最初からサハスララにオーラが満ちている状態
以前は、サハスララへはオーラを「上げる」という感じでした。
少し前までは、アジナの付近まではオーラが満ちておりましたがサハスララの部分にはそのオーラが行き届かないような感覚があり、それは風船が完全に広がらないような、水を庭に撒いても奥の方まで水が届かないような、浅瀬が少し残っていて水が満ちていないような感じで、サハスララに感覚がないことが多かったように思います。そして、瞑想を1時間とか2時間するとサハスララにオーラが不意に堤防のせきを切ったように流れ込んでサハスララにオーラが満ちた瞬間に静寂の境地になっていました。
そして、時間が経つとその状態から元に戻って、アジナ付近までオーラが満ちた状態にいつの間にか戻っていて、それから再度瞑想をしてサハスララにオーラを満たす、というような感じでした。
それがここにきて、割と普段からサハスララにオーラが満ちた状態になってきています。とは言っても日にもよりますが。
アジナとサハスララの間に垣根がなくなって、それは、割と急に、朝起きて気がついたらなくなっていた、という種類のもので、昨夜の瞑想状態から続いているだけということなのかもしれませんけど、それでも、少し前であれば一晩寝ただけで割とサハスララからオーラが抜けていたのが、一晩寝てもサハスララからオーラが抜けない、という違いがあります。
この状態で瞑想を始めると気がつくのは、以前にはあった、サハスララに満ちて静寂の境地になる、という感覚と、普通の五感の感覚とが混在している、ということです。これはどういうことかと言いますと、以前は、サハスララに満ちることで五感が薄れていって静寂の境地になっていました。
今は、静寂の境地を成り立たせている深い感覚と五感とが共存している感じです。
これはいわば清濁併せ呑む「中」の状態ということなのかなと解釈しています。
以前は、オーラの境目がアジナとサハスララの間にあって、アジナからサハスララにオーラが抜けた時はサハスララに留まらずにそのまま上か周囲にオーラが次第に少しずつ抜けていく、という感じがありました。
今も、サハスララから周囲にオーラがうっすらと繋がっている感じがあるのですが、以前のように、オーラが抜ける、という感じではありません。
以前はアジナからサハスララにオーラが抜けた時はそのままサハスララを超えてオーラが発散していたのですが、今は、サハスララの頭頂の付近でオーラが留まっている感覚があります。
それでいて、周囲とはうっすらと繋がっています。
オーラという割と粗大な肉体に近いエネルギーがサハスララから抜けにくくなって、それでいて、微細な部分で外側と繋がっている感じです。
これはムーラダーラの感覚に似ていて、ムーラダーラは常にそこでオーラが集まっていて抜けている感じはないのですが薄っすらと周囲と繋がっています。
それが、ここにきて、サハスララでも同様になってきています。
今まではサハスララがあまりうまく動いていなくて、その手前でブロックされていた、ということと、サハスララでオーラを留める感じになっていなかったようです。
こうなったからと言って、感覚的には「中」の意識になって五感と静寂の境地が合わさったというくらいですけど、小さいように見えて意外に大きな変化のようにも思います。
少し前までは、アジナの付近まではオーラが満ちておりましたがサハスララの部分にはそのオーラが行き届かないような感覚があり、それは風船が完全に広がらないような、水を庭に撒いても奥の方まで水が届かないような、浅瀬が少し残っていて水が満ちていないような感じで、サハスララに感覚がないことが多かったように思います。そして、瞑想を1時間とか2時間するとサハスララにオーラが不意に堤防のせきを切ったように流れ込んでサハスララにオーラが満ちた瞬間に静寂の境地になっていました。
そして、時間が経つとその状態から元に戻って、アジナ付近までオーラが満ちた状態にいつの間にか戻っていて、それから再度瞑想をしてサハスララにオーラを満たす、というような感じでした。
それがここにきて、割と普段からサハスララにオーラが満ちた状態になってきています。とは言っても日にもよりますが。
アジナとサハスララの間に垣根がなくなって、それは、割と急に、朝起きて気がついたらなくなっていた、という種類のもので、昨夜の瞑想状態から続いているだけということなのかもしれませんけど、それでも、少し前であれば一晩寝ただけで割とサハスララからオーラが抜けていたのが、一晩寝てもサハスララからオーラが抜けない、という違いがあります。
この状態で瞑想を始めると気がつくのは、以前にはあった、サハスララに満ちて静寂の境地になる、という感覚と、普通の五感の感覚とが混在している、ということです。これはどういうことかと言いますと、以前は、サハスララに満ちることで五感が薄れていって静寂の境地になっていました。
今は、静寂の境地を成り立たせている深い感覚と五感とが共存している感じです。
これはいわば清濁併せ呑む「中」の状態ということなのかなと解釈しています。
以前は、オーラの境目がアジナとサハスララの間にあって、アジナからサハスララにオーラが抜けた時はサハスララに留まらずにそのまま上か周囲にオーラが次第に少しずつ抜けていく、という感じがありました。
今も、サハスララから周囲にオーラがうっすらと繋がっている感じがあるのですが、以前のように、オーラが抜ける、という感じではありません。
以前はアジナからサハスララにオーラが抜けた時はそのままサハスララを超えてオーラが発散していたのですが、今は、サハスララの頭頂の付近でオーラが留まっている感覚があります。
それでいて、周囲とはうっすらと繋がっています。
オーラという割と粗大な肉体に近いエネルギーがサハスララから抜けにくくなって、それでいて、微細な部分で外側と繋がっている感じです。
これはムーラダーラの感覚に似ていて、ムーラダーラは常にそこでオーラが集まっていて抜けている感じはないのですが薄っすらと周囲と繋がっています。
それが、ここにきて、サハスララでも同様になってきています。
今まではサハスララがあまりうまく動いていなくて、その手前でブロックされていた、ということと、サハスララでオーラを留める感じになっていなかったようです。
こうなったからと言って、感覚的には「中」の意識になって五感と静寂の境地が合わさったというくらいですけど、小さいように見えて意外に大きな変化のようにも思います。
「中」で視界がぼやけるのとタマスでぼおっとするのとは異なる
傍から見るとどちらも大差ないように見える気も致します。
しかしながら、自身の感覚ではこれは違った状態で、タマスで愚鈍な感覚に落ち込んでいる時は思考および五感の全てが鈍くなってぼおっとします。
一方で、「中」の状態では視覚がフル活動していませんので視界がぼやけるように思います。
これは、スローモーションのように体の動きを感じる状態はそれはそれで視界(目)が優勢になっている状態だったわけですけれども、五感のうち視覚だけが特に優勢になっていた状態だったわけです。
ヨーガでは目はマニプラ(ソーラプレクサス)チャクラが司っていると言われており、それはいわゆる情としての愛なわけですけれども、マニプラが活性化した状態においては視覚が活性化してスローモーションに見えたりするわけです。
一方で、感覚としては他にもありますから、例えばムーラダーラは匂いに関連していて、スワディスタナは味覚、アナハタは触覚、ヴィシュッダは聴覚に関連しているわけですけれども、その中で特に視覚が活性化したということはマニプラが動いている状態とも言えるわけです。
心というものは全ての五感を司っているわけですけれども視覚だけが優勢になってしまうと他の感覚が薄れてしまいますので、必ずしも視覚だけが活発な状態が最高というわけでもないわけです。それは、使うときに意図的に使えばいいわけで、視覚をしっかりと働かせようという意思があって視覚が動けばいいわけです。
意識の状態がサマーディに近づいてくると五感のうち優勢ないずれかから次第に活発に動き出して、私の場合、昔は味覚だったり嗅覚だったりしたわけですけど、最近は視覚が加発だった、ということのように思います。
そして、それら五感のバランスが整ってくるといわゆる「中」の状態になって、単に五感のバランスが整うだけでなくサマーディとしての根底の働きが出てくるわけです。これはリクパとか言われていたりします。
その状態は今までも瞑想の結果として出てきていたわけですけれども、日常生活の瞑想状態、日常生活にまで続くサマーディ状態としての根底のリクパの働きとしては、まだまだ弱かったわけです。
弱かったが故に、例えば視覚が活発に働くことでその奥底のリクパが働いてサマーディ状態を意識的に維持したりしてきたわけですけれども、次第にその「努力」が不要になってくると、それに応じて、例えば五感もはっきりとしたものではなくなってくるわけです。具体的には、視覚を働かせてスローモーションの状態にまで働かせなくてもサマーディを維持できるようになってくるわけです。
そうなると、特に五感が激しく働かなくて普通の生活を送っている状態でサマーディが保てるように次第になってきます。それを比喩的に「中」とか表現したりしているわけです。
この状態になると、視界を特別に働かせてはいませんので視界がぼやけたりしますけど、それはタマスの時の鈍い感覚ではなくて、ただ単に視界をそれほど使っていない、というだけのお話になります。
一方で、五感がそれぞれそれなりに動いている状態になりますから、特に日常生活で言いますと内部の感覚が常に意識されるようになります。体の中の感覚、それに皮膚の感覚もそうです。
この状態になると、いわゆる日常生活の瞑想が容易になってきて、割と普通の生活がそのまま瞑想になります。
この、日常生活の瞑想は色々なところで言われていますけど、それは意識的にするものではない・・・ というと語弊がありますが、わざわざ瞑想としてやるものではなくて、次第に瞑想が日常生活にまで広がっていって、いつの間にかそうなってゆく、という種類のものだと思います。意識が働いているからこそ瞑想状態なわけですが、意識的にそうしようと思ってやるものでもなくて、瞑想が深まってゆけば自然に日常が瞑想そのものに変わる、という種類のものだと思います。言葉で聞くと似たように思えるかもしれませんけど、行動として瞑想をしようと試みることと、自然に日常生活が瞑想に変わるのとでは相当の違いがあるわけです。
しかしながら、自身の感覚ではこれは違った状態で、タマスで愚鈍な感覚に落ち込んでいる時は思考および五感の全てが鈍くなってぼおっとします。
一方で、「中」の状態では視覚がフル活動していませんので視界がぼやけるように思います。
これは、スローモーションのように体の動きを感じる状態はそれはそれで視界(目)が優勢になっている状態だったわけですけれども、五感のうち視覚だけが特に優勢になっていた状態だったわけです。
ヨーガでは目はマニプラ(ソーラプレクサス)チャクラが司っていると言われており、それはいわゆる情としての愛なわけですけれども、マニプラが活性化した状態においては視覚が活性化してスローモーションに見えたりするわけです。
一方で、感覚としては他にもありますから、例えばムーラダーラは匂いに関連していて、スワディスタナは味覚、アナハタは触覚、ヴィシュッダは聴覚に関連しているわけですけれども、その中で特に視覚が活性化したということはマニプラが動いている状態とも言えるわけです。
心というものは全ての五感を司っているわけですけれども視覚だけが優勢になってしまうと他の感覚が薄れてしまいますので、必ずしも視覚だけが活発な状態が最高というわけでもないわけです。それは、使うときに意図的に使えばいいわけで、視覚をしっかりと働かせようという意思があって視覚が動けばいいわけです。
意識の状態がサマーディに近づいてくると五感のうち優勢ないずれかから次第に活発に動き出して、私の場合、昔は味覚だったり嗅覚だったりしたわけですけど、最近は視覚が加発だった、ということのように思います。
そして、それら五感のバランスが整ってくるといわゆる「中」の状態になって、単に五感のバランスが整うだけでなくサマーディとしての根底の働きが出てくるわけです。これはリクパとか言われていたりします。
その状態は今までも瞑想の結果として出てきていたわけですけれども、日常生活の瞑想状態、日常生活にまで続くサマーディ状態としての根底のリクパの働きとしては、まだまだ弱かったわけです。
弱かったが故に、例えば視覚が活発に働くことでその奥底のリクパが働いてサマーディ状態を意識的に維持したりしてきたわけですけれども、次第にその「努力」が不要になってくると、それに応じて、例えば五感もはっきりとしたものではなくなってくるわけです。具体的には、視覚を働かせてスローモーションの状態にまで働かせなくてもサマーディを維持できるようになってくるわけです。
そうなると、特に五感が激しく働かなくて普通の生活を送っている状態でサマーディが保てるように次第になってきます。それを比喩的に「中」とか表現したりしているわけです。
この状態になると、視界を特別に働かせてはいませんので視界がぼやけたりしますけど、それはタマスの時の鈍い感覚ではなくて、ただ単に視界をそれほど使っていない、というだけのお話になります。
一方で、五感がそれぞれそれなりに動いている状態になりますから、特に日常生活で言いますと内部の感覚が常に意識されるようになります。体の中の感覚、それに皮膚の感覚もそうです。
この状態になると、いわゆる日常生活の瞑想が容易になってきて、割と普通の生活がそのまま瞑想になります。
この、日常生活の瞑想は色々なところで言われていますけど、それは意識的にするものではない・・・ というと語弊がありますが、わざわざ瞑想としてやるものではなくて、次第に瞑想が日常生活にまで広がっていって、いつの間にかそうなってゆく、という種類のものだと思います。意識が働いているからこそ瞑想状態なわけですが、意識的にそうしようと思ってやるものでもなくて、瞑想が深まってゆけば自然に日常が瞑想そのものに変わる、という種類のものだと思います。言葉で聞くと似たように思えるかもしれませんけど、行動として瞑想をしようと試みることと、自然に日常生活が瞑想に変わるのとでは相当の違いがあるわけです。
熱の伴わないクンダリーニへ変化
元々、クンダリーニが動き出した頃は体がぽかぽかしておりました。
最初は、体中がぽかぽかしていて、次に、マニプラ優勢になって特に下半身がぽかぽかしておりました。暖かさでいうと一番最初のクンダリーニ経験後が一番暖かくて、マニプラ優勢の時もそれなりに暖かかったのですが最初ほどではありませんでした。
次にアナハタ優勢になった頃には胸がぽかぽかしておりましたが、かつての最初の頃あるいはマニプラ優勢のときほどは温かい感じではありませんでした。次にアジナ優勢になったときも暖かさでいうと似たような感じでした。
そして胸の奥で創造・破壊・維持の公の意識が現れてきた時もそれなりに暖かかったのですが、熱感でいうとかつてほどではなく、熱というよりも存在感、という感覚の方が大きかったように思います。熱感の熱と存在感の熱とが組み合わさっている感じでしょうか。
