善悪がなくなる創造・破壊・維持の意識 - 瞑想録 2021年1月

2021-01-01 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

愛とはエネルギー

とても単純で、エネルギーが高まれば愛が深まる、ということだと思います。

エネルギーが低ければ誰かから分けてもらいたく思って、それが異性のパートナーだったりします。エネルギーが高ければ愛に包まれている状態になって他人から好かれますし、エネルギーが高い状態であれば他人からエネルギーを奪う必要もありません。

愛には奪う愛とか与える愛とか言われたりすることもありますけど、奪う愛とはエネルギーを奪うことで、与える愛とはエネルギーを与えることです。

他人を縛り付けておくような愛というのは相手からエネルギーを継続的に奪いたいという思考の現れで、それが愛として表現されているだけのことです。しかしながら根本はというとエネルギーのお話です。

他人に奉仕する人というのは他人にエネルギーを与える人なわけです。

愛とはエネルギーの高まりであり、女性であればそのことを「癒やし」と呼ぶかもしれませんし、男性ならば「パワーを高める」と言うかもしれません。

ですけど、根本的なところで言うと実のところその内容としては同じで、エネルギーの性質はちょっと違いますけど、両方ともエネルギーを高めるという点に関しては同一です。

女性ならそれを愛と言いやすいですけど男性なら愛と言いにくいかもしれません。しかしながら、それはエネルギーでありパワーであるのですから、「癒やし」であっても「癒やしのパワー」と言う言葉に違和感がないように、どちらもエネルギーの現れであるわけです。

男性ならば女性から受け取るのは愛で他で受け取るものはパワーだと言葉では分けるかもしれないですけど、どちらにせよエネルギーであり、愛以外のもの、例えば尊敬だとか感謝だとかいうものも結局はというとエネルギーであって、多少は違うエネルギーではありますけど、どちらにせよ愛のエネルギーと言ってもそう違わないものであるわけです。細かく言うとちょっと違う、というお話にはなりますけど、愛がエネルギー、という点に関しては大枠に関してはそうだと言えるわけです。

まあ、私はそんな感じで考えています。他の人は違う考えがあるかもしれませんね。それは好きにすればいいと思います。別に他人の考えを変えるために書いているわけではありませんので。他人は好きに生きればいいと思います。

昔は、この考え方をよく耳にしていても、どこかピンと来ていませんでした。

「愛とは何か?」

これは、普遍的な昔からのテーマかもしれません。

愛というと男女間の愛がまず最初に来て、普遍的な男女を超えた社会的な愛に広がる、というのが一般的な理解だと思います。それはそれでいいのですけど、その枠組が、どこか根本のところでピンときていなかったのですよね。

奪う愛と与える愛、そして普遍的な愛。それぞれ愛の形があって、その枠組で考えると、片方を取ると片方が否定される、という関係にありました。例えば、奪う愛を良くないものとして与える愛を良いものと考える。あるいは普遍的な愛を良いものとすると与える愛も否定されてしまったりする。頭で考えてもなかなか解決することではなかったのですよね。

それが、自らエネルギーが高まって以来、癒やしに対する観念が変わりました。エネルギーが高まることが癒やしあるいはパワー、男らしさ、みたいなところに繋げて考えると、視点が1つ高まったわけです。

個別の事象として愛を捉えるのではなく、エネルギーの流れとして捉える。

そうすると、奪う愛であったとしても与える愛であったとしても普遍的な愛であったとしても全てはエネルギーの現れであるから、何でも全て良しという理解にたどり着くわけですよね。

これは、前に同じことを何度も言われてもどこかピンときていなかったことです。しかしながら、この「すべて良し」の感覚と「愛」の感覚と「エネルギーの流れ」の感覚が私の中で筋が通って腑に落ちている感じです。

そして、愛のことを見てみると、愛とはエネルギーであって、全て良し、という心境になっているわけです。



神を名乗る存在からの接触に注意する

ある程度の修行が進むと、神を名乗る存在からの接触がありますので注意する必要があるように思います。

私が20年くらい前に勉強させて頂いておりました団体にもそのようなことがあり、それまではどちらかというと宇宙系のスピリチュアルの教えでしたが、とある時を境に日本の土着の神々の教えが入るようになり、やがてはそれ一色になったことがあります。

日本の神々の特徴はとにかく強く、荒々しいです。言動にしても日本の武士あるいは武将クラスの強さと優しさを備えていたりもしますが、日本の戦時中の将校のような精神的キツさも備えていたりします。もちろん神にもよるのですけど。

それはそれで力のある存在ですけど、悟りを開いているかというと疑問に思います。
私の見たところ、悟りを開いていない神が多いように思います。というか日本の土着の神で言うと見た範囲ではほとんどかもしれません。

神々が戦っていて、勢力争いをしているような感じです。日本の今の時代にもそれは見えないところで行われています。

ですから、日本の神様に言われたからと言って喜んで言う通りにどこかに行って神事とかしないことですね。何が目的かなんてその程度の修行者にはわかんないですよね。何を隠しているかもわからないですよ。全部分かったつもりになっていても、嘘のお話をされている場合もありますし、それを見抜けないなら関わらない方が良いです。

ある程度の修行が進むと、そのように日本の神を名乗る存在に、言い方は悪いですけど「使い捨て」にされる人が一定数出てきます。本人は修行が進んで神様の手足となって動いていることに喜んでいたり誇りに思っていたりしますけど、まあ、分かってやっているのか何なのか。

もちろん分かっていらっしゃる方もおられますので、本当に分かっているのなら問題ないですけどね。 その場合、自分が「どっち側なのか」わかっているということですよね。敵と味方、どっちについていますか? それとも、争いには関わらない立場ですか?

昔はアセンションが盛り上がった時期でしたけど、アセンションをネタにして神事を各地でさせて自分の神の勢力を増やそうとする意図もありましたよね。手助けするにしてもそういうずる賢い勢力の手先になっていないことを確認した方がいいと思いますけど。

まあ、神々の方がずっと上手ですよ。最近ようやく目覚めた人がすぐに見抜けるなんて思わないほうがいいですし関わらない方がいいと思いますけどね。分かってる人がやるならいいですけど。

アセンションと言うのかどうかはともかくとして大変革はあるにはあるのでそれを伝えるのはいいのですけど、アセンションをネタにして煽って自分の勢力を増やそうとしている日本の神様もいらっしゃいますからねえ・・・。神だって随分とずる賢いのですよね。

神というと悟ったかのような印象がありますけど、実際は、そんな日本の神々は悟ってはいないですよ。日本の神々の手足になるのではなくて、日本の神々に教えを与えるくらいの人になるのを目指すべきですよね。日本の神々すらも教えを請うてくるような人が本物ですよね。なんて私は思いますけどね。

他の人は好きに生きればいいですから、思うように勝手にすればいいですけどね。 神様に頼まれて神事をしたいなら好きにすればいいんです。本人の勝手です。別に、止めたりはしません。私は「どうかなあ」と思いますけど、本当はそれが正しいのかもしれませんし。短期的あるいは長期的にどちらが正しいのかなんてあまり関係なくて、どっちでもいいと言えばいいわけですし。ただ、私はあんまり関わらないですよ、というだけのお話です。

使命があって神様と一緒に神事をするなら好きにすればいいです。それもまあ、ゲームとか趣味みたいなものですよね。そんなお遊びを楽しみたいなら、そうすればいいと思います。別に悪いことでもないですし。ただの好みの生き方というだけのお話です。

ただ、ゲームや趣味と思えなくてその現実にすっかり吸い込まれてしまうようであれば神々のお願いなんて関わらない方がいいと思いますけどね。趣味と思っていてもその世界に吸い込まれてしまうことだってありますし。なかなかうまくいかないものです。であれば最初から関わらない方がいい。

似たようなことはヨーガ・スートラにも記されています。

3-52) ヨーギーは、また災いを恐れて天界の住人たちの誘惑に誘われたりおだてられたりしてはならない。「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著)
3-51) あらゆる存在形態の誘惑を完全に拒絶すべきである。たとえそれが天からのものであっても、というのは、まだ邪悪な接触が再発する可能性があるからである。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」

例外はあって、生まれた時の使命、あるいは追加での使命に含まれている時はやるしかないですよね。それもその理由があってのものなのでしょう。神々の戦いに加わるというのも、そういう人生もあるのだとは思います。

ただ、日本の神を名乗っているからと言って悟っている存在とは思わない方がいいと思いますけどね。この宇宙の創造と破壊と維持を司っているという意味における神とは日本の神は異なりますしね。神違いです。

日本の神の中にも悟っている神はいらっしゃるとは思いますけど、そんな争いに巻き込まれている神に関わらない方がいいと思いますけど。

まあ、それも好き好きですので、やりたい人がいれば勝手にやればいいと思います。

神々から接触があったりすると、そんじょそこらの素人やそれなりの人であってもコロっと騙されて有頂天になって「ついに私もそこまで来たか」と、のぼせ上がってしまいますからねえ・・・。 私が何か言っても聞く耳持たないでしょうし。好きにすればいいんじゃないですか。

私に影響が出てくるようであればこっちから干渉しますけど、それ以外であれば好きにすればいいわけです。
まあ、長い目で見ればそれすらも学びで、完璧なわけですからね。

あるいは本当にいい神様でいいことをしているかもしれないですし。そういうことだってもちろんあります。

趣味で関わるくらいがちょうどいいのではないでしょうか。



食べ物はエネルギーの流れに影響がある

少し前から鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるようになってきたわけですけど、食べ物はエネルギーの流れに影響があるように思います。

良くない食べ物を取った時はお腹のあたりで詰まりが起きてエネルギーが頭まで上がりにくくなります。
エネルギーが滞ると、次に意識がぼんやりとしてきます。エネルギー不足になるわけです。

これは、単純にエネルギーのルートが詰まるというお話と、良くない食べ物を消化するのにエネルギーが必要になってしまう、というお話とがあるように思います。どちらにせよ良くない食べ物を取ると半日とか数日とかエネルギーの流れが悪くなります。

一方、その後に最近は胸の「創造・破壊・維持」の意識が体中に広がってきたわけですが、この意識はそれほど食物の影響は受けないような気が致します。

とは言いましても、良くない食べ物を取るとエネルギーの基本的な流れが悪くなるのは一緒ですので、たとえ奥深いところで「創造・破壊・維持」の意識が変わらず動いていたとしても、基本的な認知能力のところで活力が低下してしまい、周囲の物事を把握する力が落ちてしまいます。

ですので、どちらにせよ変な食べ物は取らない方がいいですね。

どんな食べ物が良くないのかは色々と試せばいいと思うのですが、加工食品は良くないですね。

意外に平気なのがカレーパンとか。添加物沢山な割には割といいです。他にも、添加物いっぱいの惣菜パンも、種類にはよるのですけど、割と問題ない感じです。 と言いますか、悪い食べ物がとにかく多いので、それに比べたら有名メーカーの惣菜パンが意外に安定していて安心できます。変な食べ物を試してみて地雷を踏むよりは有名どころの安定した惣菜パンとかの方がいい、という感じです。難点を言うと、使っている油によって気持ち悪くなる時がありますけど、大手メーカーの方が油の管理がしっかりしているので、世間のイメージでは身体に悪いと思われているような大手メーカーの方が逆に問題なく安定して食べれるような気が致します。昔は惣菜パンは気持ち悪くなったりもしましたけど、年々、惣菜パンのレベルが上っている気が致します。これであればそこらで変なものを食べるよりわかっている惣菜パンを食べていた方が、そんなに凄く良いというほどでもないですけど、地雷を踏むことがないので割と安定している感じです。

とは言いましてもそればっかりですともちろん調子が悪くなりますので、基本は豆腐とか大豆系の加工食品とか味噌汁とか、バターピーナッツとか果物とか。そういう定番なものは普通に食べてます。

私はベジタリアンではないですけど野菜や果物を多めに取るのが基本で、栄養のためにはたまにはお肉も必要と思ってます。特に食べ物に制限はないですけど、気持ち悪かった食べ物は避けるようにしています。ものにもよりますがハンバーグは特に危なくて、食べると吐き気がして瞑想もうまくできなくなります。ソーセージも似たようなものですね。どちらも余りの肉を薬でくっつけて形よく見せているような食品ですからね・・・。そうでない安全な高いハンバーグやソーセージもありますけど、スーパーだと見分けがつかないですからね。パッケージで安全をうたっていて高くても食べてみたら吐き気がする、なんてこともあります。であればそもそも買わない方がいいです。栄養のために必要という感じがしてたまに買う時があるくらいです。それはインスピレーションで。

