静寂の境地のみを追い求める空病を克服する - 瞑想録 2021年3月

2021-03-03 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最近は、天のエネルギーを取り入れる瞑想はほとんどしなくなりました

前は地のエネルギーと天のエネルギーを両方取り入れるような瞑想をしていましたが、最近、特に創造・破壊・維持のアナハタのエネルギーが活性化して以降はそのような地のエネルギーと天のエネルギーを取り入れる瞑想はしなくなりました。

たまに昔のようにやってはみるのですが、あまりパッとしませんので不要かと思ってすぐにやめてしまいます。

それよりも、単純に眉間のアジナに意識およびオーラを集中させて次第に眉間の上のサハスララに意識を上げて静寂の意識であるサマーディ状態に持っていく、というような瞑想をしています。

もともとヨーガなどでは眉間に集中する瞑想が言われていて、特に細かい指示はなくて地のエネルギーとか天のエネルギーとかいう指示もないのですけど、もしかしたらヨーガでの瞑想はこのようなサマーディ状態のことを教えていたのかもしれないですね。

であるとすれば、その前段階から眉間に集中したところで時間がかかるのかもしれない、という気もします。

実際は、眉間に集中する瞑想というのは最近のような状態で行うサマーディのことで、それ以前であれば眉間に集中するよりは自分のオーラがブロックされている箇所に集中するのがいいのかな、とも思います。

私はさほど眉間にはこだわってはいなかったのですけれども、人によっては教えに忠実に従って眉間に集中し続ける人もいるかとは思います。それでも効果はあるにはあるのでしょうけど、個人的には、ブロック部分に意識を集める方が成長は早いかな、という気が致します。

例えば、お腹のマニプラからアナハタの間でブロックされていたらその部分に意識を当てるでしょうし、喉のあたりで詰まっていたらそこに意識を当てる、なんてこともあります。

詰まりがある時は、基本としてはぐるぐるとオーラを回して上げたり下げたり、という手法を取ってオーラを循環させてあげたりします。

しかしながら、最近は創造・破壊・維持のエネルギーがアナハタ中心に体全体に行き渡ってきたことにより、そのようにオーラをぐるぐると回して循環、みたいなことが不要になってきています。やったところで効果があまりない感じですね。効果はちょっとはありますけど。それよりもアナハタの創造・破壊・維持のエネルギーが強すぎて、アナハタのエネルギーが循環しさえすれば十分という感じになってきています。

ですから、少しは効果があるとはいえ、この状態ですとそれをやると逆にオーラが少し不安定になってしまう面もあるようですので、たまに数回して様子を見ることはあっても、度々するということはなくなりました。多少は効果があって部分的に効果はあるのですがその他の部分が不安定になったりするのでそこは様子を見つつ少しやってみることもある、という程度ですね。

例えば、天のエネルギーを頭の上でぐるぐると回転させてから頭を通して体に下ろすということをしてみると眉間やサハスララのあたりには多少の効果がでるのですがマニプラのあたりが少し不安定になりますね。不安定になるとは言っても不快ではなく眉間の周辺の効果はありますので少しはやってもいいかなとは思うのですがそれよりも普通に眉間に意識を集中して創造・破壊・維持のエネルギーをサハスララに上げる方がよほど効果的ですので、わざわざ天のエネルギーを取り入れる、ということはしなくなってきています。

これは、天のエネルギーを取り入れたり地のエネルギーを取り入れることを否定しているわけではなくて、過去のその時の状態においてはとても有効でしたし、そのことによって自分のオーラおよび精神状態を安定させるという絶大な効果がありました。

ただ、今となっては創造・破壊・維持のエネルギーがかなり優勢になっていますので、そのような必要性がほとんどなくなった、というお話です。



ムーラダーラのエネルギーを意識してエネルギーを上げる瞑想はしなくなりました

少し前は、アジナにエネルギーを上げるためにムーラダーラを意識するという瞑想をしていました。それによって、サハスララとムーラダーラの陰陽エネルギーを混ぜ合わせていたわけです。

しかしその後、ムーラダーラに意識を合わせてもエネルギーの変化が感じられなくなるようになって、更には最近は、ムーラダーラに意識を合わせると特に下半身のマニプラあたりが変な違和感を感じますのでムーラダーラを意識する瞑想はしなくなりました。

これは、特に誰かにそう言われたわけでもなく、その時々で最適と思われていることをしたわけです。

何かの流派に属しているとその流派のやり方をすることが多くて、この種の瞑想はやり方を守るというよりはその時々で最適な方法を自分で選ぶ、ということが重要のように思います。

違和感があったらそれは合っていないわけですし、流派のやり方だからと言って決まったやり方を続けていても不快感が起こるかもしれません。

多くの流派では「不快感が現れたらすぐに瞑想をやめる」という指示があったりしますけど、そういう指示がない流派もあります。「問題ないはずだ」という指導しかしないところもあります。しかしながら、瞑想はそのように固定されたやり方に従うのはあまり良くない結果を生むこともあって、そもそも瞑想のやり方は色々あって人それぞれに合ったやり方もあれば同じ人であっても成長の時期によって適切な瞑想は異なるものだと思っています。

ですから、流派のやり方に固執しなくてはならない状況はあまり良いとは思えなくて、例えば、天と地のエネルギーを通わせる瞑想であったとしても今の私にとっては不要ですけど少し前までは陰陽エネルギーを混ぜ合わせるといった瞑想をしていたり天のエネルギーを掴んで体に取り入れるということもしていたわけです。

ですけど、創造・破壊・維持の意識が出てきて以降はそのような天地の陰陽エネルギーを混ぜ合わせるということはしなくなって、単にアナハタを中心に体全体に広がる創造・破壊・維持の意識を感じてアジナやサハスララにまで上げる、というか、上げるというよりもそこまで充満させる、という瞑想に変わってきています。



雑念があってもなくても瞑想にはさほど影響はない

以前は雑念を止めるなりマントラを唱えるなりして意識を一定の方向に集めることは瞑想において有効でした。

今は、雑念があっても瞑想にさほど影響はなくなっていますので、なんとなく雑念があってもそのままほおっておいています。

この雑念の扱い方は流派によって違いがあって、雑念を消そうとする流派や打ち消そうとする流派あるいはマントラなどに意識を合わせる流派、はたまた、体などの感覚に意識を合わせる流派や、雑念はほおっておく、という流派もあったりします。

そして、時にそれらの流派ごとに意見が対立したりするわけですけれども、その対立も、単に初心者が相手のことを理解できずに自分たちの流派が最高だと思いこんでいる場合もあれば、その一方で、対立のように傍目からは見えたからとしてもお互いに相手のやり方を理解したかっただけだった、なんてこともあります。

そのような意見が様々に異なる雑念に対する対処方法ですけど、個人的には、ステップを踏んで対処していくのがいいと思っています。

1.雑念が悪い影響を与える段階。対処としては、強制的に止める。強烈な力を込めて雑念を止めるか、何か、仕事なり工作なり何かの行動に集中する。仕事に熱心になるのも有効。
2.何か1点に集中できるようになった状態。雑念が出てきて囚われることがあったとしてもその1点に突破することで集中ができる状態。雑念の悪い影響が減ってきた段階。
3.雑念の影響が減ってきた状態。1点への集中から次第に広範囲への意識の広がり、観察に移行する時期。仕事においても1点集中から視野が広がる。雑念の悪い影響はまだあるが最初より減ってきた段階。
4.観察状態がそれなりに安定するが、雑念はあるよりない方が良い状態。雑念に左右されないというところまでは行かないが雑念の影響がかなり減ってきた段階。
5.観察状態が定着して、雑念が瞑想にほとんど影響を与えなくなる段階。雑念をありのままに受け入れられる状態。雑念とはエネルギーの現れであり、何もないところから出てきて何もないところに返ってゆくだけのものであることを理解し、雑念が出てきてもほっておけば消えてゆき、雑念に対する諸行無常の感覚および雑念には果てがなく延々と繰り返されるさまを、その雑念の外側から観察状態にてありのままに受け入れつつ雑念に巻き込まれず意識は別に存在していて雑念を見ている状態。

ですから、最初から雑念の扱いを決めてしまうのではなく、自分自身の段階に沿った対処方法をするのが大切だと思っています。

これは流派に入っているとその流派のやり方に従うことになったりもしますしできないこともあるかもしれませんけど、瞑想のやり方は固定されたものではなく人に合わせて行うのが必要だと私は思っています。これはその人の考え方次第ですから流派のやり方が良いと思えば好きにすればいいとは思います。それもまた自身の選択であるわけですし。

流派で「雑念はほおっておけば消えてゆく」なんて教えられたとしても実際に瞑想をしてみれば最初からそのようになることはなくて、逆に、雑念をほおっておくとそれに囚われて更にその雑念を強化してしまってどんどんと膨らんでゆくのが特に最初でありますから、最初から「観察」なんてことは考えずに、特に最初は「集中」から始めるのがいいと思っています。

それも、べつに座った瞑想に特に最初はこだわる必要はなくて、集中できるような仕事をすることも有効であると思うわけです。昔なら職人とか、今ならコンピュータのプログラミングとか、芸術とか、作品を作る仕事とか、いろいろありますよね。そのようなところでも瞑想の感覚は磨けるとおもうわけです。



スピリチュアル能力を使っても他人のことを100%は理解できない

相手のことなんて根本のところまでは理解なんてできませんから、相手のことは究極的なところまではわからない、という態度が基本にあるべきだと思います。

スピリチュアル的な感覚が発達するとある程度は相手のことが見抜けるようにもなりますけど、その場合でも、根本の究極の根本というのはほとんど見抜くことができませんので、ある程度というのが80%や90%になったとしても最後の10%やそこらがとても重要なわけで、90%わかったとしてもそれは表層の部分でしかなくて、残りの10%は実はもう1階層深いところにある集団意識というか集団無意識と言いますかグループソウルあるいはハイヤーセルフみたいな意識と繋がっていたりしますので、90%や95%が見抜けたとしても残りの部分はわからないのですよね。

スピリチュアルで他人を理解するというのはそういうことで、この人間界の地上的な肉体的なあるいは感情的な理屈的な部分はスピリチュアルな感覚を発達させて90%や95%は理解できたとして、それを相手に伝えたとしてそれがその通りだと確認できたとしても、残りの10%や5%のところがとても大切で、それが実は全ての根本だったりするわけですから、90%や95%がわかったところで、相手を理解したことにはならないのですよね。

この、100%には絶対に達しない、少なくともこの地上に生きている人間の魂が別の魂の根本を100%まで理解することは絶対にないということを理解するのはとても重要で、その理解がないがゆえに、スピリチュアルで発達したとしても相手をかなりのところまで理解しただけでそれが相手の全てだと思ってしまう間違いをしてしまうわけです。

まあ、そこまで行かなくても、表層だけを見て面接で相手を解釈してしまう、なんてこともよくあるわけで。

どちらにせよ、程度は違えども、相手のことがわかったとしても表層だけだと思っておいた方がいいと思います。

これは、幽体離脱をして他人の人生の節目節目を辿って観察できるようになっても同じことで、そうして実際に過去を遡って他人の人生のポイントを理解したところで、実際に時間を使って人生を経験してきているのはその本人なわけですから、じっくり見て感情を把握することはできますけど、それは共感というレベルにしか達しなくて、それで理解が深まって80%や90%理解することはあったとしても、根本の100%まで理解したということではないのですよね。

