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サマーディは大我の目覚め
2021-06-06
トピック:
スピリチュアル
:
瞑想録
ヨガナンダの弟子である「ヨガ行法中伝」の著者はまずヨーガ・スートラに基づいてダーラナ(集中)・ディヤーナ(瞑想)があり、その結果としてサマーディが現れると説明しています。
基本的な構造としては、一般的な普通の心の滅却によって現れる第二の心、その第二の心が現れた状態がサマーディと言うことです。
行者の心が全く波動を中止して、無我・無私の状態に持続せられる時、その心の側に眠っていた第二の心が目を醒ます。この「第二の心」の目醒めをサマディというのである。
「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
これは、私の状態と当てはめてみると次の3段階が当てままる気が致します。
最初:
視界がスローモーションで認識される
次:
胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め
最近:
意識が体をダイレクトに動かしていることの実感
これらは基本的に「静寂の境地」を基礎としていますが、最近の段階になりますと
静寂の境地への依存から離れる
という状態になってきています。ですが、基本は静寂の境地を基礎にしています。静寂の境地とは「心の一時的な静止」です。これに基づいてヨガナンダの弟子は説明しています。
サマディは小我の休息ではあるが、大我の目醒めであって、人間そのものの死を涅槃というのではない。別言すると涅槃は、個人の心中における宇宙意識の覚醒である。
(中略)
この宇宙意識のことを神または仏というのであるが、
(中略)
人間にあってはこの内部に神または仏が棲息し給うけれども、常人の体内では常に休息してい給うのである。人間に内在する神、これこそ誠の人間、誠の自我なのである。だがその神は常人の内部では、およそ眠ってい給う。この眠れる神を目醒めしめて、「人が神と共に住み、神が人と共に働く境地」を開発した時、その境地をこそ、天国または極楽と呼ぶのである。人間がこの極楽の境地に入ると、それがあらゆる宗教の目的であり、またヨガ行法の最後の目的でもあるのである。
「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
静寂の境地を基本として宇宙意識が覚醒することがサマーディであって、それを神や仏と呼ぶ、と説明しています。そしてそれが天国あるいは極楽だと言うことです。普通の人においてはこの宇宙意識は眠っていて、目醒めた状態がサマーディである、と言うことです。
これは、言い方は色々あるとは思いますが、基本的には私の感覚と一致しています。
ただ、大我とは言っても、割と日常生活は普通です。そんなもんだと思います。特に変わったところはありません。ただ、今まで眠っていたのが意識的になった、というくらいです。こう言ってしまうと誤解が生じるかもしれませんけど、要は
特別感はない
ということです。地味なものです。
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