静寂の境地で生きると自らが行動そのものになる

2021-05-26 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

多くの場合、日常生活をするときに自動的な動作及び何か他のことを考えながら行動していたりします。

その時、行動そのものを感じられる状態になってはいないわけです。行動そのものから離れている状態を「雑念の中に生きている状態」だとか「雑念が多い」とか「煩悩で生きている」とか、流派によっては「無知に包まれている」みたいに言ったりもします。

これらは全て同じことを言っているわけですが、共通点としては、機械的な行動になってしまっているということです。

一方、静寂の境地に至ると、行動そのものが自らの意思と一致するようになります。

これは五感の皮膚の感覚を感じることとは異なります。似ていないこともありませんので誤解が時々あるのですけど、皮膚の感覚を感じることとこのこととはかなり違う状態です。

皮膚の状態を感じる瞑想はそれはそれであって、ヴィパッサナー系の流派で「動く瞑想」として行われいるものがそれで、例えばゆっくり歩きながら単に動きを観察するような瞑想だったり、あるいは、歩きながら感覚を実況中継するような瞑想などがありますけど、ここで言っている「行動そのもと意思との一致」とは、そのような一部のヴィパッサナー系流派で行われている「実況中継」の瞑想ではありません。

行動している状態そのものが自らの意思と一致する時に、たまたま皮膚の感覚があることも当然あるでしょう。しかし、割と皮膚の感覚と言うものは重要度が低く、体を動かしている意思そのものを観じられる状態こそがここで言う「行動そのものが自らの意思と一致した状態」なわけです。

それは、普通の生活においては体というものが常に存在していますので体を使った行動そのものが自らの意思と一致するというように認識されますけど、おそらくは、本当はそういうことではなく、自らの内に存在している意思そのものを知覚し始めた段階なのではないか、という気がしてきています。

これは、魂ということもできますし、流派によっては例えばヴェーダンタではアートマン(個別に存在している個としての意識)とか言われていたりヨーガではプルシャと呼ばれているものなのかもしれません。

体の行動そのものを知覚し始めた、と言う認識で知覚されてはいますけど、それよりはむしろ、魂あるいはアートマンのようなものを知覚し始めた、と考えた方がしっくりきます。