本当に100%理解するためには実際に同じ人になって魂までも同一化しなくてはならなくて、人間の魂という状態ではそれはありえないと思ったほうがよくて、もっと数段階スピリチュアルなレベルが上昇すれば理解できるようになるのかもしれないですけど、地上に肉体を持って生まれてきている人にはあまり関係のないお話だと思いますし、そのような意識は集合意識に近いものになっていますので個人の悩みや理解などは興味がなくなっていると思います。

この世に生きていて個という意識がある以上は相手を100%理解することはなくて、90%理解した気がしていても表層だけだ、と思っていた方がいいと思います。

こういうと分離の意識を感じて悲しくなってしまう人もいらっしゃるかもしれませんけどそれは逆で、自分の根本と繋がっているからこそ相手が理解できるわけで。自分の根本と繋がることでそれが相手と共通だということがわかって理解に達するわけです。そして、その、いわゆるワンネス的な意識を使った理解が80%や90%に達するということがスピリチュアル的な成長の過程で現れてくるわけですけれども、そうだとしても、そのワンネス的な相手の理解というのは100%にはならないですよ、というお話です。



霊視はアジナで行う

今生において私はまだ霊視はできなくて霊感しかないですけど、よく言われているように霊視はアジナで行うわけです。

ですけど、私のグループソウルの記憶やパラレルワールドを見てみても、明確に霊視するというよりは必要な時にだけ見る、ということの方が多かったように思います。

何でも構わず見えてしまう時もあるにはあったのですが、記憶を辿ると、それは能力を制御できない時あるいは自身の波動が良くない時にだけそうなっていたように思います。

一方で、かなり昔の記憶を辿ると何でも見えつつ影響されない、という状態もあったように思いますので、目指すべき方向としてはそこだと思われます。

よく言われているお話として、霊的成長の格(レベル)と霊視などの能力は関係ない、みたいなお話がありますけど、まあ、そういう面もありますし、そうでない面もあります。

本当に未熟な魂ですとそもそも霊視などが使えないですので、全く成長していない魂が霊視するなんてことはあり得ないです。

ある程度の成長ができて、一応は霊視などができる骨格のようなものができた後はある程度はそのような、格と能力は関係ない、みたいなお話も出てきはしますけど、どちらかというと、それは一旦は能力を持つまでに成長してしまったけれども意識が落ちてしまって格(レベル)が以前より落ちてしまった、みたいなお話が多いように思います。

人によっては能力は霊的技術あるいは霊的な道具で身につけるものだ、みたいなことを言っている人もいらっしゃいますけど、確かにそのような面もあるにはあって、霊的な道具、例えば霊視をするための道具であるとか、未来を先読みする道具、というか、道具と言いつつそれ専用の霊的な動物みたいなものだったりもしますけど、道具と言っていいものだったり、もっと動物あるいは人間が生み出したそれ専用の意識体のようなものを道具のように使う、ということもあります。

ですから、道具や技術という面もあるにはあるのですけどそれだけではなくて、霊視であれば例えばサードアイの奥の後頭部あたりにアストラル(霊的)なクリスタルが出来上がらないと霊視はできないので確かに道具あるいは技術という面もあるのですが、それも含めて霊的な格(レベル)だと私なんかは思うのですけどね。

一時的にそのクリスタルを外して霊視なしでこの地上世界を勉強するということも行われたりしていて、私とかはそのタイプに含まれるわけですけど、そういう場合は一旦は霊視ができていたけれども一時的に能力を外した状態で転生してきているわけです。

ですから、自分の魂が転生を連ねるうちに身に着けた能力というのもあって、そのような能力は基本はアジナを使うわけですよね。

もう少し言ってしまえば、人間の基本的な成長、霊的な成長は下方チャクラの調整から始まって上方チャクラの調整を行い、その時点ではまだ世間で言われているチャクラが開くとかそういう段階ではなくて、一旦下から上に上がって全体のオーラを調整した上でようやくアナハタ、ヴィシュッダ、アジナと開いていくわけです。

感覚的にはアジナというより少し後ろ側ですけどね。眉間より後ろ、後頭部のあたりを使うと思います。

私の場合、下方チャクラの調整、上方チャクラの調整、アナハタの活性化、までは終わったので、次はヴィシュッダかなとも思いますけど私の場合もともとヴィシュッダは開いていた方かなとも思いますし次はヴィシュッダなのかアジナなのかそこはよくわからず、様子見な状態です。

書物によってはアナハタの活性化からヴィシュッダに至るには長い時間を要して時にいくつもの人生が必要になるとも書かれてありますので、あまり気にせず長い目で見てはいます。一方で、その本には、ヴィシュッダに至ればその後は数年おきなど早い段階で遷移すると書かれてありますので、そこは期待が持てます。



プラーナとクンダリーニとアートマンのエネルギー

有名なクンダリーニのエネルギーだけでなく、複数のエネルギーによる変化が今まであったように思います。

まず、ヨーガで言われているところのプラーナとしてのエネルギー。これは呼吸で取り入れることのできるエネルギーで、空間に満ちています。

次に、クンダリーニ。これは尾てい骨の下に眠っているエネルギーで、覚醒するとエネルギーがまずは体全体に充満し、次に落ち着いて来くると下腹部のマニプラがオーラ優勢になり、次にアナハタ優勢、そしてアジナ優勢というように変わっていったように思います。

その次に来るのが、いわゆるアートマン。これはヨーガでは魂に相当するものあるいは根源エネルギー体として個を表現するエネルギーとして説明されていますが、一方で、ヴェーダンタではアートマンは魂というよりも永遠に存在して不可知な存在として描かれていますのでエネルギー的な側面はないのですが、日本のヨーガではアートマンを魂に相当するものとして理解されているように思いますのでひとまずアートマンとしました。個人的には創造・破壊・維持の意識として体験しました。

これら3種類のエネルギーがあるように思います。それぞれ別物で、プラーナは人間の肉体活動を支える根本エネルギーであって、物質ではなく微細なものですけど割と体に近いもので、クンダリーニも微細なものですけどプラーナよりも粗大な体から離れて更に微細で精神的なスピリチュアルなエネルギーです。

そして、アートマンはもっと微細で、根本エネルギーに近いものがあります。

アートマンはヴェーダンタで不可知だとか永遠だとか変化することがない、みたいな事が言われていたりしますけど、私の感覚では確かに永遠っぽいですし不可知っぽくて変化することがなさそうに見えたりもしますけど、不可知というほど不可知でもないですし、永遠というほど永遠でもない気もしますし、変化することがない、というほど変化がないわけでもない気もします。確かにそれらが根本的な素質として備わってはいるように思えますけど、アートマンという段階では完全にそうだとは言えない気が致します。

ヴェーダンタではアートマンが個でブラフマンが全体として説明されていて、ブラフマンまで行くとそのような性質が完全に備わるのかもしれません。

ヨーガではプラーナヤーマとかでプラーナのエネルギーを取り入れる、というようなことを行いますが、最初にヨーガを初めた時にプラーナヤーマをした時は単純にプラーナを取り入れる、という感じでしたけど、クンダリーニ覚醒後のプラーナヤーマはプラーナを取り入れつつクンダリーニのエネルギーを高めて体の上方に通す、という感じになってきましたし、アートマンのエネルギー(創造・破壊・維持の意識)が出てきてからはプラーナを取り入れつつクンダリーニも高めつつアートマンのエネルギーを体に充満させる、というような複合的な感じのプラーナヤーマに変わってきました。体の動作としては同じだとしても、内的にこのような変化があります。

エネルギーの質も異なっていて、最初プラーナのエネルギーを取り入れた時は単純に元気になってそれはそれで心地の良いものでしたが、クンダリーニ覚醒後はエネルギーに満ち溢れて元気になって、更にアートマンが現れてきた後は更にエネルギーが高まりました。それは走り幅跳びの助走みたいなもので最初はプラーナと共に走り始めてからクンダリーニでステップをし、最後のアートマンで大きくジャンプするような感じです。

ヨーガではクンダリーニで最後の覚醒みたいなことが言われていたりしますけど、アートマンという段階がありますし、おそらく次にはブラフマン、という段階もあるのかな、と思います。



胸の中に五芒星あるいはマカバの輝きを見る瞑想をする

特に何も意図せずして座って眉間に集中する瞑想をしていると意識がクリアになり、頭に丸い帽子を被っているような感覚の瞑想になります。

順番としては、まず、オーラが頭にまで充満すると、頭にネットを被せたような、丸い帽子、あるいは頭にフィットしたニットの帽子を被っているような感覚になります。その状態になると意識がクリアになって静寂の意識になります。

頭の先の方にまでオーラが充満していないと意識がどこか淀んでいるのですが、瞑想をして頭の先にまでオーラが充満するのとほぼ同時に意識もクリアになります。

オーラの行き届きと意識とは密接に関連していると思います。

最近はコロナ渦のせいか何なのか天のエネルギーにしても地のエネルギーにしてもどこか淀み気味で、天と繋がっても変なギザギザとした感覚が刺さってきますし、地にしてもそれはそれで赤茶色の子供の砂漠のようなオーラですので、どちらも微妙になってきている今日この頃ではあるのですが、ハートの奥底にある私自身の本質であるアートマンの創造・破壊・維持の意識と繋がっていさえすれば自分自身は静寂の境地でいられます。

これは、この状態に達するのがもう少し遅れていたら危なかったかもしれなくて、それ以前は天のエネルギーと地のエネルギーに頼っておりましたので、今のようにコロナ渦でどちらも淀んでいるような状況ですとこの都会にいては意識の変革は難しい状況に陥っていたかもしれません。

あるいは、それは逆で、もしかしたらそのようなコロナ渦で天にも地にも頼れない状況に追い込まれたからこそアートマンの意識に目覚めることができたのかもしれなくて、そこはどちらがどちらともいいにくい状況で、混在した状況にて意識が後押しされて変わってきたのかもしれません。

そのような状況で頭にまでオーラが充満した静寂の瞑想をしていると、ハートの中にダイヤモンドのような、あるいは、正八面体のキューブのような、あるいはもっと複雑なマカバのようなものが見えてきます。(平面にすると五芒星に見えるかもしれませんが実際には立体ですので五芒星のような平面ではありません。)

そして、そこから光が放たれているのがわかります。

更には、アジナのあたりにオーラの渦が現れてきて、最初は2つがお互いにぐるぐると周り、次に3つになり、やがて単なる円になって回転しているのが見えます。それは光というよりも、漆黒の黒が回転しているという感じです。

ハートから光が出て、アジナでそれが漆黒になり・・・ という気も致しますが、このあたりは今後、更に見ていきたいと思います。

ちなみに、これは自然にそのようなものが見えてきたということであって、想像したわけではありません。ですけど、奥深いイメージが浮かび上がってきたという可能性もなくはないですけど、あえてそのようなイメージをする瞑想は今までしてこなかったので想像したイメージが沈んでいたとは考えにくいです。イメージを想像するような瞑想もありますけど、今回は想像はしていなくて自然に上がってきたということです。



心を一点に集中させるのは間違っているという教え

流派によっては心を一点に集中させるのは間違っている、と教えています。

これはこれでよく理解できて、理屈としては正しくて、サマーディに近づいたレベルであればそれは正しくて、あるいは、素質がそれなりにあったり、現代社会のように雑多な社会でなければきっとそれは可能なのだと思います。

