マニプラ優勢あるいはそれ以前の場合は思考を止める瞑想をする
一方で、アナハタ優勢あるいはそれ以上の場合は思考を観察する瞑想をします。
私が最近はこうしているというだけで、必ずそうしなくてはいけないわけではありませんし、推奨しているわけでもありません。瞑想録のようなものです。
思うに、瞑想について色々と誤解があって、思考を止めることが瞑想の基本ではあるのですけれども、観察瞑想というのも一方であります。
集中と観察が瞑想の要素であって片方だけでは成り立たないものではあるのですけれども、その基準といいますか。瞑想の段階に応じてどうすればいいのか、という基本的なスタンスのようなものが存在すると思うのです。
その1つの基準がマニプラ優勢あるいはそれ以前なのか、それともアナハタ優勢以降なのかという判断基準のように思います。
マニプラに至っていない場合は下位の欲望がまだかなり残っておりますので思考を止めないと高位の意識が出てこられないと思います。ですから瞑想は思考を止めるものになると思います。
マニプラに至った場合でもそれなりに制御できるようになって「良き人」「倫理のある人」「立派な人」になりますが、それでも、まだ下位の欲望がそれなりに残っているような気が致します。
一方で、エネルギー的にアナハタ優勢以上になりますとそれを超えて上位の意識が優勢になりますので思考を観察する瞑想に入っていけると思うのです。
私が最近はこうしているというだけで、必ずそうしなくてはいけないわけではありませんし、推奨しているわけでもありません。瞑想録のようなものです。
思うに、瞑想について色々と誤解があって、思考を止めることが瞑想の基本ではあるのですけれども、観察瞑想というのも一方であります。
集中と観察が瞑想の要素であって片方だけでは成り立たないものではあるのですけれども、その基準といいますか。瞑想の段階に応じてどうすればいいのか、という基本的なスタンスのようなものが存在すると思うのです。
その1つの基準がマニプラ優勢あるいはそれ以前なのか、それともアナハタ優勢以降なのかという判断基準のように思います。
マニプラに至っていない場合は下位の欲望がまだかなり残っておりますので思考を止めないと高位の意識が出てこられないと思います。ですから瞑想は思考を止めるものになると思います。
マニプラに至った場合でもそれなりに制御できるようになって「良き人」「倫理のある人」「立派な人」になりますが、それでも、まだ下位の欲望がそれなりに残っているような気が致します。
一方で、エネルギー的にアナハタ優勢以上になりますとそれを超えて上位の意識が優勢になりますので思考を観察する瞑想に入っていけると思うのです。
0.1秒の光のフラッシュを5分おきに前方上方に見る
瞑想をして、まず眉間に集中します。その後、マントラを使って意識を安定させます。
マントラで意識が眉間に定まってくると、やがて思考も鎮まってきます。
不確かなぼやけた思考はなくなり、明確な思考だけが残るようになります。
それは、まるで自転車で雨上がりの水溜りを惰性で通り抜けるようなもので、足を上げて水をかぶらないように気をつけている感覚が、下の方にあるぼやけた意識に触れないように意識を上の方に持ち上げている感覚と似ているような気が致しました。
意識を上の方に集めてぼやけた意識に触れないように気をつけながら瞑想をし、眉間に意識を集めていると若干の状態の考察およびたまに思考に入ることこそあれ、雑多な管理されていない意識のループにはまり込むことはそれほどないように思われます。
そうして管理された状態で瞑想を続けていると、ふと、0.1秒の光の点滅を時々感じます。
実際のところ目を瞑っておりますので、これはもしかしたら電気が不安定になったことによる照明の点滅かもしれませんし、天気によるものかもしれません。とは言いましても、それほど大きな光の点滅が度々あるようにも思えません。頻度が高すぎます。
以前はこういう光のフラッシュがあってもそれほど頻度が高くなく、瞑想の基本として「光などを見ても重要ではないので無視して良い」ということが言われていますのでそれほど気にしてなかったのですが、これほど頻度が高まるとどういうことでしょうかとちょっと気にはなります。
以前から時々見た時はそれなりに強い光だったのですが頻度は高くなく、今日見えているのはそれほど強い光ではなくてうっすらと光る感じなのですがおそらく5分おきとかに何度も見えているので頻度は高いです。
脳内の特定の箇所が活性化されてきたのか、あるいは、外で感じている何かがうっすらと光として認識さえているのでしょうか? それはまた今後、様子を見てゆきます。
マントラで意識が眉間に定まってくると、やがて思考も鎮まってきます。
不確かなぼやけた思考はなくなり、明確な思考だけが残るようになります。
それは、まるで自転車で雨上がりの水溜りを惰性で通り抜けるようなもので、足を上げて水をかぶらないように気をつけている感覚が、下の方にあるぼやけた意識に触れないように意識を上の方に持ち上げている感覚と似ているような気が致しました。
意識を上の方に集めてぼやけた意識に触れないように気をつけながら瞑想をし、眉間に意識を集めていると若干の状態の考察およびたまに思考に入ることこそあれ、雑多な管理されていない意識のループにはまり込むことはそれほどないように思われます。
そうして管理された状態で瞑想を続けていると、ふと、0.1秒の光の点滅を時々感じます。
実際のところ目を瞑っておりますので、これはもしかしたら電気が不安定になったことによる照明の点滅かもしれませんし、天気によるものかもしれません。とは言いましても、それほど大きな光の点滅が度々あるようにも思えません。頻度が高すぎます。
以前はこういう光のフラッシュがあってもそれほど頻度が高くなく、瞑想の基本として「光などを見ても重要ではないので無視して良い」ということが言われていますのでそれほど気にしてなかったのですが、これほど頻度が高まるとどういうことでしょうかとちょっと気にはなります。
以前から時々見た時はそれなりに強い光だったのですが頻度は高くなく、今日見えているのはそれほど強い光ではなくてうっすらと光る感じなのですがおそらく5分おきとかに何度も見えているので頻度は高いです。