ベジタリアンの人の主張で、肉食は「生き物」だから可愛そう、という人は多いですけど、私はそのあたりはあまり気にしませんね。

時代が変わってしまえば肉食という文化もなくなってしまうかもしれないですし、いまあるものをあるうちに楽しんでおこうかな、という気持ちもあります。肉食なんて特に日本ではここ100年かそこらのお話ですからね・・・。その前までずっと草食でしたし。たぶん栄養的には草食で十分なのでしょうけど、ここまで肉食の文化が進んで味のクオリティが高まっているのならば楽しみます、というくらいのお話です。

数百年後に肉食文化がどうなっているかなんてわかりませんし。

特に、宇宙人との交流が始まって牛に似た宇宙人とか豚さんに似た宇宙人、あるいは鳥の宇宙人と交流が始まったら地球の肉食文化は見直されると思いますよ。なにより、向こうが不愉快に思うでしょうからね。こっちの問題というより、宇宙人の方から、同族を食料にしているような地球人に対してどうにかしてください、という話は出てくると思います。

今はね、惑星の中では自由が保証されていて、惑星の自由は尊重するという宇宙のルールがありますから地球で何をやっても宇宙人は黙って見ていますけど、ちょっと不愉快に思っている宇宙人もいると思いますよ。というか、います。でも、宇宙のルールですから黙って見ているわけですよね。

宇宙時代になって宇宙人と交流が始まったらいろいろと変わると思いますけどね。

でもまあ、そういうことを抜きにしても、肉を食べるとエネルギーの通りが悪くなりますので、栄養がしっかり取れているということであればわざわざ肉を食べる必要はそんなにないかなとは思います。ですので、基本はベジで、たまに栄養のために肉食というくらいでいいのではないかなと。

地上の動物の肉はそうですけど、魚についてはエネルギー的にそんなに問題ないとは思いますけどね。貝や魚は私は普通に気にせず食べてます。



「創造・破壊・維持の公の意識」が頭にまでじわじわと浸透する

創造・破壊・維持の意識は必ず公の意識であるわけですが、最初は胸の奥から始まって、やがては喉の下から胸および下腹部に至るまで、おおよそ身体の3分の1くらいがその意識で満たされるようになりました。

頭までも一旦は広がったように思いますが、安定して存在しているのは少し前までは喉のヴィシュッダより下だったように思います。

その、満たされた部分、胸や下腹部を意識の手のようなもので触ってみると、随分と軽やかな感じを受けます。

他の部分、胸よりも少し上を触るとちょっとした抵抗があって、砂ほどではないのですが、柔らかいパウダーのような感覚、ただし粉ではなくて単なる抵抗、粉というよりは液体に近くて多少は粘着性のある、ゼリーほどではないにせよさらっとしたゼリーのようなオーラがその他の部分です。

それに対して、今回の「創造・破壊・維持の公の意識」で満たされている部分は、もっと「さらっと」しています。その、さらっとしている部分が身体に少しずつ浸透しつつあります。

少しの間はそんな感じだったのですが、その後、瞑想をするうちに更にその範囲が広がり、じわじわと頭の中にまで広がってゆくのを感じます。

先日、下腹部や一部は頭にまで広がった時のようにブルブルっと震えたり自我が抵抗したりという感じはありません。ただ単に広がってゆきます。

この、体中の感覚を言葉で簡素に表すのであれば、「空」と表現できるのかもしれません。禅などで言われている空と同じかどうかはよくわからないですし流派によって違う気も致しますが、この「さらっとしている感覚」は「無」ではありませんし、であれば「空」と言っても良い気が致します。どこかで「中空の竹」という言葉を聞いたことがありますが、身体の中を空の入った竹のようにして行うサマーディの種類があったような気が致します。

例えば「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」を確認してみましたが、それっぽいような、そうではないような、微妙な感じです。

同書では心身脱落の後に中空の竹が来る、となっているのですが私には心身脱落というのはよく分からなくて、この「創造・破壊・維持の公の意識」がやってくる前はエネルギーに満ちて、その更に前の段階で平穏な静寂の意識に達した時に「遠く」まで澄み渡るような、涅槃を垣間見たような状態になったのですが、その時であれば心身脱落と言っても良かったかもしれませんけど、今はよく分からないですね。とは言いましても普段の瞑想で身体はあまり意識しておりませんので、最初から心身脱落状態だったと言えばそうかもしれません。であれば意識していなかっただけで既に達成されていたということなのかもしれませんが。

中空の竹は、同書によれば「管」であって、そこにサマーディのエネルギーを注ぎ込む、ということになっているようですけど、確かに、師匠がいて教えをこうのであれば弟子はそのように中空の竹を作ってその中に師匠のエネルギーを注ぎ込んでもらうというのもあるのかもしれませんね。一方で、同書にはいくつかの引用文があって、そちらは聖者が中空の竹に近い心境を語っていて、それは確かに、私の状態に似ているといえば似ている気も致します。

中空の竹というか、周囲が既存の昔ながらのオーラで、中心に上記のような「さらっとした気」が満たされていって増えている、という感じですので、ちょっと縦長ではありますけど竹というほど長くもありませんので、別物かもしれませんけど。

最初、この「創造・破壊・維持の公の意識」が胸の奥に出てきた頃は「ある」として認識していましたけど、広がった後は「ない」ものとして認識するようになりましたね。この変化は面白いです。たぶん質としては変わっていないとは思いますけど。周囲とは異なる質のものがあると「ある」として認識されたものの、それが広がってみると質としては「さらっとした気」ですので「ない」と認識されているような気が致します。それは完全に何もないわけではないので「無」ではなく、であれば「空」と言えなくもないですし、人によっては「虚」と言うかもしれません。感覚としてはそのような「さらっとした気」が体中に充満してきて、それは「創造・破壊・維持の公の意識」であるわけです。最初こそその属性のうちの1つである「破壊」あるいは「自我がなくなる」感覚に若干の恐怖と震えを感じたりもしましたけど、今は、微妙な波動の違いで「振動」を少しブルっと時々感じるくらいで、基本的にはその新しい感覚を受け入れています。

この創造・破壊・維持は3つの属性ではありますけど1つの波動というかオーラというか存在というか意識のようなものの別々の面を表現しているだけで、あくまでも存在としては1つのように思います。それが、胸から始まって体全体を覆うようになってきています。



識無辺処から無所有処へ入りつつあるのだろうか

油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。

・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)→これから
・無所有処(むしょうしょ)→これへ
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

同書には、識無辺処を成して無所有処に移る段階について以下のように記されています。

最後に殘された一つの依所(えしょ)としての識心がただ重苦しくとざされてしまうのである。開破の氣が迫ったのである。そうして、迫りきったところでぱっと開けるのである。とざされた識心が、瞬間ぱっと開破されるのである。これで、最後に殘された依所としての識心が空じられたのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

これは、次第に「自己」としての心がなくなっていって「宇宙」としての意識に変わってゆく、変わってゆくというよりは自己と宇宙の区別がなくなる、という心境だということです。そうして、この識無辺処の終わりには最後に残された自己としての心の認識の部分が「空じられる」、ということは、自己としての心がなくなるということなのだと思います。

とは言いましても、他の部分を読むと、大体はなくなるものの完全にゼロというわけではないようです。大きなくくりとして、この段階で宇宙的な意識と統合されて宇宙と自己との区別がほとんどなくなるということなのかなと解釈致しました。

完全に「自己」がなくなったかと言うと私の場合はそうではありませんけど、まずは胸の奥の創造と破壊と維持の意識が胸いっぱいに広がった後、「創造・破壊・維持の公の意識」が頭にまでじわじわと浸透するようになりましたので、この状態が該当しているかもしれません。この状態において、まだ片隅に「わたし」は存在しておりますが、この「創造と破壊と維持」の意識は必ず公の意識ですので、基本は公の意識がほぼ優勢になっている状態です。

同書の記述が大きな意識の変革の段階を示していて、完全に自己がゼロにならなくても良いという段階のお話であれば、頭にまでじわじわと浸透した段階で「わたし」というものがなくなるのは一段落しましたので、識無辺処を完成して無所有処に移り始めたと解釈しても良いかもしれません。

自己が宇宙の広さと完全に融合し得る入所を得たからである。方所を絕したところに悠悠自適し得る妙機を得たからである。「信心と座禅(油井真砂著)」

確かに、完全に融合した感じではありませんが、「融合し得る入所を得た」ということであればそういうことかな、とも思います。であれば無所有処に入りつつあるということなのかもしれません。



身体のオーラがあるような、ないような境地で非想非非想処に至る

身体を意識の手のようなもので探ってみても、スカスカしていて反応がありません。胸のあたり、あるいはお腹のあたり、あるいは頭のあたりを意識の手で触ってみても、するりと通り抜けて「抵抗」がありません。以前は身体のあたりには多少の抵抗があってオーラがそこにあるという実感がありました。

今は、そのようなオーラが「ある」という抵抗の感覚がなくて、とても細かい粒子でできていてそこに何かが「あるような気がする」のだけれども実際に「手」でそれを確かめてみると「何もないくらいスカスカしている」というように、あるように思えるけれどもオーラの感覚としては何もないような、そんな感じになっています。

そのように、あるようでいて、ないようでいる、不思議な意識の身体になっています。

もちろん肉体としては存在していますので、肉体がスカスカになったわけではありません。

これは、最初は胸から始まって、やがて頭にまでじわじわと浸透して広がっていきました。

この感覚を、最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」と見比べていきます。

・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)→これ
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

諸相を觀ずる最後の依所(えしょ)として識心が空じられてはじめてこの定境(無所有処)が開けたのだから、当然ここには一点識心の影をも留めない筈だのに、なお、それとなく感じられて来るそれは微かな一つの依所が感じられて、そこへ、宇宙創成の劫初(ごうしょ、この世の初め)の氣である陰陽両気相克の逆萬字相が觀じられて来るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

私の感覚に当てはめてみると、
このように、創造・破壊・維持の意識が広がっていって「我(という心)」が消えて「公」の意識で満たされた筈なのに、それでも尚、どこか「認識する」という現象は相も変わらず続いていて、そこへ、ムーラダーラから上ってくる地のエネルギーが感じられます。天のエネルギーを降ろすこともできます。一方、創造・破壊・維持の公の意識は私の肉体の胸、下半身、頭にまで及んで存在しています。

その、創造・破壊・維持の意識は同書では「空」と表現しているように思います。そうであれば、もともと体の大部分を占めていた「心」という「私」の意識が同書の言葉で言うところの「空じられて」、そしてこの心境、創造・破壊・維持の公の意識が開けた、と解釈することができます。であれば、私の状態とも近いように思います。

この状態になって「私」が消え去った筈なのにどこか「それとなく感じられてくる微かなもの」があって、それは、気の流れである、ということであればここもまた一致しているように思います。

寂寂とした空の気の中へふっと陽の気が立って來ると、そこへたちまち陰の気がからまつて来るという、ここのこつ然緣起の如相といふものが、これが即ち「法性緣起」の実相になるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

私の体にある創造・破壊・維持の意識が「空」だとすれば、そこに「陽の気」、これはムーラダーラからの地のエネルギーだとすると、それは割と「なにもない所」から急に出てきたかのように思えて実はその奥底には「何か、その根源」なるものがあると感じられていて、その「根源」から「陽の気」が出てきます。一方、特にムーラダーラの場所でなくても同様の「陽の気」といいますか「地のエネルギー」と言いますか、似たようなエネルギーがムーラダーラ以外からもふと急に湧き出てきています。例えば鼻頭に集中するとその周辺から不意にエネルギーが「現れて」、鼻頭の周辺、眉間、頭のあたりにそのエネルギーが集まってエネルギーが凝縮した感じになります。