心がさまよい出ていかないように、すべての思考を遠ざけ、寂静の境地や楽にとどまろうと、心を一点に集中するのも間違いだということをはっき知っておく必要がある。この「集中」そのものも、またもうひとつ別の思考にほかならないからだ。心をリラックスさせ、ただ、気がそれたり忘れてしまったりせずに、自分の真の境地そのものを目覚めさせたままにたもち、いかなり思考にも支配されないようにするのだ。本当にリラックスしているとき、心はあるがままの自然な状態にある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

これはこれで一貫性があって、本質で言えばこれは正しいと思います。

しかし、本質では正しくあっても、特に最初はこれは実行が困難だと私は思っていますし、著者も同様のことを認めています。

修行を始めたばかりの時には、長い時間、こうやって気が散らないようにしながら、思考をあるがままに認めてやるのは困難だ。(中略)みずからの心の状態にとどまり、寂静な境地や思考の波の動きがあらわれてくるまま、一瞬一瞬を味わいつづける。それ以外に修習はない。あるがままの自己を知り抜き、自分自身の真のリクパの境地にとどまりつづけるのだ。それ以外に、何か非常にすばらしい経験や輝きを追い求める必要はない。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

これはこれで正しくて、こうしてグル(あるいはラマ)に言われたらそのまま納得するしかないですけど、実際にはそれは割と高いレベルで物事を語っているように私には思えるのです。

リクパの境地はいわゆるサマーディを短期間でも行えるというレベルですから、リクパの境地に留まるのが困難な人であれば確かにこの理屈で合っていますけど、リクパが出てきていない人であればこれは困難なわけです。こういうことを言うと、リクパの境地は誰にでも備わっているから誰でも可能、という声が聞こえてきた気がしますけど、たしかにそれはそうですけど一般人のリクパの境地はとても弱くて、一瞬しか続かないわけです。

きっと近くにグルがいて一緒に生活するような環境ではそれが可能なのかもしれません。よく、精神修行にはグル(精神的な教師)が必要と言われていますけど、グルがいる環境であればそれはそれで正しいように思います。

特に初心者は、この覚醒した意識を常に保ち続けるのはとてつもなく困難です。簡単に挫折してしまうほど困難なわけです。グルが近くにいない環境であれば特にそうです。

一方で、グルがいたとしてもいなかったとしても、これらの説明を誤解して解釈してしまう可能性もあります。観察と言われると、これらで言っているリクパの境地とは五感を超えているのに対し、説明だけを読むと五感、特に皮膚の感覚を観察することがリクパの境地であるかのように勘違いをしてしまう可能性もそれなりにあります。

皮膚の観察をすることや、特に鼻のあたりの呼吸を観察すること、あるいは、眉間に集中することなどは五感の観察あるいは心の観察、心の集中という観点からすると大差なくてどれも全て五感を用いた心の集中であるのですが、皮膚の観察をしているとリクパの境地でサマーディ状態かのような勘違いをしてしまうわけですよね。特にグルがいない環境ではそうです。

ですから、私としては、上記の説明はとても正しいのですが、言葉の説明を聞くだけではとても勘違いしてしまうので、特に注意が必要なお話かな、とも思います。

それよりも、誤解も少なくて実行も可能である「集中瞑想」の方がその前段階の入口として瞑想手法として優れていると思っています。

ここで、一見すると矛盾したことを言っているように見えるかもしれませんけど、ある意味、この集中瞑想というのは確かに最終的なサマーディの状態においては集中というのは不要ですので、上記の説明のように「集中瞑想というのは間違っている」とも言えるのですが、そうは言いましても上に書きましたようにこのお話はとても誤解が生じやすいことですし、ましてや、いきなりリクパを使ったサマーディの練習なんて普通の人には実行がとてつもなく困難なわけです。

それであれば、集中瞑想から始めて「静寂の境地」くらいまで達してその後やがてリクパが出てきたところで上のようにサマーディに遷移すれば困難も少ないわけで、ただ、最初に注意事項として集中瞑想がゴールではないということだけ理解しておけば十分かな、と思うわけです。

上記のように色々と説明を聞いてしまうとまるで集中瞑想が悪者かのように解釈してしまうかもしれませんけど、実際のところ多くの流派で集中瞑想は初段階の瞑想として広く用いられていますし、観察瞑想と言っているところですらその内容を見ると特に最初は単なる集中瞑想が実態だったりします。その説明として矛盾しないように集中瞑想を否定していたりしますけど、実態を見れば集中瞑想でしかなくて、理屈を合わせるために集中瞑想を否定して観察瞑想と言っているだけだったりします。

これは弟子たちの理解不足にも問題があるのかもしれませんけど、最初は集中瞑想で全く問題ないわけです。そもそもサマーディというレベルに達していないのにサマーディに入っていく説明で集中瞑想を否定しているだけなのに、最初から集中瞑想が不要かのように弟子たちが理解してしまう、あるいは、瞑想の先生と言われる立場であっても割とこのあたりを理解していないことも多々あるように思えるのですよね。

瞑想とは心の中で行うものですから、このあたりを理解せずとも一応コースを受ければ瞑想の先生にもなれてしまいますけど、実際にサマーディに達したらこのあたりのことはすっきり理解できるのですけど、そこに達しなければ集中瞑想を否定しまうような誤解が生じてしまうのだと思います。

そうは言いましても、今の私の感覚からすれば集中瞑想はどうでもよくて、リクパのサマーディを日常生活で保つことにだけ最近は興味がありますから、最初に引用した説明の方がしっくりきているのは事実です。

ただ、過去の記憶を辿ってみると集中瞑想も有用だった時期もありますので、その時の記憶を元にお話をしていますが、たしかに、例えば生まれながらにそれなりの境地で生まれたら最初に引用したように集中瞑想を全否定してしまうのも致し方ないのかな・・・ とも思います。人によっては、特に偉大なグルはそのような場合も多いですしね。

ですけど、凡人はいきなりそのレベルにありませんので、集中瞑想から始めるべきだと思うわけです。

私は割と好き勝手にやっているのでこういうこと言えますけど、流派に属していると集中瞑想が絶対だったり、観察瞑想が絶対だったりして、堅苦しい面もあると思います。そこはまあ、個人的に思うのは流派のやり方は適当に聞き流しておいて自分の理解を元にやるのがいいと思いますけど、そこは人それぞれかと思いますのでそれもまた好きにすればいいと思います。

実際、上記の引用元であるゾクチェンでは、サマーディに入るための修行というものも存在していて、必ずしも上記の通り弟子に過酷な現実を叩きつけるだけではないように思えます。そこはきっと流派やグル(ラマ)の考え方、やり方に依存していて、上記のように考えるグルもいるということだと思います。

ですから、上を読んですぐに「そうか。集中瞑想は間違っているのか」と早とちりしないことが肝心だと思います。

繰り返しになりますけど、今となっては集中瞑想はちょっと気持ち悪くて不快感すら感じるくらいになっており、もともと停止していない心というものを無理やり止めたり一点集中して雑念が湧きにくい状況にするのは今は違和感しかないのですが、それでも、雑念が多くて雑念に振り回されている時は集中瞑想で心を一時的に止める瞑想も有効だったと思います。それの極地が「無」の瞑想なわけですけれども、そこで留まることをせずに一時的な休息であるのならば十分に効果を発揮できたわけです。



ヴィパッサナー瞑想の実況中継は、それが出来るなら既に覚醒している

ヴィパッサナー瞑想の本を読みますと、皮膚の感覚や心の思いを実況中継しましょう、とか言っていますけど、実況中継できるなら既に覚醒しているわけです。

ですから、そんな無茶なこと言ってもなぁ・・・ というのが個人的な感想です。語弊があるといけないのでどことは言いませんけど。

実況中継というのは五感あるいは心の動きに対して明確に心が反応するということですから、五感あるいは心の動きというインプットに対して行動をする(アウトプットをする)ということですので、それはサマーディあるいは本来のヴィパッサナー瞑想の本意であるところの「観察」とは異なるわけです。

サマーディとしての観察であれば文字通り観察するだけで、そこに「反応」としての作用があろうがなかろうがその全てを観察するわけで、心の動きに対して実況中継すること自体は単なる集中の訓練にすぎないわけです。

しかも、そのような皮膚の動きやら心の動きなどはとてつもなく早くて数秒ごとにあるいはもっと早く次々に現れては消えてゆきますから、それを実況中継しようとするならば相当に覚醒していなければ到底間に合わないわけです。

最初の皮膚の感覚が現れた瞬間に言語化して実況中継をしている間に次の感覚がすぐに現れてきて、更には、雑念が素早く出てきた瞬間にまた実況中継をして・・・ なんてのができるのであれば既に覚醒しています。

なかなかに無茶なことを教えているなぁ・・・ というのが個人的な感想です。そんなこと言われても、不可能だと思いますけど。

沢山ある五感の入力あるいは沢山ある雑念のうち1つだけピックアップしてそれだけを実況中継して、実況中継が終わったら次の五感の入力あるいは雑念のうちの1つに気づいて実況中継、というのならばわからなくもありません。そういうことなのかもしれませんね。あるいは、単に、挑戦してみましょう、ということなのかもしれません。

ただ、実況中継しようとすると心の動きを「止める」意図が生じてしまいますので、ありのままを眺めるということになかなかなりません。

教えとしては「思考を止める必要はない」と教わりますが、実際のところ、思考を止めずに実況中継できるのならば相当に既に覚醒しています。

それなりに覚醒せずにそんなことできるのならそもそも苦労はないわけで。なかなかの無茶振りだなぁ、と思うのです。

できもしない教えをしたところで混乱しますし、そもそも、心というものは現れては消えてゆくものですので、実況中継とは相容れないと思いますが。

サマーディとしての五感の感覚および心の観察というのは、心というものが空(何も現れていない状態)から色(現れた状態)が生じて再度それが空に返ってゆくものですので、空もサマーディの観察対象ですし、色としての五感あるいは雑念や思考などもまた同様に観察対象であるわけです。色だけをピックアップして、更には、同様に色であるところの思考で実況中継をしたところでそれは集中を育てているだけにすぎず、サマーディとしての、空と色とをありのままに両方とも観察するというところにはなかなかたどり着かないのだろうとは思います。

あの手法で悟ることができる人がどれだけいるのですかね・・・。なかなかにきつい、千尋の谷に突き落とすような瞑想方法に私には見えますけどね・・・。 もともとそれなりに覚醒している人にはいいのかもしれませんけど、やったところで、五感や心を観察するうちに疲れて終わりになるだけのことが多いようにも思いますが、どうなのでしょうかね。

単に、実況中継とか決まった動作を繰り返すとかで雑念を繰り返させない、という効果を期待しているのであればそれはそれでありだとは思いますけど。ただ、それはサマーディとかとは全く違うレベルだとは思いますが。



静寂の境地を求める意識から清濁併せ呑むようになる

そのようになって初めて集中瞑想は不要と言えるようになるのだと思います。

そこに達するまでは集中が必要で、一旦清濁併せ呑むようになっても意識が濁ってしまってリクパの状態から離れてしまったのならば再度集中瞑想をして静寂の境地に達してからリクパのある清濁併せ呑む状態に段階的に遷移する必要があると思います。

