一般に理解されているスピリチュアルでは「何でも自由」という言葉が囁かれます。それを聞いて、「そうか、自分は何をしても良いのか」と思い込むのが浅はかな人の考えで、かつて歴史的にもそのような思想史があったかと思います。何が何でも自由であれば、そこに秩序という者はなくなってしまいます。ですから、文字通り何でも自由ということはないわけです。そこに、「他人に迷惑をかけていけない」「他人に迷惑をかけない範囲であれば自由」という現代的な思想が生まれてきたわけです。それは自由を基本としつつも他者に迷惑をかけない、という基本原理なわけです。これは欧米には適した考え方だったと思います。と言いますのは、欧米においては個の考え方が強く、認知としても個を単位として考えられているため、そのような考え方がマッチしていたからです。この辺りのことは近代史を学ぶ上での基礎でありますし、聞いたこともある方も多いかと思われます。それは、個というものが他者と分断している、ということを前提とした考え方であるわけです。
一方、世界には個という概念が希薄で集団という考え方を基本にしている文化もあります。日本はその中間でありますが、部分的には個でありながら部分的には集団であるわけです。世界には個に関する言葉がなくて集団のみの認知を行っている文化もありますが、日本はその中間であり、最近の欧米主義の影響により個の面がここ近年は強くなってきているかと思われます。
そして、ちょうど最近は春になって欧米主義的なイベントが毎年この時期には散見されて、例えばアースデイのようなイベントはというと基本的に「何でも自由」の考え方が基本になっているわけです。随分と昔で30年近く前のお話になりますが、アースデイ東京の関係者に「会場でタバコを吸いながら歩いている人がいて子供にも吸わない人にも迷惑なので会場を禁煙にして喫煙所を設けたらどうか」という、現代であれば全うな意見を当時に伝えたことがあるのですが、事務局のとある人間は顔を真っ赤にして大きな声で目をまん丸にして怒鳴りつけながら「このイベントは自由なのだからタバコを禁止するなどして人々の気分を害させるなどしないのだ!」とブチ切れられました。昔はそういう時代もあったかと思いますが、そもそも自由という事を歪んで理解し、何でも自由にして良い、ということを重んじるのが西洋的な自由と自然崇拝なのだと当時に思ったことがあります。懐かしいお話です。
そのような、欧米主義的な「個としての存在」「他者との分離」を基本とした「何でも自由」がスピリチュアルと合流し、かつてはニューエイジあるいはヒッピー文化として花咲きました。
それは、個としての分離を基本としつつもとある面で他者と思想的に繋がる、そのような、いわゆるカタストロフィーを基本とした文化だったわけです。個として分離しているが故に、某かの特異な体験あるいは環境はたまた音楽などに触れることにより、部分的な合一がなされたわけです。それはスピリチュアル的に言えばアストラル的な合一と呼ばれるもので、アストラル界の現象とは主に感情面での合一なわけです。これはまだ感情が残っており浄化されていないために合一してある程度の一体感を感じつつも、まだ気持ち悪いのです。もっと浄化が進んでカーラナ(原因体)あるいはそれ以上の合一になると清らかなものになるのですが、この種の感情的な合致は気持ち良さと気持ち悪さが合体したものなのです。そのような、個としつつも部分的に合一する、そのために個という殻を破るための自由としての方便が用いられました。個を守ることは絶対的な法則として欧米社会には規範として存在していて、その殻を破るために自由という方便(理屈、言い訳、解釈、説明)を必要としたわけです。
ですが、それらの人々は思想的に確固としたものを持たなかったために、言葉での説明は自由を説き続けました。自由であることこそが世界を守って地球の環境を守るのだと、そのように主張し続けたのです。その言葉それ自体を取ってみれば自由であるということは秩序と反しますが、その本筋としては、本当に自由でありたいというよりは、他者との繋がりを得たいという欲求から来た叫びであったように思えます。
それは、スピリチュアルにおいて本当の初歩的な段階であり、感情をまだ超えることができていないのです。その時点では自由意志というものはあるようでなく、翻弄されてるばかりの状態であるわけです。ですから、自由を叫びつつも実は他者との繋がりを求めているわけです。
スピリチュアル的な「自由」とは、感情的なアストラルの面を超えて、更にはカルマの原因(コーザル、カーラナ界)をも超えていって初めて自由というものが得られるわけですが、その段階になると「何でも自由」という言葉の意味が異なってくるのです。
最初の段階で「自由」というと法則や規則に縛られた自分が解放される、という、物理的あるいは環境における自由のことでありますが、後の方の段階になってくると、何でも全てが最初から自由であったことに気がつくのです。それは全ての人が実は自由意志を持っていて、更には全ての人が神の分身でもあることに気がつくことです。自由意志を持っているのですから最初から自由なわけで、自由になる必要も実はないのです。
とは言いつつも奴隷のような環境にいる人たちもいますのでそういう面での自由の解放というものは必要でありますが、その一方で、恵まれているのにも関わらず何も仕事をしたくない、贅沢をしたいが故に自由が欲しいと叫んでいる人も一定数いるわけです。前者は解放が必要ですが、後者に必要なのは教育と秩序です。
実のところ自由というものは最初からある程度まで保障されているが故に、スピリチュアルでは自由というものはそこまで問題にならないのです。スピリチュアルでいう自由とは文脈において別の意味・コンテキストを持っていて、悟りと同等の意味だったりします。その意味において悟りとしての自由(モクシャ)を得るというお話であれば話は変わってきますが、世間一般で言われているような経済的あるいは行動の自由というお話であれば最初からある程度あるため、そこはスピリチュアルにおいて問題にならないか、あるいは、あっても初歩的なお話になるわけです。
ですから、世間で欧米的なイベントで「何でも自由」を謳うのは精神的に盲目で「個」の世界に生きていて他者との繋がりを感じられない人たちが他者との繋がりを求めてそう言っているのでありますから、そこに盲目的な人が居てスピリチュアル的な理解や成長が必要ということはあれど、文字通り「何でも自由」というお話にスピリチュアル的な意義はそこまで見いだせないのです。
とは言いつつも、それこそがスピリチュアルの本懐だとして環境活動やNGO・NPO活動に熱心な方もそれなりにおられます。私も30年ほど前には何年もそういった方と関わる機会がありました。
人は、そのように、思い違いをして世界平和や環境のために長く時間を費やすこともあるのかと思います。それが環境活動のみならずカルトだったり、本当の英智を手に入れるまで人は回り道を繰り返すのでしょう。
ですから、本当の意味においてスピリチュアルは「何でも自由」を説きます。何故ならそれが世界の本質だからです。ですが、世間で一般に理解されるような「何でもして良い」あるいは「他人に迷惑をかけない範囲で自由にして良い」というお話とは根本的に異なるのです。