オーラの感覚を論理より重視する
オーラの状態は一時的なもので絶対的なものではありませんけど、ある程度の判断材料になります。オーラと判断の関係は、私の中で時系列的に以下のように変化してきました。
1.オーラ絶対説。20年前のニューエイジ時代に、当時はオーラがその人のスピリチュアルな成長度合いを示す指標として絶対視されていたように思います。私も少なからず「そんなものかな」と思っておりました。
2.オーラ相対説。10年前から現在に至る。オーラは一時的な状態で絶対的な状態ではない。多少の判断基準にはなるがそれに左右されることはない。
3.オーラ瞬間説。(いまここ)
オーラの状態を論理より重視するかどうかは時によって変わってきますけど、昔は周囲も自分もオーラの状態で人を判断したりされたり、と言った風潮だったように思います。
今もその風潮はある程度は続いているように思いますが、それに加えて、オーラの状態とは一時的なもので、ゴールドや青や緑の波動(オーラ)を持つ人であっても一時的に赤いオーラを持つことはある、と理解されています。
ニューエイジ時代はオーラが絶対視されていてオーラが美しくなければスピリチュアリストにあらず、という風潮だったように思います。一方で、今は多彩なオーラが存在することが理解されています。
20年前は、他人と自分を比べて優越感を感じたりマウンティングするための道具としてオーラのカラーが利用されていたような風潮があるようにずっと感じておりました。であればそれはレベルが低いお話で、であれば、その次の段階であるオーラ相対説が広まってきたのは良い風潮であるように思います。
それら2つの面はどちらもある程度は真実で、そのような面もあるかと思います。
波動の高い人は平均すればそれなりに高いオーラを保っていますし、逆もまたしかりです。そのような高い波動を持っている人でも一時的に真っ赤のドス黒いオーラを持つこともあります。そんなものです。一時的に黒いオーラを持ってもその人の本質は清浄ですのでオーラを浄化することは時間をかければ可能です。
最近の理解では、それに加えて、オーラはその「瞬間」が重要だと思うようになりました。
人のオーラは時によって変化します。瞬間・瞬間、その人のオーラは変化します。言葉の理屈で相手を説得させようとしても、オーラは正直です。言葉を発したときのオーラが言葉と一致していなければそれは何か嘘をついているか何かを隠しているわけです。
・・・こう書くと、まあ、ごく当たり前のことを言っていると思われるかもしれません。嘘は見抜ける人には簡単に見抜けますし、騙される人は何度も何度も騙され続けます。嘘を見抜く人は論理で見抜く人もいますけど、もっと簡単なのは、相手のオーラの変化を見ることです。見る、と言っていますけど視覚で見るわけではなくてオーラの変化を感じる、ということです。見る、と言っているのは歴史的にそう言っている人が多いのでスピリチュアルな文化によるものです。スピリチュアルでオーラを見る、という時は「感じる」と置き換えると言葉的には正しいです。
論理とオーラが相対した時、どちらが正しいのかと言えばオーラが正しいです。相手の論理を頭で考えても論理は大抵は間違っています。
これは、実際、いろいろなところでずっと昔からいろいろな人が言っていることです。この単純な事実が何度も何度も多くの人が言っているということは、これが正しいことを示しています。
しかし、頭は論理で抵抗します。「いや、これが正しいはずだ」と、論理は抵抗します。相手の理屈に加えて自分の頭が論理で抵抗してそれが正しいと思ってしまえば一旦はそれを受け入れてしまい、変な判断をしてしまうことになります。そして後で、「ああ、やっぱり直感が正しかったのだ」と後悔するわけです。
瞑想を続けてゆくと、このような論理と「感覚」の分離ができてきます。どの感覚がオーラのもので、どこからが論理によるものなのか明確に判断できるようになってきます。それは程度問題ではありますが、上記のようなことが、事が起こってしまった後ではなく、判断する前に自分の奥深いところで相手のオーラを感じて相手の言っていることがわかり、それと同時に、自分の頭で論理的に判断してその内容を理解することができるのです。
瞑想をしていない人の場合は往々にして、これらがごっちゃになっています。感覚で判断したものと論理的に判断したものが判別つかなかったり、あるいは、感覚だけで生きていたり、論理だけで生きていたりします。実際は、どちらも有益なものです。直感がオーラを感じてまず大体は正しいことがわかり、細かなところは論理を使って詰めてゆけば良いわけです。使い分けが必要ということですね。
直感は細かなことはわからないことが多いですから、直感は相手のオーラを感じて方向性を確かめることに使って、論理は細かいところを詰めるわけです。それらは本来、協調して動くもので対立するものではないのですが、瞑想をしていないとこれらが対立するものになってしまいます。
現代の人は往々にして論理が優勢ですから、むしろ、オーラの感覚こそ重視すべきだと私なんかは思いますけどね。特に誰かと話をするときはオーラの感覚でその正しさがある程度は判別できると思います。それに頼りすぎてしまうと間違ってしまうこともあります。というのは、相手が勘違いをしていて勘違いしたままの条件においては正しいということもあるからです。しかしながら、論理で「確かめ」をする限りにおいてはオーラの感覚をまず優先して判断して良いと思うわけです。
1.オーラ絶対説。20年前のニューエイジ時代に、当時はオーラがその人のスピリチュアルな成長度合いを示す指標として絶対視されていたように思います。私も少なからず「そんなものかな」と思っておりました。
2.オーラ相対説。10年前から現在に至る。オーラは一時的な状態で絶対的な状態ではない。多少の判断基準にはなるがそれに左右されることはない。
3.オーラ瞬間説。(いまここ)
オーラの状態を論理より重視するかどうかは時によって変わってきますけど、昔は周囲も自分もオーラの状態で人を判断したりされたり、と言った風潮だったように思います。
今もその風潮はある程度は続いているように思いますが、それに加えて、オーラの状態とは一時的なもので、ゴールドや青や緑の波動(オーラ)を持つ人であっても一時的に赤いオーラを持つことはある、と理解されています。
ニューエイジ時代はオーラが絶対視されていてオーラが美しくなければスピリチュアリストにあらず、という風潮だったように思います。一方で、今は多彩なオーラが存在することが理解されています。
20年前は、他人と自分を比べて優越感を感じたりマウンティングするための道具としてオーラのカラーが利用されていたような風潮があるようにずっと感じておりました。であればそれはレベルが低いお話で、であれば、その次の段階であるオーラ相対説が広まってきたのは良い風潮であるように思います。
それら2つの面はどちらもある程度は真実で、そのような面もあるかと思います。
波動の高い人は平均すればそれなりに高いオーラを保っていますし、逆もまたしかりです。そのような高い波動を持っている人でも一時的に真っ赤のドス黒いオーラを持つこともあります。そんなものです。一時的に黒いオーラを持ってもその人の本質は清浄ですのでオーラを浄化することは時間をかければ可能です。
最近の理解では、それに加えて、オーラはその「瞬間」が重要だと思うようになりました。
人のオーラは時によって変化します。瞬間・瞬間、その人のオーラは変化します。言葉の理屈で相手を説得させようとしても、オーラは正直です。言葉を発したときのオーラが言葉と一致していなければそれは何か嘘をついているか何かを隠しているわけです。
・・・こう書くと、まあ、ごく当たり前のことを言っていると思われるかもしれません。嘘は見抜ける人には簡単に見抜けますし、騙される人は何度も何度も騙され続けます。嘘を見抜く人は論理で見抜く人もいますけど、もっと簡単なのは、相手のオーラの変化を見ることです。見る、と言っていますけど視覚で見るわけではなくてオーラの変化を感じる、ということです。見る、と言っているのは歴史的にそう言っている人が多いのでスピリチュアルな文化によるものです。スピリチュアルでオーラを見る、という時は「感じる」と置き換えると言葉的には正しいです。
論理とオーラが相対した時、どちらが正しいのかと言えばオーラが正しいです。相手の論理を頭で考えても論理は大抵は間違っています。
これは、実際、いろいろなところでずっと昔からいろいろな人が言っていることです。この単純な事実が何度も何度も多くの人が言っているということは、これが正しいことを示しています。
しかし、頭は論理で抵抗します。「いや、これが正しいはずだ」と、論理は抵抗します。相手の理屈に加えて自分の頭が論理で抵抗してそれが正しいと思ってしまえば一旦はそれを受け入れてしまい、変な判断をしてしまうことになります。そして後で、「ああ、やっぱり直感が正しかったのだ」と後悔するわけです。
瞑想を続けてゆくと、このような論理と「感覚」の分離ができてきます。どの感覚がオーラのもので、どこからが論理によるものなのか明確に判断できるようになってきます。それは程度問題ではありますが、上記のようなことが、事が起こってしまった後ではなく、判断する前に自分の奥深いところで相手のオーラを感じて相手の言っていることがわかり、それと同時に、自分の頭で論理的に判断してその内容を理解することができるのです。
瞑想をしていない人の場合は往々にして、これらがごっちゃになっています。感覚で判断したものと論理的に判断したものが判別つかなかったり、あるいは、感覚だけで生きていたり、論理だけで生きていたりします。実際は、どちらも有益なものです。直感がオーラを感じてまず大体は正しいことがわかり、細かなところは論理を使って詰めてゆけば良いわけです。使い分けが必要ということですね。
直感は細かなことはわからないことが多いですから、直感は相手のオーラを感じて方向性を確かめることに使って、論理は細かいところを詰めるわけです。それらは本来、協調して動くもので対立するものではないのですが、瞑想をしていないとこれらが対立するものになってしまいます。
現代の人は往々にして論理が優勢ですから、むしろ、オーラの感覚こそ重視すべきだと私なんかは思いますけどね。特に誰かと話をするときはオーラの感覚でその正しさがある程度は判別できると思います。それに頼りすぎてしまうと間違ってしまうこともあります。というのは、相手が勘違いをしていて勘違いしたままの条件においては正しいということもあるからです。しかしながら、論理で「確かめ」をする限りにおいてはオーラの感覚をまず優先して判断して良いと思うわけです。
水面に映った自分の顔が上の方に見える瞑想
瞑想をしていると、ここ数日の間に複数回、自分の顔が頭の上に浮かびました。
最初は私が若い頃の顔で、瞑想中は目を瞑っているのですが見えた顔は目が開いておりました。顔をよく見ると若い頃の顔に似ていましたので、今の姿をそのまま鏡写しにしたわけではなさそうです。その顔がこちらを見て、少し和かにしておりました。証明写真のように顔だけが浮かんでいる感じでした。
その数日後、再度、似たように顔が見えたのですが、今度はもう少し年を取ってからの、おそらく30代の顔でした。こちらも少し和かで、先日のに比べると水面に映ったかのように少しゆらゆらとしておりました。
心は鏡のようなものだ、とはよく言われることですが、心に映った自分の姿、ということなのかもしれません。あるいは時空を超えてどこかの時点の自分が将来の自分を覗き込んでいるのかもしれません。
禅の瞑想などで自分の頭の上に仏像や神様を思い浮かべる、という手法がありますけど、それらの手法は頭の上に意識的にイメージをして作り出すものだとは思いますが、私の場合はそのように意図してイメージしたわけではなく、かと言って、あらかじめそのようなイメージが来ますようにと願ったわけでもなく、不意に、普段通りの瞑想をしていたらたまたま、といいますか、不意に、といいますか、全く期待せずして上記のように自分の若い頃の姿が浮かんできたわけです。ですから、禅やチベットの瞑想法などにある、イメージする瞑想をしていたわけではありませんし、それとはおそらくは違う体験だったのではないかなと思います。