そして最近、サハスララにまでオーラが満ちている状態になってサハスララから周囲へと薄くオーラが広がっているような感覚になってきたら、急に体の熱感が薄れてきました。
体中の熱感および圧力が下がって、ここしばらく感じたことがなかった肌寒さすら感じるようになりました。
ここしばらく、クンダリーニが動き出してからは基本的には体は暖かくて寒さに強い状態だったのですが、急に寒さを感じるようになったのです。
これは、一見するとクンダリーニがなくなってしまって状態が戻ってしまったかのような印象を受けてしまうかもしれませんけれども実はそうではなく、そもそも熱感を感じるということ自体が割とそれほどでもないレベルで起こる体験だったように思います。
ようやく、その段階を抜けてきた、ということだと解釈しております。
今まで長い間ずっと熱感を感じてきて、それはそれで心地の良いものではあるのですが、最近のサハスララの平常状態に比べたらその魅力も薄れるというものです。過去のその時点においてはそれは気力に満ちた良い状態ではありましたが、最近のこの状態こそが「中」なのかなとも思います。
ヨーガ行者の本山博先生の書物を読むと、クンダリーニの力そのものは熱はなくてアストラルや気の次元に降りてくると熱となって現れるけれどもそれはまだ器が純化されていなくて熱となって現れているわけだから、熱いとか言っているうちはまだまだだ、みたいなことが書いてあったように思いますが、そういうことなのかなと思います。
そうは言いましてももちろん体温としての熱感はありますし、本当に冷たいのならば死んでしまったということですので、これは感覚的なものになります。
最初は、体中がぽかぽかしていて、次に、マニプラ優勢になって特に下半身がぽかぽかしておりました。暖かさでいうと一番最初のクンダリーニ経験後が一番暖かくて、マニプラ優勢の時もそれなりに暖かかったのですが最初ほどではありませんでした。
次にアナハタ優勢になった頃には胸がぽかぽかしておりましたが、かつての最初の頃あるいはマニプラ優勢のときほどは温かい感じではありませんでした。次にアジナ優勢になったときも暖かさでいうと似たような感じでした。
そして胸の奥で創造・破壊・維持の公の意識が現れてきた時もそれなりに暖かかったのですが、熱感でいうとかつてほどではなく、熱というよりも存在感、という感覚の方が大きかったように思います。熱感の熱と存在感の熱とが組み合わさっている感じでしょうか。
そして最近、サハスララにまでオーラが満ちている状態になってサハスララから周囲へと薄くオーラが広がっているような感覚になってきたら、急に体の熱感が薄れてきました。
体中の熱感および圧力が下がって、ここしばらく感じたことがなかった肌寒さすら感じるようになりました。
ここしばらく、クンダリーニが動き出してからは基本的には体は暖かくて寒さに強い状態だったのですが、急に寒さを感じるようになったのです。
これは、一見するとクンダリーニがなくなってしまって状態が戻ってしまったかのような印象を受けてしまうかもしれませんけれども実はそうではなく、そもそも熱感を感じるということ自体が割とそれほどでもないレベルで起こる体験だったように思います。
ようやく、その段階を抜けてきた、ということだと解釈しております。
今まで長い間ずっと熱感を感じてきて、それはそれで心地の良いものではあるのですが、最近のサハスララの平常状態に比べたらその魅力も薄れるというものです。過去のその時点においてはそれは気力に満ちた良い状態ではありましたが、最近のこの状態こそが「中」なのかなとも思います。
ヨーガ行者の本山博先生の書物を読むと、クンダリーニの力そのものは熱はなくてアストラルや気の次元に降りてくると熱となって現れるけれどもそれはまだ器が純化されていなくて熱となって現れているわけだから、熱いとか言っているうちはまだまだだ、みたいなことが書いてあったように思いますが、そういうことなのかなと思います。
そうは言いましてももちろん体温としての熱感はありますし、本当に冷たいのならば死んでしまったということですので、これは感覚的なものになります。
スピリチュアルなワンネスの違い
スピリチュアルではワンネスとかよく言われますけど、オーラ的な同一をワンネスと言っている場合と根源の本質が同一と言っている場合とがあり、それはかなり異なりますがごっちゃになって語られている場合が多いような気が致します。
オーラ的な同一は「同じになる」ということで、ものの考え方、習慣、雰囲気などを含めて同一化することをワンネスとそこでは呼んでいます。
一方で、根源が同一と言っている場合は姿形や考え方、習慣およびオーラまでさえも違っていても根源が同一であることをワンネスと呼んでいます。
ですから、本来、この2つは相容れない立場なのですよね。
ですけど、スピリチュアルでは割とこの2つが並列に語られていて、質的な同質のワンネスの先に根源のワンネスがある、みたいなお話になっています。
これは、誰かが根源にたどり着くためにはまず師匠や宗教団体などと質的に同一化した方がわかりやすい、というグル(師匠)と弟子のシステムが基盤にあるように思いますが、その場合、本人の成長はその団体に依存することになり、団体の全てが成長する時は一緒に自分も成長する、という進歩の仕方になります。
ですけど、そのお話と、根源が同一だというお話は、本来は別物なのですよね。
師匠と同一化、あるいは、お互いに学び合っている弟子たちとの間での同一化はよく起こることで、それはそれで否定しませんし、割とそこらであることだと思います。それは一蓮托生とでも言うべき間柄になることであって、そこでの雰囲気やオーラが割と同質化されることになります。そうして、本来の理解であるところの根源とのワンネスを探してゆく、という道はありますけど、そうしてオーラを同質化するというお話と根源が同一というお話は本質的には別のお話なわけです。
特にオーラを同質化していなくてもこの世にあるものは全て根源が同一でワンネスが既に達成されているのですから、その本質的なワンネスのためにオーラを同質化するワンネスは本質的には不要なわけです。ですけど、スピリチュアルではまるでこれらがそれぞれステップになっているかのように語られています。それはただ単に一緒になって成長してゆく仲間というかグループがあるというだけのお話で、それはオーラ的なワンネスのお話であって、根源のワンネスのお話とは別なわけです。
これはオーラ的なワンネスを否定しているわけではなくて、そういうお仲間や仲良しグループは普通にありますしあって良いものだとは思いますけど、ここで言いたいのは、ただ単に、それらは本質的には別ですよ、ということです。
オーラ的な同一は「同じになる」ということで、ものの考え方、習慣、雰囲気などを含めて同一化することをワンネスとそこでは呼んでいます。
一方で、根源が同一と言っている場合は姿形や考え方、習慣およびオーラまでさえも違っていても根源が同一であることをワンネスと呼んでいます。
ですから、本来、この2つは相容れない立場なのですよね。
ですけど、スピリチュアルでは割とこの2つが並列に語られていて、質的な同質のワンネスの先に根源のワンネスがある、みたいなお話になっています。
これは、誰かが根源にたどり着くためにはまず師匠や宗教団体などと質的に同一化した方がわかりやすい、というグル(師匠)と弟子のシステムが基盤にあるように思いますが、その場合、本人の成長はその団体に依存することになり、団体の全てが成長する時は一緒に自分も成長する、という進歩の仕方になります。
ですけど、そのお話と、根源が同一だというお話は、本来は別物なのですよね。
師匠と同一化、あるいは、お互いに学び合っている弟子たちとの間での同一化はよく起こることで、それはそれで否定しませんし、割とそこらであることだと思います。それは一蓮托生とでも言うべき間柄になることであって、そこでの雰囲気やオーラが割と同質化されることになります。そうして、本来の理解であるところの根源とのワンネスを探してゆく、という道はありますけど、そうしてオーラを同質化するというお話と根源が同一というお話は本質的には別のお話なわけです。
特にオーラを同質化していなくてもこの世にあるものは全て根源が同一でワンネスが既に達成されているのですから、その本質的なワンネスのためにオーラを同質化するワンネスは本質的には不要なわけです。ですけど、スピリチュアルではまるでこれらがそれぞれステップになっているかのように語られています。それはただ単に一緒になって成長してゆく仲間というかグループがあるというだけのお話で、それはオーラ的なワンネスのお話であって、根源のワンネスのお話とは別なわけです。
これはオーラ的なワンネスを否定しているわけではなくて、そういうお仲間や仲良しグループは普通にありますしあって良いものだとは思いますけど、ここで言いたいのは、ただ単に、それらは本質的には別ですよ、ということです。
サハスララは半円の形で頭に被さっている
ヨーガ経典を見ますとサハスララは頭の上にニットの帽子あるいはネットを被せたように半円状になっているのをよく見ます。
それはそれで感覚としても正しいのですけど、その一方で、サハスララは頭頂の1点のチャクラという記述もよく見ます。
これは流派によって見解が異なっていて、流派によってはサハスララをチャクラだと認識していないようで、その一方で、チャクラだとしている流派もあります。今はチャクラとみなす流派の方が多いように思います。
このサハスララに至るルートとして、ヨーガ系では基本的に真っ直ぐ背骨からそのまま伸びている、としています。あるいは、ヨーガ系であってもアジナからサハスララからは一旦後頭部を経由してそれからまた上昇する、というルートになっている場合があります。この場合、ヴィシュッダからアジナに行った後、後頭部を経由してそれからまたサハスララに登る、というルートです。
スピリチュアルの流派によっては同様にアジナから後頭部を経由してサハスララに登る、としています。
これらの記述がそれぞれあって、わかるようなわからないような、合っているにしては記述が色々あって、どうもしっくりきていませんでした。
しかし、どうやらこれらは次のように解釈するのが良いように思えます。
まず、サハスララの周囲には半円状の膜のようなものがあります。それは頭蓋骨に沿ってちょっと内側に存在していて、それがニットの帽子あるいはネットを被せたような形になっています。
それはアンテナの役割を果たすのと同時に、外部から、特に頭頂からよくない存在が入り込むのを防ぐためのガードとしても機能しています。
流派によってはそのサハスララの帽子を壊すあるいは穴を開けて天と繋がるということをしますけど個人的にはそれは良くないと思っています。
アジナからサハスララに繋がる時は、その帽子を経由してアクセスします。
帽子を経由する際は、感覚的にはそれはガードでもありますから、どこかから迂回してアクセスするわけですが、そのために一般的には後頭部がやりやすい、ということのようです。
構造としては半円状で被さっていますから、場所としてはどこからでも迂回できて、例えば左の耳のあたりからサハスララに経由することもできますし、右耳、あるいは眉間のちょっと前からでも頭頂に行くことができます。どこからでもいいわけです。
こう考えてみると割と物事はシンプルで、サハスララをその帽子とみなすのかあるいは帽子の上のチャクラとみなすのかあるいは帽子の上にある通過点をサハスララと呼ぶのか、という視点の違いだけであり、そこにアクセスするためにエネルギーがどこを通るのか、というのは割とどこでも良いことになります。
エネルギーは流れやすいところから流れますので一点からエネルギーが流れることもあれば割と満遍なくエネルギーが流れることもあり、偏りがあることもあります。ですけど、どちらにせよ帽子の周囲を経由してエネルギーが上と繋がるわけです。
それはそれで感覚としても正しいのですけど、その一方で、サハスララは頭頂の1点のチャクラという記述もよく見ます。
これは流派によって見解が異なっていて、流派によってはサハスララをチャクラだと認識していないようで、その一方で、チャクラだとしている流派もあります。今はチャクラとみなす流派の方が多いように思います。
このサハスララに至るルートとして、ヨーガ系では基本的に真っ直ぐ背骨からそのまま伸びている、としています。あるいは、ヨーガ系であってもアジナからサハスララからは一旦後頭部を経由してそれからまた上昇する、というルートになっている場合があります。この場合、ヴィシュッダからアジナに行った後、後頭部を経由してそれからまたサハスララに登る、というルートです。
スピリチュアルの流派によっては同様にアジナから後頭部を経由してサハスララに登る、としています。
これらの記述がそれぞれあって、わかるようなわからないような、合っているにしては記述が色々あって、どうもしっくりきていませんでした。
しかし、どうやらこれらは次のように解釈するのが良いように思えます。
まず、サハスララの周囲には半円状の膜のようなものがあります。それは頭蓋骨に沿ってちょっと内側に存在していて、それがニットの帽子あるいはネットを被せたような形になっています。
それはアンテナの役割を果たすのと同時に、外部から、特に頭頂からよくない存在が入り込むのを防ぐためのガードとしても機能しています。
流派によってはそのサハスララの帽子を壊すあるいは穴を開けて天と繋がるということをしますけど個人的にはそれは良くないと思っています。
アジナからサハスララに繋がる時は、その帽子を経由してアクセスします。
帽子を経由する際は、感覚的にはそれはガードでもありますから、どこかから迂回してアクセスするわけですが、そのために一般的には後頭部がやりやすい、ということのようです。
構造としては半円状で被さっていますから、場所としてはどこからでも迂回できて、例えば左の耳のあたりからサハスララに経由することもできますし、右耳、あるいは眉間のちょっと前からでも頭頂に行くことができます。どこからでもいいわけです。
こう考えてみると割と物事はシンプルで、サハスララをその帽子とみなすのかあるいは帽子の上のチャクラとみなすのかあるいは帽子の上にある通過点をサハスララと呼ぶのか、という視点の違いだけであり、そこにアクセスするためにエネルギーがどこを通るのか、というのは割とどこでも良いことになります。
エネルギーは流れやすいところから流れますので一点からエネルギーが流れることもあれば割と満遍なくエネルギーが流れることもあり、偏りがあることもあります。ですけど、どちらにせよ帽子の周囲を経由してエネルギーが上と繋がるわけです。
この世の全てが知識で満ちている
サンスクリットで言うところのニャーナ(知識)でこの世の全ての空間は満たされている、と聖典は言います。空気の何もないところや宇宙空間ですら全てはニャーナ(知識)で満たされており、時間と空間の制約を受けないものです。
それは聖典の言葉であり、言い換えればそれがブラフマンの全体であり、個としてのアートマンもその質を持っています。
今までは聖典の言葉としてこのニャーナ(知識)を理解しておりましたが、最近、この世界が映画のように思えるにつれ、次第に、遠くの世界まで空間が続いているかのような感覚が出てきました。とは言いましても具体的に遠くに何があるのかはわからないのですが、何か続いているような、空間が歪んでいるかのような感覚になってきました。
