周囲の空間が何かに満たされていることを感じる

2021-06-29 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

その何かとは意識であり空間そのものあるいは愛であるとも言うことができると思います。人が愛するような愛ということではありませんので愛というと語弊があるようにも思えるのですが、愛と言ってもそう差し支えないようにも思えます。

ただ、そのような比喩的な言い方よりも、インドのヴェーダンタの説明であるところのサット・チット・アーナンダのうちのアーナンダのことだと解釈する適切のように思います。

これはこの世に普遍的に満ちているアートマンあるいはブラフマンのことで、世界に満ちているアートマンあるいはブラフマンがサット・チット・アーナンダだとヴェーダンタでは言われているのですが、サットが時間に制約されず過去現在未来に渡って永遠に存在するという永続を意味し、チットは純粋意識、アーナンダは一般的には「歓喜」と訳されていますが、それと同時に「満ちている」と言う意味もあります。

これらのうち、私は当初は意識と言う面に即してアートマンの実在を感じるようになりましたが、ここにきて、アーナンダの面における「満ちている」および「歓喜」を実感するようになりました。

ヴェーダンタでは、最初は自己・個として分かれているアートマンとして自覚した後、それが実際には普遍的なブラフマンであることを自覚する、と説明されています。

この順番はおそらく正しくて、当初はただ単に自己の意識としてアートマンを自覚しておりましたが、ここにきて、まだ周囲の数メートル程度の範囲ではありますけど、その近くの空間が「満ちている」ことを認識するようになりました。

■アートマン(ブラフマン)
サット 過去現在未来に関わらず継続する → まだ
チット 純粋意識  → 最初
アーナンダ 満ちている。(歓喜・愛)→ 今回

アーナンダは一般的に言われているように歓喜といえばそうなのですけど、私の実感で言うと、元々の意味である「満ちている」の方が適切のように思います。

普遍的なアーナンダの「満ちている」と言う意識が育ってくると他人も自分のように感じますから、他人を手助けするのも普通になります。ですけど、この世知辛い世間を生きるには誰それ構わず助けるということではなく、知恵が必要のように思います。

この「満ちている(歓喜・愛)」と言う意識はちょっと一般社会の人生を送る上では危ないように思えて、世間には油断ならないずるい人や悪意に満ちている人がいるのですけど、そのような人に対しても普遍的に愛や満ちている感覚をそれなりに感じてしまいますので、この意識で生きていると騙されたり利用されたりすることも多いのかもしれないな、と思ってしまいます。悟りの意識が騙されやすい性質に繋がる可能性もあるように思います。

社会を理解せずに感覚のまま手助けすると悪意のある人あるいは他人を利用しようとしている人にうまく使われる危険性がありますので、社会を生きる上では知恵が必要のように思います。気持ちのまま手助けしてうまくいっていない、という例は多いように思いますね。NGO・NPOの慈善活動も空回りしているように思います。普遍的に手助けしたい気持ちが純粋にある人がいる一方で、そのように無償で働く人をうまく誘導して利用したいだけの人がいます。

本人は純粋意識で動いているだけだった筈なのにどこか特定の利益のために動くようになってしまう、というおかしな例はそれなりにあると思います。政治家では山本○郎のような人が空回りしている気が致しますね。あの人はおそらくは元々は純粋意識から動いていたように思いますけど、知恵が足りなくて、特定の左翼団体の利益のために動いてしまっているような節があります。今はかなり取り込まれてダメになっている感じが致します。これは勿体無いです。普遍的意識があるのであればもっと大衆のために尽くせる筈なのですけど、今は変な思想がこびりついて意味不明になってしまって左翼の利益のために動く人になってしまっています。知恵が足りない例ですね。

このアーナンダの「満ちている」意識が育ってくるにつれて、周囲の人に普遍的に手助けする気持ちも育ってきますが、ここは、一つの分岐点のような気が致しますね。

最初はチットとしての純粋意識であって、それは個としてのアートマンの意識でしかないわけです。その時点ではアーナンダの満ちていると言う感覚は自分の体の範囲に留まります。

そして、ブラフマンというほどの世界全体に満ちたわけではまだないですけど少なくとも周囲数メートルの範囲においてアーナンダの「満ちている」と言う感覚が出てきたことにより、ヴェーダンタの言っている、アートマンとしての個から全体としてのブラフマンへの変化というものを確かに感じることができるわけです。

これは、周囲にあるものに対して意識がとても薄く浸透した、ということもできて、意識が浸透したからと言って体のようにダイレクトに動かしているという感覚は周囲の物体に対してはないのですけど、動かすことはできないですけど、何か薄いものが浸透している、ということをなんとなく思えるわけです。オーラのようにしっかりとした感覚ではなくて、何かが浸透している、という感覚です。オーラの場合はもっとはっきりとしていて、オーラは融合したりすると激しい化学反応のようなものを起こしますけど、基本はオーラは体の近くに留めておきますので、オーラを伸ばした場合のお話とは異なるわけです。

オーラではなく、意識が周囲の空間に満ちていて、その満ちる感覚が体の周囲だけの範囲から、自分の周囲数メートルに広がった、というのが現在の状況です。

今は近くにいる人に対してだけ「自分」を感じますけど、これがどんどんと広がっていって誰それ構わず「自分」を感じるようになったらどうしよう、という気もしますけど、まあ、そんなこと今から心配していてもしょうがないですね。なるようになります。おそらくは。