脳内の特定の箇所が活性化されてきたのか、あるいは、外で感じている何かがうっすらと光として認識さえているのでしょうか? それはまた今後、様子を見てゆきます。
頭から天に向かって唱える古代のマントラ
今まではオームを唱えるとアーは眉間あるいは頭、ウは胸、ムは下腹部が反応しておりました。古代のマントラを唱えても同様で、頭から下半身が満遍なく、唱える最初は頭の方、それからマントラの最後に行くにつれて下腹部が反応しておりました。
しかしながら、今日の瞑想では頭、特に眉間を中心に同じマントラが反応しておりました。
胸はまだいいのですが下腹部が反応するとそれほど心地が良くないのでマントラを唱える回数は少なめにして沈黙の瞑想の時間を長めに取っていたのですが、今日の状態ですと頭のみが反響しておりますので長くマントラを唱え続けることができます。
すると、マントラの微細な部分に共鳴するようにして地響きのような振動音が音が小さく聞こえてきました。音自体は小さくて遠くで鳴っているかのようではあるのですが感覚的には頭の近くで鳴り響いているような気が致します。そのような、遠くと近くが混合しているかのような不思議な地響きです。
そうこうしているとマントラが眉間に集中したり後頭部に集中したり、共鳴部が細かく変わっているのを感じます。
時々、マントラが頭の上の方にまで少し伸びていっているのを感じます。
そうは言いましてもまだ頭の上の方にまできちんと繋がったというわけではなさそうな感じです。
マントラを唱えていると、チベットなのか何なのか、山岳地の荒野に小さな石作りの小さな家というか半分テントのようなものが見えて、その家の前に少しふくよかな体つきをしたチベットのお坊さんが座って通りかかる人に供養しているのが見えました。
・・・誰でしょう? これ。
前世・・・? のような気もしないでもないですが確証は持てません。空は青く晴れていて、山に緑は少ないです。
このマントラに共鳴した何方かでしょうかね? それとも単なる想像か。
まあ、誰なのかはよくわかりませんが、今後も様子を見て行きます。
しかしながら、今日の瞑想では頭、特に眉間を中心に同じマントラが反応しておりました。
胸はまだいいのですが下腹部が反応するとそれほど心地が良くないのでマントラを唱える回数は少なめにして沈黙の瞑想の時間を長めに取っていたのですが、今日の状態ですと頭のみが反響しておりますので長くマントラを唱え続けることができます。
すると、マントラの微細な部分に共鳴するようにして地響きのような振動音が音が小さく聞こえてきました。音自体は小さくて遠くで鳴っているかのようではあるのですが感覚的には頭の近くで鳴り響いているような気が致します。そのような、遠くと近くが混合しているかのような不思議な地響きです。
そうこうしているとマントラが眉間に集中したり後頭部に集中したり、共鳴部が細かく変わっているのを感じます。
時々、マントラが頭の上の方にまで少し伸びていっているのを感じます。
そうは言いましてもまだ頭の上の方にまできちんと繋がったというわけではなさそうな感じです。
マントラを唱えていると、チベットなのか何なのか、山岳地の荒野に小さな石作りの小さな家というか半分テントのようなものが見えて、その家の前に少しふくよかな体つきをしたチベットのお坊さんが座って通りかかる人に供養しているのが見えました。
・・・誰でしょう? これ。
前世・・・? のような気もしないでもないですが確証は持てません。空は青く晴れていて、山に緑は少ないです。
このマントラに共鳴した何方かでしょうかね? それとも単なる想像か。
まあ、誰なのかはよくわかりませんが、今後も様子を見て行きます。
覚醒した意識を保つ準備としての瞑想
静寂の意識に達した後、その意識を保ったまま生活ができるようになります。生活するうちにその状態から落ちてしまったり意識がぼんやりとしてきてしまうことがありますが、そのようなぼやけた状態から清浄な意識へと戻してあげるのが瞑想だとも言えます。
ですから、清浄な意識を保てるのであれば瞑想をわざわざする必要がないとも言えます。そうは言いましても普通は瞑想をすると何某かの変化が訪れますので瞑想は有益です。
この覚醒した清浄な意識は一般的には「サマーディ(三昧)」とも呼ばれていますが、ある種、スローモーションのような感覚を伴う心そのものが世界を認識している状態です。
いわゆる一般的な意識においては心はぼやけていて心そのものが世界をそれほどはっきりと認識できずにいます。ぼやけた心の状態ですと想像や外部の刺激に反応して日常生活を送ることになりますが、心がはっきりして心そのもの、ゾクチェンでいうところのリクパが動き出すことによりサマーディの状態になります。
そのサマーディの覚醒した意識の状態を保って生活することこそがやがていわゆる「悟り」に通じる道なのだと思います。
ゾクチェンでチェルドル、あるいはシャルドルと呼ばれている状態において以下のようなことが起こります。
シャルドルは(中略)海に降りると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは、「生じると同時に解放する」ことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
この種の「煩悩に左右されにくくなる」状態は様々に起こり、瞑想の各段階でそれぞれに起こりますので、初期のぼやけた少しだけ左右されない状態でも同様に言えなくもありませんし、このように「生じると同時」と言えるほどの素早い解放の段階もあります。
人によっては生まれてずっと「私は煩悩に左右されにくいし欲望も少ない」という方もいらっしゃいます。それは人それぞれですしその通りの場合もあるとは思いますが、その一方で、そのように心が想像あるいは自己の理屈でそのように思っているだけで実際はそうではない場合もあります。
実際のところ、このような「即時」の解放がどのようなものなのかはなってみないとわかりませんし、まだ先があるのかもしれません。それは私にしても同様のことです。まだ私が思っている状態は段階が低いのかもしれません。そんな感じで瞑想を続けています。
