瞑想で「思考との隙間を空ける」ことの意味を勘違いしている人が多い

2025-11-14公開 (2025-11-09 記)
トピックスピリチュアル

勘違い「思考と思考の間の、何も考えていない時間を延ばす。思考を停止させている時間を延ばす」
本当の意味「思考と、その奥にあって通底している意識との間の距離を離す、客観視する」

割と初心者あるあるで、自称上級者であっても勘違いしていたり、はたまた、流派によっては勘違いした意味を広く教えていたりします。

このような最初のような意味で理解していますと、いつまで経っても「自分は思考が止まらない。思考が止まるまでに至っていない。まだまだだ」みたいに思ってしまうのです。実際のところ、後者の意味における状態になるにはそれなりの壁があり、「意識」と思考との間に距離ができると言っても誰しもが多少は距離があるのであって、しかし、距離がはっきりと感じられるまでには成長が必要なことがほとんどなわけですが、後者のように説明されてしまうと、それが多少は誰しもができているわけですから、それで由としてしまう人が大半な訳です。ですから、あたかも後者の理解は自分が出来ていると思い込みがちですが、瞑想で言っているような意味で本当に出来るまでには時間がかかることがほとんどなわけです。

ですから、後者の意味に気がつくまでは前者のように勘違いしていた方が幸せとも言えるわけで、後者の意味で理解して、それで自分が瞑想を上達したと勘違いするよりは、前者が出来ていないと悩み続けた方が余程幸せかもしれないのです。

この、「意識」というのはヴェーダでいうアートマンであり、また、ヨーガでいう客観視あるいはサマーディとも言え、主体と行動と客体とが一体になった状態であるわけですが、それは、意識というものが通底しているからこそ、それが成り立つわけです。サマーディあるいはサムヤマと言われている状態で、主体と行動と客体、そして集中ダーラナ、観察ディヤーナ、そしてそれらが一体となったサマーディそしてサムヤマこそが、「思考の隙間を空ける」ということの意味なわけです。

思考があったとしても、そこには通底する「意識」があります。その「意識」こそが永遠かつ変わることのないものであり、その「意識」と「思考」との距離が離れて、「思考」が「意識」によって客観視されたとき、それは、「思考との隙間が出来た」ということなのです。

それは一見すると客観視であり仏教でいうヴィパッサナーということでもありますが、実際は、その「意識」とは全てに通底していますから、「意識」とその他の「思考」そして「行動」「主体」「客体」とは不可分のものでもあるわけです。不可分である一方で通底しています。それが2元的でありつつも非二元ということであり、サマーディの状態でもあり、ヴェーダでいうアートマンの説明であり、非二元論としてのヴェーダンタの意味であるわけです。

一方、勘違いした理解では「思考を止めなくてはならない」としています。そうは言いましても思考とは波(ヴリッティ)ですからその波は止むことがありません。止めようとしても、その止めるという行為・意図が新たな波を作成してしまいます。ですから瞑想では基本的に「思考は流れるままにしておく、逆らわない、止めない」としているのです。ですが何故か瞑想や仏教などの各種流派は「思考を止めること」を最上のお題目にしてしまうのです。それは不可能であるのにも関わらず、それを求めてしまうのです。

可能なのは、思考と「意識」との間に距離を作ることです。それは「隙間」です。思考を止めるというよりも、思考から離れるのです。客観視です。

ヨーガスートラの最初に「ヨーガとは、思考(チッタ)の波を止める(ニローダする)ことである」みたいなお話が出てきますが、それを元に、思考を止めることこそが最上かのように言われている節もあります。サンスクリットの原文でニローダ(止める)とあり、止めるものはヴリッティ(波)です。これを文字通り読んでしまうと、そうか、思考を止めるのか、と理解してしまうのも不思議はないように思います。

どこでどう勘違いしたのか、おそらく、この辺りの理解から、「思考と思考との隙間を空ける」というお話が出てきたように思うのです。元々、古典であるこのヨーガ・スートラの原文には「思考との隙間を空ける」というお話は直接的には出てこないと思うのです。ですが、その流れを汲むヨーガの一部の流派および仏教の一部でこのような「思考との隙間を空ける」というお話が出てきて、それが受け継がれてきているように思うのです。

瞑想(ディヤーナ)あるいはサマーディ(三昧)の状態において、それが、明示的に「思考と思考との間の隙間を広げる」とはヨーガスートラには書かれていません。それが、後生の人たちの頭によって解釈された、後付けの説明であることは明確です。

実のところ、思考が静まるというのは、そのように、思考と思考の隙間を広げることで行うのではなく、波動が高まれば自然に思考が静まるのです。そうなると自然と思考が緩やかな波になります。それがヨーガ・スートラで言われている「ヨーガ・チッタ・ヴィリッティス・ニローダハ(ヨーガとは思考の波を鎮めることである)」という意味です。それは、波動が高まれば自然にそうなるのです。とても簡単なことです。それを、自分の状態と見比べて、あーでもない、こーでもない、自分は瞑想できている筈だとか、様々にごちゃごちゃ解釈して、それで、思考と思考の隙間だとか理屈をこねくり回しているのです。真実はもっと単純です。波動が高まれば、それで、自然に思考は静まるのです。そして、思考が静まれば、その時は、「思考が止まっているかどうか」などは、あまり関係なくなるのです。何故ならば、そのように波動が高まればその奥に通底している「意識」こそが本当の自分であることに気付けるようになるからです。そうしたら、「主」であるところの「意識」こそが自分であり、よって、「従」であるところの「思考」が多少何やら叫ぼうが、その思考を優しく見守る「意識」になることができさえすれば、その時、「従」である思考に対して「思考よ止まれ」などとはあまり言わないどころか、必要な時に必要なことを、明確に思考するような役立つ思考になる筈です。思考とは対象を知るための道具であり、心の働きの一つでありますから、それがなくなってしまったら対象を知ることができなくなってしまいます。それが今までは混乱していてうまく働いていなかった。元々はその思考が「主」だと思っていたから混乱していたものが、自分が「意識」だということに気付いて、「思考」の方も「自分(思考)こそが自分なんだ」という混乱した考えを捨て、本当の自分である「意識」にその主権を譲り渡したならば、混乱は収まるのです。

最初はその勘違いを捨てることは難しいでしょう。自己というエゴ(ヨーガでいうアハンカーラ)が自身の虚構としての立場を守ろうと必死になっているからです。実のところ、「思考との隙間を空ける」というのも、エゴの防御機能から現れたとも言えます。そう言って納得させることで、エゴの延命を図っているのです。思考との隙間を空ける、としている時点で、思考があることが前提になってしまっています。思考が自身の主権を譲り渡していないのです。こうしてエゴが維持され、瞑想者が「自分は瞑想が出来ている」と思い違いをし、そして、時に傲慢になったりもします。

本来目指すべき状態は、繰り返しになりますが、もっと単純なのです。波動を高めること、これだけであるとも言えるのです。そうすれば思考は「従」になり、「意識」が「主」になるのです。たったこれだけのことに、長い期間、瞑想に時間を費やしてその状態を目指しているわけです。