そのように、ムーラダーラの奥底にある「根源」のみならず、そこらからエネルギーが不意に顕現しますので、それら共通の基盤を「空」と言うのであれば上記の表記はまさにそれで、そこらの空間から不意にエネルギーが顕現して、それがまた不意に消えてゆく、ということは瞑想中に良く感じられます。そこに、記述のような「陰の気」というのはあるようでいてないようでいて、微妙なところですけど、確かに、「地のエネルギー」が消え去る時は風に吹かれて煙が拡散するかのように元の「根源」へと返ってゆきますので、その「風」のようなものを「陰の気」といえばそうなのかもしれないですけど、実際のところ、単に拡散しているだけで「陰の気」というのはない気もするのですけど、どうでしょうかね。あるように見える、というのならそうなのかもしれないですけど、実態はない気が致しますが。

少し前に瞑想中で感じたことを基に解釈した般若心経の理解にも似たようなところがありましたね。その時は今ほどはっきりとは感じていませんでしたが、方向性は似ていると言えます。

同書によればここで一旦は「我」という感覚がほとんど完全とも言えるほどなくなるものの、まだ、微細な感覚は残ると言います。

私も、だいぶ「我」という感覚はなくなったように思いますが、存在としての私が消え去るわけではないですし、人間としての「個」は継続しています。まあ、そんなものなのかな、とも思います。

同書によればこの心境をもって無所有処が完成し、非想非非想処に移ったとのことです。

・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)→ ここへ

この境地は、法性としての宇宙の気の凝りが緣起して来る「種」の世界であるが故に、無から有へ転じて行く空の妙融相が如實に觀じられる境地である。「信心と座禅(油井真砂著)」

ということですから、上記のように「空」から「陽」が現れてきてそれが消えてゆくことを感じる境地ということでしょう。

ただ、ここだけを読むとその前段階の前提条件が特に書いてありませんので、それより遥か前の段階でもこの段階に至ったかのように思えてしまうことがあるようにも思います。前段階から一歩一歩と踏まえてきて、そしてこの段階へ至るのならばそういうことなのかな、と思います。

ここまで來れば、「闇の夜に鳴かぬ烏の声きけば生れぬ先の父ぞ恋しき」といふ道歌の妙味が如々の事実として味得できるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

そうは言いましてもこの歌の解釈は難しいです。

■闇の夜に → 空の境地のことを表しているのでしょうか。「創造・破壊・維持の公の意識」あるいは「根源」が存在している、陽の気が発起してくる土台となる空間を表しているように思います。

■鳴かぬ烏の声きけば → スピリチュアルにおいては「声」とは音でありエネルギーであり、根源のエネルギーであり、天地創造の最初にあったものは音であり、この宇宙全ては音でできているとさえ言われます。ということは、鳴かぬ鳥というのは、その一方で鳴く鳥というのも存在しており、スピリチュアルにおいて鳴く鳥といのはいわゆるナーダ音のことであり、ナーダ音は物理的な音ではない超感覚的な音ですけど時に「ウズイスの声」とか色々と鳥や太鼓の音として表現されていて、ここでは鳥ですけど、それはあくまでも数多くあるナーダ音のうち代表劇なものとして「鳥」を出して「鳴かぬ鳥」と言うことで「ナーダ音のことではない」と言っているのであり、ナーダ音ではない音であれば、もっと深い、感じる音、感じるエネルギーのことを言っているのだと思われます。ですので、意味合いとしては「深いエネルギーを感じれば」ということだと思います。

ナーダ音も「鳴らぬ音」と表現される時があって、その意味合いでこれはナーダ音のことだと解釈することもできますけど、その場合は他の言葉との整合性がいまいちで、「闇の夜にナーダ音を聞くと生れぬ先の父ぞ恋しき」というと非想非非想処よりはるか前の段階の詩になってしまい、浅い意味合いになってしまいますし、ナーダ音を聞いたことで「生れぬ先の父ぞ恋しき」というのは非想非非想処の空とか陽とかの感覚とは一致しません。ナーダ音はもっと前の段階ですから、ここで言うところは「ナーダ音のことではない」と解釈するのが適切に思います。

実際に耳で音のように感知されるナーダ音ではなく、もっと根源の、「パラー」とも呼ばれるような根源の音のことをここでは「鳴かぬ烏の声」と表現しているように思います。

■生れぬ先の父ぞ恋しき → 実際に「陽の気」が出てくる前であっても顕現前の存在が「そこ」に確かに存在しています。それは「闇の夜に」と比喩されるようなベースとなる空間であり、その空間に「空」と言うのかあるいは「創造・破壊・維持の公の意識」と呼ぶのかはたまた「根源」と呼ぶのか、そのような意識が広がっています。その意識はまだ顕現前であったとしても、それでも、顕現後の様相と言いますかエネルギー的な本質を内に秘めているものなのです。そして、実際に顕現前のそのベースとなる空間を眺めて、まだ顕現する前であってもそこにエネルギーを感じる、ということを言っているのかなと思います。「父」というのは「親」であれば、その親であるベースの空間から「子」として実際に顕現した現象あるいは具体的なエネルギーが出てくるとすれば顕現前の空間としてのエネルギーの状態を「父」と表現するのは正しく、更には、そこはエネルギーで満ちていますし、そのように創造の素晴らしさを観察するのであればそれは「恋しき」と表現するのも相応しいのかな、とも思います。

道元の歌は難しいですけど、こうして解釈してみるとさすが深いことを言っていると思わされます。

この定境を説いて、「前の識處は有想であり、無所有處は無想であつたが、こゝに至つて前の有想を捨離するが故に非想といひ、無想を捨離するが故に非々想といふのである。修行者はここにおいて痴の如く醉の如く眠の如く暗の如くであつて、いささかの愛楽すべきなく、泯然(みんねん)・寂絶(じゃくぜつ)・清淨(しょうじょう)・無為(むい)である。故に非想非々想處定と名づける」というのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

・空無辺処(くうむへんしょ)→ [link:/2020/2197/ 奥深い意識が出てきた段階]]
・識無辺処(しきむへんしょ)→ 有想。宇宙の広大さが感じられた境地
・無所有処(むしょうしょ)→ 無想。「わたし」という心が滅せられる境地「公」が広がる境地
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)→ 有想がない故に非想、無想がない故に非々想。

識無辺処と無所有処の両方を達した境地が非想非非想処であって、であれば、今は非想非非想処の状態とのようにも思います。

識無辺処では宇宙が感じられていたがそれは当たり前のものになるにつれて感じられなくなってしまった。よって非想。無所有処で「わたし」という心が滅せられて「公」が広がったが、やがてそれが広がるにつれて当たり前の状態になり、その過渡期に感じたものはもはや感じられなくなった。よって非々想。 有想が宇宙の広大さを感じている「私」という意識で、無想が公の意識、私という意識が滅せられたかのような意識で、そのどちらもあるような、ないような、片方づつ見てみても両方見てみてもどちらもあるようなないような状態、それが非想非非想処なのかなと思います。

書物によっては非想非非想処のことを想念があるようなないような、という、心の状態のことだと説明していたような気が致しますが、この油井真砂さんの説明はまるで別物ですね。他では見ない定義ですので他の流派の階梯とは一致しないような気も致しますが、同書に当てはめてみると、私はこの段階にいるように思います。

それにしても、これはわかりにくいです。一見すると「心の動きのことか」と思ってしまっても致し方ない気が致します。



何も思わぬ瞑想と比喩される滅尽定

身体のオーラがあるような、ないような境地で非想非非想処(ひそうひひそうしょ)に達した後、その瞑想を続けていると軽やかな状態になってきます。

この寂境にひたりきると、例へば眠り足つてふっと目覚めるというような明朗な浄氣にうたれてはっと転ずる勝緣が得られるのである。(中略)無差別平等の清淨感が、例へば雲をひらいて現ずる月光のように觀じられて来るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

これで非想非非想処が完成し、よって、4つの無色界禅定が完成したことになるようです。

■4つの無色界禅定
・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

この次に、滅尽定(めっしんじょう)と呼ばれる心を滅した定、サマーディがあります。これは禅定の4つの色界禅定および4つの無色界禅定の後の9つ目の禅定と説明されています。ですから、無色界禅定の最後である非想非非想処(ひそうひひそうしょ)の後に来るものです。

これは流派によって解釈が異なるようで、例えば「心を完全に滅する」とか「非想非非想処とは全く別物」という説明がなされている流派もあるようです。テーラワーダ系の仏教では以下のように説明されています。

阿羅漢果に悟った聖者・阿羅漢だけ、(中略)心の波を徹底的に穏やかにして、最後に、心自体を、しばらく「滅する」のです。(中略)非想非非想処定と滅尽定の間には、雲泥の差があります。「ある」心を鎮めることを目的として達成する心の平静状態=禅定と、その心が「ない」こと自体は、決定的な差なのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

テーラワーダ系の用語と最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」の用語の定義が食い違っているのでわかりにくいですが、テーラワーダ系の定義に基づけば非想非非想処定と滅尽定はかなり違うものになるのでしょう。しかし、「信心と座禅(油井真砂著)」の説明に基づきますと、これら非想非非想処定と滅尽定はほとんど同じ状態を説明しているようにも思えるのです。

テーラワーダ系の説明では無色界禅定であっても心があることを前提にしています。「信心と座禅(油井真砂著)」にも最後まで心はあるにはあるのですが、非想非非想処定に達した時点で、心があるような、ないような、という状態にまで既に達します。

そうであれば、その次の滅尽定は似たようなもので、ない状態を保つようにするだけです。

滅尽定とは言え、心が完全になくなってしまうわけではなく、その後に心が作用する状態に戻ります。ですから、滅尽定を一度してしまったら心を完全に捨ててしまうわけではなく、「滅する」といいつつもそれは一時的なものであると解釈できます。

滅尽定の正式名が「想受滅(そうじゅめつ)」と呼ばれるように、想=心の動機に、受=触れられ感受された、滅が一瞬起こって、あとは心が起こりません。滅したのですから消えたのです。ないのです。ないから、その後のことは何も言えません。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

ということですから、それは「信心と座禅(油井真砂著)」の説明に基づきますと非想非非想処定の応用の状態のようなものだということがわかります。

既に非想非非想処定の時点で「あるような、ないような」という状態になっていますが、それはあくまでも体のオーラの感覚を確かめようと認識能力を働かせるとそのように認識されるというお話で、わざわざ状態を見ようと意思を働かせなければ既に感覚は「一瞬だけ起こって後は起こらない」という状態になっているのです。

ですから、それだけでも既に「想受滅」というような状態ではあるのですが、滅尽定というような落ち着いた状態にするためには意識的に「認識能力を動かさない」ように意図を働かせて、五感が入ってきても「認識しません」と自分にあらかじめ指示を出しておくことで上記のように「一瞬、五感から感受して、すぐに滅が一瞬起こって、あとは何も起こらない」という状態になるのです。

ですから、わざわざ滅尽定というほどでもなく既に滅尽定に似たような状態になっているのですが、瞑想としてそうするということであれば滅尽定と言うのは、まあ、一応あると言えばあるのだと思います。

非想非非想処定と似たようなものだと思いますけど、非想非非想処定の説明は誤解が多くて、単に心を一時的に停止させればいいかのような誤解がありますので明確に別にした、というのはあるのかもしれません。

流派の定義によっては明確に別ですし、テーラワーダ系の定義ですと別物ですけど、「信心と座禅(油井真砂著)」の定義ですとほとんど同一のように思います。

確かに、非想非非想処に入ったばかりでは滅尽定という感じではありませんが、少し瞑想を続けると軽やかな感じが出てきて滅尽定になるような気が致します。

このあたりは、言葉で言い表しただけでは誤解がありそうで、単に「軽やかな感じ」というとそれ以前でも色々とそのようなこともありましたので、単にそれだけですぐに滅尽定になるわけではありませんが、ステップを踏んで非想非非想処までたどり着けば軽やかな感じが出てきてそれが滅尽定なんだなというのは実感としてよくわかります。

滅尽定においては、それは必ず通る道ではあれど、その安楽な状態にずっと居続けてはならない、と注意がなされている状態でもあります。ずっと眠ったようにその状態にいることは悟りへの妨げとなる、と説明されています。

