ムーラダーラに意識を合わせてもエネルギーの変化が感じられなくなる
以前はムーラダーラを意識しただけで登頂のサハスララまでエネルギーが通るような感じがありましたが、最近はサハスララの近くにまでエネルギーが満ちている状態になっておりますので、ムーラダーラを意識してもエネルギーの変化をそれほど感じられなくなりました。
ムーラダーラを意識した時はエネルギーが後頭部や鼻頭にまで上がっておりましたが、今は、エネルギーが頭頂のサハスララに届くか届かないかという感じになっていてそれより下はエネルギーが割と満ちている状態になっておりますので、わざわざムーラダーラを意識しなくてももともと普段からエネルギーが頭の方にまで満ちている状態になっています。
ですから、以前のようにエネルギーを眉間に通すためにムーラダーラを意識するという必要はなくて、それでもムーラダーラを少し意識すれば多少はエネルギーの動きを感じますけど、それほどの効果を感じなくなっている・・・ と言いますか、効果はあるとは思うのですけどもともとエネルギーが満ちているので差がそれほどなくて、よって、感覚としてはそれほど動きがないように感知されるのかなと思います。
同様に、鼻頭を意識した時にエネルギーが満ちてくる感覚にしても、もともとエネルギーがそれなりに頭のあたりに満ちている状態になっておりますので、わざわざ鼻頭を意識してエネルギーを満ちさせる必要はそれほどなくて、たぶん多少は効果があるのかなとは思いますが、感覚としてそれほど感知されなくなってきています。
これらは、鈍くなったとかいうことではなくて、単に、エネルギー差がなくなったからこのように感知されるようになったのだと解釈しています。
以前は、頭のあたりにエネルギーがそれほど上がっておりませんでしたので、例えばムーラダーラを意識するとか、鼻頭を意識するとか、あるいは、天のエネルギーを体に満たすとかする必要があったのかと思います。
今でも、天のエネルギーに関してはまだそれなりに有効かなと言う気がいたしますが以前ほどそれに頼るという感じでもなくて、天にもそれなりに通じ始めた、という感覚があります。
まだサハスララが活性化し始めたくらいですけど、こうなってくると、体の中にエネルギーが常に充満していて、エネルギーの差がなくなってくることでエネルギーワークが完成に近づいてきたといいますか、少なくともサハスララより下のエネルギー的な動きは一段落ついたのかな、と思っております。
今は割と常にサハスララの付近がじわじわとちょっとした静電気のような皮膚の感覚のようなものを感じていて、静電気というよりはエネルギーの流れなのかな、という気がしております。
これは、意識としても変化があって、程度問題ではありますけど「気づき」が今までよりも割と自動的に起こっている感じです。このあたりはおいおいまた書いていきたいと思います。
ムーラダーラを意識した時はエネルギーが後頭部や鼻頭にまで上がっておりましたが、今は、エネルギーが頭頂のサハスララに届くか届かないかという感じになっていてそれより下はエネルギーが割と満ちている状態になっておりますので、わざわざムーラダーラを意識しなくてももともと普段からエネルギーが頭の方にまで満ちている状態になっています。
ですから、以前のようにエネルギーを眉間に通すためにムーラダーラを意識するという必要はなくて、それでもムーラダーラを少し意識すれば多少はエネルギーの動きを感じますけど、それほどの効果を感じなくなっている・・・ と言いますか、効果はあるとは思うのですけどもともとエネルギーが満ちているので差がそれほどなくて、よって、感覚としてはそれほど動きがないように感知されるのかなと思います。
同様に、鼻頭を意識した時にエネルギーが満ちてくる感覚にしても、もともとエネルギーがそれなりに頭のあたりに満ちている状態になっておりますので、わざわざ鼻頭を意識してエネルギーを満ちさせる必要はそれほどなくて、たぶん多少は効果があるのかなとは思いますが、感覚としてそれほど感知されなくなってきています。
これらは、鈍くなったとかいうことではなくて、単に、エネルギー差がなくなったからこのように感知されるようになったのだと解釈しています。
以前は、頭のあたりにエネルギーがそれほど上がっておりませんでしたので、例えばムーラダーラを意識するとか、鼻頭を意識するとか、あるいは、天のエネルギーを体に満たすとかする必要があったのかと思います。
今でも、天のエネルギーに関してはまだそれなりに有効かなと言う気がいたしますが以前ほどそれに頼るという感じでもなくて、天にもそれなりに通じ始めた、という感覚があります。
まだサハスララが活性化し始めたくらいですけど、こうなってくると、体の中にエネルギーが常に充満していて、エネルギーの差がなくなってくることでエネルギーワークが完成に近づいてきたといいますか、少なくともサハスララより下のエネルギー的な動きは一段落ついたのかな、と思っております。
今は割と常にサハスララの付近がじわじわとちょっとした静電気のような皮膚の感覚のようなものを感じていて、静電気というよりはエネルギーの流れなのかな、という気がしております。
これは、意識としても変化があって、程度問題ではありますけど「気づき」が今までよりも割と自動的に起こっている感じです。このあたりはおいおいまた書いていきたいと思います。
サハスララにエネルギーが満ちると潜在意識が表に出てくる
サハスララにエネルギーが満ちると静寂の境地になり、それにより、潜在意識が表に出てきて潜在意識が「直接」自分の五感を司るようになります。
これは、流派によっては「心の本性(リクパ)とかヴィパッサナー(観察)あるいはサマーディとか言われている状態で、今までは、一時的にこの状態が現れていたように思います。特に、それなりに集中瞑想をした後に観察(ヴィパッサナー)状態になっていて、その後は、日常生活においても静寂の境地の観察状態がそれなりに続いたりしておりました。
これらは、表現方法が違うだけで全て同じことです。潜在意識が現れてくるとも言えますし、心の本性(リクパ)が出てくるとも言えますし、他も同様です。
これは程度問題といえばそうなのですが、これがより一層進んで、サハスララにエネルギーが満ちていると自然にこれらの状態が現れるようになりました。
エネルギーのお話だけしてしまえば、単にエネルギーが満ちたらこれらの状態になる、ということです。エネルギーの観点から言えば、瞑想で集中していたのはエネルギーを通してエネルギーを高めるためであって、眉間に集中することでエネルギーを集め、サハスララにまでそれなりにエネルギーが通るとその程度に応じてヴィパッサナー状態(あるいはリクパ、あるいは潜在意識が現れた状態)になっていたのかなとも思います。
今まではそれほどサハスララにエネルギーが通っていなかったのでヴィパッサナー状態もそれなりでしたけど、ここにきて、割と常時、サハスララがちょっとピリピリとする感覚がずっとするようになりましたので、そのようにサハスララに感覚がある時は五感もヴィパッサナーの観察状態になっているように思います。
それを言い換えれば「潜在意識が表に出てきている状態」と言うこともできますし、潜在意識としてではなく、自分とは違った意識として認識する人もいるかと思います。それをもしかしたらハイヤーセルフとかミドルセルフと表現する人もいるかもしれないですけど、これらの用語は人によって定義が異なっていますが、同様の意味合いで使っている人もいるかと思われます。
とは言いましても、今の時点では潜在意識がちょっと表に出てきたというくらいで、潜在意識で認識していたものを意識に長く留めておくことができず、すぐ忘れてしまう程度の認識でしかありません。
潜在意識が働いていることはよく認識できるもののそれを覚えていられないということは、潜在意識と顕在意識が少し繋がって顕在意識から潜在意識を把握することができてはいるものの、まだそれほどしっかりと繋がっていないということなのかな? という気もしております。
これは、流派によっては「心の本性(リクパ)とかヴィパッサナー(観察)あるいはサマーディとか言われている状態で、今までは、一時的にこの状態が現れていたように思います。特に、それなりに集中瞑想をした後に観察(ヴィパッサナー)状態になっていて、その後は、日常生活においても静寂の境地の観察状態がそれなりに続いたりしておりました。
これらは、表現方法が違うだけで全て同じことです。潜在意識が現れてくるとも言えますし、心の本性(リクパ)が出てくるとも言えますし、他も同様です。
これは程度問題といえばそうなのですが、これがより一層進んで、サハスララにエネルギーが満ちていると自然にこれらの状態が現れるようになりました。
エネルギーのお話だけしてしまえば、単にエネルギーが満ちたらこれらの状態になる、ということです。エネルギーの観点から言えば、瞑想で集中していたのはエネルギーを通してエネルギーを高めるためであって、眉間に集中することでエネルギーを集め、サハスララにまでそれなりにエネルギーが通るとその程度に応じてヴィパッサナー状態(あるいはリクパ、あるいは潜在意識が現れた状態)になっていたのかなとも思います。
今まではそれほどサハスララにエネルギーが通っていなかったのでヴィパッサナー状態もそれなりでしたけど、ここにきて、割と常時、サハスララがちょっとピリピリとする感覚がずっとするようになりましたので、そのようにサハスララに感覚がある時は五感もヴィパッサナーの観察状態になっているように思います。
それを言い換えれば「潜在意識が表に出てきている状態」と言うこともできますし、潜在意識としてではなく、自分とは違った意識として認識する人もいるかと思います。それをもしかしたらハイヤーセルフとかミドルセルフと表現する人もいるかもしれないですけど、これらの用語は人によって定義が異なっていますが、同様の意味合いで使っている人もいるかと思われます。
とは言いましても、今の時点では潜在意識がちょっと表に出てきたというくらいで、潜在意識で認識していたものを意識に長く留めておくことができず、すぐ忘れてしまう程度の認識でしかありません。
潜在意識が働いていることはよく認識できるもののそれを覚えていられないということは、潜在意識と顕在意識が少し繋がって顕在意識から潜在意識を把握することができてはいるものの、まだそれほどしっかりと繋がっていないということなのかな? という気もしております。
これが、本当の自分を見つけるということなのかもしれない
自分探しの旅をしていたつもりはなかったのですけど、最近のサハスララにエネルギーが満ちると潜在意識が表に出てくるという状況は、いわば「本当の自分で生きる」ということそのものと言って良いと思います。
単に瞑想をしていただけで、目的は特に自分探しというわけではなく、もともと私は小学校の頃に幽体離脱をして過去生も未来も見て人生の目的を知っていたので、その時点で既に自分探しは終わっていたと少し前までは思っていて、今はその時に得た知見を基にある程度の覚醒を追体験していわゆる悟りへの階梯を確かめるという段階にいるのだとずっと解釈しておりました。
ですので、ここに来て今更「自分探し」などするつもりもなければ期待もしていなかったのですが、サハスララにエネルギーが満ちた状態は、言葉で言い表すならば「本当の自分」と言うのが相応しいもので、それはスピリチュアルや放浪の旅をする人たちがよく耳にする「自分探しの旅」の終着点のようにも思えました。
ただ、誤解がないようにはっきり言っておくと、自分探しは単なる通過点に過ぎなくて、サハスララにエネルギーが満ちて自分が見つかったとしても、それは単に「普通」に戻ったというだけのことであって、特別になにか凄いことではないように思います。
今までは本当の自分と一体にはなっていなかったのだな、という実感があります。
そして、それは単に今までがおかしかっただけのことであって、本当の自分が見つかっても何ら誇るべきものはなく、単にそれだけのことでしかないわけです。
きっと過去の自分が今の自分を見たら素晴らしいと思うでしょうが、それはそうかもしれないですけど、実際、今の自分は何ら特別ではなく、単に普通に戻った、というだけの、ただそれだけのことです。
サハスララにエネルギーが満ちて知ったことは、ただの、ちょっとした、そのシンプルなことでした。
嵐が去った野山を小高い丘から見下ろして、澄み切った風と明るい光、そして青空を見上げ、大地を見渡すかのような、そのような自然な気持ちがサハスララに相応しいように思います。
単に瞑想をしていただけで、目的は特に自分探しというわけではなく、もともと私は小学校の頃に幽体離脱をして過去生も未来も見て人生の目的を知っていたので、その時点で既に自分探しは終わっていたと少し前までは思っていて、今はその時に得た知見を基にある程度の覚醒を追体験していわゆる悟りへの階梯を確かめるという段階にいるのだとずっと解釈しておりました。