静寂の境地そのものは心の本来の姿である空の意識を体現しており、そこに形としての現れである思考・考えや雑念などというものが浮かび上がってきます。空という土台にて思考などの「ゆらぎ」がなるべくない状態に保たれているのが静寂の境地で、最初はそれこそが覚醒かのように見えてしまうのですが、実際は、雑念などは空が土台となって形となって現れてはまた形を失って静寂へと消えてゆくという一連の流れそのものを理解して観察してただ受け流す、ありのままに受け入れることこそがサマーディでありヴィパッサナーでありリクパが現れた状態なのだと思います。

ですから、静寂の境地はそれ自体は空としての土台になりますから否定されるべきものではなく、それも含めてサマーディなわけです。静寂の境地の平らな状態から形の現れた雑多な状態、どちらも合わせて観察してありのままに受け入れるのがサマーディでありヴィパッサナー(観察)なわけです。

よって、サマーディの説明において時々、静寂の境地を否定するかのような説明があったりするわけです。その説明を読んで静寂の境地は不要だと解釈してしまって、時には瞑想の先生のような人であってもそのように解釈して教えている人もいらっしゃいますし、割と有名なところでもそのように教えていたりもしますがそれは誤解で、実際には静寂の境地は心の状態の1つですからそれすらもありのままに受け入れる必要があるわけです。

実際には、まだ瞑想が進んでいない状態では静寂の境地というものは現れても数ヶ月とか数年に1回くらいしか出てこなくて、基本的には淀んだ厚い雲のような雑念の中に人は暮らしています。

ですから、本来は心の状態の1つである静寂の境地を取り戻す練習というのが絶対的に必要になるわけで、それ故に集中瞑想が必要になるわけですけれども、サマーディのこうした説明を読んでしまうと、静寂の境地を求める集中瞑想などの一連の修行が不要かのように勘違いしてしまうことがあるわけですよね。

実際は、静寂の境地はサマーディの土台になりますので絶対的に必要なわけですし、それがなければ常に雑念だけを観察することになって、空としての心の状態が見えない状態がずっと続きますから、それでは心の土台である空から形である意識としての思考や雑念が連続して次々に現れてくるさまを観察することはなかなかできないわけです。

言葉の説明としては割と同じで、静寂の境地があったとしてもなかったとしても心の土台である空から思考や雑念が現れ続ける、というところは一緒ですけれども、静寂の境地がないということは空としての平らな意識の状態がないということですので、常に形として現れている思考やら雑念やらしか見えていないことになります。それでは心がどのようになっているのか知ることはできず、そのような状態ではいくら説明の上で静寂の境地は不要とかサマーディとか語ったり理解したとしてもあまり役には立たないわけです。

これは、時に流派において「理解が大切」とか言われていることでもありますけど、実際には、理解するだけでは不十分で、実際に経験してみることが必要なわけです。流派によっては経験は不要で理解すればいい、みたいなことも言われていますけど、それは言葉だけのお話で、実際にその状態になって知ることができればそれは自分の状態が変わったということですから、それを経験と言うのか状態が変わったというのか理解したというのか、言葉の表現の違いだけのお話で、どちらにせよ、自分自身が変わらなければ理解できないお話なわけです。

そのように、最初は静寂の境地が大切になるわけですけれども、そのうち、意識が一歩下がって静寂の境地そのものを観察できるようになって、更には形の現れである思考や雑念すらも一歩下がって観察できるようになりますので、静寂の境地が清濁のうちの清の方だとしたら形の現れである思考や雑念は濁の方になって、最初は静寂の境地の清だけが大切と思っていたものが、形の現れである濁の方も同じように心として本質の違いなく受け入れることができるようになるわけです。その時、清濁併せ呑むようになる、と言えるわけです。

ここで言っている清濁併せ呑むとは善と悪の意味ではなく瞑想における静寂の意識としての空と色・形としての意識の現れのそれぞれについて比喩的に言っているわけです。



ヴィパッサナー瞑想が心を引き裂く可能性

しっかりとした指導を受ければそうではないのだろうとは思いますが、本を読んだり少し教わっただけですとヴィパッサナー瞑想が心を引き裂いて不安定にする可能性があると思います。

ですから先生から定期的な指導を受けることが必要というお話にはなるのですが、そうは言いましても、先生がいなかったり、あるいは、最近では本もよく出回っていますので瞑想でこうした不幸な結果になることもあるように思います。

瞑想の流派によっては危険はないと言っているところもありますが瞑想は色々な流派がありますし、勘違いもあったりするわけです。

とある流派のヴィパッサナー瞑想において、体の観察ですとか体の感覚の実況中継ということを行いますが、単に集中するのではなく観察という言葉で説明されてしまうと、心がどこに行って良いのかわからなくなって心が引き裂かれてしまう可能性があります。

これはどういうことかと言うと、特に「集中瞑想を否定」している流派にありがちなことで、「集中ではない。観察だ」と教えているだけならまだしも、集中が良くない、とか、集中瞑想に対して嫌悪感のある流派が意外にもそれなりにあったりするわけです。

そのようなところで「集中」を否定されてしまうと、体の観察ですとか体の感覚の実況中継をしようとしたときにその観察の対象へと心を向けることに対して無意識的にブレーキをかけてしまい、心が対象へと向かう力が働くと同時に心が対象へと向かわないようにする力とが同時に発生し、心に対する相反する力がぶつかって打ち消し合うかのようにしながらかろうじて心が対象に向かう、という不健康な心の状態になってしまいます。

こういうことを言うと「そんなことはない!」と否定する声も聞こえてきそうですけど、実際、私がとある流派のセンターに行ってヴィパッサナー瞑想を教えてもらったり、あるいは他のところで話を聞いたりした時に、何かそこのヴィパッサナー瞑想をしている人たちの心が「分断気味」だったことに違和感をずっと感じていました。

これは主観ですのでこの言葉が正しいのかどうかは微妙ですけど、心というものは対象に向かってまっすぐ向かう性質があるもので、それが普通なわけで、例えば武道がわかりやすいけれども目的に対して正しい方向に体だけでなく心も向けることで型というものが正しく体現できるわけです。

ですが、このようなヴィパッサナー瞑想ですと心が対象に向かう時に同時にブレーキもかけてしまい、心が何かに対して集中して正しい型を行うことができなくなってしまいます。そのような状態を「心が分断している」とここでは表現しているわけですけれども、それは特に、集中瞑想を否定しがちな流派にこの傾向があるように思います。

それほど集中瞑想を否定していなくても、集中瞑想は「ある程度は必要」みたいに中途半端な態度を取っているところも似たようなもので、心というものが対象に向かって真っ直ぐ進むことが正しく理解できていないから「ある程度」なんて曖昧な理解になってしまっているのですよね。

実際のところ、サマーディの状態においては心がどのような状態であるのかは関係なくて、サマーディとしての観察状態は心の本性であるいわゆるリクパが現れてきている状態で、その時、心が集中していようがいまいが関係ないわけです。

ですから、心が集中しているかどうかは全く関係なくて、集中している状態と集中していない状態、そのどちらも観察しているのが心の本性であるいわゆるリクパが働いている状態でありますから、流派としてのヴィパッサナー瞑想のやり方として「観察」とか言っているお話とサマーディ状態としてのリクパによる観察とは全く異なる状態なわけです。

心は対象に向かって対象を観察するという機能しかありませんから、対象に向かうことが集中で、対象に達すればそれは観察されるわけです。その両者が必要なのであって、対象に向かう時は素早く向かうべきだし、観察もまたしっかりと観察すべきであるのです。その観察の方だけをピックアップして集中して素早く的確に目的に向かうというところを否定したり軽視したりする必要は全くなくて、むしろどちらもかなり重要で、特に仕事のできる人であれば目的に対して素早く行動して対象をしっかりと見極めて観察し、それ故に物事もありのままを見れて適切に判断できるわけです。

なんでそんなことになったのかはよくわかりませんけどヴィパッサナー瞑想の流派によっては集中の部分を軽視しがちで、集中を嫌悪しているところもあって、そうなりますと、目的に対して素早く集中するというところが否定されてしまいますから、目的に対して心を向けようとした時に同時にブレーキを無意識的あるいは意識的にかけてしまい、心が引き裂かれてしまうわけです。

上にも書きましたように、実際の瞑想における観察状態というのはそれらの心の動きのお話ではなくて心の奥にある心の本性であるリクパによる観察のお話ですから、心というものは目的に対して真っ直ぐ向かうという性質があってそれ以上のものではなく、ここで混乱があるかもしれないですけどどちらも一応は心という言葉を使ってはいますが意思としてマインドとしての心と、それらを観察している心としてのいわゆるリクパが階層のように別々にあるということです。

行動して対象を観察するというマインドとしての心にも集中という面と観察という面もあります。ですから、一般的な心としてのマインドとしての心に対する集中と観察を否定しているわけでもないのは注意が必要です。一般的な心の観察を否定しているわけではなくて、何か五感としての入力あるいは心の動き、思考などが湧き上がったときにそれに対して心を向ける動きとしての集中およびその内容をはっきりと確かめるということの観察はそれぞれ存在しています。

それとは別に・・・、その奥に、心の本性としてのリクパがあって、それらの心の動きの全体を観察しているところがあるわけです。

実際のところ、最初はリクパは深い雲に覆われていて隠されていてなかなか出てこなくて、リクパが現れてくるための修行というものがあるわけです。

ですけど、リクパが出てきていない状態であるのにも関わらずサマーディの真似事をしてしまったりもするわけで、そのような時、集中を否定してしまうような誤解が生じるのだと思います。

本当のサマーディの状態は心の動きの全てを観察していますので集中を否定しませんし観察も否定しません。それは階層(レイヤー)が違う動きなわけです。

サマーディ以前であれば、むしろ、瞑想というよりも自分の仕事をしっかりと集中して行う方がよほど精神的な成長があるかもしれないほどです。正しい瞑想を行えるのであればそれはそれで有益ですが、間違った理解の瞑想で心を引き裂いてしまうよりは仕事を集中してしっかりと行う方がまだマシであると言えます。



金剛定によって空になり切る

金剛定とはあまり聞きませんが、内容として、空に達した定であると解釈しました。

「真空清淨なる處、真に清淨なり」の金剛定(中略)この定境は、滅盡定から妙覺一転して真空清浄になりきって開けた定境(「信心と坐禪(油井真砂 著)」より)

説明を読むと、どうやら、この金剛定の状態では空のみになり切っていて、まだ、空と色(形)との両方を味わうという段階には達していないようです。

このあたりは説明が難しいのですが、空というのは心の土台で、色というのが形を持った現れですので、形というものは永遠と次々に現れてくるもので、その空としての土台と色としての現れの両方を受け入れて観察してありのままに受け入れる状態がサマーディなわけですけれども、この金剛定は一応はサマーディの一種としてみなしても良いかとは思いますがサマーディとしては少し物足りなくて、空の側だけを受け入れるのが金剛定の状態なのかなと思います。

清濁一如の妙機が得られて居ないから、夫れで、つい空に著するということになるのである。(中略)空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。(「信心と坐禪(油井真砂 著)」より)

これはどういうことかと言うと、清濁とはそれぞれ空と色(形)に対応しており、空は良しと受け入れることができても濁であるところの色(形)、いわゆる思考や雑念までもが根源なる神というか聖なるものとして感じられていないが故にこの段階に留まっているわけです。