ですから、清浄な意識を保てるのであれば瞑想をわざわざする必要がないとも言えます。そうは言いましても普通は瞑想をすると何某かの変化が訪れますので瞑想は有益です。
この覚醒した清浄な意識は一般的には「サマーディ(三昧)」とも呼ばれていますが、ある種、スローモーションのような感覚を伴う心そのものが世界を認識している状態です。
いわゆる一般的な意識においては心はぼやけていて心そのものが世界をそれほどはっきりと認識できずにいます。ぼやけた心の状態ですと想像や外部の刺激に反応して日常生活を送ることになりますが、心がはっきりして心そのもの、ゾクチェンでいうところのリクパが動き出すことによりサマーディの状態になります。
そのサマーディの覚醒した意識の状態を保って生活することこそがやがていわゆる「悟り」に通じる道なのだと思います。
ゾクチェンでチェルドル、あるいはシャルドルと呼ばれている状態において以下のようなことが起こります。
シャルドルは(中略)海に降りると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは、「生じると同時に解放する」ことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
この種の「煩悩に左右されにくくなる」状態は様々に起こり、瞑想の各段階でそれぞれに起こりますので、初期のぼやけた少しだけ左右されない状態でも同様に言えなくもありませんし、このように「生じると同時」と言えるほどの素早い解放の段階もあります。
人によっては生まれてずっと「私は煩悩に左右されにくいし欲望も少ない」という方もいらっしゃいます。それは人それぞれですしその通りの場合もあるとは思いますが、その一方で、そのように心が想像あるいは自己の理屈でそのように思っているだけで実際はそうではない場合もあります。
実際のところ、このような「即時」の解放がどのようなものなのかはなってみないとわかりませんし、まだ先があるのかもしれません。それは私にしても同様のことです。まだ私が思っている状態は段階が低いのかもしれません。そんな感じで瞑想を続けています。
サマーディが超感覚に繋がるという実感
今までサマーディと言ってもスローモーションあるいは静寂の境地のようなものでした。
しかし、ここにきて、ほんの少しですが視界の先に地平線のようなところまで続いている感覚が出てきたのです。
瞑想を終えて視界を確認すると、静寂の境地に至っている場合は部屋の壁がはっきりと見えてスローモーションのような感覚が出ます。それに加えて、単なる壁である筈なのにそれが地平線の先まで奥行きがあるかのような錯覚? が時々現れるようになりました。
それは割と短い間隔で消えてなくなってゆく感覚ですが、これがいわゆる「彼岸の知識」というものなのかもしれません。
確かに、「彼岸の知識」というと個人的にはまだしっくりきませんが、それよりも、「地平線にまで続く感覚」ということであれば自分の感覚と合っています。人によっていろいろ言い方はあるでしょうし、もしかしたら同じことを表現しているのかもしれませんね。
目に見えている物体はそれ自体で存在していますが、それぞれの物体はそれぞれ「彼岸」あるいは「地平線の先」にまで遠く伸びていて、その地平線の先ではおそらく消えているのかなと思います。
これは視界として地平線が見えているということではありません。なんとなく地平線のようなイメージはちょっと浮かびますがそれは感覚的なもので、物体そのものというよりは物体の少し背後、少しズレた背後からそのまま後方に地平線の先まで何かが伸びていて、おそらくはその地平線の先では消えているのかなと思います。
地平線の先が「無」あるいは「空」だとすれば、物体はその実態が目に見えてはいるもののその実態が「空」であるというどこかで読んだ知識と一致します。
主体の感覚は自然に静まっていき、修行者は原初的な知恵を経験する。対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
この境地を垣間見たのかな、という気も致します。
しかし、ここにきて、ほんの少しですが視界の先に地平線のようなところまで続いている感覚が出てきたのです。
瞑想を終えて視界を確認すると、静寂の境地に至っている場合は部屋の壁がはっきりと見えてスローモーションのような感覚が出ます。それに加えて、単なる壁である筈なのにそれが地平線の先まで奥行きがあるかのような錯覚? が時々現れるようになりました。
それは割と短い間隔で消えてなくなってゆく感覚ですが、これがいわゆる「彼岸の知識」というものなのかもしれません。
確かに、「彼岸の知識」というと個人的にはまだしっくりきませんが、それよりも、「地平線にまで続く感覚」ということであれば自分の感覚と合っています。人によっていろいろ言い方はあるでしょうし、もしかしたら同じことを表現しているのかもしれませんね。
目に見えている物体はそれ自体で存在していますが、それぞれの物体はそれぞれ「彼岸」あるいは「地平線の先」にまで遠く伸びていて、その地平線の先ではおそらく消えているのかなと思います。
これは視界として地平線が見えているということではありません。なんとなく地平線のようなイメージはちょっと浮かびますがそれは感覚的なもので、物体そのものというよりは物体の少し背後、少しズレた背後からそのまま後方に地平線の先まで何かが伸びていて、おそらくはその地平線の先では消えているのかなと思います。
地平線の先が「無」あるいは「空」だとすれば、物体はその実態が目に見えてはいるもののその実態が「空」であるというどこかで読んだ知識と一致します。
主体の感覚は自然に静まっていき、修行者は原初的な知恵を経験する。対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
この境地を垣間見たのかな、という気も致します。
静寂の境地になる時、後頭部から下がるのか上がるのか
静寂の境地になる前の状態は大抵は後頭部およびその周辺がちょっとモヤモヤとしてます。
静寂の境地に達するとそのモヤモヤが晴れて凝縮した塊のようになるのですが、少し前であればその塊が喉を通って胸の方にまで降りていました。
