思うに、ヨーガでサットヴァを目指そうとしている人がそれなりにいると思うのです。一方、スピリチュアルにおいても高次元を目指す、ということが行われていて、表現は違えども似たような事を言っていると思うのです。
ここで落とし穴になるのが、「カルマが種のまま残ってしまう」「カルマが発芽しない」それをサットヴァだと思い込んで勘違いしてしまうことであるように思うのです。スピリチュアルでよく語られることですが、カルマというのは環境があればそれが発芽しますが環境がなければ発芽しないということです。例えば、荒々しい性格の人が穏やかな感情の人の環境にいれば荒々しい感情が出てこなくなる、荒々しい人が大勢居る環境にいるとカルマが発芽してその人も荒々しい環境と性格になる、というようなことです。カルマというのはその環境があるからこそ発芽して現実化するわけです。これらのことは昔からニューエイジやスピリチュアルでよく説明され、それらの文脈においては「だから、環境を整えなくてはならない。良い環境にいれば悪いことが起こらない」と説明され、そのために環境整備というものが大切に思われてきました。しかし、本当にそうでしょうか。カルマが発芽するということは学びの機会が生じるということであり、環境を整えることでカルマが発現しなくなるということは学びの機会が失われてしまうということなのです。スピリチュアルやニューエイジは、一方的な主観的な判断により「カルマの発芽は悪いこと」と決めつけて、カルマの発現を回避してしまっているのです。そのことで、学びの機会が失われてしまっているのです。そして、そのことに無自覚で、盲目的に「カルマは悪いこと」と決めつけてしまっているのです。
これが、サットヴァあるいは高次元を目指す人が陥る罠であるように思えます。問題が生じる前にその問題を摘み取ってしまう、或いは、問題が生じないような環境にしてしまうのです。それにより確かにカルマは現実化しませんが、そのカルマの種は残り続けるのです。それは本当に解決と言えるのでしょうか。
ヨーガやスピリチュアルにおいてはある程度の境地になればカルマの種を(比喩で)「燃やす」ことができるようになります。それは文字通りカルマの種を発芽させずに解消してしまうことなわけですが、それには高次元のエネルギーを消費するわけです。自分がそのカルマよりも高次元になることでカルマの発芽の必要性がなくなり、そして、カルマは種のまま発芽する前に解消してしまうのです。それを比喩として「(カルマを)燃やす」などと言ったりするのです。これは自身の波動が高くなったと言うことで問題ありません。何故ならカルマが発芽する必要はもはやないからです。そういう状態になるのであれば良いのですが、まだ自信の中でカルマを解消していないのにも関わらず、カルマが発芽しないような清浄な環境を追い求める人がそれなりにいるのです。そして、自分のカルマが発芽しそうな環境を見ると「良くない環境」として否定的な見解を示すのです。それは当人にとって避けたい環境であるとしても、普遍的に良くない環境であるとは限らないのです。
そうして、往々にして、サットヴァあるいは高次元を目指そうとする人はカルマが眠っているのにも関わらずそれが発芽しないような環境を追い求めるのです。そして、少しでもカルマが発芽しそうな環境に遭遇するや否や、その環境を拒否したり、今までカルマが発芽しない環境だったものを変容させようとする人が現れると否定的な見解をするのです。その変化が良いかどうかという見地からではなく、自身のカルマが発芽しそうな環境に変容させることを極端に嫌うのです。そうして、環境を変化させる或いは乱す人に対して急にかんしゃくを起こしヒステリーになって怒鳴り散らかしたりパニックに陥ったりするのです。
これがサットヴァあるいは高次元を目指す人が陥る罠です。内なる怒りの感情を抑えきれずに爆発してしまうのです。それでいてサットヴァあるいは平穏な状態を目指すという矛盾した内面を抱えながらヨーガやスピリチュアルを追い求めるのです。これは不自然なことであると言わざるを得ません。よって、スピリチュアルの団体にはお局様のようなヒステリーな人が散見されるのです。理屈と自身の状態とが一致していない、それでいて理屈っぽくヒステリーで言葉が達者な、厄介なスピリチュアルな人を大量生産してしまうのです。これがスピリチュアルが嫌われる理由の1つになっているのです。
そうして環境を整えて「心地の良い場所を作る」などという聞こえの良い言葉で自身のカルマを発芽させたり感情を爆発させないように気をつけているというのが悲しいスピリチュアリストの姿であると言えます。そのようなことをいくら続けていても、「自分はこれだけやってきた」という自信だけがついて、それが実はエゴの強化であるのにも関わらず「自分は成長した」と思い込ませるような、スピリチュアルとは逆のエゴを強める結果に繋がってしまうのです。それがスピリチュアルの罠です。自分のエゴを極端にまで強め、それを守るために、環境の変容に対して極端に臆病になるのです。そういう人は極端にヒステリーだったりします。そして、そのヒステリーが正当なものであると自身は思い込んでいるのです。そのヒステリーと怒号はとてつもなく急に現れ爆発する性質のものですから、他の人は対処できないのです。そうしてエゴが強化されるわけです。もはや手をつけられない人も散見されます。
そのようにカルマを発芽させないように環境を維持しようと努力してエゴを強化するよりも、素直にカルマを発芽させた方が良い場合も多いのです。そのことで学ぶことができます。
スピリチュアルな場というのは多様で、そのように、カルマの発現を肯定的なものとして受け入れている場所もあります。とは言いましても、そのような場合は誤解も多く、一時的なカルマの解消があたかも恒久的な肯定として捉えられてしまうことも多々あるため、一般的にはスピリチュアルな場でそのようなことは難しいかもしれません。であれば、カルマを発芽させて学ぶために普段の生活の場の方が役に立つことが多いようにも思います。スピリチュアルな場というのは往々にして上記のような勘違いスピリチュアリストにより「良い環境=カルマが発芽しないような環境」と理解されており、そこにいる間はカルマは発芽しないが、外に出たらカルマが発芽してしまうのです。そのような環境には一時的な癒やしの効果はあっても恒久的な効果は期待できないものです。正しく理解すれば良いとしても、大勢の人が出入りするのであればなかなか正しい理解はされないものです。
聖者あるいはそれなりに悟った人がいれば場所は清浄になります。そして、その近くにいる人は穏やかな気持ちになり、どのような場所であっても気持ちを落ち着けて生活することができるようになります。ただ、最初の段階はというとカルマが発芽しないだけなのです。大抵の場合、その場所を離れればまたカルマは発芽してしまうのです。スピリチュアルな場があったとして、その中心にいるのは、それなりに悟った人ですか。それとも、愚者がカルマを避けようとして集まっているだけですか。それは似たように見えても大きな違いです。
最初は聖なる空間であっても、愚者があまり集まると混乱し、乱されてしまうのです。そのことでヒステリーになる人もいれば幻滅する人もいます。
ですが、それなりに悟った人がいる場合はその場所に宿る悟りの程度というのは普遍的なものです。そして、参集した人は何かを求めてやってきて、去った時にはまたカルマの世界へと戻っていくわけです。多くの人が基礎の悟りの部分に辿り着かない限り、いつまでも似たような勘違いは繰り替えされることでしょう。
場ということであれば、それなりの境地の方が作った場合も、勘違いによる努力で作られた場合も、どちらの場合でもスピリチュアルの初期の鍛錬にはそれなりに役に立ちます。それに、能力的に可能か不可能かというお話もありますから、相応に可能な範囲で場作りをして、それでいて勘違いしないように分相応に場作りをすれば問題は無いかと思います。