ですので、ここに来て今更「自分探し」などするつもりもなければ期待もしていなかったのですが、サハスララにエネルギーが満ちた状態は、言葉で言い表すならば「本当の自分」と言うのが相応しいもので、それはスピリチュアルや放浪の旅をする人たちがよく耳にする「自分探しの旅」の終着点のようにも思えました。
ただ、誤解がないようにはっきり言っておくと、自分探しは単なる通過点に過ぎなくて、サハスララにエネルギーが満ちて自分が見つかったとしても、それは単に「普通」に戻ったというだけのことであって、特別になにか凄いことではないように思います。
今までは本当の自分と一体にはなっていなかったのだな、という実感があります。
そして、それは単に今までがおかしかっただけのことであって、本当の自分が見つかっても何ら誇るべきものはなく、単にそれだけのことでしかないわけです。
きっと過去の自分が今の自分を見たら素晴らしいと思うでしょうが、それはそうかもしれないですけど、実際、今の自分は何ら特別ではなく、単に普通に戻った、というだけの、ただそれだけのことです。
サハスララにエネルギーが満ちて知ったことは、ただの、ちょっとした、そのシンプルなことでした。
嵐が去った野山を小高い丘から見下ろして、澄み切った風と明るい光、そして青空を見上げ、大地を見渡すかのような、そのような自然な気持ちがサハスララに相応しいように思います。
まだ自由自在の理を得てはいない
サハスララに意識が集まって、意識が自由になって体全体をそれなりに観察できるようにはなっても、まだ、理解という意味における自由自在の理(ことわり)を得てはいないようです。
瞑想にて、そのことを気付かされました。
この、自由自在の理を得るまではいわゆる固定的な宗教観というのが残る、ということにも改めて気が付きました。
サハスララに意識が集まって、それでもしばらくすると更に一段意識が上にあがって、まだ先がありそうな雰囲気です。
今の段階では、体がそれなりに観察できて意識もそれなりに自由にはなっても、自在に理屈が自然と出てくるような理を得てはいないように思います。
かつて悟った人がいたとして、そのことを勉強するとします。この自由自在の理を得ると同様に悟った理屈が次々と出てくるわけですが、まだ自由自在の理を得ていないとどこか書物への依存が残ってしまうというわけです。
書物から離れて自分自身の言葉で自由自在に理が出てくるようになって初めて意識がある一定の、一応は悟りと呼んでも良い高みに上り詰める(まだ先はありますが)のであり、そこに達していなければまだまだだということです。
いくら光を感じて、存在を理解しようとも、自由自在の理にはまだ一歩足りない、ということのようにも思います。
瞑想にて、そのことを気付かされました。
この、自由自在の理を得るまではいわゆる固定的な宗教観というのが残る、ということにも改めて気が付きました。
サハスララに意識が集まって、それでもしばらくすると更に一段意識が上にあがって、まだ先がありそうな雰囲気です。
今の段階では、体がそれなりに観察できて意識もそれなりに自由にはなっても、自在に理屈が自然と出てくるような理を得てはいないように思います。
かつて悟った人がいたとして、そのことを勉強するとします。この自由自在の理を得ると同様に悟った理屈が次々と出てくるわけですが、まだ自由自在の理を得ていないとどこか書物への依存が残ってしまうというわけです。
書物から離れて自分自身の言葉で自由自在に理が出てくるようになって初めて意識がある一定の、一応は悟りと呼んでも良い高みに上り詰める(まだ先はありますが)のであり、そこに達していなければまだまだだということです。
いくら光を感じて、存在を理解しようとも、自由自在の理にはまだ一歩足りない、ということのようにも思います。
ルドラ・グランティがあるという実感
日によって、エネルギーがサハスララまで上がれば意識が静寂かつ観察状態(ヴィパッサナー)になるわけですけれども、そうでない日もあるわけです。
そうでない日の場合はしばらく1時間とか2時間とか瞑想をすることでエネルギーがサハスララに上がって同様になる場合もあれば、そうでもない日もあります。
これは、状況としてはヨーガで言われているルドラ・グランティがある状態なのかなと思います。
グランティとはエネルギーのブロックで、主要なものは3つあると言われていて、流派によって名前や場所が微妙に違ったりもしていますが有名どころで言えばルドラ・グランティが眉間のアジナ・チャクラの中にあると言われています。
これはアジナ・チャクラが開くのを妨げているという解釈もされたりしますけど、基本的にはただ単にエネルギーのブロックということでアジナのところでサハスララへのエネルギー・ルートがブロックされていると解釈されるのが一般的だと思います。
アジナは、脊髄の終わったところに対応して位置し、3つのナディが合流して、ちょうど糸の結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティ(Rudra granthi)またはシヴァの結び目(シバ・グランティ)と呼ばれています。「密教ヨーガ(本山博著)」
これがあるが故に、エネルギーがアジナの付近で分断されていて、それ以上は上がりにくい状況になっているように思います。
これは、段階は違うのですがクンダリーニ経験の後にマニプラ優勢にはなったもののまだアナハタ優勢にはなっていない状態において同様にマニプラとアナハタの間でグランティがあったように思います。このグランティはおそらくヴィシュヌ・グランティかなとは思うのですが通説ではヴィシュヌ・グランティはアナハタの中にあるということに対して、私の場合はアナハタの中というよりはアナハタとマニプラの間でブロックされていたような感じでした。それはともかくとして、その後、アナハタ優勢になったのですが、その際、ヴィシュヌ・グランティが破られたように思います。
今回の場合、アジナそのものというよりはアジナよりちょっと上のところで、アジナとサハスララの間でブロックがあるような感覚ですので通説ではルドラ・グランティはアジナの中にあるということですのでちょっと感覚としては違うのですが、まあ、ひとまずはこれがルドラ・グランティだと思っていて良いのではないかと解釈しております。
マニプラ優勢からアナハタ優勢になったときのことを考えると、時々エネルギーワークをしてマニプラのエネルギーをアナハタにまで上げるということをしてはいたもののなかなかアナハタにまで上がりきらなかった状況と似たようなことが今回はアジナとサハスララの間で起こっています。
アジナくらいにまではエネルギーが満ちていますし、エネルギーワークをすることでサハスララに一時的あるいはぼちぼち継続的にエネルギーが充満することはあっても、それは日によりますし、安定してアジナとサハスララとが繋がったという感じではまだありません。
同じような状況だとするとそのうちアジナとサハスララの間でエネルギーがもっと太く繋がるのかなという感じはありますけど、さて、どうですかね。
そうでない日の場合はしばらく1時間とか2時間とか瞑想をすることでエネルギーがサハスララに上がって同様になる場合もあれば、そうでもない日もあります。
これは、状況としてはヨーガで言われているルドラ・グランティがある状態なのかなと思います。
グランティとはエネルギーのブロックで、主要なものは3つあると言われていて、流派によって名前や場所が微妙に違ったりもしていますが有名どころで言えばルドラ・グランティが眉間のアジナ・チャクラの中にあると言われています。
これはアジナ・チャクラが開くのを妨げているという解釈もされたりしますけど、基本的にはただ単にエネルギーのブロックということでアジナのところでサハスララへのエネルギー・ルートがブロックされていると解釈されるのが一般的だと思います。
アジナは、脊髄の終わったところに対応して位置し、3つのナディが合流して、ちょうど糸の結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティ(Rudra granthi)またはシヴァの結び目(シバ・グランティ)と呼ばれています。「密教ヨーガ(本山博著)」
これがあるが故に、エネルギーがアジナの付近で分断されていて、それ以上は上がりにくい状況になっているように思います。
これは、段階は違うのですがクンダリーニ経験の後にマニプラ優勢にはなったもののまだアナハタ優勢にはなっていない状態において同様にマニプラとアナハタの間でグランティがあったように思います。このグランティはおそらくヴィシュヌ・グランティかなとは思うのですが通説ではヴィシュヌ・グランティはアナハタの中にあるということに対して、私の場合はアナハタの中というよりはアナハタとマニプラの間でブロックされていたような感じでした。それはともかくとして、その後、アナハタ優勢になったのですが、その際、ヴィシュヌ・グランティが破られたように思います。
今回の場合、アジナそのものというよりはアジナよりちょっと上のところで、アジナとサハスララの間でブロックがあるような感覚ですので通説ではルドラ・グランティはアジナの中にあるということですのでちょっと感覚としては違うのですが、まあ、ひとまずはこれがルドラ・グランティだと思っていて良いのではないかと解釈しております。
マニプラ優勢からアナハタ優勢になったときのことを考えると、時々エネルギーワークをしてマニプラのエネルギーをアナハタにまで上げるということをしてはいたもののなかなかアナハタにまで上がりきらなかった状況と似たようなことが今回はアジナとサハスララの間で起こっています。
アジナくらいにまではエネルギーが満ちていますし、エネルギーワークをすることでサハスララに一時的あるいはぼちぼち継続的にエネルギーが充満することはあっても、それは日によりますし、安定してアジナとサハスララとが繋がったという感じではまだありません。
同じような状況だとするとそのうちアジナとサハスララの間でエネルギーがもっと太く繋がるのかなという感じはありますけど、さて、どうですかね。
サマーディに入るまでにはシャマタ(心の静止)は必要
サマーディにおいては心が動いていようが止まっていようが関係なく、いわゆるリクパ(心の本性)が自らの五感および心の動きを観察する状態になりますので特にシャマタ(心の静止)をする必要はありません。
心が動いていて考え事をしていようが雑念のようなものが出てこようがあるいは心が静止していようが違いはなく、心の本性(リクパ)がそれらを常に観察している状態にあります。
ここで、説明のために一応は「観察」と言いましたけど、観察と言ってしまうと「見るもの」と「見られるもの」という区別があるように思えてしまいますけど、サマーディの状態においてはそのような区別はなくて、サマーディとは「不二の意識」とも言われるように、そのような区別のない意識状態にあるわけです。
ですけど、そのようなサマーディの状態に入るまでは修行の一環としてシャマタ(心の静止)が必要になるわけです。
これは、必ず必要というわけではなく、流派によってはこのシャマタ(心の静止)を行わないところもあるようです。
ですが、多くの流派ではシャマタを経由してからサマーディに至る、ということになっています。
サマーディという言葉の意味も流派によって色々あって、流派によってはサマーディを単なる手中と定義している流派(ヴェーダンタ派など)もありますが、多くのヨーガの流派やチベット仏教などではサマーディを不二の意識として定義していて、単なる集中ではないとしているところの方が多いと思います。
そのような、不二の意識および心の本性(リクパ)が動いているという意味においてのサマーディであればその前段階としてシャマタ(心の静止)があるということです。(サマーディの定義が「集中」だとしている流派ではこのような位置付けは意味をなしません。)
たしかに、サマーディの意識、不二の意識であれば心が動いていようが動いていまいが関係なくて、それこそが本質なのですが、修行方法としてシャマタという段階が伝統的に取り入れられてきたということです。
一見すると、サマーディの状態とシャマタの状態は矛盾して見えるかもしれませんけど、サマーディの状態からしてみたらシャマタしていようがしていまいが関係なくて同じですので、サマーディ側から見たらシャマタはあまり重要ではありません。シャマタがあってもいいしなくても問題ないわけです。
ですから、サマーディ側からみたらシャマタとサマーディとは矛盾していません。
ただ、シャマタ側からサマーディを見たら矛盾に見えるかもしれません。
あるいは、サマーディを書物だけで理解している人はサマーディとシャマタに矛盾を感じるかも知れません。
ですけど、上記の通り、サマーディからしてみたらシャマタがあろうがなかろうが大差なくて、ただ、それでも、まだサマーディに至っていない人がサマーディに至るためにはシャマタが助けになるということです。
