、普段はそこまで目にエネルギーを送らず、節制しているようです。最初はコントロールできなかったのと、視界が面白いのでずっと映画のような感覚を楽しんでいました。

今は五感全てに感覚が行き渡り、瞑想中だけでなく、周囲の感覚が静かに常に入ってくるようになりました。程度問題と言えばそうかもしれませんが、そうなった鍵は、平穏な意識にあるように思います。

そのように、最初は瞑想中だけであったものが、日常生活まで広がったのです。

少し前は、何段階かに分かれて平穏状態になると言う種類のもので、瞑想が終わると少しずつ戻っていきました。今は、日常生活でかなり平穏状態で、瞑想をすることで更に深める、と言う種類のものになっています。

それにより、座った瞑想においても変化がありました。

以前は、座った瞑想で目を開けると視界がスローモーションのヴィパッサナー状態になってそれが映画のように感じられて心が高揚するという感じでした。それ自体は面白いのですが、瞑想という観点からいうと、目を瞑っていないと何段階かに分かれて平穏状態になるというような瞑想の効果が出なかったのは事実です。

瞑想で平穏状態に持っていくためには目を閉じて行う必要がありました。

しかし、最近の変化で、座った瞑想中に目を開けていても平穏な瞑想状態が続くようになりました。

・・・これは、言葉で言い表すのは難しいかもしれません。

ヴィパッサナーと呼んでも良い平らな境地あるいは、もしかしたら涅槃と呼んでもよいかもしれない意識、それが目を開けていても続くのです。

おそらく、目というものはかなりエネルギーを消費するのです。ですから、やはり今でも目を瞑った方が瞑想はやりやすいと言えばやりやすいのですが、目を開けていても涅槃が続きます。

これを涅槃と呼んでいいのかどうかは微妙ですが、とりあえずそう呼ぶことにします。

他の違いはというと、スローモーションのヴィパッサナーの時は目にエネルギーが行くことで目の前の対象にフォーカスが自然に合わせられます。視界がはっきりとします。今は、意識的にフォーカスを合わせることもできますが、瞑想状態であれば視界がそれほど合わないぼやけた状態でいることが普通です。焦点を合わせるということは意思の力が必要で、涅槃の状態ですとそれは意識的に働かせないとならず、自動的にはそんなに動いていないようなのです。

この状態ですと、自身の本体が肉体の皮膚という皮の内側に存在しているのを感じます。

おそらくは、周囲に興味を持ったりするときは自分の本体、オーラと言っても良いものが体から出て対象に向かって伸びている状態なのではないかとも思います。

一方で、このいわゆる涅槃の状態では自分自身が体の内側にすっぽりと入っており、皮膚の厚みがしっかりと感じられて、皮膚の内側に自分が収まっているのを感じます。

自らの中にしっかり収まっているので、周囲の思念波にもほとんど影響されません。

きっと今まではオーラが外に向かって発散しており、オーラが自らの中に凝縮されたということもできるのではないかと思います。

この状態ですと、目を開けていてもいわゆる涅槃の平穏の状態が続くようです。


▪️雑念が生じると同時に解放して静寂な境地に近づくシャルドル

平穏な意識状態はおそらくはゾクチェンでいうところのチェルドルあるいはシャルドルに相当するような気が致します。

これは、サマーディを続けるうちに育ってくる3つの能力のうちの2つです。

1.チェルドル →これか
2.シャルドル →これ
3.ランドル

シャルドルの定義は以下のようなものです。

シャルドルは「生じると同時に解放する」ことを意味している。すなわち、いかなる種類の感受が生じても、それはみずからを解放する。知恵を保とうとする努力すら不要だ。(中略)煩悩によって制約されることはなくなる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

最初のチェルドルの段階では雑念は段階的になくなり、瞑想することで平穏な状態に達しました。今は、特に瞑想中、特に努力しなくても自ら雑念がすぐに解放され、強い太陽の光に照らされた水滴のようにすぐに蒸発してしまうように思います。そしてそれは、明示的な座った瞑想が終わってもしばらく続くのです。

この状態はもちろん行ったり来たりしておりますので多少状態が戻ったり進んだりということがあります。しかしながら、平均すると割とシャルドルの状態が多くなってきたような気が致します。

ゾクチェンでは、この状態を以下のように説明しています。

ゾクチェンにおいては、あらゆる煩悩や、カルマから生じるあらわれも、ただの飾りになると言われるのはこのためである。執着することなく、単にあるがままのものとして、すなわち自分のエネルギーのたわむれとして、それを楽しむのである。密教の守護尊の中には、克服された五つの煩悩を象徴する、頭蓋骨できた王冠を、装飾として身にまとっているものがある。その王冠は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

最初の段階のチェルドルではまだ自分の努力が必要で、であれば、まだ五感の煩悩は装飾品とまではみなせていなかったような気が致します。チェルドルではまだ五感の煩悩が自分自身と幾分かは一体化しており、それを引き離すためにある程度の瞑想が必要でした。そのことが段階的にやってくる平穏状態として認識されていたのかなと思います。

そうは言いましてもこの種の煩悩・雑念からの分離はヨーガスートラ的にはプラティヤハーラとして識別されており、かなり初期の段階から意識されていることではあります。初期の基本であるからこそ初めのうちから意識され、ここにきてようやくほぼ完成に至るということかなと思います。

・プラティヤハーラ 雑念からの分離を試み始める。1〜2割
・サマーディのチェルドル 雑念からの分離の最終段階の始まり。7〜8割
・サマーディのシャルドル 雑念からの分離の最終段階がほぼ終わる。9割。ここ以降が静寂な境地

そして、次の段階であるランドルに達するとその分離が更に進むように思います。

このチェルドルにせよシャルドルにせよ、ヨーガスートラではきちんと説明されていません。サマーディ以上になるとヨーガスートラでは説明不足で、ゾクチェンや原始仏教をあたらないときちんと自分の状態を把握できないような気が致します。


▪️シャルドルのような状態でもトラウマなど葛藤は存在する

シャルドルかもしれない状態になっても時々トラウマが出てくることはありますし、雑念も浮かびます。しかしながら、出てきた後の対処が割と自動的に行われる点が違うと思うのです。

瞑想あるいは日常生活において不意に過去のことを思い出して葛藤が出てくるとします。以前であれば尾を引いてしまったりしますが、今は、自動的にそれが消えてゆきます。太陽が水滴を照らして自動的に蒸発するかの如く、出てきた葛藤は次第に消えてゆきます。

これらの力は程度の差こそあれ、以前から育ててきたものです。ですから、言葉で言い表そうとするとどれも似たり寄ったりにはなってしまうのですが、チェルドルですとある程度自分が意識してその葛藤を見てあげないと消えてゆきません。しかしながら、シャルドルの場合は何か自動的に「見る力」が働いてすぐに消えてゆきます。そこが1番の違いのような気が致します。

大きなトラウマであれば一瞬は深く傷付いたりします。ずっと忘れていた深い過去の記憶が出てきた時は、それが久々であれば久々であるほど大きく精神的なショックを受けます。

ですから、シャルドルはおそらくは静寂の境地の入り口ではあるのですけど、静寂の境地に達したからと言ってすぐにトラウマなどの葛藤がゼロになるわけではないのだと思います。

先日お伝えしましたように、煩悩やそれに類する感覚、トラウマも含めてそれらの諸感覚は全て「装飾」であるが故に、装飾として認識できるようになったという違いはあれど、その諸感覚はやはり、ある程度は存在し続けるということなのでしょう。

カルマは何種類かありますがこの世に生まれてきたカルマはまだ継続していて、いくつかのカルマの種類は悟り・モクシャ(自由)を得ても継続すると言います。

トラウマも過去の行いが原因で起こるものであれば、その結果としてのトラウマが出てくるのは避けられないことなのでしょう。

ただ、もはやトラウマに囚われる間隔はとても短くなり、そのトラウマから解放されるプロセスもシャルドルにおいては自動的ですから、一時的な記憶と傷つく感情としてトラウマを体験することになると思います。それは心が痛むのは痛みますし、その痛みがなくなるわけではありませんが、シャルドルの静寂の境地の力によってその痛みから解放する力が一定以上にまで上がったと言うことができると思います。

[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。


▪️電波の悪い携帯電話の通話のように雑念が切られる境地

シャルドルのようにも解釈できる状態になって瞑想をしても雑念は上がってくるわけですが、それ以前と異なり、雑念がまるで電波の悪い携帯電話の通話のようにプツプツと途切れ途切れになってすぐ雑念が切れてしまいます。

昔はもちろん、雑念があったらあったで雑念の文脈一塊の分だけはとりあえず聞いた上でその先は囚われずに受け流すとか、そんな感じで一応は雑念が来たら受け止めていました。

しかし、ここシャルドルでは雑念が来たら途中で勝手に切れてしまい、雑念は一応は雑念ではあるのですが雑念が意味ある文脈を持ちにくくなったような気が致します。

何やら意味を持つ前に雑念が切れてしまい、何の雑念だったのかすらよくわからない状態です。

その切れ方がまるで、携帯電話で電波状況が悪くてプツプツと切れ始め、やがてプッツリと切れてしまう状況に似ているのです。

明示的な思考は意思を使わないとならず、雑念が勝手に思考のように振る舞うような動きはかなりなくなったように思います。

以前であれば、雑念は所詮は雑念ではある筈なのに何か考えついたかのような自動的な思考が生まれたり論理的であるかのような振る舞いを雑念がして見せたり、はたまた、性的欲求のシナリオだったり、あるいは、あたかも崇高な思考が出たりしました。

しかしながら、シャルドルですとそのような自動的な思考がプツプツと途切れてしまい、自動的に静寂の境地に強く引き込まれるようなのです。

又、以前の、まだ意識が荒い時は雑念と指導霊のインスピレーションを見分けることができずに両方とも雑念として認識していたように思います。それも、次第に見分けることが容易にはなってきたのですが、このように雑念がプツプツと勝手に切れるようになると指導霊のインスピレーションと雑念との違いが明らかになったような気が致します。

雑念は必ずしも言葉ではなくて雑多な感覚であることもあります。雑念であれば波動が低く、インスピレーションというほどの高い波動の感覚とは異なり、単なる雑多な感覚あるいは言葉のようなものになります。そして、わかりやすいようにここでは言葉の場合で説明いたしますが、例えば早ければ1文字目、だいたい3文字から5文字目くらいまで雑念が来たところで携帯電話の電波が悪くなった時のようにプツプツと言葉が切れ始め、そのまま切れてしまいます。雑多な感覚であれば受け始めるとすぐに感覚が切れ始め、そのまま切れてしまう感じです。

この他に、記憶の奥底に眠っていたトラウマ的なものはこんなに簡単にはいきませんが、それでも、以前より遥かに早く切れてしまう感じが致します。

瞑想中はこんな感じでしたが、瞑想が終わった状態では必ずしもこんなすぐに雑念が途切れません。何が違うのかな・・・ と観察してみましたところ、おそらくは体の中に熱や深い宇宙を感じている境地になってエネルギーが高まっているとこのように雑念がプツリプツリと切れるのかな、という気も致します。必ずしも毎回このような感じになるわけではなく、体の中心に漆黒の宇宙と煌めく数多くの銀河の小宇宙を少なからず感じた時にこのようになる気が致します。

これは、パワーが上がればポジティブになって雑念が減るという基本的な法則に沿っている気が致します。

ただ、瞑想したからと言って必ずシャルドルになるわけでもなく、うまく行っている時はこうなる感じです。


▪️成仏するのと似た境地のシャルドル

シャルドルと思われる状態で雑念がどんどんと断ち切られる境地は、成仏するのと似た境地であるように思われます。

私のグループソウルの過去生を辿りますと、何世代か前に成仏してグループソウルに合流致しました。死ぬとあの世に行くわけですけど、そこで友人知人の霊および元の家族の霊たちと合流します。

成仏の前に生きた人生ではとある上場会社の社長をしており、かなり満足の行く人生でした。

ですので、死後、その時の元妻だけでなく多くの縁のある過去生の妻達などとも合流し、「ああ、幸せ。幸せ。幸せ。満足・・・」と言う気持ちになり、天に昇って成仏したのです。いわゆる昇天ですね。

昇天をするとグループソウルに戻り、グループソウルと溶け合います。その辺りの説明は今まで何度かしてきましたし、これからも度々しようとは思いますけど、今回のお話はそこではなくて、昇天する時の満足する感覚です。

成仏して昇天する時の満足する感覚と、このシャルドルで雑念が消えてゆく感覚とがとても似ているわけです。

成仏して昇天するときは雑念がかなり減っており、それは必ずしもシャルドルのような観察する力を伴わないようにも思いますが、このシャルドルの状態ですと各種の葛藤やトラウマがあったとしても成仏して昇天するかのような感覚に導かれてゆくのです。

まだ完全に成仏とは言えないとしても、成仏の感覚にどんどんと近くなってゆくのを感じます。

ただ、そこには満足と熱感だけがあった。人によってはこの熱感を「光」と表現するかもしれませんが、単に熱と言った方がしっくりきます。

ゾーンの歓喜のような激しい浮き沈みはなく、ただただ満足する境地。それはまさに、私のグループソウルの過去生の記憶にある成仏した時の記憶ととてもよく似ているのです。

何故その記憶があるかと言うと、成仏してグループソウルに合流した後、残された妻たちのことが気になり、再度、グループソウルから分離したからです。私がいなくなると残された妻たちが困るかもしれない・・・ と思って、グループソウルから再離脱しました。その時、必ずしも以前と同じではなく、コアになっている部分は同じですけどグループソウルとある程度は混ざり合って、少し違った私となって分離しました。その時に分離した魂が私の今の人生の一つの系統の基になっているわけですけど、まあ、それは余談というもので、ここで言いたいのは、成仏して昇天する時の感覚がシャルドルの感覚にとても似ている、と言うことでした。