視界のところどころが歪んでいて、そこはどうやら一定ではないようなのです。
空間が遠くまで続いているという認識は遠くまで見えるかどうかとは関係がなくて、普通の近所の景色であってもその奥底に空間を超えて遠くまで遥かに延々と続いているのを感じます。
そのような感覚になってくると、空間が歪んでいるのを感じるのと同時に、この世が全て何かに満たされている、ということが直感的にわかってきます。
何に満たされているのかは「それ」としかいいようがないのですが、その感覚を聖典の言葉に当てはめてみれば「ニャーナ(知識)」と呼ぶのがしっくり来る気が致します。
空間の全てに満ち満ちている何かは、それを感じることによって知識のようなものを私の認識の中に生じさせます。何かある、という感覚、それと、そこにある違いを認識として生じさせるものが空間に満ちているとしたら、それを「知識(ニャーナ)」と呼んでも良いのかなと思います。
空間の全てが知識で満たされているということは聖典の言葉では知っておりましたが、実際に、こうした微細な感覚が育ってくる時に感じられる実際の認識は聖典の言葉とは全く違うものになります。
聖典の言葉は頭で理解したということであり、流派によっては超感覚的なものを否定して頭でしっかりと理解することで真理を探求すべしと言っているところもありますけど、私は個人的にはそうは思わなくて超感覚とまでは行かないまでも微細な感覚で実際に感じられるようにならないのであれば勉強する意味も半減するのではないかと思っております。勉強するだけでも無駄ではないとは思いますけどせっかくならば直接的に知りたいですよね。
私の場合、瞑想をしてまずは視界のヴィパッサナー状態になって動体視力がアップし、次に空間が歪んで感じられるようになって、そこで次にこうした「空間は知識で満たされれている」という実感が出てきました。
聖典の言葉は嘘ではなかったのだな、と今では思います。
それは聖典の言葉であり、言い換えればそれがブラフマンの全体であり、個としてのアートマンもその質を持っています。
今までは聖典の言葉としてこのニャーナ(知識)を理解しておりましたが、最近、この世界が映画のように思えるにつれ、次第に、遠くの世界まで空間が続いているかのような感覚が出てきました。とは言いましても具体的に遠くに何があるのかはわからないのですが、何か続いているような、空間が歪んでいるかのような感覚になってきました。
視界のところどころが歪んでいて、そこはどうやら一定ではないようなのです。
空間が遠くまで続いているという認識は遠くまで見えるかどうかとは関係がなくて、普通の近所の景色であってもその奥底に空間を超えて遠くまで遥かに延々と続いているのを感じます。
そのような感覚になってくると、空間が歪んでいるのを感じるのと同時に、この世が全て何かに満たされている、ということが直感的にわかってきます。
何に満たされているのかは「それ」としかいいようがないのですが、その感覚を聖典の言葉に当てはめてみれば「ニャーナ(知識)」と呼ぶのがしっくり来る気が致します。
空間の全てに満ち満ちている何かは、それを感じることによって知識のようなものを私の認識の中に生じさせます。何かある、という感覚、それと、そこにある違いを認識として生じさせるものが空間に満ちているとしたら、それを「知識(ニャーナ)」と呼んでも良いのかなと思います。
空間の全てが知識で満たされているということは聖典の言葉では知っておりましたが、実際に、こうした微細な感覚が育ってくる時に感じられる実際の認識は聖典の言葉とは全く違うものになります。
聖典の言葉は頭で理解したということであり、流派によっては超感覚的なものを否定して頭でしっかりと理解することで真理を探求すべしと言っているところもありますけど、私は個人的にはそうは思わなくて超感覚とまでは行かないまでも微細な感覚で実際に感じられるようにならないのであれば勉強する意味も半減するのではないかと思っております。勉強するだけでも無駄ではないとは思いますけどせっかくならば直接的に知りたいですよね。
私の場合、瞑想をしてまずは視界のヴィパッサナー状態になって動体視力がアップし、次に空間が歪んで感じられるようになって、そこで次にこうした「空間は知識で満たされれている」という実感が出てきました。
聖典の言葉は嘘ではなかったのだな、と今では思います。
時折、他人の思考がはっきりと聞こえる
かなり以前からもなんとなくそう思う時は多々ありましたけど、ここに来て、特にこの世の全てが知識で満ちている感覚になってからは他人が誰かのことを思っている思考がはっきりと聞こえるようになりました。
とは言いましても全て聞こえるわけではなくて、もしそうであれば騒がしすぎますけど、幸いなことに、時折はっきりと聞こえる、というくらいです。
一般的に、人は思考を延々と繰り返していて日に何万も考え事をするとか言われていますけど、それら全てが聞こえるわけではなくて、誰かがすぐ近くにいる人に対して思うことが(その人に対してではなく)私に対して(心の中で)言っているように聞こえる、という感じで認識されます。
実際には、明確な意思での思考はそれほど多くないのかもしれませんし、単に誰かの思考を聞いている、という場合も多々あるように思えます。心の中で発している明確な意思での思考のうち、他人に対する思考が私にも聞こえるようなのです。ただ、全て聞こえるわけではなく、条件があるようです。おそらくは波動的に近い人の声が聞こえるのかなと思っておりますがこのあたりは更なる検証が必要です。
そのように、「呼びかけ」の思考がまるで自分(私)に(心の声で)語りかけているかのように聞こえるのですが、最初は、「あれ? 私にそんなこと関係あるのかな?」みたいに、よくわからない状況でした。
例えば、近くで「久しぶりかも?」という声が私に聞こえてきて、最初は「え? 私と久しぶりに会う人がいるの? 誰でしょう?」と思っていたら、他の2人がお互いに昔の知り合い同士で久々に会う、ということがありました。
他にも、ちょくちょく似たようなことがあります。毎回、「あれ? 私にそんなこと関係あるのかな?」と思っていたが他の人同士のことだったりしますけど、心の声としては「私に対して言っている」かのように聞こえますので、最初は「え? 私に関係あること? なにそれ?」と、ちょっと不思議に思います。
ですけど、それは誰かが誰かに対して思っている心の声でありますので私にはあまり関係ないわけですね。
以前から似たようなことはたまにありましたけど、最近は頻度が違いますね。それと、かなりクリアにその声が聞こえるようになりました。
みんな、心の声は意外に大きいのですね。周りにまで聞こえまくります。
これは、似たようなお話で「オーラを融合させて他人の思考を読み取る」というやり方とは全く違って、これは思考を単に読み取る、というお話です。別物です。
意図的に「聞きたくない」と思えば聞こえませんし、感覚を開いていれば聞きやすいです。ですから、聞こえすぎて困る、ということは今の所ありませんね。そもそも他人の心の中のおしゃべりにそんなに興味ありませんし、たまたま聞こえてきてしまった、というだけのお話です。
これ、特に女性は生まれながらにしてテレパシー持ちの人が多い気が致しますけどね。どうでしょうかね。
空間が満ちていることに普段から気がつくようになったタイミングでこのテレパシー能力が出てきたということは、空間がずっと繋がっている、ということなのでしょうね。今の所は受信側だけで、発信側はあまり試したことありませんけど。そんなに試す機会もありませんしね。
とは言いましても全て聞こえるわけではなくて、もしそうであれば騒がしすぎますけど、幸いなことに、時折はっきりと聞こえる、というくらいです。
一般的に、人は思考を延々と繰り返していて日に何万も考え事をするとか言われていますけど、それら全てが聞こえるわけではなくて、誰かがすぐ近くにいる人に対して思うことが(その人に対してではなく)私に対して(心の中で)言っているように聞こえる、という感じで認識されます。
実際には、明確な意思での思考はそれほど多くないのかもしれませんし、単に誰かの思考を聞いている、という場合も多々あるように思えます。心の中で発している明確な意思での思考のうち、他人に対する思考が私にも聞こえるようなのです。ただ、全て聞こえるわけではなく、条件があるようです。おそらくは波動的に近い人の声が聞こえるのかなと思っておりますがこのあたりは更なる検証が必要です。
そのように、「呼びかけ」の思考がまるで自分(私)に(心の声で)語りかけているかのように聞こえるのですが、最初は、「あれ? 私にそんなこと関係あるのかな?」みたいに、よくわからない状況でした。
例えば、近くで「久しぶりかも?」という声が私に聞こえてきて、最初は「え? 私と久しぶりに会う人がいるの? 誰でしょう?」と思っていたら、他の2人がお互いに昔の知り合い同士で久々に会う、ということがありました。
他にも、ちょくちょく似たようなことがあります。毎回、「あれ? 私にそんなこと関係あるのかな?」と思っていたが他の人同士のことだったりしますけど、心の声としては「私に対して言っている」かのように聞こえますので、最初は「え? 私に関係あること? なにそれ?」と、ちょっと不思議に思います。
ですけど、それは誰かが誰かに対して思っている心の声でありますので私にはあまり関係ないわけですね。
以前から似たようなことはたまにありましたけど、最近は頻度が違いますね。それと、かなりクリアにその声が聞こえるようになりました。
みんな、心の声は意外に大きいのですね。周りにまで聞こえまくります。
これは、似たようなお話で「オーラを融合させて他人の思考を読み取る」というやり方とは全く違って、これは思考を単に読み取る、というお話です。別物です。
意図的に「聞きたくない」と思えば聞こえませんし、感覚を開いていれば聞きやすいです。ですから、聞こえすぎて困る、ということは今の所ありませんね。そもそも他人の心の中のおしゃべりにそんなに興味ありませんし、たまたま聞こえてきてしまった、というだけのお話です。
これ、特に女性は生まれながらにしてテレパシー持ちの人が多い気が致しますけどね。どうでしょうかね。
空間が満ちていることに普段から気がつくようになったタイミングでこのテレパシー能力が出てきたということは、空間がずっと繋がっている、ということなのでしょうね。今の所は受信側だけで、発信側はあまり試したことありませんけど。そんなに試す機会もありませんしね。
空間が泡で出来ていることが見える
瞑想して、この世の全てが知識で満ちていて、かつ、空間が歪んで見えた時、それが泡で出来ていることも同時にわかります。
空間の中に泡がある時、泡の周辺が少し黒くなっていて、泡の中は東名で、泡と泡の間が黒くなっています。黒とは言っても漆黒よりも灰色に近い黒ですが、白と黒の中間の灰色よりは黒寄りですので、色としては黒です。人によっては灰色と言うかもしれませんが、私にはどちらかというと黒というように見えました。
そのように、泡が空間に詰まっていることがわかったのですが、全方向の視界全てがそれで見えたわけではなくて、一部分がそうであることが見えて、おそらく他のところも同一だろう、と感覚的にわかった感じです。
もともと、空間が歪んで見えたのも視界の一部ですし、この世の全てが知識で満ちているという認識が感じられたのも視界の一部、どちらも私の視界の前方の少し上側で、最初は少し右上方向、とは言っても基本的には正面でやや右よりのところで空間が歪んで見えました。その後、視界の半分以上が知識で満ちているのを感じて、次に、正面のやや左寄りのところで空間が泡で満ちていることがわかりました。視覚としてぼんやりとうっすらと浮かんで見えた感じです。
物質のようなはっきりとした視覚ではありませんけど、うっすらと泡のようなもので空間が満ちているのを感じました。
これ、どこかで聞いたことあるなあ・・・ と思ったら、私は詳しくないですけれどもノーベル賞を取った湯川先生の素領域理論がそんな感じだったような気もします。どうでしょうかね。
空間の中に泡がある時、泡の周辺が少し黒くなっていて、泡の中は東名で、泡と泡の間が黒くなっています。黒とは言っても漆黒よりも灰色に近い黒ですが、白と黒の中間の灰色よりは黒寄りですので、色としては黒です。人によっては灰色と言うかもしれませんが、私にはどちらかというと黒というように見えました。
そのように、泡が空間に詰まっていることがわかったのですが、全方向の視界全てがそれで見えたわけではなくて、一部分がそうであることが見えて、おそらく他のところも同一だろう、と感覚的にわかった感じです。
もともと、空間が歪んで見えたのも視界の一部ですし、この世の全てが知識で満ちているという認識が感じられたのも視界の一部、どちらも私の視界の前方の少し上側で、最初は少し右上方向、とは言っても基本的には正面でやや右よりのところで空間が歪んで見えました。その後、視界の半分以上が知識で満ちているのを感じて、次に、正面のやや左寄りのところで空間が泡で満ちていることがわかりました。視覚としてぼんやりとうっすらと浮かんで見えた感じです。
物質のようなはっきりとした視覚ではありませんけど、うっすらと泡のようなもので空間が満ちているのを感じました。
これ、どこかで聞いたことあるなあ・・・ と思ったら、私は詳しくないですけれどもノーベル賞を取った湯川先生の素領域理論がそんな感じだったような気もします。どうでしょうかね。
ガヤトリマントラで体が左回転した
今朝の瞑想で眉間に集中しているとアジナの付近にオーラが集まってきてしばらくするとそれがサハスララに抜け、それと同時に体の緊張が少し緩み、次にまたアジナにオーラを集めてはまたサハスララに少し抜けて再度体の緊張が緩み、というサイクルを何回か繰り返していました。
そうしていると、ふとガヤトリマントラが頭に浮かんできて、少し久しぶりに心の中で唱えてみたところ眉間の奥のアジナに核のようなものが出来て効果を感じました。
それだけで終わらず、そのまま何回か唱えていたところ、眉間から正面を向いた方向を軸にイメージの中であぐらをかいたまま体が何回か左回転しました。
左回転というのは、普通にあぐらを書いている状態から頭の部分は動かさずに正面を向いたまま下半身が右の方に来て、次にそのまま回転を続けて前を向いたまま下半身が上に来て、次にまた回転を続けて下半身が左に来て、下半身が下に戻る、というような動きで、それがたぶん3回転かそのくらいしたかと思います。
もちろんこれはイメージ上でのことで、肉体が回転したわけではありません。
もともと、似たようなことでクンダリーニが上がった時に背骨を軸に左回転したりマニプラ優勢からアナハタ優勢に変わった時に背骨を軸にして体を左回転したことがありましたが、どちらも背骨が軸になっての回転でした。
今回は、眉間から前に伸びた線を軸に体が左回転しましたので、軸の違いがあります。
以前の時も、何か「ねじれ」が取れた感じがしてエネルギーが通った気がしたのですが、今回は多少のエネルギーの流れを感じるものの以前の時ほど劇的な違いはないようです。