流派に寄ってはシャマタをことなげに否定している流派もあるようですけど、私はそのあたりはよく理解できませんね。サマーディに達すればシャマタがあろうがなかろうが大差ないのですから、そんなシャマタなんかをことさら否定する必要すらないと思うのですが。
ただ単に、シャマタが修行の助けになるなら使えばいい、というだけのお話です。
不思議なもので、世の中には意外にシャマタを否定する流派が多くて、しかもその一部はヒステリーになって否定したりするのが私にはさっぱり理解できませんけど、まあ、私はこんなふうに考えています。
これは他人に意見をしてるということではなく、他人がどう考えようが何を信じようが自由だと思っていますから他人は他人の好きにすればよくて、シャマタが良くないと思うなら勝手にそう思えばいい、と思っています。自由にすればいいのです。
ただ、そのような言説に惑わされてシャマタをしなくなってしまう人がいたら不幸ですのでたまにこうしてシャマタは必要ということを書いています。
まあ、私が書いたところでどれだけ理解してもらえるかもわかりませんけどね。一応。
心が動いていて考え事をしていようが雑念のようなものが出てこようがあるいは心が静止していようが違いはなく、心の本性(リクパ)がそれらを常に観察している状態にあります。
ここで、説明のために一応は「観察」と言いましたけど、観察と言ってしまうと「見るもの」と「見られるもの」という区別があるように思えてしまいますけど、サマーディの状態においてはそのような区別はなくて、サマーディとは「不二の意識」とも言われるように、そのような区別のない意識状態にあるわけです。
ですけど、そのようなサマーディの状態に入るまでは修行の一環としてシャマタ(心の静止)が必要になるわけです。
これは、必ず必要というわけではなく、流派によってはこのシャマタ(心の静止)を行わないところもあるようです。
ですが、多くの流派ではシャマタを経由してからサマーディに至る、ということになっています。
サマーディという言葉の意味も流派によって色々あって、流派によってはサマーディを単なる手中と定義している流派(ヴェーダンタ派など)もありますが、多くのヨーガの流派やチベット仏教などではサマーディを不二の意識として定義していて、単なる集中ではないとしているところの方が多いと思います。
そのような、不二の意識および心の本性(リクパ)が動いているという意味においてのサマーディであればその前段階としてシャマタ(心の静止)があるということです。(サマーディの定義が「集中」だとしている流派ではこのような位置付けは意味をなしません。)
たしかに、サマーディの意識、不二の意識であれば心が動いていようが動いていまいが関係なくて、それこそが本質なのですが、修行方法としてシャマタという段階が伝統的に取り入れられてきたということです。
一見すると、サマーディの状態とシャマタの状態は矛盾して見えるかもしれませんけど、サマーディの状態からしてみたらシャマタしていようがしていまいが関係なくて同じですので、サマーディ側から見たらシャマタはあまり重要ではありません。シャマタがあってもいいしなくても問題ないわけです。
ですから、サマーディ側からみたらシャマタとサマーディとは矛盾していません。
ただ、シャマタ側からサマーディを見たら矛盾に見えるかもしれません。
あるいは、サマーディを書物だけで理解している人はサマーディとシャマタに矛盾を感じるかも知れません。
ですけど、上記の通り、サマーディからしてみたらシャマタがあろうがなかろうが大差なくて、ただ、それでも、まだサマーディに至っていない人がサマーディに至るためにはシャマタが助けになるということです。
流派に寄ってはシャマタをことなげに否定している流派もあるようですけど、私はそのあたりはよく理解できませんね。サマーディに達すればシャマタがあろうがなかろうが大差ないのですから、そんなシャマタなんかをことさら否定する必要すらないと思うのですが。
ただ単に、シャマタが修行の助けになるなら使えばいい、というだけのお話です。
不思議なもので、世の中には意外にシャマタを否定する流派が多くて、しかもその一部はヒステリーになって否定したりするのが私にはさっぱり理解できませんけど、まあ、私はこんなふうに考えています。
これは他人に意見をしてるということではなく、他人がどう考えようが何を信じようが自由だと思っていますから他人は他人の好きにすればよくて、シャマタが良くないと思うなら勝手にそう思えばいい、と思っています。自由にすればいいのです。
ただ、そのような言説に惑わされてシャマタをしなくなってしまう人がいたら不幸ですのでたまにこうしてシャマタは必要ということを書いています。
まあ、私が書いたところでどれだけ理解してもらえるかもわかりませんけどね。一応。
経験は不要で理解だけが重要だという流派がある
理解こそが解脱(モクシャ)を達成することができるもので経験は一時的なもので重要ではないという流派があります。例えばインドのヴェーダンタ学派とかですね。
実際のところ、モクシャあるいはサマーディの側から見た時のみ経験が重要ではないのであって、モクシャあるいはサマーディに到達するためには経験が必要になってくると私なんかは思います。
理解こそが解脱(モクシャ)に到達できる手段だとしている流派であっても修行のようなことは行われていますし、実際のところ、修行や経験を詰んではいるもののそれを修行や経験とは呼んではおらず理解や勉強と言っているだけのことに過ぎないように私には思えます。言葉の表層で理解という言葉に重きを置いて、実際は、実質的に修行や経験を重視しているのにも関わらず言葉の表層で理解という表現に置き換えているだけで、実際は大差ないのかなと思います。
例えばマントラを唱えることを一部の流派では修行と言いますがそれら理解こそがモクシャに至る道と考えている流派では修行とは呼ばずに単にプージャと呼んだり祈りあるいは瞑想と呼んだりします。
実際のところ、物事は全てあるがままで完璧でありますので、私からしてみたらこのような解釈の違いも大差はなく、そのような違いすらもただ単に趣味の違いあるいは文化の違いとしか思えないのですが、それでも、このような些細な違いで意見を食い違えてあっちは正しいだとかこっちは間違っているだとか指摘しあっている状況があるように思います。
確かに、モクシャやサマーディが重要というのは間違ってはいませんが、かと言って、その前段階にあるシャマタ(止)の段階もそれはそれでもちろん重要なのです。しかし、理解こそが重要で経験は不要としている学派は修行や経験に相当するシャマタ(止)を否定しがちなのですよね。先の段階であるモクシャやサマーディから見たらシャマタ(止)をしているかどうかは大差ないのですが、サマーディに入るまでにはシャマタ(心の静止)は必要になってくるわけです。
そのように、モクシャやサマーディのためにシャマタ(止)は不要と言った時、モクシャやサマーディに到達した人であればその意味としては、シャマタ(止)があろうがなかろうがモクシャやサマーディがある、という意味で解釈するのに対し、まだモクシャやサマーディを知らない人はシャマタ(止)を否定してしまうのですよね。シャマタ(止)があろうがなかろうがモクシャやサマーディがある、ということであって、シャマタ(止)が不要ということではないのですよね。これは、似ているようでいてかなりの大きな違いです。
理解こそがモクシャに至る、としている学派の中には、シャマタ(止)が不要だからシャマタ(止)の修行をしている学派は間違っている、とみなして論争してしまうのですよね。
文献だけを読んでモクシャやサマーディを理解してしまうとそのようにシャマタ(止)を否定してしまうことになるのかもしれないですけど、実際には上記のように、モクシャやサマーディの状態であればシャマタ(止)があろうがなかろうが関係ないということであって、シャマタ(止)が必要かどうかという話ではないのですよね。
実際には、モクシャやサマーディに至るための前段階としてシャマタ(止)は有用なのであって、基本的にはシャマタ(止)を経由してからモクシャやサマーディに至るのだと思います。
理屈から言っても、シャマタ(止)とはメンタル(ヨーガで言うマナス)のコントロールですから、マナスのコントロールができていない人がモクシャやサマーディに至ることはありえないと思うのですけどね。マナスのコントロールなしにモクシャやサマーディに至ることなんてあるのですかね?
なぜにそこまで固執して理解だけが重要と主張して、特にことさらにシャマタ(止)を否定するのか私にはさっぱり理解できないですし、理解が重要と言うのなら、万人に理解できるように説明してほしいものです。実際に何度もこれらのことを聞いてもあまりはっきりとした答えはしてくれなくて、理解が重要だとかしっかり理解しなくてはいけないとか、理解していないだけだとか、もっと勉強が必要だとか、そのような答えばかり返ってきます。そうなのかもしれないですけど、私にとっては上のように解釈する方がしっくりきます。
私からしてみたら、そのような誤解に基づく理解はなんと愚かしいことだと思ったりもするのですけど、そのような愚かなことも含めて物事は全てあるがままで完璧だと思っていますので、愚かであろうがなんだろうが好きにすればいいと思っています。これらの解釈はもしかしたら私の誤解なのかもしれないですけど、まあ、それであったとしても完璧であると思うわけです。
実際のところ、モクシャあるいはサマーディの側から見た時のみ経験が重要ではないのであって、モクシャあるいはサマーディに到達するためには経験が必要になってくると私なんかは思います。
理解こそが解脱(モクシャ)に到達できる手段だとしている流派であっても修行のようなことは行われていますし、実際のところ、修行や経験を詰んではいるもののそれを修行や経験とは呼んではおらず理解や勉強と言っているだけのことに過ぎないように私には思えます。言葉の表層で理解という言葉に重きを置いて、実際は、実質的に修行や経験を重視しているのにも関わらず言葉の表層で理解という表現に置き換えているだけで、実際は大差ないのかなと思います。
例えばマントラを唱えることを一部の流派では修行と言いますがそれら理解こそがモクシャに至る道と考えている流派では修行とは呼ばずに単にプージャと呼んだり祈りあるいは瞑想と呼んだりします。
実際のところ、物事は全てあるがままで完璧でありますので、私からしてみたらこのような解釈の違いも大差はなく、そのような違いすらもただ単に趣味の違いあるいは文化の違いとしか思えないのですが、それでも、このような些細な違いで意見を食い違えてあっちは正しいだとかこっちは間違っているだとか指摘しあっている状況があるように思います。
確かに、モクシャやサマーディが重要というのは間違ってはいませんが、かと言って、その前段階にあるシャマタ(止)の段階もそれはそれでもちろん重要なのです。しかし、理解こそが重要で経験は不要としている学派は修行や経験に相当するシャマタ(止)を否定しがちなのですよね。先の段階であるモクシャやサマーディから見たらシャマタ(止)をしているかどうかは大差ないのですが、サマーディに入るまでにはシャマタ(心の静止)は必要になってくるわけです。
そのように、モクシャやサマーディのためにシャマタ(止)は不要と言った時、モクシャやサマーディに到達した人であればその意味としては、シャマタ(止)があろうがなかろうがモクシャやサマーディがある、という意味で解釈するのに対し、まだモクシャやサマーディを知らない人はシャマタ(止)を否定してしまうのですよね。シャマタ(止)があろうがなかろうがモクシャやサマーディがある、ということであって、シャマタ(止)が不要ということではないのですよね。これは、似ているようでいてかなりの大きな違いです。
理解こそがモクシャに至る、としている学派の中には、シャマタ(止)が不要だからシャマタ(止)の修行をしている学派は間違っている、とみなして論争してしまうのですよね。
文献だけを読んでモクシャやサマーディを理解してしまうとそのようにシャマタ(止)を否定してしまうことになるのかもしれないですけど、実際には上記のように、モクシャやサマーディの状態であればシャマタ(止)があろうがなかろうが関係ないということであって、シャマタ(止)が必要かどうかという話ではないのですよね。
実際には、モクシャやサマーディに至るための前段階としてシャマタ(止)は有用なのであって、基本的にはシャマタ(止)を経由してからモクシャやサマーディに至るのだと思います。
理屈から言っても、シャマタ(止)とはメンタル(ヨーガで言うマナス)のコントロールですから、マナスのコントロールができていない人がモクシャやサマーディに至ることはありえないと思うのですけどね。マナスのコントロールなしにモクシャやサマーディに至ることなんてあるのですかね?