現時点ではこれが何なのか解明はできませんが、仮説としては、おそらくは意識が清浄になると心の鏡の上に対象が写り始めるのではないかな、と思っております。そのような記述をどこかで見たことがあるように思いますし、その心の鏡にいわゆるサードアイのような力が加わって遠くのものを映し出したりするのかな、という気も致します。
これらの心の鏡の出現は瞑想で意識が清浄になり、かつ、ヨーガでいうスシュムナ・ナディにエネルギーがきちんと入った時に起こるような気が致します。意識の清浄とスシュムナのエネルギーは相関関係がありますので、瞑想をして、左右のバランスを整えてスシュムナにエネルギーを充満させることで意識が清浄になり、そうなると心の鏡が出現して対象を映し出すようになるのでは、というのが現時点での私の理解です。
心の鏡は水面とか言いますけど、水面というと地面に平行にあるものですけど、この場合の心の鏡は地面にあるわけではなくて壁にかけてある鏡のように自分に対して平行にあって、その壁にある鏡が水面のようになっているわけです。水面ですから、時には風が吹いて少し波打つこともありますし、全く平らな感じの時もありますし、波打っていたり霧がかかっていてよく見えないこともあります。
三種の神器の1つである八咫鏡は心をモチーフにした、というようなことをどこかで読んだ気も致しますがどうでしょうかね。そんなイメージです。ちょっと古い鏡は現代のような綺麗な鏡ではなくて金属板だったようですし、歪んでいたりもしますけど基本は水面のようなもので、磨けば磨くほど写りが良くなるわけです。
禅やチベットの瞑想にしても、最初は意識でイメージするのかもしれませんが自然に心の鏡に映ったものが自然に見えてくるまで瞑想するということであれば目的地は一緒なのかもしれません。
最初は私が若い頃の顔で、瞑想中は目を瞑っているのですが見えた顔は目が開いておりました。顔をよく見ると若い頃の顔に似ていましたので、今の姿をそのまま鏡写しにしたわけではなさそうです。その顔がこちらを見て、少し和かにしておりました。証明写真のように顔だけが浮かんでいる感じでした。
その数日後、再度、似たように顔が見えたのですが、今度はもう少し年を取ってからの、おそらく30代の顔でした。こちらも少し和かで、先日のに比べると水面に映ったかのように少しゆらゆらとしておりました。
心は鏡のようなものだ、とはよく言われることですが、心に映った自分の姿、ということなのかもしれません。あるいは時空を超えてどこかの時点の自分が将来の自分を覗き込んでいるのかもしれません。
禅の瞑想などで自分の頭の上に仏像や神様を思い浮かべる、という手法がありますけど、それらの手法は頭の上に意識的にイメージをして作り出すものだとは思いますが、私の場合はそのように意図してイメージしたわけではなく、かと言って、あらかじめそのようなイメージが来ますようにと願ったわけでもなく、不意に、普段通りの瞑想をしていたらたまたま、といいますか、不意に、といいますか、全く期待せずして上記のように自分の若い頃の姿が浮かんできたわけです。ですから、禅やチベットの瞑想法などにある、イメージする瞑想をしていたわけではありませんし、それとはおそらくは違う体験だったのではないかなと思います。
現時点ではこれが何なのか解明はできませんが、仮説としては、おそらくは意識が清浄になると心の鏡の上に対象が写り始めるのではないかな、と思っております。そのような記述をどこかで見たことがあるように思いますし、その心の鏡にいわゆるサードアイのような力が加わって遠くのものを映し出したりするのかな、という気も致します。
これらの心の鏡の出現は瞑想で意識が清浄になり、かつ、ヨーガでいうスシュムナ・ナディにエネルギーがきちんと入った時に起こるような気が致します。意識の清浄とスシュムナのエネルギーは相関関係がありますので、瞑想をして、左右のバランスを整えてスシュムナにエネルギーを充満させることで意識が清浄になり、そうなると心の鏡が出現して対象を映し出すようになるのでは、というのが現時点での私の理解です。
心の鏡は水面とか言いますけど、水面というと地面に平行にあるものですけど、この場合の心の鏡は地面にあるわけではなくて壁にかけてある鏡のように自分に対して平行にあって、その壁にある鏡が水面のようになっているわけです。水面ですから、時には風が吹いて少し波打つこともありますし、全く平らな感じの時もありますし、波打っていたり霧がかかっていてよく見えないこともあります。
三種の神器の1つである八咫鏡は心をモチーフにした、というようなことをどこかで読んだ気も致しますがどうでしょうかね。そんなイメージです。ちょっと古い鏡は現代のような綺麗な鏡ではなくて金属板だったようですし、歪んでいたりもしますけど基本は水面のようなもので、磨けば磨くほど写りが良くなるわけです。
禅やチベットの瞑想にしても、最初は意識でイメージするのかもしれませんが自然に心の鏡に映ったものが自然に見えてくるまで瞑想するということであれば目的地は一緒なのかもしれません。
清浄な意識を意図的にタマスで強化する
タマスとはヨガで言う愚鈍な重い性質のことですけど、清浄な意識の上に覆い被さるようにして意識を曇らせます。瞑想をすることでタマスの覆いを取り払い、清浄な意識に戻すことができます。
この、清浄な意識に戻す力は最初は弱く、やがては強くなってゆくような気が致します。
最初、チェルドルとも言える状態の時はその力はまだ強くありません。じっと長く瞑想で観察を続けることによってようやくタマスの雲を取り払うことができます。やがて、シャルドルとも呼べる状態に至り、その力が強くなってきているのを感じます。
これらの状態に至るまでは行ったり来たりを繰り返していて、日常生活において疲れが溜まったりするとそれに応じるかのように清浄な意識が弱まり、体や精神が休まっているとタマスが増える傾向にはありますが、根底にある、清浄へと戻す力というものは少しずつ強くなってきていてストレスに強くなってきているような気が致します。
ストレスがある生活をただやめてゆけば良いわけでもなくて、日常生活を送る上においてはストレスはどうしてもありますから、ストレス耐性をつけるという意味でも、悟りがストレスによって簡単に失われてしまわないためにはある程度、タマスな愚鈍な状態およびストレスを日頃から多少は受けることが必要なような気が致します。
それは常にストレスやタマスな愚鈍の状態にいるということではなく、清浄な状態にいることは絶対的に必要で、それだけでは不十分で意図的にストレスを作り出して清浄な意識にストレス耐性をつけてゆくことが必要なのではないかと思うわけです。
おそらくは、ヨーガや伝統的な宗教の修行においてストレスを生むような苦行が行われるのもある程度はこのような意味合いもあるのではないかと思います。
苦行を行なってしまうとこのようなストレス耐性のお話だけでなくて、意図しない「能力」的なものを引き出してしまうこともありますので何が正しいのかを見極めるのは難しいのですが、少なくとも苦行にはこのような意味もあるとは思います。
清浄な意識を保つための座った瞑想は静かな場所で行われるべきで、それによって清浄な意識を育て、その清浄な意識を確固なものとするために苦行のようなもの、あるいは長時間にわたるマントラの詠唱みたいなものが行われるのではないかなと思います。
現代人はある意味、常日頃からストレスにさらされていますのでわざわざこのような苦行をする必要はあまりなくて、普通に日常生活を送って仕事をしさえすればそれが十分に修行になっているような気も致します。
お寺やアシュラムですと外界から切り離されてストレスのない生活を送れたりしますけど、それだけだと不十分で、意図的にストレスを作り出すことで清浄な静寂の境地を確固たるものにするわけですね。
一方で、日常生活を送っている人は苦行はある意味、そこら中に普通に存在しておりますので改めて苦行を追加で行う必要はなく、静かな意識を育てるため早朝などに座って瞑想をすれば十分かなとも思うわけです。
誤解を与えてしまうと何ですので補足しておきますと、どちらにせよ、もともとタマスが厚く覆いかぶさっている人の場合はタマスを長時間かけて取り除くのが最初であって、その時はタマスをわざわざ追加でもらう必要はないと思います。
ここで言っているのは、ある程度の意識の浄化ができた後に、清浄な意識に達したけれどもその力がまだ弱い段階においてはあえてタマスを意図的に加えることで清浄な意識を強めることができる、というお話です。
日本の場合ですともともとそれなりの清浄な意識で生まれてきている人も大勢いらっしゃいますし、であればそれを強化すればいいだけであるわけです。一方、タマスな愚鈍な性質がついてしまっている方の場合はまずタマスを浄化して清浄な意識を達成して、それから、ここで言うような意図的にタマスをつけて清浄な意識を強化してゆく話が出てくるわけです。ですから、最初のタマスが暑い段階でわざわざ追加でタマスをもらう必要はないわけです。
これは、そういう手法もある、というくらいのお話ですので、やらなくても別にその人の自由です。ですけど、伝統的な手法を見ていると、今は単なるルーチンになってしまっている感もありますけど、もともとは清浄な意識を達成した後にそれを確固たるものにするためにしていたものもあるのかなぁ、という気がしています。
この、清浄な意識に戻す力は最初は弱く、やがては強くなってゆくような気が致します。
最初、チェルドルとも言える状態の時はその力はまだ強くありません。じっと長く瞑想で観察を続けることによってようやくタマスの雲を取り払うことができます。やがて、シャルドルとも呼べる状態に至り、その力が強くなってきているのを感じます。
これらの状態に至るまでは行ったり来たりを繰り返していて、日常生活において疲れが溜まったりするとそれに応じるかのように清浄な意識が弱まり、体や精神が休まっているとタマスが増える傾向にはありますが、根底にある、清浄へと戻す力というものは少しずつ強くなってきていてストレスに強くなってきているような気が致します。
ストレスがある生活をただやめてゆけば良いわけでもなくて、日常生活を送る上においてはストレスはどうしてもありますから、ストレス耐性をつけるという意味でも、悟りがストレスによって簡単に失われてしまわないためにはある程度、タマスな愚鈍な状態およびストレスを日頃から多少は受けることが必要なような気が致します。
それは常にストレスやタマスな愚鈍の状態にいるということではなく、清浄な状態にいることは絶対的に必要で、それだけでは不十分で意図的にストレスを作り出して清浄な意識にストレス耐性をつけてゆくことが必要なのではないかと思うわけです。
おそらくは、ヨーガや伝統的な宗教の修行においてストレスを生むような苦行が行われるのもある程度はこのような意味合いもあるのではないかと思います。
苦行を行なってしまうとこのようなストレス耐性のお話だけでなくて、意図しない「能力」的なものを引き出してしまうこともありますので何が正しいのかを見極めるのは難しいのですが、少なくとも苦行にはこのような意味もあるとは思います。
清浄な意識を保つための座った瞑想は静かな場所で行われるべきで、それによって清浄な意識を育て、その清浄な意識を確固なものとするために苦行のようなもの、あるいは長時間にわたるマントラの詠唱みたいなものが行われるのではないかなと思います。
現代人はある意味、常日頃からストレスにさらされていますのでわざわざこのような苦行をする必要はあまりなくて、普通に日常生活を送って仕事をしさえすればそれが十分に修行になっているような気も致します。
お寺やアシュラムですと外界から切り離されてストレスのない生活を送れたりしますけど、それだけだと不十分で、意図的にストレスを作り出すことで清浄な静寂の境地を確固たるものにするわけですね。
一方で、日常生活を送っている人は苦行はある意味、そこら中に普通に存在しておりますので改めて苦行を追加で行う必要はなく、静かな意識を育てるため早朝などに座って瞑想をすれば十分かなとも思うわけです。
誤解を与えてしまうと何ですので補足しておきますと、どちらにせよ、もともとタマスが厚く覆いかぶさっている人の場合はタマスを長時間かけて取り除くのが最初であって、その時はタマスをわざわざ追加でもらう必要はないと思います。