プラティヤハーラの段階にある数々の落とし穴

■集中瞑想を否定する人はプラティヤハーラの段階にいる

瞑想初心者でプラティヤハーラをしている段階ですと集中と観察が相反するものとして作用し、集中をすると観察が妨げられる作用が起こります。一方、ディヤーナ以降に進みますと集中しても観察が妨げられにくくなります。

5.プラティヤハーラ(制感) 集中すると観察が妨げられる。
6.ダーラナ(集中)
7.ディアーナ(瞑想) 集中と観察が共存し始める。
8.サマーディ(三昧)

プラティヤハーラは感覚から離れて雑念のしがらみから(少しだけ)解放されることですが、それを「観察」と表現している流派もあります。

初心者の場合はプラティヤハーラをまずは目指しますが、その段階ですと、集中すると観察が妨げられる感覚になります。

これは、プラティヤハーラがまだできていない段階ですと意思が自我と深く結びついており、集中しようとすると自我が強くなってしまうからです。

一方、ディアーナ以降になりますと自我の抑制が効いておりますので集中というものが自我の抑制として作用し、自我が安定し、瞑想が深まるわけです。かと言って観察が弱まるわけではなく、ディヤーナからサマーディに移行する頃には次第に五感を超えた意識が生まれてきて、その新たなる感覚が「観察」を司るようになります。ですからプラティヤハーラもサマーディも両方とも「観察」と表現できますけど、それはかなり違う状態なわけですね。

5.プラティヤハーラ(制感) 集中すると観察が妨げられる。観察瞑想。集中をある程度否定する観察瞑想。
6.ダーラナ(集中)集中瞑想。
7.ディアーナ(瞑想) 集中と観察が共存し始める。
8.サマーディ(三昧)観察瞑想。自我は集中によって安定。五感を超えた観察。集中によって五感を超えた観察が妨げられない。

この、プラティヤハーラとサマーディの状態はかなり違うものであるのに、言葉の説明としては部分的に似通っています。それ故に、各種の誤解が生じているような気が致します。

見たところ、特に瞑想初心者、スピリチュアル初心者はプラティヤハーラを達成することが悟りのように思ってしまう方がぼちぼちいらっしゃるようです。その場合、「集中」を否定して「観察」することが重要だと言われるわけですが、その説明を聞いてみるとサマーディっぽいことを言ってたりもするのですけど何か説明が食い違っており、どうやら段階としてはプラティヤハーラにいるのだとわかったりするのです。

おそらくは・・・、プラティヤハーラのところでプラトーが存在して、人によって何世代も転生をして、人によっては10回、20回と転生をして、それでもプラティヤハーラから上にはいけない・・・。そんなものなのではないかなと思います。

ですから、プラティヤハーラをして悟りだと称している人のことを責めることはできないと思います。

この視点を持って世の中の宗教を見てみれば、特に世俗宗教と化して世襲が継いでいるような流派が庶民に寄り添うと称してプラティヤハーラが悟りだと教えを説いているような気が致します。世間的にはそれは顕教として分類されるのだとは思いますが、宗教を見る上でプラティヤハーラをしているのかそれ以上をしているのか見極めるのは重要であるように思います。

プラティヤハーラは世俗の権益と迎合しやすく、権力が人々を操りやすくするために利用してきたと言う歴史もあると思いますし、それ以上の真理を知ってしまうと自由になってしまうからあえて教えてこなかったと言う腹黒い事情もあるかと思います。顕教にいる人は権力的なものと結びつきやすいのだと思います。

プラティヤハーラの顕教のわかりやすい教えが真理で悟りだと思ってしまった人々は本質が分からなくなり、よくある宗教のように「○○さえすれば救われる」「○○をしていれば良い」などと道徳を解くようになるわけです。

それ故にプラティヤハーラは悟りと混同されることがあり、最近の宗教者は世襲制が多くて真理がわからなくなっていますから、尚更、世間が一応は納得してもらえるような道徳的なところにしがみつくわけですが、宗教者としてはそれでは全く不十分であるわけですよね。

宗教者でなくともテクニックとして瞑想だけをしている人も同様で、求めるところが世俗の利益や単なるリラックスであれば求めるところはプラティヤハーラ、あるいはダーラナのゾーンで歓喜に至るところがゴールになるかと思います。

本人が何を求めるのも自由で、それは好きにすればいいとは思いますけど、プラティヤハーラを悟りのように扱うのはやめていただきたいところですね。それは悟りを貶める行為です。観察瞑想と名乗るのは自由ですけどプラティヤハーラのことを観察瞑想と言うのであればその自覚くらいはしていただきたいのです。そうでなければ、説明であれやこれや悟りのことを言っていて、でも、実はそれはプラティヤハーラでした、みたいな喜劇が生まれてしまいますからね。

その喜劇を見分ける方法として簡単なのがおそらく「集中を否定して観察瞑想を主張している人は(例え悟りのことを言っていたとしても)プラティヤハーラのことを言っている」と言う判断基準かなと思います。

これは顕教だけでなく密教のように見える流派であってもそうであることがあるように思えます。最近はそこまで真理が忘れ去られてしまっているのでしょうか。あるいは全て分かった上で隠しているだけと言う場合もあるように思いますが。さて、どうでしょうか。

■プラティヤハーラを超えられない流派は他派を拒否する

プラティヤハーラは世俗利益と結びつきやすく、又、流派としても自分たちの教えの中に閉じこもりがちです。

これは悪いと言っているのではなく、その段階においては必要なことなのだと思います。そのくらいの段階ですと他者のことはよくわからず、分かっていると思っていても誤解が多いのかなと思います。

色々な理由があるとは思いますけど、プラティヤハーラを悟りだと勘違いしている流派はダーラナ以降を否定しがちだと思います。

プラティヤハーラはいわば「観察」ですから、「集中」を否定するわけです。

そのパターンに落ち込んでいる流派もぼちぼちいらっしゃるように思われます。例えばゴエンカ式はその典型のように思います。あるいは、伝統的な仏教の流派でそこまで否定的ではないにせよそれっぽいところを見たことがあります。仏教は幅広く、カトリックっぽい仏教から禅のような仏教まで様々ですので一概には言えないのですが、いわゆる大衆向け仏教はその傾向が強いようにも思います。

一方で、世俗的権威と結びついたり、あるいは、結びついてはいなくても変な思い込みに支配されてしまった流派でプラティヤハーラを悟りのようにみなしている場合は他派を拒否する傾向が強いように思われます。

家系だとか一族だとか、そのようなところで宗教が代々受け継がれている場合も実力主義ではなく世襲になってしまってプラティヤハーラを超えられず、自尊心ばかりが肥大化してしまっている方がぼちぼち散見されるような気も致します。

ある程度歴史のある一族に生まれたからと言って前世もその一族だったとは限らないですし、私が見たところ、単に修行のために一族に生まれただけなのに勘違いして自分がその流派を背負っているかのように思い込む方もいらっしゃるようですしね。自分自身のことがわかっていないとこのように他の流派を否定してしまうのですね。

スピリチュアルについては多様で、昔と今とで気質が変わってきていますね。

昔はプラティヤハーラ以外は否定するようなマウンティングが多かったですし、スピリチュアルな人同士が仲が悪かったように思いますが、最近スピリチュアルやっている人は仲がいいような気が致しますね。昔はね、プラティヤハーラしかやっていないで悟りのように思っている人に指摘したら「もっとおおらかにしないと」とか「今は教師のいらない時代だから(だからあなたはその程度なのよ)」とか言われて拒否されるどころか逆にマウンティングされたりするスピリチュアルが多かったですが、最近はあまり聞きませんね。昔はスピリチュアルな領域に世俗の宗教のはぐれ組が入ってきて権威付けをしていたと言う面もあったように思います。

昔も今もスピリチュアルの多くはプラティヤハーラだと思いますが、最近は整理されているのと、スピリチュアルの領域に本質を知った人が続々と参入してきているのが大きい気が致しますね。その一角には宇宙由来の魂も大勢いらっしゃるように思います。そのような宇宙的な背景もあるのか最近のスピリチュアルは割と仲がいい気が致しますね。新しく入ってきたスピリチュアルな人が、昔からいた権威と結びついている面倒なスピリチュアルを駆逐した感があります。まだあるにはあると思いますけど目にすることは少なくなったように思います。

そう言うわけで、私はスピリチュアルの方面に可能性を感じるのでこれらの記事もスピリチュアルとして位置付けているわけです。本質はどれも変わらず一緒だとは思いますけどね。

■プラティヤハーラのレベルでは相手を自分の流派に変えさせようとする意思が働く

これは自分の流派が一番だと思っている裏返しですけど、理屈としては全ての宗教や流派の根元は同一なので尊重すべきだと頭では理解できたとしても、プラティヤハーラのレベルではその意味をきちんとは理解できませんので、何某かの「わかっていない」行動が出てきます。これもその1つです。

サマーディのレベルに達したことで全ての宗教や流派の根元は同一だと理解することと、プラティヤハーラのレベルにいて頭でだけそのことを理解することでは納得度と態度・行動が異なってくるのも当然だと思います。

プラティヤハーラのレベルですと、例えば「全ての宗教や流派の根元は同一だから、みんな私の流派に属するべき」と考えてしまうわけです。一方、サマーディのレベルに達すると宗派や流派なんてどうでも良いことがわかりますから相手の宗教を尊重しますし、他の宗教の良いところは取り入れたりもします。

教義に凝り固まっている「信じなくてはならない」宗教はプラティヤハーラのレベルなのですよね。そして、自分たちだけが最高の真理を知っていると思っているのもプラティヤハーラのレベルの特徴です。

おそらくは誰しもが通る道ですので別に悪いこととは言いませんけど、あらかじめそう言うものだと思っておいても損はないと思います。

あるいは、知ったところで更なるマウンティングに使われるだけかもしれませんので、何も言わないのが本当はいいのかもしれませんけどね。何を伝えてもうまく自分の利益に誘導してしまう人がいるので、このようなお話をしたとして、相手に対してマウンティングするためにオウム返しをするのだとしたら本末転倒なわけです。まあ、マウンティングに使うとしたらその程度のレベルなわけですけどね。

何を言ったところで本質がわかっている人はわかっているし、何も言わずにマウンティングされまくっていて下に見られていても実際は本質がわかっている場合もあります。本質がわかっている人はマウンティングなんてどうでもよくて、ただ単に、めんどくさくて付き合う必要もないと思うくらいのことです。

そのように、プラティヤハーラのレベル同士ではマウンティングが始まり、お互いの流派の良いところを認める代わりに自らの流派が優っていることを証明しようとします。そうしてまた分裂が始まるわけですよね。

どんなに努力してもプラティヤハーラのレベルではお互いを理解することはなく、次なる段階に進まないと本質の理解はないわけですね。

このようなプラティヤハーラのレベルにおいて、例えば「家系」だとか「宗教の本家の一族」だとか言う特権意識が生まれ、自分たちの流派は正しくて絶対だと言う認識が代々生まれ続けるわけですね。

由緒正しき仏教の本家の家系の物語について最近認識が変わったのですが、もともとこれは「ずる賢い男が由緒正しき家系に入り込んで食い物にする物語」かと思っておりました。しかしながら、今思うに、由緒正しき本家の家系においても、プラティヤハーラを超えられずに世俗的な権益を求める人たちの良い道具になってしまっていてサマーディに達することができないと言う先祖代々の悩みがあるようなのです。であれば、このようなプラティヤハーラを超えられずに他の流派と不和を起こしてしまうのは必ずしも意図しているわけではなく、超えられないからこそ不和を起こしてしまうと言う先祖代々のカルマを背負っているとも言えるわけです。

余談になりますが、どうやら、この物語に出てくる、どこぞの馬の骨とも知れない欲望だらけの男を何故本家の家系に受け入れて家族にしたかと言うと、この母親である「お節介おばさん」が次のように考えたようなのです。「この欲望だらけの男は、我が家系を食い物にしようとしている。よくいるような、修行だけしに来て看板だけもらってあこぎな商売をする人か、あるいは、権力者が宗教を利用するかのような、そのような下世話な意図を持っているのが見え見えだ。普通なら追い返すところだ・・・。しかし、この者は魂としても若く、未熟で、まだ矯正できそうであることと、先祖代々のカルマを解消するためにはこのような欲望だらけの男を身近において理解し、それを矯正するという経験を積むのが我が一族のためなる」と判断したようなのです。由緒正しき仏教の本家のカルマというものがあるのですね。そのために自分たちの家庭に欲望まみれの人を入れて学ぶというのは、どこか私の今生のやり方に似ていて共感を覚えます。なんで由緒正しき仏教の本家にあんな欲望まみれで、しかし表面はよくて、しかし時にヤクザのような人がいるのか不思議だったのですが、根がヤクザでこのような事情があって子供の頃から矯正されて躾けられてある程度の振る舞いをしているのだとしたら理解できます。そういう人もいるのですね。最初はいい人かと思いましたけど怖い人だとわかりましたのでもう関わり合いたくはないですけどね。

そのように、表づらは良くてもプラティヤハーラでは相手を完全に受け入れることはなく、自分の方へと相手を迎合させようとします。

まあ、私なんかは、その意図が分かったとしてもわからないふりして相手がどう動くのか、どのような表情をするのか観察するのが割と趣味みたいなもので相手のいいようにさせてみることが多いですけどね。私のことを単純なカモだと思っていてニヤニヤと笑いを堪えられなくなっている詐欺師の腹の中まで透けて見えていますけどとりあえず私は「そうですね。ああ、わかります」とか言ってとりあえず話を合わせているので、まあ、引き出せるだけ相手の情報を引き出してあげるのはこっちですけどね。