なぜにそこまで固執して理解だけが重要と主張して、特にことさらにシャマタ(止)を否定するのか私にはさっぱり理解できないですし、理解が重要と言うのなら、万人に理解できるように説明してほしいものです。実際に何度もこれらのことを聞いてもあまりはっきりとした答えはしてくれなくて、理解が重要だとかしっかり理解しなくてはいけないとか、理解していないだけだとか、もっと勉強が必要だとか、そのような答えばかり返ってきます。そうなのかもしれないですけど、私にとっては上のように解釈する方がしっくりきます。
私からしてみたら、そのような誤解に基づく理解はなんと愚かしいことだと思ったりもするのですけど、そのような愚かなことも含めて物事は全てあるがままで完璧だと思っていますので、愚かであろうがなんだろうが好きにすればいいと思っています。これらの解釈はもしかしたら私の誤解なのかもしれないですけど、まあ、それであったとしても完璧であると思うわけです。
覚醒した意識を日常生活で保ち続ける
程度問題ではあるのですが、瞑想を続けるうちに座った瞑想と日常生活の間の差がなくなっていきます。
座った瞑想をしてエネルギー的な経験あるいは意識的な経験をしてきたわけですけれども、瞑想を始めてからしばらくの間は、瞑想を終えた後にそれなりに日常生活でそれらが生かされて意識が保たれてはいたもののそこまで日常生活と融合しているという感じではありませんでした。
瞑想、あるいはヨガをして、終わった後はすっきりした状態になったりもしましたが数時間あるいはしばらく経つとやがて日常生活の状態に戻ってゆくわけですね。
これは月あるいは年単位での変化にはなるのですが、これらの状態の遷移が、次第に緩やかなものになってきたように思います。
特に最初は、瞑想やヨーガと日常生活の間のギャップが激しかったのですが、最近は割と一続きのものになってきています。
ただ単に意識が落ち着いている(シャマタ、止)ということだけではなく、いわゆる瞑想状態、ヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれる状態(観察状態)ですらも日常生活に持ち込むことができます。
実際のところ、このような、日常生活におけるサマーディというのは修行の1つであって、常に覚醒した意識を保ち続ける、という修行方法になるわけです。
修行が進んで、三昧が、限られた時間だけなくずっと続くようになったら、「大いなる三昧」と呼ぶ。けれども、初心者の場合、三昧に入っている時と入っていない時の区別がある。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」
日常生活を送るにつれて次第にサマーディの状態から落ちてしまったりしますけど、その時は再度、覚醒した意識を取り戻すように意識し直すか、あるいは、日常生活でそのまま戻すのが難しいのであれば再度座って瞑想して覚醒状態に戻ってもいいわけです。
座っての瞑想というのは基本であって、しかしながら、日常生活と瞑想とを結びつけることが次の段階の修行になるわけです。
座った瞑想をしてエネルギー的な経験あるいは意識的な経験をしてきたわけですけれども、瞑想を始めてからしばらくの間は、瞑想を終えた後にそれなりに日常生活でそれらが生かされて意識が保たれてはいたもののそこまで日常生活と融合しているという感じではありませんでした。
瞑想、あるいはヨガをして、終わった後はすっきりした状態になったりもしましたが数時間あるいはしばらく経つとやがて日常生活の状態に戻ってゆくわけですね。
これは月あるいは年単位での変化にはなるのですが、これらの状態の遷移が、次第に緩やかなものになってきたように思います。
特に最初は、瞑想やヨーガと日常生活の間のギャップが激しかったのですが、最近は割と一続きのものになってきています。
ただ単に意識が落ち着いている(シャマタ、止)ということだけではなく、いわゆる瞑想状態、ヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれる状態(観察状態)ですらも日常生活に持ち込むことができます。
実際のところ、このような、日常生活におけるサマーディというのは修行の1つであって、常に覚醒した意識を保ち続ける、という修行方法になるわけです。
修行が進んで、三昧が、限られた時間だけなくずっと続くようになったら、「大いなる三昧」と呼ぶ。けれども、初心者の場合、三昧に入っている時と入っていない時の区別がある。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」
日常生活を送るにつれて次第にサマーディの状態から落ちてしまったりしますけど、その時は再度、覚醒した意識を取り戻すように意識し直すか、あるいは、日常生活でそのまま戻すのが難しいのであれば再度座って瞑想して覚醒状態に戻ってもいいわけです。
座っての瞑想というのは基本であって、しかしながら、日常生活と瞑想とを結びつけることが次の段階の修行になるわけです。
真理の探求は真面目すぎない方がいい、というお話
聖典や経典に記されていることはあくまでも一面であって、それが素晴らしいものであったとしても鵜呑みにして信じ込んでしまうと真実を見失ってしまいます。
疑えとまでは言いませんけど、あくまでも真実は自分の中にあるのですから、聖典や経典に書かれてあったとしてもそれは自分の中にある自分が出した答えではありませんから、あくまでもヒントでしかないのですよね。
でも、真面目な人ほど聖典や経典を真に受けてしまってそれに固執してしまいます。
それが宗教ができてゆく過程ではあるのですが、それはそれで興味深い過程ではあるものの、そのように真面目に聖典や経典に取り組んでしまうと答えは全て自分の中にあるという真実を直視できなくなってしまう危険性があるのですよね。
例えば、ヨーガスートラで「心の死滅」がヨーガの定義あるいは目標として記されていますけど、文字通り解釈してしまう人と、「そうなのですかね? そうかもしれません」と、大雑把に理解する人とでは、実際の所、後者の方が成長が速いように思います。
前者であろうと後者であろうと、頭の理解だけではなく自分の奥底から出た感覚を根拠とすればいいのですが、往々にして前者は文章そのものの理解に固執してしまいがちのように思います。まあ、人によりますので、逆の場合もあるかもしれませんけど。
別の例で、ヨーガスートラで「ネガティブな思いが出てきたら、逆の思いを浮かべる」みたいなことが書かれてありますけど、これも、真面目すぎる人は常にそのように努めてしまいますけど、これはかなり誤解があるお話で、サマーディ以前であれば雑念が多いのでこのようにして雑念を抑え込んでゆく方が良いですけどかなり浄化が進んでサマーディの近くにまで達すれば実際はこのように抑え込む必要すらないのですよね。
でも、真面目な人は文章をそのまま受け取ってしまってこのやり方が常にいつまでも必要で通用すると解釈してしまって、これがあくまでも一面を言っているだけに過ぎない、ということをなかなか理解できないのですよね。
答えは全て自分の中にあるのですから、それをやってみて必要だと思えばやればいいし、不要だと思えばやらなくてもいいわけです。ですけど、答えが自分の中にあるということがわかっていない人は聖典や経典の文面に固執してそのやり方にこだわってしまいますけど、それは自分の中に答えがあるということが理解できていないのですよね。
この、答えは自分の中にある、という考え方は割と最近のスピリチュアル、特に宇宙系のスピリチュアルではよく言われていることですけど、古典的なヨーガや宗教あるいはヴェーダではそのような言い方はしませんけど、古典的な分野ではそれよりも、多様性があることで人の選択を促している面があるように思います。
あまりにも多様性があって聖典や経典によって違いがあるので自分で選ぶしかないのですよね。そして、選ぶ基準は何かというと自分の経験を基にするしかないわけで。状況は違っても、最近のスピリチュアルでも古典的分野でも、自分の内面の感覚を頼りにするということは一緒なわけです。
ですけど、真面目な人ほど文面にこだわってしまうのですよね。そして、自分の解釈をしている人を「解釈を捻じ曲げている、間違った人」とか言ったりします。捻じ曲げているというよりも、答えは自分の中にあって、実際のところ、全ては真実なので、自分の中から出てきた答えであれば全て完璧ですから合っているとか間違っているとかいうお話はそこにはないのですよね。単に、自分の中から出てきた答えと聖典・経典との記述とは違っているというお話で、違っていたとしても、自分の中から出てきた答えは自分のその時の状況・考えに即してみれば全て正しくて完璧なわけです。表現の違いで誤解とかも多少はあるかもしれませんけどそれは重要なことではなくて、自分で出した答えであればそれを受け入れればいいというだけのお話です。
このあたりが真面目な人には受け入れがたいようで、ですから、個人的に思うのは、真理を追求するのはそれなりの真面目さも必要ですけどあまり真面目すぎない方がいいかなあ、とも思っています。O型のような曖昧さがベースにあって、真実は自分の中から見出す、というスタンスが組み合わさっているといいのかもしれません。
疑えとまでは言いませんけど、あくまでも真実は自分の中にあるのですから、聖典や経典に書かれてあったとしてもそれは自分の中にある自分が出した答えではありませんから、あくまでもヒントでしかないのですよね。
でも、真面目な人ほど聖典や経典を真に受けてしまってそれに固執してしまいます。
それが宗教ができてゆく過程ではあるのですが、それはそれで興味深い過程ではあるものの、そのように真面目に聖典や経典に取り組んでしまうと答えは全て自分の中にあるという真実を直視できなくなってしまう危険性があるのですよね。
例えば、ヨーガスートラで「心の死滅」がヨーガの定義あるいは目標として記されていますけど、文字通り解釈してしまう人と、「そうなのですかね? そうかもしれません」と、大雑把に理解する人とでは、実際の所、後者の方が成長が速いように思います。
前者であろうと後者であろうと、頭の理解だけではなく自分の奥底から出た感覚を根拠とすればいいのですが、往々にして前者は文章そのものの理解に固執してしまいがちのように思います。まあ、人によりますので、逆の場合もあるかもしれませんけど。
別の例で、ヨーガスートラで「ネガティブな思いが出てきたら、逆の思いを浮かべる」みたいなことが書かれてありますけど、これも、真面目すぎる人は常にそのように努めてしまいますけど、これはかなり誤解があるお話で、サマーディ以前であれば雑念が多いのでこのようにして雑念を抑え込んでゆく方が良いですけどかなり浄化が進んでサマーディの近くにまで達すれば実際はこのように抑え込む必要すらないのですよね。
でも、真面目な人は文章をそのまま受け取ってしまってこのやり方が常にいつまでも必要で通用すると解釈してしまって、これがあくまでも一面を言っているだけに過ぎない、ということをなかなか理解できないのですよね。
答えは全て自分の中にあるのですから、それをやってみて必要だと思えばやればいいし、不要だと思えばやらなくてもいいわけです。ですけど、答えが自分の中にあるということがわかっていない人は聖典や経典の文面に固執してそのやり方にこだわってしまいますけど、それは自分の中に答えがあるということが理解できていないのですよね。
この、答えは自分の中にある、という考え方は割と最近のスピリチュアル、特に宇宙系のスピリチュアルではよく言われていることですけど、古典的なヨーガや宗教あるいはヴェーダではそのような言い方はしませんけど、古典的な分野ではそれよりも、多様性があることで人の選択を促している面があるように思います。
あまりにも多様性があって聖典や経典によって違いがあるので自分で選ぶしかないのですよね。そして、選ぶ基準は何かというと自分の経験を基にするしかないわけで。状況は違っても、最近のスピリチュアルでも古典的分野でも、自分の内面の感覚を頼りにするということは一緒なわけです。
ですけど、真面目な人ほど文面にこだわってしまうのですよね。そして、自分の解釈をしている人を「解釈を捻じ曲げている、間違った人」とか言ったりします。捻じ曲げているというよりも、答えは自分の中にあって、実際のところ、全ては真実なので、自分の中から出てきた答えであれば全て完璧ですから合っているとか間違っているとかいうお話はそこにはないのですよね。単に、自分の中から出てきた答えと聖典・経典との記述とは違っているというお話で、違っていたとしても、自分の中から出てきた答えは自分のその時の状況・考えに即してみれば全て正しくて完璧なわけです。表現の違いで誤解とかも多少はあるかもしれませんけどそれは重要なことではなくて、自分で出した答えであればそれを受け入れればいいというだけのお話です。
このあたりが真面目な人には受け入れがたいようで、ですから、個人的に思うのは、真理を追求するのはそれなりの真面目さも必要ですけどあまり真面目すぎない方がいいかなあ、とも思っています。O型のような曖昧さがベースにあって、真実は自分の中から見出す、というスタンスが組み合わさっているといいのかもしれません。
瞑想中に見える光の解釈
瞑想中には光を見ることが多くて、しかし、その解釈はなかなか難しいものがあります。
ヨーガの解釈ですとチャクラごとに色がついていたりしますけど、瞑想中にその色が見えてくるということは個人的にはあまりなかったように思います。しかし、瞑想中にチャクラの色が見えてくると言っている人もいらっしゃいますので、そういうこともあるかもしれません。
ヨーガの流派によっては、瞑想中に見えてくる光は重要ではないので無視する、としている所もあります。瞑想中の色の解釈は難しいですので、これはこれで、弟子たちに無用な詮索をさせないとか、あるいは、弟子たちが自分が修行が進んだと勘違いさせないためにも有効な手段になっているようにも思います。
ヨーガ系および神智学系を組み合わせた解釈として、灰色・黒色(あるいは紫色)・光、という三段階が個人的にはしっくりきます。
チベット系あるいはゾクチェンの解釈としてはティクレがあります。これは、上記の3段階目の光と一致しているようにも思います。
瞑想を始めたばかりの頃は灰色のもやもやとした感じが見えて、それは、ただ単にまぶたを通して外を見ているだけのような感覚だったり、あるいは、ふとしたことで光がフラッシュすることもあります。このような光を見ることで、初心者は「光だ!」と解釈してしまいがちですけど、実際には、そういう、たまに光を見ることはよくあります。