ここで言っているのは、ある程度の意識の浄化ができた後に、清浄な意識に達したけれどもその力がまだ弱い段階においてはあえてタマスを意図的に加えることで清浄な意識を強めることができる、というお話です。
日本の場合ですともともとそれなりの清浄な意識で生まれてきている人も大勢いらっしゃいますし、であればそれを強化すればいいだけであるわけです。一方、タマスな愚鈍な性質がついてしまっている方の場合はまずタマスを浄化して清浄な意識を達成して、それから、ここで言うような意図的にタマスをつけて清浄な意識を強化してゆく話が出てくるわけです。ですから、最初のタマスが暑い段階でわざわざ追加でタマスをもらう必要はないわけです。
これは、そういう手法もある、というくらいのお話ですので、やらなくても別にその人の自由です。ですけど、伝統的な手法を見ていると、今は単なるルーチンになってしまっている感もありますけど、もともとは清浄な意識を達成した後にそれを確固たるものにするためにしていたものもあるのかなぁ、という気がしています。
手のひらからエネルギーが発せられ、瞑想状態へと導く
普段、私は座って瞑想する際は手を前で組むか、あるいは膝の上に置いて親指と人差し指で輪っかを作って上に向けています(チンムドラ)。
その際、特にチンムドラの場合、手の位置によって頭の中の反応位置が異なることに最近になって気がつきました。大体は同じ場所に手を置くのであまり気にしておりませんでしたし、日によって多少頭の中の反応が違っていたとしてもそんなものかと思ってスルーしておりました。
ふとしたことで手の位置をちょっと変えてみたら頭の中の反応が変わって、普段は割と頭の両側、両耳に近いところで反応が起こっていたのですが、手の位置を変えたところ、頭の真ん中、前頭葉、頭の後ろの方など、自在に反応する場所を変えられることに気がつきました。
意思で変えるというよりは、単純に、手の位置によって反応する場所が変わるようで、座禅の時の手の位置と向きを少し変えるだけで頭の中の対応した場所が反応するようです。
これは、手のひらからまっすぐ何かのエネルギーが発せられていると考えるのが自然のように思います。
試しに、座禅ではなく椅子に座ったまま掌を自分の顔の方に向けてみたところエネルギーを感じました。そして、割と簡単に瞑想状態に導かれるような気が致します。座禅を組まなくても手のひらを自分の方に向けるだけで瞑想状態に入りやすくなるようです。
・・・何で今までこのことに気がつかなかったのだろうかと、軽くショックです。おそらくはずっと昔からこうだった筈ですが、あまり意識しておりませんでした。
ひょっとして、足の裏を上に向けて座る瞑想のパドマアサナ(結跏趺坐、けっかふざ)も同じ意味合いがあるのかもしれません。私はパドマアサナはできないですけど、やりたくなってきましたね。最近は骨折もしていましたが骨折も完治しましたので次の目標はパドマアサナな感じです。
その際、特にチンムドラの場合、手の位置によって頭の中の反応位置が異なることに最近になって気がつきました。大体は同じ場所に手を置くのであまり気にしておりませんでしたし、日によって多少頭の中の反応が違っていたとしてもそんなものかと思ってスルーしておりました。
ふとしたことで手の位置をちょっと変えてみたら頭の中の反応が変わって、普段は割と頭の両側、両耳に近いところで反応が起こっていたのですが、手の位置を変えたところ、頭の真ん中、前頭葉、頭の後ろの方など、自在に反応する場所を変えられることに気がつきました。
意思で変えるというよりは、単純に、手の位置によって反応する場所が変わるようで、座禅の時の手の位置と向きを少し変えるだけで頭の中の対応した場所が反応するようです。
これは、手のひらからまっすぐ何かのエネルギーが発せられていると考えるのが自然のように思います。
試しに、座禅ではなく椅子に座ったまま掌を自分の顔の方に向けてみたところエネルギーを感じました。そして、割と簡単に瞑想状態に導かれるような気が致します。座禅を組まなくても手のひらを自分の方に向けるだけで瞑想状態に入りやすくなるようです。
・・・何で今までこのことに気がつかなかったのだろうかと、軽くショックです。おそらくはずっと昔からこうだった筈ですが、あまり意識しておりませんでした。
ひょっとして、足の裏を上に向けて座る瞑想のパドマアサナ(結跏趺坐、けっかふざ)も同じ意味合いがあるのかもしれません。私はパドマアサナはできないですけど、やりたくなってきましたね。最近は骨折もしていましたが骨折も完治しましたので次の目標はパドマアサナな感じです。
タマスを奥に押し返して静寂な意識を保つ
瞑想中、自分の意識を押すことで静寂な意識を保ちます。
日常生活で溜まってしまったタマスが自分を覆っており、特にそれは前面に覆っているものとして感じられます。瞑想をする際、目の前にある重いものを押して動かすかのように意識を前面に押し出してあげることで静寂な意識を広げることができます。
ウパニシャッドか何かでシバ神が瞑想の手ほどきをしている文脈において、「瞑想では内なるものと外のものを区別し、外のものは外に保つ」みたいな説明をしている文章があったように思いますが、この説明はまさにこの、静寂な意識を内に保ってタマスな愚鈍な性質を外に追いやることを意味していたのではないかなと思います。
それはタマスといえばタマスですけれども、単なる意識としてのタマスだけではなくて、意識体としてそこらに浮かんでいる想念の雲を外に追い出す、という意味もあるかと思います。
以前にも少し書きましたが、例えば右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くと言ったように何かに取り憑かれている時は「押し返す」というよりは「つまんで引っこ抜く」ということをします。それはそれでありますし、一方で、単にタマスな意識に囲まれているのであれば押し返すということをするのがいいのかなと思います。
この辺りは色々とやり方があるでしょうし、人によっては気合で声を出して振り払う人もいるでしょう。しかしながら、おそらくはシバ神の説明の仕方は「押し返す」と言ったやり方だと思うわけです。
基本は前面に押し出すわけですけれども、弱いと思われる方向、例えば私の場合は右肩あたりですけれども、そのあたりを意識して中の方から右肩の方に「押し返す」ことで右肩が安定して、安定すると右肩の緊張が一段階取れます。
個人的には押し返すだけだとちょっと弱くて、かと言って気合で声を出すという気質でもない感じですので、押し返すのに加えて「つまんで引き抜く」ということを組み合わせれば大抵のことに対処できるのかな、と思っております。
単にタマスに覆われた時は押し返して、意識体に取り憑かれた時はつまんで引き抜いてから中から押し返して安定させる、という感じです。どちらの場合でも結果としては清浄な意識、静寂な意識が訪れれば成功したといえます。
それに付け加えるならば左右バランスを取ること。主なチェックポイントは合わせて3つですかね。
日常生活で溜まってしまったタマスが自分を覆っており、特にそれは前面に覆っているものとして感じられます。瞑想をする際、目の前にある重いものを押して動かすかのように意識を前面に押し出してあげることで静寂な意識を広げることができます。
ウパニシャッドか何かでシバ神が瞑想の手ほどきをしている文脈において、「瞑想では内なるものと外のものを区別し、外のものは外に保つ」みたいな説明をしている文章があったように思いますが、この説明はまさにこの、静寂な意識を内に保ってタマスな愚鈍な性質を外に追いやることを意味していたのではないかなと思います。
それはタマスといえばタマスですけれども、単なる意識としてのタマスだけではなくて、意識体としてそこらに浮かんでいる想念の雲を外に追い出す、という意味もあるかと思います。
以前にも少し書きましたが、例えば右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くと言ったように何かに取り憑かれている時は「押し返す」というよりは「つまんで引っこ抜く」ということをします。それはそれでありますし、一方で、単にタマスな意識に囲まれているのであれば押し返すということをするのがいいのかなと思います。
この辺りは色々とやり方があるでしょうし、人によっては気合で声を出して振り払う人もいるでしょう。しかしながら、おそらくはシバ神の説明の仕方は「押し返す」と言ったやり方だと思うわけです。
基本は前面に押し出すわけですけれども、弱いと思われる方向、例えば私の場合は右肩あたりですけれども、そのあたりを意識して中の方から右肩の方に「押し返す」ことで右肩が安定して、安定すると右肩の緊張が一段階取れます。
個人的には押し返すだけだとちょっと弱くて、かと言って気合で声を出すという気質でもない感じですので、押し返すのに加えて「つまんで引き抜く」ということを組み合わせれば大抵のことに対処できるのかな、と思っております。
単にタマスに覆われた時は押し返して、意識体に取り憑かれた時はつまんで引き抜いてから中から押し返して安定させる、という感じです。どちらの場合でも結果としては清浄な意識、静寂な意識が訪れれば成功したといえます。
それに付け加えるならば左右バランスを取ること。主なチェックポイントは合わせて3つですかね。
薄い紫色の猫のシルエットが浮かび上がる瞑想
いつものように座った瞑想をして、意識を集中していると何かの意識体が近くにいるような気が致しました。いつもに比べると情緒的に多少不安定で、どうしたものかと思っておりましたら、もしかしたらこの意識体が原因だったのかもしれません。
右側の少し前に、ふと、薄い紫色の猫のシルエットが浮かびました。
薄い紫色の模様の周囲は灰色あるいは黒に近い状態で、猫のシルエットの部分だけが薄い紫色で光っていたのです。
どうやら、それは猫のように見える一方で、その実体はというと私の過去生での妻の1人が猫のように近くにいて見守っているような気が致しました。猫が実体なのかあるいは妻が実体なのかまではよくわかりません。重なっているのかもしれませんし、猫のように生きていた妻だったので、まあ、イメージとしては猫というのは確かにあっています。
順番としては最初に性的な情緒的なイメージが浮かび上がってきて、それは何だろうと思っていたら過去生の妻で、確かにその妻とはしょっちゅう濃厚接触をして楽しんでおりましたのでそういう面もあるでしょうし、その元妻も私と久々にしたいのかな? と言う気もしますので、その気持ちが元妻から流れてきていたとしても不思議ではありません。
死んでから幽霊になっても足はありますし、何気に、性的な器官もしっかりついておりますし、やろうと思えば夜の生活も普通にできます。基本的には生きていた頃の記憶と習慣が繰り返されているわけですけれども、一人の想像ではなくて、きちんと相手がいて起こる本当のことです。まあ、幽霊ですけどね。
そんな元妻のイメージと共に、気高いペルシャ猫のような薄い紫色の猫のシルエットが浮かび上がってきていました。
場所としては右目の少し上です。
そして、しばらくそれを見ていたら、やがて形が崩れてきて、何かよくわからない、ただのアメーバあるいは斑点のようなものになっていって、やがて、薄い紫色の模様は消えてゆきました。
まあ、何か見えることはぼちぼちありますが、このように、一部だけ紫色で光る、と言うのはあまり記憶にありません。普通に映像がカラーで見えることはありますけど、紫色でシルエットが光る、と言う感じではありません。
特に意識を集中している時に紫色で光っていて、瞑想から解けてゆくにつれて紫色の光が消えて普通の灰色あるいは黒っぽい視界に戻りました。
目を瞑って瞑想をすると、周囲の光を感じることはありますし、部分的にピカッと光ったりすることはよくあります。その光はスポットライトとしてぼちぼち大きな光であることもありますが、今回のような、不思議な薄い紫色のシルエットと斑点模様のように見えることはあまりなかったように思います。あまり記憶にありません。
ここまで気になるのは、何か、今日の瞑想が今までとちょっと違ったからです。
何でしょうかね。
おそらくは、アストラル上層で動いている時のスミレ色なのかな、と言う気も致します。アストラル下層が黒でアストラル上層がスミレ色だとすると、理屈は合います。