それは、この状態がとても安楽で軽やかなところからよく理解できます。

意思をもってして次の段階に進むという自らへの指示が必要のように思います。

「滅尽定」を文字通り読んでしまうと「心をなくす」ということになってしまいますが、実際はそのような文字通りの意味ではないわけです。心の状態が以前よりも大きく変わっていますし、実際は「想受滅」というようにすぐに心の動きが消えてゆく状態ということであれば非想非非想処定の段階に至っているのであればちょっと応用すればすぐにその状態になれるように思います。心の使い方ですよね。最初は心を、ペットに繋ぐ手綱のようなもので軽く結んでおく程度で心はさまよわずに、何かを感受してもすぐに消え去ってゆきます。そのうち、その手綱を離してもペット(心)はどこにも行きません。まあ、ここだけを読むと「手綱で心を結ぶ」ということで、これ以前の状態であってもそれはそうで、昔から手綱をつけるというような方法で心を鎮めてきたわけですけれども、前提条件として非想非非想処定あってこその滅尽定の想受滅ということですから、手綱とは言っても、ほんの少しの細い手綱で、凧の紐かもうちょっと太い程度の簡単なもので、ペットと言ってもチワワみたいなペットで、大型犬を繋ぐ紐ではありません。このあたりは程度問題とでも言いましょうか。そうして、最初こそ手綱はいりますけど、少し安定してしまえば手綱をなくしても心はどこかへ行ったりせず、何かを感受してもすぐにその感覚が消える(滅)ようになります。

それは厳密に言えば「何も思わない」ということではないですけど、「ほとんど思わない」「すぐに心の動きが滅する」ということで、そのことを形式的に「何も思わない」とか「心を滅した」とか表現するのだと思います。ちょっと紛らわしいですけどね。既に色々なところでそう表現されているように思います。

文字通り読んで「いつまで経っても心がなくならないから滅尽定に達していない」と悩んだりする必要は全くなくて、説明を読めば実際はそれは想受滅のことですから、非想非非想処定の後に想受滅が来ればそれは滅尽定ということだと形式的に理解しておけば十分なのかなと思います。

まあ、そうは言いましても流派によってこのあたりの解釈は違うでしょうし、これは私の解釈であって、流派の解釈をどうこうしているわけではありません。

ちなみに、テーラワーダ仏教では阿羅漢の後に滅尽定で阿羅漢とは悟りを得た聖者のことですから悟った後に滅尽定という順番になっていますが、「信心と座禅(油井真砂著)」ですと滅尽定でもまだ悟っていない、という位置付けですね。悟りというのは色々ありますけどテーラワーダ仏教における阿羅漢の悟りというのは「静寂の境地」とかそのあたりな印象を受けます。であればそのような順番になるのでしょうけど、個人的には「静寂の境地」は個人的な境地であって「公」にまで広がっておらず、ましてや、まだ悟りだとは思いませんので、「信心と座禅(油井真砂著)」の位置付けの方がしっくりきますね。



牛のミルクをハートにかける儀式を瞑想中に受ける

朝に瞑想をしていて創造・破壊・維持の公の意識を感じつつエネルギーを充満させていたところ、ふと、不意に牛さんのイメージが浮かんできて、ステンレスのカップに入った牛乳が目の前に見えて、何だろうと思っていたらそのカップが私の胸の上のあたりまで近づいてきて、喉の上か喉の少し前まで来てカップが傾いたかと思えばミルクが私の体というかハート付近にある「円状のコア」の上にかかってきました。

かと言って特に感覚はなくて、単に「あれ? ミルクがかかってきた? 何これ?」という感じで、何ら私の方に変化はないのですけど、ミルクが表面を流れていることはなんとなくわかります。

最初は胸のあたりにだけかかってきて、やがてカップが上の方に移動して頭の上からミルクがかかってきました。

・・・何でしょうね、これ?

インドのヒンドゥ寺院では牛さんの神様であるナンディの石像があって、プージャという儀式においては牛乳をそのナンディ像にかけたりしますけど、感じとしては似ています。自分のイメージが牛さんになったわけではないですけど、牛乳をかけるというところの感覚は似ています。

おそらく、何かの儀式的な意味があるのかなという気もします。

直感では、何かのイニシエーション(入所儀式)なのかなぁ、とも思いますけど、どうですかね。何の入所なのかもよくわかりませんね。

インドのプージャの儀式はこれをシンボル化したものなのかなぁ、という気もしますけど、どうなんでしょうかね。

最初は勝手にそんな感じになりましたけど、瞑想を続けた上で、自分でミルクをイメージして頭の上からかけてみると浄化の効果がありましたね。

ただ、自分でイメージしたときと、自動的に起こったときではちょっと違う感じですね。自分でイメージするときは天のエネルギーを降ろすような感じで、一方で、自動的に起こった時は何も感覚とか変化はなくて。自動的に起こった時は単に見せられただけで、「このようにやってみなさい」ということだったのでしょうかね? そして、実際に真似てやってみたら効果が発揮された、と。

このようにミルクをかけると浄化されます、ということを教えてもらったのかもしれません。



胸の奥にて夜明けを感じて創造・破壊・維持の意識が深まる

瞑想をして、創造・破壊・維持の意識を胸を中心とした体全体で感じています。 眉間に集中してエネルギーを取り込んだり何回かチベットのマントラを古代の唱え方で唱えて体中のエネルギーを活性化させたりします。頭までエネルギーが通って、時にムーラダーラを意識してエネルギーを循環させたりします。

そうしていると、次第に意識も更に落ち着いてきてリラックスが深まります。

そのように瞑想をしていたところ、ふと、胸の奥で、まだ夜の側の地球の裏側から朝日が出てきそうな光を感じました。

そのすぐ後、立っている1人の影の向こう側から朝日が上ってきているのを感じます。

まだ太陽そのものは見えず、光だけが薄っすらと出ている状態です。

そうしていると、不意に体中のオーラが次第に凝縮されてきて、お風呂で水を抜いたかのように吸い込まれるかのように胸の奥に入り、オーラのコアの密度が高まりました

元々、創造・破壊・維持の意識が出てきた時点で胸の奥にコアのようなものができていたのですが、これにより、そのコアの密度が高まった感じです。

その創造・破壊・維持の意識が出てきた直後は胸の奥にしかそれはなくて、体中に次第に浸透していったわけですけれども、そうして広がっていった意識のうち、半分くらいはそのまま残って、残り半分くらいが凝縮されてコアに戻った感じが致します。

これは、最初に意識が出てきた時のコアとはちょっと別物ですね。言葉では似通ってしまいますけど。

最初に出てきた創造・破壊・維持の意識が、更に深まった感じを受けます。安定度も増した感じです。



創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ儚さを感じ涙が出るようになる

胸の奥にて夜明け感じて創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ、日常生活で涙が出てくるようになってきました。

特に特別な理由もなく、他愛のない会話をしたり、普通に生活するだけで無常を感じてその奥底に儚いものを感じ、何かある度にその一瞬の輝きを感じて消え去る感情、消え去る時、その一時の瞬きを何度も何度も感じていると、一つ一つの儚さは僅かなものであっても積もりに積もると次第にそれは何も言われぬ涙へと変わってゆきます。

特に今までと変わったことがあったわけでもないですし、特に不都合のない普段どおりの生活を送れています。

特に悲しむことがあったわけでもないのに、一時の儚さの一瞬のそれぞれが永遠のようにも感じられて、その永遠であるものが形を変えてなくなってゆく、その顕現の明らかさの現れの美しさと、その美しさが保たれている時の安定的な輝きと、その美しさがすぐに消えさる儚さとが交互にやってきて、それぞれが美しいが故に消え去る時の儚さがほんの少しの悲しさとして積もってゆき、やがては小さな涙が出てきます。

この涙は特に大きな何かがあって現れたものではなく、この日常生活の儚さを日々感じることで積もってゆく悲しさであるように思います。

最初は、これは日常生活における特定の何かが原因で起きているのかなと思って一つ一つを辿ってゆきました。しかし、特に何かの大きな理由があるわけでもなく、一つ一つの儚さを感じているのでは、という結論に今のところ達しつつあります。

それと、もしかしたらその悲しみが、単なる儚さだけではなく、この現状の世界、特に私の住んでいる地域に根深く横たわっている悲しみの感情を拾っているだけだ、という仮説も成り立ちます。物事の儚さを感じるということはこの現実をありのままに見つめるということですから、私の住んでいる地域が悲しみに満ちていたら私もその悲しみを拾うのは当然であると言えます。行為としては儚さを見ているわけですが、そこに横たわっている悲しみを拾ってしまっているわけですね。そのような可能性もあります。

現時点ではどちらなのか判断がつきにくいですけど、仮説の一つとしては成り立ちます。

もしかしたら、このように「公」の意識が目覚め始めてしまうと私(=公)が本当に幸せになるためには少なくとも私の住んでいる地域の住民の多くが幸せになる必要があるのかもしれません。

であればなかなかきつくて、私が公と繋がってしまったが故に私が幸せになるための制約条件として公(の人々)が幸せにならなくてはならないのですから、ハードルが高まったとも言えます。

公が感じている悲しみを私が感じている、というのは理屈には合います。

もしかして、両方とも真実なのかも知れません。物事の儚さを感じて涙が出て、人々の悲しみも感じている。ただ、よく見ると、それらはちょっと種類が違うような気もします。

儚さの方が深くて、人々の悲しみはもうちょっと浅いです。ですけど、両方とも悲しみで涙が出てくるような種類のものです。

これは、ヨーガで有名な本山博先生の書物の記述に似ている箇所があります。

自分の存在が無の深淵に対峙していることに気がついて、非常な恐怖を覚えました。もう、ヨーガ行を止めたいと思うほど、その恐怖は熱烈で、深いものです。これは、なんともいえない恐ろしい体験です。この体験の前後に、この世のことや人に対する諦めや遊離の感じがよくしたように思います。「死んでも生きても、絶対なる神の御意志のままに」という神への絶対の信仰がしだいにできてくると、この無の深淵に臨んだ恐怖もしだいにうすらいできました。「超意識への飛躍(本山博著)」

これはヴィシュッダに関する記述の中にありますが、私の感覚もヴィシュッダに即したものなのでしょうかね。私は、恐ろしさというよりは悲しさとして感じましたが怖い恐ろしさではなく悲しい恐ろしさと解釈すれば、内容はどこか似ているように思います。



意識がありのままを認識しなくなると悲しみが湧き出てくる

ここ最近、創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ儚さを感じ涙が出るようになってきたわけですが、それは、意識が「創造・破壊・維持」と離れた状態で出てきている悲しみのような気が致します。

ここで「離れた」と表現しましたけど、物理的な距離ではなく、心の中心が根源からちょっと「ズレている」というような意味合いです。流派によってはこれを「理解していない状態」と表現するかもしれません。

根源から離れていなくてありのままを認識している状態を流派によっては「根源からズレていない状態」「魂から離れていない状態」あるいは「理解している状態」と表現するかもしれません。

そのように、創造・破壊・維持から離れていない状態でありのままを認識できているならば悲しみは出てきません。ただ、創造と維持と破壊とが目の前でありありと繰り広げられているのを眺めるだけです。

しかし、その状態から少し離れて、ありのままから遠ざかれば遠ざかるほど儚さを感じて「悲しみ」を認識してくるような気が致します。

であれば、儚さを感じることによる悲しみというのは、ありのままを感じていないからこそ出てくる感情であると言えるのかもしれません。

その、儚さの悲しみそのものですらも創造・破壊・維持を繰り返していて、儚さの悲しみが現れてはその悲しみが続き、そして消えてゆく、悲しみの創造と破壊と維持とが何度も繰り広げられてゆくさまを感じることで、そこでもありのままの感情を感じることができます。

視点を、現象に向けてありのままを感じることで現象に対する創造・破壊・維持を認識することができます。

一方で、現象をありのままで感じることはせずに、感情に対してありのままを感じることで感情に対する創造・破壊・維持を認識することができるということなのかなと思います。

ここで、2つの対象が出てきました。

・視界
・感情

視界は五感に属するもので、粗雑な認識能力です。感情は心に属するもので、もっと微細です。

五感(視界)に関する「ありのまま」を離れて心(感情)を「ありのまま」に見つめることもできます。

一方で、五感(視界)を「ありのまま」に見つめることもできます。

五感(視界)が「ありのまま」を離れた時に「悲しみ」が生じ、その時に心(感情)を「ありのまま」に見つめることで感情の創造・破壊・維持を認識するように思えるわけです。

悲しみを克服するには楽しさという同じ心という分類にある別種類の感情を持ってくるという手もありますけど、それよりは、五感(視界)と心(感情)の両方、あるいは少なくとも片方をありのままに見つめることで悲しみを克服することができるように思います。