ですから、一部のヨーガの流派のように「光は重要ではない」としてしまうのは、それはそれで実践的で理にかなっているとも言えます。
そうは言いましても、自分の立ち位置をしっかりと見極めた方がいいと私なんかは思っておりますので、そのような「光」のような明確な「しるし」をそのようにばっさりと捨ててしまうのはもったいないと思っていて、光の見え方で成長の度合いが計れるのですから、使えるものは使いましょう、というのが私のスタンスです。
個人的には、上記に書いた、灰色・黒色(あるいは紫色)・光、という3段階がしっくりくるわけですけれども、最近で言うと、瞑想中に視界の各所に見えるフラッシュやランプの光のようなほのかな光がよく見えて、それと、日常生活中にはチベット(あるいはゾクチェン)で言うところのティクレという光の滴もよく見えます。
ティクレは青空を見上げた時に青空の手前にスクリーンのように目の表面の小さなごみが見えたりするのと同様に各所で光がフラッシュしたり光子が流れ星のように各方向に飛んでいくのが見えたりします。
個人的には子供の頃からこのようなティクレをよく見ていましたので特に目新しいものではないのですが、チベットでは瞑想法としてこのティクレが使われています。
ティクレを検索してみると、瞑想を始めるまでこのようなティクレを見たことがなくて驚いたというような記述が散見されますけど、個人的には子供の頃からティクレは普通に存在していましたし、ティクレという言葉自体には慣れ親しんでおりませんでしたがチベット特集のテレビ番組でそのような光を見る瞑想のお話を当時見たこともあって、あれが瞑想になるのか、と、漠然とその頃は理解しておりました。
ですので、瞑想が進むとティクレのような光が見えてくる、という言い方をしたりもしますけど、個人的には必ずしもそうとは思わなくて、現象およびテクニックとしての光の見え方はあって、それとは別に、瞑想中に見えてくる光がある、と思っています。
ティクレは2つの意味が含まれていて、青空を見上げた時に見えるティクレはテクニックで見えてくる光の方で、瞑想が進むと見えてくるティクレはもう少し違うもののように思います。とは言いましても、ティクレとは単に光の滴と言うような意味合いのようですので、どちらも光ですのでティクレとしては同じなのかもしれません。
どちらにせよ、光の解釈はちょっと難しい気も致しますので、ヨーガの一部の流派のように「重要ではない」と言ってしまうのも実用面から言えばあながち間違いではない気も致します。
ヨーガの解釈ですとチャクラごとに色がついていたりしますけど、瞑想中にその色が見えてくるということは個人的にはあまりなかったように思います。しかし、瞑想中にチャクラの色が見えてくると言っている人もいらっしゃいますので、そういうこともあるかもしれません。
ヨーガの流派によっては、瞑想中に見えてくる光は重要ではないので無視する、としている所もあります。瞑想中の色の解釈は難しいですので、これはこれで、弟子たちに無用な詮索をさせないとか、あるいは、弟子たちが自分が修行が進んだと勘違いさせないためにも有効な手段になっているようにも思います。
ヨーガ系および神智学系を組み合わせた解釈として、灰色・黒色(あるいは紫色)・光、という三段階が個人的にはしっくりきます。
チベット系あるいはゾクチェンの解釈としてはティクレがあります。これは、上記の3段階目の光と一致しているようにも思います。
瞑想を始めたばかりの頃は灰色のもやもやとした感じが見えて、それは、ただ単にまぶたを通して外を見ているだけのような感覚だったり、あるいは、ふとしたことで光がフラッシュすることもあります。このような光を見ることで、初心者は「光だ!」と解釈してしまいがちですけど、実際には、そういう、たまに光を見ることはよくあります。
ですから、一部のヨーガの流派のように「光は重要ではない」としてしまうのは、それはそれで実践的で理にかなっているとも言えます。
そうは言いましても、自分の立ち位置をしっかりと見極めた方がいいと私なんかは思っておりますので、そのような「光」のような明確な「しるし」をそのようにばっさりと捨ててしまうのはもったいないと思っていて、光の見え方で成長の度合いが計れるのですから、使えるものは使いましょう、というのが私のスタンスです。
個人的には、上記に書いた、灰色・黒色(あるいは紫色)・光、という3段階がしっくりくるわけですけれども、最近で言うと、瞑想中に視界の各所に見えるフラッシュやランプの光のようなほのかな光がよく見えて、それと、日常生活中にはチベット(あるいはゾクチェン)で言うところのティクレという光の滴もよく見えます。
ティクレは青空を見上げた時に青空の手前にスクリーンのように目の表面の小さなごみが見えたりするのと同様に各所で光がフラッシュしたり光子が流れ星のように各方向に飛んでいくのが見えたりします。
個人的には子供の頃からこのようなティクレをよく見ていましたので特に目新しいものではないのですが、チベットでは瞑想法としてこのティクレが使われています。
ティクレを検索してみると、瞑想を始めるまでこのようなティクレを見たことがなくて驚いたというような記述が散見されますけど、個人的には子供の頃からティクレは普通に存在していましたし、ティクレという言葉自体には慣れ親しんでおりませんでしたがチベット特集のテレビ番組でそのような光を見る瞑想のお話を当時見たこともあって、あれが瞑想になるのか、と、漠然とその頃は理解しておりました。
ですので、瞑想が進むとティクレのような光が見えてくる、という言い方をしたりもしますけど、個人的には必ずしもそうとは思わなくて、現象およびテクニックとしての光の見え方はあって、それとは別に、瞑想中に見えてくる光がある、と思っています。
ティクレは2つの意味が含まれていて、青空を見上げた時に見えるティクレはテクニックで見えてくる光の方で、瞑想が進むと見えてくるティクレはもう少し違うもののように思います。とは言いましても、ティクレとは単に光の滴と言うような意味合いのようですので、どちらも光ですのでティクレとしては同じなのかもしれません。
どちらにせよ、光の解釈はちょっと難しい気も致しますので、ヨーガの一部の流派のように「重要ではない」と言ってしまうのも実用面から言えばあながち間違いではない気も致します。
雑念の否定は不要
ヨーガスートラに、良くない思いが湧いてくるようであれば反対のこと(良いこと)を思うことにします、という一節があります。
これは、文字通り、反対の思いを浮かべる、良いことを思うということです。
ですけど、このような書き方をすると、良くない思いを否定すればいいのだと勘違いしてしまう人が一定数いてしまうわけですよね。
ネガティブな思いが出てきたら、そのネガティブな思いを否定するのではなくて、ポジティブな思いを浮かべるようにする、ということです。
最終的にはポジティブな思いをそのように努力して想起する必要はなくなっていって素のところからポジティブになるわけですけれども、もしネガティブな思いが出てくるのであれば、そのネガティブはほおっておくかあるいは可能であれば愛を送ってあげて、それとは別でポジティブな思いにフォーカスすることでネガティブが減ってゆくわけです。
これは、同じようでいてかなり違います。
(2-33) ヨーガのさまたげになる思いをふせぐためには、反対の思いを起こすことである。
たとえば、大きな怒りの波が心におこったとき、それをどのように制御したらよいか。ただそれに反対する波をおこすのである。愛を思え。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
ネガティブに対して否定してしまうと抑圧された思いが無意識下においやられて、ふとしたことでその無意識が噴出してしまうことにもなり、キレやすくなったりします。怒りの沸点が下がってしまうわけですよね。
ただまあ、それは日常生活を送る上で程度問題のところがあって、社会生活のために他人と接している時は一時的にネガティブを抑圧して外に出さないようにする、といった生活上の工夫は必要かとは思います。
ですが、瞑想としての基本としてはネガティブは否定せずにそのまま受け入れてあげて、受け入れてあげることでネガティブは消えてゆくわけです。
悪い思いに対しては無関心でいる、というのが基本です。これらは仏教などでも言われていますね。
(1-33) 友情、慈悲、喜ぶこと、無関心、がそれぞれ、幸福、不幸、よい、わるい対象に対して思われればチッタ(心)をしずめる。(中略)もし思いの対象が不幸なものであれば、それに対し、慈悲深くなければならない。もしそれが良いものであれば、われわれは喜ばなければならない。それが悪いものであればわれわれは無関心でなければならない。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
瞑想においてもこれが基本にありますから、ネガティブな思いに対して無関心でいるのが基本で、それに加えて、ポジティブな思いを想起する、というわけです。
ですけど、実際のところ、そうしてわざわざポジティブな思いを想起しなくてはいけないというのは瞑想の割と最初の段階だけで、ネガティブな思いが出てくるというのはエネルギー総量が低いということでもありますから、エネルギーが高まれば自然にポジティブになりますし、エネルギーが高まりさえすれば、そこに至るまでに多少のネガティブな抑圧があったとしてもそれも含めて解消されます。
エネルギーの高まりとは、平たくいえば「元気になる」ということですね。元気になればポジティブになる、という当たり前のお話です。
ですから、根本的解決はエネルギー的な解決であるわけですけれども、そうは言いましてもエネルギー的な解決には時間がかかりますので、ひとまずはこうしたテクニックも必要になってくるわけです。
ヨーガ的に言えばエネルギーの高まりとはクンダリーニの活性化ですけど、一般的には運動したりポジティブシンキングとか色々ありますし、エネルギーの高い食べ物を取るとか、いかようにもできると思います。
根本的解決にはエネルギーの高まり、クンダリーニの活性化が必要になるとしても、テクニックとしては「反対の思いを想起する」という方法はあるわけです。
これは、文字通り、反対の思いを浮かべる、良いことを思うということです。
ですけど、このような書き方をすると、良くない思いを否定すればいいのだと勘違いしてしまう人が一定数いてしまうわけですよね。
ネガティブな思いが出てきたら、そのネガティブな思いを否定するのではなくて、ポジティブな思いを浮かべるようにする、ということです。
最終的にはポジティブな思いをそのように努力して想起する必要はなくなっていって素のところからポジティブになるわけですけれども、もしネガティブな思いが出てくるのであれば、そのネガティブはほおっておくかあるいは可能であれば愛を送ってあげて、それとは別でポジティブな思いにフォーカスすることでネガティブが減ってゆくわけです。
これは、同じようでいてかなり違います。
(2-33) ヨーガのさまたげになる思いをふせぐためには、反対の思いを起こすことである。
たとえば、大きな怒りの波が心におこったとき、それをどのように制御したらよいか。ただそれに反対する波をおこすのである。愛を思え。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
ネガティブに対して否定してしまうと抑圧された思いが無意識下においやられて、ふとしたことでその無意識が噴出してしまうことにもなり、キレやすくなったりします。怒りの沸点が下がってしまうわけですよね。
ただまあ、それは日常生活を送る上で程度問題のところがあって、社会生活のために他人と接している時は一時的にネガティブを抑圧して外に出さないようにする、といった生活上の工夫は必要かとは思います。
ですが、瞑想としての基本としてはネガティブは否定せずにそのまま受け入れてあげて、受け入れてあげることでネガティブは消えてゆくわけです。
悪い思いに対しては無関心でいる、というのが基本です。これらは仏教などでも言われていますね。
(1-33) 友情、慈悲、喜ぶこと、無関心、がそれぞれ、幸福、不幸、よい、わるい対象に対して思われればチッタ(心)をしずめる。(中略)もし思いの対象が不幸なものであれば、それに対し、慈悲深くなければならない。もしそれが良いものであれば、われわれは喜ばなければならない。それが悪いものであればわれわれは無関心でなければならない。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
瞑想においてもこれが基本にありますから、ネガティブな思いに対して無関心でいるのが基本で、それに加えて、ポジティブな思いを想起する、というわけです。
ですけど、実際のところ、そうしてわざわざポジティブな思いを想起しなくてはいけないというのは瞑想の割と最初の段階だけで、ネガティブな思いが出てくるというのはエネルギー総量が低いということでもありますから、エネルギーが高まれば自然にポジティブになりますし、エネルギーが高まりさえすれば、そこに至るまでに多少のネガティブな抑圧があったとしてもそれも含めて解消されます。
エネルギーの高まりとは、平たくいえば「元気になる」ということですね。元気になればポジティブになる、という当たり前のお話です。
ですから、根本的解決はエネルギー的な解決であるわけですけれども、そうは言いましてもエネルギー的な解決には時間がかかりますので、ひとまずはこうしたテクニックも必要になってくるわけです。
ヨーガ的に言えばエネルギーの高まりとはクンダリーニの活性化ですけど、一般的には運動したりポジティブシンキングとか色々ありますし、エネルギーの高い食べ物を取るとか、いかようにもできると思います。
根本的解決にはエネルギーの高まり、クンダリーニの活性化が必要になるとしても、テクニックとしては「反対の思いを想起する」という方法はあるわけです。
瞑想でいつの間にか自己暗示にかからないよう注意する
特定の流派において、その流派の瞑想をしている人だけが何故か「キレやすい」、「怒りの沸点が低い」、「他人を見下す」というような、瞑想の目的とは逆の効果が出てきてしまっている場合があります。
