シャマタ(止)の瞑想からひと続きの心のサマーディへと移行する

2021-05-12 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

シャマタは西洋の言い方で言うとトランスと言うこともできて普通の思考する心を静止させることで奥深い心の本性(流派によってはリクパと呼ぶ)を表に出す効果があります。

概ね、以下の順番で瞑想が深まってゆくように思います。

1.顕教あるいはヴェーダンタ等の勉強系の学派による「理解」による悟り。これは顕在意識の普通の思考する心から悟りを理解しようという試みです。これはリクパとは基本的には無縁で、リクパが働いていない場合が多いですが働いている場合もあるにはあります。
2.心のシャマタ(静止)あるいはトランスの状態。ヨーガ・スートラの目的の1つ。普通の心を静止させることで心の本性であるリクパを一時的に働かせる技法。これを瞑想と呼ぶときもあればサマーディ(三昧)と呼ぶこともありますが、この段階ではまだ一時的な体験にすぎないです。
3.普通の思考する心と心の本性であるリクパの両方が働いていて心がひと続きに繋がった状態。この状態に遷移すると体験は一時的なものでなく継続的なものになります。どのくらい継続的かというと瞑想の深まりには依存してきますが普段の生活にまで瞑想のサマーディ状態を継続することができます。

一般的には瞑想は集中とか観察とか言われていて、その両者も瞑想の一番最初の段階から存在しているものですが、そのどちらの要素も瞑想が深まるにつれて違った様相を表してゆくということです。

最初に勉強をする場合もあればしない場合もありますけど、瞑想の実践においては(心の)シャマタ(静止)から初めてサマーディ(三昧)あるいはヴィパッサナー(観察)へと移行します。

そして、サマーディあるいはヴィパッサナーの状態というのは心の方は普通の心とリクパが割とひと続きになっていて、分断があまりない状態になっているわけです。それらは心の作用として別物になっており、思考としての作用と観察としての作用がそれぞれ存在しているわけですけれども、シャマタの段階においては普通の思考する心の作用を静止させなければリクパの奥深い心の観察する動きがなかなか出てこれなかったのが、サマーディの段階になれば普通の思考する心とリクパが共存することができるようになります。共存するということもできますけど、それはどちらも心の中の動きでありますので、実際には、共存というよりは心の中で普通の心とリクパとがひと続きになって存在していることがわかるようになるわけです。

それらは分断されたものではなく心の中の作用として存在している、あるいは、レイヤー(階層)が違っていて、細かく現実を見るのは普通の思考する心ですが、リクパはもっと広範囲に五感を司って観察及び指示をもしている心の階層なわけです。リクパというと観察ばかりがフォーカスされますがリクパとしての割と大雑把な方向性としての意志は持っており、それを直感とか感覚とか言うこともできますけど、リクパとしての心の作用としては波動を感じて波動に働きかけるものになります。その波動の働きかけに応じて思考の方向性及び行動の方向性が決められるわけです。

普通の心とリクパが分離しているあるいはリクパが働いていない状態ではそのような直感とか感覚が鈍っていて思考だけで働くことになります。

シャマタの段階では普通の思考する心が停止してリクパの直感と感覚だけが優勢に働く状態になりますので論理的思考が弱くなります。

一方、ひと続きの心を持って普通の心と奥深い意識(リクパ)が繋がって動作している時は普通の考える心(思考)と直感としての感覚とがどちらも働いている状態になるわけです。

瞑想の順序としては最初にシャマタから初めてリクパの働きをあらわにし、その後、ひと続きの心として普段の生活にまでサマーディを広げる、という順番になります。