「受け入れ」と「拒否」のどちらが先なのか

2025-12-15公開 (2025-12-13 記)
トピックスピリチュアル

最近、そのような分類及び反応の研究があることをたまたま目にしました。

その文脈によると、人はまず拒否をするという前提において、その拒否とはリアクション(反応、自動的)であり、一方、受け入れるというのは行動(アクション、意識的)である、というお話でした。その著者は(おそらく自分がそうだからなのか)拒否が自動的に起こる反応、つまりはリアクションであり、一方、受け入れの方は意図的に行うアクションである、というのです。そして、それがあたかも当然(著者にとって)かのように書かれていました。割とスピリチュアル系の人のお話です。

しかし私個人としては違和感を感じて、というのも、私の場合は逆だからです。まず最初に反応(リアクション、自動的)として受け入れが起こり、かと言って何でもかんでも受け入れていると不要な感情や理屈を取り入れてしまうので、選択的に拒否を意図的にするのです。

この違いについて、何だろう、と思って、その文献とは別に調べてみるとこの種のお話は心理学でよく研究対象になっていて、フロイトなどの著名な研究者なども言及しているようです。それらから興味深いところをピックアップしますと

事例1
・拒否が先なのは知性が発達していて合理的
・受容が先なのは同一化が起こっている、子供

事例2
・人が情報を受け取った瞬間に「開く(Accept)」「閉じる(Reject)」という「初期フィルタ」があり、拒否先行型と、受容先行型がある。

などの各種の研究があるようでした。

また、これらは「本性」と「振る舞い」で異なる場合があり、よって、元々の2分類とこれらの組み合わせで4つ(あるいは3つ)のタイプに分けられるように思います。

(訓練・経験による)振る舞い
拒否が先(Reaction)、受け入れが後(Action) 受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)
自身の傾向(本性) 拒否が先(Reaction)、受け入れが後(Action) 内面と外面が一致
素直
頭が良ければ頭脳先行タイプ
頭が悪ければ単に無知なだけ
(頭が良い場合もあれば悪い場合もある)
内面と外面が不一致
社交辞令
上部の良さ
小賢しさ
受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action) 意識的な生活
スピリチュアルな生活
内面と外面が一致
素直
子供っぽさ

であれば、性質によって逆算もできます。

▪️内面と外面が一致、素直
 ・拒否が先(Reaction)、受け入れが後(Action)
 ・受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)
 いずれもあり得る

▪️社交辞令、上部の良さ
 自身の傾向(本性):拒否が先(Reaction)、受け入れが後(Action)
 (訓練・経験による)振る舞い :受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)

▪️意識的な生活、スピリチュアルな振る舞い
 自身の傾向(本性):受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)
 (訓練・経験による)振る舞い :受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)

このように逆算してみるとなかなか面白いものです。

単に単純な人もいれば、社交辞令で逆を見せている人もいる。

その一方で、受け入れが先行している場合、基本はいい人だとしても、単純に受け入れすぎてしまうと他人の厄介ごとを(自分には無関係なのに)受け入れてしまって混乱してしまうことがあるわけです。自分に不要な感情を相手から勝手に押し付けられて、いわば拾ってしまうため、意識的に拒否をする必要がある人が一定数いるということです。

特に子供の頃はこの種の「受け入れの強要」に弱くて、本来自身に関係のないことで悩んでいる人が多くいるわけです。それは拒否する力が弱いということでもありますが、状況がよくわからなくて「そうかなぁ」と思ってしまって、雰囲気で受け入れてしまうわけですが、それにより、他人の愚かさを引き受けてしまうのです。

この種のお話はカルマとも関わってきます。良くないカルマを他人に渡してしまい、自身は行動の責任を取らない、ということが起こるのです。不道徳な自身の行動に関して、そのカルマは本来は自身で受け止めることになるわけですが、周囲にこのように「受け入れが先行している人」がいたら、カルマの捨て先としてそのような素直な人が(無意識に)選ばれることがあるのです。

このようにして、人生で不幸しか起こらない人が現れます。

一方、不道徳なことをしているのにいつまで経ってもその報いを受けない人がいます。それはというと、この種のカルマの受け渡しにより、周囲にそのカルマを渡しているのです。とは言いましても、そのようなことをしていると周囲の人全てが不幸に巻き込まれていきますので周り巡って自身も不幸になるわけですが、短期的にはこのようにして自身はカルマの報いを避けることができるのです。

この最後のタイプは(私もそうですが)とにかく誤解されやすく、最初や2番目のタイプの人からしたら、どうやら「頭が悪い」「すぐに騙されるカモ」と思うようです。私も散々、馬鹿にされたものです。それは単に馬鹿にされるくらいならマシな方で、その人の歪んだ認知に同意するよう同調圧力によって強要されるのが実に迷惑なのです。その種の歪んだ見解を強引に他人に受け入れさせるということは、実は、カルマを譲られるということなのです。