2回転目くらいまでは自然に回転したのですが3回転目の途中くらいから減速したので、完全には回っていないのかもしれません。そこはよくわかりません。
ですけど、久々に唱えたガヤトリマントラで今回は面白い効果が出たのでした。
そうしていると、ふとガヤトリマントラが頭に浮かんできて、少し久しぶりに心の中で唱えてみたところ眉間の奥のアジナに核のようなものが出来て効果を感じました。
それだけで終わらず、そのまま何回か唱えていたところ、眉間から正面を向いた方向を軸にイメージの中であぐらをかいたまま体が何回か左回転しました。
左回転というのは、普通にあぐらを書いている状態から頭の部分は動かさずに正面を向いたまま下半身が右の方に来て、次にそのまま回転を続けて前を向いたまま下半身が上に来て、次にまた回転を続けて下半身が左に来て、下半身が下に戻る、というような動きで、それがたぶん3回転かそのくらいしたかと思います。
もちろんこれはイメージ上でのことで、肉体が回転したわけではありません。
もともと、似たようなことでクンダリーニが上がった時に背骨を軸に左回転したりマニプラ優勢からアナハタ優勢に変わった時に背骨を軸にして体を左回転したことがありましたが、どちらも背骨が軸になっての回転でした。
今回は、眉間から前に伸びた線を軸に体が左回転しましたので、軸の違いがあります。
以前の時も、何か「ねじれ」が取れた感じがしてエネルギーが通った気がしたのですが、今回は多少のエネルギーの流れを感じるものの以前の時ほど劇的な違いはないようです。
2回転目くらいまでは自然に回転したのですが3回転目の途中くらいから減速したので、完全には回っていないのかもしれません。そこはよくわかりません。
ですけど、久々に唱えたガヤトリマントラで今回は面白い効果が出たのでした。
スピリチュアルで願望実現するのかどうか
スピリチュアルとか占いでは願望実現の方法が多様に語られています。
手法は色々とあれど、基本は運気を読んでそれを強化及び行動する、というところに尽きます。
これはどういうことかというと、以下の2つのパターンがあります。
・アストラルな想いの世界に雛形があるのでそれを強化して現実化する。
・既にパラレルワールドで実現されているのでそれをなぞる。
パラレルワールドというのは色々と誤解がありますが、ここで言っているのはパラレルワールドは基本は全て過去というお話で、時間的に今の時点から見れば未来に相当しているパラレルワールドもありますけどそれは時空を超えて戻ってからやり直している場合がありますので未来のように見えるだけで、パラレルワールドには順番がありますから、いうなればパラレルワールドは全て過去のようなものであるわけです。ここで言っているのはその応用と言いますか、そのように順番的に過去であるものの一般的な時間に沿って見るならば未来に相当しているパラレルワールドがあって、そこで実現している、といいますか、そのタイムラインにおいては既に実現した現実を今回も再現すればいいわけです。
そのように過去のタイムラインをなぞらえて同じような未来を今回のタイムラインでもなぞる場合もあれば、まだアストラルな雛形しかなくて今回のタイムラインで初めて現実化するような場合もあります。
初めて現実化するパターンにおいてスピリチュアルで願望実現と言うと、その雛形を強化するために想いの力を使い、具体的にイメージして頭の中でまず具現化し、そして現実のものとするために実際に行動が必要になります。
一方、前のパラレルワールドで既に実現したことであればいわば体験済であるわけで、それをなぞるのは難しくはないでしょう。
また、前のパラレルワールドで実現した時の経験および反省を元に、「あれは失敗だった。もっと良くしたい」と思えばそのように新たな未来が作られるわけです。
スピリチュアルとか占いはこのあたりがごっちゃになっており、願望実現の法はまだ存在していない未来を作り出す方法、スピリチュアルで未来を見抜く場合はどちらの場合もありえます。
ただ、どちらの場合にしても行動が必要なわけです。
とは言いましても、大抵のスピリチュアルや願望実現の法の目的は文字通り願望実現なことがほとんどですけど、それは結局のところ、現世で欲望を満たすことでありますので、大したことではないのです。
大きな視点で言えば、そのような願望が実現しようがしまいが人生は続きますし、大差ないと言えます。
占いとかスピリチュアルで願望実現をするのは、ある意味、趣味みたいなものなのかな、と思います。
実際にはスピリチュアルにはもう1つ道があって、「願望を克服する」というお話があります。こうなると、願望実現は不要になるわけです。願望が次なる願望を生み出すというループのラットレースから抜け出すという道ですね。
ラットレースから抜け出すとか言うと「金持ち父さん」のお話が有名で、まるでお金儲けのお話のように見えてしまうかもしれませんけど、ここで言っているのはお金とは全く関係がなくて、願望そのものを次々に追い求めるループから自由になる、ということです。生きる上でお金は必要ですのでお金を否定しているわけではありませんけど、ここで言っているのとは無関係ということです。
スピリチュアルで願望実現とかするのは現実を生きるテクニックで、趣味みたいなものですのでそれを否定する必要はないと思います。そうしてスキルを使って人生を楽に生きて、願望のループから抜け出て生きるというのも一つの選択肢だと思います。
この世界は遊園地みたいなものですから、「貧乏ってどういうことなのだろう?」「なんでみんなあんなくだらない願望のために一生懸命働いて苦しんでいるのだろう?」と興味を持って試しにそのループに入ってみるというのもまた一つの趣味です。
一方で、興味がないから願望のループの存在すらも気付かない、というのも一つの生き方です。
一言でスピリチュアルと言っても色々なレベルの違いがあるわけです。
手法は色々とあれど、基本は運気を読んでそれを強化及び行動する、というところに尽きます。
これはどういうことかというと、以下の2つのパターンがあります。
・アストラルな想いの世界に雛形があるのでそれを強化して現実化する。
・既にパラレルワールドで実現されているのでそれをなぞる。
パラレルワールドというのは色々と誤解がありますが、ここで言っているのはパラレルワールドは基本は全て過去というお話で、時間的に今の時点から見れば未来に相当しているパラレルワールドもありますけどそれは時空を超えて戻ってからやり直している場合がありますので未来のように見えるだけで、パラレルワールドには順番がありますから、いうなればパラレルワールドは全て過去のようなものであるわけです。ここで言っているのはその応用と言いますか、そのように順番的に過去であるものの一般的な時間に沿って見るならば未来に相当しているパラレルワールドがあって、そこで実現している、といいますか、そのタイムラインにおいては既に実現した現実を今回も再現すればいいわけです。
そのように過去のタイムラインをなぞらえて同じような未来を今回のタイムラインでもなぞる場合もあれば、まだアストラルな雛形しかなくて今回のタイムラインで初めて現実化するような場合もあります。
初めて現実化するパターンにおいてスピリチュアルで願望実現と言うと、その雛形を強化するために想いの力を使い、具体的にイメージして頭の中でまず具現化し、そして現実のものとするために実際に行動が必要になります。
一方、前のパラレルワールドで既に実現したことであればいわば体験済であるわけで、それをなぞるのは難しくはないでしょう。
また、前のパラレルワールドで実現した時の経験および反省を元に、「あれは失敗だった。もっと良くしたい」と思えばそのように新たな未来が作られるわけです。
スピリチュアルとか占いはこのあたりがごっちゃになっており、願望実現の法はまだ存在していない未来を作り出す方法、スピリチュアルで未来を見抜く場合はどちらの場合もありえます。
ただ、どちらの場合にしても行動が必要なわけです。
とは言いましても、大抵のスピリチュアルや願望実現の法の目的は文字通り願望実現なことがほとんどですけど、それは結局のところ、現世で欲望を満たすことでありますので、大したことではないのです。
大きな視点で言えば、そのような願望が実現しようがしまいが人生は続きますし、大差ないと言えます。
占いとかスピリチュアルで願望実現をするのは、ある意味、趣味みたいなものなのかな、と思います。
実際にはスピリチュアルにはもう1つ道があって、「願望を克服する」というお話があります。こうなると、願望実現は不要になるわけです。願望が次なる願望を生み出すというループのラットレースから抜け出すという道ですね。
ラットレースから抜け出すとか言うと「金持ち父さん」のお話が有名で、まるでお金儲けのお話のように見えてしまうかもしれませんけど、ここで言っているのはお金とは全く関係がなくて、願望そのものを次々に追い求めるループから自由になる、ということです。生きる上でお金は必要ですのでお金を否定しているわけではありませんけど、ここで言っているのとは無関係ということです。
スピリチュアルで願望実現とかするのは現実を生きるテクニックで、趣味みたいなものですのでそれを否定する必要はないと思います。そうしてスキルを使って人生を楽に生きて、願望のループから抜け出て生きるというのも一つの選択肢だと思います。
この世界は遊園地みたいなものですから、「貧乏ってどういうことなのだろう?」「なんでみんなあんなくだらない願望のために一生懸命働いて苦しんでいるのだろう?」と興味を持って試しにそのループに入ってみるというのもまた一つの趣味です。
一方で、興味がないから願望のループの存在すらも気付かない、というのも一つの生き方です。
一言でスピリチュアルと言っても色々なレベルの違いがあるわけです。
サハスララにエネルギーが満ちると心の声がクリアに聞こえる
エネルギーが満ちると言うこともできますしオーラが満ちる、あるいは光が満ちる、と言うこともできます。同じことです。心の声と言っても良いですしハイヤーセルフの声あるいは人によっては神様の声のように聞こえるかもしれませんが、遠くの方から微かな小さな声がクリアに聞こえてきます。
言い方としてはいろいろあって、「心の声を聞く」ということも、「ハイヤーセルフの声を聞く」ということも、あるいは「神様の声を聞く」ということもできると思いますが、この声は誰かから話しかけられているという感じはなくて、距離的には割と近くて内側あるいは少し体とズレた少し上の方から聞こえてきますが、距離としては近い気がするのに声の聞こえ方としては山で「こだま」を聞くかのような、音としては遠くて音量は小さいのですが声自体ははっきりとした感じで突如聞こえてきます。
守護霊の声を聞く、というお話もそれはそれであるのですけど、その場合はもっとはっきりと明確な声で聞こえてきます。守護霊あるいは近くで友人知人の霊が喋りかける時はかなり明確に聞こえて、実はほとんどの人は特に修行していなくても普通に聞こえているのですが、それが雑念や自分の思考の声と混ざってしまって気付いていないかあるいは自分の考えだと思ってしまっている場合がほとんどのように思います。実際のところ、アイデアのようなものの多くは守護霊や近くの友人知人の霊が与えてくれたものであるわけで、真実を知ればそれが自分のアイデアだと固執する必要はないのですけど、現代社会においてはそのあたりが気付かれていなくて肉体としての自分が作ったアイデアは著作権や版権で守るとか言うお話になってしまいますけど、実際は、霊の世界ではアイデアなんて割と溢れているわけですよね。そもそも霊は少し進化すれば時空を超えられますので未来からアイデアを持ってくればすぐにアイデアマンっぽく振るまえてしまいますしね。それって面白いのですかね? 興ざめだと思いますけど。
そのように、守護霊や友人知人の霊から話しかけられる場合の明確な声とは違い、「こだま」のように響く声は、流派によっては「神様の声」あるいはスピリチュアルでは「ハイヤーセルフの声」と言われています。「天の声」と言っている流派もあるかもしれません。
この声が聞こえてくる状態としてはそれほど修行していなくても実は最初から聞こえてはいるわけですけど、サハスララに光が満ちていない状態では雑念が多くて空に雲がかかったかのような状態になっていてうまくそれを識別できないわけです。雑念の間にふとアイデアが降ってきた、みたいな場合はそのほとんどは守護霊や友人知人の霊が教えてくれた「明確」な心の声なわけで、その明確なインスピレーションは「直感」と言うこともできますけど、直感と言う時に、守護霊や友人知人が教えてくれる明確な直感とは別に、遠くから「こだま」のように響いてくる声があるわけです。
この、「こだま」の方にしても実は最初から聞こえてきているわけですけど、ほとんどの人は雑念の間に埋もれてしまっていて、あまりうまく拾えていないのですよね。後になって「そういえばそんな気がしていた」みたいなお話は誰にもよくあることだと思いますが、そんな後になって気付くのではなく、その時にすぐにその「こだま」の声に気付けるかどうかが需要だと思うのです。
そして、その、ハイヤーセルフあるいは単に心の声、人によっては特に英語圏では大文字のSELF(セルフ)と言い表すような心の本性と言っても良い奥底の微細な声に対して敏感にすぐに気付いて反応してすぐさまそれに従って行動して行けるようになるのがサハスララにエネルギーに満ちてきた段階かなと思うのです。
それ以前であってもそれなりに聞こえていて、段階ごとに聞こえやすくなるわけですけど、サハスララにエネルギーが満ちているかどうかがその声にしっかりと気付けてそれにフィードバックして自身の行動を変えて行けるかどうかの一つの境目のような気が致します。
声が聞こえる自体はそれ以前にあったとしても、それにしっかりと反応出来る段階、というわけです。
これはよくチャネリングと誤解されますけど、チャネリングの場合はこのような割と高次のチャネリングの場合もあるにはありますけど多くの場合は守護霊や友人知人の霊あるいは宇宙人とお話をすることになりますので、その場合、遥かに聞こえやすくて「こだま」なんて感じではなくてスピーカーで誰かが喋っている感じの時もあります。特に宇宙人はテレパシーに何かの技術的な機械を使っているらしく、かなり増幅してわかりやすい言葉で伝えてきますので、宇宙人と話す時はこちらに修行が全くいりませんので宇宙人とチャネリングしたとしても勘違いしない方がいいと思います。宇宙人が地球人とチャネリングするのは、普通の日本人がアマゾンとかの未開のジャングルに行って原住民とコンタクトを試みるように興味本位あるいは調査あるいは啓蒙など各種理由がありますので、こちら地球人側としてはあまり特別感を感じる必要はないと思います。まあ、たまには面白いかもしれないですけど、そういう事があったからと言って自分が「選ばれた」とか勘違いするべきではなくて、それは「たまたま」目についたから気まぐれで話しかけてみた、という場合も多いわけです。使命がある人なら生まれたからすぐに自覚しているわけで、一般人は使命とか選ばれたとかそういう勘違いをするべきではないと思います。
そのような明確なテレパシーによるチャネリングとは違って、自分の奥底の心の声を「こだま」のように聞く、というお話があるわけです。