それは必ずしも悲しみを克服するという文字通りの意味ではなくて、克服と言うと何か戦って勝つような印象があるかもしれませんけど、この「ありのままを見つめる」というのはもっと根本的なもので、そもそもそれが何だったのか、五感あるいは感情の面でしっかりと認識して識別するということです。

そうして、「理解」すればその感情は消えてゆきます。理屈での理解のことではなく、しっかりと見た結果として理解がやってくるわけです。理論での理解は最終的に残りますけど、その過程において理屈を持ち出すよりは、まず「ありのまま」に見た上で識別して、その結果として、最終的な「理解」がやってくるわけです。

ただ、そうしたものもあくまでも説明のためだけと言えなくもなくて、物事はもっと単純で、単に、物事をしっかりとありのままに見さえすればそもそも悲しみとかは起こらない、という、ただそれだけのことです。



悲しみはヴィシュッダが開いた時の感情の経験だったのかもしれない

先日、儚さを感じて涙が出てきたわけですが、その翌日、ふと気がついてみると、ヴィシュッダでイガイガしているようなブロックされているような感覚が随分と少なくなっていました。そして、いつの間にか悲しみの感情も収まってきました。

創造・破壊・維持の意識が出てきてすぐの頃は、ヴィシュッダでブロックされているような感覚がありましたが、今も多少は感覚がありますけど、それはブロックされているようなイガイガしたものではなく、単に、ヴィシュッダに何かある、という感覚に変わっています。

そして、いつの間にか悲しみの感覚が落ち着いてきて、ほんの少し悲しみの余韻みたいなものは感じますけど、悲しみが湧き出て来るという感じではなくなってきました。

であれば、もしかしたら、この悲しみの感覚は、ヴィシュッダが開いてきたことによる感情の現れだったのかもしれません。

ヴィシュッダが完全に開いたかどうかはわかりませんけど、以前よりヴィシュッダにエネルギーが通っていてアナハタとも繋がった感覚があり、アナハタとヴィシュッダにまで創造・破壊・維持の意識が来ている感覚があります。

チャクラは一気に開くこともあれば段階的に開くようにも思いますし、多少はヴィシュッダが開けてきたということのようにも思います。

そして、この状態では瞑想中にエネルギーが詰まっているような感じがするのがアジナの少し後ろ、後頭部のあたりな感じがしてきました。

過去生のサードアイの記憶を辿ってみますと、サードアイは眉間というよりも後頭部に近いところでクリスタルができて、その一部というか次元の違う一部の面がフォースアイとして頭頂から出て次元を超えたり周囲に視点を移動させたりするように思いますから、その第一歩として後頭部のところにサードアイの反応が出てきたのであればおそらくはヴィシュッダにもエネルギーとしての創造・破壊・維持の意識が通ってアジナの方が活性化し始めたのかなという気が致します。

チャクラが開くのは段階的なもので、チャクラの調整という段階でもそれなりに開くでしょうし、今回はもう少し開けてきたとも思いますが、世間で言われているような開いて何か起こるという意味合いよりも、新しい創造・破壊・維持の意識のエネルギーに馴染む、というような感じの方がしっくりきます。

もともと先日経験した時もヴィシュッダかな? とも思ったのですがそれほど確信はなく、一晩開けて落ち着いてみて上記の状態を確認したらやはりヴィシュッダだと考えるのが妥当な気がしてきました。ただ、完全に開いたとも思えないですが。完全に開いたと言えるのはもっと後の、全てのチャクラが統合して働き出す段階においてであってここでは少しずつ開くくらいで十分なのかなと判断しています。

そもそもチベットではチャクラを開く際に必ずしも何かの経験が起こるわけではないと言われていますし、今回はヴィシュッダが開いて「悲しみ」という感情でそれを体験したわけですけど、それもまた一つの現われなのかな、と解釈しました。



集中して静寂の境地に至る瞑想は未だ有効

最近は眉間あるいは鼻頭を意識するだけで雑念が消えるようになったわけですが、そのように雑念は一気に消えるのですが、それでも、眉間あるいは鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるという瞑想を続けていくと静寂の境地に達します。

呼吸によって雑念は一気に祓われるのですが、それがそのまま静寂の境地というわけではなく、雑念が消えるというのは文字通りだいたいのところで雑念が消えるということであり、それと静寂の境地とはちょっと違うように思います。

以前の静寂の境地は奥深い意識がない状態で、単に静寂の境地になっていました。

今は、奥深い意識があった上で静寂の境地になっています。最初は静寂の境地に入ることを許さない奥深い意識という感じで奥深い意識によって静寂の境地に入ることを妨げられているような感じでしたが、今は、奥深い意識があっても静寂の境地に入ることができるようになりました。

その静寂の境地は深い意識があってもなくても存在していて、昔は深い意識がなくても静寂の境地に達していて、今は、深い意識が現れ続けていても静寂の境地に達しています。

これは意識の階層が違うということかなと理解しております。

浅い階層の心、ヨーガでいうチッタ(心)のゆらぎが静まることが静寂の境地であって、奥深い意識が現れているかいないかは静寂の境地とは割と独立しているのですよね。そのように今は理解しています。重なっているので最初は干渉しますけど基本的には別物なのだと思います。

浅い意識、ヨーガで言うチッタという五感に反応して記憶を司る心の部分の動きが静まることで静寂の境地になっているのだと思います。よって、これがヨーガスートラで言うところの「ヨーガとはチッタ(心)を死滅させることである」という意味の表すことなのだと思います。ヨーガスートラでは主に浅いところのチッタ(心)を扱っているわけです。

そして、最初は奥深い意識が現れていないですけど、そうして静寂の境地に達すると奥深いところから意識が現れてくるわけです。
ですから、最初は奥深い意識のない静寂の境地から始まり、次に、奥深い意識のある静寂の境地になるわけです。

ヨーガスートラのヨーガの定義は奥深い意識に関してはひとまず置いておいて、まずはチッタの動きを鎮めましょう、と言っているわけです。

ヨーガスートラのよくある批判として、「心を死滅させてしまってどうなるというのか」というお話がありますけど、心と言ってもヨーガスートラで死滅させるのは浅い意識であるチッタであり、日本語ですと死滅という訳になっていますけどこれは心を完全になくしてしまうという意味ではなくて「ゆらぎ(ヴィリッティ)」を止める、心が揺れるのを止める(死滅させる)という意味です。

ですから、要は「静寂の境地に達しましょう」と言っているだけのお話です。まあ、表現の違いですよね・・・。ヨーガスートラの目的はここにあるわけですけど、日本語訳で「心の死滅」とかいうから誤解しますけど、心の死滅ではなく「心のゆらぎの死滅」ですから、それは静寂の境地のことなんですよね。

その静寂の境地は奥深いところから創造・破壊・維持の意識が出てきたとしても存在していて、というのも、静寂の境地というのはチッタのゆらぎがなくなることですから、浅い意識について言っているわけなのですよね。

深い意識に雑念とかは元々ないですから、浅い意識(チッタ)で雑念が取り払われて静寂の境地に至るわけです。

そうして、ヨーガスートラでは「そうして心(チッタ)のゆらぎが静まると、見る者(プルシャ)は本来の状態に留まる」ということを言っているわけですけれども、まあ、一般的にはヨーガのゴールがこうして静寂の境地と言われてはいますけど、更に先があるわけですよね。静寂の境地に達して、次は見る者(プルシャ)が本来の状態に留まって、そうすると、奥深い意識が出てくるわけです。続きはウパニシャッドの領域に入っていくわけです。



眉間と眉毛の近くまで創造・破壊・維持のエネルギーが流れ込む

瞑想をしていたところ、不意に眉間の少し奥にエネルギーの流れを感じました。

それはまるで、風船が膨らむような、あるいは、柔らかいホースがぺしゃんこになっていたところに水が来てホースが膨らみ始めるような、それとも、水が通っていなかった乾いた水路に水が来て少しずつ満たされてゆくような、そのような感覚がしました。

元々、最近の瞑想で後頭部のあたりにまで創造・破壊・維持の意識が来ていて、そこまではエネルギーの凝縮したような感覚がしておりました。

後頭部で感じていたそのエネルギーが、眉間の少し奥の方に向かって斜め上に風船が膨らむかのように押し寄せて行ったのです。感覚があるのは眉間の奥で、その少し後頭部よりから眉間の方に、斜め上に向かってエネルギーが押し寄せて行ったのです。

それは30秒か数分のことだったかと思います。

少しずつエネルギーが眉間の少し奥にまで入ってきて、やがて、その同じエネルギーの圧力が高まるにつれて眉毛に近いところまでエネルギーで満たされるようになりました。

以前は、深呼吸するだけでエネルギーが鼻頭から入ってリラックスするというような感じで鼻頭にエネルギーの通りを感じていたわけですが、かと言って今日のように眉間のあたりにエネルギーの束を感じていたわけではなく、ただ単に鼻頭にエネルギーが通っていた、というお話でした。鼻頭あるいは眉間のあたりを中心にして、エネルギーが全方向360度から集まる、という感じでした。しかし、エネルギーの凝縮は感じていませんでした。

今回は、その呼吸が直接的なエネルギー源ではないようで、エネルギーはアナハタおよび後頭部のあたりに満ちている創造・破壊・維持のエネルギーが眉間にまで流れ込んできた、という感じです。

そして、呼吸をしてエネルギーを通すこともできて、そうして呼吸で呼び込むエネルギーは少し質が異なる気が致しますが、違っていたとしても、相乗効果というものは多少はあるようで、呼吸でエネルギーを通わせているとエネルギーが高まるのを感じます。

本当にそうかはわかりませんが、呼吸で取り込んでいるのはプラーナ的なエネルギーで、アナハタおよび後頭部から眉間に上がっていったエネルギーの方は創造・維持・破壊のエネルギーです。その両者が眉間で合わさっているようにも感じます。

これがそのままアジナ・チャクラが開いたことにはならないとは思いますけど、少なくともエネルギー的な変化が起きたように思います。

伝統的にヨーガではアジナ・チャクラの中にルドラ・グランティがあると言われています。それはエネルギー的なブロックのうち主要なもので、高次の認識を妨げている、あるいは早計に高次の段階に踏み出さないようにするための防御壁のようなものだと考えられています。

感覚的に、このルドラ・グランティに何か変化があったと考えるのが妥当な気がします。

今までも何度かルドラ・グランティかもしれないという経験をしてきて、例えば後頭部とか眉間の鼓動があったりもしました。その度に「これがルドラ・グランティなのかな?」とも思ってきて、今回また違ったことが起きました。

今日のようなことがまたあって、最初は「どれがルドラ・グランティなのだろうか?」と思ったのですが、最初にルドラ・グランティが開いて、その後に、違う種類のエネルギーを通すことで異なった経験をして違う感覚がした、と考えるのが妥当な気がしてきました。

瞑想の初段階では各チャクラの調整をするだけですので、その時にもグランティを超える必要があったように思います。それが後頭部とか眉間の鼓動だったのかなと思います。

今回は、そうして開かれたグランティに新たな種類のエネルギー(創造・破壊・維持の意識)が通ることで、元々ルートは少しは開いていたものの、大きなエネルギーが通ったことで「押しのけられた」ような、風船を膨らませたような感じがしたのかな、とも思います。

・・・それから少し経ちまして、日によってこの「風船のような」感覚があるときもあればない時もありました。エネルギーがそれほど満ちていないと感じる時もあって、瞑想をしてもそれほどエネルギーが通わないように思えたりする日もあったりしますが、それは、感覚としてのエネルギーの増減が減ってきたということであって実際にはエネルギーはそれなりに通っているのかなと解釈しております。ブロック(グランティ)がなくなってくればくるほど「押しのける」感覚がなくなってきているように思います。



人混みの中で他者のエネルギーに左右されにくくなった

創造・破壊・維持のエネルギーが体に満ち始めてから、人混みの中に行っても他人のエネルギーに左右されにくくなりました。

遥か昔を思い返してみれば、人混みの中に行くだけでぐったりと疲れたり、何かに取り憑かれたりするようなことも多々ありました。

街を歩いていると不意に疲れてしまい、瞑想で探ってみると体のオーラに取り憑いているエネルギー体がいた、なんてことはしょっちゅうでした。その度に両肩に刺さっていた見えないものを引き抜くとか、あるいは、エーテルコードを切るみたいなこともよくしていました。そうして変な意識と繋がらないようにメンテナンスしてきたわけですよね。