このように、空にだけ執着してしまうことを禅宗では「空病」と言ったりするようです。

ですが、それは病という名前はついてはいるものの、正常な成長の1つの段階として必ず通るもので、病とは言わなくてもいいのでは、とも思いますが。べつに病気ではなくて、ただの一つの段階ですので、それすらも楽しめば自然に次の段階へと進むと思います。

これらのことは同書でも述べられています。

この煩惱は、空に對する著が空じられて、妙覺一轉の悟りが更に一轉して色即是空の妙融力に成りさへすれば、夫れで煩惱 即 菩提の妙機が證得される(「信心と坐禪(油井真砂 著)」より)

この次にやってくる境地がまさに般若心経で言う色即是空の境地なわけですね。



自らの生き方に対する宣言あるいは祈りをする必要性

西洋スピリチュアルではよくアファメーションと呼ばれるような宣言あるいは詩および祈りのようなものを唱えることがありますけど、今まで、その必要を感じたことはほとんどありませんでした。

しかし、ここに来て、このような種類の宣言が必要だという気になってきました。

例えば「私は◯◯を意図します。私は◯◯になります。私は◯◯の人生を歩みます」みたいなものをよく目にしますが、どうもしっくり来ていませんでした。

と、言うのも、どうやらそれは他人の人生の宣言だからしっくり来ていなかった、ということのようなのです。

この種の宣言あるいは祈りは、自分で作るものだ、ということです。

そして、それは本来、他人に共有してもあまり意味のないものなのかな、とも思います。例として見せるのはありかもしれませんけど。

ましてや、他人の宣言あるいは祈りを唱えてみたところでしっくりこないのは当然だと言えます。参考にはなるかもしれませんけど。

自分の人生をどうしたいのか? という問いは、今までは割と私の場合は小学生の頃に体験した幽体離脱で私自身のスピリットが体を抜け出て過去と未来を見た時に決めていたことで、その時の記憶を元に決めていたというか、記憶を辿っていた感じでした。

しかし、ここに来て、そうであったとしても自分の人生に対する宣言あるいは祈りを立てる必要性を感じてきています。

そうであるからこそ、自分自身のスピリットが時空を超えて働いている時にその自分のスピリットと意思が合わさって人生を描いてゆけるようになるからです。

スピリットの側でいくら意図しようとも、顕在意識としての自分が人生を意図して宣言あるいは祈りを行わなければ実際の三次元において物事は顕在化して現実になっていきません。

このことにはっきりと気がついたのは、私の記憶あるいはスピリットがパラレルワールドで見た記憶を辿ると、どうやら現在のこの時点において他のパラレルワールドにおいては今のこのタイムラインよりも遥かに悟った自分がいることに気がついていて、それはどうしてだろう? 何故、そのような違いがあるのだろう? と探ってみた時に、この種の宣言あるいは祈りが足りないからなのではないだろうか、という理解に至ったわけです。

必ずしもその別のタイムラインの方が宣言あるいは祈りが強かったというわけではなく、その別のタイムラインは例えばグルの指導がよくて今よりも覚醒が進んでいたりだとか、あるいは、スピリットの気まぐれでもっと覚醒させてみたりだとか、理由は様々ですけど、今の私のタイムラインにおいては、もっと覚醒しようという宣言あるいは祈りが足りていない、ということのようです。

タイムラインとかパラレルワールドというと時空を超えて文字通り別の次元、という理解になってしまうかもしれませんけど、実際にはタイムラインやパラレルワールドにも順番があって、時計という意味の時間でいうとたしかに同じ日付のタイムラインが沢山あるわけですけれども、タイムラインの順番があるわけです。あのタイムラインを最初に経験して、時間を戻って、次はこのタイムラインをする、という順番です。そうして、色々なパターンを試して悟りというか理解を深めてゆくわけです。

私の場合、どうやら、覚醒という意味では他のタイムラインの方が進んでいたりしたこともありますが、それほど悟っていない状態における学びがその場合はスキップされてしまったりしましたので、今のような割とゆっくりとした覚醒を選んでいるようです。それは、選ぶというよりは、グルの助けで素早く覚醒したタイムラインを一旦は経験した後に、ちょっと心残りがあるのでタイムラインを遡ってもう一度、ゆっくりとした覚醒のタイムラインをやり直している、という感じです。

ですから、覚醒の速さそれ自体が良い悪いにはならなくて、どうして私が今のようなゆっくりとしたタイムラインをやり直しているのかというと、それは、今までのタイムラインにおいては自分自身が作り出した宣言あるいは祈りというものが足りていなかったのでは、という理解に達したわけです。

具体的には、私自身の世界への働きかけとしての「対象」の設定と、その対象に対して「どうしたいのか」という意図の設定としての宣言あるいは祈りが足りていなかったわけです。

「私が覚醒することで得られる力(パワー)は世界のために利用します。(対象の設定)
 全ての人が安寧に生きられるように意図します。(意図の設定)」

これは人によって違っていて当たり前で、特に他人に言う必要はなくて自分の瞑想で自分自身に対して宣言あるいは祈りをすればいいわけですけれども、自分自身で作り出して自分で宣言あるいは祈るものなのかなと思います。特に良し悪しはなくて、好きにすればいいとは思うのですが、自分自身で作る、というのが重要なのかなと思います。



悟りが理解を生むのであって理解が悟りを生むのではない

経典を勉強すれば悟れる、みたいな流派がありますけど、個人的にはそれはよくわからなくて、そういうこともあるのかもしれないですけど、私は勉強だけではなくて体験が必要で、更に言えば、理解が悟りのきっかけになることはあったとしても最初に来るのはいつも悟りであって、理解は悟りの後に来るもの、あるいは、自身の状態を確かめるための理屈でしかない、と思っています。

自分の状態が悟りかどうかを確認するためには聖典を開いて勉強をする必要がありますけど、だからと言って、経典を勉強すれば悟れるというわけではなく、体験としての悟りが先にあって、それが悟りかどうか確かめる、あるいは、聖典の説明の説明のための理解が後に来るものだと思います。

もっと言ってしまうと、そのような表面的なことだけではなく、悟りそれ自身が理解をもたらしますので、悟りとは理解そのものだ、と言うことは確かに可能です。

ですけど、その意味における理解とは経典の理解のことではなくて、体験を伴うもので、経典を勉強することに熱心な流派が言うように「経典をしっかりと勉強して正しく理解すれば悟りに至ることができる」というお話とはちょっと違っているわけです。

悟りの質そのものが理解でできている、と言ってもそう間違いではないわけです。ですから、理解はたしかに悟りの本質そのものである、と言うことでもあるのですけど、だからと言って、経典に書かれてあることをそのまま理解して正しく解釈できたとしてもそれは悟りではないわけです。

悟りというものの質が理解でできている、ということであって、理解すれば悟れるというわけでもないわけです。

理解とはサンスクリットで言うとニャーナですけど、ニャーナこそが悟りである、というお話は、確かに悟りの状態であればそれはそれで正しいわけです。

ですけど、仏教の流派でも色々と意見があるように、例えばちょっと違う似たお話で「人の本質はもともと悟っているのだから何もする必要はない」という流派もありますけど、その一方で、人の本質は悟ってはいるもののそれは隠れていて、隠れているものを表すために修行しなければならない、と言っている流派もあって、真実は後者に近いのですが、同じように、「理解」においても、人の本質はもともと悟っていて理解に満ちているのだから修行しなくても理解しさえすればいい、と主張するのは、理解が隠れているからこそ修行が必要、というお話も対比できるわけです。

人の本質がもともと知識(ニャーナ)でできているからと言って悟っているわけでもなく、悟りの結果として人の本質がニャーナであることが納得できるということは、ニャーナ(理解)とは結果であって、手段は別にあるわけです。

小さなニャーナを積み重ねてゆけば悟りのニャーナになるのかもしれないですしそのような道もあるのかもしれませんけど、特にそこに修行方法の制約はつけなくてもいいと私は思うのですが。

そのように、知識が悟りに導くとか、知識だけあればいい、と言っている人たちの日々の行動を見ていると、長い間聖典をチャンティングしたり瞑想をしたりプージャ(祈りの儀式)をしたり、それはほとんど修行に見えるのですけど、本人たちはこれは修行ではなく儀式あるいは知識を得るための勉強、と主張したりしています。私からすれば、何と呼ぶかというくらいの違いで、それはお祈りであれば他の流派であればそれは修行であったり本格的な修行に入る前の加行と呼ばれている予備的な修行だったりするわけです。ですから、言い方だけのお話で、なんやかんやで似たようなことをしていると思えるわけです。

ですから、言い方はあまり気にしなくてもいいのかな、と私は個人的に思うのですが、一部の流派の方々にとっては言い方は重要ですので、私はそれはその人の主張を尊重しますから特に否定はしませんけど、個人的にはこのような解釈をしています。

どちらにせよ、悟りに達すればそこには知識(ニャーナ)があって、それは、あるというよりも、やってくる、という感じのもので、最初はやってくるように感じたりもしますけど、実際は、知識と一体になる、という種類のものですので、エネルギー的な体験だったりするわけです。流派によってはエネルギーとか言わなくて単に知識だけが重要としている流派もありますけど、まあ、言い方だけのお話だと私は思いますが。どちらにせよ知識に溢れた人はエネルギッシュで、誰であろうとエネルギーに溢れた人のことを否定はしないと思いますし。

その時、知識が先なのか、悟りが先なのかを識別するのは後になってしまうと難しくて、勉強を沢山している人が悟ったら知識が悟りに導いたかのように感じるかもしれませんけど、実際には、悟りが知識(ニャーナ)で出来ている、ということなわけです。それは、体験的には悟りで知識(ニャーナ)を得る、とか、ニャーナと一体となる、みたいな状態になるわけです。悟りと言うのは最初は体験ですけどそのうち日常になりますから、そうなるとニャーナとも常に一体になって、そうなると「悟りによって知識がやってくる」という状態ではなくなって、単にニャーナに包まれたいわゆる悟りの状態が続くようになります。そうなると確かにニャーナだけが存在する、ということも確かに正しくはありますけど、それは最初からそうなるわけでもありませんし、また、勉強して知識を得れば悟れるとかそういうこととも違うわけです。ステップがあるわけですね。

勉強を否定しているわけではなくて、勉強は必要で、勉強していたら悟る人もいるとは思いますけど、私が言いたいのは、そうした頭での理解と、実際にニャーナと一体になった状態とは違っていて、ニャーナと一体になりさえすればそれは理解の状態ではありますけど、だからと言って、勉強して知識を得て理解を高めればそのまま悟りになるかと言うと、それは保証出来ないわけです。

個人的にはそれよりも集中の瞑想から初めて静寂の境地の瞑想をステップで目指した方がいいとは思いますがそれは個人が決めることですので。



内向的なスピリチュアルから外向的なスピリチュアルへ

両方あって、それぞれの段階で嗜好が異なります。

特に最初は内向的になって、とにかく他と分離の自分を作り出して静寂の境地になります。その後、内なる宇宙と言いますかいわゆるアートマンの悟りに繋がると外交的になるのです。

ですから、スピリチュアルの特に最初は他人から離れて孤独を生きることが重要で、その段階ですとまだ孤独に耐えられなかったりしますけど、徐々に孤独を生きても平気な自分を育てていけばいいわけです。

