何もしないで与えられるという縄文の教えの虚構

2025-12-09公開 (2025-11-03 記)
トピックスピリチュアル

何もしない、という主張において顕著なのは縄文の教えです。

人の営みや世界の平和とは人の努力によって作られるものです。勝手にそうなるわけではありません。

縄文の文句で言うように「何もせずとも与えられる」などは絵空事です。

  • それは形を変えたファイヤー願望
  • 縄文は神様的な調和ではなく、むしろ神様を排除して自分勝手にしたいという人間の欲望が素直に実現される世界
  • それはある意味、美しい力の論理の世界
  • 絶対的な強者に対し大勢が平等であるという社会が縄文
  • 辛く苦しい狩猟生活を紛らわすために支配者が考え出した「何もせずとも与えられる」という、実態とは全く逆の虚構
  • 当時に支配者階級だった人が思い出を語り、「何もせずとも与えられた」という生活を懐かしむ傾向
  • 全ての人が「何もせずとも暮らせる」という現実は永遠に来ない
  • 支配者により「既に何もせずとも与えられている」という虚構を信じ込むよう同調圧力のある社会
  • カリスマが率い、従順で「与える側」を作り出し、支配者に尽くさせる
  • 歪んだ形の「引き寄せの法則」にて他者から同意の上で暗黙のうちに搾取する構図
  • ある意味、皆がそれなりの役割を果たしていた社会(それは今と変わらない)
  • 昔は人口も少なく少人数で離れたコミュニティがお互いに接触がなかった故に可能だったことは人口が増えた今では不可能
  • 人口が少なく自然が多かった時に可能だった狩猟生活は今では不可能
  • 今の狩猟生活とは、一般の大勢の人を奴隷と見立てて一部の人が搾取する構図
  • 縄文が平和かのように語られるが、実際は、力による支配の原点が縄文
  • 貴族と奴隷の社会の原型が縄文
  • 小賢しいことがなく素直に力による支配のあった時代
  • かつての素直な力による支配を小賢しい論理で復活させようとしている意図
スピリチュアルやカルトで、何もせずともそうなるかのように喧伝されミスリードされ、そして何もしないことが正当化されたりしていますが、実際には、誰がしかが行動しなければ何も変わらず、世界は破滅へと向かうのです。行動が必要になります。

それは無責任なスピリチュアル論者による「リーダーがいない、自由な社会になる」「何もしなくていい」というマウンティングとは真逆です。一部のスピリチュアル論者が世の中を揶揄してからかったり、人々を導こうとしているリーダーに対して言説で足を引っ張り、他者の行動を抑制し、言葉巧みに自分の立場を上に置きたがり、現実を変えようと行動している他者に対して上から目線で見て自分は「そんなことしないでもいつか望みの生活は実現する」と信じて行動しない人には受け入れ難いことかもしれません。

最近流行の縄文の考えで、全ては自然が与えてくれる、みたいなお話がありますが、それが可能なのは人口に対して自然が多くあるとき、或いは、人口がとても減って自然が相対的に増えた時です。縄文を肯定することは、遠回しに自身が人口削減を肯定(口や頭では否定していても)していることに気がついていない場合すらあります。イメージや観念によって「自然が多くて人が少ない、何もしなくても与えられる」という社会を夢見て求めた時、その場合、地球の資源や土地は有限ですから、人口減にならなければその世界はやってこないのです。そのことを棚に上げて、人口は増えるけれども縄文のように自然が全て与えてくれるというように、永久に来ない現実を夢見て楽しく想像しているのが昨今のスピリチュアルの一部に見られるお花畑な現状なわけです。それでいて口では命の大切さを説き、自身の手を汚そうとしないのです。そのように、現実を見ず、想像に頼り、きれい事を言っているスピリチュアルが横行しているからこの世界が変わらないのです。

やもすれば、縄文の教えを真に受けた人が、それが可能な土地(沖縄や南国)を奪い取ってそれを実現するかもしれないのです。そのとき、元々そこにいた人たちがどうなるのかは想像してみてください。そのように、全ての人が不可能なことを提案して幻想を抱かせ、それを実現するために誰かを行動させる、ということは、またもや戦乱を予感させます。天国な暮らしができる一部の人に独占されるのです。それよりも、全ての人が相応にそれなりに幸せに暮らせる世の中の方が良いのではないでしょうか。それは縄文のように自分の好きに生きれば良いとかいうことではなく、知恵によって人が作り出すものです。

この世界を変えるには、実質的な変化が必要なのです。

この世界が向かうべき世の中は、スピリチュアルな人が縄文の暮らしを喧伝しているように「個人が勝手に生きる」という生き方ではなく、秩序が階層となって美しく存在するあり方です。

スピリチュアルが縄文あるいは自由を語るのは、時に、間違った方向へと人を導きます。縄文であろうとも自由はないとも言えるのです。まず第一に、気候や自然という外的要因に絶対的に依存し、自由はなくなります。縄文的な生き方をするには、自然が沢山あり、気候が温暖で、そして、人間が少ない必要があります。ですが、それが不可能なのは火を見るより明らかです。人口は増え続け、自然は減っていきます。温暖な気候というものも限られています。沖縄や南国の人がいうような暮らしを他の地域ではできないことは誰が考えても明らかなのに、自身が暖かいところにいて、呑気にも他の人に同じようにすればいいと言っているだけであったりするのです。縄文的に、何不自由なく暮らすというのはこの社会では不可能だからこそ、その不可能を求めるロマンがそのような主張に結びついているのでしょう。不可能なことを主張するのは、ある種、幻滅をもたらすことで罪作りであるように思えます。それよりも現実を見させて、秩序を階層的に作ることでこの世界をよりよくすることこそが本当に必要なことではないでしょうか。

それと、縄文的な社会にリーダーがいないという誤解がありますが、ある種、誰も逆らえないリーダーがいた、ということの方が正しいように思います。ナンバー2不要論がマキャベリで語られますが、まさに、ナンバー1のみがいて、ナンバー2以下が全て平等だったがために、そのナンバー1の元、ほぼほぼ平等だった社会が縄文だったように思うのです。であれば、それは、弥生以降にそのナンバー1の絶対的な権力が現れた時と何が違うのかといえば、その勢力範囲の違いであり、大きな地域を治めるようになった弥生以降は確かに権力としては大きくなりましたが、その基本的な構造は縄文と変わっていないのです。ただ、ナンバー2のような人が縄文にはいなくて、弥生にはナンバー2がひしめき合っていて、それで、争いが起きていたわけです。そのことを認知せず、あたかも縄文にリーダーがいなかったかのような嘘を広める、というのは、よくある「自分が見たいものしか見ない」という状況ではないでしょうか。