さて、どうでしょうかね。また様子を見てゆきます。
右側の少し前に、ふと、薄い紫色の猫のシルエットが浮かびました。
薄い紫色の模様の周囲は灰色あるいは黒に近い状態で、猫のシルエットの部分だけが薄い紫色で光っていたのです。
どうやら、それは猫のように見える一方で、その実体はというと私の過去生での妻の1人が猫のように近くにいて見守っているような気が致しました。猫が実体なのかあるいは妻が実体なのかまではよくわかりません。重なっているのかもしれませんし、猫のように生きていた妻だったので、まあ、イメージとしては猫というのは確かにあっています。
順番としては最初に性的な情緒的なイメージが浮かび上がってきて、それは何だろうと思っていたら過去生の妻で、確かにその妻とはしょっちゅう濃厚接触をして楽しんでおりましたのでそういう面もあるでしょうし、その元妻も私と久々にしたいのかな? と言う気もしますので、その気持ちが元妻から流れてきていたとしても不思議ではありません。
死んでから幽霊になっても足はありますし、何気に、性的な器官もしっかりついておりますし、やろうと思えば夜の生活も普通にできます。基本的には生きていた頃の記憶と習慣が繰り返されているわけですけれども、一人の想像ではなくて、きちんと相手がいて起こる本当のことです。まあ、幽霊ですけどね。
そんな元妻のイメージと共に、気高いペルシャ猫のような薄い紫色の猫のシルエットが浮かび上がってきていました。
場所としては右目の少し上です。
そして、しばらくそれを見ていたら、やがて形が崩れてきて、何かよくわからない、ただのアメーバあるいは斑点のようなものになっていって、やがて、薄い紫色の模様は消えてゆきました。
まあ、何か見えることはぼちぼちありますが、このように、一部だけ紫色で光る、と言うのはあまり記憶にありません。普通に映像がカラーで見えることはありますけど、紫色でシルエットが光る、と言う感じではありません。
特に意識を集中している時に紫色で光っていて、瞑想から解けてゆくにつれて紫色の光が消えて普通の灰色あるいは黒っぽい視界に戻りました。
目を瞑って瞑想をすると、周囲の光を感じることはありますし、部分的にピカッと光ったりすることはよくあります。その光はスポットライトとしてぼちぼち大きな光であることもありますが、今回のような、不思議な薄い紫色のシルエットと斑点模様のように見えることはあまりなかったように思います。あまり記憶にありません。
ここまで気になるのは、何か、今日の瞑想が今までとちょっと違ったからです。
何でしょうかね。
おそらくは、アストラル上層で動いている時のスミレ色なのかな、と言う気も致します。アストラル下層が黒でアストラル上層がスミレ色だとすると、理屈は合います。
さて、どうでしょうかね。また様子を見てゆきます。
頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至る
意識の平穏が段階的やってくるような瞑想を近日はしているわけですが、意識の平穏が訪れる時は上半身に漂っているモヤモヤとしたものが喉の辺りを通ってハートおよび下半身に流れ込むことに気が付きました。
日常生活を送ってタマスな愚鈍なものが溜まる時と、静寂の意識、平穏の状態が保たれている時とでは何が違うのかと言うと、そのようにタマスが頭から喉およびハートを通って下半身に流れ込むことができるかどうかと言う点が異なる気が致します。
例えば、日常生活を送っている時に緊張があったりすると頭とハートを結ぶエネルギー・ルートが少し詰まりがちになります。緊張・ストレス・マイナスの意識によってそのエネルギールート、ヨガで言うスシュムナが詰まりがちになってしまいます。そうすると頭の周囲に溜まってしまうタマスな愚鈍な性質が浄化されずに溜まってしまって、愚鈍な性質が強まって静寂の意識ではなくなってしまうわけです。
一方で、日常生活で緊張をあまりせずにスシュムナが開いている状態では多少のタマスな愚鈍な性質があったとしてもすぐに清浄な意識に戻ることができる気が致します。
これは、瞑想中に起こっていたことですが、今までは清浄な意識が段階的に訪れる理由がそれほど把握できていませんでした。
今は、頭の周囲に溜まっているタマスが、まるで溜まっている風呂場の水が水栓を抜いた時に一気に抜けていくかのごとく、特に喉を通ってハート、下半身へと流れ込んでゆくのを感じます。タマスがそのように下に抜けることで清浄な意識に戻ってゆくことを同時に感じることができます。
特に喉のヴィシュッダチャクラで浄化がほぼ行われて、残りかすみたいなものが下半身に巡るような感じです。喉のヴィシュッダ・チャクラは浄化のチャクラだとも言われますけど、こういうことなのかもしれません。
おそらく、ですが、以前はスシュムナがまだそれほどきちんと開けていなかったのでしょう。そして、スシュムナが開くと清浄な意識になる、と言うのはヨガの聖典に書いてあることと一致するような気が致します。
プラーナがスシュムナー気道のなかを流れ、こころのはたらきが虚空のなかに埋没したときには、このヨーガの達成者は全ての業作の根を絶ってしまう。ハタ・ヨーガ・プラディーピカー 4・12「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)
その時の私の状態としては、上半身が清浄な意識で、下半身はクンダリーニの熱い熱気に覆われています。その時、静寂な意識が保たれます。一方で、タマスな状態の時は緊張があって頭の周囲がタマスで愚鈍で、下半身は同じです。違いはと言うとスシュムナが閉じ気味という点です。少しずつスシュムナが開く時はそれに応じて意識も段階的に静寂になっていたわけです。一方で、それなりにきちんと開かれているのであれば清浄な意識が保たれるわけです。
これは程度のお話で、スシュムナが完全に閉じてしまうことは私の場合は今後はほとんどないのかなと思いますけど、少し詰まってしまうとこのように違いを感じることができます。
瞑想をして、単に眉間に集中するだけでなく、スシュムナを開くという意図を持つことが重要なのですね。そのために背筋をまっすぐにしたり、ソー・ハン瞑想をするなり、小周天をしたりしてメンテナンスが必要なわけです。これはヨーガで基本とされていることですけど、基本であるがゆえに割とスルーしがちでした。しかしながら、今となっては意識の清浄とスシュムナの関係がきちんと瞑想中に感じられますので、とても重要なのだというのがよくわかります。
そもそも日常生活で緊張をもらわなければいいのかもしれませんけど、日常生活でどうしても疲れは溜まりますから、メンテナンスは必要なわけです。そのメンテナンスが瞑想なわけですけれども、座って瞑想をするのが一番ですが、座っていなくてもスシュムナを意識してエネルギーが通る状態にすれば割と清浄な意識が保ちやすい気が致します。
私の今生の目的の1つは覚醒への階梯を確かめることですので私は割と実験的なことをしていて、意図的にタマスを増やしてみたりしてますけど、普通の人はあまりこのような実験はしなくていいのかなという気も致します。その人の自由ですけどね。
日常生活を送ってタマスな愚鈍なものが溜まる時と、静寂の意識、平穏の状態が保たれている時とでは何が違うのかと言うと、そのようにタマスが頭から喉およびハートを通って下半身に流れ込むことができるかどうかと言う点が異なる気が致します。
例えば、日常生活を送っている時に緊張があったりすると頭とハートを結ぶエネルギー・ルートが少し詰まりがちになります。緊張・ストレス・マイナスの意識によってそのエネルギールート、ヨガで言うスシュムナが詰まりがちになってしまいます。そうすると頭の周囲に溜まってしまうタマスな愚鈍な性質が浄化されずに溜まってしまって、愚鈍な性質が強まって静寂の意識ではなくなってしまうわけです。
一方で、日常生活で緊張をあまりせずにスシュムナが開いている状態では多少のタマスな愚鈍な性質があったとしてもすぐに清浄な意識に戻ることができる気が致します。
これは、瞑想中に起こっていたことですが、今までは清浄な意識が段階的に訪れる理由がそれほど把握できていませんでした。

特に喉のヴィシュッダチャクラで浄化がほぼ行われて、残りかすみたいなものが下半身に巡るような感じです。喉のヴィシュッダ・チャクラは浄化のチャクラだとも言われますけど、こういうことなのかもしれません。
おそらく、ですが、以前はスシュムナがまだそれほどきちんと開けていなかったのでしょう。そして、スシュムナが開くと清浄な意識になる、と言うのはヨガの聖典に書いてあることと一致するような気が致します。
プラーナがスシュムナー気道のなかを流れ、こころのはたらきが虚空のなかに埋没したときには、このヨーガの達成者は全ての業作の根を絶ってしまう。ハタ・ヨーガ・プラディーピカー 4・12「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)
その時の私の状態としては、上半身が清浄な意識で、下半身はクンダリーニの熱い熱気に覆われています。その時、静寂な意識が保たれます。一方で、タマスな状態の時は緊張があって頭の周囲がタマスで愚鈍で、下半身は同じです。違いはと言うとスシュムナが閉じ気味という点です。少しずつスシュムナが開く時はそれに応じて意識も段階的に静寂になっていたわけです。一方で、それなりにきちんと開かれているのであれば清浄な意識が保たれるわけです。
これは程度のお話で、スシュムナが完全に閉じてしまうことは私の場合は今後はほとんどないのかなと思いますけど、少し詰まってしまうとこのように違いを感じることができます。
瞑想をして、単に眉間に集中するだけでなく、スシュムナを開くという意図を持つことが重要なのですね。そのために背筋をまっすぐにしたり、ソー・ハン瞑想をするなり、小周天をしたりしてメンテナンスが必要なわけです。これはヨーガで基本とされていることですけど、基本であるがゆえに割とスルーしがちでした。しかしながら、今となっては意識の清浄とスシュムナの関係がきちんと瞑想中に感じられますので、とても重要なのだというのがよくわかります。
そもそも日常生活で緊張をもらわなければいいのかもしれませんけど、日常生活でどうしても疲れは溜まりますから、メンテナンスは必要なわけです。そのメンテナンスが瞑想なわけですけれども、座って瞑想をするのが一番ですが、座っていなくてもスシュムナを意識してエネルギーが通る状態にすれば割と清浄な意識が保ちやすい気が致します。
私の今生の目的の1つは覚醒への階梯を確かめることですので私は割と実験的なことをしていて、意図的にタマスを増やしてみたりしてますけど、普通の人はあまりこのような実験はしなくていいのかなという気も致します。その人の自由ですけどね。
瞑想での心の停止とプラティヤハーラとサマーディ
ヨーガ・スートラでは「心の死滅(停止)」が一つの目的地になっています。
この解釈は、プラティヤハーラの段階の人とサマーディの段階の人とで異なる場合があります。
プラティヤハーラの段階の人は「瞑想で心を停止(死滅)しても一時的なことなので本質ではない」と言って集中瞑想や心の停止を否定しがちです。
それはプラティヤハーラの段階の人であればある程度は真実ですけど、サマーディに至ってしまえば心の停止の静寂の境地とそれの奥に存在している深い静かな意思の働きが共存しますので、心の死滅はある意味正しいわけです。
確かに心の停止は本質ではないですが、本質ではないという説明を聞いたときにプラティヤハーラの段階の人は心の死滅(停止)を否定してしまうのに対し、サマーディの段階の人は心の死滅(停止)は真実として受け入れてその奥にある深い意識の働きもまた肯定するわけです。プラティヤハーラの人にとっての「本質ではない」という意味と、サマーディ段階の人にとっての「本質ではない」という意味が異なる場合があるということです。