その段階ですと割と他人と分断しがちで、スピリチュアルは嗜好はとにかく皆と一緒だとかワンネスだとかを主張しがちですけど、それは段階が違っていて、まず最初は分離の状態でしっかりと自身の奥深いところに繋がってからでないとスピリチュアルの本質的な意味において他人と繋がることができないわけです。

それ以前に他人に繋がる場合は損得勘定だったり感情的な面、情緒的な部分で他人と繋がりますけど、スピリチュアルのある一定以上の本質的な愛の面であるこの世の中の良いことも悪いことも全て含めて愛であるという認識の元に他人と繋がることができるのは内向的な面を徹底的に極めて静寂の境地に達した後にしかできないわけです。

このあたりはスピリチュアルで割と理解されにくいところでもありますけど、他人と繋がるためにはまず分離の孤独を生きて自分自身の本質と繋がる必要があるわけです。

分離とかいうとスピリチュアルの人は良くないことだと決めつけたりしますけどそんなことはなくて、個人としての分離を生きて他人への依存をなるべく減らして孤独の状態になって、そうして静寂の境地に達して、更にはアートマンと繋がることでそれは他者とも繋がることになってそこで初めてスピリチュアル的な意味において外交的になるわけです。

それ以前の外交的な態度というものは社交辞令だったり文化的なものであったり礼儀だったり、時には損得勘定だったり情緒や感情によるものだったりするわけです。

アートマンと繋がってスピリチュアル的な意味における外交的になったとしてもそのような社交辞令や文化的や礼儀や時には損得勘定や情緒や感情による他者との接触が必ずしもなくなるわけではないですが、それに囚われなくなります。こうした元々持っていた理由で他者と接したとしても、それは接しない時と変わらず自らの本質と繋がり続けていて、それゆえに、スピリチュアル的な外交的な面を踏まえながらかつての人との接し方が続くわけです。

ですから、実際のところ、スピリチュアルで理解されているように、スピリチュアルになったからと言って外面的に特にものすごく変わるというわけでもなく、見る人が見れば一目瞭然で違いがよく見て取れますけど、一見するとそれほど変わらなかったりするわけです。それ故に、世間では、既に悟っている人が他人に気付かれずに普通の社会生活を送る、ということが起こります。すぐそこに悟っている人が意外に沢山いるわけです。そして、それに気付くだけの認識力を持ち得ていない人が実はかなりのところ多いわけです。悟っている人は単に「いい人」のように見えたりもしますけど、実は悟っている場合もあるわけです。

実際のところ、悟りが他者に見抜かれるような悟りは浅い悟りなのかなと思います。日常生活に溶け込んでいて自らの仕事を淡々と行ってそれでいて自らの深いところに繋がっているような人は単に熟練の仕事人のように見えるかもしれませんけど、実際のところ、悟っていたりするわけです。そのような人は意外と割といるように思われますが、気付かれないことが多いように思います。目立つような悟りは、そのような役割を持って生まれてきた場合も多々あってそれはそれで目立つ行為をしますけど、そうでなければわざわざ目立つようなことはあまりないように思います。

そのような悟りは割と一般社会に溶け込んでいて、そこに達することができれば悟っているのですが、本人はそれを悟りとすら思わないでしょう。悟りなんてそのくらいのもので、悟っていない人が一生懸命になっているだけでもあると思われます。

ですから、悟っているならば割と社交的で外交的な面も出てきますけど、悟っていないのならば、もし悟りたいと思っているのならば内面に深く入り込むために内向的になることが一定期間、必要のように思うわけです。



真理を人の側から見るのと絶対の側から見る違い

真理を絶対(者)の側から見ると行動はなくてただ真理だけがあります。流派によってはそれをニャー(知識)とか言ったりしますけど、真理とは知識であり、そこに行動は存在しません。何をしていなくても自分は実は悟っていて知識そのものであって、ただそれにマーヤー(幻想)の覆いがかかっているので見えなくなっているだけなのです。ですから、ただマーヤーの無知を取り除けばそこに知識(ニャーナ)が現れます。

そして、そのために行う行動が必要かどうかというところで流派によって意見が分かれるわけですが、私からすれば、言い方が異なるだけでどの流派も似たようなことを言っているように思われます。実際には、お互いの流派は他の流派のやり方ではなく自分の流派が正しいと思っているわけですけれども、傍から見ればどの流派もそう違いはないように思えます。人によっては違っているように見えるかもしれませんけど。確かに、一見すると違っているように見えます。

ヴェーダンタの流派は、知識(ニャーナ)を知るという手段によってモークシャ(解脱)を得ると言います。ここでは、知識は行動とは言わずに知るという手段が解脱に導くと主張しています。彼らは、行動に関する規範はニャーナではなくダルマによって定められていて、それは義務であって、モークシャを得るための手段ではないと言います。

一方、ヨーガの流派では瞑想を通じてサマーディの状態に導き、いわゆる悟りの状態になると言います。一般的なヨーガでは4つの道があると言われていて、どの道を歩んでも同じゴールに達すると言われています。

禅では座禅という手法を用いて悟りを目指したり、禅の流派によっては公案(禅問答)を通じて悟りを目指します。

一見するとどれも異なっているかのように見えますけど、実際、真理を絶対の側から見ているのか人間の側から見ているか、という違いくらいしかないように私には思われます。

真理の表現方法は多種多様で、絶対の側から見れば行動はなくてただそこにはニャーナ(知識)だけがあります。修行は不要で既に悟っているわけですね。

そして、その悟りの状態を妨げているものが無知だとすれば、それを取り除く行為が必要、というのはどの流派もほぼ同意していると思われます。

しかし、無知を取り除く行為を何と呼ぶのかが意外に流派によって異なっているわけです。

ヴェーダンタの流派は、無知を取り除くための修行などあらゆる「行為」は不要で、ただ「知る」という手段によってモークシャ(解脱)を得ることができる、と言います。ですから、ヴェーダンタの流派は修行はモークシャを得る手段にはならない、と主張しています。これはこれで、これだけを見るのならば一貫した説明のように思われますが他の流派の人が聞いたのならば行動や修行が不要という点に違和感を感じるかもしれません。

一方、ヨーガではその無知を取り除く方法(手段)として4つのヨーガの道それぞれの行動を通じて無知を取り除きます。カルマ・ヨーガであれば奉仕、ラージャ・ヨーガであれば瞑想、バクティ・ヨーガであれば崇拝や深い愛や祈り、ニャーナ・ヨーガであれば知識を得ることを行います。それらがいわゆる修行とみなされているわけです。

禅においては座禅をしたり禅問答をして無知を取り除きます。

一見するとどれも異なっているかのように見えますけど、私に言わせてみれば、どれも大差ないと言えます。人によって向き不向きがあるというくらいです。

ただ、あえて言うのならば、理論面で言えばヴェーダンタのお話が筋が通ってはいますので、理屈のお話はヴェーダンタがもっと広まって常識になってもいいのではないかと思っております。

ただし、ヴェーダンタのお話だけをきちんと理解せずただ聞いただけで真に受けてしまうと日本でも昔の道元とかが活躍した時代にあったように「何もしなくても人は悟っているのだから何もしなくても良い」みたいな邪道な教えかのように勘違いしてしまう可能性がありますので、そこは気をつけるべき点だとは思います。

私からするに、ヴェーダンタの人がそうは言っていても実際には修行っぽいことをしていて、それを本人たちは教義の理屈上、修行とは言っていないだけのように思われます。

実際のところ、ヨーガにおいても無知を取り除く方法はあったとしても瞑想状態そのものは「行為」ではなくて、「瞑想状態は自然に現れてくるもの」と説明されていますし、それは同時に「無知を取り除く」「タマス(愚鈍な性質)を取り除くことで瞑想状態になる」とか言われていますので、実際のところそれは行為ではなくて自然に起こる行為だということになっていて、実際その通りではあります。ですから、説明の方法として4つのヨーガの道で行動が説明されていたとしても実際の根本で言うとそれは行為ではなくて自然に起こるわけで、ただ、そのために行為が必要となっているだけなのですね。ですから、ヨーガも見方によっては「行為ではない」と言わなくもないわけです。そうは言っても、ヨーガはそのような言い方はせずに「修行」「行為」と表現してはいますが。そこに表現の違いがあるわけです。

禅にしても、座禅で座ることを修行のように思っている方は大勢いらっしゃいますけど、私は禅のやり方の座禅はそれほどしたことはないですけど、一応の私の理解で言うと、座禅とは、行為をしないからこそただ座る、ということだと思っています。ですから、元々の座禅は行為や修行とは思われていなかったのではないでしょうか。何か行動をするなり仕事をすると言うことが「行為」だとするならば、座禅というのは「何もしない」ということなのだと思います。それがいつの間にか時代が経つにつれて座禅という型が出来て、あたかもそれが修行という「行為」であるかのような誤解が生じてしまっているのではないかと傍から見ると思われるわけです。本来、修行だとか座禅だとかいう改まったものではなく、ただリラックスして座る、というものだったように思われるわけです。道元の書籍を読んでみると、道元はただ座るということを言っていたのであって、それは行為ではない、と私には解釈できます。

道元にしてもヨーガにしても、座った瞑想や座禅は一応の型があって一見すると行為ということにはなりますが、その実際は、ただ座って何もしない、というところにあるわけです。

何もしないとは言っても瞑想における注意がありますので本当に何もせず座るということではありませんが、気をつけるところを気をつけていさえすれば基本は何もせずに座るというところに本質があるわけです。

最初はただ座るだけというところから始まって、やがては、その瞑想状態が座った瞑想を終えてからも続くようになり、その気付きが日常生活の全てへと広がってゆきます。そうしたら日常生活がいわゆる修行になるわけで、そうなったとしたら行為だとか修行だとかそのような区別もなくなってゆきます。それを行為を呼ぶのか修行と呼ぶのかもよくわからないものになります。道元にしても座禅ばかりが有名ですけど行動しながらの瞑想ということも主張されていたように思います。

その状態は、傍から見ればただ単に修行が続いているとか瞑想状態が続いている、ということになりますけど、実際は、それは単にそうであるだけでなく、知識(ニャーナ)とも繋がっている状態でもあります。そのニャーナそれ自体は行為ではなくて曇り(無知)がないが故にありのままにニャーナ(知識)が現れている状態なわけです。

ですから、その状態に至ればヴェーダンタが言うように行為というものは必要なくてただ無知を取り除いて知識(ニャーナ)を明らかにするだけで良い、ということにはなるのですけど、それ以前であれば、そうはならないのですよね。

ヴェーダンタが言うところの知識(ニャーナ)は人が知り得ない知識であるシュルティに関する知識だと言われていて、それはいわゆる絶対の側から見た知識であって、確かにそのような意味においてはそうですけど、人の側から見た場合はどうなるか、というのはあるわけです。

絶対の側からすると行為が不要なのは確かにその通りですけど、人間の側から見たら何某かの行為が必要なわけです。

ヴェーダンタの流派はモークシャに至る手段は知識(ニャーナ)のみである、としていて、確かに絶対の側から見るとその通りではあるのですけど、それだと絶対(者)の側と人間との間に深い溝ができたままで埋めるのが難しい気が致します。もともと悟っていて絶対の側に立っている人が主張しているお話のように見えて、人間が悟るために深い深い溝があるように思えるわけです。一気に深い谷を超えられる人、あるいは、もともとある程度悟っている人であれば超えられるのかもしれませんが、ただ単にニャーナを得て悟れるかというと、それは難しいように思えます。