これらの分類と、心理学でいうところの「投射」を組み合わせてみると、これまた興味深いことが現れます。

投射とは、自分のことであるのに周囲にそれらを見ることです。例えば、よくあることですが「他者が愚かで馬鹿に見えてしまう」というのはそれが本当の場合で正しく見ている場合もありますが、かなりの場合において投射していて、投射の場合はその相手を見ているわけではなくてそう思っている本人が愚かだからそう見えているわけです。

よって、その投射がマウンティング及び他者への迷惑に繋がります。順序はこうです。

・本人が愚かなので、自身の愚かさを周囲に「投射」し、誰かが愚かに見える。当人は愚かなのでそれが本当のことだと思っている。本当のことだと思っているので、愚かにも、その相手にそのことを直接言ったりする。それがマウンティング(のつもり)になる。
・この時、それを言われた側が上の何かのタイプかで反応が分かれるわけです。

 もし、言われた側が「拒否が先(Reaction)、受け入れが後(Action)」であれば、言われたことに対して怒って、おそらくそれで終わりです。このような場合も多いのではないでしょうか。マウンティングしたつもりが、キレて言い返される。という場合です。

 一方、言われた側が「受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)」だとすれば、「そうかなぁ」と、ありもしない現実を自分の内に入れてしまうのです。それは現実ではありませんから全く不要なのですが、元々を辿ればそれを言う側が愚かな上に、言う側の愚かさだけならまだしも、ちっぽけなエゴを満足させるために他者をマウンティングするわけで、それを言われた側はしっかりとそれを吟味して「拒否」をしなければ、余計な感情や不真実を内に抱えてしまうことになるのです。

それは感情でもありますが、感情というのはその奥底にカルマがあります。よって、他者の不幸なカルマを他人が引き受けることになるのです。このことを理解している人は少ないかもしれません。

それは悪いカルマで、悪い結果が、歪んだ見解を持つ人の方ではなく、受け手の方に現れるのです。不幸なことが、歪んだ見解を持つ人の方ではなく、そうして強引に引き受けさせられた側にこそ起こるのです。そうして、最初に歪んだ見解を持った人の方が、難を逃れるのです。

悪者が何も自身の行動の責任を取らないように見えるのはこういうことなのです。ある人にとっての悪者が、周囲の多くの人にとっての「優れた人」になるのは、このようなことなのです。歪んだ見解はとある人にとっては悪者ですが、その認知を誰かに押し付け、そして、誰かがそれを受け入れた結果、それはカルマとなり誰か他の人の中で現実化します。認知が現実化するということは一時的にもその認知が正しいものであると認識するようになるということになり、最初に歪んだ認知を起こした人のことを肯定するようになるのです。そうして、当初は誰かにとっての悪者だった人が、いつの間にか多くの人にとってのカリスマあるいは英雄はたまた「優れた人」というように変わっていくのです。

周囲が圧力あるいは理屈によって誰かを肯定した場合、それは当事者にとっては悪者による押し付けですが、周囲から見ると悪人ではなく良い人あるいは凄い人として映るのです。それはカルマが逆転するとも言えるのです。これは興味深い現象です。元々の歪んだ認知を誰かに押し付けることで、カルマが入れ替わり、そこにある種の「カリスマ」「英雄」が生まれるのです。歪んだ認知は、誰かの犠牲によってカリスマとなるのです。それは、カリスマや英雄がある種「単純」で「わかりやすい」、「大衆に伝わる」「大衆が同意する」ということの説明になっていて、カリスマは大抵の場合、その条件を兼ね備えています。その元を辿れば歪んだ認知なわけですが、それが周囲の人たちによって肯定され、その迷惑なカルマは周囲の人が引き受け、そして、最初に言い出した当人の歪んだ認知を強化及び肯定し、その歪んだ認知を正当化するために行動及び言動を繰り返すようになるのです。そうしてカルマを他人へと譲った挙句、他人を自身のカルマの渦へと引き込むのです。

元々、勝手な間違った見解に基づいたことを他人に押し付ける、というだけでも迷惑なのに、それに留まらず、そのような愚かな人のカルマの結果を他人が引き受けることになるのです。当人は報いを受けずに肯定され続けますから愚かさが継続し、その結果としての周囲の不幸も継続および拡大します。当人は何食わぬ顔で間違った見解を正しいと思い続けるのです。

例を挙げましょう。

それはとても迷惑なのですが、立場の違いにより、その誤った見解を(少なくとも表面上は)受け入れるように振る舞わないといけない場合も多いように思います。会社の上司やかなり上のマネージャーなど、反論が難しい人が勝手な論理を振り回してきた場合、それを拒否せずに受け入れる、と言うのは会社でそれなりにある状況だと思うのです。

中国の古史で、中国の皇帝が「鹿」のことを「馬だ」と言った時、同意して「そうです。馬です」と言った部下が生き残り、「鹿です」と正しいことを言った部下が(忠誠心を疑われて)処罰された、と言うお話があったかと思います。それは「馬鹿」の語源だったように思います。