私は現段階でサハスララにエネルギーが満ちたりそうでなかったりを繰り返している過渡期ですけど、過渡期は停滞と言うよりは単にそういう段階にいる、ということで、このような過渡期はその前後の状態が明確に区別して理解できて興味深いです。今回のお話も、サハスララにエネルギーが満ちていない状態と満ちている状態とで心の声がどのくらい違って曇って聞こえるかの差を識別するのが興味深いわけです。
言い方としてはいろいろあって、「心の声を聞く」ということも、「ハイヤーセルフの声を聞く」ということも、あるいは「神様の声を聞く」ということもできると思いますが、この声は誰かから話しかけられているという感じはなくて、距離的には割と近くて内側あるいは少し体とズレた少し上の方から聞こえてきますが、距離としては近い気がするのに声の聞こえ方としては山で「こだま」を聞くかのような、音としては遠くて音量は小さいのですが声自体ははっきりとした感じで突如聞こえてきます。
守護霊の声を聞く、というお話もそれはそれであるのですけど、その場合はもっとはっきりと明確な声で聞こえてきます。守護霊あるいは近くで友人知人の霊が喋りかける時はかなり明確に聞こえて、実はほとんどの人は特に修行していなくても普通に聞こえているのですが、それが雑念や自分の思考の声と混ざってしまって気付いていないかあるいは自分の考えだと思ってしまっている場合がほとんどのように思います。実際のところ、アイデアのようなものの多くは守護霊や近くの友人知人の霊が与えてくれたものであるわけで、真実を知ればそれが自分のアイデアだと固執する必要はないのですけど、現代社会においてはそのあたりが気付かれていなくて肉体としての自分が作ったアイデアは著作権や版権で守るとか言うお話になってしまいますけど、実際は、霊の世界ではアイデアなんて割と溢れているわけですよね。そもそも霊は少し進化すれば時空を超えられますので未来からアイデアを持ってくればすぐにアイデアマンっぽく振るまえてしまいますしね。それって面白いのですかね? 興ざめだと思いますけど。
そのように、守護霊や友人知人の霊から話しかけられる場合の明確な声とは違い、「こだま」のように響く声は、流派によっては「神様の声」あるいはスピリチュアルでは「ハイヤーセルフの声」と言われています。「天の声」と言っている流派もあるかもしれません。
この声が聞こえてくる状態としてはそれほど修行していなくても実は最初から聞こえてはいるわけですけど、サハスララに光が満ちていない状態では雑念が多くて空に雲がかかったかのような状態になっていてうまくそれを識別できないわけです。雑念の間にふとアイデアが降ってきた、みたいな場合はそのほとんどは守護霊や友人知人の霊が教えてくれた「明確」な心の声なわけで、その明確なインスピレーションは「直感」と言うこともできますけど、直感と言う時に、守護霊や友人知人が教えてくれる明確な直感とは別に、遠くから「こだま」のように響いてくる声があるわけです。
この、「こだま」の方にしても実は最初から聞こえてきているわけですけど、ほとんどの人は雑念の間に埋もれてしまっていて、あまりうまく拾えていないのですよね。後になって「そういえばそんな気がしていた」みたいなお話は誰にもよくあることだと思いますが、そんな後になって気付くのではなく、その時にすぐにその「こだま」の声に気付けるかどうかが需要だと思うのです。
そして、その、ハイヤーセルフあるいは単に心の声、人によっては特に英語圏では大文字のSELF(セルフ)と言い表すような心の本性と言っても良い奥底の微細な声に対して敏感にすぐに気付いて反応してすぐさまそれに従って行動して行けるようになるのがサハスララにエネルギーに満ちてきた段階かなと思うのです。
それ以前であってもそれなりに聞こえていて、段階ごとに聞こえやすくなるわけですけど、サハスララにエネルギーが満ちているかどうかがその声にしっかりと気付けてそれにフィードバックして自身の行動を変えて行けるかどうかの一つの境目のような気が致します。
声が聞こえる自体はそれ以前にあったとしても、それにしっかりと反応出来る段階、というわけです。
これはよくチャネリングと誤解されますけど、チャネリングの場合はこのような割と高次のチャネリングの場合もあるにはありますけど多くの場合は守護霊や友人知人の霊あるいは宇宙人とお話をすることになりますので、その場合、遥かに聞こえやすくて「こだま」なんて感じではなくてスピーカーで誰かが喋っている感じの時もあります。特に宇宙人はテレパシーに何かの技術的な機械を使っているらしく、かなり増幅してわかりやすい言葉で伝えてきますので、宇宙人と話す時はこちらに修行が全くいりませんので宇宙人とチャネリングしたとしても勘違いしない方がいいと思います。宇宙人が地球人とチャネリングするのは、普通の日本人がアマゾンとかの未開のジャングルに行って原住民とコンタクトを試みるように興味本位あるいは調査あるいは啓蒙など各種理由がありますので、こちら地球人側としてはあまり特別感を感じる必要はないと思います。まあ、たまには面白いかもしれないですけど、そういう事があったからと言って自分が「選ばれた」とか勘違いするべきではなくて、それは「たまたま」目についたから気まぐれで話しかけてみた、という場合も多いわけです。使命がある人なら生まれたからすぐに自覚しているわけで、一般人は使命とか選ばれたとかそういう勘違いをするべきではないと思います。
そのような明確なテレパシーによるチャネリングとは違って、自分の奥底の心の声を「こだま」のように聞く、というお話があるわけです。
私は現段階でサハスララにエネルギーが満ちたりそうでなかったりを繰り返している過渡期ですけど、過渡期は停滞と言うよりは単にそういう段階にいる、ということで、このような過渡期はその前後の状態が明確に区別して理解できて興味深いです。今回のお話も、サハスララにエネルギーが満ちていない状態と満ちている状態とで心の声がどのくらい違って曇って聞こえるかの差を識別するのが興味深いわけです。
心とサマーディは別物だと理解してから瞑想する
実際にそうだと体感するのはそれなりに瞑想を日々続けてからのことにはなりますが、あらかじめ心とサマーディは別物だと理解しておくことが重要のように思います。
大きな違いとしては、心には集中がありますがサマーディには集中がない、ということです。
たまに、瞑想の流派で集中を否定していたりしますけど、それは最初からサマーディのお話をしているのであって、その根底を見ていくと、心とサマーディとが同じものであるかのような理解をしている混乱に行き着くわけです。
心の動きというのはフォーカスであり、目標に意識を向けするということであり、言い換えればそれは集中ということです。
そのような流派にしても大抵は「集中はある程度は必要」と言っていたりしますけど、その一方で、「集中はしない。観察する」とか説明していて、実際の教えを受けたりすると、どうも心とサマーディの違いがわかっていないのか、あるいは、わかってはいるけれども教える時にはそう説明しているだけなのかもしれないですけど、少なくともそのような流派において、最初に教えを受ける側としてはこれら心とサマーディの違いをはっきりと説明されることがあまりないわけです。
呼吸を観察する、とか、皮膚の感覚の観察をするとか、色々な手法がありますけど、心とサマーディの違いを説明されることはあまりないような気がしますし、瞑想の定義としてサマーディとはただの集中に過ぎないと説明される場合もあります。聖典にもそのように書かれてある時があって、文字通りに理解してしまうのもわからなくもありません。
サマーディの代わりにヴィパッサナという言葉を使っている流派もありますけど、どちらにせよそのようなサマーディあるいはヴィパッサナという状態に至るには手順があるわけで、至る前に、一応は心とサマーディ(あるいはヴィパッサナーと呼ぶこともある)の違いを理解しておく方がいいと思うわけです。
そうしないと、細かいところで瞑想の誤解が生じてしまいます。
例えば、サマーディには集中がないのだから瞑想において集中しない、という瞑想の説明がされたりしますが、これは聞く側にとてつもない混乱をもたらします。全てわかって説明しているなら説明不足で片手落ちですので教師として未熟ですし、あるいは、わかっていなくてこれが正しいと思っているのならば理解不足です。どちらにせよこのような説明を真に受けるべきではありません。
実際には、上に書いたように、心には集中があってサマーディには集中がない、ということですから、瞑想において心は集中して何かに繋ぎ止めておいて、その一方で、サマーディの状態に至るのならばサマーディとしての集中なしの観察状態が同時に発生する、ということです。
これは、心とサマーディが別物でありますから、心が集中していようがいまいがサマーディとして観察状態が続きますが、瞑想をそれなりに続けた方でしたら心がそれなりに強化されていてさまよい歩くことがあまりなくなっていますから、心をそれほど強化して集中して繋ぎ止めておかなくてもさほど動かなくなっているわけです。そのような心の力がある上で「手中しない」というのはありですけど、それに至っていないのならば心をしっかりと繋ぎ止めておく必要があるわけです。
流派によっては準備が整っていない人に対しても「集中しない。観察だ」とことさらに観察だけをさせようとしますので、心を繋ぎ止めておくことを否定されてしまうと心があちらこちらにさまよい歩き、ネガティブな思いあるいは活動的な反応的な思いの連鎖に囚われて混乱をきたしてしまうわけですね。
言葉としての説明ひとつひとつを見ていくと一見して正しいように見えても、全体を見ると間違って理解されている流派があるわけです。理屈を聞くとたしかに合っているかのように見えても、そこにいる人達の理解のほとんどが間違っている、ということもあるわけです。
まあ、喜劇のようなものですよね。あまりにもその誤解が広がっていて、何が正しいのかも判別できなくなっているのかもしれないです。
そうして誤解するだけならまだいいのですが、その流派で実際に瞑想をすることで、具体的には集中を否定されて瞑想をした結果、心を繋ぎ止めておくことを否定されて、精神的に混乱をきたしてしまう人が続出してしまうわけです。
瞑想の基本は集中だ、というのは、心を繋ぎ止めておく必要がある、ということです。心は訓練していない状態では猿のようにあちらこちらにふらふらと動く、という説明がよくされたりしますけど、サマーディの前に心を鍛える必要があるわけです。
実際のところ、心とサマーディは別物でありますから、心を鍛えなくてもサマーディだけ育てる、ということは理屈としては可能で、そのように直接的にサマーディを育てようとしている流派もあります。ですけど、心が訓練されていない覚者というのはいわば子供が悟っているようなもので、この世に生まれたのでありますから心も合わせて訓練した方がいいと私は思ったりするわけですけど、それは流派や個人の自由ですから好きにすればいいとは思いますが。
サマーディに達したら集中がなくなる、というのは、心とサマーディとが別物ではなく同じものだと誤解しているのであれば心で集中しなくなる、というような間違った理解をしてしまいます。そうではなくて、心は心で、サマーディはサマーディです。サマーディがあったとしても心の集中は存在していて、心の集中がなされていたとしてもサマーディとしての集中なしの観察が同時並行で存在できるわけです。
ですから、そのような状態を説明するために「ある程度は集中が必要」とか言うことは間違ってはいないですけど、そもそも心とサマーディとは別物だということをしっかりと理解しておかなければ心での集中は不要だとかいう誤解が生じてしまうわけです。
流派によっては集中瞑想をことさらに毛嫌いしているところもあって、そのような流派で「どうして集中瞑想がいけないのですか」と聞くと一瞬でキレられて怒鳴られる時もあります。キレるという時点で瞑想がそれほど進んでいなくて、単に不快な感情を抑圧しているだけの瞑想をしていることがわかるわけですけど、集中瞑想を否定している流派では瞑想が間違って教えられていて、感情を抑圧してサマーディっぽい観察状態を心の観察でそれっぽく作り出す、ということがなされていたりするわけです。これは何を言っているのか伝わらないかもしれないですけど、そもそも心とサマーディが別物だということがしっかりと理解されていない状態でサマーディを目指したのならば、心で観察するしかないわけです。それはサマーディという状態は最初は自分にはありませんから、ないのにも関わらず、説明だけ聞いてサマーディを真似しようとしたら心を抑圧して心でそれっぽい皮膚の観察状態を作り出すということをしてしまうわけです。これは疑似サマーディみたいなもので、本当のサマーディではなく、それっぽく真似ているだけです。このような不思議な状態が瞑想でできてしまうわけです。それも、心とサマーディとは別物だという理解が浸透していないが故に起きてしまう喜劇なのかなと思います。
心とサマーディというと、心は「働き」で、サマーディは「状態」ですので、それぞれ違うものを並列に並べていることに違和感を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。このあたりは、チベット式の説明の方がすっきりするかもしれなくて、心とリクパ、という並べ方の方がいいかもしれません。
心はありきたりな思考の心のことで、リクパは心の本性のことで、リクパは最初は厚い雲に覆われていて多くの人には働いていないけれども誰にでも最初から存在していて心の浄化を進めることによって働きが現れてくるもので、リクパによってサマーディの状態が現れます。
心には集中があって、リクパには集中がなくて観察だけがあります。
実際にはリクパにもそれなりの集中というのがあって意識を向けたりもできますけど、心のように明確なものではありませんので、一応はこのように説明しておいていいと思います。
そのように、心のお話と、リクパ(あるいはサマーディ)のお話をごっちゃにしている流派がこの世にはそれなりにあるわけですけど、一方で、その違いをしっかりと認識してから瞑想するのが大切だと思うわけです。
実際のところ瞑想はただの集中だけではないのですけど、そうは言いましても特に最初は単なる集中で十分なわけですから、瞑想とは集中である、と言ってもそう差し支えなくて、伝統的にはそのように説明されているように思います。ですけど集中だけが瞑想ではなくて、リクパを働かせて観察状態になることでようやく本当の瞑想になるわけです。
ですから、瞑想で浄化という面もありますけど、瞑想と並行して浄化のための活動をすることも重要になってくるわけです。
大きな違いとしては、心には集中がありますがサマーディには集中がない、ということです。
たまに、瞑想の流派で集中を否定していたりしますけど、それは最初からサマーディのお話をしているのであって、その根底を見ていくと、心とサマーディとが同じものであるかのような理解をしている混乱に行き着くわけです。
心の動きというのはフォーカスであり、目標に意識を向けするということであり、言い換えればそれは集中ということです。
