スピリチュアルで「考えを止める」という大嘘

2026-01-26公開 (2025-11-28 記)
トピックスピリチュアル

多様な表現があります。

・雑念を減らす
・雑念をなくす
・考えすぎ
・考えるのを止める
・思考を止める
・思考を減らす

ある程度はそういう面もあるものの、この種のことを大きく言って大切かのように言うスピリチュアルは大抵は本質が分かっていないように思います。

特に、カルトやスピリチュアル教師がこの種のことを言う時、自身のスピリチュアル・セッションへの勧誘や高額セミナーへの入り口だったりするのです。要は、メンタルが不安定な人を見つけてはカモとして下に見ているのです。そのような時、主催者は概して「キラキラ」しています。ある種、オーラが光ってはいるのですが、その光り方はどこか銀色で、そのオーラというのは不自然な光り方なのです。トゲがあるというと言い過ぎですけど、他者を食い物にしているオーラなのです。オーラにトゲがなかったとしても、本質が分かっていない人はこの種のことを言ったりします。

事実は、その逆だったりします。

意識というものが広がると、思考や想念を拾いやすくなるのです。

その時、自身の波動が低いと相応の想念に影響されてしまいます。

一方、自身の波動が高いと低い想念には影響されません。

よって、行うべきは「思考を止める」ことではなく、波動を高める、という、単純なお話なのです。波動を高めれば雑念に影響されなくなり、その時、確かに「思考がなくなる」「静寂」というものもあります。ですから、その種のことは間違いではありません。しかし、それは「行為」ではないのです。それらは全て、波動が高まった時の「結果」なのです。

チャクラで言うならば、第7のサハスララが開けば自動的に「無心」になるのです。その時も、物事を分析するブッディという機能は残ります。ある意味、そのような思考の機能だけが純粋に残って高度に動き出す、という方が正しいのです。低い水準における雑念など雑多な荒波が高い波動により自然と静寂に吸い込まれていくのです。

その様は、強い太陽の光によって水滴が自然と蒸発するかのような状況に例えられています。それは最初は弱い光で時間がかかっていたとしても、サハスララからの光が強まることにより、静寂へと導くその自然発生的な力はどんどんと強まるのです。

一時的に蒙昧や低俗な欲望が入っていたとしても、それはサハスララからの光によって洗い流されるのです。

瞑想で、「雑念が入ってきたとしても、気にしない。流すだけ」という状況が、特に瞑想で座って行わずともサハスララからの光により自動的にそれが起こります。そこに、「考えを止めよう」などという意図は全く存在しておらず、この静寂は、自動的に起こるものなのです。それは「行動」ではありません。化学反応が自動的に進むように、サハスララの光により、「静寂」の状態へとどんどんと引き込まれていくのです。

それが化学反応であるならば、「考えを止める」というのはいわば結果に過ぎないことがわかります。それが真実です。

ですが、よくわかっていないスピリチュアル講師はドヤ顔で考えを止めることを主張し、それに対してこちらが説明してあげようとしても言葉を遮って苛立って自分の主張を正しいと言い張るのです。そのような勘違い、かつ、わかっていないスピリチュアル講師にはつける薬がありません。

これら、全て「結果」なのにも関わらずそのことを言わず、盲目的に「思考を止める」だとか「考えすぎ」だとか言ってスピリチュアル初心者を誘導し、自身の高額セミナーを次々に受けさせ、ますます盲目的になるのです。その結果、多少のテクニックや知識を得て得意になったりもするでしょうが、そのようなオカルトの知識が波動の向上にどれだけ貢献するというのでしょうか。「考えすぎ」とかいうところを入り口にしている限り、ゴールは見えず、単に、自尊心(エゴ)を育ててテクニック的なところに終始することが大半なのです。例えば「他人の心を読む」みたいな本質的ではないところで喜んだりします。それの何が良いのでしょうか。そんなことより自身の波動を高めるべきなのに、遊びにうつつを抜かして脇道にそれているのです。それでいて喜んで高額セミナーの受講料を支払っているのです。世も末です。

別に、これらの知識それ自体はそこまで害ではありません。スピリチュアル初心者がこれらを勘違いして理解することそれ自体はあるあるですので、それを悪いことだとは言いません。