まあ、プラティヤハーラな人は損得勘定で動きますので所詮そのレベルですよ。本気になって付き合う必要もないです。

相手の流派を受け入れるのも自分たちの流派に入れるための口実でしかないですし、あるいは、自分たちの流派が相手より優れていると相手に納得させてマウンティングを取るための単なる導入のアイスブレイクでしかないわけです。

プラティヤハーラな人の認識は、そんなもんです。色々説明したとしても自分の流派のことを傷付けられたと感じて逆に怒り出すことも多いので、わざわざ説明なんてしません。好きにすればいいんです。まあ、話しかけられたら「○○は凄いよいですよね」とか適当なことを言ってあげると勝手に喜んでくれます。私なんかは全部の流派はそれぞれ優れていると思っていますのでその発言は嘘ではないですし、実際に凄いと感じることも多いです。私は社交辞令はあんまり言わないですからね。割と適当で、それは神様がぽんっと口に出させた発言ですけど、それで喜んでくれるならそれでいいですよ。そんな感じで、プラティヤハーラな人との会話はこのブログで書いているような込み入ったことではなくて、神様がポンと口に出させた簡単で良い言葉くらいで軽く流しています。プラティヤハーラは雑念から逃れる「観察」が目標になるレベルなので、あまり難しいことを言わずに、会話をするにしてもそのくらいで十分なのだと思います。

そのように、プラティヤハーラのレベルですと争いが絶えず、心の安らぎに達しません。しかしながら、ひとまずの目的地としてはプラティヤハーラは必要であると思うわけです。

■プラティヤハーラのレベルでは相手をコントロールする意思が働く

顕教などの「わかりやすい教え」「道徳的な教え」を相手をコントロールするために使うのがプラティヤハーラのレベルです。
例えば、本質から目を逸らし、「わかりやすい教え」で煙に巻くために顕教の教えが使われたりします。

あるいは、「わかりやすい教え」さえ理解していれば悟ることができるかのように説くのも、本質から遠ざけてコントロールしやすくするために使われるテクニックです。

「わかりやすい教え」は解釈が幅広いですのでマウンティングに利用しやすいです。

何か本質的なところに気付きそうになった時、「わかりやすい教え」で分かった気になります。しかしながら、それはあくまでも顕教の道徳的なお話であって、密教の本質ではないのですよね。密教の本質を求めている人がまずそんなにいないですけど、本質に目を向けさせる代わりに顕教の教えで終わりにしているところが罪作りなわけです。

悩みがあって宗教や真理を勉強している人に顕教のわかりやすい教えで満足しなさいと説くのは真実を隠しているということであり、かなり深い罪であると私なんかは思います。それは口調では優しいですし顔ではニコニコしていますが、その教えで悟ることはできず、ただ単に、それは相手をコントロールするための手段として用いられているだけのことです。

・・・これ、きっと実例がないと分からないと思いますので、そのうち何かあったら書きたいと思います。前にあった実話は、細かいところを忘れてしまいましたので。

言葉では色々と言っていても、本質を見ると、結局は顕教はプラティヤハーラを解いているのです。顕教の「わかりやすい教え」はプラティヤハーラであり、雑念からの離脱を解いており、雑念に惑わされないようにしましょう、穏やかに生きましょう、と解いています。もちろんそれ自体は入り口ですし良いことですが、プラティヤハーラができればそのまま悟りだと解いているところが罪作りなのです。そんなわけがありません。

この種の勘違いは古典的な流派にもその毒を撒き散らしており、プラティヤハーラ相当しかしていないのに自分はそれなりの境地に達したと思っている方がぼちぼちいらっしゃるような気が致します。プラティヤハーラ相当ですと、グル等の監視がなければ自分一人では必ず他者と比べ始め、相手をコントロールしようとする意思が働き始めます。しかもそれが顕教の「わかりやすい教え」を手段として用いてコントロールを意図されると厄介です。慣れれば胡散臭い人はすぐに見分けることができますけどね。

ただ、本人は良かれと思ってしている場合もありますので、指摘すると自分はそんなつもりではない、と言ったりします。そのように、プラティヤハーラで止まっている場合は自分が何をしているのかすらわかっていない場合もあります。行動としては現世利益をしていても言葉では真理を説く、と言うような分離状態であることに自分が気付けないのがプラティヤハーラのレベルです。ですから、プラティヤハーラのレベルの人が大勢いる団体は真理を説いていながら現世利益を求めたりするわけです。そのような団体では往々にして顕教の「わかりやすい教え」が自分の現世利益の行動を覆い隠して誤魔化すための道具(方便)として使われてしまうようなおかしなことにもなっていたりするわけです。



体の感覚の観察はサマタ瞑想でもありヴィパッサナー瞑想でもある

ヴィパッサナー瞑想のやり方の説明で「皮膚の観察を観察しましょう」とか「歩くときの感覚を観察して気付くようにしましょう」というのがありますけど、これには2つの意味があります。

A. 努力して皮膚や歩くときの感覚を観察しましょう。(時にはそれを言葉にしてラベリングしましょう)
B. 努力せずに皮膚や内的感覚を観察しましょう。

これは往々にして同じ文節で、一つのヴィパッサナー瞑想というやり方の説明でさらっと並列に並べられることが多いような気が致しますが、実際、別々のお話です。

A. 努力して意思を駆使して体の観察をするのであればそれはサマタ瞑想(集中瞑想)です。
B. 努力せずに意思が自動的に働いて体の観察をする状態であればそれはヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)。

ですから、体の観察をしています、とか、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)をしています、とか言った時に、どちらをしているかで状態が全く異なるわけです。

これは、それぞれ以下の段階に相当します。

5.プラティヤハーラ(制感) → Aの段階
6.ダーラナ(集中)
7.ディアーナ(瞑想)
8.サマーディ(三昧)→ Bの段階

ですから、相当に違う状態であるのですが、何故か、ヴィパッサナーの流派によってはこの説明がごっちゃになっていることがあるような気が致します。

どちらも言葉で言い表しますと「観察」と言えなくもありませんから、6以降の境地を知らない人は5のプラティヤハーラの境地を悟りのように勘違いしてしまうこともあり得るわけです。これは比喩で言っているわけではなくてそれっぽい人がぼちぼち散見されますのでこう言っているわけですが、そのように勘違いをしている人の特徴として「集中を否定する」ということが挙げられます。ですから、必ずとは言えないのですが簡単な見分け方は「集中瞑想を否定する人はプラティヤハーラの段階にいる」と思うとそんなに間違いではないと思います。

どちらも表現としては似ていて、だからこそ言葉だけで勉強してしまうと混同しがちなのですよね。

こういう時に適切なグルが近くにいればすぐに見抜いて指摘してもらえることを期待したいですけど、最近はグルっぽい人がいたとしてもよく分かっていなかったりしますし。グル次第ではありますけどきちんとしたグルがいれば修正が効くものとは思います。

プラティヤハーラのレベルは悟りと混同しがちな落とし穴ですので、そこにハマってしまっている方も多いですよね。

ですけど、とりあえず今世を幸せに暮らす分にはプラティヤハーラでもそこそこ楽しく幸せに暮らすことができますので、わざわざその勘違いを指摘する必要もないかな、という気も致しますよね。この世にはプラティヤハーラにすら達していない世俗の人間が大勢いますから、そのような人たちと比べると十分に進歩していますので、自称悟りに達したとは言っても物足りなくはあるのですが、ある程度は幸せでしょうし、自分がそういうのでしたら好きにすればいいと思います。

プラティヤハーラのレベルですと、宗教をどちらかというと唯物論で捉えがちな気も致しますね。よく分かっていない世俗の僧侶が道徳を持って語る時はこのレベルですし、瞑想の流派によってはマインドフルネスですとかゴエンカ式はこのレベルです。

一方で、サマーディのレベルになると割と霊的な世界に入ってきて、先祖霊や守護霊、ハイヤーセルフ、過去生、未来生、遠隔視などのお話が入ってきます。割と今ではスピリチュアルな分野のように思われていますけど、ヨーガでも仏教でも、ある程度のレベルに達すればこのようなお話は普通に入ってきます。

この種のお話になると唯物論の人は入ってこられないですよね。プラティヤハーラのレベルで自分が悟っていると思っている人たちは往々にして霊や高次元のお話を拒否したり否定したりばかにしたりしますから、そのような言動があればその人がプラティヤハーラのレベルで唯物論のレベルなのかそれとも高次元のことがわかる人なのかよく分かるわけです。

仏教ですと何か見えたりすると魔境とか言って否定したりするみたいですけど、別に、大したお話でもないと思いますけどね。魔境とか言っているのは、教義の根本のレベルがプラティヤハーラで留まっているからこそその上の階層を理解できないでいるような気も致します。実際のところ魔境でもなんでもなくて、それがこの世界の姿なのですから、もう、仕方がないですよね。魑魅魍魎に気付かずに魑魅魍魎の中で暮らすよりも魑魅魍魎に気付いて少しずつでも対処してゆく方が遥かに健全だと思いますけどね。魑魅魍魎にやられてしまうのはエネルギーが低いからであって、クンダリーニを活性化してエネルギーを上げないといけませんしね。

まあ、そんな感じで、プラティヤハーラのレベルですと色々と勘違いをしていて、サマーディのレベルを思い違いしていたりすることもあるのかなと思います。



プラティヤハーラのレベルではサマーディをただの集中だと誤解する

細かいお話です。

まず、プラティヤハーラは観察と言えなくもありませんので、プラティヤハーラが観察瞑想だとすればその他の瞑想を集中瞑想だと勘違いしてしまっても不思議はありません。

ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、流派の瞑想の名前にもなっています。ですから、手法としてのヴィパッサナー瞑想と、サマーディにおけるヴィパッサナー状態(観察状態)と、とても紛らわしいのです。

そして、プラティヤハーラの段階にいますとその次の段階のことが分かりませんから、時々、集中瞑想を否定する人、あるいは流派がいたりするわけです。

その集中瞑想は、ヨーガスートラ的なダーラナ(集中)の段階のことを意味したり、あるいは、人によってはサマーディも集中瞑想だとみなしている人がいらっしゃいます。

これは、サマーディという言葉の定義が流派によって異なるために生じている誤解です。

いくつかの要素が絡み合っているわけです。

・プラティヤハーラは観察とも表現できる。(ヨーガスートラ的には感覚から離れること。制感。)
・ヴィパッサナーとは流派の名前あるいはサマーディの状態を意味する。
・ヴィパッサナーの流派によっては集中瞑想(サマタ瞑想)を否定する。
・集中瞑想(サマタ瞑想)というとヨーガスートラ的なダーラナ(集中)のみならず一部の流派ではサマーディも含まれる。

実際のところ多くの団体はプラティヤハーラとは言っていませんので、以下は私の主観による判断になりますが、私の理解を記してみます。

プラティヤハーラを「観察」と位置付けているのは以下と思われます。
・大衆向け瞑想のマインドフルネス式
ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想
・その他各種のヴィパッサナー瞑想の流派、テーラワーダ式とかミャンマー式
これはおそらくヴィパッサナー系では統一されている認識のような気が致します。
ヨーガ系では「観察」とは言わずにプラティヤハーラという言葉そのままな気が致します。

ヴィパッサナーという言葉の意味は以下の対応のような気が致します。
・マインドフルネス式 → プラティヤハーラ相当の「観察」という意味。
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → 説明ではヴィパッサナーとはブッダの観察瞑想、実際やっている手法のヴィパッサナーはプラティヤハーラ相当の五感・雑念から逃れるための努力
・テーラワーダ式 → おそらく、全てを分かった上でプラティヤハーラ相当を「観察」と言っている。
・ミャンマー式 → こちらも、おそらく全てを分かった上でプラティヤハーラ相当の「観察」から始めている。

集中瞑想(サマタ瞑想)を否定するかどうか?
・マインドフルネス式 → 否定しない
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → 否定する(ヒステリーに集中瞑想を嫌う)
・テーラワーダ式 → 否定しない
・ミャンマー式 → 否定しない
(補足:インドのヴェーダンタ系 → 否定する。これは意外でしたが、ヴェーダンタ系は知識(ニャーナ)によってモクシャ(自由、輪廻からの解放)を目指すのでやり方が違うようです。)

集中瞑想(サマタ瞑想)が意味するところ
・マインドフルネス式 → 単に「集中」というのみ
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)のための準備としてアーナパーナ瞑想(集中瞑想)という位置付けだが、実際にはそれはプラティヤハーラをするための準備になっている。集中瞑想(サマタ瞑想)が準備としておきながら、ひたすらに集中瞑想(サマタ瞑想)を否定するネガティブな見識になっている。これはプラティヤハーラのレベルの特徴。
・テーラワーダ式 → 前提条件としての集中力
・ミャンマー式 → 前提条件としての集中力

これらの流派の中で、いくつかの特徴が見て取れます。

■集中瞑想を否定する流派、あるいは人々
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想
顕教の流派にいる一部の宗教家
・プラティヤハーラ相当に到達した結果、自分がサマーディの悟りを得たと勘違いしている人。
(補足:インドのヴェーダンタ派もそうだが毛色が異なる)