これは、瞑想において自己暗示にかかっていることがあって、実際には瞑想がうまくできていないのにもかかわらず「自分は瞑想できている」と思っていますが、実際のところ、感情を抑圧して瞑想っぽい状態を作り上げているわけで、その抑圧された感情が何らかのきっかけで刺激されると低い怒りの沸点にすぐに到達してキレてしまったり、他人を見下す気持ちが出てきてしまうわけですよね。
抑圧とここで書いていますけど、「想像する」と言い換えても良いです。
自分が瞑想できていると「想像」してしまうわけですよね。
ですけど、実際の所、瞑想とは「自然に生じてくる」ものであって、自分の心が想像するものではないのですよね。
例えば、集中瞑想をしていると瞑想状態が自然に生じてきます。
心が一点に縛り付けられることで、それまで表層に出ていなかった奥深い意識が現れてくるわけです。それは文字通り「現れてくる」ということであって、想像したりするものではありません。
流派によっては瞑想中に体の感覚を観察したりするわけですけれども、そのような「観察」の感覚は誤解が生じやすくて、観察を心でしていること自体は五感に属するもので、瞑想で現れてくる「観察」は五感の観察ではなくて五感を超えているものなのですよね。
その一方で、五感の観察が瞑想状態だと勘違いしてしまう人もいて、その場合、割と想像で「瞑想できている」「観察できている」と思ってしまって、いわば自己暗示にかかってしまうこともあるわけです。
実際の所、そのように想像していたり皮膚の観察をしている状態と、実際にサマーディあるいはヴィパッサナー状態になっているときとは全く別物なのですけれども、最初は見分けがつかないですよね。そのような状態で、単に五感で観察しているだけにもかかわらず瞑想できていると自己暗示にかかってしまうことがあるわけです。
これは、それが悪いと言っているわけではなくて、割と初心者にはよくあることで、そのような勘違いすらもきちんと観察して、次のステップに進めばいいわけです。
流派によってそのような初心者の勘違いを指摘して間違っているとか単なる想像だとか言って、時には辱めるような指導をするところもあるようですけど、私からしてみたらそれは初心者が一定の段階に進んだことを示す重要な「しるし」であって、進歩の印なのではないかと思っております。瞑想をしていなければそこにすらたどり着かないわけですからね。十分な進歩だと思うわけです。
ですけど、そこで留まってしまって既に最終地点に到達したと勘違いしてしまうのは良くなくて、それは指摘してあげる必要が時にはあるかと思います。
とは言いましても、探究心が旺盛な人であれば「何かおかしいな。ここが最終地点なのかな。その割には自分の意識はこの程度だな」と思って、更に探求を進めるわけです。
その、自分で探求する、というところが面白いわけで。
別に、答えを求めているわけではないのですよね。
答え自身は書物のどこかに書いてあるわけですけれども、瞑想で面白いのはそのようなステップを一つづつ自分の感覚を頼りに探っていくところであって、それなしに最後の答えだけ示されても拍子抜けというか興ざめであったりするわけです。
自己探求こそが瞑想であると思うわけです。
これは、瞑想において自己暗示にかかっていることがあって、実際には瞑想がうまくできていないのにもかかわらず「自分は瞑想できている」と思っていますが、実際のところ、感情を抑圧して瞑想っぽい状態を作り上げているわけで、その抑圧された感情が何らかのきっかけで刺激されると低い怒りの沸点にすぐに到達してキレてしまったり、他人を見下す気持ちが出てきてしまうわけですよね。
抑圧とここで書いていますけど、「想像する」と言い換えても良いです。
自分が瞑想できていると「想像」してしまうわけですよね。
ですけど、実際の所、瞑想とは「自然に生じてくる」ものであって、自分の心が想像するものではないのですよね。
例えば、集中瞑想をしていると瞑想状態が自然に生じてきます。
心が一点に縛り付けられることで、それまで表層に出ていなかった奥深い意識が現れてくるわけです。それは文字通り「現れてくる」ということであって、想像したりするものではありません。
流派によっては瞑想中に体の感覚を観察したりするわけですけれども、そのような「観察」の感覚は誤解が生じやすくて、観察を心でしていること自体は五感に属するもので、瞑想で現れてくる「観察」は五感の観察ではなくて五感を超えているものなのですよね。
その一方で、五感の観察が瞑想状態だと勘違いしてしまう人もいて、その場合、割と想像で「瞑想できている」「観察できている」と思ってしまって、いわば自己暗示にかかってしまうこともあるわけです。
実際の所、そのように想像していたり皮膚の観察をしている状態と、実際にサマーディあるいはヴィパッサナー状態になっているときとは全く別物なのですけれども、最初は見分けがつかないですよね。そのような状態で、単に五感で観察しているだけにもかかわらず瞑想できていると自己暗示にかかってしまうことがあるわけです。
これは、それが悪いと言っているわけではなくて、割と初心者にはよくあることで、そのような勘違いすらもきちんと観察して、次のステップに進めばいいわけです。
流派によってそのような初心者の勘違いを指摘して間違っているとか単なる想像だとか言って、時には辱めるような指導をするところもあるようですけど、私からしてみたらそれは初心者が一定の段階に進んだことを示す重要な「しるし」であって、進歩の印なのではないかと思っております。瞑想をしていなければそこにすらたどり着かないわけですからね。十分な進歩だと思うわけです。
ですけど、そこで留まってしまって既に最終地点に到達したと勘違いしてしまうのは良くなくて、それは指摘してあげる必要が時にはあるかと思います。
とは言いましても、探究心が旺盛な人であれば「何かおかしいな。ここが最終地点なのかな。その割には自分の意識はこの程度だな」と思って、更に探求を進めるわけです。
その、自分で探求する、というところが面白いわけで。
別に、答えを求めているわけではないのですよね。
答え自身は書物のどこかに書いてあるわけですけれども、瞑想で面白いのはそのようなステップを一つづつ自分の感覚を頼りに探っていくところであって、それなしに最後の答えだけ示されても拍子抜けというか興ざめであったりするわけです。
自己探求こそが瞑想であると思うわけです。
過去も未来も存在している。今しかない、なんてことはない
スピリチュアルではよく「今」しか存在しないのです、とか、過去も未来も存在しないのです、とか、過去も未来も「今」なのです、みたいなお話をよく聞きますけど、あまりこういうお話を真に受けない方がよいと思います。
これは個人的な意見ですけどね。何を信じるも自由ですので好きに自分で何でも信じたらいいとは思いますけど。
一般的には過去というのは過ぎ去ったもので変えることはできず、未来はまだ来ていなくてこれから創造するものだ、と言われています。
これは、たとえ時空間を超えてパラレルワールドを行き来できるようになったとしてもこの根本的な性質は変わることがありません。
私が幽体離脱して過去も未来も自由に行き来して確認したところによると、一部はそういう最初に書いたような主張が正しい面もありますけど、かなり誤解のあるお話だと思いますけどね。
もともと時間というものは物事の経過を細かく見ることができるように「分割」してしっかりと物事を見極められるように存在しているという面もありますので、過去も未来も存在していなくてごっちゃになってしまったとしたら「理解」が進まなくなってしまいます。この世を作り出した存在、それを神様というのか創造神というのかはそれぞれですけど、その根本の意思の意図としては「理解」がしたいわけですので、時間というものを作り出して分割することで理解を促進しているという面もあるわけですね。
ですから過去も未来も存在しています。
ただ、過去は固定的なもので未来はまだ存在していないかと言うとそれはちょっと概念が異なっていて、過去も未来もちょっと違った形で存在しています。
そして、現在は流動的なもので変更できると一般的には思われていますけど、実際のところ、「現在」というのも多くの人にとっては「固定的」なものです。自由意志で自分の好きなように未来を創造していると一般的には思われていますけど、ほとんどの人々にとっては現在というものは自由意志とは無関係に、ただタイムライン上の動きをトレースしているだけになります。
実際のところ、多くの人々にとっては「過去も現在も未来も全て固定的なもの」です。
ある程度スピリチュアル的に目覚めた人は「現在」の意思から離れて過去も未来も見通せます。その時に始めて現在のタイムライン上の動きとは「離れて」、自由意志を働かせることができるようになるのであって、意識がそこに達するまではタイムライン上の動きをトレースしているにすぎないわけです。
そして、意識が過去の時点にフォーカスすることもできて、意識が過去のその時点にフォーカスしたら「意思」から見た主観としてはその時点は「現在」になるわけですけれども、それはもともといた時間の場所から見たら「過去」なわけで、その時間をなんと言うのかと言うと、主観であったとしてももともとの時間からしたら「過去」ですし、タイムライン全体から相対的に見てもやっぱり「過去」なわけです。主観で見た時はそれは「現在」になりますけど、だからと言って「過去なんて存在しない」なんてことにはならないですし、であれば、過去は存在していると言うのが正しいです。
未来も同様で、未来は存在していますし、未来にフォーカスしたらその意識の主観からしたら現在になりますけど、もともといた時間から見たらやっぱり未来でしかないわけです。ですから、未来が存在しない、なんてことにはならないです。
意思という面を見ていくと、「現在」というのは、ただ単に、自分の「意識」が「今(現在)」にフォーカスしている、というだけのことです。ここで言っている「今(現在)」というのは文字通り現在のこの瞬間ということで、そのフォーカスが現在という時間を作り出している・・・ というと語弊がありますけど、今という瞬間を見ているわけです。
普通の人にとっては過去は固定的で変えることができなくて、現在も固定的なもので、未来も固定的なものです。ですから、スピリチュアルな人が「すべて現在なのです」とか言うお話を聞きかじって「ふむふむ」と思ったところで自分の現実が何ら変わることがないですし、「だから何?」というくらいにしかならない気が致します。
それよりも、時間の壁を破って時間の外側に意識を飛ばすことができるようになれば現実を作っていくことが可能になって、固定的なタイムラインから離れてまさに「自由意志」を働かせることができるようになります。重要なのはそちらであって、時間がどうこう、というのは単なるお話程度にしかならないわけです。
意識が先に変革されると過去も未来も現在も流動的なものになって、過去を変えようと思えば過去の意思に働きかけてよりよいタイムラインに動かしたり、未来は現在の行動によって変わりますからもともとタイムライン上にあった未来が消えるなんてことはよくあります。
とは言いましてもそれはある程度のスピリチュアルになってからのお話で、それまでは過去も現在も未来も固定的なものとして存在している(ように見える)わけです。
これは個人的な意見ですけどね。何を信じるも自由ですので好きに自分で何でも信じたらいいとは思いますけど。
一般的には過去というのは過ぎ去ったもので変えることはできず、未来はまだ来ていなくてこれから創造するものだ、と言われています。
これは、たとえ時空間を超えてパラレルワールドを行き来できるようになったとしてもこの根本的な性質は変わることがありません。
私が幽体離脱して過去も未来も自由に行き来して確認したところによると、一部はそういう最初に書いたような主張が正しい面もありますけど、かなり誤解のあるお話だと思いますけどね。
もともと時間というものは物事の経過を細かく見ることができるように「分割」してしっかりと物事を見極められるように存在しているという面もありますので、過去も未来も存在していなくてごっちゃになってしまったとしたら「理解」が進まなくなってしまいます。この世を作り出した存在、それを神様というのか創造神というのかはそれぞれですけど、その根本の意思の意図としては「理解」がしたいわけですので、時間というものを作り出して分割することで理解を促進しているという面もあるわけですね。
ですから過去も未来も存在しています。
ただ、過去は固定的なもので未来はまだ存在していないかと言うとそれはちょっと概念が異なっていて、過去も未来もちょっと違った形で存在しています。
そして、現在は流動的なもので変更できると一般的には思われていますけど、実際のところ、「現在」というのも多くの人にとっては「固定的」なものです。自由意志で自分の好きなように未来を創造していると一般的には思われていますけど、ほとんどの人々にとっては現在というものは自由意志とは無関係に、ただタイムライン上の動きをトレースしているだけになります。
実際のところ、多くの人々にとっては「過去も現在も未来も全て固定的なもの」です。
ある程度スピリチュアル的に目覚めた人は「現在」の意思から離れて過去も未来も見通せます。その時に始めて現在のタイムライン上の動きとは「離れて」、自由意志を働かせることができるようになるのであって、意識がそこに達するまではタイムライン上の動きをトレースしているにすぎないわけです。
そして、意識が過去の時点にフォーカスすることもできて、意識が過去のその時点にフォーカスしたら「意思」から見た主観としてはその時点は「現在」になるわけですけれども、それはもともといた時間の場所から見たら「過去」なわけで、その時間をなんと言うのかと言うと、主観であったとしてももともとの時間からしたら「過去」ですし、タイムライン全体から相対的に見てもやっぱり「過去」なわけです。主観で見た時はそれは「現在」になりますけど、だからと言って「過去なんて存在しない」なんてことにはならないですし、であれば、過去は存在していると言うのが正しいです。
未来も同様で、未来は存在していますし、未来にフォーカスしたらその意識の主観からしたら現在になりますけど、もともといた時間から見たらやっぱり未来でしかないわけです。ですから、未来が存在しない、なんてことにはならないです。