縄文にもリーダーがいたとして、弥生にもいた。であれば、弥生以降はどうして争いがあったのかというと、結局、秩序を作る勢力(1が2−5を従える)に対して、欲望で他者を支配しようとする勢力(5が1−4を従える)もまたいて、秩序と欲望とが均衡していた、ということです。

秩序の階層が上(1)から下(2−5)であればそれは正しい支配であると言えます。一方、下(5)が上(1−4)を支配するのは間違った支配であると言えます。それは善の支配と悪の支配であるともいえ、そのような間違った秩序は改める必要があります。

そこで、権力者が堕落した時に秩序を取り戻すための争いが起きるわけです。それは正しい戦いであるとも言えます。

かといって、他者を支配するためにこの種の言い訳、大義名分を掲げる人がいますが、実のところ、地球においてはほぼほぼ皆が同じくらいの階層にいますので国や団体がこれを言い訳に他者を支配することは適切ではありません。日本人だけほんの少しだけ波動が上といえばそうですけど、だからとって他の国が納得するとは思えませんので、ひとまず、地球上においては全て同じ程度と思っておいた方が良いように思います。であれば、この種の言い訳で支配を正当化しようとする勢力はどこか欺瞞を抱えていることが多いように思います。そうは言いましても、適切なリーダーというものはいるものです。小賢しい、大義名分を掲げた人のことではなく、本当に秩序の階層というものがあるわけです。

力により、下(5)の圧力に屈して上(1)の階層が権力を譲るということも過去には多々行われました。ですが、それは間違った秩序(5)を世に広めるということで、行うべきではありませんでした。それは反省点としてあります。時代において、あたかも、力こそが正義であるかのように誤って語られることがありました。そして、その時の弱い権力者(1)の苦悩も見て取れます。

物事は、割とシンプルなのです。道理を知った権力者(1)が支配すれば良い、という、ただそれだけなのです。道理を知った方が治めるのでれば、道理を知らない者(5)はある程度は納得するのです。道理を知らない者は力で訴えてきますから、それを退けるための力も必要です。ですが、基本的には道理を知った者が国を治めるのが良いのです。

それが実現できるのであれば必ずしも民主主義である必要はないのですが、今のところ、この基本を押さえているという範囲においては民主主義は良い制度として肯定されています。

独裁者の一族が権力を掌握し続けるより、よりよき秩序を新たに提案できる民主主義の方が、ある意味、長期的には優れているとも言えます。初代の独裁者は往々にして優秀だったりしますが、歴代の一族が必ずしも優秀とは限りません。それよりも民主主義の方が大勢から優秀な人を選ぶことができます。民主主義は完璧ではないにせよ、選挙により、人々が将来を選ぶ、という責任を持つことになり、そのことで、様々な意味において優秀な人が選ばれる可能性が増えるのです。この辺りは、割と選択肢があり、この地上の仕組みが何であるのかはそこまで固定観念で考える必要がなくて、結果としてきちんと道徳と倫理によって統治されているかどうかの点が問われます。独裁者の善政であっても構わないのです。又、民主主義による善政でももちろん良いのです。

民主主義では口の上手い・ずる賢い人が選出されてしまう危険性がありますが、権力を悪用されないために、以前にも書きましたが、「政策・マニフェストで宣言したことを実現する(それ以外のことを好き勝手に行わない)」という基本を守ることも重要です。今の政治は「言葉」もそれなりに重視されますが、基本はやはり「人」に信任する民主主義の政治形態になっています。それを、より「言葉」を重視する方に動かす必要があるのです。

聖書に言われているように「最初に光、あるいは、言葉があった」というのが全てのことの始まりの真実であり、政治であれば「最初に言う言葉」、それは立候補した時に掲げる政策・マニフェストこそがその光(言葉)であるわけです。それに忠実になることこそが今後は必要になります。言葉にはとても大きな意味と力が込められているのです。

そのように、基本的な型として、支配の構造は必要で、道徳を知る者が上に立つ。そして言葉は「最初の光」とみなし、最初の言葉に忠実に実行する。

このような世の中になれば世界は平和になり、紛争はなくなっていくでしょう。


縄文の本質は「有り様」であって、階層構造ではありません。

ですが、縄文などが言う「自由に生きる」という点だけを切り抜いて「縄文のように、与えられたものを受け取るだけ、自由に生きる」という点を重視している人たちが一定数います。確かに縄文のように温暖な気候で、自然に対して人間が少ないという状況ではそれも可能だったでしょう。しかし現代ではそれが不可能なのは明らかです。

縄文のポイント
A. 有り様   これは学ぶべき点(ただし人による)
B. 自然から与えられたものを受け取って生きる   これは現代では限定的。これを追求すると貴族と奴隷の社会および良い土地を奪うための争いおよび他者の隷属化を正当化することに繋がる。よって、これは現代では不可能なことを言っているにも関わらず多くのスピリチュアルはこれをも重要な点として重視している。

思うに、縄文と言った時、上記の2つのポイントに対して、主張の組み合わせがあると思うのです。
・Aのみ
・Bのみ
・AとBの両方

どうやら、Aのみという主張は少ないようです。ですが、私が思うに、Aの主張のみが縄文から学べる点だと思うのです。Bを全員が実現するのは現代において不可能であるように思います。Bの現代版は貴族と奴隷の社会です。