■サマーディを単なる集中瞑想だと誤解している流派、あるいは人々
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想
・プラティヤハーラ相当に到達した結果、自分がサマーディの悟りを得たと勘違いしている人。
(補足:インドのヴェーダンタ派は誤解というよりはやり方がそもそも異なり、サマーディという言葉の意味そのものは集中である、と主張する)

まず、流派として誤解している人がいるわけです。それに加えて、教えは正しくても、自分が悟ったかのように勘違いしている人がいるわけです。そのどちらも、似たような傾向があるような気が致します。

プラティヤハーラ相当ですと見識に勘違いがありますのでマウンティングをしたり、比べたり、自己主張をします。

その勘違いの一つとして、この、集中瞑想に対する誤解があるわけです。



スローモーションのように体の動きを感じる

昨年末にスローモーションで視界が感じられるヴィパッサナー状態に変化し、ここ最近は割とその状態が安定してきました。その結果、最初の頃ほど激しい感覚を視界に感じなくなり、変わらずそれなりに早い速度で視界を認識できてはいるのですが、それが普通かな、というくらいに当たり前になりました。ですので、もはや視界がスローモーションのコマ割りのように特殊に感じられなくなりました・・・ と言うと語弊がありますが、変わらずそれなりに良い動体視力を保っていますがスローモーション映像のような不思議なムービーのように特別なものに感じることは徐々になくなり、普段通りの当たり前のことになってきたと言うことです。当たり前になったからと言ってつまらなくなったわけではなく、普通に視界は美しいですけど、最初の頃の面白い感じに比べると8割くらいの微細な感覚で落ち着いた、と言う印象があります。最初の頃は視界の変化が面白くて割と常に目にエネルギーを送っていて焦点を合わせてくっきりと見ていましたが、今は焦点に関しては割と普通です。

そのように視界のヴィパッサナーが落ち着いてきた一方で、9月頃から体の動きのヴィパッサナー状態が次第に現れてきました。ある程度は目の感覚が戻る一方で、全身の感覚が出てきた感じです。そして、普通の生活の中にヴィパッサナーの気づきの状態で生きる時間が増えるようになってきています。

体のどこを動かしても以前より細かく動きを感じます。特に意識していなくても体の各所の動きを感じるのです。単に動くかどうかだけでなく、細かく動いていることがわかるのです。これは、昨年末の、視界に関するヴィパッサナー状態の変化の時にも多少は変化に現れたことですが、ここ最近の変化ほど顕著ではありませんでした。

その状態を表現すると、時間は変わらないのですが、比喩的に言うと「スローモーションのように」と言うのが割と状態を示しているような気が致します。昨年末の視界のスローモーションのヴィパッサナーというのも実際の時間は変わっておらずに細かく認識できるようになったことを比喩的にスローモーションと表現した、というのは以前にもお伝えしましたが、今回もそれと同様で、時間は変わらないのですが、細かく認識できるようになったということを比喩的に表現するとスローモーションと表現するのが割と通じるのかなと思っております。

ゲームやアニメの動きが以前はカクカクでしたが、私の体の動きの認識もそれと同様にカクカクで以前は認識していたように思います。それが、今は細かい体の動きが分かります。

少し前には、まず、指の動きなど、小さなところでその変化が現れました。しかし、その時点ではきちんと意識していないと体の動きが細かく分かりませんでした。

今は、それほど意識していなくても自然に体の細かな動きが各所でよくわかるのです。

これはきっと程度問題で、世の中には才能があってダンスがうまい方などは私のこの状態よりも遥かに体の細かな動きがわかるような気も致します。ですから、体の細かな動きがわかるようになったからと言ってダンスをやっている方やスポーツ選手などにかなう気はしないのですが、少なくとも、自分自身の変化として以前より遥かに細かく体の動きがわかるようになったということです。

私は昔は体の動きがそれほどスムーズではなくて、体育も苦手ですし動きもちょっと悪かったように思いますが、今は以前より細かなところが分かります。

瞑想をすることで、このように体の動きの変化も現れるのですね。

そうは言っても、もともと才能がある方には敵わないとは思いますけどね。

昔の剣士などが瞑想をしていた理由もよく分かります。きっと、生まれながらの才能に加えて瞑想で更に動体視力と体の動きを上げていたのですね。体の筋肉を鍛えるだけでなく瞑想で頭と体のレベルアップができるということかなと思います。



体と「わたし」が一致する感覚のヴィパッサナー状態

先日の続きです。スローモーションのように体の動きを感じられるようになりましたが、その状態の時は「わたし」という感覚が「(肉体の三次元的な)体」と一致しているような気が致します。

これは説明を要するかもしれません。

スピリチュアル等で、「わたし」は体ではない、と散々言われてきた方もいらっしゃるかもしれません。本当の「わたし」は肉体の体ではなく魂の方であって体は仮の姿に過ぎない、と。確かにそれはその通りなのですが、ここでは、私が感じたそのままの感覚を表現しています。

更に、もう少し説明がないと混乱してしまうかもしれません。

まず、大きく分けて2つの潮流があります。
プラティヤハーラこそが悟りとする流派。主に顕教。
・サマーディを悟りとする流派。主に密教。

このうち、プラティヤハーラの段階ですとまだ確固に「わたし」という自我(サンスクリットでアハンカーラ)が存在しておりますので、「私は肉体ではない」という教えが重要になります。自我が強いために自分と肉体などを強く結びつけてしまっているのですよね。この段階の人にはスピリチュアル等で「私は肉体ではなくて魂こそが本当の自分なのです」と説くのは正しいと思います。

一方で、プラティヤハーラを越えてサマーディに到達した場合は自我がかなりなくなっております(ゼロではありません)ので、「私は肉体」という感覚は希薄になっております。ですから、自我と肉体との結びつきはかなり弱まっている状態なのです。

最初の方で、「わたし」という感覚が「(肉体の三次元的な)体」と一致している、と書いた時、ここでいう「わたし」とは自我のことではなく、サマーディ状態に存在する、自我を越えた「観察している、奥深くにあるわたし」という感覚のことを意味しているのです。

自我としての私は論理的思考などでまだまだ活用していく必要がありますのでそれは永久になくならないと思います。ヨーガ的には自我と言うと単にアハンカーラで思考能力はなく、ブッディ等が該当するのですが、まあ、分かりやすく言うには自我が思考する、と思っても差し支えないと思います。

そのように、プラティヤハーラの段階では自我を抑える必要があり、それ故に体と「わたし」を結び付けようとするとそれは自我の強化に繋がってしまいます。

しかしながら、サマーディの段階では自我は落ち着いておりますので、奥深いところにある「わたし」と言う微細な感覚と「肉体の体」とが結びつくことで日常の状態でスローモーションのように体の動きを感じる観察状態が続くわけです。

これらの違いを踏まえずに、プラティヤハーラの段階でサマーディを真似して「体の感覚を観察」しようとすると自我が深まり、自我が確固なものになり、よって自我が拡大したために怒りの沸点が下がってキレやすくなったり自己嫌悪に陥いる・・・。と言うのが例えばゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想で陥っている落とし穴のような気も致します。この辺り、長年の疑問がようやく最終解として解けた気が致します。

体の観察をする、と言う瞑想は自動的に起こるようになるもので、やり方を真似するものではないのですね。そう言うことだと思います。

一部の流派、テーラワーダ仏教やミャンマーの流派ではヴィパッサナー瞑想として体の感覚の観察を行うとかしていますけど、ああ言うところは歴史があって瞑想のグルがきちんと指導してくれるからこのような落とし穴に落ちても気がついてくれるのでしょうけど、ゴエンカ式のように単なるビジネスマンが始めたセミナーですと指導者と思しき人がいるにはいるのですがそう言うところまで指導できないのでしょうね。ゴエンカ氏本人が無償で始めたと言うのは評価できますけど、あんまり瞑想がわかっていないビジネスマンがブッダの瞑想を書物で勉強して真似して始めてしまったが故に色々と変なことになっている気が致します。最近はその状況に気がついたのか、歴史のある流派で勉強した人が入ることで是正している面もあるようですが、相変わらず落とし穴に落ちっぱなしの人もいらっしゃるように思います。この世界は瞑想が足りていませんから間違いだとしても勉強のために瞑想をするのは良いことだと思います。回り道でも瞑想は世界のためになります。このブログは単なるメモですので、特にその団体に是正しろとは言いません。ただ単に、興味深く世界を眺めているだけのことです。



アートマン(真我)を安定させてヴィパッサナーの観察状態に至る

先日の続きです。

瞑想をして、「わたし」が肉体の体と一致すると、その時、スローモーションのような微細な細かな動きと感覚が奥深いところにある「わたし」に伝わってきます。その時、まだ慣れていないのか、同時に「自我」としての私も少し動きますので、自我が動いてしまったら一旦動きをやめて、奥深いところにある「わたし」だけが動いて体の感覚と一致するように少しずつ意図します。自我が動いた時は一旦また集中瞑想に戻り、緊張が少し出てきた時には静寂の境地が現れるまで一旦は落ち着きます。そして、静寂の境地に達したら、再度、奥深いところにある「わたし」を動かして、肉体の体を一致させます。

おそらくはこの奥深い「わたし」のことを「アートマン(真我)」と呼んでいるような気が致します。

「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には、Step6として「心身脱落から真我の安定へ」が説明されています。

まず考えるべきは安定度だと言えよう。(中略)身体の中府に安定させ、その後「止」がさらに深まり、「観」の働きが高まった時に、真我が観照できるのだ。「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」

アートマンを肉体と合わせるようにして安定させる。そこがポイントのような気が致します。

おそらくはこのことが達成できるとスローモーションのように体の動きを感じるヴィパッサナー状態になるのかな、と言う気が致します。

十牛図のステップと比べると私の状態は完全には一致していませんけど、この部分の記述はとてもよく似ていて、参考になります。おそらくはここに至るまでの道筋はいくつもあるのかな、と言う気も致します。

シャルドルの段階とこの段階との対応も興味深いです。シャルドルに至って雑念が太陽の光を受けて蒸発するかのように消えてゆく境地に達し、真っ白い平らな大地の少し上に浮いている境地の瞑想に達しましたが、その時、私は白い平らな大地の方ばかり目が行っていましたが、その上に「わたし」がぽっかりと浮いていたと思います。その「わたし」の方は私はスルーしていたのですが、この十牛図瞑想法の本の記述を見ると、もしかしたらその時に見えたぽっかりと浮いていた「わたし」こそがアートマンだったのではないか、と言う気がしてきます。どうでしょうね? あんまり重要なところではないかもしれませんけど、同じような記述のような気が致します。そのように考えると階梯も割と似通っている気も致します。

十牛図瞑想法の本のこの後のステップもわかりやすく、今後はこのアートマンを更に安定させて活性化する、と書いてあります。これは私の中でおそらくそうなのではないか、と思っていたことと一致します。と言いますか、少し前にこの本を何度も読んでいましたのであまり記憶に残っていなかった箇所ではありましたけどなんとなく覚えていたのかもしれませんね。その時はピンときませんでしたけど、今読むと、とても本質的で正しいことがぎっしり書かれてあるように思います。ただ、流派の独特の記述も多いので最初はわかりにくかったと思います。今はある程度は読み飛ばして確認したいところだけ読んでいます。

これは、次のステップも明確ですね。ゾクチェン的にもシャルドルの次の段階はランドルで、その辺りと対比して見ていくと良さそうな気が致します。



静寂の意識の中に生きる

わたし、と体が一体化している時、その時は、静寂の意識の中に生きています。それらは表裏一体で、静寂の意識とは「わたし」と身体が一体化している状態なわけです。

瞑想を始めると、最初はちょっとモヤモヤとしています。

以前であれば段階的に静寂の意識が表れていましたが、今は、意識は割と静寂の意識のまま、雑念だけが雲が晴れるかのように本格的な静寂な意識に移行するようになりました。

以前は、雑念があってモヤモヤしていると意識も淀んでいました。
今は、雑念があっても割と意識が明確で雑念に気付いています。

以前は、雑念が晴れると同時に静寂の意識に移行していました。雑念の状態と意識の清浄な状態とが割とシンクロしていたわけですよね。
今は、雑念と意識の清浄な状態とが割と独立するようになってきました。

これは程度問題で、似たようなことは以前から起こってきました。

しかし、今まではそれほど明確にこの違いを意識することはありませんでしたが、ここにきて、意識が静寂で明らかなものになってきたことで違いが明確に認識できるようになった気が致します。

かなり昔は雑念に「襲われる」と言う感じで、私の周囲を雑念が完全に覆い隠すと言う感じでした。私の意識全てが雑念に囲まれて逃げられなくなり、攻撃されているかのようでした。実際、攻撃を受けていたのかもしれません。それも、ヨーガを始めてクンダリーニが動き出してからは段階的に、劇的に違う感じのものに変わってゆきました。

今は、雑念はラジオのようなものです。雑念が聞こえてきても、途中で不意に、ラジオのボリュームを誰かが小さくしてくれたかのようにどんどんと音が小さくなっていって消えてしまいます。一旦消えた雑念はもはや聞こえてきません。そして、雑念が何だったのかもすぐに忘れてしまいます。雑念が現れると同時に消えるシャルドルの状態なのかな、と思います。

これは五感がなくなってしまったわけではありません。むしろ逆に、目や皮膚の感覚が明確に心の奥底が直接的に感じられている状態です。今までは雑念があったことで五感の感覚が心の奥底に届くのを妨げられていて、今はより直接的に五感を感じられています。雑念が出てもすぐに水が太陽に照らされて蒸発するかのように消えてゆくので、雑念が消えたあとはまた五感の感覚が直接的に心の奥底に伝わるようになります。