意思という面を見ていくと、「現在」というのは、ただ単に、自分の「意識」が「今(現在)」にフォーカスしている、というだけのことです。ここで言っている「今(現在)」というのは文字通り現在のこの瞬間ということで、そのフォーカスが現在という時間を作り出している・・・ というと語弊がありますけど、今という瞬間を見ているわけです。
普通の人にとっては過去は固定的で変えることができなくて、現在も固定的なもので、未来も固定的なものです。ですから、スピリチュアルな人が「すべて現在なのです」とか言うお話を聞きかじって「ふむふむ」と思ったところで自分の現実が何ら変わることがないですし、「だから何?」というくらいにしかならない気が致します。
それよりも、時間の壁を破って時間の外側に意識を飛ばすことができるようになれば現実を作っていくことが可能になって、固定的なタイムラインから離れてまさに「自由意志」を働かせることができるようになります。重要なのはそちらであって、時間がどうこう、というのは単なるお話程度にしかならないわけです。
意識が先に変革されると過去も未来も現在も流動的なものになって、過去を変えようと思えば過去の意思に働きかけてよりよいタイムラインに動かしたり、未来は現在の行動によって変わりますからもともとタイムライン上にあった未来が消えるなんてことはよくあります。
とは言いましてもそれはある程度のスピリチュアルになってからのお話で、それまでは過去も現在も未来も固定的なものとして存在している(ように見える)わけです。
魂と感覚が一致しているかズレているかチェックする
ちょっと疲れている時は魂と感覚が少しズレていて、魂が動きに引きづられる感覚になります。体が動くとそれを同時にズレなく感覚として把握できている場合は意識がはっきりしている時で元気な時です。
疲れている時は、体の動きに対して魂がちょっとズレて、一瞬、魂が引きずられてから一致する状態に戻るという振り子のような動きになります。
最初は、疲れている時のこれらのズレはよろしくない状態なのかなと自分では解釈しておりましたが、実際のところ、このズレは自分の魂と肉体とを認識するための良いヒントになるので、疲れ自体はそれほど好ましくはないものの、一時的にこのような状態を作り出すかあるいは時に疲れる時はこのようなズレを観察してみるのも良いかなと思いました。
元気な時は主にマニプラがうまく働いていて、いわゆる丹田のエネルギーが体中にみなぎっていて、それ故に、観察状態も途切れなくズレなく体中に行き届いています。
それはそれで好ましい状態であることには違いないのですが、疲れた状態・・・ と言っても、普段の生活で特別そういったことはあまりなくて、ハイキングしたり長く散歩をするとかちょっと長めにサイクリングするとか、何がしか原因があって疲れ気味になった時、このような体と魂とのズレを感じることができます。
これは何故、好ましい面もある状態かと言うと、魂と肉体とは一体で動くのが基本で観察状態というのが基本にあるものの、実はそれらは切り離すことができて、魂と肉体とを切り離すことができればできるほど完全な分離の観察状態へと持っていけるからです。
・・・このあたり、語弊があるかもしれません。スピリチュアルで分離というと良くないことのように思えてしまうかもしれませんけど、ここで言っている分離というのは独立という意味合いで理解してほしくて、本来魂は汚れることがない純粋なものなのですけれども肉体に引っ張られてしまっているのですよね。魂にはもともと形もなくて純粋なもの、というのは流派によって色々と解釈がありますけど、ヨーガあるいはヴェーダで言うところのアートマンは永遠不滅で汚れることのない存在としてあるのですが、それが、あたかも肉体に引っ張られてしまっているかのように錯覚・・・ というか、覆いが被せられていて、肉体に引きずられてしまっているのですよね。
その、もともと純粋で独立しているアートマンあるいは魂を肉体から分離させるために、このような「ちょっと疲れた」状態で魂が体の動きに引きずられる感覚を味わうことは良い気づきのヒントを与えてくれると思っています。
実際のところ、何も修行とかしていない人ですと肉体と魂とはかなり分離していて、その、修行していない状態の分離に戻れと言っているわけではありません。
修行していない状態の分離は制御されていない分離であって、アートマンの覆い(タマス)は厚く濃い影のように覆いかぶさっていて、アートマンが見えることはありません。
一方、ある程度の修行をしてアートマンが見えてきて、魂あるいはアートマンと体とが一体になって始めてこれらの事柄が意味をなしてくるわけで、この状態ですと魂あるいはアートマンと体とが一体になって動いていて分離はさほどなくなっていますから、これが基本になった状態でたまに疲れると、その疲れの状態とは多少の分離を生み出して、その多少の分離こそが次なる完全な分離の常時観察状態へと持っていくための鍵というかヒントを与えてくれると思うのです。
この状態ですと、ついつい魂あるいはアートマンと体との一体化を追い求めすぎてしまいます。一体化した状態で体を自由自在に動かすことあるいは体や心を詳細に観察することが普通になってきて、そのヴィパッサナー(観察)状態を維持すること自体が目的と化してしまうことがあります。実際のところ、人間の体そのものも一時的なものですので、人間の体すらも知識を得るための手段でしかないのに、その操作方法に熟達することおよび人間の体と一体化すること自体が目的になってしまって、いつまでも人間の体を操作し続けてしまうという罠に落ち込んでしまうわけです。
そこで、意図的あるいはたまに疲れると、それらのヴィパッサナー状態に「ゆらぎ」を与えて、一時的な「分離」を作り出し、その「分離」こそが現状打破の鍵となって次の状態である、完全な意識の肉体からの分離による常時観察状態へと歩んでいけるわけです。
最近のスピリチュアルや仏教では苦行は良くないとか言われていますけど、たしかに昔ながらの苦行は良くないとは思いますけど、多少のきっかけ作りとしてはありなのかな、とも思います。
ただし、これらはとても誤解があるものだと思いますので安易に他人には勧めませんし、こう書いたからと言って他人に有益かどうかもわかりません。私はたまたま現在ある環境を利用しているだけという面もありますので、わざわざこのような分離状態を作り出す必要もないような気も致します。
とは言いましても、瞑想録として記録はしておきます。
疲れている時は、体の動きに対して魂がちょっとズレて、一瞬、魂が引きずられてから一致する状態に戻るという振り子のような動きになります。
最初は、疲れている時のこれらのズレはよろしくない状態なのかなと自分では解釈しておりましたが、実際のところ、このズレは自分の魂と肉体とを認識するための良いヒントになるので、疲れ自体はそれほど好ましくはないものの、一時的にこのような状態を作り出すかあるいは時に疲れる時はこのようなズレを観察してみるのも良いかなと思いました。
元気な時は主にマニプラがうまく働いていて、いわゆる丹田のエネルギーが体中にみなぎっていて、それ故に、観察状態も途切れなくズレなく体中に行き届いています。
それはそれで好ましい状態であることには違いないのですが、疲れた状態・・・ と言っても、普段の生活で特別そういったことはあまりなくて、ハイキングしたり長く散歩をするとかちょっと長めにサイクリングするとか、何がしか原因があって疲れ気味になった時、このような体と魂とのズレを感じることができます。
これは何故、好ましい面もある状態かと言うと、魂と肉体とは一体で動くのが基本で観察状態というのが基本にあるものの、実はそれらは切り離すことができて、魂と肉体とを切り離すことができればできるほど完全な分離の観察状態へと持っていけるからです。
・・・このあたり、語弊があるかもしれません。スピリチュアルで分離というと良くないことのように思えてしまうかもしれませんけど、ここで言っている分離というのは独立という意味合いで理解してほしくて、本来魂は汚れることがない純粋なものなのですけれども肉体に引っ張られてしまっているのですよね。魂にはもともと形もなくて純粋なもの、というのは流派によって色々と解釈がありますけど、ヨーガあるいはヴェーダで言うところのアートマンは永遠不滅で汚れることのない存在としてあるのですが、それが、あたかも肉体に引っ張られてしまっているかのように錯覚・・・ というか、覆いが被せられていて、肉体に引きずられてしまっているのですよね。
その、もともと純粋で独立しているアートマンあるいは魂を肉体から分離させるために、このような「ちょっと疲れた」状態で魂が体の動きに引きずられる感覚を味わうことは良い気づきのヒントを与えてくれると思っています。
実際のところ、何も修行とかしていない人ですと肉体と魂とはかなり分離していて、その、修行していない状態の分離に戻れと言っているわけではありません。
修行していない状態の分離は制御されていない分離であって、アートマンの覆い(タマス)は厚く濃い影のように覆いかぶさっていて、アートマンが見えることはありません。
一方、ある程度の修行をしてアートマンが見えてきて、魂あるいはアートマンと体とが一体になって始めてこれらの事柄が意味をなしてくるわけで、この状態ですと魂あるいはアートマンと体とが一体になって動いていて分離はさほどなくなっていますから、これが基本になった状態でたまに疲れると、その疲れの状態とは多少の分離を生み出して、その多少の分離こそが次なる完全な分離の常時観察状態へと持っていくための鍵というかヒントを与えてくれると思うのです。
この状態ですと、ついつい魂あるいはアートマンと体との一体化を追い求めすぎてしまいます。一体化した状態で体を自由自在に動かすことあるいは体や心を詳細に観察することが普通になってきて、そのヴィパッサナー(観察)状態を維持すること自体が目的と化してしまうことがあります。実際のところ、人間の体そのものも一時的なものですので、人間の体すらも知識を得るための手段でしかないのに、その操作方法に熟達することおよび人間の体と一体化すること自体が目的になってしまって、いつまでも人間の体を操作し続けてしまうという罠に落ち込んでしまうわけです。
そこで、意図的あるいはたまに疲れると、それらのヴィパッサナー状態に「ゆらぎ」を与えて、一時的な「分離」を作り出し、その「分離」こそが現状打破の鍵となって次の状態である、完全な意識の肉体からの分離による常時観察状態へと歩んでいけるわけです。
最近のスピリチュアルや仏教では苦行は良くないとか言われていますけど、たしかに昔ながらの苦行は良くないとは思いますけど、多少のきっかけ作りとしてはありなのかな、とも思います。
ただし、これらはとても誤解があるものだと思いますので安易に他人には勧めませんし、こう書いたからと言って他人に有益かどうかもわかりません。私はたまたま現在ある環境を利用しているだけという面もありますので、わざわざこのような分離状態を作り出す必要もないような気も致します。
とは言いましても、瞑想録として記録はしておきます。
肉体と魂を引き離して意識を上昇させる
意識が高層ビルのエレベータに乗って上昇するかのような感覚になってアジナあるいはサハスララの付近に意識が移動します。
もともと、体と感覚が一体になっている時は割とマニプラが優勢で、特に目や皮膚の感覚をヴィパッサナー状態あるいはカニカ・サマーディの状態で観察し続けています。
一方、アジナあるいはサハスララに意識が集まった時は五感を観察し続けているものの体と意識が一体という感覚から少し離れたものになります。
分離と言うとスピリチュアルでは割と悪者にされていますけれども、ここで言う分離とは、もともと肉体と魂とは独立しているものがヨーガでいうところの「無知」によってそれら体と魂が一体であるかのように錯覚している状態から体と魂を分離させる必要があるということです。
ここで誤解して欲しくはないのは、魂と体が完全に別物だと言っているわけではなく、アートマンあるいはブラフマンのレベルまで微細なところを見ればどちらも一体でありますので体も魂も違いははないということにはなりますけど、体と魂とが別物であるというのは実際にその粗大あるいはそれなりに微細な粒度においてはきちんと別物として存在しておりますので、そのように、ぼちぼち微細な粒度を見れば粗大な体とぼちぼち微細な魂とは別物だということであって、更に極限まで微細なところを見ればアートマンあるいはブラフマンの粒度においては同一であるというのはその通りなわけです。
そのように、人間が認識している粗大な肉体という体ともう少しだけ微細な魂(ヨーガでは魂とは言いませんけど)では、その素質は異なるわけで、それらが同一だと勘違いしている状態から引き離してあげる必要があるということです。
比喩的に言えば、ありのままを見る、ということでもありますが、そう言われたからと言ってわかるようでわからないお話かとも思います。
具体的に言えば、もともと五感の目とか皮膚とかの感覚を観察していて、その感覚と自分とが一体になっている状態から、感覚と自分という感覚が分離した状態に遷移するということです。
特に五感の目はマニプラが扱っているとヨーガでは言います。一方、直感の目はアジナです。
魂を体から引き離すということは、五感の目から、直感的な目に遷移するということであり、五感の目を扱っているマニプラから直感的な目であるアジナあるいはサハスララに意識の主観を移動させる、上昇させる、ということになります。
瞑想をしていて、魂が肉体と少し分離した時がチャンスで、オーラの手で魂を持ってあげると意識が上昇し始めて五感から離れ、高層ビルのエスカレータあるいは上昇気流に乗ったパラシュートか気球のようにぐんぐんと高度を上げてゆき、意識がアジナあるいはサハスララに到達することで感覚的な目が冴えてきます。その時は、五感と自分が一体になったという感覚から少し離れて、観察状態が優勢になります。とは言いましても肉体はまだありますので五感はなくなったりしませんし、それらが動いていて自分というものがあるという感覚はまだあります。しかし、それら五感が自分自身だったという感覚は随分と薄まって、多少の高みからそれら五感を眺めているような感覚になります。
実際のところ、本当は魂と体とは完全に分離ができて、自分以外の視点からも世界を眺められるのだという確証を得ます。ただし、これはあくまでも確証を得たという段階であって、実際にまだここでは魂と体とは完全に分離はできていなくて、ただ単に文字通り確証を得ただけの段階になります。