それが、会社や地域社会、はたまた兄弟や親戚など、逆らえないところで日常的に行われているのです。

実のところ、逆らえないからといって社交辞令で受け入れたふりをするのは危険で、そう言うことをすると「言葉」には力がありますから体の中にその間違った考え(それはオーラやカルマである)が入ってきて、時にその愚かさはとてつもないものだったりしますので、数十年単位でその愚かさが体を蝕むことがあります。そのようなことによって精神をおかしくしている人も大勢いるように思うのです。

元を辿れば、愚か者が自身のこともわからず他者に対するエゴを守るために歪んだ感情でマウンティングを試みており、当人は愚か故にそれが真実ではないことにも気付かず、真実だと思い込んで他者を馬鹿にした挙句、その犠牲になるのは素直な「受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)」な人たちなわけです。投射をして他者を見るだけならともかく、その間違った見解を相手に言ったり押し付ける側は愚かですから、本当のことを見ず、自身は被害者か何かだと思っていたりもします。特定の者に対する他者への憎しみや罵りは当然であるとさえ思っていたりします。

この種のお話はよくあることですが、その罪悪は深く、時に他人を数十年単位で精神のどん底に突き落とします。それが1人や2人ならともかく、何人をもその犠牲になるのだとしたら、その小さな罪が積もり積もれば死刑になっても良いくらいの酷い罪であると感じます。しかし、往々にして「受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)」な人たちはそのような反論を行いませんのでのうのうと他者を食い物にする愚か者が生き延びているわけです。

そういう状況においては、他人を食い物にしている人が一般社会の基準においては「偉い人」「偉人」と思われたりします(全員とは言いません)。ですが、その実態はよく見てみないとわからないのです。

実のところ、「受け入れが先(Reaction)、拒否が後(Action)」な人はそもそも「怒る」と言う感情を知らないことも多いです。

ですから、うまく拒否もできないのです。

大人になれば「付き合わない」と言う選択もできましょう。しかし子供は逃げることができないのです。愚かな友人や知人と付き合って、ありもしない現実を受け入れるよう強要された時、そこから逃げ切れる子供がどれだけいるというのでしょうか。神様に願います。多くの善良な人が、そのようなくだらない人たちと関わりを持たないでいられますように。そして、愚かな人は善良な人とは関わらず、愚かな人同士で足を引っ張って生きてくれますように。

そのように、そもそも怒りを知らない人が拒否したり(他人の真似をして)怒ってみたところで、本当の意味で怒ったことがないために全然怒ってる感じになっていなくて、それを見た愚かな人はきっとゲラゲラと馬鹿にしてくることでしょう。ですから、そこらにいる愚か者の真似をして試しに頑張って一生懸命怒ってみたところで、その効果は全然出ないでしょう。むしろ、そのような態度をしたことで、愚か者はもっと更に馬鹿にしてくることでしょう。愚か者は傲慢にも、あなたのことを「拒否もできない、弱い、ただの馬鹿者」としか思わないことでしょう。

そのような状況で、愚か者は、「拒否してこない」ことを言い訳に、執拗にネチネチと嫌がらせをし、他者を食い物にするのです。酷い状況です。

いわゆる同調圧力の構造がこれになるわけです。同調圧力を加えてくる側は元々愚かで虚構でしかないのは上記の通りですが、それを「受け入れる」人が現れると、その虚構が一時的に現実のようなものとして現れるのです。それはいわば「夢」ということですが、元々が虚構ですから非現実なわけですが、圧力でもなんでも、とにかく受け入れる人が現れると、その元々の虚構としてのイメージが相手の中に入り込むのです。

そうなってしまうと、元々関係のなかった相手であっても、その虚構の現実の中に(ある程度)巻き込まれてしまうのです。

それは虚構でしかないので巻き込まれた方は迷惑だったりするのですが、実のところ、その種の虚構がこの世界ではある程度の力を持っていて、それは力を持つと言っても仮想現実のようなものであるため、この世界は「夢のようだ」とも言われている一つの根拠となっています。この世界は幻想で夢でしかない、というのは、元々が虚構や願望、愚かさ、などといった低次の感情に基づいているが故に、そのようにも言われるわけです。(本来のヴェーダ的な夢(マーヤー)の意味は別にあるのですが、ここでのお話に限定して理解してください)

精神的に受け入れる、ということは、相手のオーラを受け入れる、取り入れる、ということです。それがいくら同調圧力であったとしても、はたまたたとえ多少の一時凌ぎや社交辞令、あるいは厄介者への対処であったとしても、多少の受け入れの姿勢が現れると、それ相応のオーラの接触および移動が起きてしまうわけです。そうして、他人のつまらない現実に巻き込まれてしまうわけです。いい迷惑です。

