静寂の境地から自分が水面に浮かぶ境地へ

2021-06-18 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

元々、静寂の境地に「私」はありませんでした。

しかしながら、その静寂の境地に、最近は「私」が加わるようになりました。

これは文字通り読んでしまうと「私」が出てきたということで、もしかしたら後退のように見えてしまうかもしれませんけど、そうではありません。

世間で言われている普通の「私」というのはブッディ(思考する能力)の反応として生み出されたアハンカーラ(いわゆるエゴイズム)の感覚(錯覚)であり、実際には存在しないものですので錯覚だとヨーガだと説明されています。

ここで言っている「私」というのはアートマン(真我)のことです。スピリットのことです。

静寂の境地になっているというのは思考する能力(ブッディ)などが鎮まっている状態で、そのような静寂な境地を基本として、「私」というアートマン(真我)がその平な水面のような上に浮かんで大の字になって空を見上げているような状態です。

平な水面にはほとんど波はなく、静かなものです。

時折浮かぶ思考の波もその水面を揺らすことはありません。思考の波というのは静寂の境地とは割と独立した波であり、最初こそ静寂の境地と思考の波というのは相反するものでありますが、最近は、思考があったとしても静寂の境地はさほど乱されません。

その静寂の境地は最初は思考の静まりを意味しておりましたが、最近は、気付きの感覚が続く、という状態になってきております。思考があったとしてもそれに気付いて心の奥底に静かなものが続く状態が静寂の境地なわけです。

聖者たちが口々に言っていた言葉が真実であると感じます。

・思考を止めようが止めまいが関係がない
・思考を観察しようがしまいが関係がない
・ありのままの状態を説明できる言葉などありはしない
・ただ、ありのままの状態を保っているだけで(思考や雑念は)自己解脱する

この境地が更に進んだものが禅で言われている心身脱落ということなのかもしれません。

瞑想をしていて、体の感覚がなくなるというのは割と早く体験できて、特に目を瞑った瞑想においては思考のみが流れるようになりますので体の脱落というのはすぐに現れるように思いますし、座った瞑想では瞑想は体を使いませんので特にそれはしやすいと思います。

ですけど、心の脱落というのはそうそう起こるものではなくて、それは一応は静寂の境地がそれと言うこともできなくもないですけど、脱落というのは、おそらくはこの「ありのままの状態」を示しているように思えるのです。

普段の生活を送りながら身も心もなくなったかのようになってこの世界と同一になる、と言うのは、上に書いたように、静寂の境地を基本としながらそこにアートマン(真我)がいていわゆる真我独存している状態になっているその先に、おそらくは、私はまだですけど、アートマン(真我)がブラフマンになって全てと同一になる段階があると思うのです。そのブラフマンの状態こそが心身脱落の完成かな、という気が致します。

今はまだその前段階の、アートマン(真我)がいる状態です。

これらは聖典において割と理論で教えられてきたことで、聖典を教える方々の間では「これは人間にとっては五感で知ることのできないこと」と説明されています。これは文字通りその通りで、このことを持ってして「人間にとっては直接的に知ることができない」と解釈してしまいがちですけど、そうではなくて、人間の心というのは五感を超えることができて、五感を超えたところにあるのがアートマン(真我)なわけです。しかしながら多くの人にとってアートマン(真我)は動いていなくて、実際には動いているのですが聖典が語るところによると覆いが被さっているので見えない状態になっているだけで、全ての人にアートマン(真我)はいるわけです。

いるはいるのですけど、最初は識別できていなくて、やがて、アートマン(真我)が現れてくるわけです。この状態が、上に書いたように、静寂の境地を基本としてアートマン(真我)が存在している状態で、私の今の状態になります。

おそらくはこの後、アートマン(真我)が個としての感覚からブラフマン(全体)の感覚へと成長するのかな、と思います。聖典にはそのように書かれてあります。

これは、割と聖典ではお話で理解して終わりだとか「きちんと理解すればいい」みたいに理屈上の勉強のお話として扱われることではありますが、実際には、それは理論のお話ではなくて、実際に自分がそうなることができる、というお話なのだと思います。

これは一時的な経験のお話ではなくて、自分が変化する、というお話です。変化、と言いましたけど、実際には、聖典が言うところには変わるものは何もなくて、変わったように見えるのはジーヴァ(個として存在しているかのように思っている錯覚としての自分)がそのように認識しているだけで、アートマン(真我)の側からすると何も変わっていないわけです。アートマン(真我)は変わることがなく、生まれることがなく、死ぬこともない自分自身の本質ですから、それは文字通り、変わるとかそう言うことには無縁なわけです。ただ、ジーヴァとしての私が変わったかのように認識するだけです。

アートマン(真我)としては変わることはないのですけど、ジーヴァとしてはアートマン(真我)を個の存在として認識しているのが今の段階です。聖典が言うには実際はアートマン(真我)とブラフマン(全体)は一体で同じだ、と言うことですけど、これもおそらくは聖典で勉強して頭で理解するだけのことではなくて実際に体験というか変わるというか、ジーヴァが体験してジーヴァの認識が変わることができるものの種類だと思います。しかしながら繰り返しになりますがアートマン(真我)としては変わることがなくてブラフマン(全体)としてももちろん変わることがなくて生まれることもなく死ぬこともなく永遠の存在なわけです。

そのような永遠の存在であるブラフマンと本質は同じである筈の、個として分離しているかのように見えるアートマン(真我)が静寂の境地をベースに現れているわけです。