ヨーガ・スートラに述べられている心の停止(死滅)を否定するのはプラティヤハーラの段階の人が陥る可能性のある誤解の1つです。プラティヤハーラの段階ですと瞑想中に一生懸命雑念から逃れようと集中して努力しますが瞑想が終わるとまた雑念がわらわらと湧き出てきて翻弄されてしまいます。ですから、心の死滅をしても何にもならない、とプラティヤハーラの段階の人は判断してしまうことがありますが、それはまだ瞑想が進んでいないだけのお話です。プラティヤハーラの段階だと、心の奥にもう1つの本当の心の本性が眠っていることがなかなか理解できないわけです。きちんと説明してくれる人がいない限り、誤解してしまっても無理はないかもしれません。そうして誤解してしまうと「心の死滅なんてしてもしょうがない」と解釈してしまうのです。
一方、サマーディであれば心の死滅がある程度は続きますし、心が動き出したとしても心の奥底にある心の本性としての意思は表面的な心の動きに左右されずに存在して働き続けますので、雑念によって心の本性が妨げられることは少なくなります。雑念は程度問題ですのである程度は雑念によって心の本性の動きが妨げられますけど本質的に別々なものであることが実感としてわかりますから、そうして表面的な心・思考・意思と、奥底にある心の本性としての意思が異なるものであることがわかってしまば先のようなお話が誤解だということが分かるわけです。
プラティヤハーラの段階の人はたまに誤解をして心の死滅(停止)とは全く別のところに悟りの道を求めてしまうことがあるのに対し、サマーディの人はまさに心の死滅(停止)と悟りとしての心の本性・意思とが共存する状態で生きているわけです。
このように、プラティヤハーラの段階の人が時々陥る誤解として、心の死滅(停止)のお話について「集中は本質ではない」と言われた時に「集中を否定してしまう」ことがあります。そうではない人も多いですけど、誤解している方もボチボチいらっしゃるように思われます。
サマーディの状態は心が動いているか動いていないかに関わらず心の本性が奥底で動いている状態ですから、心が死滅しているかどうかは本質ではないと言えばそうですけど、それでも以前に比べたら遥かに心が鎮まっている状態ですので、死滅が本質ではないのはそうであるにしても、心が静寂になったことで現れてくる奥にある心の境地があるわけです。
その奥にある境地が重要というのはその通りなんですけど、そのためにはまず集中瞑想で心を一時的に死滅(停止)できるくらいまで集中力を高める必要があるわけです。
■行動か、理解か
一部の流派では「行動ではなく、理解によって解脱できる」とか説明されていますけど、それを言葉通り解釈してしまうと「瞑想しなくても良い。修行しなくても良い。理解するだけで良い」となってしまいますが、その流派の中にいる方でもそのように説明している方もおられますけど、そこは自由な立場の私ですから、そのような説明もこれと同様に解釈して「(顕在意識における心・意思による)行動ではなく、(潜在意識の働きによる心の本性、アートマンによる行動、それを比喩的に言い換えるならば理解、という意味においての)理解によって解脱できる(モークシャ)」と読み替えることができるわけです。最終目的地にあるのがいわゆる「行動」ではなくても、そこに至るために行動は必要だと私なんかは思うわけです。それを、文字通り解釈してしまって「行動しなくてもよくて理解しさえすれば解脱できる」と思ってしまうのは、「念仏唱えれば成仏できる?(そんなわけないでしょ)」、みたいなお話と同一になってしまう危惧もあるわけです。最終目的地が顕在意識の行動から離れたアートマンによる行動、それは顕在意識からしたら潜在意識に見えるかもしれませんし理解として解釈されるかもしれませんけど、単なる固定的な理解ではなくて深いところにある働きとしての動きのある意思が働き出すわけですので、実際は理解という言葉は適切ではなくて、それは「アートマンがまだ現れていなくて、しかしながら真実を理解した人による解釈」ではないかと思うのです。
実際にアートマンが現れて働き始めたならば「理解」という言葉は使わないと思うのですけどね。おそらくは、真実を勉強することで理解に至ったがまだアートマンが現れていない人によって解釈された流派の教義なのではないかなと思います。そのあたりがプラティヤハーラ段階ですと「理解」と解釈されるのに対して、サマーディですと「心の本性(アートマン)の働き」として理解されるのかな、と思います。
この解釈は、プラティヤハーラの段階の人とサマーディの段階の人とで異なる場合があります。
プラティヤハーラの段階の人は「瞑想で心を停止(死滅)しても一時的なことなので本質ではない」と言って集中瞑想や心の停止を否定しがちです。
それはプラティヤハーラの段階の人であればある程度は真実ですけど、サマーディに至ってしまえば心の停止の静寂の境地とそれの奥に存在している深い静かな意思の働きが共存しますので、心の死滅はある意味正しいわけです。
確かに心の停止は本質ではないですが、本質ではないという説明を聞いたときにプラティヤハーラの段階の人は心の死滅(停止)を否定してしまうのに対し、サマーディの段階の人は心の死滅(停止)は真実として受け入れてその奥にある深い意識の働きもまた肯定するわけです。プラティヤハーラの人にとっての「本質ではない」という意味と、サマーディ段階の人にとっての「本質ではない」という意味が異なる場合があるということです。
ヨーガ・スートラに述べられている心の停止(死滅)を否定するのはプラティヤハーラの段階の人が陥る可能性のある誤解の1つです。プラティヤハーラの段階ですと瞑想中に一生懸命雑念から逃れようと集中して努力しますが瞑想が終わるとまた雑念がわらわらと湧き出てきて翻弄されてしまいます。ですから、心の死滅をしても何にもならない、とプラティヤハーラの段階の人は判断してしまうことがありますが、それはまだ瞑想が進んでいないだけのお話です。プラティヤハーラの段階だと、心の奥にもう1つの本当の心の本性が眠っていることがなかなか理解できないわけです。きちんと説明してくれる人がいない限り、誤解してしまっても無理はないかもしれません。そうして誤解してしまうと「心の死滅なんてしてもしょうがない」と解釈してしまうのです。
一方、サマーディであれば心の死滅がある程度は続きますし、心が動き出したとしても心の奥底にある心の本性としての意思は表面的な心の動きに左右されずに存在して働き続けますので、雑念によって心の本性が妨げられることは少なくなります。雑念は程度問題ですのである程度は雑念によって心の本性の動きが妨げられますけど本質的に別々なものであることが実感としてわかりますから、そうして表面的な心・思考・意思と、奥底にある心の本性としての意思が異なるものであることがわかってしまば先のようなお話が誤解だということが分かるわけです。
プラティヤハーラの段階の人はたまに誤解をして心の死滅(停止)とは全く別のところに悟りの道を求めてしまうことがあるのに対し、サマーディの人はまさに心の死滅(停止)と悟りとしての心の本性・意思とが共存する状態で生きているわけです。
このように、プラティヤハーラの段階の人が時々陥る誤解として、心の死滅(停止)のお話について「集中は本質ではない」と言われた時に「集中を否定してしまう」ことがあります。そうではない人も多いですけど、誤解している方もボチボチいらっしゃるように思われます。
サマーディの状態は心が動いているか動いていないかに関わらず心の本性が奥底で動いている状態ですから、心が死滅しているかどうかは本質ではないと言えばそうですけど、それでも以前に比べたら遥かに心が鎮まっている状態ですので、死滅が本質ではないのはそうであるにしても、心が静寂になったことで現れてくる奥にある心の境地があるわけです。
その奥にある境地が重要というのはその通りなんですけど、そのためにはまず集中瞑想で心を一時的に死滅(停止)できるくらいまで集中力を高める必要があるわけです。
■行動か、理解か
一部の流派では「行動ではなく、理解によって解脱できる」とか説明されていますけど、それを言葉通り解釈してしまうと「瞑想しなくても良い。修行しなくても良い。理解するだけで良い」となってしまいますが、その流派の中にいる方でもそのように説明している方もおられますけど、そこは自由な立場の私ですから、そのような説明もこれと同様に解釈して「(顕在意識における心・意思による)行動ではなく、(潜在意識の働きによる心の本性、アートマンによる行動、それを比喩的に言い換えるならば理解、という意味においての)理解によって解脱できる(モークシャ)」と読み替えることができるわけです。最終目的地にあるのがいわゆる「行動」ではなくても、そこに至るために行動は必要だと私なんかは思うわけです。それを、文字通り解釈してしまって「行動しなくてもよくて理解しさえすれば解脱できる」と思ってしまうのは、「念仏唱えれば成仏できる?(そんなわけないでしょ)」、みたいなお話と同一になってしまう危惧もあるわけです。最終目的地が顕在意識の行動から離れたアートマンによる行動、それは顕在意識からしたら潜在意識に見えるかもしれませんし理解として解釈されるかもしれませんけど、単なる固定的な理解ではなくて深いところにある働きとしての動きのある意思が働き出すわけですので、実際は理解という言葉は適切ではなくて、それは「アートマンがまだ現れていなくて、しかしながら真実を理解した人による解釈」ではないかと思うのです。
実際にアートマンが現れて働き始めたならば「理解」という言葉は使わないと思うのですけどね。おそらくは、真実を勉強することで理解に至ったがまだアートマンが現れていない人によって解釈された流派の教義なのではないかなと思います。そのあたりがプラティヤハーラ段階ですと「理解」と解釈されるのに対して、サマーディですと「心の本性(アートマン)の働き」として理解されるのかな、と思います。
瞑想で集中(サマタ)すると観察(ヴィパッサナー)が現れる
瞑想の「行為」としては「集中」です。
そして、「結果」として「観察」が生じます。
これを取り違えて、「行為」として「観察」を行おうとしてもそれは単に観察しているつもりで集中している、というお話になります。例えば皮膚の観察をする瞑想(いわゆるヴィパッサナー瞑想の流派の手法)がありますけど、それは実際は瞑想的には集中に分類されるものです。
言い方として「観察」とか「ヴィパッサナー」とか呼んでいたりしますけど、それは個別の流派の言い方がありますのでそれはそれでいいと思いますし、その流派に属するならば好きに解釈して先生の教えに従えば良いと思います。私は私なりの解釈を書いているだけで、他人に解釈を変えろと言っているわけではなく、整理のためにこのように書いているだけです。
「行為としての集中」には「顕在意識」が対応し、「結果としての観察」には「潜在意識、あるいは深層意識」が対応します。心理学用語と解釈はいろいろありますけど、ここでは厳密なものではなく、わかりやすさのために階層をそれぞれ対応付けています。
そのように、行為としては顕在意識の「思考・意志、いわゆる心」が対応し、結果としてはいわゆる潜在意識の深いところが対応するわけです。
潜在意識と言ってしまうとそれは人間が意識できないところじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、ヨーガの修行の(途中の)目的(マイルストーン)の一つには潜在意識の部分を減らして顕在意識を増やす、というものがあります。ですから、その増えた部分を同様に顕在意識と呼んで顕在意識が増えたと解釈するのもそれはそれで正しいですが、それよりも、もともと潜在意識だった部分が新たに別の深い意思として現れてくる、という方が実態に近いと思います。
その深い意識が現れた状態をヨーガではサマーディと呼んだりあるいはヴィパッサナーと呼んだりします。これは多少は流派によって意味合いが異なりますので解釈に混乱があったりもしますが、基本的な意味合いとしてはこのように深い意識が現れてきた状態だ、ということができます。
その深い意識をヨーガでは「アートマン」とか言ったりしますし、ゾクチェンでは「リクパ(心の本性)」、あるいはスピリチュアル系では「スピリット」と呼んだりします。
とある点にまで至ると、顕在意識の心がいわゆる普通の意思・思考で自分を動かしている段階から、潜在意識としてのアートマン、スピリット、リクパ、あるいは心の本性が動き出して、そちらが主導権を握ることになります。
そして、アートマン(スピリット、リクパ)が主導権を握っている状態がサマーディでありヴィパッサナーであり観察であるわけです。