しかも、押し付ける側は厄介なことに「善意」だと思っていることすらあります。その、低俗な善意を受け入れるとカルマを受け入れてしまうことになるのです。何という罠でしょうか。そして、低俗な善意とはカルマを相手に押し付けて自身が楽になる行為なのです。ですから、「いいことをしましょう」とか風当たりの良いことを言って、その実は、自身のカルマを相手に譲り渡して楽になる、ということなのです。この世はどこか狂っています。はた迷惑もいいとこです。低俗な善意は断る方が良いのです。善意と言いつつ、自身の「善意」という主観を相手に押し付ける、ということは、自身のカルマに引き込もうとしているということです。結局、本人はそれがいいことだと思っているのかもしれませんが、迷惑なことには変わりがないのです。それは、お節介、という言葉が似合うのです。

この世界は、その種の「迷惑」な現実と干渉が多重にも折り重なった世界です。

スピリチュアルでカルマの法則が語られますが、それは個人の単位のみならず集団や家族はたまた国や星という単位でも発生し、この種の愚かなカルマは当人のみならず地域やその社会生活の集団にも影響を及ぼすわけです。近くに愚か者がいれば、その影響を少なからず受けてしまうわけです。

そのようなカルマの連鎖の状況を解消あるいはそこから抜けるには、本当の自分ではないものを削ぎ落としていく必要があります。自分とは本来関係のない他人の愚かな感情を多く引き受けてしまっている状況から脱して、他者の愚かな考えは本人に戻してあげると良いのです。そう意図します。そのように意図してください。そうすれば、引き受けてしまった愚かな感情は本人の元へと戻っていき、相応の結果になるでしょう。そのように願えば、そのようになるわけです。

この種のことを「成功の法則」あるいは何らかの形としてマーケティングとして使い、儲けている人がいます。その手法はというと基本は自身の意見を相手に押し付けるということです。オーラを直接伝えるのが一番効果がありますが、あるいはその意見に同調した人を通じて多くの人に同じ波動を広めることです。それは儲けるとか成功するという観点からはとても有効ですが、それをされた側は自身ではない意見に振り回され、結果、その行動に同意したことで、いらぬカルマを引き受けることになります。例えば、何かを売りたくてマーケティングしたとして、それが売れた時の責任は、売った側も多少は引き受けるにしても多くを引き受けるのは売った側ではなく、買った側がそのカルマを引き受けるのです。

これは、一般社会においては製造責任とか問われて、売ったものに問題があれば売った側の責任ということになりますが、カルマの法則あるいはオーラの伝播からすると、そのカルマに同意したことで、買った側に責任の多くが移るのです。現代の社会は何か変な商品があったとて「売った側が悪い」「作った側が悪い」などと言うかもしれません。はたまた、「善意の第三者」の理屈を持ち出して、「いや、私は知らなかったので」と言い出すかもしれません。それはオーラの遮断にある程度の効果があって、自身を守る効果は確かにあるかと思いますが、知った後に「いや、これは便利だから」「安いから」「使えるから」などと言って肯定した場合、そこで、カルマの追加・分担を引き受けることになるのです。

これは個人間のみならず、国家間においても強要や脅しはたまた騙しによる条約締結により相手を騙してきた歴史と重なります。そのようなカルマは、短期的には許されても、長期的にはその業の果実を当人が受け取ることになるのです。

この目に見える世界においてはものが売れて社会的な成功を収めたとしても、長い目で悪いカルマを作り出している人は、長期的に尊敬されることはないでしょう。というのも、現世的な価値観及び評価と、あの世あるいは霊的な世界における評価は異なるからです。現世で繁栄を極めていた人があの世に行って激しく叱咤され再教育されるということも良くありますし、はたまた、この世で多くの部下を率いていた人が、あの世になって部下たちがくびきから放たれたが最後、多くの人がその人の元を去っていってほとんど近くに残らなかった、などという話も聞きます。人は同じ時期に死ぬことはあまりないですが、たとえば戦国の世で多くの人が死んだ場合、君主と部下が同時に死ぬということも昔はよくありました。そのような時、最初こそ君主と部下が生前のように一緒にいるとしても、やがて自分たちは自由だと気がついた部下が次々に離れていくのです。

そのような時、最後に残るのは、本当に心を通わせた者だけです。多くの部下たちが、一見すると心を通わせていたかのように見えたとしても、くびきから放たれた時に本当に一緒にいたいと思うかどうかはまた別ということです。その時にでもまだ一緒にいたいと思うような関係、それこそが長期的な関係ということであり、霊的な意味での繋がりがあるということです。一方、現世的なしがらみや強要により縛り付けているだけの関係であれば霊的な意味における長期的な関係はないと言えます。表面的に良いような関係に見えたとしてもそこに本当の尊敬や信頼がないのであれば、それは短期的な関係であり、長期的な関係ではないということです。では長期的な関係とはなんでしょうか。信頼されるというのはどういうことでしょうか。単に他人を自分へ尽くすための道具だとかATMだと思っている人にそれはわからないのです。人と人との関係が、利害関係になっているのであれば、それは長期的な関係ではないということです。そのような利害関係での繋がりがいけないと言っているのではなく、そういう関係もこの信頼の置けない世界においては必要だとしても、長期的なものを求めているのかどうか、長期的な信頼関係があることを知っている、あるいは、少なくともそのようなものがあることを信じられているかどうかが重要になってくるのです。他人を見る時にも、そのようなことを知っている人かどうか、何を信頼して生きているのか、利害関係だけなのか、それとも長期的な関係を最終目標としているのか、そこを見極めるのが重要です。

