<前回の続きを読んでいきます。>
ここでは、神を自分とは別のものとして礼拝する場合と、神を自分自身として礼拝する場合について論じられます。
前に、どちらの形で神を礼拝しても、その果は同じであると述べられました。しかし、そこには疑問が生じます。
神を自分とは別のものとして礼拝する人には、主はご自身の神聖な姿を現し、その人が身体を離れた後には、主の最高の住まいへ昇るとされます。一方、神を自分自身として礼拝する人は、ブラフマン、すなわち絶対者と一つになります。その人に場所の移動はありません。
では、どうしてこの二つの果が同じだと言えるのでしょうか。
神の実現の形は、修行中の礼拝者が持つ感情や信仰によって、それぞれ異なります。
神を自己と同一のものとして礼拝する人は、同一性の形で神を実現します。神を自分とは別のものとして礼拝する人には、神は礼拝者とは別のものとしてご自身を現します。
神は、それぞれの求道者の確信に応じて、異なる形で実現されるのです。
同一性にもとづく礼拝も、多様性にもとづく礼拝も、どちらも神の礼拝です。
なぜなら、神は絶対者であると同時に有属性でもあり、形あるものでも形なきものでもあり、顕れたものでも未顕現のものでもあるからです。
神を絶対で無形のものと見る人にとって、神は属性も形も持たないものです。神を有属性で無形のものと見る人にとって、神は形を持たないが属性を持つものです。
神を全能で、すべてを支え、すべてに遍満し、すべてを超え、あらゆる優れた徳に飾られたものとして見る人にとって、神はあらゆる高貴な徳を備えたものです。神がすべてを包み込んでいると見る人にとって、神はすべてを包み込みます。形と属性の両方を持つものとして神を認める人には、神はそのようにご自身を現します。
ここまで述べられたことは確かに正しいものです。しかし、それだけでは最初の問いはまだ解けません。
問いは、神が人によって異なる形で実現されるなら、どうしてさまざまな修行の果が一つであると言えるのか、ということでした。
これに対する答えは、最初の段階では、求道者による神の実現は、その人自身の神についての観念や、神に対する感情に対応するということです。
しかし、その後に来る神の真の本性の実現は、言葉の範囲を超えています。言葉は、それがどのようなものかを描写することができません。
究極的には、礼拝のあらゆる形の果は一つであり同じです。神が同一性の形で礼拝されるか、多様性の形で礼拝されるかは関係ありません。
この点を明らかにするために、主は、同一性の形で神を礼拝する人は主ご自身を実現すると述べ、また多様性の形で神を礼拝する人についても、ブラフマンと一つになる、永続する平安を得る、永遠で不滅の住まいに到達する、など、さまざまな表現で同じ真理を述べています。
アルジュナの心に、二つの礼拝の形の果が同一であることを印象づけるために、主は同じ真理を直接にも間接にも、さまざまな言い方で表しているのです。
到達されるべき目標、二種類の礼拝者が実現すべき真理は、一つであり同じものです。
それは、ある箇所では「最高の平安」「永遠の状態」と呼ばれ、別の箇所では「最高の住まい」と呼ばれ、また「不死の至福」「最高の状態」「最高の完成」などとも表現されます。
ギーターでは、この究極の果を示すために、多くの言葉が使われています。しかし、それについて言えるのは、それがすべての修行の果であるということまでです。それは言葉を超えています。
その対象に到達した人だけが、それを知ります。しかし、その人でさえ、それを言葉で説明することはできません。
ただ、それに似た言葉や表現を使って、指し示すことができるだけです。たとえば、新月を友人に教えるために、それに触れているように見える枝を指さすようなものです。
したがって、すべての霊的実践の「果」である至高の実在は、一つであると結論するのがもっとも理にかなっています。
神のこの実在は、超越的な性質を持ち、最高の神秘であり、あらゆる秘密の中の秘密です。それを実現した人だけが、それを知ります。
しかし、この言い方でさえ、その実在を指し示すためになされているにすぎません。論理的に考えれば、この表現さえも、まだ的を外しているのです。