現代において自然から与えられるだけで生きるという生き方が不可能なのは明らかでありますから、Bとして縄文を現代に復活させるならば、それを実現するとなると、何をしないでも与えられる身分のいわゆる貴族がいて、それを支える大勢の奴隷、という構造になります。実際、縄文のように全てが与えられると主張している とあるカルトは一般の人々を「下界の人たち」「(元気な)奴隷」と揶揄して自身はロイヤルだとマウンティングしています。そのカルトはAのような「有り様」については煌びやかな型にはまった様相をする風潮があり、姿は縄文的ではないのに、縄文のBの部分だけ切り抜いて主張しているのです。そのような、貴族と奴隷という構造が現代におけるB的な縄文の行き着く先ではないかと思うのです。全員がそれなりに豊かに幸せに暮らすという発想ではなく、選ばれた人たちがその他の奴隷に支えられるという構造がB的な縄文だとしたら、いくら夢見たところで全員が幸せになることはないのです。何故なら、自身が与えられるだけだとしたら、一体、それを与えてくれる人はどこにいるというのでしょうか。お互いに与え合って支えるのではなく一方的にもらうだけで、何をしないでも与えられる、と言っている縄文の考えは、それはつまりは貴族と奴隷の社会ということなのに、その構造に目を瞑って都合の良い面だけを見てしまっているだけ、あるいは、上記のように他者に対してマウンティングして自身の立場を上に置いて喜んでいるだけのように思います。なんてつまらない人たちなのでしょうか。構造に目を瞑り、きれい事を言っている人がそれなりにいるのです。

植物だって、ほおっておけば勝手に生えるというものもあるにしても、多くは手入れが必要です。その手入れは誰がするというのでしょうか。そもそも土地だって必要です。放置するだけで食物を育てるとなると全員がその広大な土地を確保できないのは明らかです。縄文のように手入れせずに放置するなら敷地面積に対する収穫量は現代に比べて少なくなりますから、収穫量を確保するためには広大な土地が必要になります。B的な主張は破綻しているのに、見たいところしか見ていないのです。可能なのはA的な部分のみです。B的な自由ではなく、限られた土地を有効活用して作物を育てるには某かの管理が必要になるのは当然のことです。しかしB的な主張をする人はそこに目を瞑るのです。酷い場合は、奴隷がやってくれるから良い、と思っていたりします。そして、奴隷に対して「貴方も(私のように)すれば良いじゃない」と言うのです。そこには分離があります。

誰もこの構造に気付かず、誰かが「何もしないでも与えられる生活」を望み、そしてそれを周囲が許容したならば、かつてのように貴族と奴隷という社会構造が実現かつ持続することでしょう。それは縄文の時代にあった指導者層がかつてそうだったように、一部の人だけが働かなくても良い状態になるでしょう。いわば、多くの一般庶民の労働に支えられた貴族生活の再現となるでしょう。縄文においてはそこまで煌びやかでもなく貴族というわけでもなかったとはいえ、支配者層としての構造は現代において貴族という形で再現するのです。多くの一般庶民はそのことの無頓着で、呑気に自分もいつかはそうなれると思ってその種の方針に同意したとして、社会のコンセンサスが得られたが最後、貴族と奴隷という社会構造が固定化するのです。そうなれば、庶民は与える側として労働に従事することになり、求めていて約束されていた筈の「働くことなく得られるだけの社会」が永久に来ることのないことを知ったその現実を目の前に、絶望することでしょう。一部の人だけがそのように何もしないでも暮らせる社会になり、そして多くの人々は裏切られたと思いつつも、いつの間にか出来上がっている絶対的な壁をやがて発見し、取り返しのつかないことをしてしまったと後で気付いて絶望することでしょう。ですが、いつしか諦め、絶望し、と同時に、庶民の絶望は誤魔化され、目をそらされ、やがて、もはやその貴族と奴隷という階層構造のある状況に対して疑問を抱くこともなくなることでしょう。このことに気付かずに人々が安易に同意してしまった場合、そのようになることでしょう。ですから、安易な甘いお話に同意しないことが肝心です。

かつて共栄圏のタイムラインであったように、人々が欺瞞のうちに他者を奴隷化しつつもそれを良いこととして肯定した時、神様はその社会の存続を許さなくなるでしょう。その時、世界は破滅するか、タイムラインを遡ってやり直すことになるのです。かつてあった破棄されたタイムラインのような惨劇が繰り返されるのです。神様がそのような欺瞞の社会を許すことはないでしょう。そのまま許してしまったら問題は広がり、後生に遺恨を残します。それ故に、世界をリセットしてやり直す必要があるのです。神様はその判断をかつて何度もしてきました。社会に奴隷が階層として固定化されてしまった時、その社会の存続は許されなくなるのです。

そもそも縄文においては全ての人が自由と思いつつも実は隷属化されているという見方もできて、その生き方はほぼほぼ固定化されており、そこに自由はなかったと言えます。ですが何故か縄文を語る人たちは自由を語るのです。個の生き方において自由がなかった状態で、確かにそこに「有り様」としての自由はあったものの、それすらも縄文の人たちの生活様式の中に制限されるのです。それが、縄文の本質がA的であるということです。そのようなことであれば、何も、社会の構造として貴族と奴隷を作り出す必要はないのに、何故か、縄文を語る人たちは本来の「有り様」の方ではなく、B的な「与えられて生きる」という方を明確的あるいは暗黙的に語るのです。その構造に気がつかなければ、縄文と言う時、それは絶対的な階層化社会を指しているかもしれないのです。それを縄文と言ってオブラートに包んでいるだけかもしれないのです。

そもそも、考えてもみてください。縄文の時代に狩りをしていたということは、要は現代で言うところのマタギのようなことをしていたということです。それは重労働なことに間違いないでしょう。現代のように銃もなく、弓で獲物を仕留めるのは相当大変だった筈です。明治時代までのアイヌを見れば、彼らは相当に訓練された狩猟民であったことは確かです。それなのに何故か縄文というと「何もせずに与えられる」と言って、それを聞くスピリチュアル好きな人々は往々にして素直に信じ込んでしまうのです。重労働な上、狩りで獲物が捕れなければ何も食べられない苦しい状況だった筈です。豊作な年もあればそうでない年もあったでしょう。それなのに何故か、「縄文では何もしないでも自然が与えてくれた」という虚構を信じてしまう人が一定数いるのです。

実のところ、そのようなことを最初に言い出した人は往々にして縄文の時代に指導者として生きており、自身は狩りには行かず、縄文における「村の長」として、文字通り「何もしない」生活をしていたこともあるようで、そのような人であれば確かに「何もしないで暮らせた縄文」を懐かしく思うことでしょう。もちろん、それを支えたのは大勢の一般庶民であり、村の長が何もしないでも良かった生活を支えていたのです。そのような思い出話を懐かしく聞くこともたまにはいいでしょうが、全ての人がそのような暮らしが出来るわけもありません。