しかし、ここにきて、その塊が眉間のちょっと奥まったところに集まるようになりました。
これは、マントラの共振の位置が変わってきたことと同期しているような気が致します。
マントラの共振が胸や下半身だった頃はこの塊が胸の方に降りていたのですが、マントラが眉間で共振するようになってからは塊が眉間の奥に集まるようになった気が致します。
意識が下半身に降りていた時は思いが浮かぶごとに想念の起滅による苦の感覚が出ることがありますが、意識が眉間に集まっている時はそのような苦の感覚はないようです。
意識がまだ眉間に集まっていない時はマントラを唱えると頭の中で変化が起こりますが、意識が眉間に集まれば集まるほどマントラの効果がなくなっている気も致します。と、いうことは、マントラの効果としてはこの準備として有益なのかな、という気も致します。
新しいマントラが必要なのか、それとも、マントラの効果がある領域ではないのでしょうか。この辺りもこれから様子を見ていきます。
静寂の境地に達するとそのモヤモヤが晴れて凝縮した塊のようになるのですが、少し前であればその塊が喉を通って胸の方にまで降りていました。
しかし、ここにきて、その塊が眉間のちょっと奥まったところに集まるようになりました。
これは、マントラの共振の位置が変わってきたことと同期しているような気が致します。
マントラの共振が胸や下半身だった頃はこの塊が胸の方に降りていたのですが、マントラが眉間で共振するようになってからは塊が眉間の奥に集まるようになった気が致します。
意識が下半身に降りていた時は思いが浮かぶごとに想念の起滅による苦の感覚が出ることがありますが、意識が眉間に集まっている時はそのような苦の感覚はないようです。
意識がまだ眉間に集まっていない時はマントラを唱えると頭の中で変化が起こりますが、意識が眉間に集まれば集まるほどマントラの効果がなくなっている気も致します。と、いうことは、マントラの効果としてはこの準備として有益なのかな、という気も致します。
新しいマントラが必要なのか、それとも、マントラの効果がある領域ではないのでしょうか。この辺りもこれから様子を見ていきます。
スローモーションのヴィパッサナー瞑想で生活する時間が増える
日常生活が瞑想になってきましたが、最初は気がつかないうちに割とすぐに元の状態に戻っていました。瞑想状態が解除されると再度瞑想をして瞑想状態に持ち上げた後に日常生活をその瞑想状態で続ける、と言うことを繰り返していました。
最近は、半年前と比べてその瞑想状態の継続時間が増えたような気が致します。
以前は瞑想状態で生活するためにある程度の気付きの集中力が必要でした。例えば視界がスローモーションで認識される状態はある程度の「行為」としての集中が伴うものでした。一方、最近はその「集中」がさほど必要なくて集中自体も無意識のものに変わってきているように思います。これは「集中」というと語弊があるかもしれず、「観察」と言った方がいいかもしれません。
この、以前の状態である「集中」についてもう少し書きますと、まず、ヴィパッサナーで見ているのは顕在意識ではなくその奥にある潜在意識ですので、その潜在意識が集中すると言うと違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまでもその潜在意識が活動するための集中が昔は必要でした。このあたり、誤解がないようにもう少し説明しておきますと、普通に言われる「集中」とは顕在意識における「行為」であり、五感にまつわる集中です。五感ですから体を動かすとか目で見るとか言う「行動」に即したものを普通は「集中」と言うと思います。しかしながら、ここで言う「集中」とはそのような五感にまつわる集中ではなくその奥にある顕在意識を働かせ続けると言う意味における「集中」であるわけです。この世界を見ているのは普通は五感における目であるわけですが、ここで言う「見る」とか「気付き」とか言うのは、境目が曖昧ですしもちろん五感も動いているわけですから五感としての「見る」や「気付き」も当然あるのですが、それに加えてその奥にある潜在意識としての「見る」が働いている状態のことを言うのです。その潜在意識としての「見る」を動かし続けるために「集中」が必要なのですが、それは奥深いところに意識を「合わせる」「意識を凝縮させる」と言った種類のものですので、五感で筋肉などを集中させることではないわけです。これを、流派によっては「行動ではない」と言ったりすると思いますし、「集中ではない」「観察だ」とか言ったりすると思いますが、どれも状態としては同じことを言っているのではないかと思います。この状態を「集中」と言うこともできますし「集中ではない」と言うこともできますし「観察だ」と言うこともできますけど、別にどう表現しても良いのではないかと私なんかは思います。流派によってはこれを「ヴィパッサナー(観察)」と呼びますし、「サマーディ(三昧)」と呼ぶ流派もあります。サマーディと言う言葉の解釈は多様ですのでこれまた混乱します。と、言うことで、言葉としては色々ありますけど、いわゆる潜在意識が見ている状態が続くのがいわゆる「瞑想で生活する」と言う状態なのではないかと思います。
そのような「瞑想で生活する」という状態を続けるためにある種の、潜在意識に対する「集中」が以前は必要だったのですが、最近はそれほど必要でなくなってきたということです。潜在意識に対するものですので「集中」というよりは「観察」と言った方がいいかもしれませんが、どちらの言葉も必ずしも全てを表現できていないような気が致します。「集中」「観察」どちらの要素もあります。
「集中の感覚が消えてゆく」とは「観察状態になる」ということであると言えます。「集中」がより「行為」に近いものだとしたら「行為」としての感覚が減っていった、と言えなくもありません。このように「集中」という「行為」の感覚が消えるとどうなるのでしょうか。それは行為ではありませんので「習慣」「風習」に近いものになると思います。