その時、顕在意識はどうなっているかと言いますと、顕在意識に対応する思考・意思は動こうと思えば動くことができますが、割と鎮まっている状態になっています。顕在意識は論理的思考が得意ですし、アートマン(スピリット、リクパ)は俯瞰して見るのが得意です。そういう意味で役割分担がなされていると言えます。
アートマン(スピリット、リクパ)も論理的思考および細かなところが見れますが、それは結果としてそのように論理的思考や細かいところが見れはしますけど、それはより直感的なものです。インスピレーションに近いものですね。いわゆる論理的思考で組み立てるというよりは結果が先に入ってくるようなものです。
そのように、アートマン(スピリット、リクパ)が動き出した状態が観察(ヴィパッサナー)であると言えます。
ですから、それに至るためにヨーガ・スートラに書かれているような「心の死滅(停止)」が「行為」の修行としては必要なわけです。死滅と言うと心が全くなくなってしまうかのように解釈してしまう方もおられるかもしれませんけど、これは一時的に顕在意識を鎮めるという意味であって、全く心を無くしてしまうという意味ではないのです。
もともとはサンスクリット語で二ローダという意味ですし、そもそもの意味も難解ですので解釈してくれる人が必要で、例えばインドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」の中でヨーガとは心素の働きを死滅させることである、と明確に述べています。同所での心素というのはChittaで、心理作用の源であるとされます。ですから、そのような狭義においての死滅であって、心を全く無くしてしまうことではないのです。
修行としてチッタを死滅(停止)させることをすると、その奥にある真相意識とも言えるアートマン(スピリット、リクパ)が動き出してヴィパッサナー(観察)に至る、というわけです。
そして、「結果」として「観察」が生じます。
これを取り違えて、「行為」として「観察」を行おうとしてもそれは単に観察しているつもりで集中している、というお話になります。例えば皮膚の観察をする瞑想(いわゆるヴィパッサナー瞑想の流派の手法)がありますけど、それは実際は瞑想的には集中に分類されるものです。
言い方として「観察」とか「ヴィパッサナー」とか呼んでいたりしますけど、それは個別の流派の言い方がありますのでそれはそれでいいと思いますし、その流派に属するならば好きに解釈して先生の教えに従えば良いと思います。私は私なりの解釈を書いているだけで、他人に解釈を変えろと言っているわけではなく、整理のためにこのように書いているだけです。
「行為としての集中」には「顕在意識」が対応し、「結果としての観察」には「潜在意識、あるいは深層意識」が対応します。心理学用語と解釈はいろいろありますけど、ここでは厳密なものではなく、わかりやすさのために階層をそれぞれ対応付けています。
そのように、行為としては顕在意識の「思考・意志、いわゆる心」が対応し、結果としてはいわゆる潜在意識の深いところが対応するわけです。
潜在意識と言ってしまうとそれは人間が意識できないところじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、ヨーガの修行の(途中の)目的(マイルストーン)の一つには潜在意識の部分を減らして顕在意識を増やす、というものがあります。ですから、その増えた部分を同様に顕在意識と呼んで顕在意識が増えたと解釈するのもそれはそれで正しいですが、それよりも、もともと潜在意識だった部分が新たに別の深い意思として現れてくる、という方が実態に近いと思います。
その深い意識が現れた状態をヨーガではサマーディと呼んだりあるいはヴィパッサナーと呼んだりします。これは多少は流派によって意味合いが異なりますので解釈に混乱があったりもしますが、基本的な意味合いとしてはこのように深い意識が現れてきた状態だ、ということができます。
その深い意識をヨーガでは「アートマン」とか言ったりしますし、ゾクチェンでは「リクパ(心の本性)」、あるいはスピリチュアル系では「スピリット」と呼んだりします。
とある点にまで至ると、顕在意識の心がいわゆる普通の意思・思考で自分を動かしている段階から、潜在意識としてのアートマン、スピリット、リクパ、あるいは心の本性が動き出して、そちらが主導権を握ることになります。
そして、アートマン(スピリット、リクパ)が主導権を握っている状態がサマーディでありヴィパッサナーであり観察であるわけです。
その時、顕在意識はどうなっているかと言いますと、顕在意識に対応する思考・意思は動こうと思えば動くことができますが、割と鎮まっている状態になっています。顕在意識は論理的思考が得意ですし、アートマン(スピリット、リクパ)は俯瞰して見るのが得意です。そういう意味で役割分担がなされていると言えます。
アートマン(スピリット、リクパ)も論理的思考および細かなところが見れますが、それは結果としてそのように論理的思考や細かいところが見れはしますけど、それはより直感的なものです。インスピレーションに近いものですね。いわゆる論理的思考で組み立てるというよりは結果が先に入ってくるようなものです。
そのように、アートマン(スピリット、リクパ)が動き出した状態が観察(ヴィパッサナー)であると言えます。
ですから、それに至るためにヨーガ・スートラに書かれているような「心の死滅(停止)」が「行為」の修行としては必要なわけです。死滅と言うと心が全くなくなってしまうかのように解釈してしまう方もおられるかもしれませんけど、これは一時的に顕在意識を鎮めるという意味であって、全く心を無くしてしまうという意味ではないのです。
もともとはサンスクリット語で二ローダという意味ですし、そもそもの意味も難解ですので解釈してくれる人が必要で、例えばインドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」の中でヨーガとは心素の働きを死滅させることである、と明確に述べています。同所での心素というのはChittaで、心理作用の源であるとされます。ですから、そのような狭義においての死滅であって、心を全く無くしてしまうことではないのです。
修行としてチッタを死滅(停止)させることをすると、その奥にある真相意識とも言えるアートマン(スピリット、リクパ)が動き出してヴィパッサナー(観察)に至る、というわけです。
幸福と平安の小サイクルは繰り返される
禅定のサイクルとして以下のようなお話があります。
1.幸福
2.(思考が止まることによる)喜び
3.(幸びが消えて)楽のある平安
4.(楽が消えて)平安のみ
禅定は特に2段階以降がサマーディと呼ばれますが、このような起伏の状態は禅定だけでなくそれ以前においても同様のサイクルが繰り返されているように思います。
この性質により、往々にしてサマーディ以前においても自分が禅定に達したのではないかという誤解をしてしまう可能性があるようにも思います。私も、禅定の定義がいまいちピンときていませんでしたが、今思えば、サマーディ以前においても自分が禅定に達したのかな? と思い違いしていた場合もあるような気が致します。
例えば、プラティヤハーラの段階で雑念が逃れようとする段階においても同様の4ステップを踏むような気が致します。
■プラティヤハーラ
→ 雑念から離れて一時的な幸福に至る
→ 雑念が一時的に止まって喜びを感じる
→ 雑念が一時的に止まって、喜びが減って楽がある平安
→ 雑念が一時的に止まって、楽が消えて平安な状態に至る
これらは、サマーディとある程度は同様のステップを辿るような気が致します。
ディヤーナ(瞑想)でも同様な気が致します。
■ディヤーナ
→→ 集中が高まり、一時的な幸福に至る
→→ 集中力が高まり、喜びを感じる
→→ 集中力が高まり、喜びが減って楽がある平安
→→ 集中力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る
これと、サマーディはよく似ています。
■サマーディ
→→→ 観察力が高まり、幸福に至る。これは昨年末から視界がスローモーションで認識されるという段階に対応しているように思います。喜びのある状態です。五感が働き続けていて、「面白い」という感覚があります。
→→→ 観察力が高まり、喜びを感じる。これは最初にスローモーションで感じたような特別な状態から日常が映画になった段階に相当してるような気が致します。まだ面白いという感覚は残っていますが、最初の時のような特別感がなくなってきた段階です。自我が戸惑う、ということも起きます。
→→→ 観察力が高まり、喜びが減って楽がある平安。これはその後、「面白い」という感覚が次第に減っていって日常生活と融合してきた段階に相当しているような気が致します。
→→→ 観察力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る。これは最近感じていて、面白いとか楽とかいう感覚がかなり消えていって、単に観察力だけが残ってきた感じが致します。この頃になると「自我が戸惑う」みたいなことはほとんどなくなってきて、普通な状態になってきたような気が致します。
1.幸福
2.(思考が止まることによる)喜び
3.(幸びが消えて)楽のある平安
4.(楽が消えて)平安のみ
禅定は特に2段階以降がサマーディと呼ばれますが、このような起伏の状態は禅定だけでなくそれ以前においても同様のサイクルが繰り返されているように思います。
この性質により、往々にしてサマーディ以前においても自分が禅定に達したのではないかという誤解をしてしまう可能性があるようにも思います。私も、禅定の定義がいまいちピンときていませんでしたが、今思えば、サマーディ以前においても自分が禅定に達したのかな? と思い違いしていた場合もあるような気が致します。
例えば、プラティヤハーラの段階で雑念が逃れようとする段階においても同様の4ステップを踏むような気が致します。
■プラティヤハーラ
→ 雑念から離れて一時的な幸福に至る
→ 雑念が一時的に止まって喜びを感じる
→ 雑念が一時的に止まって、喜びが減って楽がある平安
→ 雑念が一時的に止まって、楽が消えて平安な状態に至る
これらは、サマーディとある程度は同様のステップを辿るような気が致します。
ディヤーナ(瞑想)でも同様な気が致します。
■ディヤーナ
→→ 集中が高まり、一時的な幸福に至る
→→ 集中力が高まり、喜びを感じる
→→ 集中力が高まり、喜びが減って楽がある平安
→→ 集中力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る
これと、サマーディはよく似ています。
■サマーディ
→→→ 観察力が高まり、幸福に至る。これは昨年末から視界がスローモーションで認識されるという段階に対応しているように思います。喜びのある状態です。五感が働き続けていて、「面白い」という感覚があります。
→→→ 観察力が高まり、喜びを感じる。これは最初にスローモーションで感じたような特別な状態から日常が映画になった段階に相当してるような気が致します。まだ面白いという感覚は残っていますが、最初の時のような特別感がなくなってきた段階です。自我が戸惑う、ということも起きます。
→→→ 観察力が高まり、喜びが減って楽がある平安。これはその後、「面白い」という感覚が次第に減っていって日常生活と融合してきた段階に相当しているような気が致します。
→→→ 観察力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る。これは最近感じていて、面白いとか楽とかいう感覚がかなり消えていって、単に観察力だけが残ってきた感じが致します。この頃になると「自我が戸惑う」みたいなことはほとんどなくなってきて、普通な状態になってきたような気が致します。
再度、目を閉じていても視界をシルエットで感じるサードアイ
昨年末に同様のことがありましたけど、再度ありました。今回は普通に瞑想をしている時で、単なる残像かと思って顔を傾けたりしてみましたけど同じ場所に続けて見えておりましたのでそれっぽいなと。