それは現代に当てはめるとすれば貴族と奴隷の関係のことではないでしょうか。そのような階層構造を、縄文とかオブラートに言って復活させようとしている人が一定数いるのです。当人はその構造に自覚がある場合もあれば自覚がない場合もあり、時に頭が悪いだけかもしれなくて悪気はないのかもしれませんが、何もしないで良い状況を支えるのは一般大衆あるいは奴隷であるわけです。最初は、自身が王あるいは村の長として復活するためにそのように言い始めた状況だったように思うのです。それが、縄文という主張が広がるにつれて、訳分からない状況になっていったのです。元を辿ればそれは明確で、村の長とその他一般、という、支配者層と一般庶民という、現代と何ら変わらない構造であったと言えます。その規模が、弥生やその後に比べると単に小さくて権力も小さかったというだけで、構造それ自体は縄文も弥生もそうは変わらないのです。縄文の頃は規模が小さいが故に関係が密で情のようなものや家族的という感覚が備わっていたものの、弥生以降に規模が大きくなれば関係は疎になるわけです。であれば、縄文の頃の構造は、その後に来る、貴族と奴隷という構造のひな形であったと言えますし、その一方で、家族的な国家というひな形にもなり得たわけです。そのどちらにしても階層があり、縄文の人が主張するような「平等な社会」ではなかったと言えます。そこでいう平等とはあくまでも「庶民の平等」ということであり、階層構造はあったのです。縄文を語る人は構造に無頓着で、全ての人が平等と言ったりしますが、実際は、階層があったといえます。一方で、確かに縄文的なところは家族的な社会へのヒントもありますが、構造としては階層的になっていて、支配者層がいたわけです。

その関係が、村の長が倫理観と知恵と道徳に優れた者であればその構造は肯定されます。一方、力で押さえつけていたのであればそれは支配ということであり不調和を生み出します。そのどちらも縄文に存在していたように思うのです。前者は正しい統治の有り様で正しいですが、後者のような支配は間違ったあり方で貴族と奴隷を生み出します。そのような貴族と奴隷の階層ではなく、3つのグナの基本に基づいた、常識と道理を知った者が導くという構造にならなければ、いくら口で縄文を語っていたとしてもその階層は貴族と奴隷という構造に成り下がることでしょう。そこは気をつけなくてはならない点です。

縄文の人が言う平等とは庶民の平等であり支配者層が楽をして何もしないで暮らせる社会を目標としている場合が一定数あるわけです。

ところで、縄文のことがスピリチュアルで話題になる遥か以前から、私自身のことなのか誰のことなのかは分かりませんが私は縄文時代の生の記憶を持っていて、時折思い出すことがありました。それを辿ってみることにしましょう。

私が見たところ、縄文の人々はとても強欲でした。当時から女性は一応は優しかったと言えますが強欲でした。男性は荒々しく物欲及び女性を手に入れるためには暴力及び圧力を持って他人に接していました。その時代に倫理や哲学というものを語ったとしても、ほぼ99%の人々はそのようなものに興味はなく、日々の生活に必要なことしか興味がなかったようです。女性は「戦う男性」に惹かれ、「戦わない男性」に対して憤りを覚えるか弱いものとして軽蔑しました。よって、男性は直接的に力をふるい、女性は男性に争わせることで利益を享受する立場となり、女性は間接的に力を振るうとも言え、女性も結局は力を肯定しているのが縄文だったように思います。それが悪いとは言いませんが、縄文は力による支配の時代だったということです。男性も女性も強欲な時代だったと言えます。

見たところ、縄文の強欲な有り様は現代においても5%から10%は未だ残っているように思うのです。それに、程度として当時ほどではないものの基本的なこのようなあり方は現代とそこまで違わず、縄文の人が、スピリチュアルな人が縄文を取り立てて語る時のように現代と特段に違うようには見受けられません。

遥か昔、どうやら神様はそんな原始的な縄文の時代にも人々を教化しようと分霊(男性)を遣わしたことがあるようです。しかし縄文の単純な社会においては精神的な話は理解されず、男性には強面で圧力を受け、精神的な話をしても「そんなことが何の生活の役に立つのか」と軽視され、女性の方はというと最初は柔らかなその分霊に興味を抱いたものの、やがて強い男性が現れてその分霊を脅迫するかのようにして女性を奪おうとした時、その女性は手のひら返しでその強い男性の方についたのでした。男性にしても強さを求め、目の前のことにしか興味はなく、女性にしても強いものになびく。そのような社会が縄文だったようです。

そんなこともあってか、縄文の世界のことを一旦は神様は見捨てました。「このような原始的で強欲な、力が全てである世界にどのような倫理を語っても無駄である」と思い、時代を下り、ある程度の文明ができるまで待ったのです。と言いますか神様は時空間を越えられますから実際には待ったというよりは飛び越えて先の時代に進んだということです。そのように、縄文の時代は神様から見捨てられるくらいであり、獣のような人間が支配する時代だったのです。

他に、神を自称する存在はいたかもしれませんが、少なくとも私が知っている神はいなかったようです。もちろん時空を超えて存在する普遍的神は常にいつでも存在しますし天使は時空を超えられますのでその時もいたと言えると言えばそうですが、縄文(および石器時代)に神様は積極的に関与することはなかったようです。

縄文に対する(とある)神様の理解及び関与としてはそのようなものだったようです。

そのように、縄文のかなりの時期において、神様の接触はなかったと言えます。ですから、縄文の世界を懐かしむということは、神様に干渉されずに自由気ままに欲望のまま生きたいという願いがあり、かつてそれが実現できていた時代を懐かしがっている可能性すらあるのです。

「あぁ、縄文の時代はうるさいことを言う神様がいなくて、俺たちは自由に生きられた。あの時代へと戻りたい」

縄文を賛美している人を見る時、まるでそう言っているかのように聞こえる時すらあります。

神様と人間の対立があって、好き勝手に生きたい人間の願望が「縄文」と言う「自由な社会」を望んでいるとすら言えるのです。スピリチュアルというと何でもかんでも神様の意向があるかのようにイメージされるかもしれませんけど、ここ、「縄文」というときは神様の意向というよりは人間の意向であり、それは欲望であるのです。