それは見る人が見ればわかることです。最初は良いように見えたとしても、実はそうではない、というのはよくあることです。一見すると長期に見えて実はそうではなく自身の利益を求めているような人もいて、そのような偽善が、この社会を貶めているのです。

このパターンはなかなか見分けが難しくて、最初に挙げたパターンのうち、「最初は拒否が本性、しかし上部は社交辞令で受け入れ」という小賢しい人を気を付けるべきと言っているのであって、「本性が受け入れ、しかし、理性によって拒否する」という人はここで更に誤解されてしまうリスクがあるので更にもっと気を付ける必要があります。本性が「受け入れ」の場合、他者にとって「あ、受け入れた」と思われがちで、後でよく考えて拒否をした場合、それは相手にとって「最初は受け入れるようなことを言っておいて、後でコロコロ意見を変える、信用できない人だ」と思われてしまうかもしれません。それは全くの誤解であるのですが、そのような「最初は受け入れ」の性質であるがために、まだ相手を判断していない状態ですら相手には「受け入れ」であると誤解されてしまったりします。そのような初期反応の違いに気をつけつつも、やはり、気を付けるべきは自己の利益を第一にして他者から搾取しようとしている人たちなわけです。それは、「最初は拒否、そして、相手から奪う」ことを第一としている人たちです。誤解に基づいて「最初は受け入れ、しかし、よく考えたら拒否」の人を誤って理解せずに、そういう性質だと理解した上で、それは「信用できない人」ということではなく、単に、初期反応の違いだと気がつくことが肝心なわけです。

さて、それを踏まえた上で、ここでは「最初は拒否、そして、相手から奪う」人に限定して話をしますが、そのように、自身が良ければ良い、という考えが、カルマを他者に押し付け、自己の安寧をだけ願うのです。ですが、そのカルマは「見えない声」として自身に帰ってきて、それが精神を蝕むことでしょう。その精神を安定させるために、更に強力な力で持って他者にカルマを押し付けようとしますが、あまりにも強引で強欲な人に付き合う人も少なくなれば、まんまとカルマを押し付ける相手もいなくなっていくでしょう。それら全ては、自己保身のためのエゴの自己防衛反応であり、どこかで学ぶ必要があるわけです。弱いエゴで学ぶ人もいれば、エゴが強くなるまで学ばない人もいます。

今の世の中はエコーチェンバーやフィルターバブルにより自身の発言が(それがどれだけ愚かであったとしても)優れたものであるかのように返ってくる社会です。実のところ、その仕組みというのはエゴの声と同じなのです。何かにつけて言い訳をするエゴは、自身をとにかく正当化します。それらの構造がインターネットでも再現しているとすれば、賢い人はそれらの見えない壁の外側に出ることを目指すべきなわけで、それはというと、自身のエゴが作り出した見えない障壁を壊すか乗り越えるということなのです。スピリチュアル的に言えば「エゴをなくす」ということですが、元々エゴというのは錯覚でしかありませんから、ないものをないと認識するだけのお話ではあるのですが、それがこれまた辛いものになったりします。

そのエゴを克服するためには瞑想や各種の精神的な訓練が重要になってくるわけですが、愚かな人にそれを言っても仕方がなく、変わることがないのだとしたら、放っておくくらいしか手立てがないように思います。あるいは、愚かだからこそ、素直に「欲望」に目を向けさせ、その先に実は真実がある、というトリックが必要なのかもしれません。

この世界は狂っている、などとよく言われます。それはというと、自身の見解を正しいものとして、その発言の責任を負わずに他者に背負わせるシステムが出来上がってしまっているからです。根本を言えば自身も他人もなくてワンネスですのでそれはそうなのですが、そうは言いましても、とてつもなく愚かな人は自分でその責任を負うべきと私などは思う一方で、システムはそうはなっておらず、他者がカルマを引き受けているのです。

歪んだヒーリングや歪んだ気功


この種のお話は、下手なヒーリングや盲目的な気功においても当てはまります。ヒーリングと称して自身の悪いカルマをオーラとして相手に送りつけ、送られた方は何やらオーラの一時増大で元気になった勘違いをするものの、実のところヒーラーのカルマを受け手の側に受け渡してしまっているのです。はたまた、気功においても呑気にも「他の人の気を少しもらう」だとか「気を交換する」だとか言っている人がいて、例えば「元気がない時は他の人の気をちょっともらったりします」と言っていた気功の人がいますけど、ああいうのは、カルマも含めてもらってしまっているのです。気功あるいはレイキなどのヒーリングにおいて「ヒーラー自身が、ヒーリングしている側が元気になる」と言われているのは、そういうことなのです。ひどい時には受けている側のオーラを十分に吸い取って、受け手がクタクタになってヒーラーが元気いっぱいになることさえあります。この種のエネルギー交換は水の流れと同じですから、エネルギーが高いところから低いところに流れます。ヒーラーと言いつつエネルギーレベルが低いと、ヒーラーの側がエネルギーを受け取る側になってしまうのです。それでいてヒーラーが状況を分からず自己満悦に陥っていたりします。そして、やもすれば口八丁手八丁で何となくその気にさせてヒーリングしたということにしてしまうわけです。