余談ながら、日本の昔ながらの習慣ですと、この状態のことを「日々、周りのものに感謝しましょう」とか「食べる時に箸を動かしたり食べ物を感じて頂きましょう」みたいな言い方になるのかと思います。そう思うと、日本の昔の人って実は瞑想状態が当たり前で生活していたのかもしれないと思わされます。今の人は瞑想状態から落ちてしまっていますのでこのことが理解できないのでしょう。これらの日本の習慣は習慣というよりも瞑想状態で生活していたら勝手にそのようになると言う自動的なものではないかと思うのです。それが瞑想状態を忘れてしまって習慣だけが残ってしまい、しばらくはその習慣が続いたもののやがては忘れられてしまうかもしれない時代になってきているような気も致します。であれば習慣を取り戻すと言うよりは瞑想状態を取り戻せば日本の習慣も自動的に戻るとも言えると思います。日本の文化を取り戻すとか言っている方がぼちぼちいらっしゃいますけど、文化を取り戻すと言うよりも瞑想状態を取り戻す方が早道な気も致します。この日本の風習であっても、瞑想的な感覚なしに生まれながらに習慣としてただ継続的に行っていることと、瞑想的な感覚を伴って行っているのとでは大きく違うのだと思います。ある種の、超えにくい大きな壁というものが存在するわけですね。おそらくは日本の昔ながらの人は「日々、周りのものに感謝しさえすればいい」とか言いますし、それは「既に到達した人」のお話であって、まだ到達していない人はヨガやら瞑想やらをしてそこにまず到達する必要があるのかなと思います。感謝しさえすればいいのはそうなのかもしれないですけど「まだ到達していない人」にはおそらくそれだけだと難しくて、他のものが必要になってくるのかなと思います。
余談はさておき、ここまで書いてみて改めて気がついたのは「意識の集中」が不要になってくるという表現もまた語弊があるような気がしてまいりました。集中しなくなるわけではなく、観察は変わらず続くので、集中が観察に変わったというのもまた正しい表現ではない気もしてまいりました。であれば、以下のような表現はいかがでしょう。
「集中と共に観察をすることで日常生活がスローモーションとして認識できるようになり、それは瞑想しながら生活するということに繋がっていました。昔は集中と観察をする際に『力』が多少入っており、その力が集中と観察を維持しておりましたので時間が経つと力が抜けると共に集中と観察が弱まってゆき、そうすると再度座って瞑想をしてスローモーションの状態に戻す、ということを繰り返していました。今は、その『力』が次第に不要になってきており、『力』を入れなくてもスローモーションの瞑想の生活が長く続くようになりました。」
このように表現すると、より現状に近いような気が致します。ただ、力と言ってもエネルギー的にはそれほど変わりがありませんので、エネルギーという意味での力は変化がなく、ここでいう力とは「余分な力」とでもいうべきもので、いわば「余分な力が抜けた」とでもいうべき変化であります。
とりあえずこのことを「ヴィパッサナー瞑想」と言ったりしますけど、世間で言われている「流派」「手法」としてのヴィパッサナー瞑想が優れているとかそういうことではありません。ヨガ瞑想をしていてもヴィパッサナー瞑想をしていても同様の状態にたどり着くと思います。ただ単に表現としてそれを選んでいるだけのことです。流派の良し悪しを述べているわけではありません。同様の状態をヨガ風にサマーディと言っても良いです。表現としては色々あると思います。同じことです。どちらも手垢のついた表現ですけど、とりあえず表現するにはそのようになるというだけのお話です。
最近は、半年前と比べてその瞑想状態の継続時間が増えたような気が致します。
以前は瞑想状態で生活するためにある程度の気付きの集中力が必要でした。例えば視界がスローモーションで認識される状態はある程度の「行為」としての集中が伴うものでした。一方、最近はその「集中」がさほど必要なくて集中自体も無意識のものに変わってきているように思います。これは「集中」というと語弊があるかもしれず、「観察」と言った方がいいかもしれません。
この、以前の状態である「集中」についてもう少し書きますと、まず、ヴィパッサナーで見ているのは顕在意識ではなくその奥にある潜在意識ですので、その潜在意識が集中すると言うと違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまでもその潜在意識が活動するための集中が昔は必要でした。このあたり、誤解がないようにもう少し説明しておきますと、普通に言われる「集中」とは顕在意識における「行為」であり、五感にまつわる集中です。五感ですから体を動かすとか目で見るとか言う「行動」に即したものを普通は「集中」と言うと思います。しかしながら、ここで言う「集中」とはそのような五感にまつわる集中ではなくその奥にある顕在意識を働かせ続けると言う意味における「集中」であるわけです。この世界を見ているのは普通は五感における目であるわけですが、ここで言う「見る」とか「気付き」とか言うのは、境目が曖昧ですしもちろん五感も動いているわけですから五感としての「見る」や「気付き」も当然あるのですが、それに加えてその奥にある潜在意識としての「見る」が働いている状態のことを言うのです。その潜在意識としての「見る」を動かし続けるために「集中」が必要なのですが、それは奥深いところに意識を「合わせる」「意識を凝縮させる」と言った種類のものですので、五感で筋肉などを集中させることではないわけです。これを、流派によっては「行動ではない」と言ったりすると思いますし、「集中ではない」「観察だ」とか言ったりすると思いますが、どれも状態としては同じことを言っているのではないかと思います。この状態を「集中」と言うこともできますし「集中ではない」と言うこともできますし「観察だ」と言うこともできますけど、別にどう表現しても良いのではないかと私なんかは思います。流派によってはこれを「ヴィパッサナー(観察)」と呼びますし、「サマーディ(三昧)」と呼ぶ流派もあります。サマーディと言う言葉の解釈は多様ですのでこれまた混乱します。と、言うことで、言葉としては色々ありますけど、いわゆる潜在意識が見ている状態が続くのがいわゆる「瞑想で生活する」と言う状態なのではないかと思います。