縄文は平和な世界というよりはむしろ、人間の欲望が素直に表現された世界だったと言えます。当時の人間は、まるで獣のように素直な欲望が実現されており、現代における熊さんが荒々しくも強くて堂々としていて美しいように、縄文の人間も欲望に素直で荒々しく強く美しかったのです。熊さんを見ると、どこか縄文と被って見えるのです。もちろん縄文の方は言葉を喋りますので余程人間的だったとはいえ、荒々しさと強さ、そして欲望に素直であるという美しさという点においては熊さんに通じるものがあるのです。

ということであれば、程度は違えども、欲望という点において基本的な有り様は現代とそこまで違わないのではないでしょうか。現代においては教育がなされており、文化に対する理解がそれなりに広がっているものの、教養のない一部の人は強欲かつ近くで目に見えるものにしか興味がなく、現代においても本当の縄文のように野蛮で低俗で物欲に塗れた人もそれなりにいるように思うのです。縄文より現代の方が余程小賢しくて汚く、欲望に素直という意味においては縄文を学ぶべき人もいるかもしれません。そして、強いものを好むという基本的な男と女の有り様は現代においても変わらず、縄文時代からそのままだったように思うのです。それのどこが「これから目指すべき社会」なのでしょうか? 実態と照らし合わせてみると、縄文を賛美している人が意外に多くいるのがとても不思議なのです。

ですから、最近になって呑気にも「縄文を復活させる」だとか「争いのなかった縄文時代」というフレーズがスピリチュアルに出てきて、私は一体これはどうしたものかと思ったものです。実態とかなり乖離しているのです。縄文という言葉が、実態を知らずして単に人々が惹かれるものとしてマーケティングの手段として用いられただけであればそこまで害はないと言えますが、本当にそのような状態だったかのように語られるとなかなか困惑してしまうのです。

縄文が力による支配システムだとすれば、縄文とは、それを煽る一部の人が利益を享受せんがために他の大多数を「庶民としての平等」に押し留めるシステムを意味するのです。

であれば、まるでそれは誰かが「私は縄文で何もせずに暮らすから、あなたたち庶民は私の生活を支えなさい」と言っているかのようです。その主張はというと、強い「村の長」の周囲にいる人から聞こえてくるかのようです。村の長の綺麗どころの奥さん、はたまたその取り巻きたちが何もせずとも楽しく暮らしていた、その思い出のある人たちが、その楽な時代と立場を再現させたいと目論んでいるかのように見えるのです。他者を縄文でマウンティングして他人を下に見る時、その仮想の立場はというと村の一般大衆であり、自身の特権階級を支えてくれる人として他人を下に見ている時があるのです。そのようなイメージが時々見えることがあります、縄文というとき、それは、特権階級に回帰したいという欲望を含んでいるのです。縄文を語る人の思考の中に、その支配欲が見える時があるのです。

それは、歪んだ形の「引き寄せの法則」であるとも言えます。そのように、働かなくても良い生活を望んだ時、それを実現するために、必要なものや人を引き寄せるのです。そして、そのような生活を支えるために「尽くす人」「働く人」が現れて、願望が強い場合は実際にそうなることがあるのです。その時、引き寄せられる側は意識が盲目で目覚めていない人です。それはいわば、操られるのです。催眠術のようなものです。そうして、夢心地の中で尽くすだけの人が現れ、それを享受する一部の人がいる、という構図になるのです。

一見すると幸せそうに見えなくもないですが、それは貴族と奴隷の生活です。

と言いますか、尽くす奴隷側の人にはさほどの魂がこもっておらず、操られ、まるで機械のように動いているだけだったりします。奴隷とは割とそのようなものです。

問い正したいのは、「そのような生活で、本当に貴方(貴族)は幸せなのですか?」ということです。支配欲に溢れていて、それをオブラートに貴族やらロイヤルとかいう姿形で誤魔化したいだけだったりはしませんか。支配欲の強い人は、もしかしたらそれでも幸せなのでしょう。

人は成長すると、自身のことだけでなく、周囲の人が生き生きとしていて幸せかどうかを自分の幸福の判断基準とします。周囲の人が奴隷ばかりで、従順で、それで何も不自由なかったとして、それが本当に幸せな生活なのか、それを問いたいわけです。

もしそれが幸せだというのであれば、貴族やロイヤルという見た目で覆い隠しているだけで奴隷や他者への征服を正当化しているに過ぎないのです。

支配のない社会を目指すのであれば、このような欺瞞な気持ちや願望も明らかにして正す必要があるわけです。

しかし、このような言葉は多くの人に届かず、概して人は自分の願望に素直ですから、このようなことを言っても一部の縄文信奉者には「何を言っているんだか」と思われるだけで見向きもされないどころか、指摘してくる人に対して馬鹿にするような態度を取ることもあるでしょう。例えば貧富の差をあげつらってゲラゲラと見下したりマウンティングして自身の立場を上に置いたりすることもあるでしょう。そして、自分が見下す対象を見つけたとばかりに喜ぶのに夢中で、このような構造に気がついていないか目を瞑っていることもあるでしょう。そのようなつまらない人たちが、「縄文のように何もしないで暮らせる生活」とか言っていい気になっているだけのこともあるのです。自分の見たいものだけを見、聞きたいことだけを聞き、せっかく指摘してくれる人に対してゲラゲラと馬鹿にしつつ「関係ないでしょ」とか言ったり傲慢にも「普通の人には自分の考えはわからない」と思ったりして遠ざける。自分の主張を変えることはなく、他者の意見も聞き入れない。言葉の面で「自由」を語り、その実は、他者の自由を奪って自分だけが自由を享受し、何か言われればその口は再度「全ての人の自由」を語って自身の本心と他者を誤魔化し、自身の享受者としての立場を守るためにマウンティングする。話が通じない。自分の考えが完全に正しいのだと盲信する元々の性質も相まって、その盲信が「縄文」という大義名分を得て拡大、誇大妄想が肥大化する。そのように傲慢な状態では、自身の欲望が満たされなければ都合の悪い状況に対して塞ぎ込み、見て見ぬふり、「無視」をするしかなくなる。欲望が満たされなければ次第にイライラし、ヒステリーになり、周囲が気遣って希望を叶えさせてあげようとすると一時的に喜び、しかしそれが満たされたら更なる願望が出てきて、次が満たされなければまたイライラ、叶えられなければ「無視」というサイクルを繰り返す。時折、偶然にも「縄文」という虚構を信じられるだけの「得られ続ける」ポジションを得ることができたら、それを決して離そうとはしない。周囲の人には人当たりよく接し、「自らは与えてもらうだけ」のお嬢様ポジションあるいは貴族のポジションを維持しようと努める。そして、それを支えるのは一般庶民であるが、与えられる者と与える者という構造に疑問を挟むことはないでしょう。得られなければ不機嫌になり、無視をして、やがて得られたら束の間の幸福を楽しむ。そのような、欲望とその実現のために一生懸命になるサイクルが「縄文」を信奉する者たちの誤った行き着く先だとしたら、それのどこが理想的な社会だというのでしょうか。今の社会とそうは変わらないのではないでしょうか。むしろ、頭が悪い分、今よりも状況は酷いのではないでしょうか。