ですけど、この新しい状態になってから半月くらいしか経っていないのでまだわかりませんけど、今のところは昔のような変なことが少なくて、そういった調子が悪くなることはゼロではありませんけど随分と昔より他者のエネルギー体に左右されることが少なくなった気が致します。

これは、自分が強くなった、と言えばそうなのでしょうけど、強くなったというよりも、自分に取り付いてきたら胸の奥の創造・破壊・維持のエネルギーにそのまま取り込まれてしまって根源へと返ってゆくので私に取り付いたら次第に分解されてゆくのかな、という気が致します。

かと言って、めちゃくちゃ大勢に取り憑かれたらきっと調子が悪くなったりするのでしょうけど、一定のスピードで自動的に自分の中の不安定な感覚や雑念、あるいは取り付いてきた意識体などがほぼフルオートで勝手に胸のアナハタで浄化されていきますので、ある程度はそれで対処できている感じです。

基本はそうしてフルオートで対処して、それに加えて瞑想できっちりと整える、という感じですね。

そうすることで、以前より他者のエネルギーを受け取った時や、意識体と触れた時、あるいは他者の考えた想念を受け取った時などの対処が随分とうまくできてきた気が致します。

それでも、多少は不安定になることがあって、他者の不快な思いを受け取ったり、トラウマを思い出したりしてふらつくこともありますけど、以前と比べれば割とよく対処できている気が致します。



トラウマの一層の解消がなされる

創造・破壊・維持のエネルギーが体に満ち始めてから、トラウマが一段階急に解消され、今までよりも一層、影響されにくくなったように思います。

今までもトラウマは段階的に解消されてきて、それでもちょっとは残っていたり急にトラウマに数秒とか数十秒とか囚われたりすることもまだあるにはありましたけど、ここに来て、ようやく本格的に最後に残っているトラウマを解消できてきた気が致します。

自分の体の中を眺めてみますと、各所に「銃弾の欠片」のような金属片あるいは砕けたクリスタルの塊みたいなものが見えて、ちょっと大きめのが1つまだあるようには思いますけど、それでも、大部分はトラウマが一気に解消できてきた気が致します。

この創造・破壊・維持のエネルギーは自動的な働きを持っていて、雑念などを自動的に洗い流す効果がそれなりにあるようです。それでもまだ瞑想で強化する必要があるにはある感じではありますけど、このエネルギーが胸の奥から湧き出てきていて、そのエネルギーによって割と自動的に雑念およびトラウマを溶かしていっている印象があります。

今まではトラウマに襲われることもなくはなくて、どこか「気が抜けない」感じがありましたけど、このエネルギーが出てきた今となっては、それほどトラウマは怖くなくなりました。トラウマが出てきても今までよりも「半透明」なトラウマで、その半透明なトラウマが出てきても怖くなく、完全に囚われてしまうといったことも今のところ一度もなく、疲れている時はトラウマに影響されやすくなる気もしますが、基本的にはトラウマは自動的にすぐに解消されるようになってきています。

この状態であれば細かなトラウマはむしろ早く出てきてくれた方がよくて、どんどん解消して行きたい感じですね。

スピリチュアルで「トラウマを出して解消しましょう」みたいなお話がありますけど、まずその前提としてエネルギーを高めないとトラウマを出したところでうまく扱えずに囚われてしまったりするのかなとも思います。



この体が光でできていることを実感する

今まで、スピリチュアルで「貴方は光なのです」とか言われても、そうかもしれないとは思っていても、深く確証が持てていたわけではありませんでした。

しかし、ここにきて、瞑想をしていたらふと「あれ。私の体って光みたいだ」と、急に実感が湧いてきました。
光が視覚で見えているというわけではなくて、ただ単に、私の体が光だと感じる、というお話です。

まず、最近の瞑想では身体がスカスカの状態で、少し前までは単に「体がなくなったみたい」な感じがしていただけでしたが、ここにきて、単に体がなくなった感じだけではなく、それが光な気がしてきました。

まだ完全に光になっているわけではない感じではありますがそれなりに光で、「光の存在」と言われたら「確かにそうかも」という感じがしてきました。

これは、誤解があるかもしれませんけど、善と悪というような二元論のお話ではなくて、おそらくはこの世の全て、善悪とか関係なしに全てが光なのかな、と思うわけです。

流派によっては「空」というのかも知れません。

この世は全てのものが「光」でできていて、言い換えれば「空」であって、光あるいは空が輝いているあるいは現れている、とも言えるわけです。光であれば輝いていると言えるでしょうし、空であれば現れている、ということです。

これは、「私の体は光だと想像する」ということではありません。そのような「想像」はしていなくて、単に、ふと「あれっ、光だ」と気付いただけのお話です。

こういうとまた語弊があって、それじゃ「気付くことが重要」なのかというと、そういうわけでもありません。流派によっては「気付くことが重要」とか言っている流派もありますけど、これに関しては「気付くことが重要」というわけではなく、単に、体が光だと認識し始めたというだけのお話です。

瞑想やヴィパッサナー的な気付きのお話と、ここでいう「光だと気付いた」というお話は、別のお話です。

瞑想ではサマーディに至るための手法として気づきの瞑想とかをしたりしますけど、それは手法のお話で、ここで言っている「光だと気付いた」というのは、あくまでも結果のお話です。単に「気付いた」と言っても、瞑想での手法としての気付きの瞑想手法と、ここで言っている「光だと気付いた」というお話とは別なのです。

ですから、「私が光だと気付く瞑想」なんてする必要がないですし、そんなのはできないと思います。いくら「私は光だ、光だ」と思ってみても光だとは思えないでしょうし、思う必要もないと思います。

ただ単に、急に「あれ、光だった」と気付く地点が来るというだけのお話です。

同様に、「私が光だと想像する瞑想」なんてのも不要かなと思います。ここで言っている不要とは、文字通り、光だと想像する瞑想が不要と言っているのであって、天から光を降ろすようなエネルギーワークは有用だと思います。あくまでも、ここで言っている意味における「光だと気付くことを想像する瞑想」は不要だと言っているだけで、光を満たすと言いつつも要は(地あるいは天の)エネルギーを増やすようなエネルギーワークについては有用だと思いますから、そこは誤解して頂きたくないと思います。不要とは言っても、ここでは不要と言っているだけであって、例えば密教では光やマンダラを想像することで修行したりしますし、その修業はそれはそれで別のお話で、その流派の修業を否定しているわけではありませんし、そういった修行も有用だと思います。ここでは不要と思える、と言っているだけです。そう言っておかないと誤解が生じてしまうかもしれませんから。



ラントンからニメへ

まず静寂の境地ゾクチェンでのシネーの境地)に至り、次に静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が出てきて、それは創造・破壊・維持の意識(ゾクチェンでのラントン)となって現れました。

その後、静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態(ゾクチェンにおけるニメ)に至りました。

これらは、ぞれぞれゾクチェンの以下の状態に対応しているように思います。

(1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地(→ 静寂の境地ヨーガスートラのシャマタ(止)に相当)
 対象を決め、あるいは対象なしで、意識と視線を固定し、寂静の境地に入っていく。この状態が自然になり、さらに確固としたものになる。
(2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察
(→ 創造・破壊・維持の意識
 寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。
(3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地
(→ 静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態
 シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。
(4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地
 あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。

「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

実際のところ、私の感じた静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態が不二の境地(一味の境地)だというのはよく分かりません。

まあ、確かに、その状態においては分離はなくて、言われてみればそれは不二と言えばそうなのかもしれないでしょうけど、これはあくまでも説明のためのだけのお話のような気も致します。「二元論の彼岸」とか言われても、ちょっと回りくどい印象を受けます。

この階梯を元にしますと、今後はこれら2つの状態を共存させつつ不二の意識、要はサマーディ(三昧)をし続ければ良い、ということになります。

ゾクチェンにおける修行はシンプルで要は「常にサマーディを保つこと」なわけですけれども、そうは言いましてもすぐにそのように常にサマーディを保つのは難しくて、それ故にこのような階梯が存在しているように思います。

私の場合、これらのステップを踏んできて、不二の意識の入り口に達したと解釈することができます。それは割と日常生活の中でも続いていますけど完全ではありませんのでルンドゥップにはまだ至っていなくて、瞑想状態をなるべく維持しようと心がけているという意味においては私はニメの段階にいるのだと判断できます。



善悪の感覚がなくなる

創造・破壊・維持の意識が出てきた後、ネガティブなものに影響されにくくなったのと同時に、善悪の意識がほとんどなくなりました。

巨悪を見てもなんにも感じません。

最初、これは鈍くなったのかな? と勘ぐったりもしてみましたが、おそらくは自分の方がエネルギーが高くなったので影響されなくなってきたのかな、と解釈しています。

スピリチュアルとかで善悪はないということはよく言われていたりもしますけど、それは理屈でどうこう説明されていたりもしますけど実際は説明はあんまり関係なくて、本当にそのまま善悪はなくて全て自由なんですよね。

かと言って、何でも好きなことをしてしまえば良いとは思わないです。

そこは、創造・破壊・維持の意識が働いていますから、例えば悪だけをするなんてことはないですし、逆に、善のように見えることだけをすることもなくて、と同時に、現状維持だけを続けるということもないです。

何でも好き勝手にするということではなくて、言葉通りに、善悪の感覚はないということです。

この世の中には悪の塊のような存在も実際はいるようにもかつては思えていたわけですけれども、それすらも、今となっては善悪の感覚がないので、もはやよく分かりません。

善悪がわからないとは言っても、自分に危害を加えてくる人や存在に対しては適切に対処しますから、悪のようなものに対して何もしないというわけではありません。逆に、善に対しての対処もあるわけで、善のように見えても実際は偏っている場合もあるように思われるわけです。善悪の判断はなくなっても、行動は残るわけですよね。通り一遍の反応をするわけではないです。

これは、道徳のようなお話ではないです。道徳のお話はそれは正しいと思います。そういうことではなくて、存在としての善と悪のお話です。

善悪の判断があった頃はステレオタイプで良い悪いが判断されて、ある意味、善というレッテルを張っておけば何でも許してしまっていた面がありましたけど、善悪がよくわからなくなったが故に、物事はありのままに見られるようになったように思います。

道徳としての善悪はありますけど、心の奥底では善悪ではよくわからなくなってしまいました。善なのか悪なのかはよくわからないですし、他人の行動に対してもそうですし、自分の行動にしてもそうです。

道徳として、例えば、人を殺してはいけないだとか盗んだらいけない、というお話はもちろん正しいです。そういった善悪のお話は正しいのですが、心の奥底で、それを超える感覚が常時働いていて、善悪を超えたところで、何が悪いのかよくわからなくなったわけです。

それは、創造・破壊・維持の意識の一つの面で、その意識状態においては善悪はないわけです。何でも創造して、何でも破壊して、何でも維持しますから、何が良いか悪いのか、そのような判断はそこにはないということです。

これは、理屈で考えて「善悪はないですよね」とかいう頭でのお話ではなくて、全く文字通りに善悪の判断がなくなってしまった、というシンプルなお話です。



背骨が風船のように膨らむ感覚がした

本日、瞑想をしていたところ背骨の下の方、仙骨の近くで「ぷくっ」と圧力が高まって、風船が膨らむように何かが広がりました。

そうこうしていると、その感覚は背骨を通って少しずつ上がっていって、胸のあたりに達したら一旦感覚はよくわからなくなりましたけど、後頭部のあたりまで繋がっていった気がします。

元々、イダとピンガラで光が上ったりしたことはありましたし、その後、オーラがマニプラ優勢になって、アナハタ優勢になったりはしましたし、オーラ的にはアジナ優勢になったりもしましたけど、スシュムナ(背骨に沿ったエネルギールート、ナディの主要なもの)に沿った体験としてはそれほどなかったような気が致します。

小周天をしたときに背骨沿いに似たような感覚がしたことは度々ありましたけど、それはかなり昔のことで、もうそれはしばらく忘れていました。

オーラ的にはその後、胸の奥から創造・破壊・維持の意識が出てきたことによって変化があって、それはその後、頭の方にまで広がりはしましたけど、背骨沿いということではなかった気が致します。