思考というものも明示的に意思の力で働かせることができますので、意思がなくなったわけでもありません。ただ、自動的にやってくる雑念に惑わされにくくなったというだけのことです。

ただ、それでも溜まったカルマによるトラウマは時々出てきて、一瞬はそれに囚われて苦痛の表情や声に出そうになる時もあります。しかしながら、それも5秒や10秒もすれば蒸発するかのように消えてゆきます。これは今生の目的の1つがグループソウル全体のカルマの精算ですから、ある程度は仕方がないと思っています。私の個人でそれほど重荷に感じることはない、と言われています。今まではこれがかなり負担でしたが、シャルドルの状態になったら割とすぐに解消してくれるので大した負担ではなくなりました。

そして、また静寂の意識の中に戻ってゆくわけです。



集中すればするほど瞑想が深まる。シャルドルの前兆

チェルドルでは、多少時間をかけて段階的に静寂の意識が表れました。意識が多少ざわざわしている平準状態がしばらく続き、ふとした拍子に一段階づつ静寂の意識に近づいて行きました。

最初の頃はチェルドルでも瞑想が終わると次第に意識が雑多なものへと帰ってゆきましたが、次第に、それほど戻らなくなり、それなりに静寂な状態を日常生活で保てるようになります。

最初の頃は瞑想を始めたときにチェルドルで何度も意識の平穏に鎮めてゆかなくてはならなかったところが、やがて、日常生活および瞑想のスタート時点でそれなりに意識が鎮まっているのでそこからチェルドルで意識を鎮める程度が少なくて済むようになりました。

そして、チェルドルである程度の意識が平穏になった後、シャルドルが起こります。シャルドルでは雑念が生じても少し観察すれば滴が太陽に照らされて蒸発するかのように消えてゆきます。おおよそ5文字から10文字くらいで携帯の電波が悪くなるかのように、あるいは、ラジオのボリュームが小さくなるかのように消えてゆきます。

そして、その状態から更に集中を深めると、文字でいうと1文字表れたかどうかのところで消えてゆくようになります。おそらくこれがシャルドル、あるいはシャルドルの前兆のようなものではないかと思います。

1.チェルドル
2.シャルドル
3.ランドル

究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

この状態に完全になったわけではない感じが致しますが、その前兆はあるような気が致します。あるいはシャルドルでしょうか?

ここでいう「集中を深める」とは、五感の何かに集中するという意味ではなく、意思を使って体の奥底にあるオーラを律するという感じのものです。既に自我は鎮まっていますから五感も鎮まっておりますのでそこは手を加える必要はなく、意思でオーラを律することで、具体的には思考をまずは制御するわけですね。

まずチェルドルで意識を段階的に鎮めます。意識を鎮めるということはオーラを鎮めるということです。その後、オーラと意識が安定するとシャルドルで雑念が自動的に消えるようになります。そして、シャルドルに至るためにはおそらく、もう一段階、意識とオーラを鎮める必要があると思うのです。そのことを意思でもって「更に集中」と表現しています。おそらくはもっと進むとこのような努力も不要になるとは思うのですが、今一歩足りていなくて、今のところは意思で段階的に進める必要があるのかなと思っております。そうして瞑想である程度の集中状態になると、シャルドルの前兆ではないかと思われる状態に達したわけです。

書物の説明を読むと、この状態こそが二元論を超えた状態であると言いますが、今のところ、それほどピンときません。しかし、説明を読む限りは一応は理解できます。

完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解脱である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の声は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)修行者は原初的な知恵を体験する。対象が生じると同時に、それが自らの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。だからすべては「一味である」すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

私はどうやらまだ完璧に二元論を超えてはいないように思いますが、内容はよく理解できます。雑念が印象を生み出し、実態があるかのような幻想を作り出している一方で、その幻想を作り出している雑念あるいは思考というものが瞬時に(空に、あるいは、無として)消えてしまうということは、存在と非存在、どちらも実は空なのだとしたらそのようなものなのでしょう。実在というものは人の印象があるからこそ存在しているもので、人の印象というものは雑念がすぐに消えてしまうようにはかなく、空から雑念が生まれたことにより実在が生じたかと思えば瞬時にそれはすぐに雑念として消えてしまうことで実在としてもなくなってしまうのだと思います。このことを古来、「空」から生じて「空」に消えるとか、そのように様々に表現してきたのかな、とも思います。

これは、認識がこれ以上進んでしまうと変化が早すぎてわかりにくくなってしまうので、今くらいの中途半端な状態の方が細かく見れていいような気も致します。なんとなくの感覚ですけどね。もっと進めば瞬時にこれが起こってしまうのでよくわからなくなってしまうような気が致します。今は、言葉にすれば1文字くらいではあっても一瞬の時間差があって雑念が消えてゆきますので、これが更に進んで瞬時に消えてしまうとなると、それはそれで違った印象になりそうです。

雑念が起こる前は静寂の境地で、それはいわゆる「空」の境地にいると思います。そんなときにも雑念は浮かんできますので、雑念が浮かんできたらそれと同時に具体的な印象も生じ、それはいわゆる「実在」として実体のあるものとして心の中に(一瞬とは言え)浮かんできます。ヨーガでは、対象というものは人が認識するからこそ存在する、と説いています。その原則を当てはめるのであれば、心の中に雑念あるいは印象として実在が存在する時だけ対象が存在しているわけです。しかし、その対象というものは元々は雑念でしかなく、その雑念というのは、もともとは「空」の意識から浮かんできたものなのです。そして、(いわば無あるいは)空から生まれた対象が、またすぐに(無であるところの)「空」へと帰ってゆく。ですから、実在は全て「空」である、と言えると思うのです。

この世界は全てが神様の意思で充満していて、本来は「無」とは言えないと思うのですが、何もないような空間という意味であれば「無」と言っても良いとは思いますが、それよりも、存在しているのだけれども空っぽのように認識される、という意味合いからすれば「空」の方が適切のような気も致します。

引用分にある、主体と対象(客体)との違いがなくて両方とも空であるということは、このあたりから理解できると思うのです。まず、自分の意識というものは清浄な意識で平穏なもので、それは無ではなくむしろ空ともいうべき意識が空間に充満したものになります。そこに、印象として雑念あるいはトラウマでもいいですけど何かが浮かぶと、それにより対象が表れます。自分の意識が生じて対象を認識して初めて対象が存在するのですから、それは、自分の意識そのものであるとも言えるわけです。実際、自分の中に生まれた感覚・雑念・印象そのものが実在としての対象を生み出すわけです。自分の中にそれらが生じて初めてこの世界に対象が存在できるわけで、自分が認識していなければ対象が存在しないわけです。

その知識の前提に立てば、瞑想中に起こっている雑念の生起および消滅のはたらきが、実は二元論を超えることの証明になっていることが理解できるわけです。

おそらくは、これは瞑想で経験するだけではわからないことで、瞑想で経験することと、知識(ニャーナ)が組み合わさって初めて起こる理解なのだと思います。・・・と今は思っているだけで、実は瞑想だけでも理解できるかもしれないですけど、今のところは、そんな気がしています。

瞑想で知覚できるのは上記に書いたように、静寂な境地で雑念が生起してそれがすぐに消滅するということだけです。それに、印象が対象を生み出している、という知識を加えた時、その知覚は単なる知覚ではなく、知識になるわけです。ただまあ、もっと瞑想を深めればそのうち理解できる気も致しますけど、それはそれで、また実証すればいいことですし。

ひとまず、理屈として理解するのはそれはそれであっていいと思います。



呼吸による瞑想状態(静寂の境地)への入り方

割とありきたりですけど、呼吸に意識を合わせます。すると、割とすぐに静寂の境地へと達します。

最近は割と単に座ることも多くて、それでも静寂の境地は現れるわけですが、時々、昔のように雑念が繰り返されて静寂の境地に至らない時もあります。かと言って昔のように悩まされるわけでもなく、内容といえば私生活のことだったり仕事のことだったりと割と役立つことも多いので自動的な思考を気付きの一環として利用できたりもします。ですから特に思い悩むこともないのですが、それが瞑想かというとちょっと違う感じですので、なかなか静寂の境地に自動的に入らない場合は意識的にその状態へと持っていってあげる、ということをします。

最初から呼吸に意識を合わせてもいいのですけど、普段の日常生活で気付いていなかった思考を一旦は整理した方が良い感じですので最初は自動的に思考を流しています。そして、そろそろいいかなと思ったら静寂の境地へと持っていくために呼吸に意識を合わせるのです。これは私の最近のやり方ですので、後で変わるかもしれませんし、人それぞれ好みもあるでしょうし、古典的ヨガの瞑想ですと最初から割と呼吸に意識を合わせて静寂の境地に持っていくと思います。

普通に呼吸を観察するだけでも静寂の境地になりますし、1呼吸か2呼吸、割とすぐに意識は静まります。よりはっきりと明確に意識を鎮めたいときは深呼吸すれば更に鎮まります。

この深呼吸で、観察と集中、両方とも高まります。瞑想は観察だけでもなく集中だけでもありませんので、この深呼吸のことを集中ということもできますし観察ということもできます。言い方に違いはあれど同じことです。流派によっては「観察ではなく集中だ」とか「集中ではなく観察だ」とか言ったりもしますけど、私からしたら同じことです。かと言って、そう言われたからと言ってわざわざそれを指摘したりするような野暮なことはする必要なくて、実際のところ、観察と集中は裏表で一体のようなものだと心に留めておけば十分だと思います。単に、その流派ではその言い方が合っているというだけのお話で、このような言い方の違いに初心者は惑わされたり、他の流派と比べてしまって「あっちが良い、集中が良い、いや、観察が良い」とか様々に思ってしまったりしますけど、単に瞑想の一面を述べているだけで、実際は大差なく、対局を見ればどちらも割と同じことです。それでも一応はヨーガスートラ等で階梯があって、対局としては集中から観察へ、という流れはあります。ただしその集中に至るための準備としての観察というものもあって、なかなか瞑想の世界はわかりにくいものになっています。

・・・そんなわけで、瞑想というと小難しいお話が色々と出てきますけど、それはおいおい理解すればいいことで、実際の瞑想はもっと単純なわけです。

何か、例えば職人や技術職で自分の得意な仕事をしようとするとき、意識を切り替えて集中しようとして深呼吸して仕事モードに入ったりするでしょう。その時の深呼吸は瞑想に入る時の呼吸に似ています。というか、ほとんど同じものです。深呼吸をして意識を鎮め、仕事に集中するのです。その境地に達していないのであればその職人や技術職はまだ熟練したとは言えないと思います。これは別に瞑想しているからとかそういうお話とは関係なく、おそらくは普通にどこでもあるものと思いますが・・・。少なくとも私の知っている範囲であれば。音楽の世界などでも楽器を演奏するときなど深呼吸して静寂の意識に入るでしょう。それを集中と言う場合もあるでしょうしモードに入ると言う時もあるでしょうし言い方は色々あるとは思いますが、同じことだと思います。そのことをここでは瞑想状態に入る、と表現しています。

そのように実際は瞑想状態に入ることは特別でも何でもないのですが、最近は割と瞑想状態が何なのか忘れられてしまっているような気が致します。多くの人が欲望に身を任せて瞑想状態がないまま生活するのが普通になってしまっています。

特に座った瞑想をしなくても静寂の境地に入るような習慣があれば割と瞑想と同じことをしているとは思います。一つでもそのような境地への入り口を知っているのであれば瞑想に入るのも簡単なことで、ただやり方がちょっと違うだけで、座ってからその時のように深呼吸をして静寂の境地に入ればいいのです。

最近は割と瞑想が全く違う世界のものとして、例えばスピリチュアルだとか神秘体験に結びつけられて考えられることが多くなってきました。しかし、本来の瞑想と言うと必ずしもスピリチュアルや神秘体験と結びついたものではなく、職人や音楽家、あるいは武士などが静寂の境地に達するための手法として存在していた面も多いように思います。そして最近はそれらが同じ境地であることが忘れ去られ、瞑想というものがどこかふわふわとした実体のないものになっているような気が致します。

確かに瞑想と言うと神秘体験を伴うこともありますが瞑想と言うと本質はそこではなく、自らの本質と繋がる行為、それはすなわち静寂の境地に至って自らの本質を外側へと顕現できるような境地に至ることであると思うわけです。まずは自らの心の本質がありのままに外を認識できるようになり、やがては、その心の本質が自在に体を動かすようになるわけです。

心を覆ってしまっている雑念や欲望、葛藤などがその心の本質を覆い隠し、心の本性が出てくることができないのが多くの今の人の現状です。そして、その状態を更に強化させるべく世の中に欲望・葛藤・刺激・妬みなどが宣伝され、霊的な観点は失われ、欲望に生きることこそが人間として正しいと教えられてしまっているが故に救いがなくなっているのです。

救いにしてみても、心の本性をむきだしにすることだけが救いである筈なのに、別の欲望や依存を作り出して救いだと言っている悪魔の団体が多くあります。そのような悪魔の団体が宗教の仮面をかぶったり心理学カウンセリングあるいは啓蒙セミナーと称して人を更なる混迷へと導いているわけです。それは救いがないです。

瞑想は、そのような「追加」するアプローチとは全く逆です。瞑想とは、雑念を取り払うプロセスであり、人によっては深呼吸をするだけで雑念が取り払われ、静寂の境地に達します。しかしながら厚い雑念や強い葛藤に覆われてしまっている人は数回の深呼吸で静寂の境地に達することはできません。ですから、そのような場合は地道な日々の努力で雲を取り払う必要があるわけです。それが日々の瞑想のプロセスになり、やがては、雲が晴れて静寂の境地に達するわけです。