拒否先行型のヒーリングと、受容先行型のヒーリングでも状況は異なってきます。拒否先行型というのは見方を変えれば「オーラを押し付けるヒーリング」であり、受容先行型の方は「悪いオーラを引き抜く、引きつけるヒーリング」です。ですが、傍目にはどちらがどちらかよく分からないでしょう。

本当のヒーリングとは、高次のエネルギーを与えるものですが、そう称していたとしても実際にそうできる人は少ないですし、実態はというと上記のどちらかになってしまっている場合が多いような気が致します。であれば、安易にヒーリングなど受けない方が良いように思います。

カルトとカルマの押し付け


カルトは往々にして自身の見解を押し付けますが、それはいわばカルマを押し付けているのです。同じ理屈がここでも成り立ちます。

時に、カルトが自身のドグマに引き入れるためにヒーリングと称してカルマの押し付けを行ったりします。気を付けたほうが良いかと思います。

いわゆる「引き寄せの法則」


本当の「引き寄せの法則」は自分自身のブループリントに沿って現実を創造することですが、カルトあるいはスピリチュアルでいう引き寄せの法則は、誰かが「理想的」と宣伝する現実のカルマをキャッチボールして、その、他人が作り上げた現実を他の人が実現する、という構造になっています。そして、それは他人のカルマですので時間が経つと効力を失うのです。

これら、カルマの押し付けの構造をまず理解する必要があります。そして、個人的なことだけならず、社会そして世界の有り様もこのカルマの法則に沿って動いています。

弥生と縄文


話は少し変わって、この種の有り様が、実は、縄文と弥生を理解する上で鍵になるかもしれないのです。縄文は受け入れ先行で、弥生は拒否が先行なのです。そうとすれば、弥生の時代の覇者が縄文を信用できない、と言った理由もわかります。一方、縄文からすれば弥生の人は図々しく感じるのです。この種の質の違いを理解すれば共生社会においてお互いのすれ違いを減らすことができる一つの要因になるかもしれません。

そして、この種の違いが、縄文のみならず現代においても白人社会とそれ以外を隔てるものとして理解の助けになるのです。

(不平等)条約によって虐げられた国や民族


かつて、あるいは今も尚、強制あるいは騙しによって条約を締結し、それを履行するあるいは条約を破った「悪」として現地の住民を「悪者」とし、自身は「正義」として世界を征服するというやり方が横行しています。昔も今も基本的にはそれは変わっていないと思います。昔は白人のやり方でしたが、今は資本主義の名の下、世界にこのようなやり方が広まっているように思うのです。

分け与える社会から、奪う社会へと変わっていってしまっているのです。そして、民族の住む場所を丸ごと奪われているのです。

実のところ、そういうやり方をして相手から搾取すると、居場所を失った側の民族の神の立案により、世界はリセットされることがあるようなのです。

どうやら、各種のタイムラインにおいて核爆弾で地球が吹き飛んだのは、不利益を被った民族の側が不平不満を訴えて、神が地球を破壊してリセットし、やり直した結果でもあるようなのです。その場合、大抵、核爆弾を使うのは白人の、特にヨーロッパの国々なわけですけど、直接的にはそれらの国が災いの種ではあるのですが、カルマを押し付けられた挙句に居場所を失った民族の方が訴えると、ヨーロッパの各国が暴発して核爆弾を使う形で地球が破壊され、リセットされる、という構図になっているようなのです。

ですから、不平等条約で他民族を虐げても、結局、不幸は自らの元へと帰ってくるわけです。

発達していた地域が突然に治安悪化する理由


この理由も、実は格差を作り出す同様の仕組みにあります。他者から搾取して豊かになった結果、搾取された側が多くなるとその土地は治安悪化し、スラム化するのです。自身が幸せになりたければ周囲を幸せにすべきなのはこのような点にも理由があります。

日本を虐げても、世界が終わるだけ


先に書きましたように、日本人の虐殺計画が上がっています。もしそれが実行された場合、2つの意味で地球は終わることになります。

1.地球全体の(平均の)波動が下がって、殺戮や略奪が多発、地域紛争が終わらなくなり、地獄絵図になる、そして最後は核爆弾により地球が終わる。
2.日本民族の神が訴えて、このような世界線は存在する価値がないと地球を管理している上位の神も納得の上で、(ヨーロッパ等の国が核爆弾を使うような形で)地球が吹き飛び、全人類が破滅する。