ヨーガの偉大な点としては人間が神を超えて絶対者に近づくことができる、という点なわけです。それは人間がどのように悟れるか、というお話で、ヴェーダンタの絶対者の視点と完全に同じとは言えませんけど、実際に人間がそれに近づくための具体的な手段が示されているわけです。

これはヴェーダンタの手法を否定しているわけではなくて、どちらも向き不向きがあって、それなりに悟りの兆候がある人にとってはヴェーダンタの手法でいいのだと思います。知識(ニャーナ)を得るだけで悟れる人もいるでしょう。しかし、人間との間にそこには深い深い溝があって、そこを超えるためには人間向けの手法が必要だと思うわけです。

ヴェーダンタの流派であっても、言葉では知識だけと言っておきながらチャンティングは熱心で、チャンティングは修行とはヴェーダンタの流派ではみなされてはいませんけど、他の流派であれば修行の一環としてみなされていたりするわけです。言い方は違えども、どの流派もそうは変わらないように私には思えるわけです。



タマスな愚鈍な状態であっても私の本質は常に清浄

人は時に疲れることもあります。瞑想である程度の状態になったとしても、日によって調子が良いときもあれば悪い時もあります。

しかしながら、私の本質は常に清浄でカルマに左右されない存在なわけです。

それはヨーガやヴェーダンタではアートマン(真我)と説明されていて、絶対的な至福だとか永遠にあるもの、として説明されています。

それは基本的には不可知のものとされていて、人間の奥底に隠されて眠っています。

それを明らかにして顕現されることがいわゆる修行であったりするわけですが、そうして現れてきたアートマンが絶対的な至福だったり永遠だっとしても、それとは別の階層においてタマスな愚鈍な性質というのは人間の意識のレベルで発生したりします。

そのタマスな愚鈍な性質は私の本質であるアートマンを覆い隠すような性質があって、意識が曇ってしまったりすることもありますけど、私の本質であるアートマンは常に清浄で、肉体のレベルであるタマスな愚鈍な性質を取り除く、いわゆる浄化をすることで清浄な状態を保つことができます。

それは、アートマンを綺麗にするということではなくて、アートマンはもともと清浄で永遠のものですけど、それに付着しているタマスなもの、いわゆる無知とか言われている性質を取り除くことでアートマンの本来の性質である清浄な状態に戻すわけです。

アートマンが本来は清浄であるから何もしなくてもいいというわけではなくて、その上に被さってしまっている愚鈍な性質のタマスを取り除くためには行為が必要というわけです。

その行為は流派によっては修行と言ったり、あるいは、流派によってはダルマによる義務だとか言ったりしますけど、同じことだと思います。



ヴィシュッダに風船の膨らみのような圧力を感じる瞑想

最近は、オーラの状態としては眉間のあたりまではだいたい濃いオーラで包まれていてサハスララにオーラを瞑想中に満たすかどうか、という感じになってきています。サハスララがオーラで満たされれば静寂の境地になりますし、日によってそうなる時もそうでもない時もありますけど、そうは言いましても眉間のアジナくらいまではオーラで包まれているのが基本になりました。

オーラとしてはそうなのですが、最近はずっと、喉のヴィシュッダのちょっとしたイガイガ感と言いますか、風船が膨らむ時のような圧力を喉に感じる日々が続いています。

これは最近のころちゃん関係である可能性もなくはないですけど風邪の感じで喉の調子が悪くなる時とは明らかに違っていて、おそらくはスピリチュアルなオーラ的なものなのかなと思っております。

イガイガといってもほんのちょっとの感じではありますが、瞑想を続いていると次第に、少しずつですがイガイガ感が減ってきた感じがして、特に、喉のヴィシュッダに意識を合わせることで少しずつイガイガ感がなくなってきている気が致します。ただ、まだ完全に解消したわけではありませんけど。

オーラの感覚として、他の箇所に特にこういったイガイガ感はありませんので喉のヴィシュッダだけのことで、以前からことあるごとにこのイガイガ感は感じてはいましたけど最近は割とずっと感じていて、これはもしかしたら、まだヴィシュッダが開いていない、ということの印なのかもしれません。

そういえば、ヨーガ行者である本山博先生の著書でそのようなことが書いてあった気が致します。

数ヶ月は喉のところに精神集中を続けましたが、はじめは喉がいがらっぽくなったり、セキが出たりして、呼吸がしにくくなりました。「密教ヨーガ(本山博著)」

ですので、基本は、今のように喉に精神集中することで効果があるのだと思います。しばらく続けてみます。

私の場合、元々ヴィシュッダは閉じ気味だったような気がしていて、声が出にくかったり、ということもありましたけど最近は割と普通で、そうは言っても、開いている、という感じでもないのでまだまだ精神集中が必要のようです。

この種の喉の風船の圧迫感およびちょっとしたイガイガ感は、瞑想をしていてアジナにまでオーラは達しているけれどもまだサハスララに満ちていない時の方が喉の圧迫感およびイガイガ感が比較的強めに出ている気が致しますね。一方で、サハスララの方にオーラが満ちて、それはいわば、アジナ近辺のオーラがサハスララの方に少し抜けた、ということもありますけど、その状態ですと喉のヴィシュッダにかかっているオーラの圧力のようなものも少し弱まる気が致します。

ですので、順番としては、瞑想を始めるとアジナに集中して、オーラが高まってくるとアジナの圧力およびヴィシュッダの圧力が高まって、その後、サハスララにオーラが満ちてくるとアジナからサハスララに一部のオーラが流れていって、アジナおよびヴィシュッダの圧力が少し下がってリラックス状態になる、という感じです。



ゲームをサブクエストまでクリアするような気持ちでヴィシュッダを鍛える

サハスララにまでオーラを上げれば静寂の意識になって十分にリラックスできるわけですけれども、その一歩手前まであえて戻ってヴィシュッダを鍛えることで、まるでゲームの一応のボスは倒した後に途中のサブクエストも攻略しているような感じになってきています。

おそらくは、サハスララまでオーラが達すれば一応は本筋のゲームはクリアになって、そうは言いましても、達成度として100%ではなくて30%とか40%なのかなと思います。

この状態でも昔の人は「悟っている」とか「覚醒した」とか言っていた人はいたでしょうし、そうは言いましても、悟りとか覚醒とか言っても人それぞれなわけです。

100%覚醒してみたところで更に120%とか200%の覚醒はありますので上限というのはなくて、そうは言いましても、全てのチャクラが覚醒するのを一応は100%とみなすとすると、私の場合は30%とか40%なのかな、とか思います。

それは、サハスララに達したことで一応のボスは倒したものの、そうは言いましてもまだ完全にクリアしたわけはなくて、本当のエンディングはまだ見ていなくて、一応のエンディングは見た、みたいな感じだと思います。まだ本当のエンディングを見る条件を満たしていないわけですね。

まあ、そんな感じで、一旦は逆戻りしてヴィシュッダを最近は意識した瞑想をしています。

静寂の境地に達してしまうとオーラがサハスララにまで達してしまってヴィシュッダの念が弱まってしまう感じですので、あえて少しタマスな疲れた状態にすることでサハスララへのオーラを減らして、そうすることでアジナとヴィシュッダの圧力を高めてみています。

こうしなければサハスララにエネルギーが取られて、しばらくその安楽な状態に留まってしまってヴィシュッダを覚醒させるとかそういうことにはならないのかな、とも思います。一旦戻って、途中やり残したレッスンをやり直している感じです。

ひとまずサハスララまでの道筋は見えましたので、途中の、やり残した宿題をするために戻ってきている感じです。

意識としては静寂の境地とリラックスから落ちてしまっていますのでちょっと後戻りのようにも感じてしまいますけど、そうは言っても、これはやり残した宿題ですので必要なステップなのかなと思います。

傍から見たら以前よりちょっと疲れ気味に見えると思いますので停滞とか逆戻りみたいに見えるかもしれませんけど、それは必要な逆戻りですので、気にすることはないかなと思っています。

今は、サハスララにエネルギーがずっと溜まるという感じではなくて通常状態ではまだアジナくらいにまでしかエネルギーがありませんので、圧力をかけるとヴィシュッダとアジナに圧力がかかるか、あるいはサハスララにエネルギーが抜けて静寂の境地になるか、のどちらかになっています。後者の後に日常生活を少し送ると前者の状態になりますので、時間をあけて瞑想を繰り返すことでヴィシュッダにエネルギーを送り続けている、というような感じです。



深呼吸をしてサハスララをオーラで満たして静寂の境地に至る

ヨーガで呼吸法はプラーナヤーマですけど、深呼吸はプラーナヤーマというほど手法というわけではなくヨーガの完全呼吸、というくらいですけど、そのくらいの深呼吸でもサハスララにオーラを満たして静寂の境地に至ることができます。

ただし、それはある程度のオーラの活性化がなされている場合のみで、そうならないのだとしたら前提条件が足りていないのだと思います。

深呼吸をする時、呼気で息は出てゆきますけどオーラは下半身に下がります。そして、吸気で息は入ってゆきますけどオーラはサハスララにまで登ってゆきます。

そうして何度も深呼吸を繰り返していると次第にサハスララにオーラが満ちてきて静寂の境地になります。

呼気でオーラが下半身にまで最初は下がりますけど、一旦サハスララに到達したら次第にオーラが降りなくなってきて、その後は、サハスララにどんどんとオーラが満ちるようになってきます。次に呼気をするときに一部のオーラは下がりますけど、一部のオーラがサハスララに残ったままになり、やがてサハスララに残るオーラの割合が増えて雪、呼気をする度にサハスララのオーラが強まってゆくわけです。

ヨーガですと複雑なプラーナヤーマ(呼吸法)があって、私はそれほど多くをやったわけではなくて基本的なものしかわかりませんけど、それはそれで効果があるわけです。ですけど、更に基本である単なる深呼吸だけでもこうしてオーラがサハスララに集まって静寂の境地に達することができるわけです。

ヨーガではオーラとは言わずにプラーナと言いますけど、プラーナというと割と肉体に近い生命エネルギーのことを意味して、私が思うにはサハスララに満ちて静寂の境地をもたらしているエネルギーはプラーナも重要ですけどそれだけではなく、プラーナに加えてクンダリーニのエネルギーおよび魂に相当するアートマンのエネルギーが必要だと思うわけです。

クンダリーニのエネルギーはムーラダーラに眠っている根源の力で、それだけではサハスララに満ちても静寂の意識にはならなくて、それだけではなく、アナハタの奥に繋がる根源のエネルギーである、いわゆるアートマンあるいは単にハートとか言われているエネルギーが一緒になって共にサハスララに登らなければ静寂の意識にはならないのかなと思います。

細かく説明すればそういうことになりますけど、簡単に平たく言うのであれば単にオーラであって、ただ、オーラとは言っても単にプラーナだけでもなくクンダリーニだけでもなく地球の地のエネルギーだけでもなく天のエネルギーだけでもなく、上記のような3つのエネルギーが共になって初めて静寂の境地になるのかな、と思うわけです。