個人的に思うのは、最初の段階では瞑想をするより職人や技術職などで集中のプロセスを辿る方が結局は早道なのではないかな、とは思います。これは人によると思いますので必ずしもこの道を勧めるわけではありませんが、個人的にはそう思います。

瞑想の教授を受けると、呼吸で静寂に達します、などと軽々しく説明されることも多い気がしますけど、実際はそんな単純ではなく、色々とプロセスがあるわけですね。そんな簡単に呼吸で静寂な意識に達することができるならわざわざ瞑想を習いにきたりはしない、とも個人的には思ってしまうわけで、瞑想の指導をしているのであればもう一歩二歩と踏み込んだ上で、どうして呼吸で静寂の境地に達することができないのかを説明すべきでありますし、その場合も、大抵は「雑念などの雲で覆われてしまっている」と言う説明は割とどこでも聞けると思いますけど、実際に教えている人が静寂の境地に達していないことも多くて、その言葉が空虚で空回りしていることも多々あるのが悲しいところです。言葉としてはその通りなんですけど、実際にそれを言う人がその境地を知っていないと伝わらないと思いますけどね。

そのように、瞑想の手法としてはとても簡単で、「ただ、呼吸しさえすればいい。そうすれば静寂の境地に達する」と言うものではあるのですけど、そこに至るにはステップが必要なのだと思います。

深呼吸をしてもぜんぜん静寂の境地にならなかったのだとしたら、それは手法の問題ではなくてまだ心に雑念が厚く覆い尽くしていると言うことですので、地道に瞑想をしたり仕事に打ち込む必要があります。秘法で簡単に取り払うとかそう言うものではありませんので少しずつ行う必要があります。ある程度の筋道がありますのでそれに従えば半年あるいは年単位で変化が起こります。1回やっただけで変化があるものでもありません。

リラックスする方法で「深呼吸しましょう」なんて人は気安く言いますけど、深呼吸くらいでリラックスできるなら最初からリラックスする方法なんて聞かないですよ、と言うことでもあります。深呼吸は手法でもあり、その一方で、深呼吸でどのように変化するかは意識の状態を測る目安でもあるわけですね。

静寂の境地への入り方は説明としては簡単で「瞑想しましょう」「呼吸に意識を向けましょう」と、言うことは簡単ですけど、本当にできるのであれば瞑想を始めて呼吸を1回か多くても数回も観察すれば後は静寂の境地に入ってゆけるわけです。

ここで勘違いして欲しくないのは、呼吸に意識を向けること自体が静寂の境地ではないと言うことです。呼吸に意識を向けるのは静寂の境地に入るためのただのきっかけです。きっかけですから、補助輪のようなもので、最初に少し呼吸に意識を向けて意識を平らにすればあとは補助輪であるところの呼吸への意識をやめても問題なく静寂の境地が続くのです。

たまに、瞑想の流派で呼吸の観察をすることが瞑想だと思っている方がいらっしゃいますけど、それも瞑想の手法の1つではありますがここで言っている呼吸による静寂の境地の瞑想とは異なっていて、呼吸に集中している状態というのはあくまでも雑念から離れると言う観察、あるいは、呼吸に集中するという行為をしているのであって、瞑想における静寂の境地とはかなり異なります。呼吸の観察あるいは呼吸の集中というのはあくまでも補助輪であるところの呼吸への観察あるいは集中を延々と繰り返すということであり、瞑想の静寂の境地はその補助輪を外した後にやってくるわけですね。

ですから、瞑想の「入り方」として呼吸へ意識を合わせることはしますけど、静寂の境地の瞑想状態そのものが呼吸へと意識を合わせることではないわけですね。

それは一旦できてしまえばとても簡単で、シンプルなお話なのですが、試してみてできなければなかなかできない、というお話になります。ですがおそらくは誰でも可能で、自分の意識を少しずつ鎮めて行けば誰にでも可能なお話なのだと思います。



意識の裏側にある暗黒の雲に近づく。シャルドルの前兆

意識が静まってきて静寂の意識に達したのち、雑念が出てきても1〜5文字くらいで消えてゆくようになります。その時、雑念が出てきたところにギュッと意識を近づけてみます。意識を近づければ近づけるほど雑念が素早く消えるようになるのですが、そのためには集中が必要です。

集中しなくても自然にいられるのですが、観察をして雑念の元を見るためには集中が必要のようです。

集中しなくても自動的思考を流すことはできて、以前は自動的思考と観察者としてのわたしが割と結びついていたのですが最近は更に分離されてきて、純粋観察者とまでは行かないかもしれませんが観察者として自動的思考を見守ることはできています。

その状態において雑念を観察しますと、雑念が出てくる元のところに時空の反転箇所があって、その反転箇所の向こう側はいわゆる「裏」の世界になっているようなのです。

裏の世界は漆黒の雲によってできており、その漆黒の雲から煙が上がるようにして雑念あるいは雑多な観念が生まれ、その雲から出た雑念が発散すると拡散して消えてゆくようなのです。近づけば近づくほど素早く消えてゆきます。

その状態を続けてゆくと、やがて、漆黒の雲自体が少しずつ「こちら側」の世界へと流れ込むようになりました。何でしょうこれ?

今までは、漆黒の雲が雑念として現れては消えるか(あるいは以前であればその雑念のループ)しておりましたが、ここにきて、漆黒の雲、それ自体がいわゆる「こちら側」の世界へと流れ込んできて、少しずつ「わたし」と融合しているようなのです。まだ濃度的には薄いのですが、私の体と重なっている部分のオーラに対して漆黒の雲が少しずつ流れ込んできているのがわかります。

以前は、単に、雑念が消えるだけでした。

この現在の状態がシャルドルかどうかは確実な確証はありませんが、以前とは違った感じを受けます。雑念として上がってきたものが消える有様に関しては以前とそう変わりません。以前は雑念にしても自動的な思考にしてもどちらも割と同じように扱っていましたが、最近は自動的な思考は残り、雑念の方だけ自動的に消えるようになったような気も致します。これは質の違いで区別ができるようになったということでしょうか。それともたまたまかもしれませんが。

更に、この状態では、雑念の奥底から漆黒の雲がこちらに流れ出てきているのを感じるのです。

漆黒の雲が平らに存在していて、それは地面というよりはガラス面のように横に存在していて、そのガラス面の向こう側は「裏側」で、そのガラス面のような漆黒の雲から竜巻あるいは煙の雲が上がるようにして漆黒の雲の一部が「こちら側」の世界、特に「わたし」の中に流れ込んできているのを感じます。

この「裏側」から雑念・観念が現れ、そしては消えてゆく。あるいは、その「裏側」それ自体がこの世界を構成している。この世界は「裏側」からちょっと漏れ出た部分に過ぎないのかもしれません。そして、その「裏側」に繋がることができて「本当のこの世界」を知ることができるのかもしれない? 今は、何となくそんな気がしています。

これは、魔術等で無理やり扉を開くとかいう種類のものではなく、平穏なる意識の中で現れるものです。神秘的に聞こえてしまうかもしれませんが、至って普通な、平凡な状態、しかしながらエネルギーに満ちた、静寂な意識の中で認識されている変化です。

これに至ったからと言ってどうこういうわけでもなく、ほとんどは、単に自分の記録としてメモをしているまでです。



体に「裏」の漆黒が注ぎ込まれ、圧力が高まる

先日の続きです。意識の裏側にある漆黒が表側に注ぎ込まれると、やがて、身体中にその漆黒が行き渡り、漆黒の濃度が濃くなってゆきます。すると、身体中が内側から外側に向かって膨張するかのような圧力を感じるのですが、体あるいは自分の微細体が一定の大きさの枠組みを持っているためにそれ以上大きくなれずに身体中に圧力らしきものを感じます。

その圧力が一定以上になると少し圧迫されて苦しい感覚も少し出るのですが、言葉でいうほど苦しいわけではなく、圧力が強いので何となく苦しい気分がちょっとするだけで、実際は苦しいというよりも、単に圧力を感じて窮屈な感じがしているだけ、とも言えます。

この圧力は、おそらくはエネルギーなのではないかと思います。かつては「こちら側」に現れる時は雑念や観念として現れてきたものが、そのエネルギーそのものが「むこう側」から「こちら側」へと流れ出るようになったのかなと思います。もしかしたらこれを人によっては次元の扉のようにいうかもしれませんが、次元の扉かどうかはよくわかりません。高次元のエネルギーが少し下の次元に流れ込んでいる、と考えることもできますが、それが正しいかどうかは今のところわかりません。

私は「圧力」とか「漆黒」として認識しましたけど、書物を読むと、これは「光明の体験」としてエネルギー的な観点から説明されているような気が致します。

光明の体験は、エネルギーすなわち声の側面と結びついている。そのあらわれ方は、感情や光のヴィジョンをはじめ、多様だ。たとえば、守護尊のマンダラの清浄な顕現は、光明の体験である。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

更には、これらの経験はあくまでも経験であり、サマーディ(三昧)の気付きの境地にい続けることこそが重要であるという。修行における経験は無限の種類があるが、気付きの境地に留まるという点においては共通だとのこと。これはよくわかります。

楽の境地や空性の境地にありながら、そこに三昧の覚醒が保たれていなければ、まるで体験の中で眠り込んでしまったようなものだ。(中略)楽の体験と空性の体験は、まったく違う。だが、それらの体験のもともとの本性は一つだ。(中略)覚醒した叡智は唯一のものであり、心を超えている。ありとあらゆる無限の顕現の土台となる不二の境地とは、この覚醒のことだ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

同書によれば不二の境地には以下の3つの経験が生じてくると言います。

・無分別の経験<意に対応>
・光明の経験(上記参照)<口(声)に対応>
・楽の経験<身に対応>

無分別の体験は、文字通り思考がわきあがってこない状態と、思考がわきおこってきても、それによってさまたげられない状態の両方を指している。この体験は、心の<空性>の境地として定義することもできる。それは、心がリラックスしたことから自然寺生じてくる現象だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

楽の体験は、身体のレヴェルと結びついている。寂静な境地(「止」)の修行を長い間続けていると、身体がなくなってしまったような感覚や、まるで自分が、虚空に浮かぶ雲の真ん中にいるような、大きな喜びを体験することがある。それが楽の経験の例だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

これらの経験は素晴らしい経験ではありますが、それはサマーディ(三昧)の境地に往々にして付随する経験であり、ただそれらはサマーディの境地そのものとは異なると言います。不二の意識のみがサマーディの本質であり、不二の意識以外のこれらの経験はあくまでもサマーディではないサマーディに付随した経験であり、大切なのは覚醒の意識そのものであり、覚醒の意識とは不二の意識のことであるというのです。

これはとても単純なお話ですが、説明しようとするとなかなか困難なお話のような気が致します。静寂の境地そのものは経験であるとも言えますし、その状態においては不二の覚醒の境地が伴っているとも言えます。静寂の境地に至った結果、静寂の境地の中に眠り込むこともなくはありませんが、不二の覚醒がなければすぐに静寂の境地から滑り落ちてしまいます。ですから、静寂の境地はいわばシンボルであり、人はそこを目指しますが、静寂の境地のためには土台として不二の意識が必要なのですよね。そして、不二の意識の部分こそがサマーディの本質であるわけです。

これは、サマーディが育ってくるときに出てくる主な能力であるチェルドルシャルドルランドルにも関連性があるように思えます。不二の意識が育つにつれて3つの能力(チェルドル、シャルドル、ランドル)が出てきて、それに付随して、3つの経験(無分別の境地、光明の経験、楽の経験)が生じるわけですね。

このような「経験」の部分を重視しすぎる必要はないですけど、軽視しすぎる必要もないわけです。それはそれとしてあるわけですから、ありのままで良いわけです。重要なのはサマーディの不二の意識なのですから、それさえわかっていれば、経験を捨てる必要もないわけです。

古典ヨーガやヴェーダンタの一部の流派によっては「経験」の部分を軽視していたりしますけど、グルに「経験は重要ではない」と言われたからと言って探求を簡単にやめる人は上達しない、と個人的に思います。グルに「経験は重要ではない」と言われたとして、その意味はこのように「サマーディの不二の意識が大切なのだ」という意味であって、経験を捨てなくてはならない、という意味ではない筈です。経験はありのままに存在していれば良い。しかし弟子は勘違いして経験は重要ではない、という言葉だけが一人歩きして、経験をした人に対して「経験は重要ではない」と言ってマウンティングの道具にしてしまう。そんな愚かなお話が時々散見されます。そのようなマウンティングに屈せず、経験は経験そのものとしてありのままとして存在していて、経験すらもどのようなことなのだろうかと探求し、サマーディの不二の意識と経験の関係、意識との関係の探求を続け、グルの教えを鵜呑みにしたりせずにどのような意味なのだろうかと自己で探求する人だけが成長するのだと思います。せっかく古典ヨーガやヴェーダンタを勉強していても、このようなマウンティングの罠にハマっている人がぼちぼち散見されます。そんなことに関わらず、本質である、不二の意識に留まり続ければ全てはありのままの世界として見えてくると思うわけです。

体のエネルギーが高まって圧力が高まる経験はあくまで「経験」ですけど、古典ヨーガやヴェーダンタの流派によっては簡単に「そんなことは重要ではない」と切り捨ててしまっています。そのように捨てることで否定してしまうことはマイナスでしかなく(本人たちは否定していないというでしょうが)、個人的には、その経験自体をありのままに眺めればよくて、結局、必要なのは不二の意識だけであるわけです。古典ヨーガやヴェーダンタを勉強している人は同じように不二の意識だけが重要と言いますし、言葉だけを見ると正しいのですけど、何か、どこか違和感があったりします。もちろん人によりますけどね。その違和感を捨てずに追求しないと落とし穴にハマってしまうこともあるわけです。これは、不二の意識を勉強する人が勉強しすぎることによってハマる落とし穴の1つです。であれば、そんなに勉強しなくても、まず瞑想するなどして自分の意識が進んで変化してから初めて書物を探して確かめる、という方がよほどいいと思うのですけどね。