一旦は享受者として立場が固定したら、それを放棄することはなく、使役する人たちを永久にその立場に自身を置き、「縄文のように、(自分たちだけが)何もしないで与えられる状態」を維持しようとするでしょう。これが、今、縄文という言葉でニヤニヤしながらマウンティングしてくる気持ちの悪い人たちの心の奥にある願い及び彼らの他者への見解かと思います。あまり心地の良いものではありません。「縄文のように自由で何もしないで与えられる社会」とかいうよくわからない言葉を喧伝したり惑わされる人の根底にあるものは、このようなものかと思います。そんなことは表立っては言えませんから、オブラートに隠して表現している場合が多々あるわけです。そのような意図を時々感じることがあります。

とは言いましても、8割の人は単純に無知で呑気にも縄文を信奉しているだけで、残り2割がこのような二枚舌あるいは本性を隠して言っている、はたまた実態に気がついておらず無知なだけ、そのいずれかの状況のように思います。ですから、このようなことを指摘したところで、呑気な8割に反感を食らうだけのような気が致しますので損な役回りのような気がしますが、それでも、縄文とは本来そういうものでありますので致し方なく、誰かが言わなければならないことでもあるようにも思えます。

また、縄文というと平和のことがよく言われます。

確かに、縄文の社会はせいぜい村社会で大きな勢力を築くことはありませんでした。ですから、一見すると支配もなく平和であったかのように見えるかもしれません。しかし実態はというと上に書きましたように人々は強欲で、力が強く、例えるなら昭和の強欲な強面の人々が3倍から10倍ほど更に強欲にしたようなもので、とにかく欲しいものは力で手に入れる、そのためには他者をも睨みつけたり圧力を与えたり時に暴力に出てまで屈服させ、上下関係を明らかにする、というものでした。ですから、村社会の中での力関係は存在し、力のある男性が女性を手に入れて結婚することができたのです。

そうして、そのように強欲な人が作り上げた社会が発展して弥生や現代の社会になりました。ですから、縄文は人口が少なかったために大規模な戦争はなかったものの、かといって縄文の村社会は平和な時代かというとそれは支配者層がそう思っていただけのことで、庶民は今のようにそれなりに満足であるもの働かないといけない状況であり、むしろ、実態はというと力による支配の原点だったわけです。

そのように、被支配者がそれなりに納得して支配者に仕える、という姿は、現代と変わらないように思えるのです。ですから、それが力による支配の原点だとすれば、現代とそこまで違うものでもないのです。単純に、大規模な戦争がなかったというだけで、実態はそこまで変わらないのです。

ですから、力による支配の原点がそこに存在していたといえば、お花畑のスピリチュアルの人々が言う「平和で争いのなかった縄文時代」と実態とはかなりかけ離れているのです。スピリチュアルでは縄文は現代とかけ離れた、現代とは「乖離」「断絶」のある理想的な縄文の社会が語られますが、実際はというと、現代の社会の(争いの)原点が縄文にあったわけです。

戦争とは政治家や資本家の策略だけで起こるわけではなく、基本は、国民同士の反感の感情が高まって国が国民感情を抑えられなくなって戦争へと至るのです。誰かが戦争を煽ることはあったとしても、基本は、個人の感情のもつれや反感の感情が戦争を生み出すのです。ですから、後者のような意味において、縄文の時代に人々の間の争いの感情があったと言うのは、戦争の種は既に縄文時代に蒔かれていたと言えるのです。これは紛れもない事実です。この点を抜きにして、呑気にも「縄文は争いのない平和の時代だった」などとお花畑のスピリチュアルを言うのは現実から乖離しているばかりかミスリードであり、自身の有り様をエゴが肯定している、自己防御している状態であるようにも思えるのです。力による支配という実態をオブラートに覆い隠そうというエゴの自己防衛により縄文を持ち出してありもしない現実を想像している人もいるように思われるのです。

ですから、縄文というとき、よくわからないお話になるのです。当人の想像とエゴの自己防御という状況が他者にも共通項としてあったときにそのフレーズは共感を生みますが、多くの場合、縄文という言葉は本質を含まないのです。

ただ、実態がそうであったとしても、一応言えることは、縄文の時代は他者を(直接的に制度として)奴隷化すると言うことはあまりなかったように思うのです。一応は自分でできることは自分でして、それでいて、他者に対しては強硬な態度で臨んだのです。ですから、そういう面を抜き出してみれば確かに縄文の時代に奴隷はなかったと言えなくもないですし、苦しいことも楽しいことも皆同じと言えばそうでしたからある意味平等で、村の長のような人がいて共同作業にあたることもありました。よって、奴隷という意味ではそうではなかったものの、何もしないで暮らせるような時代では到底なかったと言えます。大勢の一般人は奴隷というわけでもないのですが何もせずに何かが与えられるわけではもちろんなく、各自の役割はあり、村の長は指示する立場でした。