そのような流派にしても大抵は「集中はある程度は必要」と言っていたりしますけど、その一方で、「集中はしない。観察する」とか説明していて、実際の教えを受けたりすると、どうも心とサマーディの違いがわかっていないのか、あるいは、わかってはいるけれども教える時にはそう説明しているだけなのかもしれないですけど、少なくともそのような流派において、最初に教えを受ける側としてはこれら心とサマーディの違いをはっきりと説明されることがあまりないわけです。
呼吸を観察する、とか、皮膚の感覚の観察をするとか、色々な手法がありますけど、心とサマーディの違いを説明されることはあまりないような気がしますし、瞑想の定義としてサマーディとはただの集中に過ぎないと説明される場合もあります。聖典にもそのように書かれてある時があって、文字通りに理解してしまうのもわからなくもありません。
サマーディの代わりにヴィパッサナという言葉を使っている流派もありますけど、どちらにせよそのようなサマーディあるいはヴィパッサナという状態に至るには手順があるわけで、至る前に、一応は心とサマーディ(あるいはヴィパッサナーと呼ぶこともある)の違いを理解しておく方がいいと思うわけです。
そうしないと、細かいところで瞑想の誤解が生じてしまいます。
例えば、サマーディには集中がないのだから瞑想において集中しない、という瞑想の説明がされたりしますが、これは聞く側にとてつもない混乱をもたらします。全てわかって説明しているなら説明不足で片手落ちですので教師として未熟ですし、あるいは、わかっていなくてこれが正しいと思っているのならば理解不足です。どちらにせよこのような説明を真に受けるべきではありません。
実際には、上に書いたように、心には集中があってサマーディには集中がない、ということですから、瞑想において心は集中して何かに繋ぎ止めておいて、その一方で、サマーディの状態に至るのならばサマーディとしての集中なしの観察状態が同時に発生する、ということです。
これは、心とサマーディが別物でありますから、心が集中していようがいまいがサマーディとして観察状態が続きますが、瞑想をそれなりに続けた方でしたら心がそれなりに強化されていてさまよい歩くことがあまりなくなっていますから、心をそれほど強化して集中して繋ぎ止めておかなくてもさほど動かなくなっているわけです。そのような心の力がある上で「手中しない」というのはありですけど、それに至っていないのならば心をしっかりと繋ぎ止めておく必要があるわけです。
流派によっては準備が整っていない人に対しても「集中しない。観察だ」とことさらに観察だけをさせようとしますので、心を繋ぎ止めておくことを否定されてしまうと心があちらこちらにさまよい歩き、ネガティブな思いあるいは活動的な反応的な思いの連鎖に囚われて混乱をきたしてしまうわけですね。
言葉としての説明ひとつひとつを見ていくと一見して正しいように見えても、全体を見ると間違って理解されている流派があるわけです。理屈を聞くとたしかに合っているかのように見えても、そこにいる人達の理解のほとんどが間違っている、ということもあるわけです。
まあ、喜劇のようなものですよね。あまりにもその誤解が広がっていて、何が正しいのかも判別できなくなっているのかもしれないです。
そうして誤解するだけならまだいいのですが、その流派で実際に瞑想をすることで、具体的には集中を否定されて瞑想をした結果、心を繋ぎ止めておくことを否定されて、精神的に混乱をきたしてしまう人が続出してしまうわけです。
瞑想の基本は集中だ、というのは、心を繋ぎ止めておく必要がある、ということです。心は訓練していない状態では猿のようにあちらこちらにふらふらと動く、という説明がよくされたりしますけど、サマーディの前に心を鍛える必要があるわけです。
実際のところ、心とサマーディは別物でありますから、心を鍛えなくてもサマーディだけ育てる、ということは理屈としては可能で、そのように直接的にサマーディを育てようとしている流派もあります。ですけど、心が訓練されていない覚者というのはいわば子供が悟っているようなもので、この世に生まれたのでありますから心も合わせて訓練した方がいいと私は思ったりするわけですけど、それは流派や個人の自由ですから好きにすればいいとは思いますが。
サマーディに達したら集中がなくなる、というのは、心とサマーディとが別物ではなく同じものだと誤解しているのであれば心で集中しなくなる、というような間違った理解をしてしまいます。そうではなくて、心は心で、サマーディはサマーディです。サマーディがあったとしても心の集中は存在していて、心の集中がなされていたとしてもサマーディとしての集中なしの観察が同時並行で存在できるわけです。
ですから、そのような状態を説明するために「ある程度は集中が必要」とか言うことは間違ってはいないですけど、そもそも心とサマーディとは別物だということをしっかりと理解しておかなければ心での集中は不要だとかいう誤解が生じてしまうわけです。
流派によっては集中瞑想をことさらに毛嫌いしているところもあって、そのような流派で「どうして集中瞑想がいけないのですか」と聞くと一瞬でキレられて怒鳴られる時もあります。キレるという時点で瞑想がそれほど進んでいなくて、単に不快な感情を抑圧しているだけの瞑想をしていることがわかるわけですけど、集中瞑想を否定している流派では瞑想が間違って教えられていて、感情を抑圧してサマーディっぽい観察状態を心の観察でそれっぽく作り出す、ということがなされていたりするわけです。これは何を言っているのか伝わらないかもしれないですけど、そもそも心とサマーディが別物だということがしっかりと理解されていない状態でサマーディを目指したのならば、心で観察するしかないわけです。それはサマーディという状態は最初は自分にはありませんから、ないのにも関わらず、説明だけ聞いてサマーディを真似しようとしたら心を抑圧して心でそれっぽい皮膚の観察状態を作り出すということをしてしまうわけです。これは疑似サマーディみたいなもので、本当のサマーディではなく、それっぽく真似ているだけです。このような不思議な状態が瞑想でできてしまうわけです。それも、心とサマーディとは別物だという理解が浸透していないが故に起きてしまう喜劇なのかなと思います。
心とサマーディというと、心は「働き」で、サマーディは「状態」ですので、それぞれ違うものを並列に並べていることに違和感を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。このあたりは、チベット式の説明の方がすっきりするかもしれなくて、心とリクパ、という並べ方の方がいいかもしれません。
心はありきたりな思考の心のことで、リクパは心の本性のことで、リクパは最初は厚い雲に覆われていて多くの人には働いていないけれども誰にでも最初から存在していて心の浄化を進めることによって働きが現れてくるもので、リクパによってサマーディの状態が現れます。
心には集中があって、リクパには集中がなくて観察だけがあります。
実際にはリクパにもそれなりの集中というのがあって意識を向けたりもできますけど、心のように明確なものではありませんので、一応はこのように説明しておいていいと思います。
そのように、心のお話と、リクパ(あるいはサマーディ)のお話をごっちゃにしている流派がこの世にはそれなりにあるわけですけど、一方で、その違いをしっかりと認識してから瞑想するのが大切だと思うわけです。
実際のところ瞑想はただの集中だけではないのですけど、そうは言いましても特に最初は単なる集中で十分なわけですから、瞑想とは集中である、と言ってもそう差し支えなくて、伝統的にはそのように説明されているように思います。ですけど集中だけが瞑想ではなくて、リクパを働かせて観察状態になることでようやく本当の瞑想になるわけです。
ですから、瞑想で浄化という面もありますけど、瞑想と並行して浄化のための活動をすることも重要になってくるわけです。
本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけ
瞑想の基本的な考え方は2つの心があるという考えに立脚しており、普通の心と心の本性(リクパ)のそれぞれがあって、リクパは最初は多くの人にとっては厚い雲に囲われていて隠れているので覆われているものを取り除く(浄化)することでリクパを表す、というような説明がなされたりしますけど、実際のところ、心というものは1つしかなくて、ただ、グラデーションのように幅広く心に階層があるだけなのです。
そうは言いましても大きく分けて思考する普通の心と微細なものに分けた方が説明がしやすいので分けている面と、普通の心が多くの人にとっては強く働きすぎていますので例えばトランスや瞑想の集中で一旦は抑えてあげないとリクパが出てこない、というのが実態だったりします。
ですので、本来は一続きであったとしても、普通の心を抑えるという過程がないとなかなかリクパは表に出てこないわけです。
しかし、時間が経つにつれて普通の心を抑えるという段階を踏まなくても普通の心とリクパが一続きのものとして動作するようになってきます。
普通の心を抑える動作が必要な段階と、それほど必要でない段階と、必要でない段階とに分かれるわけです。
普通の心を押さえてリクパを表すことを西洋ではトランスとか呼んだりして、手法としては色々ありますけど、副作用のある薬のある方法なんかもあるみたいですけど私はしたことがないのでよくわかりませんけど、他には、音楽を使った方法もあったりします。スピリチュアルを求めている人が特に西洋では何故か騒がしい音楽を好んでいたりするのは、そのような段階ですと普通の心を抑えるために手法が必要で、騒がしい音楽を聞くことで普通の心を忙しくさせておいてその奥のリクパを出させようとしているのでしょう。私はそういう手法は取りませんし、単にうるさい音楽としか思わないのですけど、そのような手法が西洋ではよく取られているように思います。そうは言いましても、そうしてトランス状態にするために普通の心を抑え込む必要があるということは、まだ瞑想がそれほど進んでいない、ということであり、いつまでもそれに頼るべきではないと私は思うのですが、それしか知らない人は死ぬまでトランスに頼ることもあるように思います。
普通に瞑想をしていけばそのようなトランスに頼る段階から抜け出て、次第にトランスに頼らないようになっていきます。そして、それが健全なわけです。
最終的には、普通の心とリクパとが一続きになって、普通の心が働いていようがいまいがリクパが働くようになり、そうなればトランスして普通の心を抑えるということは不要になります。
そうは言いましても大きく分けて思考する普通の心と微細なものに分けた方が説明がしやすいので分けている面と、普通の心が多くの人にとっては強く働きすぎていますので例えばトランスや瞑想の集中で一旦は抑えてあげないとリクパが出てこない、というのが実態だったりします。
ですので、本来は一続きであったとしても、普通の心を抑えるという過程がないとなかなかリクパは表に出てこないわけです。
しかし、時間が経つにつれて普通の心を抑えるという段階を踏まなくても普通の心とリクパが一続きのものとして動作するようになってきます。
普通の心を抑える動作が必要な段階と、それほど必要でない段階と、必要でない段階とに分かれるわけです。
普通の心を押さえてリクパを表すことを西洋ではトランスとか呼んだりして、手法としては色々ありますけど、副作用のある薬のある方法なんかもあるみたいですけど私はしたことがないのでよくわかりませんけど、他には、音楽を使った方法もあったりします。スピリチュアルを求めている人が特に西洋では何故か騒がしい音楽を好んでいたりするのは、そのような段階ですと普通の心を抑えるために手法が必要で、騒がしい音楽を聞くことで普通の心を忙しくさせておいてその奥のリクパを出させようとしているのでしょう。私はそういう手法は取りませんし、単にうるさい音楽としか思わないのですけど、そのような手法が西洋ではよく取られているように思います。そうは言いましても、そうしてトランス状態にするために普通の心を抑え込む必要があるということは、まだ瞑想がそれほど進んでいない、ということであり、いつまでもそれに頼るべきではないと私は思うのですが、それしか知らない人は死ぬまでトランスに頼ることもあるように思います。
普通に瞑想をしていけばそのようなトランスに頼る段階から抜け出て、次第にトランスに頼らないようになっていきます。そして、それが健全なわけです。
最終的には、普通の心とリクパとが一続きになって、普通の心が働いていようがいまいがリクパが働くようになり、そうなればトランスして普通の心を抑えるということは不要になります。
何でも受け入れることがスピリチュアルではない
よくある誤解で、(従順というニュアンスにおいて)「素直」なことがスピリチュアルだとか、大人しいことがスピリチュアルだとか、にこやかに何でも受け入れることがスピリチュアルだとかいう誤解がありますけど、確かにそのような面もあるにはありますけど、本質で言えばそのような態度をするかどうかとスピリチュアルかどうかは厳密に言えばあまり関係がないのです。
これは他人に対する評価および自分がどのような態度を取るべきかという両方の面において関連してきます。そのどちらも、何でも受け入れることがスピリチュアルだという判断基準にしてしまっている人がそれなりにいるわけなんですよね。
更にはこれはそれぞれ2つに更に分けられて、単に勘違いしている場合と、操作されている関係にある場合とがあります。
勘違いして素直なことがスピリチュアルだと考えている場合と、勘違いして他者のスピリチュアル度合いを素直かどうかで判断する場合と、操作することがスピリチュアルになってしまっている場合と、操作されることがスピリチュアルになってしまっている場合があります。
これは微妙な差異で、スピリチュアル的に操作と依存の関係は良くないとはよく言われていますのでそれ自体を自分たちが納得はしておらず指摘されても否定するような状態ではありますけど、素直かどうかという判断基準は結局は依存・操作でしかなくてオブラートに隠されているだけだということです。
ですから、意図的に操作したりしようとするのは論外ですけど、このような罠にかからないためには自身が素直に何でも受け入れることをやめて、一方、他人に対する評価については、他者がスピリチュアルかどうかを判断する際に他者が拒否したからと言って簡単にスピリチュアル的に低いと判断すべきではない、ということになります。相手が拒否したと感じたその態度とは健全なものであり、一方、他人が受け入れてくれているように見えたとしても本当のスピリチュアルであれば他人を受け入れてくれているのではなくて自分と相手の間に確固とした違いがあることをはっきりと認識しているので相手をありのまま存在させてくれているのであり、それは必ずしも受け入れてくれているということではなく、ありのままをありのままとして受け止めているのであって、必ずしも相手を受け入れる必要はなくて、むしろスピリチュアル的に成熟していればいるほど相手を受け入れるということはしない傾向にあるように思います。ありのままに相手を認識してありのままでいさせてくれるものの、相手の生き方はその人のものでありますのでそれを尊重していて、かつ、自分の生き方も尊重していますので自分の生き方を相手に譲り渡すようなことはしません。ですので、素直に何でも聞いてくれるかのように見えても、それはありのままを見てくれているだけであって、相手と同化しているわけではないのですよね。