何が一番大切かと聞かれたらもちろんサマーディの不二の意識が重要と答えますが、ですが、エネルギー的な観点も重要でエネルギーが高ければネガティブに影響されにくくなってポジティブになりますから光明の経験は重要ですし、意識の平穏がなければエネルギーも安定しませんから無分別も大切です。リラックスできていなければエネルギーの消費が激しくて疲れやすいですから楽の経験だって同じくらい重要です。ですから全部重要なわけで、何か1つだけあればそれで完璧と言うわけにはいかないと思うのです。そして、それを支える土台の部分がサマーディの不二の意識であるわけです。

■真言宗の三密

私は真言宗の修行はしたことがありませんが、上記の内容は真言宗の三密と似ていて興味深いです。

身密 印を組む。身体。
口密 真言を唱える。言葉。
意密 仏を観想する。心。
→ これらを達成して御本尊と一体となることが三密加持。

意味が少し変わって伝わったのか、それとも、表向きはこのような意味で、実際は同じような意味なのでしょうか? ひとまずメモしておきます。



黒はアジナチャクラのアストラル下層の段階

ヨーガ行者の本山博先生によれば、黒はアストラル下層の段階であると言います。

雑念が消え、深い精神集中の状態に入ると、アストラル体は黒色にみえる。「密教ヨーガ(本山博著)」

これが、しっくりきます。最近の静寂の境地はアストラル下層に相当しているのでしょう。半年ほど前から度々、瞑想中に漆黒の雲に包まれるようになり、ここ最近に集中力と言いますか静寂の境地に割とすぐに入れるようになってからは意識の裏側にある暗黒の雲を割と容易に認識できるようになりました。

どうやら、この意識の裏側がアストラルの世界なのですね。そして、アストラルの中でも黒というのは下層のことなのですね。アストラル上層は薄いスミレ色のようですからそれはまだのようですね。そして、アストラルを超えてカラーナ(コーザル)に達すると光り輝くようです。

その黒色のアストラル体に、さらに精神集中を続けていると、それは光り輝くようになる。「密教ヨーガ(本山博著)」

アストラルという言葉は流派によって定義が少しずつ違っていて、例えば神智学とかですと多少異なった定義があるようですが、ここでいう本山博先生の流儀におけるアストラル体というのは個人的なスピリチュアルの範囲を意味するようです。アストラルの段階では個人的なカルマがわかって、超能力的なものが出てくる場合であっても個人的なものに限定されるとのことです。

その上のカラーナ(コーザル、原因)の段階に進むと個人的なものを超越するので、アストラルからカラーナに進みましょう、と本山博先生はおっしゃっています。本山博先生のおっしゃる所のアストラル下層は感覚とか想念とか感情とかが主なようです。であればそれほど高級な世界ではありませんので、あまり気にせずにそのまま精神集中を続けてアストラル体の段階を抜けてしまうのが良さそうです。

瞑想中に黒が見えてきたということは、これらアストラル下層の感覚とか想念とか感情とかを超え始めたということだと理解しています。同書によると、その一つ前の段階は「煙色」だと言います。

1.ムーラダーラチャクラでは、アストラル体は煙色である。
2.アジナチャクラでは黒色である。
3.サハスララチャクラでは、光り輝いている。

「密教ヨーガ(本山博著)」

これは同書によれば、精神集中の度合いにそのまま対応するとのことです。

1.ムーラダーラチャクラ。灰色。浅い精神集中。
2.アジナチャクラ。黒色。深い精神集中。雑念が消えた状態。
3.サハスララチャクラ。光り輝く。

ただ、同書には、黒色が深い精神集中とも書いてある一方で、以下のような記述もあります。

アジナをみていて、それが黒いというか、紫色の黒いような色あるいはスミレ色でみえる時は、主としてアストラルで動いている。「密教ヨーガ(本山博著)」

「チャクラの覚醒と解脱(本山博著)」によると、アストラル下層で動いている時はまだ感情とか想念を完璧にコントロールできない、と言います。確かに、昔より遥かに雑念が減ったとはいえ、まだ多少のトラウマは出てきますし5〜10秒くらいとはいえトラウマが頭の中で回転もします。

とは言いましても、黒色ということは少なくともアジナが動き出しているということですから、そう悲観するものでもないと思います。



不二の意識かどうかは勉強しなければわからない

各流派で「不二の意識」とはよく言いますけど、個人的には、きちんと定義を確認するまでは自分の経験している状態が不二の意識だとはわかりませんでした。

そこで思うのは、不二の意識とはなかなか分かりにくいお話ですので、実際にその状態で生きていたり不二の状態で瞑想していたとしても定義を教わらないと不二の意識だとはわからない、そのようなものだと思います。

自分の状態が不二の意識だと勉強しない限りは自分で「不二」という言葉を使うことはなかったと思いますし、今でも、単に不二と聞いただけでは言葉の意味だけを考えますとあまりピンときませんが、昔から言われている不二の意識とはこういうことだと説明されれば、ああ、それはきっと私のこの経験と同じことを言っているのだな、とそこで初めてわかるのです。ですから、不二と聞いて「なんのことかわからない」と思ったとしても、わからないのが普通だと思います。不二の意識に普段からいるような人であっても「これのことを不二というの?」という感じかなと個人的には思っています。そのくらい、不二とはわかりにくくて不二の境地にある人にとってすら不二が何なのか理解されていないものだと思いますので、不二のことをわかっているという人の方をむしろ慎重に見極めて本当にわかっているかどうか判断した方がいいのかもしれません。基本的には不二の意識が何なのかわからないのが普通だと思います。

最初は割と単にスローモーションのヴィパッサナー(観察)状態だと認識していたわけですが、勉強するにつて、それを成り立たせている心の本性が存在していて、その心の本性が観察する時は不二の意識になるということがわかると、経験が先に来て、説明としての不二の意識というのは後で理解したわけです。

確かに不二の意識は最初のうちは弱くてそれが完全に不二の意識だとは思っていなかった面もありますので、最初にスローモーションが始まった頃は不二の意識が少しだけ出てきて、まだ弱い段階であるチェルドルの状態だったわけです。そのくらいですと不二の意識だとはよくわからないわけですが、実際は不二の意識の始まりだったわけです。

そして、チェルドルの状態になると次第に不二の意識とはこういうものなのかおぼろげにわかるようになってきて、シャルドルの前兆により不二の意識が割とはっきりと出てきたからこそサマーディが深まってきたのだと理解するに至ったわけです。

ですから、シャルドルに至るまでは不二の意識と言われてもピンとこなかったわけですが、今ですら、全く勉強していなければこれが不二の意識だとはわからなかったと思います。不二の意識というのは、言葉だけでは分かりにくくて、経験したことのある人であれば説明されると、「ああ、あれのことね」とわかるようなものでもあると思います。

この分かり難さ故に、勉強しただけで経験せずに自分が不二の意識を知っていると思っている方もいらっしゃるようにも思います。ですから、不二の意識を知っているという人のことをあまりホイホイと信用しない方がいいと思います。私が言うのもなんですけどね。自称で真理を知っていると言う人に大勢会いましたけど、大抵の場合は知識で知っているだけでしたから。その中には本当に知っている方もいらっしゃったのかもしれないですけど、私はそう主張している人が本当に不二の意識を知っていること認識できませんでした。

勉強と経験の両方が伴って初めて不二の意識が理解されるものと思いますし、おそらくは、不二の意識で生きていても不二の意識なんてよく分からないと言う人の方が多い気がいたします。もちろん全員を見てみることはできませんが、会った限りでは、不二の意識に生きていそうな人ほど不二の意識が何のことなんてわからない事の方が多く、不二の意識を知っていると言う人はかなりの割合で単に知識を知っているだけで、そのうち一部は、知識をきちんと理解しさえすれば悟りが得られてモクシャ(自由)に至ると思っていたりします。そんな方々が本当に不二の意識を知っているのかどうかはよく分かりません。世間なんてそんなものです。不二の意識を知っていると言う、自称聖者は大勢いらっしゃいますけど、多くの場合において私はそれらの人々が本物かどうか分かりませんので、もはやあまり気にしないことにしています。

他人が不二の意識を得ているかどうかは言動では分かりにくく、しかも、自分が不二の意識に生きていると主張している人は割といるとすれば・・・。あまりそう言う人のことは気にせず、関わらずに生きるしかないわけです。だって、明らかにそうでない、関わり合い持ちたくない種類の人や、延々と長い話をしていつまで経っても本筋を言わずに焦らすだけの人がいたりして、なんだか時間の無駄であることが多いわけです。

ある程度の勉強をして、本も読んで、正しいと思う筋道を自分で突き進むしかないかもしれないですよね。スピリチュアルな道なんてのは落とし穴だらけで、正しいグルを見つけるのはかなり困難ですし、まあ、あまり気にしすぎても仕方がないと思います。

・・・不二の意識とは、そのくらいよくわからないものです。ですから、あまり不二の意識を追い求めてセミナーに通ったり勉強に通いすぎない方がいいと思います。どちらにせよ時が来るまではわからないのですから、勉強は必要にしても、勉強はそこそこにして、まずは瞑想なりヨガアサナするなりした方が近道だと思います。どちらにせよ先に自分が変化すれば定義を見れば「ああ、このことだったのか」と分かりますので、私は勉強は必要と言いましたけど、勉強だけでいいとは言っていませんので、勉強はそこそこでいいのかな、と言う気も致します。

まあ、スピリチュアルなんて人それぞれ好きにすればいいのですから、勉強も好きにすればいいのですけど。



エネルギーが増した状態で更に状態を安定させ、静寂の境地へと至る

エネルギーが増すと体の周囲にふわふわとした静電気に近いものを感じられるようになりました。その状態で瞑想をすると、以前よりも若干、安定しにくくなっているように思われました。

安定しない理由は何だろうと探ってみると、どうやら、左右のバランスが取れていないことに気がつきました。具体的には、少し右側に偏っておりましたので、特に胸のあたりを意識して、右胸から胸の中央へと中心軸を意思でもって少しずらしたところ、急に意識が静寂な状態へと遷移しました。これは、体のエネルギーを整える基本だと思います。

瞑想での体験での3つの要素のそれぞれがあって、エネルギーが高まることによって他の要素もそれに応じた安定度を求められるような気が致します。

・雑念の減少(無分別の意識)
・エネルギーの高まり(光明)
・静寂の境地(楽の経験)

これらはバランスが必要で、今回の場合はエネルギーが少し高まったことにより雑念の現象が少し高いレベルで求められ、と同時に、静寂の境地もそれに応じて少し安定しにくくなったのかなとも思います。

もちろんこれを支えるのが不二の意識ですので、不二の意識を保つのが基本です。

その上で、エネルギーが高まればより微細な雑念を観察できるようになりますし、それにより、静寂の境地へと以前より多少入るのが難しくなります。とは言いましても、これは程度問題ですし、格段に難易度が上がると言うわけではなく、比較すると少しその傾向がある、と言うくらいです。言葉で言い表しますと何やら凄い変化のように感じてしまうかもしれませんが、エネルギーが少し高まることで雑念の感度も少し上がって、静寂の境地へも以前よりもちょっとだけ入るのが難しくなった、と言うだけで、それほど大した問題ではないと思います。

静寂の境地が安定しない時、あるいは、深呼吸をしても数回の深呼吸で入れない時は、これら3つの要素をチェックしてみると現在の状態がわかる気が致します。これら3つは経験であって、状態を知ったところでそれらがすぐに治るわけではない感じですが、少なくとも、ビフォー・アフターの違いを知ることは自分の状態を知る上で必要かなと思います。

そして今回の場合、エネルギーが右に少し偏っていたことが原因でしたので、意識で少し中央に移動させてあげることでこれら3つのバランスが整い、静寂の境地へと達したわけです。



ゾクチェンのテクチューとトゥガルは表裏一体

瞑想で覚醒を保っていると、雑念が1〜5文字程度で崩壊する様を体験します。そして、その雑念が出てくる奥に漆黒の雲が存在して、その「裏側」から雑念が現れたり、あるいは、こちら側に裏側から漆黒が流れ込んでくると言う経験をします。

その状態が、チベットの本にあるテクチューとトゥガルの内容に多少似ていることに気がつきました。

テクチューは「断ち切る」と言う意味で、心の本性に留まっていることを目的とし、迷いを断ち続ける。一方、トゥゲルは「超える」という意味で、断ち切ることで自ずと生起するヴィジョンを活用する修行だ。しかし、これは本質的には同じ修行の2つの側面だ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」

これがそれぞれ、テクチューが雑念が1〜5文字程度で崩壊する様に相当し、トゥゲルの方が漆黒の雲を認識してそれと一体になるというプロセスに合致しているような気が致します。トゥガルの方はまだ始まったばかりという気も致しますが、方向性は分かります。

テクチューによって修行者は、空の元素と統合する。(中略)すべての現象は、生まれては消えるにまかせ、執着も拒絶もせず放っておくのだ。このときは、起きていることに反応しようとする「主体」もない状態だ。ただ、清らかな空に留まっている。(中略)不二の覚醒意識のなかに、自己を溶かし込み、生き生きとした覚醒の空そのものとなり切ることだ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」