背骨沿いの感覚としてはこれは久々で、ムーラダーラの会陰がスタートではなくてもう少し上の仙骨あたりから感覚がスタートして、そこから少なくとも胸のアナハタのあたりまでは繋がった感じが致します。その上は既に繋がっている気も致しますので、スワディスタナとアナハタの間がしっかりと繋がった、ということかもしれません。

ヨーガ的に言うと背骨沿いにはエネルギーのルートがいくつかあって、左右がイダとピンガラ、真ん中にスシュムナがあります。図は「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より。

同書ではスシュムナーの他に「Chitra Nadi」とか「Brahma Nadi」とか書いてありますけど、ちょっと違いはよく分かりません。



身口意とエネルギーと意思

身口意(しんくい)とは仏教用語で、人の行為である身業・口業・意業の3業(さんごう)がそれぞれ行動・言葉・意思に対応していると言われています。そして、密教においてはこれら3つを一致させるために修行していると言います。

まあ、実際のところ私は仏教の教徒ではありませんので仏教的な解説はこのくらいにしておきますが、私の最近の認識とこれらが重なってきましたので少し記録として書いておきます。

密教あるいはチベット系の書物を読むとこれら身口意の解釈が少し異なっていることに気が付きます。

身→体
口→エネルギー
意→意識

チベット仏教では、どのレベルの教えにおいても、生きものは、身、口、意の三要素からなっていると考える。この三者の完璧な境地は、オーム、アー、フーム、というチベットの音節文字によって、それぞれ象徴されている。身というのは、その生きものの物質的な次元すべてを指す。これに対して口は、サンスクリットではプラーナ、チベット語ではルン(rlung)と呼ばれる。体に生命力を与えるエネルギーであり、その循環は呼吸と結びついている。意は、理性的思考にもとづく表層的な意識と、心の本然の両方を含む。心の本然は、理性を超えているのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

日本の仏教の身口意の説明より、このチベット仏教的な解釈の方がしっくりきます。

仏教では、個人はからだ、言葉、心(身、口、意)(しん、く、い)という三つの側面から成り立っていると考える。相対的な状態(世俗諦)は、この三つの側面から作り上げており、時間の限界と、主体/客体の分裂の中にある。それに対して、時間と二元論の彼岸にあるものは、<絶対的な真理>(勝義諦、しょうぎたい)と呼ばれる。この言葉は、身、口、意の究極かつ本来の境地を指している。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

ここでポイントなのは、身口意は二元論のお話でサマーディにまだ達していない状態で迷いがあり輪廻転生やカルマに囚われており、一方、サマーディ状態において身口意はなくなるわけではないですけど身口意の顕現をありのままに見られる境地に達して迷いや輪廻転生やカルマに囚われなくなるということです。それらがなくなるわけではなく、身口意は顕現として現れ続けるのですが、それらに限界づけられることがなくなるということです。


これらは、先日のシネーとラントンにそれぞれ当てはめることができるように思います。

(1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地(これが意に相当)
(2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察 (これは口=エネルギーに相当)
 寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。
(3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地
 シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。
(4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地
 あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。

「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

とすると、先日の解釈に加えて、もう1つの要素がこれに絡んでいることに気が付きます。

サマーディ(三昧)の意識にはゾクチェンでいうとろろの「リクパ」が必要で、リクパは以前にもそれなりに出てきていたように思いますが、今から思えば、エネルギーの顕現があってこそようやくリクパが継続的に持続できるように思います。

ですから上記の順番は正しくて、ニメの不二の境地(=サマーディ)はそれ以前にも現れてきますが基本的にはこの順番なのかなと思います。私の場合、以下の順番だったように思います。

(1) シネー(→ 静寂の境地、意に相当。クンダリーニ覚醒後マニプラ優勢になりアナハタに至りアジナに至り静寂の境地に至る。ここまでが初学者の段階
(2) ニメ(不二の境地)が度々生じるが長く持続できない状態。この状態でもリクパがそれなりに働いている。
(3) ラントン(目覚め)(→ 創造・破壊・維持の意識。口=エネルギーに相当)
(4) ニメ(不二の境地)リクパが少しずつ安定しつつある状態。時間と二元論の彼岸にあるもの。<絶対的な真理>(勝義諦、しょうぎたい)に相当。サマーディ。

サマーディの状態は度々生じていたように思います。はっきりした目覚めだったというのはその時々においてはそれなりに大きな経験がそれぞれあったように思いますが、基本的には段階的にサマーディが育ってきているような気が致します。

サマーディの最初は、カニカ・サマーディとも呼ばれるような視界がスローモーションで認識される状態が最初に現れてきたような気が致します。その後、それは少しずつ深まったり少し戻ったりしつつ全体的には深まってゆきました。これらの状態がニメ(不二の境地)の最初の状態だったように思います。

その後、 創造・破壊・維持の意識が出てきたことで新たなエネルギーかつ意識と接触し、それと一体になり、ラントン(目覚め)に達したように思います。

そうして、ラントンに達するとすぐにニメ(不二の意識)が安定してきて、割と日常生活の中でもそれなりにニメ(不二の意識、サマーディ)が継続的にできてきたような気が致します。

私はいまはこの段階ですね。きっと。

特別に何かをしなくても日常が瞑想になって修行になるのが理想ですけど、そうは完璧にはいかないので瞑想やヨーガもしている感じです。

今後、これが更に安定してきて日常生活において常にサマーディが維持することができるようになったらルンドゥップ (あるがままで完全な境地)に至るのかな、と思っております。



シャマタ(止)をしてからヴィパッサナーに至る

先日のお話を別の面から見ますと、最初は身口意(しんくい)で次にリクパのあるサマーディ(不二の意識)に至ります。別の言い方をしますと、静寂の境地(シネー)の次にサマーディ(リクパのある不二の意識)に至ります。

基本的にはこの順番になるのが多いとは思いますが、理屈としては、静寂の境地(シネー)なしにいきなりサマーディ(リクパのある不二の意識)に直接入ることも可能だとは思います。

しかしながら、ステップを踏んだ方が安定すると思います。再現性がある、とでも言いましょうか。

もともとリクパの不二の意識がそれなりに働いている人であれば静寂の境地(シネー)なしに直接サマーディに入れると思います。そういう人はいるでしょうし、特に子供の場合はまだこの世の雑多なまつわりに絡め取られておりませんからそういうこともあるでしょうし、大人であってもそういう人はいるかと思います。

とは言いましても、伝統的な瞑想においては最初にシャマタ(止)をします。

そして、やがてリクパの不二の意識が働きだしたら実際のところシャマタ(止)はそれほど必要ではない... と言うと語弊があるかもしれませんけど、シャマタ自身が最終目的ではなくてシャマタ(止)は一つのステップですから、リクパに至るためのステップなわけです。

リクパの意識というのは別の言い方をするとヴィパッサナーで、雑念や体の感覚など身口意の全てを観察する意識がリクパなわけです。その中で、特に意識を静止させて静寂の意識に入ることはそれが最終目的ではないにせよリクパの意識を目覚めさせるために有用なわけです。普通の人の場合はリクパの意識は眠っていて、それは仏教では「無知」とか言われている状態ですけど、そのリクパの意識を働かせるためにはシャマタ(止)などが有用なわけです。

リクパが働き出せば雑念や考えが出てきてもそれ自体をありのままみ見ることができるようになってきますから、意識的にシャマタ(止)をする必要がなくなってくるわけです。

このあたりは前にも似たような分析をしたことがありますけど、その時よりクリアにこのあたりを理解できるようになった気が致します。



体の感覚を観察すればヴィパッサナー瞑想に至るという誤解

ヴィパッサナー瞑想状態というのは心の本性(いわゆるリクパ)が五感や心を観察している状態で、ヴィパッサナー瞑想状態であれば体の感覚の観察が容易にできますけど、体の感覚を観察する瞑想を行ってもそれがそのままヴィパッサナー瞑想状態ではありません。

後者は、一部の流派のやり方としてのヴィパッサナー瞑想が体の感覚を観察する、というだけのお話です。

ヴィパッサナー瞑想というのは瞑想の1つのやり方で、ヴィパッサナーとは観察のことですから、瞑想の手法としては瞑想状態の1つの要素です。それをそのまま名前にしているだけのことで、ヴィパッサナー状態と流派としてのヴィパッサナー瞑想の手法を分けて考えた方がいいと思います。体の感覚を観察する瞑想は瞑想手法に単にヴィパッサナーと名前がついているだけであって、瞑想で達することができる認識としてのヴィパッサナーではないわけです。

瞑想を続けてある程度の認識に至った人がヴィパッサナーの状態に至って、その時は体の感覚も容易に観察できる、というお話が最初にあって、それを真似して瞑想手法を作り上げたのかな、とも推測してしまいます。瞑想初心者のうちから体の感覚の観察を真似するのは難易度が高いと私なんかは思いますけど、流派によってはそのような瞑想を使って修行してそれなりの境地に達することができているようですから、私はもっと違った道の方がいいとは思いますけどその流派がそう教えていてそれが正しいと思うのならそうしたらいいと思います。

これはもともとある程度の素地があってヴィパッサナー状態がある程度わかっている人には有効で、そういう人にはちょっと教えれば「ああ、そういうことか」と「気付いて」あるいは「(瞑想状態を)思い出して」、すぐにヴィパッサナー状態に達することができます。

これは、スピリチュアルで「気付くだけなんですよ」「思い出すだけなんですよ」とか言っていることが該当するような気がしますけど、素地がなかったり、素地があったとしても社会生活でひどく疲れている人にはそう言ったところでなかなか到達できない境地だとは思います。気付けばいいだけと言われて「そうか」と思ってすぐにそうなれる人なんてそうそういないと思います。なんとなくイメージで想像してそんな気になるのは簡単ですけど。そのように、想像で固めてしまって自分はわかっていると思いこんでしまう方もそれなりにいらっしゃいますので、簡単だと思わせてしまうのも特に罪作りだったりします。確かに、分かる人にとっては本当に気付くだけあるいは思い出すだけだったりしますけどね... それはケースバイケースです。

本当にすぐに気付ける人はそれはそれでいいんですけど、多くの人はそうではないと思います。すぐには到達できない人の方が多いと思います。

そして、素質のある人であってもよく誤解するのが「体の観察を観察すればヴィパッサナー状態に至る(体の観察をするというアクションに対してヴィパッサナーという結果が生じる)」という誤解です。そうではなくて、「ヴィパッサナー状態であれば体の状態が観察できる」というのが事実です。これは、似ているようでいて違います。ヴィパッサナー状態になっていなくて体の感覚を観察したところで何も起こりません。何も起こらずに瞑想を頑張り続けて、瞑想とはそういうものだと誤解してしまうことすらあります。誤解があったとしてもふとしたことで本物の境地に至ることもあるのでなかなか全てそうだとは言い切れないのですが、基本的にはそうです。

ヴィパッサナー状態というのは五感を超えた意識(いわゆるリクパ)が五感や心の動きを観察しているという状態ですので、ここでの誤解は、心が五感を観察すればヴィパッサナーだと思いこんでいる点にあるわけです。

■ヴィパッサナー状態 → リクパが五感や心を観察している。よって、五感(皮膚)の感覚も観察できている。心の集中は不要だが、気づきとしての集中(のようなもの)は必要。気づきを高めた状態、あるいは、気付きが高まった状態、とも言えます(主体がどこかによって言い方が違うだけで同じことを意味しています)。
■手法としてのヴィパッサナー瞑想 → 心が五感(感覚)を観察している。心の集中が必要。

ですから、全く別物なのに、あたかも、皮膚を観察すればヴィパッサナーだ、と思っている誤解が多くあるように思うわけです。

個人的に思うのは、最初の段階では皮膚の観察とかよりもとにかく集中瞑想がいいと思いますけどね。ただ、教えてもらっている流派がヴィパッサナー方式ならそれに従うのも個人の自由だと思います。