ただ単に、ものの見方が違うだけで、構造は「役割」で分けられていたと言えます。これのどこが「何もせずとも与えられる」縄文の社会なのでしょうか。単に、大変な重労働を村の全員で役割分担して行っているだけではないでしょうか。水にしても汲みに行くのも大変で、雨もあったでしょう、日照りの日もあったでしょう。皆が大変だったのですから、「何もせずとも与えられる」という虚構を村の人々が信じる必要があった、と言えるかもしれません。むしろそのような方が真実であるように思います。とても大変だったからこそ、「何もしないでも与えてくれる」という虚構を縄文の人は信じる必要があったのです。

村の長は豊作の時は何もせずとも暮らせていたように思います。村の長は集団の存続を任されており、一応は多少の考慮も必要だったようです。ですから、縄文の時代はそれなりに苦しい時代だったとも言えます。一方、現代において縄文を語るとき、苦しい部分には目を向けず、見たいところだけ見ているようなのです。

指導者・支配者はいつの世も、庶民の不満を紛らわせたり目を逸らせたりするために言説を使います。ここ縄文でも、人々の重労働を受け入れさせるため、目を逸らすためにそのような言葉を使ったとする仮説はそれなりに真実味を帯びます。

時に、「縄文は温暖だったから森が豊かだった」というようなお話を聞きますけど、実態としてはどうだったかというと、そこは、多少そういうことはあったとはいえ、そこまで主要なお話ではなかったように思います。それよりは、人口が増えたことにより按分が減った、ということが大きいように思います。

それに、縄文あるいは某かのイデオロギーが語られる時、多くの場合、そのような社会で実際に生を経験した魂が、その経験に引きずられて喋っていることも多いのです。思い出を語り、良い面を語るのです。ですが、それは、その環境において可能だったことであり、現代においてその多くは実現可能ではないのです。それにも関わらず、現代において不可能なことをまるで可能なように語るのです。それは無責任ということです。時に、自信満々に、他者を見下すような形でそれが語られることがあります。それは多々原因がありますが、多くの場合、無知で、現代の社会に対して適応できていないが故に自尊心を満足させるために他者を見下すのです。そのような人に真剣に付き合っても、現実が変わることはないでしょう。単に、誰かの利益のために散々振り回されるだけです。夢を見た挙げ句、その夢の社会は永遠に来ないのです。何故なら縄文のように自然が多く人が少ないという社会は少なくとも今世では「全ての人がそうなる」のはあり得ないわけです。一部の人がそういう状況になることはもちろん可能で、自分のことだけが目的であるというのならば好きにすれば良いでしょう。聞く側は「多くの人、全ての人がそのような生活が出来る社会になる」ことを夢見る一方で、語る方は無責任にも「一部の人、そうなりたい人だけがそうすればよい」として語るのです。そこに認識のギャップがあります。多くの人が、自分だけが楽をすれば良いと考えるのです。その行き着く先は貴族と奴隷の社会です。そこに美しい未来があるのでしょうか。

そのような、「働かなくても全ては与えられる」という貴族と奴隷の社会より、万人が相応に働く社会で、多くの人が中級、という状況の方が幸せではないでしょうか。スピリチュアルで「全ては与えられる縄文」という思想は、あたかも自然と一体化した調和であるかのようなオブラートな表現をしつつも、その実体は、「金持ち父さん」に代表されるようなファイヤー的な「早期リタイヤ」の願望が形を変えて表現されているだけに過ぎないのです。お金を稼ぐためのセミナーに参加した挙げ句、高額セミナー代だけ消えて何もならない人が大勢いるような状況と同じく、縄文になって働かなくなることを夢見て高額セミナーに参加し、スピリチュアル講師が何やら良いことを語るのを聞いて自身も良い気持ちになるものの、結局、自分の普段の生活は元通り、という、夢と現実の間を彷徨う羽目になるのです。そのように、永遠に実現しない夢を語る縄文やスピリチュアル講師は自身は搾取する側に回っているので安泰ですが、それを支える多くのファン層は永久に生活が楽にならないのです。そのような、夢を語って一部だけが栄える、という社会は、歪んだ状況を生み出します。

「何もせずとも与えられる」という号令の元、その活動に賛同して参加したが最後、その実は労務が山のように降ってくる状態に置かれ、更には、その労務を「喜んで朗らかに受け入れる」ということを周囲から強要され、そうしなければ「貴方はわかっていない」として村八分になるかマウンティングの対象はたまた「下級市民」として扱われるようになるでしょう。その一方で、一部の人が利益を享受して文字通り「何もせずとも与えられる」貴族層が発生し、そのように他人を「永久の労働者」として押し留めるために様々な言説及び無言の圧力を行うようになるでしょう。それは、まるで現代のNPOやNGOはたまた環境活動家が何某かの綺麗事を掲げつつ実のところ「やりがい搾取」をしているだけな状況に似ています。客観的に見ればただ単に労働しているだけなのに、永久に自分の順番は来ないかもしれない「与えられるだけの生活」を夢見て労働に従事し、やがては幻滅するのです。環境活動やNPO・NGOに関わった人がやがて現実を見て我に返り離れてゆく様を、ここ「縄文」でも見ることになるのです。

いつの世も、煽るものがいて、利益を享受する人がいて、そして、騙される人がいるのです。喜んで参加するという建前の元、しばらく「夢を見て」労働に従事した挙句、幻滅して離れてゆくのです。それが「縄文」の行き着く先かと思います。

それよりも、各自が、やるべきことをやり、相応に他者に貢献する、という、普通の社会の方が健全ではないでしょうか。そこでは「何もせずとも与えられる」ということはないですが、各自が行うべきことをして、役割を持ち、生きがいを持って生きることになるのです。

スピリチュアルの「楽をする」というお話は、結局、ファイヤー願望でしかないことも多いのです。そこに、スピリチュアルの本質はないと言えます。そのような願望や夢を語る人に付き合っても、ただ単に搾取されるだけです。時間もお金も無駄にすることになります。良い宣伝文句を語り、高額セミナーをしているカルトやスピリチュアルリーダーは大勢います。自身は高額セミナーの受講料に支えられて良い生活を送ることもできるかもしれませんが、受講した人の多くは同じような状況にはならないわけです。そのような講師は、状況をわかってやっているのであれば悪者ですし、わかっていなくてやっているのであればただの愚か者です。そのような人が言う煌びやかな夢を信じるなど愚か者がすることではないでしょうか。