タマスから清濁併せ呑む「中」へ

順番としてはタマスな愚鈍な淀んだ状態から始まって、やがては静寂の境地に達します。

静寂の境地は一般的に言えば「空」の境地ということでありますが、空というのは平らな清浄な静寂の境地で、一般的にはそれが悟りかのように思われていると思います。それはそれで流派の方針があると思いますが、空の先には「中」とも言われている清濁併せ呑む状態があります。

これは、「空」が最上だと一般的に思われているこのスピリチュアルな業界でなかなか理解されにくいことかなとも思いますが、状態としては、次のような段階を踏むように思います。

1.タマスな状態。まずは「無」を目指す。思考が停止した状態で「くつろぎ」を感じる。無の中にずっと留まっては成長が止まってしまいますが、それでも「無」はこの時には一時的な休息として役に立ちます。
2.浄化が進んできた状態。ラジャスな状態。
3.落ち着きが出てきて、サットヴァな清浄な状態に移行する段階。
4.静寂な境地。これをサットヴァと呼ぶのかどうかは微妙なところで、流派によるとは思いますが、一応はそう呼んでも良いとは思います。この状態の前がサットヴァでここが空、という方がしっくりきますけど、サットヴァとしてもそう間違いではないように思います。
5.清濁併せ呑む境地。タマスとサットヴァの両方が共存する状態。「中」の状態。

段階としてはそうですが、この、最後の「中」の状態はなかなか維持が難しくて、気づきが弱まってしまってラジャスあるいはタマスの状態まで戻ってしまうことが多々あるように思います。

そうすると、再度、瞑想を続けて、静寂な境地に戻してあげて、それから「中」の状態へと再度持っていく必要があるように思います。

それは傍から見ると「状態が悪化している」とか「成長が戻っている」みたいな印象を与えてしまうかもしれませんけど本人にとっては違っていて、この最後の「中」の状態は、何度も行き来を繰り替えすことで自身の「気付き」が強まっていって、ますます清濁併せ呑むことができるようになるわけです。

最初の「中」の状態は、静寂な境地である「空」を引きずった状態で、ある種の「輝き」、イルミネーション、光を放つ種類の、少し「空」に寄っている「中」でした。その「光」こそが気付きをもたらしてくれて「観察」を働かせていて、毎瞬間のヴィパッサナー状態(観察状態)を可能にしていて、それがいわゆるサマーディということでありますけど、その「空」を基本にしていて、それで清濁併せ呑む「中」に移行すると、必ずしも静寂な境地でなくてもその「気付き」であるサマーディ状態が続くようになるわけです。

清濁併せ呑む「中」とは、静寂な境地が日常生活で続く、ということでもありますけど、それは、必ずしも静寂な境地でなくても気付きのサマーディが続く、ということでもあります。

言い方を変えると、気付きが強くなる、と言うこともできます。

清濁併せ呑むと言っても善悪のお話ではなくて、悪いことをしていいという意味ではなくて、上記のように、タマスな状態に対して耐性がついて、タマスな状態であったとしても気付きが続くようになるわけです。

しかし、しばらく続けているとタマスに飲み込まれていって、また瞑想をして静寂な境地の「空」に戻して、それから再度「中」である清濁併せ呑む境地で日常生活のヴィパッサナー瞑想であるサマーディ状態を続けるわけです。

こうなると、傍目には特に静寂の境地だけというわけでもなくなることから、一見するとただの人のように見えるかもしれませんけど、内部的には大きな変化が起きているわけです。静寂の境地であれば傍目にも何か輝きがあって聖人かのような印象がありますけど、この「中」の状態に進んだ場合、割と凡人に見えるようにも思います。しかし、そこには大きな変化があるわけですね。

ヴェーダンタでいうとこの世の中は全てイーシュワラの現れで、自身のいわゆる魂はアートマンで、他者もアートマンで、全体がブラフマンで、実はアートマンとブラフマンは一緒で、それはタマスとかサットヴァとかを全て超越していて全て同一で、イーシュワラはそのようなブラフマンと一緒でもあるのですが、必ずしも輝きのサットヴァや空だけが清浄なのではなくて、全てがイーシュワラでありブラフマンでありますから、タマスだとかサットヴァだとかは関係ないわけなのですよね。

この「中」の状態になると、そのようなことが次第に実感できてゆきます。必ずしも静寂の境地である「空」だけが素晴らしいのではなくて、タマスな状態だとかサットヴァな状態も含めて全てありのままに正しく受け入れられるようになります。

仏教で「中道」みたいなことが言われていて、「真ん中の道」だとか「片方に偏らない」みたいなことが言われていますけど、そこでは割と「どちらかを選ぶ時に偏らない」みたいな行動のお話で語られていることが多いと思いますけど、実際はこの「中道」とは心の状態を表していて、「どちらの選択肢を選んだとしても自分の心は偏らないことを中道」と言っているのであって、両方の選択肢の真ん中を選ぶかどうかは全く関係ないわけなのですよね。

日本で中道を語る人は「極端な選択を避けます」みたいなお話が多くて、それが日本で「決断を避ける」ことに繋がっているような気がしますけど、流派ごとの考え方がありますのでその流派の考え方があるのならばそれはそれで自由にすればいいと思っていますけど、私からすればこの中道はこころのあり方を示しているのですから、上記のように、何を選択したとしても自身の中の気付きを保って行動すべし、ということを言っているに過ぎないと思うわけです。

この「中」の状態はタマスとは違っていて、しかし、成長の過程ではタマスに落ち込んでしまうことも多々あるように思えて、そうなるとサハスララからオーラが抜けてオーラがサハスララに上がりにくい状態になってしまったりしますので、また瞑想を続けてオーラをサハスララまげ上げて静寂の境地の「空」に戻して、オーラをサハスララに保ちつつ行動するのが「中」で、それは「空」でもあるのですが「空」が強化された状態で、そのことを「中」とここでは呼んでいて、最初はすぐにオーラがサハスララから抜けてしまって「中」および「空」の状態から落ちてしまうのですが、次第にオーラが強化されてくるとサハスララにオーラがそれなりの長い時間留まるようになります。この段階を何回も繰り返してサマーディを強化してゆくわけです。



静寂の境地のみを追い求める空病を克服する

一旦静寂の境地に達すると、それのみを追い求めて、それ以外の状態を否定するようになることがあります。

これが、いわゆる空病というもので、スピリチュアルにおいてもオーラの色などで判断して清浄なものだけを追い求めて俗世を否定してしまうような症状が同じことを言っているわけですね。この種の人はスピリチュアルや宗教界にある一定数いて、というか、割と一般的に清浄なものが良いように思われているわけですけれども、実際のところはそれは病気の一種なわけです。

じゃあ清浄な空が良くないものかと言われるとそうではなくて、清浄な空であることそれ自体は問題がなくて、清浄な状態以外を否定してしまう気持ちが良くないわけです。ですから、清浄であってもなくてもその本質は変わないことに気づいていることが必要で、それを流派によっては理解と言ったりしますけど、そのように、状態とは変わるものですから、変わる清浄な状態が絶対的なものであるわけはなく、清浄な状態とそうでない状態のどちらもが大いなる創造というか神というかブラフマンあるいは大いなるイーシュワラの現れであると理解することが必要なわけです。

これは、清浄な空を否定しているわけではなくて、これらを理解するためには清浄な空を知ることも必要で、清浄な空を知った上でそうでない状態も合わせてそれら全ての状態が移り変わるものだと理解することが必要で、変化するものだということは絶対的なものではありませんから相対的なもので、であれば、それを完全に頼るわけにはいかないわけですよね。その、移り変わる空という状態を追い求めないことが肝心です。そうは言いましても空を知るということは必要ですから、空を知った上で、それは移り変わるもので、空から色(現象)が生まれて、やがてはまた空へと戻ってゆく、ということを理解しさえすれば、空の静寂な状態を追い求めることはせずにその時々に現れてくる感情やら現象やらを楽しむことができるようになるわけです。

空病というのは、現象という、いわば「ゆらぎ」を否定して静寂の状態を追い求めてしまうことで、そうなりますと、空がなくなって現象が現れてきた時に空の状態を求めるというストレスや渇望というものが生まれてしまいます。これは自分に対しても他者に対してもそのように空病が現れるならば、他者が疲れたりストレスを感じたりしている時にそれを避けたり嫌悪すると言った態度として現れてきます。必ずしも空病が自らへの欲求として現れるだけでなく、他者への態度として空病が現れてきたりするわけです。

空病というのは、割と空の体験が浅い状態、まだ空に熟練していない状態においてはある程度は仕方がないものだとは思います。それはそれで、空の状態を保つために必要なことで、それをわざわざ「病」と呼ぶ必要は私はないとは思うのですが、伝統的にそれは空病と呼ばれているようです。

この種の意識は、スピリチュアルで言うとオーラの色で階級のヒエラルキーを作るような態度に容易に結びつきます。あの人はオーラの色があれだからまだあのレベルで私はこのレベルだから、みたいな浅いスピリチュアルのお話になったりします。実際、そのようなことを言っていたとしても静寂の意識に達していさえすればそれが間違いだったと気付ける可能性がかなり高いわけでづけれども、静寂の意識にまだ全然到達していないのにも関わらず安易にオーラの色などで他人をレベル付けしてヒエラルキーを作ってしまう人がとても多いわけです。

実際のところ、静寂の境地に達して、その後、清濁併せ呑む「中」の意識に達しさえすればそんな誤解はなくなるのですが、なかなかそのレベルに達せず、悲しいことに、スピリチュアルがヒエラルキーを構築するための道具と化してしまうわけですね。そんなスピリチュアルであればない方がよくて、本来は、「中」の意識を持つことでヒエラルキーを克服することにスピリチュアルの本意があるわけです。

人にはそれぞれ学びがあって、そのために赤いオーラが必要だったり紫色のオーラが必要だったり緑色あるいは青色だったりするわけで、その人のスピリチュアルなレベルとは、それなりにその魂の本質と相関している面もあるにはありますけど、一時的に違う色で数年や数十年暮らすことだってあるわけです。ですから、ちょっと他人のオーラを見たくらいで判断しないことが重要ですし、そもそも、オーラの色とかは関係なくて、本質はというと「中」にあるわけですから、オーラの色は全く関係ないのですよね。ただ、オーラがそのようになっている、というだけのお話です。

他人のことは他人の人生なのだから、基本はほおっておけばいいのですけど、何か他人の人生が気になるということは、自分に問題がある、ということでもあります。自分が「中」の意識に達したら他人を「ありのまま」に見ることはあれども、それでヒエラルキーを作るなんてありえないですしね。秩序のためにヒエラルキーを作らざるをえない場合はあるにはありますけどそれは明確な選択の元にそうするのであって、基本は、自分が「中」の意識に達したら他人はありのままに受け入れて、それだけで終わりなのです。

その意識に達した頃には、空病も克服されていると思います。

こう言うと、汚れていてもいいんだ、みたいに勘違いしてしまう人がいるかもしれませんけど、そういうことではなくて、空は必要です。空は必要で、清浄な意識も必要ですけど、それ以外を否定することはしない、ということです。自分も日常生活で意識が淀むこともありますし、そのために「中」の意識が大切になってくるわけです。意識が淀んでも「空」を追い求めることはせずに、ただ、ありのままに受け入れる。その上で、定期的に瞑想をするなどして「空」の状態を強化してゆくわけです。