ここに誤解があって、スピリチュアルというと相手に全てを差し出すだとか、相手と自分の間に違いはないのだからエネルギーでも何でも差し出すとか、全て無条件に愛でも物でも差し出すとか、それがスピリチュアルなんだという誤解がありますけど、スピリチュアルとはそういうことではないのですよね。
割と一般には素直で何でも言うことを聞いてくれる従順な人がスピリチュアルで素晴らしいかのように理解されていますけど、それは割とスピリチュアルの罠のようなもので、他人からエネルギーあるいは結果を奪おうとしている人の誘導にうまくはまってしまっているとも言えるわけです。これが罠だと見抜ける人がどの程度いるでしょうかね? ずっと素直に従順に生きていればそのうち「ご褒美」があって「楽しく幸せに裕福に」暮らせる筈だと、いつ来るかもわからない未来を夢見て辛い日々をシンデレラの可愛そうな少女のように清く貧しく暮らしているのがスピリチュアルだと勘違いしてはいないでしょうかね。
かと言って傲慢になることでもなくて、あるいは、よくあるスピリチュアルの別の誤解のように中間の選択をすることがスピリチュアルでもないわけです。2つの選択があった時に真ん中を選ぶことが仏教の「中道」と勘違いしないことです。そういうことではないのですよね。もし中道がそのようなものであると思っているならば、あらかじめ2つの極端な選択肢を提示されてその中間を選択させられて罠にはまってしまいます。
スピリチュアルとは、どのような周囲にも惑わされない自分の中心に居座ることです。ですから、周囲がどう思ってどのような態度を取っていたとしても自分は影響されませんし、他人を否定もしないわけです。そうなると、他人から見たら「受け入れている」と見えるかもしれませんけど、自分がしっかりとしていると言うこともできます。ただ、柔軟性がないわけでもなくて、必要に応じて柔軟で、しかし、他人にすぐに左右されたりもしないわけです。意思でいかようにも自分を変えられますので、意図的に他者の意見を取り入れることもあれば、ただ相手を理解してそれは他人であるから自分とは違うと考えるのもそれまた自由にできるわけです。
ですけど、スピリチュアルというととにかく従順で他人から言われたことを受け入れて何でも与えて全て他人の思い通りにしてあげることというステレオタイプが広まっていて、そのようなステレオタイプがあるが故に、その通りに行動しなければ他者に対してスピリチュアルの低い人だという評価を与えてしまったりするわけです。誰かのスピリチュアリティを疑っている人がいる時に実際にどのようなことなのか見てみると、スピリチュアルを誤解している人が他者の行動を批判しているだけだということがよくあります。
それは自己の強さとして説明することもできますけど、戦いの強さではなくて根源と繋がっているかどうかの度合いであり、男性的な戦いの強さのことではないのですよね。
人によってはこれのことを愛と呼ぶ人もいて、なんであろうとも受け入れて自分は自己の根源を信頼していて揺るがない状態なわけで、それを愛と呼ぶのであればそうとも言えると思います。愛とは本来は条件付けされないものですので、条件付きの愛ではない本当の愛というのは他者をどうこう以前に自らへの深い信頼が伴っているものなわけです。誰かを愛することだけが愛なわけではないのですね。自らの根源を信頼していてそれが愛と呼んでも良いレベルで動作していさえすれば他者から見たら周囲への愛に満ちていると見えるかもしれませんけどそれは他者を無条件に受け入れてくれるような愛ではなくて自らの根源に繋がっていて揺るぎがないという種類の愛なわけです。そうであれば、他者を理解してありのままに受け入れている、と、表現としてはそのように言うことは間違いではないですけど、その表現には多少の誤解が生じる余地が含まれているわけで、たしかにありのままに受け入れていると言えなくもないですけど実際にはありのままを認識していてそれを否定せずにありのままを見てもらえているということであって、それが受け入れてもらえている、と言っても間違いではないですけど、何かをお願いしたら何でもホイホイと全てしてもらえるという種類の愛とはちょっと違うわけです。
愛とは本当は自己愛と呼ぶこともできて、そのように言っている人もいますけど、自分勝手の愛とも違って、自らの根源に繋がっていることが愛なわけですので、それを自己愛と言うこともできて、そうなると、他者もありのまま受け入れられるようになるわけです。言い換えれば、他者のことをありのままに認識して、視覚でありのままの姿を見るがごとく、相手の表情や声、雰囲気、匂いに至るまでありのままを認識することがありのままを受け入れる、ということであるわけです。
それはひょっとすると冷たく感じてしまうかもしれませんけど、情と比べたら熱感が足りないと思うかもしれないのは確かにそうで、情というのは感情による熱愛ですから、そういう情としての愛も世の中にはありますけど、ここで言っている自己信頼とはそれよりももっと胸の奥のアナハタで感じるような自己愛ですので、情とはちょっと違うわけです。
情の段階では相手を完全に受け入れたり相手に完全に受け入れてもらったりという人間的な情による愛をして、それはそれでありだと思いますし否定はしませんし、アナハタとしての愛を持ったとしてもそのような感情を抱くことはありますけど、情を単体で感じてアナハタの愛がない場合には熱愛や盲目的な愛になるのに対し、アナハタの愛が含まれていればそれは自己愛がベースになっていますから、それほど盲目的にならずに相手をありのままに愛すことができるわけです。
アナハタの愛になると、相手にその理解力がなければ「冷たい」「愛がなくなった」と思ってしまう場合が多々ありますので、このあたりは見抜く側の見る目も必要になってきます。
素直という言葉も2つの意味があって、ありのままを受け止める素直さはアナハタの愛ですけど、従順という意味での素直さは誤解された従順さです。この、誤解された従順さがスピリチュアルかどうかの判断基準として広まってしまっている気がするのです。何かを言った時に黙って受け入れてくれる人がスピリチュアルだ、というお話は、上に書きましたように、ありのままを受け入れるという意味においてはそうですけど、かと言って、従順になってその通りに従うのであればそれはスピリチュアルとは違うわけですけど、従順でないとスピリチュアルではないかのような誤解が広まっているわけです。この判断基準に従ってしまうと他人を従順にすることを強要したりあるいは自分が従順になるように自ら意図したりしてしまいます。
ナチュラルという意味において素直になることはスピリチュアルにおいては重要で、フラットになって他人にも穏やかな態度で接することは一般社会と同様に普通に尊重されますけど、間違ったスピリチュアルでは、素直という意味が従順として理解されていて、他人にも自分にも強要するようになりますので、それはいわば抑圧でもありますので、一見すると素直だけれども心のストレスが沸点に達するとすぐにキレてしまうというようなおかしなスピリチュアルになってしまうわけです。
結局、自分は自分以上のものになれないのですから、まずは自分を受け入れるしかないのでありますが、何か自分と違ったものになろうとして自分の感情を抑圧したり自己愛を従順さと取り違えて例えば神などに従順になればどうにかなると勘違いしているスピリチュアルがあったりしますけど、そのような人は見れば何かオーラが薄い感じでグラウンディングが弱いのです。ナチュラルで素直になるためにはまず自分の全てを受け入れる必要があって、変わることを意図するというよりは今まで自分と思い込んでいた他人の思いを手放した時に自然に自分の姿に戻ってゆくのであって、そうすれば素直だけれども芯があるような状態になって、他人からのコントロールからも離れて、同時に、自分が他人をコントロールしようとは思わなくなります。
補足しておきますと、情それ自体は階梯の1つとして重要で、そもそも情以前の人がいますからその場合はまず情を身につける必要があるのですが、情の先はハートのアナハタの愛になる、というお話です。
これは他人に対する評価および自分がどのような態度を取るべきかという両方の面において関連してきます。そのどちらも、何でも受け入れることがスピリチュアルだという判断基準にしてしまっている人がそれなりにいるわけなんですよね。
更にはこれはそれぞれ2つに更に分けられて、単に勘違いしている場合と、操作されている関係にある場合とがあります。
勘違いして素直なことがスピリチュアルだと考えている場合と、勘違いして他者のスピリチュアル度合いを素直かどうかで判断する場合と、操作することがスピリチュアルになってしまっている場合と、操作されることがスピリチュアルになってしまっている場合があります。
これは微妙な差異で、スピリチュアル的に操作と依存の関係は良くないとはよく言われていますのでそれ自体を自分たちが納得はしておらず指摘されても否定するような状態ではありますけど、素直かどうかという判断基準は結局は依存・操作でしかなくてオブラートに隠されているだけだということです。
ですから、意図的に操作したりしようとするのは論外ですけど、このような罠にかからないためには自身が素直に何でも受け入れることをやめて、一方、他人に対する評価については、他者がスピリチュアルかどうかを判断する際に他者が拒否したからと言って簡単にスピリチュアル的に低いと判断すべきではない、ということになります。相手が拒否したと感じたその態度とは健全なものであり、一方、他人が受け入れてくれているように見えたとしても本当のスピリチュアルであれば他人を受け入れてくれているのではなくて自分と相手の間に確固とした違いがあることをはっきりと認識しているので相手をありのまま存在させてくれているのであり、それは必ずしも受け入れてくれているということではなく、ありのままをありのままとして受け止めているのであって、必ずしも相手を受け入れる必要はなくて、むしろスピリチュアル的に成熟していればいるほど相手を受け入れるということはしない傾向にあるように思います。ありのままに相手を認識してありのままでいさせてくれるものの、相手の生き方はその人のものでありますのでそれを尊重していて、かつ、自分の生き方も尊重していますので自分の生き方を相手に譲り渡すようなことはしません。ですので、素直に何でも聞いてくれるかのように見えても、それはありのままを見てくれているだけであって、相手と同化しているわけではないのですよね。
ここに誤解があって、スピリチュアルというと相手に全てを差し出すだとか、相手と自分の間に違いはないのだからエネルギーでも何でも差し出すとか、全て無条件に愛でも物でも差し出すとか、それがスピリチュアルなんだという誤解がありますけど、スピリチュアルとはそういうことではないのですよね。
割と一般には素直で何でも言うことを聞いてくれる従順な人がスピリチュアルで素晴らしいかのように理解されていますけど、それは割とスピリチュアルの罠のようなもので、他人からエネルギーあるいは結果を奪おうとしている人の誘導にうまくはまってしまっているとも言えるわけです。これが罠だと見抜ける人がどの程度いるでしょうかね? ずっと素直に従順に生きていればそのうち「ご褒美」があって「楽しく幸せに裕福に」暮らせる筈だと、いつ来るかもわからない未来を夢見て辛い日々をシンデレラの可愛そうな少女のように清く貧しく暮らしているのがスピリチュアルだと勘違いしてはいないでしょうかね。
かと言って傲慢になることでもなくて、あるいは、よくあるスピリチュアルの別の誤解のように中間の選択をすることがスピリチュアルでもないわけです。2つの選択があった時に真ん中を選ぶことが仏教の「中道」と勘違いしないことです。そういうことではないのですよね。もし中道がそのようなものであると思っているならば、あらかじめ2つの極端な選択肢を提示されてその中間を選択させられて罠にはまってしまいます。
スピリチュアルとは、どのような周囲にも惑わされない自分の中心に居座ることです。ですから、周囲がどう思ってどのような態度を取っていたとしても自分は影響されませんし、他人を否定もしないわけです。そうなると、他人から見たら「受け入れている」と見えるかもしれませんけど、自分がしっかりとしていると言うこともできます。ただ、柔軟性がないわけでもなくて、必要に応じて柔軟で、しかし、他人にすぐに左右されたりもしないわけです。意思でいかようにも自分を変えられますので、意図的に他者の意見を取り入れることもあれば、ただ相手を理解してそれは他人であるから自分とは違うと考えるのもそれまた自由にできるわけです。
ですけど、スピリチュアルというととにかく従順で他人から言われたことを受け入れて何でも与えて全て他人の思い通りにしてあげることというステレオタイプが広まっていて、そのようなステレオタイプがあるが故に、その通りに行動しなければ他者に対してスピリチュアルの低い人だという評価を与えてしまったりするわけです。誰かのスピリチュアリティを疑っている人がいる時に実際にどのようなことなのか見てみると、スピリチュアルを誤解している人が他者の行動を批判しているだけだということがよくあります。
それは自己の強さとして説明することもできますけど、戦いの強さではなくて根源と繋がっているかどうかの度合いであり、男性的な戦いの強さのことではないのですよね。
人によってはこれのことを愛と呼ぶ人もいて、なんであろうとも受け入れて自分は自己の根源を信頼していて揺るがない状態なわけで、それを愛と呼ぶのであればそうとも言えると思います。愛とは本来は条件付けされないものですので、条件付きの愛ではない本当の愛というのは他者をどうこう以前に自らへの深い信頼が伴っているものなわけです。誰かを愛することだけが愛なわけではないのですね。自らの根源を信頼していてそれが愛と呼んでも良いレベルで動作していさえすれば他者から見たら周囲への愛に満ちていると見えるかもしれませんけどそれは他者を無条件に受け入れてくれるような愛ではなくて自らの根源に繋がっていて揺るぎがないという種類の愛なわけです。そうであれば、他者を理解してありのままに受け入れている、と、表現としてはそのように言うことは間違いではないですけど、その表現には多少の誤解が生じる余地が含まれているわけで、たしかにありのままに受け入れていると言えなくもないですけど実際にはありのままを認識していてそれを否定せずにありのままを見てもらえているということであって、それが受け入れてもらえている、と言っても間違いではないですけど、何かをお願いしたら何でもホイホイと全てしてもらえるという種類の愛とはちょっと違うわけです。