そのような「瞑想で生活する」という状態を続けるためにある種の、潜在意識に対する「集中」が以前は必要だったのですが、最近はそれほど必要でなくなってきたということです。潜在意識に対するものですので「集中」というよりは「観察」と言った方がいいかもしれませんが、どちらの言葉も必ずしも全てを表現できていないような気が致します。「集中」「観察」どちらの要素もあります。
「集中の感覚が消えてゆく」とは「観察状態になる」ということであると言えます。「集中」がより「行為」に近いものだとしたら「行為」としての感覚が減っていった、と言えなくもありません。このように「集中」という「行為」の感覚が消えるとどうなるのでしょうか。それは行為ではありませんので「習慣」「風習」に近いものになると思います。
余談ながら、日本の昔ながらの習慣ですと、この状態のことを「日々、周りのものに感謝しましょう」とか「食べる時に箸を動かしたり食べ物を感じて頂きましょう」みたいな言い方になるのかと思います。そう思うと、日本の昔の人って実は瞑想状態が当たり前で生活していたのかもしれないと思わされます。今の人は瞑想状態から落ちてしまっていますのでこのことが理解できないのでしょう。これらの日本の習慣は習慣というよりも瞑想状態で生活していたら勝手にそのようになると言う自動的なものではないかと思うのです。それが瞑想状態を忘れてしまって習慣だけが残ってしまい、しばらくはその習慣が続いたもののやがては忘れられてしまうかもしれない時代になってきているような気も致します。であれば習慣を取り戻すと言うよりは瞑想状態を取り戻せば日本の習慣も自動的に戻るとも言えると思います。日本の文化を取り戻すとか言っている方がぼちぼちいらっしゃいますけど、文化を取り戻すと言うよりも瞑想状態を取り戻す方が早道な気も致します。この日本の風習であっても、瞑想的な感覚なしに生まれながらに習慣としてただ継続的に行っていることと、瞑想的な感覚を伴って行っているのとでは大きく違うのだと思います。ある種の、超えにくい大きな壁というものが存在するわけですね。おそらくは日本の昔ながらの人は「日々、周りのものに感謝しさえすればいい」とか言いますし、それは「既に到達した人」のお話であって、まだ到達していない人はヨガやら瞑想やらをしてそこにまず到達する必要があるのかなと思います。感謝しさえすればいいのはそうなのかもしれないですけど「まだ到達していない人」にはおそらくそれだけだと難しくて、他のものが必要になってくるのかなと思います。
余談はさておき、ここまで書いてみて改めて気がついたのは「意識の集中」が不要になってくるという表現もまた語弊があるような気がしてまいりました。集中しなくなるわけではなく、観察は変わらず続くので、集中が観察に変わったというのもまた正しい表現ではない気もしてまいりました。であれば、以下のような表現はいかがでしょう。
「集中と共に観察をすることで日常生活がスローモーションとして認識できるようになり、それは瞑想しながら生活するということに繋がっていました。昔は集中と観察をする際に『力』が多少入っており、その力が集中と観察を維持しておりましたので時間が経つと力が抜けると共に集中と観察が弱まってゆき、そうすると再度座って瞑想をしてスローモーションの状態に戻す、ということを繰り返していました。今は、その『力』が次第に不要になってきており、『力』を入れなくてもスローモーションの瞑想の生活が長く続くようになりました。」
このように表現すると、より現状に近いような気が致します。ただ、力と言ってもエネルギー的にはそれほど変わりがありませんので、エネルギーという意味での力は変化がなく、ここでいう力とは「余分な力」とでもいうべきもので、いわば「余分な力が抜けた」とでもいうべき変化であります。
とりあえずこのことを「ヴィパッサナー瞑想」と言ったりしますけど、世間で言われている「流派」「手法」としてのヴィパッサナー瞑想が優れているとかそういうことではありません。ヨガ瞑想をしていてもヴィパッサナー瞑想をしていても同様の状態にたどり着くと思います。ただ単に表現としてそれを選んでいるだけのことです。流派の良し悪しを述べているわけではありません。同様の状態をヨガ風にサマーディと言っても良いです。表現としては色々あると思います。同じことです。どちらも手垢のついた表現ですけど、とりあえず表現するにはそのようになるというだけのお話です。
はっきりと感じるクレアセンシェンス(クリアセンセス)
昔からこのような直感はよくありましたが、最近、その感覚が鋭くはっきりとしたものになってきたように思います。
昔の直感は無指向性の頭の中あるいは胸やお腹などで感じるぼんやりとしたものでした。時にその直感を無視してしまって後悔することもありましたし直感を感じていつつもそれをスルーしてしまうことも多かったように思います。
最近は、指向性の直感になってきたように思います。意識を何かに向けるとその感覚が昔よりきちんとわかるようになりました。
例えば、わかりやすい例でいいますとスーパーの食品の商品棚が挙げられます。
同じ商品がずらりと並んでいて、食品とはいえ工場で作られた製品ですから同じ品であれば基本的に同じはずですが、何か違いがあるような気がして良い波動を感じるものとそれより悪い波動とを比べてみると賞味期限の違いだったりします。賞味期限の違いが波動の違いとして現れていたわけです。
このような賞味期限の違いは以前はわかりませんでした。
もちろん波動に大差なければ感覚として違いがないのでわからないのですが、品によっては波動に差があるようです。賞味期限の違い、あるいは、作られた日が違うので材料の違いというものも多少はあるのかもしれません。同じ材料でも産地が違うとか。
以前はこのようなことを漠然と感じていて、商品ごとの違いまではわからなかったように思います。
以前は意識せずとも周囲の感覚をまとめてぼんやりと受け取ってしまっていました。今は、意識しなければ感覚を受け取ることはなく、意識を向けると感覚を受け取るようになりました。