もし、日本人の大多数が消されるか、日本の国土が外国人によって虐げられるようなことがあれば、このような現実は早々に実現するでしょう。その場合、地球はしばらくの間、紛争に明け暮れ、聖書に書かれたアルマゲドンまでそれは続くことでしょう。そうなったとしても、聖書に書かれてあるような「救世主」は来ず、誰も助かることはないでしょう。何故ならば、ある意味、救世主たる日本人を自らの手で殺してしまったが故に、その世界線は救われることはなく、時間を遡って、やり直しになることでしょう。

その場合、もはや白人の欲望に歯止めが効かないということであれば、封印してあった「ヨーロッパが核爆弾で吹き飛んだ後の世界」、いわば「共栄圏」が太平洋沿岸にある世界線が復活するかもしれません。そうなると、多くの国において白人は優位ではなくなるのです。この可能性もそれなりにあります。

ただ、今の計画では、この世界線を救う方向に動いています。それが成功するかどうかは皆さん一人一人の心がけと行動なのです。そのためにも、支配するためのカルマの押し付け合いを止めなくてはなりません。各自が止めることはもちろん、国家単位や民族という単位においても、カルマの押し付け合いを止めなくては争いは終わらないのです。

民族によっては、「約束を守る」ことを至上としている人たちがいます。それは真面目で基本的にはよろしいのですが、相手が一旦は同意したとしても他人である以上は完全には認識が一致することはないのですから、相手に自身の都合や論理を「真面目に(皮肉です)」適用させることは本来できないのです。自分に対してそれを行うにしても、自分を騙したり行動を制限することになります。認識が足りなければどんどんと更新していけば良いものを、契約という制約に縛られてしまっている民族がいて、それは、自身の認識及びカルマを相手に背負わせる、自分のカルマの範疇での「正義」で動いている、という基本姿勢があります。それはカルマですから各自の都合があり、万物に普遍的なものにはなり得ず、そのような理屈で「正義」が一時的に生まれ、そして、やがて見方を変えればそれは正義ではなくなるのです。

ですから、「契約」ですとか「約束」を守ることは信用を得るために基本的な姿勢としつつも、認識の齟齬があるのであれば積極的にそこは不同意をすることです。それこそが「自由意志」があるということです。契約や約束をしたからといって、自分が望まない行動を強いられるというのは他人のカルマに縛られるということであり、それは、自由意志のある人間のすることではないのです。その行き着く先は(言葉ではそうは言わなくても)奴隷化が進んでいるということです。他責とし、行動の責任を取らないのだとしたら、そのような人はAIに置き換わられても仕方がないのです。

であれば、どのような社会の仕組みにするべきでしょうか。それがエルサレムで示される可能性があります。

世界の仕組みを取り替える


現在の世の中は、力のある上の存在の命令には従わなくてはならない仕組みです。それを命令ではなく、指し示す象徴とし、各自の自己判断でそれに従う、という世の中になった時にこの世界に平和が訪れるでしょう。このようなことは容易に理解できないことかもしれません。あまりにも現代は、力による支配というものに慣れきってしまっているからです。

以前にも書きましたが、エルサレムにおける3つの宗教の統合もこの原則に従わなければ成立することはないでしょう。いずれかの流派に他が従わないといけないという状況下では力による支配ということになり、それでは世界は破滅に向かうでしょう。そうではなく、統合においてはリーダーが「指し示す象徴」を示し、各自の判断で、それが良いと思う人あるいは流派はたまた宗教、国などがそれに従う、そして、各個人も同様で、国やリーダーが言うから従うというのではなくその象徴が指し示すものに同意した時に自由意志に基づいて行動、協力する、という方式になる必要があります。これはとても大きな変換です。すぐには成し得ないかもしれませんが、これがなければ世界に平和は来ないでしょう。まずエルサレムにおいてその変化が示されます。そして、世界政府がその原則を元に作られた時、世界は平和に向かうのです。

元はといえば、自身のカルマ、そのカルマとは自身のルールであるのですが、自身のルールを相手に背負わせる、という基本姿勢からこの世は狂い始めるのです。政策や条約などで、自身のカルマたるルールを相手に何がしかの方法に同意させ、そして、自身のカルマの作り出したルールに乗せてしまえば善悪もその人の判断に基づくものになります。自身のカルマですから、何が悪いのか、何が良いのか、それは全て自身のカルマが創り出します。よって、例えばアングロサクソンが条約を相手に押し付けた挙句、その条約を破ったのを見届けると「条約違反だ、それは悪だ」と名乗りをあげて、正義の名の下、世界の諸国を堂々と大義名分を掲げて侵略していったのです。それはというと最初に自身のカルマたる勝手なルールを相手に押し付けたことから始まるわけで、それは、いい迷惑なのです。迷惑どころか、それ自体が罪悪なのです。自身のカルマは自身が摘み取らなければならない、とはこの宇宙のルールです。そのように自身のカルマに他人を巻き込んで大勢の他者を不幸に陥れたり侵略した者たちには長期的な天罰が降るでしょう。実のところ、他のタイムラインではヨーロッパは自身の放った核爆弾で吹き飛んでいたりしますのでそういう意味では自業自得なのかもしれません。今回のタイムラインでも核爆弾を特殊な事情での切り札ではなく普通に使っていくというようなルールの変更を行なった国があります。それはとても危険なことで、他のタイムラインであったように地球が終了してしまう可能性が高まったわけです。カルマを持った自身が吹き飛ぶのは自業自得とも言えるのですが、それに巻き添えを食う形で地球が吹き飛び、人生が終了してしまう人がとても多く出てしまうわけです。