愛とは本当は自己愛と呼ぶこともできて、そのように言っている人もいますけど、自分勝手の愛とも違って、自らの根源に繋がっていることが愛なわけですので、それを自己愛と言うこともできて、そうなると、他者もありのまま受け入れられるようになるわけです。言い換えれば、他者のことをありのままに認識して、視覚でありのままの姿を見るがごとく、相手の表情や声、雰囲気、匂いに至るまでありのままを認識することがありのままを受け入れる、ということであるわけです。
それはひょっとすると冷たく感じてしまうかもしれませんけど、情と比べたら熱感が足りないと思うかもしれないのは確かにそうで、情というのは感情による熱愛ですから、そういう情としての愛も世の中にはありますけど、ここで言っている自己信頼とはそれよりももっと胸の奥のアナハタで感じるような自己愛ですので、情とはちょっと違うわけです。
情の段階では相手を完全に受け入れたり相手に完全に受け入れてもらったりという人間的な情による愛をして、それはそれでありだと思いますし否定はしませんし、アナハタとしての愛を持ったとしてもそのような感情を抱くことはありますけど、情を単体で感じてアナハタの愛がない場合には熱愛や盲目的な愛になるのに対し、アナハタの愛が含まれていればそれは自己愛がベースになっていますから、それほど盲目的にならずに相手をありのままに愛すことができるわけです。
アナハタの愛になると、相手にその理解力がなければ「冷たい」「愛がなくなった」と思ってしまう場合が多々ありますので、このあたりは見抜く側の見る目も必要になってきます。
素直という言葉も2つの意味があって、ありのままを受け止める素直さはアナハタの愛ですけど、従順という意味での素直さは誤解された従順さです。この、誤解された従順さがスピリチュアルかどうかの判断基準として広まってしまっている気がするのです。何かを言った時に黙って受け入れてくれる人がスピリチュアルだ、というお話は、上に書きましたように、ありのままを受け入れるという意味においてはそうですけど、かと言って、従順になってその通りに従うのであればそれはスピリチュアルとは違うわけですけど、従順でないとスピリチュアルではないかのような誤解が広まっているわけです。この判断基準に従ってしまうと他人を従順にすることを強要したりあるいは自分が従順になるように自ら意図したりしてしまいます。
ナチュラルという意味において素直になることはスピリチュアルにおいては重要で、フラットになって他人にも穏やかな態度で接することは一般社会と同様に普通に尊重されますけど、間違ったスピリチュアルでは、素直という意味が従順として理解されていて、他人にも自分にも強要するようになりますので、それはいわば抑圧でもありますので、一見すると素直だけれども心のストレスが沸点に達するとすぐにキレてしまうというようなおかしなスピリチュアルになってしまうわけです。
結局、自分は自分以上のものになれないのですから、まずは自分を受け入れるしかないのでありますが、何か自分と違ったものになろうとして自分の感情を抑圧したり自己愛を従順さと取り違えて例えば神などに従順になればどうにかなると勘違いしているスピリチュアルがあったりしますけど、そのような人は見れば何かオーラが薄い感じでグラウンディングが弱いのです。ナチュラルで素直になるためにはまず自分の全てを受け入れる必要があって、変わることを意図するというよりは今まで自分と思い込んでいた他人の思いを手放した時に自然に自分の姿に戻ってゆくのであって、そうすれば素直だけれども芯があるような状態になって、他人からのコントロールからも離れて、同時に、自分が他人をコントロールしようとは思わなくなります。
補足しておきますと、情それ自体は階梯の1つとして重要で、そもそも情以前の人がいますからその場合はまず情を身につける必要があるのですが、情の先はハートのアナハタの愛になる、というお話です。
瞑想の準備において邪気を引き抜くことは重要
何かもやもやして瞑想状態に入りにくい時は、何かに取り憑かれている可能性がありますので邪気あるいは悪霊を引き抜く必要があるように思います。
あるいは、オーラのケーブルが繋がっていてエネルギーを引き抜かれている可能性もありますので、何か繋がっていないか体の周囲全体をチェックします。
私の場合、もしかしたら他の人も同様かもしれませんけど私は右肩が弱くて、右肩を経由して邪気あるいは死霊のようなものに取り憑かれやすいです。
何かもやっとした感じになっていると、とりあえず右肩をチェックしてオーラの手のようなものを意図して何かを「引き抜く」感じで右肩から右方向に引き抜くと、急に緊張が取れてもやっとした感じもなくなります。
これは、毎回全ての原因をチェックしてはいないのですけど大まかに分けて2つの可能性があって、1つは死霊のような意識体が取り憑いていてエネルギーを吸っている場合。もう1つはエーテルのようなオーラのケーブルが突き刺さっていてエネルギーを吸っている場合があります。
オーラのケーブルは体のどこにでも繋がって、下半身のマニプラとかに繋げてくる場合もありますので、急にお腹の調子が悪くなったりした時は誰かがマニプラ経由で繋げてきている場合があります。
オーラのケーブルの場合は防御膜を張ったりケーブルを切るような所作をするわけですけど、しつこい時は何度も繋げて来る場合もありますけど大抵はすぐに離れてくれます。
死霊は満足するまでエネルギーを吸うかあるいはこちらからつまみ出さないと離れていきませんので、調子がおかしいと思ったらすぐに右肩をチェックして死霊を引き抜いたりしています。
このチェックは何もなくても定期的な自己チェックにした方が良くて、ちょっと意識するだけで体調がかなり改善しますのでオススメです。
この世の中は怖いもので、知らずに生活していたら一生ずっとエネルギーを吸われ続けていてエネルギー源にされていた、ということも普通にそこらにありますので、こんなちょっとしたことで改善できるのですからすぐにした方がいいと思います。
そして、そのようなオーラ的な安定は瞑想にも重要なのですよね。
エネルギーを奪われていたりオーラが不安定な時に瞑想をしても瞑想が深まるためにとても長い時間を要してしまいます。
まずは自分のオーラを安定させることが重要で、そのために、死霊を引き抜いたりオーラのケーブルを切ったりすることが準備として必要になってくるわけです。
それをざっくばらんに言うと邪気を抜く、という言い方もできますけど、やっていることは同じことです。
また、別の言い方で、同じことを「自分を開く」とか言っている人もいる気もしますけどね。どうでしょうか。
あるいは、オーラのケーブルが繋がっていてエネルギーを引き抜かれている可能性もありますので、何か繋がっていないか体の周囲全体をチェックします。
私の場合、もしかしたら他の人も同様かもしれませんけど私は右肩が弱くて、右肩を経由して邪気あるいは死霊のようなものに取り憑かれやすいです。
何かもやっとした感じになっていると、とりあえず右肩をチェックしてオーラの手のようなものを意図して何かを「引き抜く」感じで右肩から右方向に引き抜くと、急に緊張が取れてもやっとした感じもなくなります。
これは、毎回全ての原因をチェックしてはいないのですけど大まかに分けて2つの可能性があって、1つは死霊のような意識体が取り憑いていてエネルギーを吸っている場合。もう1つはエーテルのようなオーラのケーブルが突き刺さっていてエネルギーを吸っている場合があります。
オーラのケーブルは体のどこにでも繋がって、下半身のマニプラとかに繋げてくる場合もありますので、急にお腹の調子が悪くなったりした時は誰かがマニプラ経由で繋げてきている場合があります。
オーラのケーブルの場合は防御膜を張ったりケーブルを切るような所作をするわけですけど、しつこい時は何度も繋げて来る場合もありますけど大抵はすぐに離れてくれます。
死霊は満足するまでエネルギーを吸うかあるいはこちらからつまみ出さないと離れていきませんので、調子がおかしいと思ったらすぐに右肩をチェックして死霊を引き抜いたりしています。
このチェックは何もなくても定期的な自己チェックにした方が良くて、ちょっと意識するだけで体調がかなり改善しますのでオススメです。
この世の中は怖いもので、知らずに生活していたら一生ずっとエネルギーを吸われ続けていてエネルギー源にされていた、ということも普通にそこらにありますので、こんなちょっとしたことで改善できるのですからすぐにした方がいいと思います。
そして、そのようなオーラ的な安定は瞑想にも重要なのですよね。
エネルギーを奪われていたりオーラが不安定な時に瞑想をしても瞑想が深まるためにとても長い時間を要してしまいます。
まずは自分のオーラを安定させることが重要で、そのために、死霊を引き抜いたりオーラのケーブルを切ったりすることが準備として必要になってくるわけです。
それをざっくばらんに言うと邪気を抜く、という言い方もできますけど、やっていることは同じことです。
また、別の言い方で、同じことを「自分を開く」とか言っている人もいる気もしますけどね。どうでしょうか。
瞑想をすれば普段の生活が楽になる
マインドフルネスだとかサマーディだとかヴィパッサーだとか大層なことを言わなくても瞑想をすれば日常の普通の生活が楽なものになります。それだけでも瞑想をするメリットがあると思います。
重い沈むような気持ちや不快な感情および繰り返し浮かび上がってくる憎悪や不快な気持ちなどが瞑想をすることによって徐々に解消されてゆき、やがては日常生活が快活で心地のよいものに変わってゆきます。
仕事の成果だとか頭の回転だとか超越意識だとか小難しいことを言わなくても、それだけでも瞑想をするメリットがあると思います。
瞑想の最初はこうした不快な気持ちや感情および疑念の思いの繰り返しに直面しますので苦しい面もあるのですが、やがてはそれらが解消されてゆき、快活な快適な気持ちに変わってゆきます。
座っての瞑想それ自体が難しいのであれば、仕事に集中する、という手もあります。それもまた瞑想への準備になって、極度の集中というのは瞑想の一形態でもあります。職人が仕事に熱中したり、コンピュータエンジニアがプログラミングに集中することで瞑想状態に近くなって深い歓喜を感じたりします。アスリートが言う「ゾーン」という言葉に近いものがあります。
そのゾーン状態そのものは瞑想状態の一形態ではあるものの本来の瞑想はもっと穏やかなもので静寂および静かな深い歓喜に満ちたものになります。その状態で日々を過ごすことで気持ちも穏やかに生活することができるようになるわけです。
朝は朝日が美しいことをそのまま感じる。
花が綺麗に咲いている。
山の連なりに雲が幻想的にかかっている。
空がとても青い。
そんな単純なことが瞑想状態であるわけです。
それは、聞けば「当たり前」であるかのように思えて「当たり前ではない」状態で、ありのままにこの世を感じられているのが瞑想状態であって、聞いて当たり前だと思うことと実際にありのままの状態に生きることとは異なるわけです。
聞いて当たり前だと思うのは思考のお話であって、実際にありのままを感じるのは思考よりももっと深いところで感じることのお話です。感じられているかどうかのお話が瞑想かどうかというお話であって、思考でその通りとわかるかどうかのお話ではないわけです。もちろん思考は準備としては有用ですけど瞑想状態としては感じられているかどうかのお話になるわけです。
そうして、単純な当たり前のことをが当たり前に感じられるようになることが瞑想状態であるわけで、そうなれば不快な感情にあまり振り回されることなしに生きることができるようになります。それはもちろん程度問題ではありますけど瞑想をしていない頃と比べて他者に煩わされることが劇的に少なくなるわけです。
瞑想を始めるまでは他人から何か言われて不快に思うと何日もそのことが頭の中に残って次にあったときに仕返ししてやろうとか思う人はそこら中にいて、親戚や知人および同級生などとの面倒な付き合いが延々と繰り返されているのがこの世の中です。その面倒なループから抜け出す手段が瞑想であり、多くの人が瞑想をすることでそのループが断ち切られて人々が快適に暮らすことができるようになるわけです。
瞑想をすることで頭の回転が良くなったりスポーツのパフォーマンスが上がったりとかいう副次的な効果はありますけど、これらの何気ない普段の生活の変化の方がより重要に思います。
重い沈むような気持ちや不快な感情および繰り返し浮かび上がってくる憎悪や不快な気持ちなどが瞑想をすることによって徐々に解消されてゆき、やがては日常生活が快活で心地のよいものに変わってゆきます。
仕事の成果だとか頭の回転だとか超越意識だとか小難しいことを言わなくても、それだけでも瞑想をするメリットがあると思います。
瞑想の最初はこうした不快な気持ちや感情および疑念の思いの繰り返しに直面しますので苦しい面もあるのですが、やがてはそれらが解消されてゆき、快活な快適な気持ちに変わってゆきます。
座っての瞑想それ自体が難しいのであれば、仕事に集中する、という手もあります。それもまた瞑想への準備になって、極度の集中というのは瞑想の一形態でもあります。職人が仕事に熱中したり、コンピュータエンジニアがプログラミングに集中することで瞑想状態に近くなって深い歓喜を感じたりします。アスリートが言う「ゾーン」という言葉に近いものがあります。
そのゾーン状態そのものは瞑想状態の一形態ではあるものの本来の瞑想はもっと穏やかなもので静寂および静かな深い歓喜に満ちたものになります。その状態で日々を過ごすことで気持ちも穏やかに生活することができるようになるわけです。
朝は朝日が美しいことをそのまま感じる。
花が綺麗に咲いている。
山の連なりに雲が幻想的にかかっている。
空がとても青い。
そんな単純なことが瞑想状態であるわけです。
それは、聞けば「当たり前」であるかのように思えて「当たり前ではない」状態で、ありのままにこの世を感じられているのが瞑想状態であって、聞いて当たり前だと思うことと実際にありのままの状態に生きることとは異なるわけです。
聞いて当たり前だと思うのは思考のお話であって、実際にありのままを感じるのは思考よりももっと深いところで感じることのお話です。感じられているかどうかのお話が瞑想かどうかというお話であって、思考でその通りとわかるかどうかのお話ではないわけです。もちろん思考は準備としては有用ですけど瞑想状態としては感じられているかどうかのお話になるわけです。
そうして、単純な当たり前のことをが当たり前に感じられるようになることが瞑想状態であるわけで、そうなれば不快な感情にあまり振り回されることなしに生きることができるようになります。それはもちろん程度問題ではありますけど瞑想をしていない頃と比べて他者に煩わされることが劇的に少なくなるわけです。
瞑想を始めるまでは他人から何か言われて不快に思うと何日もそのことが頭の中に残って次にあったときに仕返ししてやろうとか思う人はそこら中にいて、親戚や知人および同級生などとの面倒な付き合いが延々と繰り返されているのがこの世の中です。その面倒なループから抜け出す手段が瞑想であり、多くの人が瞑想をすることでそのループが断ち切られて人々が快適に暮らすことができるようになるわけです。
瞑想をすることで頭の回転が良くなったりスポーツのパフォーマンスが上がったりとかいう副次的な効果はありますけど、これらの何気ない普段の生活の変化の方がより重要に思います。