ただ、今から思えば顔は傾けましたが視線はどちらに向けていたかあまり記憶がないのでもしかしたら視線は固定されていて単なる残像だったかもしれませんね。
そのような可能性はありますけど、感覚としてはやはりそれっぽかったわけです。残像の感じより遥かにはっきりしておりましたしね。
前回の照度は5%くらいでボヤッとしておりましたが、今回もボヤッとしておりましたが前回よりははっきり見えていましたのでおそらく10〜15%くらいでしょうか。なんとなく形が見えるのも前回と同じですけど、今回の方が多少はっきりと見えました。暗くて見えにくいですけど、このくらいであれば物がそこにあることが分かりますので目を瞑っていても探れそうな感じです。
これがサードアイなのかフォースアイなのかは微妙なところですけど、過去生の記憶を辿りますとフォースアイは360度全てを見渡せた気が致しますので、単に視界の延長線上ということであればこれはサードアイなのかなと思います。これをサードアイと呼ぶ流派もあると思いますし、このようなことができる人が少ない状況ではコンセンサスも生まれにくいでしょうから、まあ、言い方はどちらでもいいと言えばいいのかもしれませんが、個人的には頭の中の特に後頭部で見るのがサードアイで、頭の中から飛び出して頭の少し上あるいは視点をもっと違う場所に動かしてそこからの視点で見るのがフォースアイです。
今回は視界の延長でしたのでサードアイですね。
ただ、視界が出てきたところで疑問や探究心が出てきて色々と思考が動き出してしまいましたので瞑想状態から早く抜け出てしまい、それほど長くは続きませんでした。
慣れてくれば状態を維持できるようになる気も致しますね。
昨年末の時はふとした拍子に見えたという感じですが、今回は瞑想で意識を静寂に近づけたときに見えた感じでしたので、おそらくは前回よりは再現性があるような気が致します。
フォースアイは確か最初にサードアイの場所で生まれて頭の上から外に出てゆくような気も致しますので、まだ頭から出ていないフォースアイがサードアイと呼ばれているだけなのかもしれません。この辺りはおいおい確認して行ければと思います。
ただ、今から思えば顔は傾けましたが視線はどちらに向けていたかあまり記憶がないのでもしかしたら視線は固定されていて単なる残像だったかもしれませんね。
そのような可能性はありますけど、感覚としてはやはりそれっぽかったわけです。残像の感じより遥かにはっきりしておりましたしね。
前回の照度は5%くらいでボヤッとしておりましたが、今回もボヤッとしておりましたが前回よりははっきり見えていましたのでおそらく10〜15%くらいでしょうか。なんとなく形が見えるのも前回と同じですけど、今回の方が多少はっきりと見えました。暗くて見えにくいですけど、このくらいであれば物がそこにあることが分かりますので目を瞑っていても探れそうな感じです。
これがサードアイなのかフォースアイなのかは微妙なところですけど、過去生の記憶を辿りますとフォースアイは360度全てを見渡せた気が致しますので、単に視界の延長線上ということであればこれはサードアイなのかなと思います。これをサードアイと呼ぶ流派もあると思いますし、このようなことができる人が少ない状況ではコンセンサスも生まれにくいでしょうから、まあ、言い方はどちらでもいいと言えばいいのかもしれませんが、個人的には頭の中の特に後頭部で見るのがサードアイで、頭の中から飛び出して頭の少し上あるいは視点をもっと違う場所に動かしてそこからの視点で見るのがフォースアイです。
今回は視界の延長でしたのでサードアイですね。
ただ、視界が出てきたところで疑問や探究心が出てきて色々と思考が動き出してしまいましたので瞑想状態から早く抜け出てしまい、それほど長くは続きませんでした。
慣れてくれば状態を維持できるようになる気も致しますね。
昨年末の時はふとした拍子に見えたという感じですが、今回は瞑想で意識を静寂に近づけたときに見えた感じでしたので、おそらくは前回よりは再現性があるような気が致します。
フォースアイは確か最初にサードアイの場所で生まれて頭の上から外に出てゆくような気も致しますので、まだ頭から出ていないフォースアイがサードアイと呼ばれているだけなのかもしれません。この辺りはおいおい確認して行ければと思います。
真我(アートマン)の手足が5つの神通
神通は5つとも6つとも言われていますけど、基本となる五神通が真我(アートマン、スピリット)の手足だと言います。
これは今日の瞑想の中で教えられました。
確かに、そう思ってみれば当然であるように思われます。この神通を顕在意識の自我から見れば神通ですが、アートマンからしてみればそれは単なる手足なわけです。
手足ですから見る能力や歩く(移動)する能力、聞く能力があって当然なわけです。
天眼通は千里眼の能力で目ですし、他心通や天耳通は耳、神足通は足、宿命通も目ですね。六神通に入っている漏尽通はアートマンの手足とは違った感じですので、六神通というよりは五神通がアートマンの手足だというのがしっくりきます。
・天眼通、宿命通 目
・他心通、天耳通 耳
・神足通 足
これは、神通が何やら神がかったものではなく、単にアートマンが動き出したことによる、別の言い方をするのならばアートマンが現れたことによるその手足の働きが五神通であると言えるわけです。
人間の顕在意識からすれば不思議な力に見えますが、観察状態が進んでアートマンが主に切り替わった状態に働く手足のことであるとすればなんてことはない、普通のことのようにも思えてきます。
普通の人はアートマンが動いていなくて顕在意識の欲望や反応で生きているわけですからアートマンの手足である五神通が動いていなくても当然であるようにも思います。
五神通の分類は流派によって色々のようですけど、アートマンの手足と考えると嗅覚と触覚がないので五感には1対1には対応してはいませんのでちょっと中途半端ですかね。
いわゆる幽体になっても皮膚のような感覚はありますので、その感覚があってもよさそうなものですけどね。嗅覚に関しては、波動の感覚を匂いとして感じることもありますのでそれもアートマンの手足といいますかアートマンの五感として考えても良さそうな気が致します。
そう考えますと、五神通は何も特別なものではなく、アートマン、いわゆる真我あるいは霊体・幽体の働きであると言えます。それを日常生活を送りながらも活用できるようになる、というところが五神通の実際なのではないかと思います。
そのために、基本は瞑想をして意識を鎮めて静寂な境地に至ることでアートマンが出現してくるわけですが、一部の流派で能力だけを目的にしていると秘密の技法などで一時的に意識を鎮めてアートマンを働かせる、というようなこともできるように思います。
ヨーガなどの聖典で言われていることですが、神通(シッディ)を得るためにはいくつかの方法があって、基本は瞑想ですけど欲望や雑念を持ったままシッディを得ることも一応はできて、例えば薬物・マントラ・苦行によっても得ることができると記されていますが、シッディを修行の目的にしてはならないとヨーガでは説きます。であれば手段は瞑想しかないわけです。
シッディを目的にしてしまうとシッディを得るために薬物・マントラ・苦行で一時的に顕在意識を麻痺状態にしてアートマンを働かせる、ということになるかと思います。そして、そのような人はアートマンを働かせた後にしばらくすると元の欲望・雑念の世界へと戻ってゆくわけです。
一方で、瞑想でサマーディに達した人は意識が平らで静寂の意識に生きていて、多少は雑念や欲望も持ちますけど静寂な意識に立ち返る力がかなり強くなっていて、その状態ではアートマンが働きやすくなっていますからアートマンの手足である五神通を動かすのも自由自在なわけです。そして、手足ですから動かすも動かさないも自由で、シッディのように見えるかもしれませんけど、もはやそれは大した事柄ではなくなるわけです。
これは今日の瞑想の中で教えられました。
確かに、そう思ってみれば当然であるように思われます。この神通を顕在意識の自我から見れば神通ですが、アートマンからしてみればそれは単なる手足なわけです。
手足ですから見る能力や歩く(移動)する能力、聞く能力があって当然なわけです。
天眼通は千里眼の能力で目ですし、他心通や天耳通は耳、神足通は足、宿命通も目ですね。六神通に入っている漏尽通はアートマンの手足とは違った感じですので、六神通というよりは五神通がアートマンの手足だというのがしっくりきます。
・天眼通、宿命通 目
・他心通、天耳通 耳
・神足通 足
これは、神通が何やら神がかったものではなく、単にアートマンが動き出したことによる、別の言い方をするのならばアートマンが現れたことによるその手足の働きが五神通であると言えるわけです。
人間の顕在意識からすれば不思議な力に見えますが、観察状態が進んでアートマンが主に切り替わった状態に働く手足のことであるとすればなんてことはない、普通のことのようにも思えてきます。
普通の人はアートマンが動いていなくて顕在意識の欲望や反応で生きているわけですからアートマンの手足である五神通が動いていなくても当然であるようにも思います。
五神通の分類は流派によって色々のようですけど、アートマンの手足と考えると嗅覚と触覚がないので五感には1対1には対応してはいませんのでちょっと中途半端ですかね。
いわゆる幽体になっても皮膚のような感覚はありますので、その感覚があってもよさそうなものですけどね。嗅覚に関しては、波動の感覚を匂いとして感じることもありますのでそれもアートマンの手足といいますかアートマンの五感として考えても良さそうな気が致します。
そう考えますと、五神通は何も特別なものではなく、アートマン、いわゆる真我あるいは霊体・幽体の働きであると言えます。それを日常生活を送りながらも活用できるようになる、というところが五神通の実際なのではないかと思います。
そのために、基本は瞑想をして意識を鎮めて静寂な境地に至ることでアートマンが出現してくるわけですが、一部の流派で能力だけを目的にしていると秘密の技法などで一時的に意識を鎮めてアートマンを働かせる、というようなこともできるように思います。
ヨーガなどの聖典で言われていることですが、神通(シッディ)を得るためにはいくつかの方法があって、基本は瞑想ですけど欲望や雑念を持ったままシッディを得ることも一応はできて、例えば薬物・マントラ・苦行によっても得ることができると記されていますが、シッディを修行の目的にしてはならないとヨーガでは説きます。であれば手段は瞑想しかないわけです。
シッディを目的にしてしまうとシッディを得るために薬物・マントラ・苦行で一時的に顕在意識を麻痺状態にしてアートマンを働かせる、ということになるかと思います。そして、そのような人はアートマンを働かせた後にしばらくすると元の欲望・雑念の世界へと戻ってゆくわけです。
一方で、瞑想でサマーディに達した人は意識が平らで静寂の意識に生きていて、多少は雑念や欲望も持ちますけど静寂な意識に立ち返る力がかなり強くなっていて、その状態ではアートマンが働きやすくなっていますからアートマンの手足である五神通を動かすのも自由自在なわけです。そして、手足ですから動かすも動かさないも自由で、シッディのように見えるかもしれませんけど、もはやそれは大した事柄ではなくなるわけです。
ヴィシュッダ(喉)でタマスを浄化する
最近は、ヴィシュッダ・チャクラ(喉のスロート・チャクラ)が瞑想中に活躍しています。
頭のタマスを浄化するのにも活躍しますし、お腹の中のタマスやカルマを浄化するにも活躍しています。
頭のタマスは吸い込まれるようにヴィシュッダに入って清らかに変わりますし、お腹のあたり、特に右脇腹に長らく溜まっていたタマスなのかカルマなのか、何かがヴィシュッダに吸い込まれてこれまた浄化されたような気が致します。大活躍しています。
ヴィシュッダ・チャクラは定説では「毒を浄化する」とか言われていて、特に頭の後ろのヴィンドゥ・チャクラからネクター(甘露)が出てきてそれをヴィシュッダで浄化することで薬になると言われています。ネクター(甘露)はヴィシュッダで浄化しなければ毒ですがヴィシュッダで浄化することで活力・長寿をもたらす薬になるとヨーガやヴェーダでは言われています。
