どちらでもない、そして、どちらでもある、というのが答えです。
一体、なんのこっちゃ! と思われるかもしれません。矛盾しているように聞こえます。それは、こういうことです。
ヨーガで言われている、客体と行動と主体とが一体になるとき、という状態、それこそが瞑想の本来の目的地であるわけです。ヴェーダンタでいうところのアートマンとは主体でもなければ客体でもない、全体であり、全体ということは分かれていないのですから主体も客体もないわけです。それは目的地でもあるわけですが実は最初からそうであるのにそれに気がついていない、理解していない、認知していない、いわゆるアヴィディヤ(無知、無明)の状態であるわけです。
さて、そういう状態から始める瞑想は、最初は主体か客体かのどちらか、あるいは、その両方であるわけです。主体であれば集中ということでもありますし、客体であれば観察ということが言えるかと思いますが、そうは言いましても、主体と客体とはセットになっていますので、集中していればそこには観察があります。観察していると思っていてもそれを行っているという主体が必ず存在しており、自分の瞑想が集中だと思っていても対象があればそれは観察も伴っており、逆に、自分の瞑想が観察だと思っていても観察しているということはそこに主体があるわけです。ですから、観察と集中というのはセットになっているわけです。それは、主体と客体、という観点でセットになっているということです。
ここで、主体が集中である、という解釈になっていますが、観察瞑想の流儀の人はそういう表現はしないかもしれません。そういうことではなく、観察を柔らかく行うということはそこに集中はない、というような言い方、あるいは、少しだけふんわりと集中をする、と言うかもしれません。ですから観察は集中ではない、あるいは主ではないと観察瞑想の流儀の人はいうかもしれませんが、強い弱いに関わらず集中は行っており、結局、主体と客体という世界のお話なわけです。観察瞑想の人はこのような説明に異論を唱えるかもしれませんが、集中と観察という言葉でいうのでよく分からなくなるわけで、それよりも、主体と客体、という観点の方がわかりやすいのです。
集中瞑想:主体が主、客体はもちろんあるが弱い
観察瞑想:客体が主、主体はもちろんあるが弱い
というように、論点と着目が違うだけで、主体と客体があるという点ではそこまで変わるものでもないのです。
主体と客体があるということは、二元性ということでもあります。
では、主体と客体がない状態とは何かといいますと、それはざっくばらんに言えばワンネスということでありますが、ヨーガでいうサマーディであり、ヴェーダンタでいうアートマンあるいはブラフマン、はたまたイシューワラなどと言われている状態のことです。
その状態を目指して、最初は二元性のある状態から始めて、二元性を超えた世界に行くのが瞑想なわけです。
ですから、瞑想は集中でもあるし観察でもあるし、その両方でもあるのですが、同時に、どちらでもない、とも言えるのです。