ヨーガではチャクラが花と花弁に例えられていて、それぞれのチャクラごとに花弁の枚数も異なっています。
ムーラダーラ:4
スワディスタナ:6
マニプラ:10
アナハタ:12
ヴィシュッダ:16
アジナ:2
サハスララ:1000
これらは象徴的なものであるかのように言われることもあれば、実質的にこれらの本数だけナディ(エネルギーのルート)が繋がっている、と言われることもあります。
実感としては、確かにそれはナディではありますが、必ずしもナディそのものというわけではなく、塞いでいるものとしての数が象徴的に語られているのではないかと思います。数にしても、本当にその数かというと、細かく見るともっと多かったり少なかったりするように思うのです。人によってそこまで異なるわけでもないと思うのですが、その人の段階および課題に応じて相応のブロックがあって塞がっていて、それが花弁の数として表現されているのではないかと思うのです。
概ね、人としての感情の段階は多数に分かれていて、それ以上になると統合され、最後は「全て」あるいは「無限」を象徴する1000という数で終わっています。これは本当に1000というよりは「沢山」を意味していて、サンスクリットやヴェーダの世界ではこのような表現がよく使われます。
個人的には、マニプラやスワディスタナなど下の方のチャクラのブロックはもっと数が少なかったように思えます。一方、アジナやヴィシュッダのブロックはもっと数が多いように思えます。これは、その人が課題として持っているところが重点的に認知されるのかな、と理解しています。
そのブロックを外すことが重要なわけですが、確かに結果としてはブロックを外すとかチャクラを通す・開くということであっても、基本は体のエネルギーをしっかり通すということであり、チャクラが開くかというのはその結果でしかないわけです。ですからチャクラを開くことに注力するよりはエネルギーを整えるとか通すことを重視するのが基本であるわけですが、そうは言いましても、下のチャクラは上のチャクラに従属しますので下のチャクラに関していえば上のチャクラを開くことが重要、とも言えるわけで、チャクラとエネルギーの量は密接に関係しており、ニワトリと卵の関係でもあるわけです。
かと言って、昨今のスピリチュアルのお話ですと何やらチャクラを開くだとかその施術が100万円だとかカルトのスピリチュアル商売が活発になってきて、そのような「チャクラを開く」とか言うお話は一時的なものであることがほとんどで、割とすぐに戻ってしまう種類のものが大半であり、永続的だとカルトは主張するかもしれませんが、実際やってみればそれは永続的ではない、あるいは、効果は限定的なわけです。それはそれとして経験として無駄ではありませんが、そのような施術はほとんど役に立たないどころか、当人を勘違いさせてカルトの信者を増やし、過ちの理解を広めるということで、害悪の方が効用を上回るわけです。
ですから、よくわからないカルトあるいはスピリチュアルの過大な宣伝文句を信じて短期的な変化を期待しも大抵は意味がないどころか勘違いして成長が止まり、気がつくまで停滞を続けるということは悪ければ時に何世という転生をも繰り返すほどの遠回りをするだけなので、真面目に直線的に地道に進む方が成長するわけです。とは言いましても、正しいことを教えてくれるところは希です。それっぽいことを言ったり、正しいことを教えていると謳っているカルトにはまることも多々あります。結局は、自身の判断力がなければ何をするにも間違えるわけです。
様々な教えをひもとく上で、結局は、時代を経て何世代にも渡って審査を経た古典が生き残ります。
カルトはそのような古典の権威を借りて大金を巻き上げますが、そのような、虎の威を借る狐はつまみ食いになります。とは言いましても、このようなことをいくら言ったところで、カルトを信じている信者には何も届かないどころか、逆に、何も分かっていないと非難されることすらあるのです。ですから、カルトの信者はほおっておけばよいわけですが、それでも、つまらぬことでつっかかってくることもあるのです。
チャクラを開くだとか、覚醒するだとか、様々なことを謳って数十万あるいは100万円以上の大金をせしめるカルトあるいはスピリチュアル教師がいます。そのような商売者にとっては、本当の知識が広まると自身の商売が成り立たないので邪魔なのでしょう。イニシエーションや古代のブラザーフッドを語る団体やグループが雨後の竹の子のように現れては、そして、消えていきました。それも時代の流れなのでしょう。それらは本来、お金ではない筈が、知識がお金で売り買いされているのが現状です。
大抵の場合、本当の知識というものはトリビアにしかならないのです。それは、当人の準備ができていないからです。
まず、見る目が試されます。そして、行動が試されます。知識と理解というものが試されます。そうしてようやくチャクラが開くわけですが、多くのカルトやスピリチュアル教師が大金を積めば儀式や訓練はたまたイニシエーションのような儀式でそれらが開くと謳っているわけですが、そういうのはほんの少しのきっかけ作りにはなれど、大抵の場合は、残念ながら、意味がないのです。
チャクラの「花弁」のような教えも、わかりにくいが故に、それは、本当のことを言ってしまっても間違って伝わるが故に、比喩的に表現されたのでしょう。そのように思います。チャクラは、儀式やイニシエーションのようなもので開くのではないが故に、勘違いしないよう、グルが近くにいて導きと共に教えられたものだったのかなと思います。
ナディが開いてエネルギーが通った時の感覚が、花弁がつぼみから開く時の感じに似ているが故に、チャクラが花弁に例えられたのだと思います。それはまるで、ゆっくりと開く花弁のよう、というのは、チャクラもそうですがナディが通った時の感覚に割と似ていて、昔の人の詩的な美的表現は割と的確であるようにも思えるのです。
チャクラを開く時の感覚というのはそのようなものですが、カルトやスピリチュアルな儀式などでは周辺のオーラを整えて終わりであることが大半(それ以上のことはほとんどない)で、その場合、すぐに元に戻ってしまうのです。そのような一時的なもので喜んで一旦は満足するかもしれませんが、すぐに戻ってしまうようなものに数十万あるいは時に数百万という大金を費やす意味があるのでしょうか。短期的な成果をうたうカルトに騙されずに10年以上の月日を地道に修行や瞑想できる人は希なのが現状であるように思います。
はたまた、一時的な心地よさを求めて、周辺のオーラを調整するヒーリングに依存するような人も居ます。どちらにせよそれはチャクラだと思い込まされているものの調整でしかなくて、チャクラを本当に開くまでに到達している人は少ないようにも思うのです。
一方で、チャクラはエネルギーの結節点であるが故に、ある程度は誰でも開いています。それの周辺のオーラを調整したくらいで「開く」と課題に評価してしまうのがカルトの誇大妄想なところであるわけで、実際のところ、本当のチャクラとかほとんどの人には分からないのですから、分からないものは分からないとして、当面の間、わかるようになるまではあまり気にしないのも一つの手かと思います。ヨーガの人は割とそうで、チャクラのことを教わったら、自分にはまだわからない領域であるので・・・ということでしばらく保留します。一方、カルトは誇大妄想でわかった風になってしまう、という、そのような違いがあるわけです。スピリチュアルをするには謙虚な姿勢が必要に思うのです。