ヴィパッサナーの流派は、集中も「ある程度」必要、とか説明しますけど、ある程度どころか、かなりのところまで集中が重要だと個人的には思っています。



自動的な観照で心を観察する瞑想

観照自体は静寂の境地に度々達した後に起こっておりましたが、最近の瞑想では、静寂の境地の前であっても観照が自動的に起こるようになってきました。

静寂の境地はいわゆるシネーの境地であり、ヨーガスートラにおけるシャマタ(止)であり、心が静止した状態であると言えます。

今回の観照は、心の静止の後ではなく、心の動きそのものを観察するという働きを観照と呼んでいます。

ですから、必ずしもシャマタ(止)をしているわけではなく、むしろ心は自由にさせていて、それでも観照が続いています。

心の中に雑念や考えが浮かんできてもそれをただ観察しています。その観察の中に取り込まれることなしに、少し宙に浮いているかのごとく少し離れた状態でいます。

今までは、心の中に雑念や考えが浮かんでくると、足元が沼地あるいは誰かが足を引っ張るかのように地面の中に引きずり込まれて雑念や考えだけが意識にあるような状態になっておりましたが、観照の状態においては、自分の心が少し地面から浮いていて、とは言いましてもそれほど高くは浮いていないので多少は引っ張られることもまだあるのですが、基本的には浮いているので雑念や考えが現れてもそれを見続けることができます。

これは、以前は静寂の境地(シャマタ、シネーの境地)に達した後にこのような状態になっておりました。いわゆるヴィパッサナー状態とも言えます。

例えば、朝に瞑想をして、早くて30分、あるいは1時間とか1時間半とか瞑想をした後に静寂の境地に達して静寂の境地に至りヴィパッサナー状態になっておりました。

しかし、最近は、瞑想を始めるかあるいは座る前であってもある程度の観照が動いていて、特に座って瞑想をしているときには観照によって上記のように心の状態をそのまま観察できています。

それは、「自動的」な観照である、とも言えます。

これが自動的かどうかはかなり大きな違いで、意思を働かせていなくては起こらない観照と、まだそこそこであったとしても自動的に働く観照とではかなりの違いがあるように思われます。

観照の感覚自体は前から起きていたように思いますのでそれ自体は珍しくはないのですが、昔であればあるほどその観照が日常生活で続く時間が短く、今は、その持続時間が伸びてきている、とも言えます。これがまだ24時間にまでは達していないですけど、いわゆる悟りを得た方々は眠っている間も意識が継続していると言いますので、観照の継続は悟りに必要な条件のように思います。

これは別の解釈をすると、身口意(しんくい)のうち意識(心)の観察であると言えます。身に属する五感の観察は簡単で、最初は体の観察から初めます。次にエネルギー的な観察をします。エネルギーは五感よりもより微細です。もっと微細なのは心の動きです。これら3つすべてを観察するのが観照なのだと思います。



日本の敵の扱い方

この世は全て愛で何をしても良いのですから酷いことをしている人がいたとしてもそれは全て許されています。この世界は全て完璧で、何を選択しようとも、それが例え大虐殺や地球の破壊であったとしても完璧なのです・・・ というのが基本です。

宇宙の基本的な法で惑星の自由はほぼ完全に保証されていますから、惑星上で大虐殺だったり大量破壊などどんな酷いことがあったとしても基本的には惑星に生きている存在の自由が尊重されます。しかしながら、何をしてもいいわけでもありません。惑星それ自体が存続できなくなってしまうほどの大破壊、例えば強力な核爆発で地球を吹き飛ばしてしまうような状況であれば宇宙からの干渉が許されています。宇宙の法で、地球の惑星の破滅を止める権利を宇宙の管理者は所有しております。そこまで行かない範囲であれば基本的には惑星の生命体の思想・行動の自由が保証されているわけです。

瞑想をしてきて、特に創造・破壊・維持の意識が出てきた後はそのことを実際に実感できて、何をしても許してくれるこの地球が実際にあるわけですけど、そうは言いましても、身近な敵の扱い方について時にそれと矛盾する考えあるいは難しい判断をしなくてはならない時があります。

全ては完璧で全てが許されているのだから、敵がいても許さなくてはならないのか? そういう問いが生まれてきます。例えば、いま生きている日本には日本を貶めようとしている偏向報道をするマスコミがいたりしますよね。そういう人を許さなくてはいけないのか? という問いが生まれたりします。あるいは、身近に搾取してくる人がいたときに、それを許したままでいいのか、というお話があります。

一つの答えとしては、反応すらも何ら全てを許されているので、調和の取れている範疇で何をしても良い、という答えがあります。
そのような搾取あるいは貶めるような行動も含めて全て自由で許されているわけですけれども、それに対する行動も自由なわけです。

ですから、仕返しするのが調和であれば仕返しすればよいですし、拒否するのが調和であれば拒否すればいいわけです。

ここに「自分」というものが働いている時はそれはカルマになってカルマあるいは輪廻の輪に囚われてしまいますが、カルマの輪から抜け出た人、既に意識が「全体」になっているのであれば自分の行動は何らカルマを生じさせないわけです。

これは、理屈のお話ではありません。実際にそのように行動できるかどうか、というお話です。

自分の意識がどうであれ、何をしようとそれは自由なわけですから、好きなようにすればいいわけです。耐えるのが調和だと思えば耐えればいいし、仕返しするのが調和なら仕返しすればいいわけです。それはケースバイケースで、どうとでもなるわけです。行動そのものに固定的な真実があるわけではなく、その時々において真実が異なるわけです。

道徳や常識というのはまだこのレベルに達していない人にとっては有益ですけど、カルマの輪から抜け出せた人にとっては単なる指針にしか過ぎません。カルマを抜け出したならば、良いと思えることをいわゆる宇宙意識の観点で何でも実行すればいいわけです。

この例の場合、反日マスコミに対する対処も宇宙意識の観点からすると割と自然に決まってきて、その反日ループから抜け出すためには「日本人が目覚めること」が絶対条件になってくるわけです。そして、日本人それぞれが目覚めた後に実際に行動することですよね。

はっきり言って、ごく一部の能力者や力のある人が動くことでああいう反日マスコミや韓国総連など目立つ立場の人を排除するだけなら割と簡単なのですけど、排除したところで日本人が目覚めていないなら何度も何度も同じことをされてしまうんですよ。ですから、排除はあまり意味がありません。とことんまでやられてようやく目覚めるかどうか、ということですよね。能力者が日本人の学びの場を奪ってしまってはならないと思います。

人の命って実は高次元になれば割と簡単に操作できて、病気とか事故とか、脳卒中とか、いきなり心不全とか、最近であればコロナにかからせるとか、どうとでもできるんですよね。でも、そんなことは基本的にしないのですよ。意図的に沢山の人を殺してしまうと不自然ですし、何より、上記のように、学びをする機会を奪ってしまいますからね。今回の場合、日本人が目覚める必要があるので、日本人が目覚める機会を奪ってしまうわけです。そんな事態になるよりは、反日マスコミや反日政治家をほおっておいた方がいいわけです。

それは惑星の滅亡と同じことがあって、日本が滅亡しかねないならば反日マスコミや韓国総連、あるいは反日の政治家を排除することもありますけど、そうなればまた同じような状況を一から作り直しで日本人が目覚めるのを待つことになります。それはそれで面倒くさいです。もうだめなしきい値に達するより前に日本人が目覚める方がいいと思うわけです。

人の生命というのは意外に脆いもので、排除しようと思えばいくらでも排除できますけど魂は不滅ですから再度生まれ変わって同じことを繰り返します。問題の先送りなだけなんですよね。

やり方として、そのような魂を別のタイムラインに送り込んでしまうこともできますけど、それはそれで手間ですしね。どちらにせよそちらで同じようなことを繰り返します。それよりも、お互いに学んでくれればそれでクリアなんですけどね。

本当に排除しようと思ったら、宇宙意識に意図して「いなくなってください(方法は任せます)」と指示するだけで、脳卒中なりスキャンダルなり宇宙が勝手に意図してくれて排除してくれます。でも、上に書いたようにまた同じ状況が生まれてきますけどね。日本人が目覚める、あるいは、言い方を変えれば「日本人が学ぶまで」、そのレッスンは繰り返されるわけですよね。

他人に自分のエネルギーを渡さない、という日本人のレッスンが終了したら反日マスコミも反日政治家の問題もすぐに解消すると思いますよ。だって、投票でそういう政治家が当選しなくなりますからすぐいなくなるでしょうし、そうなれば反日マスコミも政治の側から排除が進みます。官僚だって同じことですよ。

一部のメンバーが頑張って反日メンバーを排除することもできますけど、かなり大変ですし、根本的治療ではありませんしね。それより、日本人が目覚めてくれた方がよっぽど良いわけです。



サハスララにエネルギーが満ちると静寂の境地に至る

ここ最近、瞑想をしている時に頭頂付近に風船の膨らみのような感覚がすることが多くなりました。

背骨から伸びた先の、後頭部の方から頭頂に向かって表皮に沿って長い風船が少しずつ膨らんできている感じです。

風船ですと一気に全部膨らんでしまいますが、これは、風船というよりも水道のホースあるいは消防のグルグル巻になっている太いホースの方が近いかも知れません。端の方から少しずつ膨らむ感じです。

場所としては、頭頂より少し後ろあたりにしばらく感覚があって、瞑想をする度にそのあたりで少しずつ風船が膨らむ感じが度々しておりました。図で言いますと橙色で最初感覚があって、膨らみきった後は黄色のところまでエネルギーが満ちた感じになりました。

同様の感覚は以前は喉のあたりだったり後頭部だったり、各所で同じような膨らむ感覚があったのですが、それらは全て、エネルギーがそこにそれほど通っていなくてエネルギーが通う時に感じる感覚だったように思います。

今までも頭頂に度々同様の感覚があったのですが最近ほど頻繁ではなく、最近は後頭部とかには何も同様の感覚がありませんので、後頭部および頭の下半分には既にエネルギーが満ちたのかなと思っております。

この状態で、瞑想を始めるとまだエネルギーが満ちていない頭頂のサハスララ周辺で似たように風船が膨らむ感じが最近はしておりました。

そして、今までは頭頂でただ単に風船が膨らむ感じだけだったのですが、ここに来て、頭頂の全てで風船が膨らみきって、それはエネルギーが頭頂にまで満ちたということだと思いますけど、そうなると、視界が少しうっすらと全体的に光って見える、ということと、意識は静寂の状態になります。

ここまで意識が満ちていなくても静寂の境地には入れておりましたが、この静寂の境地はそれはそれで味のあるもので、今までは意識がなくなる感じで静寂の境地に達しておりましたが、意識がそれほど変わることなく静寂の境地に入る、というのが違いのような気がいたします。

視界の光についても今まででも時々その光を感じておりましたが、不意に光を感じることが多く、しかも、それは時々見える、という種類のものでした。ここにきて、サハスララにまでエネルギーが満ちている時は安定して同様の光が見える気が致します。今までも、サハスララにエネルギーが通った時に一時的に光が見えていたのかもしれません。

もともとヨーガではサハスララは輝いていると言っていますので、それらの記述と一致します。

サハスララチャクラでは、光り輝いている。(中略)浅い精神集中の状態では、アストラル体を、現れたり消えたりする煙柱のように体験する。雑念が消え、深い精神状態の状態に入ると、アストラル体は黒色に見える。その黒色のアストラル体に、さらに精神集中を続けていると、それは光り輝くようになる。「密教ヨーガ(本山博著)」

まだ完全に光に満ちたという感じでもありませんがうっすらと全体的に光を感じます。

それは、最初の煙柱の状態でもやもやと見えていた光のような感覚とは違っていて、全体的に明るくなる感じですので最初は朝日を感じていたのかとも思ったのですが、どうもそうではなく光を瞑想中に感じていると判断する方が妥当に思えてきました。朝日を感じるのは以前からでしたからその感覚はありますけど、朝日にしては光の変化が速いと言いますか、見える感覚も違いますし、タイミングにしても頭頂にエネルギーが満ちて風船が膨らみきったか風船の感覚がなくなった時に光を同時に感じるので、瞑想中に見える光だと判断しました。少し前の漆黒を感じた時から進んで光り輝くようになったと言えると思います。

この種の光は、ヨーガの流派によっては「見えるものは重要ではない」とか言って切り捨ててしまう団体もありますけど、私が思うにはこのような「しるし」は自分がどのあたりにいるのかを判断する上で重要ですので捨てない方がいいと思います。とは言いましてもそれはその流派の好きにすればいいお話ですから私がどうこう言っているわけではなく、その人達が好きなようにすればいいわけで、これは単なる個人の感想です。