ヴィシュッディは、毒を浄化するチャクラだと言われています。(中略)登頂にビンド(点)と呼ばれる場所(サハスララチャクラの内)があり、そこでアンブロシャと呼ばれる液がつくりだされます。(中略)この液はまだ毒でも神酒(ネクタ、神の飲み物)でもありません。(中略)ヴィシュッダ・チャクラが目覚めていればこの液をネクタ(不老不死の神酒)に純化、浄化することができますが、目覚めていないと、この液はヴィシュッディチャクラの中で毒となってしまうのです。「密教ヨーガ(本山博著)」
もしかしたら、私に起きていることが多少はこれと関係があるのかな、とも思いますが、私の場合は液が落ちるというよりは単純にオーラが純化されているというだけです。
特にヴィシュッダ・チャクラが開いたかのような経験はしていないような気も致しますが、最近になってよく動いているような気がするのも確かです。チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではないとも言われていますので、あんまり木にすることでもないのかもしれませんし、もともとそれなりに動いていたような気も致します。そもそもナーダ音が聞こえるのはヴィシュッダ・チャクラの役割ですから、もともと私の場合はヴィシュッダが動きやすかったのかもしれません。
いつから開いていたかはわかりませんが、日常生活や仕事をする上で閉じ気味になったこともある一方で、最近になって特に活発に動き出している気が致します。
ヴィシュッダの浄化があるからこそ心身が健康で、特に静寂の境地を保つ上において重要な役割を担っているような気が致します。
頭のタマスを浄化するのにも活躍しますし、お腹の中のタマスやカルマを浄化するにも活躍しています。
頭のタマスは吸い込まれるようにヴィシュッダに入って清らかに変わりますし、お腹のあたり、特に右脇腹に長らく溜まっていたタマスなのかカルマなのか、何かがヴィシュッダに吸い込まれてこれまた浄化されたような気が致します。大活躍しています。
ヴィシュッダ・チャクラは定説では「毒を浄化する」とか言われていて、特に頭の後ろのヴィンドゥ・チャクラからネクター(甘露)が出てきてそれをヴィシュッダで浄化することで薬になると言われています。ネクター(甘露)はヴィシュッダで浄化しなければ毒ですがヴィシュッダで浄化することで活力・長寿をもたらす薬になるとヨーガやヴェーダでは言われています。
ヴィシュッディは、毒を浄化するチャクラだと言われています。(中略)登頂にビンド(点)と呼ばれる場所(サハスララチャクラの内)があり、そこでアンブロシャと呼ばれる液がつくりだされます。(中略)この液はまだ毒でも神酒(ネクタ、神の飲み物)でもありません。(中略)ヴィシュッダ・チャクラが目覚めていればこの液をネクタ(不老不死の神酒)に純化、浄化することができますが、目覚めていないと、この液はヴィシュッディチャクラの中で毒となってしまうのです。「密教ヨーガ(本山博著)」
もしかしたら、私に起きていることが多少はこれと関係があるのかな、とも思いますが、私の場合は液が落ちるというよりは単純にオーラが純化されているというだけです。
特にヴィシュッダ・チャクラが開いたかのような経験はしていないような気も致しますが、最近になってよく動いているような気がするのも確かです。チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではないとも言われていますので、あんまり木にすることでもないのかもしれませんし、もともとそれなりに動いていたような気も致します。そもそもナーダ音が聞こえるのはヴィシュッダ・チャクラの役割ですから、もともと私の場合はヴィシュッダが動きやすかったのかもしれません。
いつから開いていたかはわかりませんが、日常生活や仕事をする上で閉じ気味になったこともある一方で、最近になって特に活発に動き出している気が致します。
ヴィシュッダの浄化があるからこそ心身が健康で、特に静寂の境地を保つ上において重要な役割を担っているような気が致します。
首から下がだるまさんのようなオーラになる
少し前に、だるまさんのような丸いオーラの体になって眉間の周囲にオーラが集まる感じになりました。今回もその時と似ていますが、今回は頭の部分がちょっと違っていて、頭のところは形がない感じです。
体の部分も、だるまさんと言えばそうですが、前回ほどだるまさんというほどではなく、体の部分に沿ってオーラが凝縮されている感じです。
首から下の体の全体にオーラが行き渡っていて、安定しています。
以前は、体の一部に気(プラーナ、オーラ)が行き届いていない、みたいなことがあって、今でこそ多少の濃淡はありますけど基本的には体全体にプラーナが行き届いていて、首から下が濃縮されたオーラに満たされているのを感じます。
この状態だとオーラの移動も簡単にできて、例えば先日に行った右脇腹に溜まっていたオーラを喉のヴィシュッダに移動させて浄化させるなんてことも簡単にできます。
その一方で、頭から上はまだそこまでオーラが凝縮していない感じが致します。オーラが足りない、ということもありますし、安定感がまだ足りない感じです。頭の部分は日常生活でタマスが溜まりやすくてヴィシュッダで浄化すると頭の部分が晴れやかになりますが、その際は、オーラも一緒に移動してしまってオーラがちょっと薄い感じになるような気が致します。それよりは、首から下の状態のようなオーラが凝縮されて安定している感じに首から上もなれば少し状態が変わる気がしています。なんとなくですけどね。
あるいは、ヴィシュッダが浄化のオーラだとすれば、頭の上はすっきりした状態が正しい気もしますが、どうなのでしょう。このあたりはこれから様子を見てゆきます。
可能性1:首から上もオーラが濃縮された状態になる
可能性2:首から上はすっきりした透明な状態、首から下はオーラが凝縮した状態
このどちらになるのでしょうかね?
今のところ、以下の順番かなと思っております。
1.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上がモヤモヤしたタマスな状態
2.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態
3.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上も首から下と同様なオーラが濃縮された状態になる
となれば、今は1と2の間を揺れ動いていて、やがて、2を超えたら3になるのかも? という気がしておりますが、もしかしたら2だけで3はないかもしれません。
3の場合はクンダリーニが下から頭で上がる、と解釈することができます。
一方で、2の場合はヴィシュッダ(あるいは胸のアナハタ)が天と地の中間地点・合流地点であって、天から降りてきた清浄な気が頭に満たされるのだとしたら2が最終地点かもしれません。その線で解釈すると以下もあり得ます。
1.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上がモヤモヤしたタマスな状態
2.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態(タマスを浄化する)
4.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態(タマスを浄化する)+天のエネルギーが頭に降りてきて頭が天のエネルギーで満たされている状態になる
天からのエネルギーが降りてくる、とすればこちらが正しい気も致します。
既にある程度は降りてきてはいるとは思いますが、まだ本格的ではない気がしております。
というのも、過去生やパラレルワールドの記憶を辿ると、天からエネルギーといいますかいわゆる「光の柱」を立てたときに天から降りてくるエネルギーは相当なものがあったと思いますし、光の柱を立てるにはコツがいて、自分のオーラを天に思いっきり伸ばして通路を作って、その光の通路を育てることで光の柱が強くなった気がしますので、そのような儀式と言いますか技法はまだしていないので、天のエネルギーはまだ降りてきていないと思っています。
まずは個人として清浄な意識を確立して、それから、光の柱を作って天からエネルギーを降ろす、という順番かもしれないですね。そんな気がしてきました。
体の部分も、だるまさんと言えばそうですが、前回ほどだるまさんというほどではなく、体の部分に沿ってオーラが凝縮されている感じです。
首から下の体の全体にオーラが行き渡っていて、安定しています。
以前は、体の一部に気(プラーナ、オーラ)が行き届いていない、みたいなことがあって、今でこそ多少の濃淡はありますけど基本的には体全体にプラーナが行き届いていて、首から下が濃縮されたオーラに満たされているのを感じます。
この状態だとオーラの移動も簡単にできて、例えば先日に行った右脇腹に溜まっていたオーラを喉のヴィシュッダに移動させて浄化させるなんてことも簡単にできます。
その一方で、頭から上はまだそこまでオーラが凝縮していない感じが致します。オーラが足りない、ということもありますし、安定感がまだ足りない感じです。頭の部分は日常生活でタマスが溜まりやすくてヴィシュッダで浄化すると頭の部分が晴れやかになりますが、その際は、オーラも一緒に移動してしまってオーラがちょっと薄い感じになるような気が致します。それよりは、首から下の状態のようなオーラが凝縮されて安定している感じに首から上もなれば少し状態が変わる気がしています。なんとなくですけどね。
あるいは、ヴィシュッダが浄化のオーラだとすれば、頭の上はすっきりした状態が正しい気もしますが、どうなのでしょう。このあたりはこれから様子を見てゆきます。
可能性1:首から上もオーラが濃縮された状態になる
可能性2:首から上はすっきりした透明な状態、首から下はオーラが凝縮した状態
このどちらになるのでしょうかね?
今のところ、以下の順番かなと思っております。
1.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上がモヤモヤしたタマスな状態
2.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態
3.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上も首から下と同様なオーラが濃縮された状態になる
となれば、今は1と2の間を揺れ動いていて、やがて、2を超えたら3になるのかも? という気がしておりますが、もしかしたら2だけで3はないかもしれません。
3の場合はクンダリーニが下から頭で上がる、と解釈することができます。
一方で、2の場合はヴィシュッダ(あるいは胸のアナハタ)が天と地の中間地点・合流地点であって、天から降りてきた清浄な気が頭に満たされるのだとしたら2が最終地点かもしれません。その線で解釈すると以下もあり得ます。
1.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上がモヤモヤしたタマスな状態
2.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態(タマスを浄化する)
4.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態(タマスを浄化する)+天のエネルギーが頭に降りてきて頭が天のエネルギーで満たされている状態になる
天からのエネルギーが降りてくる、とすればこちらが正しい気も致します。
既にある程度は降りてきてはいるとは思いますが、まだ本格的ではない気がしております。
というのも、過去生やパラレルワールドの記憶を辿ると、天からエネルギーといいますかいわゆる「光の柱」を立てたときに天から降りてくるエネルギーは相当なものがあったと思いますし、光の柱を立てるにはコツがいて、自分のオーラを天に思いっきり伸ばして通路を作って、その光の通路を育てることで光の柱が強くなった気がしますので、そのような儀式と言いますか技法はまだしていないので、天のエネルギーはまだ降りてきていないと思っています。
まずは個人として清浄な意識を確立して、それから、光の柱を作って天からエネルギーを降ろす、という順番かもしれないですね。そんな気がしてきました。