これは単なる違いだけでなく、生きる上でのメリットでもあります。これのどこがメリットかというと、受け取りたくないような低い波動のものが割と近くにあってもその影響を受けにくくなった、という点が挙げられます。これは地味にかなり良いメリットです。ネガティブな物体あるいは人の影響を受けにくくなるわけですからね。
おそらくは瞑想の時にオーラを自分の周囲に凝縮することで心も安定してオーラも安定するようになって、感じたくないものは感じないという副次的効果が生まれているのだと思います。
霊能者とか霊障になりやすい人とか冷媒体質とか言われる人たちはオーラがゆらゆらと広がっていますけど、私もどちらかというとそのようにオーラが静まっていなくて広がっている人だったように思います。それで、感じたくないものまで感じてしまっていたように思います。
それが安定してきて、このように、選択的にはっきりと感じることができるようになったように思います。
オーラが不安定だと他人にエネルギーを吸われやすくてエネルギーが枯渇しがちな気も致します。エネルギーヴァンパイアはオーラが不安定な人からエネルギーを吸うのだと思います。そのような被害も減ったように思います。感じることが選択的になったということは接触も選択的になるということで、接触が減ればエネルギーヴァンパイアの被害も減るということなのでしょう。これは程度問題でもありますし向こうがオーラの触手を伸ばしてきた場合には被害もありますので完全に防ぐことにはなりませんが、意図せずして自分のオーラが周囲に広がっていてエネルギーが奪われるという状態は以前より減ったような気が致します。
そのようにオーラが安定してくると感覚としてもはっきりしてきて、指向性で選択的にはっきりと感じるクレアセンシェンスになるような気が致します。
昔の直感は無指向性の頭の中あるいは胸やお腹などで感じるぼんやりとしたものでした。時にその直感を無視してしまって後悔することもありましたし直感を感じていつつもそれをスルーしてしまうことも多かったように思います。
最近は、指向性の直感になってきたように思います。意識を何かに向けるとその感覚が昔よりきちんとわかるようになりました。
例えば、わかりやすい例でいいますとスーパーの食品の商品棚が挙げられます。
同じ商品がずらりと並んでいて、食品とはいえ工場で作られた製品ですから同じ品であれば基本的に同じはずですが、何か違いがあるような気がして良い波動を感じるものとそれより悪い波動とを比べてみると賞味期限の違いだったりします。賞味期限の違いが波動の違いとして現れていたわけです。
このような賞味期限の違いは以前はわかりませんでした。
もちろん波動に大差なければ感覚として違いがないのでわからないのですが、品によっては波動に差があるようです。賞味期限の違い、あるいは、作られた日が違うので材料の違いというものも多少はあるのかもしれません。同じ材料でも産地が違うとか。
以前はこのようなことを漠然と感じていて、商品ごとの違いまではわからなかったように思います。
以前は意識せずとも周囲の感覚をまとめてぼんやりと受け取ってしまっていました。今は、意識しなければ感覚を受け取ることはなく、意識を向けると感覚を受け取るようになりました。
これは単なる違いだけでなく、生きる上でのメリットでもあります。これのどこがメリットかというと、受け取りたくないような低い波動のものが割と近くにあってもその影響を受けにくくなった、という点が挙げられます。これは地味にかなり良いメリットです。ネガティブな物体あるいは人の影響を受けにくくなるわけですからね。
おそらくは瞑想の時にオーラを自分の周囲に凝縮することで心も安定してオーラも安定するようになって、感じたくないものは感じないという副次的効果が生まれているのだと思います。
霊能者とか霊障になりやすい人とか冷媒体質とか言われる人たちはオーラがゆらゆらと広がっていますけど、私もどちらかというとそのようにオーラが静まっていなくて広がっている人だったように思います。それで、感じたくないものまで感じてしまっていたように思います。
それが安定してきて、このように、選択的にはっきりと感じることができるようになったように思います。
オーラが不安定だと他人にエネルギーを吸われやすくてエネルギーが枯渇しがちな気も致します。エネルギーヴァンパイアはオーラが不安定な人からエネルギーを吸うのだと思います。そのような被害も減ったように思います。感じることが選択的になったということは接触も選択的になるということで、接触が減ればエネルギーヴァンパイアの被害も減るということなのでしょう。これは程度問題でもありますし向こうがオーラの触手を伸ばしてきた場合には被害もありますので完全に防ぐことにはなりませんが、意図せずして自分のオーラが周囲に広がっていてエネルギーが奪われるという状態は以前より減ったような気が致します。
そのようにオーラが安定してくると感覚としてもはっきりしてきて、指向性で選択的にはっきりと感じるクレアセンシェンスになるような気が致します。
古代のマントラで前頭葉上部の感覚が出てくる
今まで、頭の上のあたり、特に頭の上の前の方の感覚があまりありませんでした。ずっと昔は前頭葉全体の感覚だけでなく頭の上半分くらいの感覚があまりなかったのですが、下の方から次第に感覚が出てきて、それでも前頭葉の上の方の感覚はまだ出ておりませんでした。
それと対応するかのように、昔はマントラの共振が体全体だったわけですが最近は頭の眉間のあたり、前頭葉の下部やその周辺で反応しておりました。
最近は単に沈黙の瞑想をして静寂の境地に段階的に至ったり、あるいは、ことあるごとに古代の唱え方でマントラを心の中で唱えながら瞑想をしているわけですが、本日、ふと試しに唱え方を少し変えてみたところ前頭葉の上の方の感覚が出てきてびっくりしたのです。
先日までチベットのマントラの最後の「タット、サット」の分はそのまま日本語で小さい「ッ」で唱えていたわけですが、本日、一文字づつきちんとはっきりと称えるようにして「タツト、サツト」のように変えてみましたら「ツ」が前頭葉の上部を活発化させる効果があったのです。
何故そう変えてみたかというと、言葉を一文字づつはっきりと発音しようと心がけたのです。瞑想中に気づかぬところでインスピレーションをもらっていたのかもしれないですね。