悪いのは、その種のよくある勘違いにつけ込んで煽りに煽り、高額セミナーに誘導するスピリチュアル講師やカルトの存在なのです。つける薬がありません。

実のところ、ある程度の波動の高さがある人の場合、他者の思考やそこらに浮いている想念を拾って急に考えが浮かぶ、なんてことはざらです。普通にあります。であれば、「思考を止める」というのは、「波動を閉じる」「チャクラを閉じる」ことでしかないのです。よって、それらはすべきではないのです。ある程度の波動の高さがある人にとって、「思考を止める」というのは、致命的な間違いに繋がるのです。自身のチャクラを閉じ、感覚を自ら意図して「鈍らせる」のです。そうして始めて「思考を止める」ということが可能になりますが、そんなことをしてどうなるというのでしょうか。真面目な人ほどこの種の大嘘を信じ込んで自身の感覚やチャクラを閉じてしまっています。そんなことはする必要がないのです。

考えを止めるためにチャクラや波動を閉じてしまうと、結果、「愚鈍」で「鈍い」、いわゆるタマスな状態になります。「考えを止める」ということを真面目にやった結果、タマスな状態になってしまうのです。それのどこが、良い結果だというのでしょうか。それは、社会やスピリチュアル講師にとって都合の良い「従順な奴隷」を作り出しているだけに過ぎないのではないでしょうか。考えを止め、主人に従順な奴隷を作り出すために「考えを止める」という状態になり、結果として多少のスピリチュアル知識は得るでしょうが、それが一体、何の役に立つというのでしょうか。波動は下がり、重くなり、結果として考えを止めたとして、それの何が良いことだというのでしょうか。

本当に必要なのはもちろん逆です。「感覚を開く」「チャクラを開く」そして、その時、雑念や思考は増えるでしょうが、それに対処するのは「波動を高める」ことしかりません。波動が低ければ苦しい、という、ただ、それだけのことなのです。

一方、もともとの自身の波動がかなり低い場合はそもそも感受性がありませんから、その時は、まず活性化というものが必要です。その時、ある意味、雑念は増えるのです。それは当然のことで、「思考を止める」ということとは(一時的に)逆になったりもしますが、そうなったとしても、それはそれでよいのです。

ヨーガでいう3つのグナがあります。

・タマス 不活性
・ラジャス 活発
・サットヴァ 清浄

この、3つ目のサットヴァになって更に波動が高まれば静寂も訪れます。しかし、大抵の場合は人々はタマスかラジャスなのです。

タマスであれば他者の思考や想念は感受できず、まず、活性化が必要です。そしてラジャスになるのです。タマスの人は愚鈍で重く、欲望と雑念に生きていますから「考えを止める」ということがある程度の役には立ちます。ですが、それが単純な終わりではないのです。単純に考えを止めようとすると、遮ったり止めようとするその力は更に大きな力を持ち、後で一斉に返ってきます。そこでは雑念や欲望と戦っては行けないのです。タマスから抜け出すためには、ある程度の正しい活性化が必要なのです。それは「考えを止める」ということではありません。活性化をし、タマスの欲望と雑念の状態から抜け出すのです。

ラジャスであれば活性化は一段落ついていますからサットヴァを増やします。そうして静寂になるのです。

このように、段階を踏んで静寂というものも変わりますが、その種のお話は「結果」であって、ある種「目的」とも言えますが、本当の目的は波動を高めることで、静寂は中間的な結果あるいは中間的な目的でしかないのです。

元々サットヴァな人が多種多様な思考や低い波動に翻弄されている時、対処すべきなのは「チャクラを開く」「波動を開く」「波動を高める」ということです。ですが、スピリチュアル講師やカルトは「思考を止める」と主張するのですが、それは間違った方向に人を導き、盲目にしてしまうことが多々あるのです。

おそらくは、この「考えを止める」という主張の大元はヨーガ・スートラの最初のスートラで、そこには「ヨーガとはブルッティ(思考)を止めることである」と書いてあって、その内容を人々がよく理解せずに都合よく解釈しているのが原因かと思います。それは「ゴール」の状態であり、「行動すること」の指針ではないのです。行動に関わる指針はその後の章に詳しく書いてあるにも関わらず、読んでいないのか理解していないのか、自分が理解したいように読んでいるだけで、それが誤って広く広がってしまったのかなと思います。こういうのはよくないと思います。元々の文脈は違った意味で書いてあるのです。

本当の知識と自称しつつも嘘のことを言っている自称本物のカルトも多くあるようです。本当のことを知るまではスピリチュアルの嘘に翻弄され続ける人が後を絶たないように思います。

結局、自身の思考にて、自分の目で見てしっかりと見て自身の頭で考える人しか成長はしない、盲目的になったら成長は止まる、という、単純なお話のようにも思います。