ヴェーダンタの言う「マーヤー(この世は幻)」の意味を理解する

2021-06-20 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

自分のスピリット(アートマン)に少しづつ委ね始めた頃から顕在意識とスピリット(アートマン)の意識との違いを認識できるようになり、それにより、ヴェーダンタの言う「現実は全てアートマンのもの」「この世はマーヤー(幻)」の意味を理解できるようになりました。

マーヤーとは五感で感じるこの現実世界そのもののことであり、特別な何かが自分の外側に新たに存在しているわけではなかったわけです。ですけど、今までは、ヴェーダンタのマーヤーの解説を聞くと何か別世界が存在しているような気がしていて、どこか腑に落ちないでいました。それが、ここにきてはっきりと理解できるようになりました。

マーヤーは、心の本性による覚醒した意識(リクパ)がない状態においてはこの現実世界そのものであると認識されます。その状態においては幻ではなくて全くの完全なる現実として認識されます。そして、リクパが現れてきた後であって初めて幻であると気がつくわけです。

ですから、リクパが現れる前にマーヤーを本当の意味で理解しようと思っても無理なお話で、その時点においては頭の理屈でのお話の理解に留まるわけです。ですけど、当時の私はどうにかしてマーヤーの本質を理解しようとしておりましたが、それは到底、無理なお話だったわけです。そのことに気がつきました。

これは、ヴェーダンタを教える人の側にも混乱があるように思えて、インドでヴェーダンタを学んできた人の中には「ヴェーダンタは経験する一時的なものではなくて理解によって得られる境地です」みたいなことを言う人がいますので、今からすればそのニュアンスがわかるのですけど、そこには誤解があるように思えるのです。結局、要点はというとリクパの意識で見るかどうかというところであり、リクパの意識で見ればヴェーダンタのお話も理解できるのです。しかし、リクパがない状態でヴェーダンタを理解しようとしてもあくまでも頭の理屈のお話でしかないわけです。リクパというのは意識ですからそれは肉体を持ったこの世の経験とはちょっと離れたものではあるのですが表現としては経験ということもできなくもありませんので経験と言ったり言わなかったりするのですが、経験というと一時的という意味が入ってきてしまうので経験というのを避けようとする人たちが一定数いて、そのような人は経験ではなくて理解、という言葉を使ったりします。ですけど、リクパの覚醒のお話をしているという点においては同じなのですよね。

そのリクパの意識が現れてリクパの状態で見ることができるのがヴェーダンタのいう本当の現実で、顕在意識が五感を使って感じて認識するものをヴェーダンタではマーヤー(幻)と呼んでいるわけです。

これは理屈のお話だけではなくて、実際にそのように自分の認識が変化するというお話であり、そのことを覚醒と言ったり「理解」と言ったりしますけど、同じことと言えば同じことかもしれませんし人によっては違うことを言っているのかもしれませんけど、本質で言えばリクパの覚醒のお話という点に関しては同じなのかなと思います。

リクパの意識が現れるまではヴェーダンタでマーヤーのお話を何度聞いてもしっくりこない感じでしたが、今思えば、それも当然だったと思えます。

マーヤーというのは、理屈で言っても、実際の境地からしても、顕在意識の経験する世界がマーヤーであると言えます。

以前は、理屈ではわかっていても、何かしっくり来なかったのです。

しかしながら、ここにきて、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感することにより、そのアートマンとしての意識が経験するものこそが真実の世界であり、顕在意識が経験する世界はマーヤー(幻)なのだと理解できるようになりました。ここで言っている理解とは、単に頭の理屈で聞いて考えて理解するというだけでなく、実感としてそのことが真実だとわかるという意味も含めた理解です。

これは、例え話としては色々とあるのですけど、それよりも、実際にこれは体験しなければわからないものなのかもしれない、と今は思います。

ヴェーダンタ哲学では理解が重要とされていて、そこでは、「経験」は一時的なものなので理解ではない、みたいなことがよく言われます。それは、頭で理解することプラス実感することが真実の知識である、という意味です。ですので、単に理屈を勉強しただけでは不十分で、それを実感することが大切なわけです。

このことが、いまいち私にはピンときていませんでしたが、今は、表現は違えども同じことを言っていたのだということがわかります。

文字通り捉えてしまうとヴェーダンタ哲学の言っていることは頭の勉強だけが重要で瞑想やヨガのアサナの瞑想は一時的なものなので重要ではない、みたいに解釈してしまうこともあって、実際、インドでヴェーダンタを勉強してきた人の中にもそう言っている人がいましたけど、私が今思うに、それは途中経過であって、最初は一時的なところから始まってやがてずっと続く「状態」になりますので、一時的なものであったとしても問題ないのです。インドで勉強してきた人の中にはことさらにヨガのアサナを否定したりヨーガスートラを否定したりして、瞑想は一時的なものだから意味がなくて理解だけが必要、みたいなことを言っている人がいますけど、私の今の理解に基づけば、ヨーガ・スートラもヴェーダンタもラマナ・マハルシも同じことを言っていると思うわけです。文字面の違いにあまり拘らない方がいいと思います。

ヴェーダンタ哲学がいうところの「理解が重要」だというのは、表現としてはわかりにくいですけど、実際のところ、意識(アートマン)が全てを動かしていることを実感することを「(本当のヴェーダンタの)理解」と比喩的に言っているのかなと思うわけです。これはインドで勉強してきた方に言わせれば異論があるかもしれなくて、ヴェーダンタ哲学の方々は「聖典の勉強をすることで知識が現れてくるものだ」ということを言いますけど、私から言わせれば、そこで言っている知識というのはアートマンとしての意識の表れでありますから、同じことを言っていると思うわけです。

アートマンが現れたからと言ってすぐに全知全能というわけでは全くなくて、文字通りの知識というのはまだまだ聖典などに頼っています。ここで言っているのは、聖典のお話が理解できるようになった、というお話です。ヴェーダンタの流儀に従えば「知識が現れてきた」みたいな言い方もできますけど、それよりは、「理解できるようになった」と言ったほうがしっくりきます。

そのように、アートマンの意識が現れると、ヴェーダンタの各種のお話がすんなり理解できるようになり、その一環としてマーヤー(この世は幻)というお話も実感を伴って理解できるわけです。



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