スピリチュアル的な「自由」を勘違いして理解する人が多い

2025-08-30 記
トピック: :スピリチュアル: カルト

その初期において、割とあるあるな状況として、「自分勝手」であることをスピリチュアルの本質であるかのように勘違いする人が多数いるわけです。それはただ単にエゴが自己という幻想に即して自由を捉えているだけで、スピリチュアルが言うところのワンネス的なものを基本としつつも分割された自己というものに即して限定された自由と絶対的な自由をそれぞれ捉えられていないから、ただ単純に自分勝手であることを自由としてそれがスピリチュアルであるかのように勘違いするわけです。

そして、それを指摘したり道徳的あるいは道義的なことをいうと「これからの時代はリーダーはいなくて自由にそれぞれの人が成長する」とかいうように、正しい面もありつつも、その場で自由奔放に自由勝手にしているだけの状況には即さないのにも関わらず自己肯定して他者に対してマウンティングするためにそのような言動をし、更には、指摘したことでケラケラと他者をあざけ笑うかのような行動を取ったりします。してやったり、という表情と共に、他者の発言権を奪ってゆくのです。そうして、道徳的なことあるいは使命的な行動に対して、そのような行動は自由ではないので他者にするべきではない、として、道徳的な関与、および、使命的な関与をさせないようにし、要は他人の足を引っ張るのです。そして、各自がばらばらに自由に生きることこそがスピリチュアルの本懐であるかのように他者を誤解させ、混乱を助長し、そして、その周囲の人も同じような人たちばかりが集まっているため、お互いにお互いを肯定し、他者への暗黙の同調圧力による不自由をすることで自分たちの自由を確保することこそがスピリチュアルの本懐であるかのように自己擁護するのです。それは村社会でもあり、他者に口を出させずに自分勝手にし、そして村社会のメンバーもそれを表立って否定できず、やがてそれが普通であるかのように考え出すのです。それのどこが自由でしょうか。自分の勝手を他者に認めさせることをスピリチュアルの言を借りてそれっぽくマウンティングする人が割と未だにいるからこそ、だからスピリチュアルが嫌われるのです。

そのようなことになるならば、スピリチュアルなどやらずに普通に社会生活を送って苦労する方が余程精神的な成長になります。そのような努力を避け、マウンティングや他者を見下すことで自身のエゴを満足させる、そのようなつまらないスピリチュアルが散見されるのです。

その一部は、元々奴隷のような精神状態だったが故にそのように間違った自由であったとしても一旦は奴隷状態から解放されるために必要な方もいる、と私を導いてくれる方は好意的に説明してくれたりします。とは言いましても、そのことによってスピリチュアルが誤解され、また、その価値観をずっと持ち続けてミスリードするという害悪もまき散らかすわけです。

スピリチュアルの「自由」の前には道徳的行動がありますが、勘違いしたスピリチュアルの人は道徳を無視あるいは重視しないのです。道徳および秩序があって、それから自由があるのであって、最初から何もわからず道徳もなく秩序もなく自由ということではないのです。それはスピリチュアルというお話を除けば割と普通なことであるのですが、スピリチュアルというだけでその言い訳を使って自身を肯定し、マウンティングするような自分勝手であるだけな人が割と多くいるのです。更には口で言うだけでなく暴力的なものあるいは圧力的なものでそう言いくるめる場合もあり、そのような高圧的な態度のどこがスピリチュアルなのだ、と思われるようなカルトも存在します。

正しくスピリチュアルを理解するならともかく、自分のエゴを満足あるいは誤魔化すためにスピリチュアルをするようなカルトに関わっても精神的奴隷になる可能性も多々あり、お勧めできないのです。そのくらいなら、普通に社会生活を送って役目を果たす方が余程精神的な成長になるのです。

そのような、勘違いした自由というものは、スピリチュアルの初期の段階において精神的奴隷状態から解放されるために一時的に発生することを除けば、そこまで有益なものでもないと思うのです。一部、そのような勘違いした自由が必要な方に対して強権的に本当のスピリチュアルあるいは道徳を説く方もいますが、それは、子供に対して道徳や本当のことを説いても理解できるだけの頭が出来ていないため、初期の状態においては単純な自由を説いてあげた方が長い目で見た時に成長が促される、というようなことを根気強く私を導いてくれる方は説明してくれます。

確かに、初期状態の子供のような精神状態の人が自由を求めて奴隷状態から解放を願っているのだとしたら、そのような人に道徳や立生を説いたところで段階が違うわけで、そのような指摘はむしろ成長を阻害したり、野暮というものでしょう。スピリチュアルの初期における間違った自由というものも時には解放のために必要だとすれば、それも暖かく見守るというのが大人な態度なのかもしれません。

私を導いてくれるガイドがいうには、そのようなことがあっても平常心を持って見ることが大切で、誰それが上とか下とか劣等感や優越感を持って見ることなく、その人それぞれに必要な段階があるのであり、状況ごとの学びであり、カルトといえどもそれはその人にとって必要なことだったりするのだから、非常に冷静な目を持って平等に見ることが大切である、と言います。