それでも、今まで体と魂とが一体になっていた状態と比べると随分と進歩したと言えます。
今までの瞑想ではサハスララに意識が集まったとは言っても体と魂がまだマニプラあるいはアナハタにある状態でサハスララにまでオーラが行き届いたということでした。一方で今回は、意識の中枢が一時的にとはいえアジナサハスララに移ったという感じであり、それなりの違いがあります。
比喩的に言えば、サハスララにオーラが集まって観察状態になる前はハイキングや登山をしてもなかなか頂上が見えてこなかった状態で、サハスララにオーラが集まった状態は山の頂上を尾根あるいはふもとから眺めて素晴らしいと言っていたのに相当し、今回は、実際に小さな山の上に登って素晴らしい、と感じる違いがあります。まだまだ素晴らしい山はありそうですけど、少なくとも、そのような違いがあります。
もともと、体と感覚が一体になっている時は割とマニプラが優勢で、特に目や皮膚の感覚をヴィパッサナー状態あるいはカニカ・サマーディの状態で観察し続けています。
一方、アジナあるいはサハスララに意識が集まった時は五感を観察し続けているものの体と意識が一体という感覚から少し離れたものになります。
分離と言うとスピリチュアルでは割と悪者にされていますけれども、ここで言う分離とは、もともと肉体と魂とは独立しているものがヨーガでいうところの「無知」によってそれら体と魂が一体であるかのように錯覚している状態から体と魂を分離させる必要があるということです。
ここで誤解して欲しくはないのは、魂と体が完全に別物だと言っているわけではなく、アートマンあるいはブラフマンのレベルまで微細なところを見ればどちらも一体でありますので体も魂も違いははないということにはなりますけど、体と魂とが別物であるというのは実際にその粗大あるいはそれなりに微細な粒度においてはきちんと別物として存在しておりますので、そのように、ぼちぼち微細な粒度を見れば粗大な体とぼちぼち微細な魂とは別物だということであって、更に極限まで微細なところを見ればアートマンあるいはブラフマンの粒度においては同一であるというのはその通りなわけです。
そのように、人間が認識している粗大な肉体という体ともう少しだけ微細な魂(ヨーガでは魂とは言いませんけど)では、その素質は異なるわけで、それらが同一だと勘違いしている状態から引き離してあげる必要があるということです。
比喩的に言えば、ありのままを見る、ということでもありますが、そう言われたからと言ってわかるようでわからないお話かとも思います。
具体的に言えば、もともと五感の目とか皮膚とかの感覚を観察していて、その感覚と自分とが一体になっている状態から、感覚と自分という感覚が分離した状態に遷移するということです。
特に五感の目はマニプラが扱っているとヨーガでは言います。一方、直感の目はアジナです。
魂を体から引き離すということは、五感の目から、直感的な目に遷移するということであり、五感の目を扱っているマニプラから直感的な目であるアジナあるいはサハスララに意識の主観を移動させる、上昇させる、ということになります。
瞑想をしていて、魂が肉体と少し分離した時がチャンスで、オーラの手で魂を持ってあげると意識が上昇し始めて五感から離れ、高層ビルのエスカレータあるいは上昇気流に乗ったパラシュートか気球のようにぐんぐんと高度を上げてゆき、意識がアジナあるいはサハスララに到達することで感覚的な目が冴えてきます。その時は、五感と自分が一体になったという感覚から少し離れて、観察状態が優勢になります。とは言いましても肉体はまだありますので五感はなくなったりしませんし、それらが動いていて自分というものがあるという感覚はまだあります。しかし、それら五感が自分自身だったという感覚は随分と薄まって、多少の高みからそれら五感を眺めているような感覚になります。
実際のところ、本当は魂と体とは完全に分離ができて、自分以外の視点からも世界を眺められるのだという確証を得ます。ただし、これはあくまでも確証を得たという段階であって、実際にまだここでは魂と体とは完全に分離はできていなくて、ただ単に文字通り確証を得ただけの段階になります。
それでも、今まで体と魂とが一体になっていた状態と比べると随分と進歩したと言えます。
今までの瞑想ではサハスララに意識が集まったとは言っても体と魂がまだマニプラあるいはアナハタにある状態でサハスララにまでオーラが行き届いたということでした。一方で今回は、意識の中枢が一時的にとはいえアジナサハスララに移ったという感じであり、それなりの違いがあります。
比喩的に言えば、サハスララにオーラが集まって観察状態になる前はハイキングや登山をしてもなかなか頂上が見えてこなかった状態で、サハスララにオーラが集まった状態は山の頂上を尾根あるいはふもとから眺めて素晴らしいと言っていたのに相当し、今回は、実際に小さな山の上に登って素晴らしい、と感じる違いがあります。まだまだ素晴らしい山はありそうですけど、少なくとも、そのような違いがあります。
クンダリーニ経験がある人とない人
一般的にはクンダリーニ経験があるとスピリチュアル的に成長しているかのように理解されていると思いますが、実際はそのような単純なものではありません。
クンダリーニ経験がない人もいますし、ある人もいます。
ですが、クンダリーニ経験があるからと言ってない人よりスピリチュアル的に必ずしも優れているとは限りません。
実際のところ、この地球上には多くの意識体が転生してきていて、天使系あるいは神様の世界から転生してきている人はオーラが上層部のアジナより上が活性化していて下方のマニプラ以下は活性化しておりませんので、このような人の場合はクンダリーニの経験がない場合が多いように思います。
一方で、地球育ちの魂の場合は下方のオーラが活性化しておりますので、ムーラダーラあるいはそれ以前が活性化している状態です。これであればムーラダーラの目覚めが起きたときにクンダリーニの経験として認知されます。
これらを比べてみますと、クンダリーニの経験がある地球育ちの魂よりも天使あるいは神様の世界から生まれた魂の方が成長していると言えます。
現代において、どこかクンダリーニというものが神聖化されていて、クンダリーニが覚醒すれば悟れるとか覚醒できるとかクンダリーニの覚醒は危険を伴うだとか、そのような、ある意味誤解も含めた部分でクンダリーニが理解されているように思います。
実際のところ、クンダリーニというのはエネルギー的な覚醒ですので、生まれながらにある程度のエネルギーを持って生まれる人もいて、そのエネルギーの質というものも人によって異なっていて、その質は主に魂の遍歴、魂がどこから来たかによって大きく変わるわけです。
ですから、特にこの日本においてはもともとある程度の覚醒をしながら生まれてきた人がそれなりにいて、特に、俗に日本の神界と呼ばれているようなあの世の世界から生まれてきた魂もかなり大勢いますので、特に日本においてはクンダリーニなんてあんまり気にする必要はないのかなとも思います。
もちろんクンダリーニ的な覚醒が素晴らしい結果に導く人もいますし、一方で、あまり関係ない人もいるわけです。
周囲を見てみると、ヨーガをしている人の間でこのクンダリーニの神話は根強くて、自分はまだクンダリーニ経験がないからと言って悩んでいる人も時々いらっしゃいますけど、私からすれば、そんなの悩む必要なんて全くないと思いますけどね。だって、もともとそれなりに覚醒しているのに、何を今更クンダリーニなんて気にしているのでしょう・・・ という、ちょっと面白い喜劇のようにも感じられてしまうわけです。
もともと天使や神様の出身でこの世に生まれた場合はオーラが上層に集まっていますので、そのような人にとっては、ある意味、地球的な、下方のオーラ、下方のチャクラ、マニプラだとかスワディスタナ、ムーラダーラのエネルギーを知ることが学びになっている面もあるわけです。
一方で、地球育ちの魂であれば下方から始めて上方を少しずつ学ぶという順番になります。
昔であれば地球育ちが多かったですけど、今、特に日本ではそうでもなかったりしますので、あまり昔のワンパターンに当てはめない方がいいかなあ、とも思っています。
割合から言うと天使の出身はそれほど多くないですけど、日本のいわゆる神界出身者はそれなりに多くて、いわゆる日本人風みたいな人の多くは日本のいわゆる神界出身であることが多いです。日本神界の場合、チャクラで優勢なのはマニプラあたりまでですね。
ちょっと話がごっちゃになってわかりにくいかもしれませんけど、上チャクラから始まって下チャクラを勉強している人と、下チャクラから始まって上チャクラを勉強している人がいるということです。
そして、天使や神様の場合は前者で、地球生まれの魂の場合は後者であるということです。それが基本です。
ですけど実際にはもっと細かくて、天使であればだいたいこの通りですけど神様にもいろいろいて、こんな感じの神様もいればトータルにチャクラが活性化している神様もいて、一方で、いわゆる日本神界の場合は下チャクラから始まってマニプラくらいまでが活性化していてこの場合もクンダリーニは割と既に活性化していますから今更改めてクンダリーニ経験することなんてあったりなかったりします。
もっと言ってしまうと、クンダリーニ経験がムーラダーラでのお話なのかマニプラやアナハタあるいはアジナで起こるかによっても異なるわけで。一言でクンダリーニと言っても状況が色々違うわけで。ある人のクンダリーニ経験はある人にとっては生まれたときから当たり前かもしれないですし、一方で、クンダリーニ経験がアジナ体験だったりアナハタ体験だったりすることもあるわけです。
ですから、あんまりクンダリーニ経験を特別視する必要はなくて、それよりも、現在のその人のエネルギーの状態がどうなっているのかを見る方がよっぽどその人の状態を把握するのに有益のようにも思えます。
クンダリーニ経験がない人もいますし、ある人もいます。
ですが、クンダリーニ経験があるからと言ってない人よりスピリチュアル的に必ずしも優れているとは限りません。
実際のところ、この地球上には多くの意識体が転生してきていて、天使系あるいは神様の世界から転生してきている人はオーラが上層部のアジナより上が活性化していて下方のマニプラ以下は活性化しておりませんので、このような人の場合はクンダリーニの経験がない場合が多いように思います。
一方で、地球育ちの魂の場合は下方のオーラが活性化しておりますので、ムーラダーラあるいはそれ以前が活性化している状態です。これであればムーラダーラの目覚めが起きたときにクンダリーニの経験として認知されます。
これらを比べてみますと、クンダリーニの経験がある地球育ちの魂よりも天使あるいは神様の世界から生まれた魂の方が成長していると言えます。
現代において、どこかクンダリーニというものが神聖化されていて、クンダリーニが覚醒すれば悟れるとか覚醒できるとかクンダリーニの覚醒は危険を伴うだとか、そのような、ある意味誤解も含めた部分でクンダリーニが理解されているように思います。
実際のところ、クンダリーニというのはエネルギー的な覚醒ですので、生まれながらにある程度のエネルギーを持って生まれる人もいて、そのエネルギーの質というものも人によって異なっていて、その質は主に魂の遍歴、魂がどこから来たかによって大きく変わるわけです。
ですから、特にこの日本においてはもともとある程度の覚醒をしながら生まれてきた人がそれなりにいて、特に、俗に日本の神界と呼ばれているようなあの世の世界から生まれてきた魂もかなり大勢いますので、特に日本においてはクンダリーニなんてあんまり気にする必要はないのかなとも思います。
もちろんクンダリーニ的な覚醒が素晴らしい結果に導く人もいますし、一方で、あまり関係ない人もいるわけです。
周囲を見てみると、ヨーガをしている人の間でこのクンダリーニの神話は根強くて、自分はまだクンダリーニ経験がないからと言って悩んでいる人も時々いらっしゃいますけど、私からすれば、そんなの悩む必要なんて全くないと思いますけどね。だって、もともとそれなりに覚醒しているのに、何を今更クンダリーニなんて気にしているのでしょう・・・ という、ちょっと面白い喜劇のようにも感じられてしまうわけです。
もともと天使や神様の出身でこの世に生まれた場合はオーラが上層に集まっていますので、そのような人にとっては、ある意味、地球的な、下方のオーラ、下方のチャクラ、マニプラだとかスワディスタナ、ムーラダーラのエネルギーを知ることが学びになっている面もあるわけです。
一方で、地球育ちの魂であれば下方から始めて上方を少しずつ学ぶという順番になります。
昔であれば地球育ちが多かったですけど、今、特に日本ではそうでもなかったりしますので、あまり昔のワンパターンに当てはめない方がいいかなあ、とも思っています。
割合から言うと天使の出身はそれほど多くないですけど、日本のいわゆる神界出身者はそれなりに多くて、いわゆる日本人風みたいな人の多くは日本のいわゆる神界出身であることが多いです。日本神界の場合、チャクラで優勢なのはマニプラあたりまでですね。
ちょっと話がごっちゃになってわかりにくいかもしれませんけど、上チャクラから始まって下チャクラを勉強している人と、下チャクラから始まって上チャクラを勉強している人がいるということです。
そして、天使や神様の場合は前者で、地球生まれの魂の場合は後者であるということです。それが基本です。
ですけど実際にはもっと細かくて、天使であればだいたいこの通りですけど神様にもいろいろいて、こんな感じの神様もいればトータルにチャクラが活性化している神様もいて、一方で、いわゆる日本神界の場合は下チャクラから始まってマニプラくらいまでが活性化していてこの場合もクンダリーニは割と既に活性化していますから今更改めてクンダリーニ経験することなんてあったりなかったりします。
もっと言ってしまうと、クンダリーニ経験がムーラダーラでのお話なのかマニプラやアナハタあるいはアジナで起こるかによっても異なるわけで。一言でクンダリーニと言っても状況が色々違うわけで。ある人のクンダリーニ経験はある人にとっては生まれたときから当たり前かもしれないですし、一方で、クンダリーニ経験がアジナ体験だったりアナハタ体験だったりすることもあるわけです。
ですから、あんまりクンダリーニ経験を特別視する必要はなくて、それよりも、現在のその人のエネルギーの状態がどうなっているのかを見る方がよっぽどその人の状態を把握するのに有益のようにも思えます。