これはよく分かります。不二の意識で三昧に留まることで清らかな状態に留まることが「空」と呼ぶのでしょう。「空」について色々と定義がありますが、これはかなりはっきりと「空」を説明したものであるような気が致します。

トゥゲルでは、光の輝きを強調する。これは、光の修行だ。(中略)トゥゲルでは、元素のエネルギーの顕現を心の本性に統合する。(中略)不二の覚醒意識のなかに留まっていると(つまりこれがテクチューだが)、空なる現象の連続、とぎれることのない光の流れが感受される。(中略)いっさいが顕現するままにまかせていること。それがトゥゲルの修行だ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」

ここで言っている「光」を私は「漆黒の雲」と認識しているという点こそ違いますが、内容的にとても類似しているように思われます。とは言いましてもこの黒はやがて輝くようになるということのようですので、あまり気にすることではないかなと思っております。黒と言いつつも漆黒の黒ですので黒光りしているキラキラとした黒曜石のような輝きをしたふわふわとした雲ですので、これが光だと言われれれば確かに内部には光を内包しているような気も致します。

サマーディ(三昧)の状態でむきだしの心(リクパ)であるところの不二の意識が基礎となり、テクチューで空の意識を保ちながらトゥゲルでエネルギーの顕現に向き合うのですね。

このように整理してみると、サマーディ以降の流れがとてもすっきりと理解できたような気が致します。



アナハタのマーガレットの花弁が半開きになる

瞑想をして、まずは静寂の境地に至ります。

その後、何度か段階的に静寂を深めた後、ふと、頭のアジナチャクラと胸のアナハタチャクラ(ハートチャクラ)の間が線で結ばれたような気が致しました。それぞれのチャクラが丸く白く点になっていて、それらが白い線で結ばれたのです。

そうしているうちに、ふと、胸のあたりで何か、白い花弁の花がつぼみから少しずつ花びらが開き始めたような気が致しました。おそらくまだ完全には開いていなくて意識の面では単に静寂の境地が深まったというくらいではありますが、静寂の境地が更に安定してきた感じではあります。

花は、よく言われているような蓮の花というわけではなく、白いマーガレットっぽいの花でした。これは文化的なものもあるのかもしれないですね。一般的にアナハタチャクラは12枚の花弁をもつと言われていますが、そのくらいだったような気もしますが、数はよく分かりません。半開きのような状態でした。ですので、完全に開いてはいないので花弁の数がよく見えなかったというのもあります。見た目はマーガレットっぽく見えました。

特に意識的には平穏の意識が更に少し安定したというくらいでまだ違いはそれほどありません。

クンダリーニが動き出してきてからアナハタ優勢のオーラの状態を経てきてはいますが、おそらくはオーラ的に優勢な状態とチャクラが開くのとはまた違った状態なのだと思います。

今日の瞑想で少し変わってきたのが、(平穏の)意識のある状態での瞑想状態でも映像に少し色がつき始めて淡いカラーなものが少し増えてきた、ということです。今までもカラーはありましたけど意識が途切れてもうろうとしている時にカラーになって、意識がそれなりにある瞑想状態では大抵は白黒映像でした。

今は、意識がある状態でも意識が平穏ですので、映像体験を妨げなくなってきたのかもしれません。おそらくは以前は顕在意識が今日ほどまでに平穏ではなかったため映像が妨げられてきた、ということかもしれません。このあたりはこれからまだ様子見ですが。

山陰神道では、ヴィジョン・霊視について以下のように伝えられているようです。

①妄想 白黒映像。的中率3割以下
②幻想 カラー映像。的中率5割以下
③思通 白黒の透明映像。的中率7割
④観通
⑤神通
「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より

とのことですので、おそらく私が今まで見てきたものを分類しますと、

以前:意識のある瞑想状態「①妄想」、意識がもうろうとした状態に時折「②幻想」
今日:意識のある平穏な状態で時折「②幻想」

という分類のような気も致しますが、見たものが正しいかどうかも分かりませんし、何やら古い文献のよくわからない記述を読んだ感じですので理解できておらず、正しい内容なのかどうかも分かりません。ですのでこのあたりはおいおい、確かめることになります。

私の感覚が正しいのだとすれば「②幻想」はアナハタ相当ということになりますが、どうですかね。


瞑想状態を終えてからの、日常生活における自動的な意識の平穏の安定度が上がっています。雑念が来た際に自動的に解放されてゆく様は「シャルドルの前兆」を感じます。



般若心経の空即是色はサマーディの一部

ここ最近の理解に基けば、般若心経の空即是色も説明できることに気がつきました。

要素がいくつかあります。

・サマーディは不二の意識を土台とし、平穏な状態静寂の境地を伴う。
・空の意識は「あちら側」に偏在する。
空の意識から雑念・概念が現れ、そして、それは空へと消えてゆく
・人が対象を意識して概念を持つことで実態が現れる(存在する)というヴェーダンタの知識。

般若心経の空即是色とは、空である「あちら側」から概念・想念が現れ、そしてまたあちら側へと消えてゆくという状態を説明しているのだと思います。サマーディの一部です。

不二の意識を土台とし、三密に相当する意・口・身が整った時にテクチューとトゥガルの境地に達し、般若心経が真実だとわかるわけです。

具体的には、トゥガルの境地においてはいわゆる「空」である根本のエネルギーが顕現して「思い」という形になって現れることを認識します。そして、その「思い」はまた「空」であるところの根本のエネルギーへと返ってゆくのです。そしてヴェーダンタの知識により、その「思い」こそが実態を存在させているものだと理解するのならばこれは般若心経の空即是色そのものであることが理解できるわけです。

このヴェーダンタの知識は更に修行が進めばより具体的に自分で確信が持てて理解できる内容のようですが、私の段階ですと実際に瞑想で体験できるのはトゥガルの境地においてエネルギーから思いが顕現してそれがまたエネルギーへと返ってゆくという部分を体感するところまでです。その瞑想の体験に加えてヴェーダンタの知識を加えることで般若心経が理解できるわけです。

これは、土台としてサマーディの不二の意識があります。不二の意識とは最初は「雑念がない平穏な意識」から始まりますがトゥガルくらいまでサマーディが深まると「雑念があっても妨げられずに観察する平穏な意識」であるところの不二の意識に変わります。その状態において雑念を不二の意識で観察すると雑念が「あちら側」の空とでも呼べるものから生じ、また、その雑念が「あちら側」の空に返ってゆくのがわかるのです。

ここで概念的に「空」と呼んでいますけど、概念が出てくるのは実際には「漆黒のもやもやとした平らな雲」から風船が膨らむかのように浮かび上がってきますので、これが本当に皆さんの言っている「空」と一致しているかどうかは分からなくて、ですけど、内容的に「空」であろうと推測して空と言っています。ゾクチェンの本を読むとこの根元の部分は「空」とは言わずに単に「根本のエネルギー」と呼んでいますので、私としてもその方がしっくりきます。しかしながら、日本の場合は般若心経が有名ですので「空」と言ったほうがしっくりくるので度々そう言っています。

これは想像上の事項ではなくおそらく誰でも瞑想で確かめることができる事柄です。

これらは不二の意識を土台にしていますので、その不二の意識そのものは清浄な意識ですので思考ではなく、よって、上記のヴェーダンタの知識をどうこう考察したりはしません。瞑想中は不二の意識ですので、ヴェーダンタの知識で解釈するのは意識を使いますから、それは瞑想が終わった後に行うわけです。ヴェーダンタの知識以外は瞑想中の体験および前提となる不二の意識の状態で、それらの瞑想体験をヴェーダンタの知識を使って解釈すると上のように理解できる、というわけです。厳密にいうと瞑想が終わった後にも不二の意識は働いておりますが、便宜上、このように説明しておきます。

ちなみに、「空(くう)」というと2つの意味合いがあると思います。

・意識の状態としての空。ゾクチェン的にはテクチューの状態が空。覚醒の意識を保ちながら清浄な意識でいること。
・根元のエネルギーとしての空。ゾクチェン的にはおそらくはこれは単なる「根本のエネルギー」。エネルギー的な顕現とそれがエネルギーへとまた返ってゆくさまを見つめるという意味においてはゾクチェンのトゥガルに相当。おそらくこれを「空」と呼ぶのは歴史的な経緯があるのかなと。流派にもよりそうです。単に「根元のエネルギー」と言ったほうがしっくりきます。もやもやとした雲のように見えるので「空」っぽいと言われればそうかもしれませんが。

これらは表裏一体ですが、般若心経が言っている空即是色とはおそらく後者のエネルギー的な空としての意味合いなのではないかと思います。もちろんその前提として意識の状態としての空も前提としてありますのでそれも含意していると解釈することもできますが、文字そのものの意味としてはエネルギー的なものではないかと思うわけです。

「空」というと様々な解釈があって、私も、「空なのではないか?」という瞑想体験は今までも何度もしてきたわけですけれども、今になって思えば、テクチューの状態こそが空であるという理解が一番しっくりきます。

これで、般若心経の空即是色の謎が解けたように思います。

ただしこれは私の理解であり、各派の公式な見解とは異なる可能性があります。

とは言いましても、説明だけを見てみれば昔からどこかで聞いたようなお話も混じっており、目新しさはもしかしたらそんなにないかもしれません。しかしながら以前は「ほにゃらら? そうかもしれないですが。そんな気もしますが。」という感じで、わかるようなわからないようなボヤけた感じでした。それがここにきて、瞑想体験と結びついてはっきりと理解できるようになった気が致します。



静寂の境地に達することで人生ゲームがつまらなくてリセットしたくなる気持ちがなくなる

静寂の境地に達する前は人生がつまらないゲームのように感じることも往々にしてあり、いつリセットしてもいい気持ちになることが時々ありました。

クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になってポジティブになり、アナハタ優勢になってエネルギーの高まりを得たところで、次第に、人生がつまらないもの、取るに足らないものと感じることが増えました。それはきっと、煩悩の最後の抵抗だったように思います。

静寂の境地に達する前に、その煩悩の最後の抵抗として、人生ゲームをリセットしても全く問題ないというぼやっとした気持ち、人生ゲームに対して「飽きてしまった」「もう終わりでもいい(死んでも問題ない)」みたいな気持ちが、薄く浅く弱々しくふわふわっと常に心の奥底に存在していたように思います。

それは、クンダリーニ覚醒前のネガティブな重々しい気持ちとは全く異なり、ある程度の覚醒をしたからこそ現れる、煩悩のはかなさやつまらなさを反映してこの世に未練がなくなっていつ死んでも問題なくて人生がゲームのようなものだとしたらそのつまらないゲームをいつリセットしても問題ない、という淡い気持ちが常に存在していたように思います。

この気持ちはいつまで続くのだろうかと気にもなっていて、気にもなっていたからこそ死なずに今まで生きてきたという面もあります。もはや人生ゲームに興味を失っていて、もう死んでもいいといえばいいのですがその気持ちの根源が知りたいという奥底に眠っている一段深い欲求があったからこそ人生ゲームを継続させてきたといえます。

そして、多少ながら静寂の境地を垣間見たことでわかったのが、そのような気持ちは静寂の境地に達していないからこそ現れていたもので、そのような気持ちすらも煩悩の1つの面だったのだ、ということです。

クンダリーニを覚醒させた覚者とも思えるような人がたまに自殺してしまうことがあり、それは一体どうしてだろうと疑問に思っておりました。それはその人それぞれの事情があるでしょうしそれぞれ異なりますので全てがそうだとは言えないのですが、このように静寂の境地に達する前の最後の煩悩の抵抗として「自殺」という選択肢もあり得るのではないかと思いました。それは静寂の境地に達していないからこそ起こしてしまった「間違い」「勘違い」であり、言いようによっては「魔」とも「魔境」ともいえる段階なのではないかと思います。

おそらくは静寂の境地まで到達してしまえばもはやそのようなネガティブな巧妙な煩悩の抵抗に屈することはなくて、これからもこの世に生きてゆくのだという確信を得るのですが、中途半端に覚醒してしまってまだ静寂の境地に届かない人は「魔」に巧妙に誘われて「もういいや」とか思って自殺とかしてしまうのかもしれません。

しかし、ようやく静寂の境地を垣間見て雑念がありありと自動的に現れては消えてゆくさまを観察できるようになると、ネガティブな巧妙な煩悩の罠も見抜けるようになるものです。そうしたらもはや自殺とかいう選択肢はなく、この世もあの世も一続きのものとして見ることができますから、自殺とかする必要もなくて自殺なんてあり得なくなるわけです。だって、あの世もこの世も同じですからね。死んで何かが変わるものでもありません。

静寂の境地の少し前から生に対する執着がかなり消えていますから、その状態で静寂の境地にまだ達していないと「もう生きなくてもいいかな」みたいな煩悩あるいは魔からの巧妙な誘惑が出てきて、せっかく途中まで覚醒したのにいいところで失敗してしまうようなことになるわけです。そのような落とし穴もありますから、静寂の境地に達すればある程度は自身で好きに生きられますが、静寂の境地に達する前は信頼できる師匠につかないと落とし穴にハマりやすくて危険な気が致します。思うに、覚者と思われる方で自殺してしまった方は割と一人で修行されている方が多いような気が致します。しっかりと静寂の境地に達していて導いてくれる師匠がいないとおそらくはそのように間違った方向に行ってしまうような気も致します。人生はその人の好きに生きればいいとは思いますけど、この落とし穴は巧妙で、失敗して落ちてしまうと人生をまたやり直ししなくてはならなくなってもったいないと思うのですよ。まあ、そうして失敗から学んで、次の人生は失敗しないように再計画する人もいるのですね。人生いろいろです。

[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。