更には、先に述べたように、何かを大義名分にして支配してくる存在にも気をつけないといけません。

縄文で家族的と言われれば、一定数の人は「そうかなあ」と思って納得してしまうかもしれません。ですがその構造が実は貴族と奴隷の階層を暗に前提としているのであれば、そのような小賢しい大義名分で他者を操り利益を享受しようとしてくる人たちには気をつけなくてはなりません。そう言っている人が本当に道徳的で行動も適切であれば言葉と行動が一致していますが、言葉だけ良いことを言って行動が備わっていない人であればそれは他人の奴隷が欲しいだけということになりますから騙されないようにしなくてはなりません。実際はそう分かりやすいことだけではなくて「地獄への道は善意で満ちている」と言われているように、小賢しい人の手口は巧妙ですから、見抜くには相応の人生経験が必要です。

それらを踏まえた上で、本当に皆が自由に選択した上で階層化するような社会になれば、世界に平和が訪れるでしょう。それは割と地味なお話ではあります。頭の良さが必要です。知恵が必要です。

ですが、多くの場合、手っ取り早く稼げたり楽ができるというお話に飛びつき、昨今のスピリチュアルの多くが形を変えた情報商材や悪徳商法だということに気がつかず、時間とお金を無駄に費やしてしまうのです。

それとは別に、本当のスピリチュアルというものもあります。ですが、昨今は本物を謳いつつ高額セミナーでほんのさわりを教えて、それを生徒が有り難がって受講する、というような、ちょっとしたことを高額で教えているセミナーが目白押しです。本当の高次の教えはお金で得られるものではないのに、高額セミナーで「本当の教え」が手に入ると思い込んでいるのです。

結局、スピリチュアルの本懐とは、自身の役割を果たすことであり、役割とは仕事です。であれば、自身の仕事を一生懸命やることが一番大切なことであるわけですが、多くのスピリチュアルはそうは言っていないのです。

「仕事などしなくて良くて楽に暮らせる」ことを求めているような安易なスピリチュアルを求めているのならば、高額セミナーにお金を吸い取られて何もならず人生を終わることでしょう。あるいは、自身がセミナーをして搾取する側に回ることで大金を手に入れることもあるでしょう。悪徳商法であれば効果がなくて返金あるいはクレームということにもなりますが、スピリチュアルのセミナーは効果が感じられないこともある一方で一部は勘違いなのか本当に少しは感じるものがあるのか、一部の人が何かを感じて感想を共有することで他の人を納得させる、という構造になっています。ですから、クレームになりにくいのです。そのように、スピリチュアルのセミナーで儲け、他者を無責任にも変えたり誘導し、それを真に受けた人が馬鹿を見る、という構造が、今、多くなっているのです。

そういうところにも本物スピリチュアルというのが混ざっていますが、多くの場合は優れたスピリチュアルというのはネイティブで、結局、生まれた後に目覚めるというのはそう多くないように思うのです。と言いますのも、スピリチュアルの成長には何世代もかかるように思われるからです。

ですが、何やら「自由で働かなくても良い」というようなファイヤー思想に導かれてスピリチュアルセミナーを受け、劇的な成長がなされるという謳い文句にそそのかされ、結局、大した成長もせず、某かのカルト団体を支える資金源に成り下がる人が多いように思います。そして、お金がなければカルトに見捨てられてしまうわけです。そのような情のない状態、金の切れ目が縁の切れ目というカルトがそれなりにあるのです。スピリチュアルの罠です。

そのようなスピリチュアルの罠のことではなく、健全に働く人がいて、役割があって、階層的に成り立つ社会であれば人々が自信をもって生きられるようになるでしょう。その階層とは道徳的なものであり、納得がいくものでなくてはなりません。

であればどのような人ならば信用できるかというと、言葉と実体が一致しているかどうかを見るのです。スピリチュアルの罠として、正しいことを言いつつも実体が違う、という状況に出くわします。言葉と実体が一致しているかどうかを見抜くには人生経験が必要です。多くの場合、スピリチュアルのことで騙されてしまったりするのです。そしてスピリチュアル嫌いになる人が一定数いるのです。

多くの人が、スピリチュアルのことを楽な金儲けの手段だとしか思っていないのであれば、この世界に平和が訪れることはないでしょう。であればスピリチュアルなど忘れた方が幸せかもしれないのです。ドグマなど捨ててしまった方が楽なのです。

一方、普通に、仕事を一生懸命する方が下手にスピリチュアルに手を出すより良いのです。

単純なお話ですが、道徳に支えられてこの社会が階層化された時、この世界に平和が訪れるでしょう。

そのためには地味ではありますが各自が道徳的になることが第一に必要です。そして為政者が更にその上をいく道徳者になるとき、世界は良い方向に導かれることでしょう。今は夢物語として見えるかもしれませんが、それの雛形を目指して改革が必要になるわけです。

実のところ、枝分かれたしたタイムラインにて地球が既に破滅し、一時的に宇宙船で避難した後に地球に戻り、小さなコミュニティで復興を試みていたりします。そこでは正に縄文のような村社会ができており、自然が戻ってくれば豊かで、宇宙人からのサポートもあり、割と望み通りの生活が送れているようです。ですから、望むならそのタイムラインに転生するのもいいかもしれません。ただしその世界は人々が割と頑固で、日本において地方の田舎で頑固で話が通じない頭の悪い人がいるような状況がそこでも再現されており、割とめんどくさい状況かもしれません。それでも、縄文を求める人はそこに行くのもいいかもしれませんが人も少ない状況はまるで日本の田舎であり、そこにいる人が良い人ならいいですが変な人もいて、そういう人とずっと少人数のコミュニティで付き合うのは、まるで逃げられない田舎に暮らしているかのような状況ですので、私はあまりお勧めしません。スピリチュアル的にも勘違いした人が混ざっていて、縄文の歪んだ教えを信じていたりニューエイジやスピリチュアルの虚構を信じた上に自分は救われたとう選民思想もあったりして、なかなか厄介な状況であります。縄文を求めた先がそのような破壊と再生のタイムラインであれば、その状況で幸せだとは私は思いません。

それよりも、今のタイムラインでしっかりと世の中を良くして多様性のある状態で人生を選べた方が幸せではないでしょうか。縄文の社会で同質な暮らしをするよりもお勧めなわけですが、それは各自が選ぶことですので私がとやかくいうものでもありません。