支配のカルマは短期的には自身を豊かにし、他者を隷属化し、他者の資源や土地を奪うことも可能にしてきました。そのカルマは一旦は相手に押し付けたものの、周り巡って、自身に返ってくるのです。そうして多くのタイムラインにおいてはヨーロッパの各地が核爆弾で吹き飛び、気候が変わるくらいならマシな方で、大規模な核爆弾が使われると50%の確率で地球の自転が変わります。世界中で大地震が観測された後、人々はまず最初に空が暗くなっていく異変に気付きます。やがて、次第に重力が弱くなりものや自身が宙に浮き始めるのです。そうして、空気が薄くなるにつれ気絶して地球の全ての生命が死に絶えるのです。

この種のカルマを解決する日が来るのでしょうか。それには、まず、自身のカルマを相手に押し付けて自身が利益を得ようとすることを各自が止める必要があります。それは個人においても、国家においてもそうです。

それは最初は理解が難しいお話かと思います。ですから、エルサレムにおける3つの宗教の統合におけるこの種のお話の理解及びルール変更が必要なのです。根底においてはカルマなのですが、そのことを話しても理解できません。ですから、あくまでも「行動」の指針として、自由意思を基本とするのです。従うのも自由意志とし、従わないのも自由意志とする。

一部の流派では神との関係は「契約」としていますが、実のところ神との関係は契約ではないため、従う必要もなければ義務も責任もないのです。それは導きだからです。従うのも従わないのも自由ですが、従わないなら大抵は不幸になるわけです。リーダーが方向を示し、良いと思えば自由意志で従うし、良くないと思うなら従わない、そして、リーダーとて時に間違うので、そういう時は従わなければ良いのです。

こうすると、リーダーは命令や力ではなく、人望や納得で人を率いる必要が出てきます。一方、各自もリーダーに盲目的に従うのではなく自分の頭で判断して従うのかどうか選択する必要が出てきます。こうすると、もはや「他責」にできないのです。今まではリーダーあるいはそう指示した人に責任を転嫁できていました。しかし、自由意志でやるもやらぬも選択できて、しかも、それが尊重されるとなると責任転嫁できなくなるのです。

気をつけなくてはならないのが、自由意志を示した途端に不利益を被るような状況です。表立っては自由意志を言いつつも、自由意志を行使したら不利益を被るような状況では自由意志を発揮できなくなることでしょう。この点にも気を付ける必要があります。それは、自由意志を建前にしているからそうなってしまうわけで、相手の操作やカルマの押し付けをするために自由意志を大義名分にしてしまう人がいるわけですけど、そういう人は、そのようなカルマの押し付けや操作が相手の自由意志を阻害していることに目を瞑り、相手の自由意志により選択したという欺瞞を主張しながら実のところ相手の自由意志を阻害しているのです。カルマを間に挟めば、自由意志が本当の自由意志なのかそれとも自由意志を大義名分とした自由意志の阻害なのかが判別できるわけです。

ですから、自由意志という説明が簡単ではあるものの、それは表面的なことであり、それよりも、カルマを基本として、自身のカルマに相手を巻き込まない、カルマの押し付けをしない、されない、ということが重要なのです。利益を餌にして自由意志を建前に他人を従わせるというのは結局はカルマに引き込もうとしているということです。それが悪人のすることです。自身の選択として関わるというのは自由意志でありますが、その大前提として、他人の悪いカルマを引き受けない、ということです。

人々が、選択的に調和のカルマを作り出し、調和のカルマに協力するようになればこの世界はあっという間に平和になることでしょう。一方、人々が、他者を隷属させるために自身のカルマを相手に押し付けて(自由意志を大義名分としつつ)操作しようとするのであればこの世界は地獄になるわけです。今の世の中は全てが100%どちらということはないにせよ、後者が多いのではないですか。

ですから、ある意味、「拒否」が先行する人の方がこの世界では生きやすいのかもしれません。それはワンネスとは遠い生き方ではありますが、他者のカルマに巻き込まれないという意味においてはこの世界をうまく生きていける人である可能性があります。

一方、ワンネスになればなるほど他者を受容するようになり、そうなると、他者のカルマに巻き込まれてしまうのです。

とは言いましても、実は、カルマに巻き込まれるのは過渡的なもので、ある程度になるとカルマに巻き込まれることも激減します。それは波動の法則だからです。そのこともまた語りましょう。

とりあえずここでは、受け入れと拒否、それらが巻き起こすカルマの連鎖について言及することで十分かと思います。