マントラの発音は大切で少し違うだけで効果が出ない、なんて言いますけど、それはその通りだと思います。こういうこともあるのですね。
それと対応するかのように、昔はマントラの共振が体全体だったわけですが最近は頭の眉間のあたり、前頭葉の下部やその周辺で反応しておりました。
最近は単に沈黙の瞑想をして静寂の境地に段階的に至ったり、あるいは、ことあるごとに古代の唱え方でマントラを心の中で唱えながら瞑想をしているわけですが、本日、ふと試しに唱え方を少し変えてみたところ前頭葉の上の方の感覚が出てきてびっくりしたのです。
先日までチベットのマントラの最後の「タット、サット」の分はそのまま日本語で小さい「ッ」で唱えていたわけですが、本日、一文字づつきちんとはっきりと称えるようにして「タツト、サツト」のように変えてみましたら「ツ」が前頭葉の上部を活発化させる効果があったのです。
何故そう変えてみたかというと、言葉を一文字づつはっきりと発音しようと心がけたのです。瞑想中に気づかぬところでインスピレーションをもらっていたのかもしれないですね。
マントラの発音は大切で少し違うだけで効果が出ない、なんて言いますけど、それはその通りだと思います。こういうこともあるのですね。
ヴィパッサナー状態のまま遠近感が戻ってきた
最初、ヴィパッサナーで遠近感がなくなってきたわけですけれども、ここにきて、最近はヴィパッサナーのまま遠近感が戻ってきました。
昨年末に始まった、視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナー、あるいはサマーディとも言える状態ですけれども、それは映画のスクリーンを見ているかのように割と二次元ののっぺらとしたものでした。
割と平面ですけれども映画のように各所までがはっきりと見えてその動きもスムーズですので日常生活が映画のシーンのように感じられ、日常生活で見える景色が美しくなったのです。
日常生活が映画のようになって、視界に映る景色はまさに映画のように二次元のスクリーンのように感じられていたわけです。文字通りの意味です。視界ですので四角の画面ではなくて横に広い楕円というのは昔と変わらないですけどね。
ですが、ここにきて、その映画のように美しい視界はそのままに、遠近感も出てきたように思います。
これ、目の使い方と脳の使い方の切り替えですね。
映画のワンシーンのように美しく静止画を見る視界モードと、その状態のまま自分が動いた時に遠近感を感じるモードとがあって、完全にオンオフではないのでそのモードの割合によって遠近感が出ますね。
少し前までは遠近感を感じるモードにすると静止画モードがかなり弱くなってしまっていましたが、今は、遠近感を感じるモードでも静止画モードがそれなりに動いています。
そのように、遠近感を感じるモードと静止画を感じるモードが共存できるようになったというのが最近の変化のような気が致します。
少し前までは単に静止画としてスローモーションで認識されたわけで、それは点が連続しているような認識でした。しかし、今はその点が線として認識できるようになったのが違いと言えます。
少し前までは日常生活の景色を静止画として楽しんでいたわけですけれども、ここにきて、動画として楽しめるようになった感じです。少し前まではスローモーションで静止画として各コマの景色を楽しんでいたのに対し、最近は、その感覚を残したまま動画として楽しめます。ちゃんと景色を見たい時は静止画モードで切り取って見ますし、動きを楽しみたい時は動きのある遠近感モードで認識するわけです。
このように日常生活の景色を認識すると、映画とかテレビとかよりも現実が断然面白く感じられます。遠くに行かなくても日常生活が楽しめます。何の変哲もない自分の部屋であっても景色が美しくてその動きも全て含めて神の所業のように輝いて見えるわけです。
昨年末に始まった、視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナー、あるいはサマーディとも言える状態ですけれども、それは映画のスクリーンを見ているかのように割と二次元ののっぺらとしたものでした。
割と平面ですけれども映画のように各所までがはっきりと見えてその動きもスムーズですので日常生活が映画のシーンのように感じられ、日常生活で見える景色が美しくなったのです。
日常生活が映画のようになって、視界に映る景色はまさに映画のように二次元のスクリーンのように感じられていたわけです。文字通りの意味です。視界ですので四角の画面ではなくて横に広い楕円というのは昔と変わらないですけどね。
ですが、ここにきて、その映画のように美しい視界はそのままに、遠近感も出てきたように思います。
これ、目の使い方と脳の使い方の切り替えですね。
映画のワンシーンのように美しく静止画を見る視界モードと、その状態のまま自分が動いた時に遠近感を感じるモードとがあって、完全にオンオフではないのでそのモードの割合によって遠近感が出ますね。
少し前までは遠近感を感じるモードにすると静止画モードがかなり弱くなってしまっていましたが、今は、遠近感を感じるモードでも静止画モードがそれなりに動いています。
そのように、遠近感を感じるモードと静止画を感じるモードが共存できるようになったというのが最近の変化のような気が致します。
少し前までは単に静止画としてスローモーションで認識されたわけで、それは点が連続しているような認識でした。しかし、今はその点が線として認識できるようになったのが違いと言えます。
少し前までは日常生活の景色を静止画として楽しんでいたわけですけれども、ここにきて、動画として楽しめるようになった感じです。少し前まではスローモーションで静止画として各コマの景色を楽しんでいたのに対し、最近は、その感覚を残したまま動画として楽しめます。ちゃんと景色を見たい時は静止画モードで切り取って見ますし、動きを楽しみたい時は動きのある遠近感モードで認識するわけです。
このように日常生活の景色を認識すると、映画とかテレビとかよりも現実が断然面白く感じられます。遠くに行かなくても日常生活が楽しめます。何の変哲もない自分の部屋であっても景色が美しくてその動きも全て含めて神の所業のように輝いて見えるわけです。