静寂の境地は「土台」あるいは「基礎」

2022-02-13
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

流派によっては静寂の境地がゴールになっていますけど、実のところ、それは土台あるいは基礎なわけです。しかも、それは到達可能な境地であるわけです。

流派によってはそれは哲学的な理論としての一要素として理解されていて、文字通り「理解」であって実際にその境地というものはなくて理解だけがあるかのように文字通り理解されていることもあるわけですけれども、実のところ、理論としてその通りなだけでなく、実際に到達可能な境地なわけです。修行のゴールに位置付けている流派の言うように到達可能な境地であって、かつ、理論を打ち立てている流派の言うように悟りの一つの基礎でもあるわけです。

大分類として、静寂の境地をゴールとしている流派のグループ、そもそも静寂の境地をゴールとはしていないグループ、そして、静寂の境地を基礎としていつつも理論だけのグループと修行が必要とするグループに分かれます。

流派によっては、静寂の境地とは雑念が入り込む余地のない寂静の境地である、と説きます。雑念が入ってくることが「悪」で、雑念がない状態が「善」であると説いている流派もあります。概ね顕教においては静寂の境地を良しとしていて雑念のない瞬間を増やそうとしています。修行していない人の場合は雑念で頭がグルグルと回転し続けていますから、まず、その雑念の連続をやめて静寂な瞬間を少しづつ増やそうとします。雑念を観察すると、その雑念と雑念との間に隙間があって、その隙間の時間を増やそう、と言うのが顕教のやり方になります。そうして隙間の時間を増やすことで静寂の境地が長く続くようになり、そうして寂静の状態になれば悟りに至る、という理屈で成り立っています。

一方、密教の場合はそのような雑念及びイメージというものを活用して、修行や観想法によってその雑念を意図したイメージやエネルギーに「変容」させようとします。そうして不動明王などと一体化して解脱するわけです。

一方、インドのヴェーダンタやチベットのゾクチェンではそのような雑念があってもなくても同じと考えます。

特にヴェーダンタでは理論面が重要視されていて、密教や顕教の修行は不要だとして理解だけが必要、としています。ですから、理論の通り、静寂の境地の「体験」も不要で、かつ、雑念やエネルギーを観想法などで「変容」することも不要であるとヴェーダンタでは説きます。ただ「理解」だけが必要なのであって、ヴェーダンタの言う解脱(モクシャ)とは輪廻の輪から解放されることですけどそのためには理解だけが必要とされます。

一方、その他の流派、例えばチベットのゾクチェンではヴェーダンタの言う理論と同じような土台に立ってはいるものの理解だけが必要とは考えず、必要とあれば顕教や密教の修行を行う、という柔軟な態度に立っています。今のゾクチェンは顕教や密教のように一定の修行が課されるようですけど、伝統的なゾクチェン、悟りを得ている人が教えるゾクチェンは本来、そのような一定の修行の枠組みに囚われないもののようなのです。この、最後のグループにおいては概ね、理屈としてはヴェーダンタに代表されるような「雑念があってもなくても同じ」と考える理解に基づいていて、しかも、単に理解するだけでなく、実際にその境地に至ることができる、そして、そのためには修行が必要である、という立場に立っています。

心というものは言葉を超えてはいるものの、それでもある程度の説明はできて、それは説明のためではあるけれどもそれなりの真実を示しています。そのように説明できない心というものをあえて説明すると、その一要素として、エネルギーは生じ続ける、決して止むことがない、という理解があります。これは、顕在意識からすると「心の思考、雑念は生じ続ける」という理解になります。

顕教の人がこれを聞くと「それでは救いがないではないか」みたいに思うかもしれませんけど、実際のところ、心の思考や雑念が生じ続けても影響されない心の本性(ゾクチェンでいうところのリクパ)を見出すことがこの最後のグループでは重視されますので、雑念が生じるかどうかは割と些細なことであるわけです。

心の本性を見出したというのは、ヨーガでいうところのサマーディの状態ということであり、その状態に至ってしまえば、実際のところ雑念や思考が生じ続けるけれども、それはそれとして、心の「土台」として「静寂の境地(寂静の境地)」が存在していることに気づくのです。

これは、雑念があるのにどうして静寂なのか、どうして寂静といえるのか、と、特に顕教の人は仰るかもしれません。しかし、これらの静寂の境地あるいは寂静の境地というのは顕在意識のことではなくて、その奥底にある深い意識、スピリチュアルでいうところのハイヤーセルフあるいはヨーガでいうところのアートマンあるいはプルシャのような意識、それはサマーディ(三昧)ということでもありますけど、その奥深い意識からすると、表層で雑念や思考が湧き上がっていたとしても、それは海の上で波が立っているのと同じくらいの些細なことで、心の本性からしたら、全体から見ればそれでも変わらず静寂の境地、寂静の境地なわけです。

そのようなことを体感して実際にその状態でくつろげることができるようになるために修行をするのであって、単に理屈で理解すればいいというだけのものではなく、心の本性という大海を見出しさえすれば全ては最初から静寂の境地を「基礎」あるいは「土台」としていたのだということをはっきりと理解しかつその境地に生きることができるようになるわけです。それは単にそれを理解するというだけでなく、心は充実し、心が「根」を張り、感謝の気持ちで生きられるようになり、不安になることもかなりなくなり、幸せに生きられるようになるという効果もあるわけです。

そのための「土台」あるいは「基礎」として静寂の境地、寂静の境地は重要になってくるわけで、最初は単なる体験としての個人的なものに過ぎないものが、その先になると次第に愛や感謝が広がってきて、大乗仏教などでも言われているような慈悲の心にも繋がってくるのだと思います。