<私は自分のことはサイキックとは言いません。サイキックという言い方は好きではないですし、そもそも、能力どうこうとか、そういうことが重要ではないのです。>
多くの人、特に女性は生まれた最初からサイキックなことが多いと思うのです。少なくとも私が生まれ育った環境はそうで、女性でサイキックではない人な方が珍しかったくらいです。男は鈍感で理解も浅く知能も物理的な見えるものにばかり目が向く傾向があったように思うのですが、特に女性はほとんどが生まれながらのサイキックだと思っていたのです。
ですが、何やら不思議なことに世間ではサイキック能力とやらが特別視され、それがあたかも凄いことのように騒がれていますけど、私の見たところ、サイキック能力とか言う人のパターンは以下が多いように思います。
・子供の頃は勘が鈍く、物理的な感覚のみで、スピリチュアルな能力および感覚が欠けていた。
・大人になって、ふとしたことで(理由は様々)能力がほんの少し出てきた
そして、その、本当にちょっとした能力を何やら凄いことかのように思い違いをしているのです。私の見たところ、大体のパターンがこれです。
子供の頃からそのような直感に優れている人は、そのような直感は当てにならない、100%ではないことを良く知っています。しかし、大人になってからちょっと勘が働くようになっただけの人の場合、その当てにならない直感をあたかも100%絶対に真実かのように思い違いをするのです。それはというと結局は現実との答え合わせの経験が少ないということですけど、そのような経験は子供の頃から勘が鋭ければ何度もやっているのです。子供の頃に鈍感だったから、大人になってからちょっと勘違いをしてしまうのです。
実際のところ、子供の頃から勘が鋭い人は自分の直感をサイキックだとか何とか、そのようには言わないです。単に勘が働いていると思うだけで、その勘は100%ではないので理論的にその精度を高めるために普通に学校などの勉強に励みます。そして大抵は能力が高いので良い大学に行きます。それが真実です。良い大学に行く人は凡人の努力家ももちろんいますけど、生まれながらにサイキックで勘が強く、そして記憶力も優れている人が良い大学に行きやすいのです。
そして、大人になってからサイキックだとか何かと勘違いしている人は普通の人生における生活能力も低いし仕事の能力も低いし、理解度も低く、結局、サイキックとかいうのは勉強や頭が良いことと相関関係があるのです。
本当に生まれながらにサイキック的であれば頭が良くて勉強ができて良い大学に行くのです。それが基本です。
とは言いましてもサイキックには様々に種類があって、自身の能力ということであればそういうことですけど、ミディアムのように守護霊やガイドに頼っている場合はこの限りではありません。その場合は自身というよりガイド等の能力に頼っているので、自身の勘というのがガイドのものになっていたりします。
実際はそのどちらなのか見分けが付きにくいことが最初はほとんどですけど、基本は、低次の波動の直感はあまり当たらなくて、高次の直感は割と当たりますが曖昧なことが多いです。どちらにせよ曖昧さが残りますので、最初から頭が良い人はその直感をあくまでも参考情報として、真実の理解を論理的に導き出します。
そういう点でいえば、サイキックとか何とかいうのはあまり関係なくて、勘が働いたらそれを論証する、という、まことに普通なことが行われているだけなのです。
実のところ、サイキックと言う言葉は一部で歪んで理解されていて、サイキックであれば100%正しい、というようなカルト信仰のようなものがあったりします。そのような環境では、例えばYoutube教祖様が直感で言ったことを信者たちが100%正しいものとして拡散するのです。そういうことであればサイキックというのはカルトを意味してしまいます。言われた方からしたらたまったものではなくて、ただの直感を100%正しいものとされてしまったら、反論もできなくなってしまいます。しかも、そのような状況ではYoutube教祖様はあれやこれや直感を言うだけで証拠を出さないことがあり、そうなると、迷惑を受けた側である言われた方がわざわざ反証を出して否定しなくてはならず、それに対してYoutube教祖様はあれやこれや言い訳を言うだけで責任を取らないか、のらりくらりするわけですから話にならず、関わるだけ損、相手にするだけ無駄、徒労に終わってしまうのです。であれば、そのような直感による発言は避けるべきかと思います。言われた方が迷惑しますから。
実際は、多くの人がサイキックなわけです。他人の思考を読んでそれを自身の考えとして泥棒している人は意外に大勢います。飲み会で他者とコミュニケーションを取るというのは、昔も今も他者の考えを抜き出すために存在意義があるという面もあるわけです。
ですから、サイキックというのは多くの場面において厄介者で、嫌われることが多々あるように思います。
そんなサイキック能力に憧れている人も大勢居ます。例えば他者の思考を読み取るとか、そのようなサイキック能力があると称して、実際、そのような人も大勢います。しかし、大抵の場合は読み取った考えの深い部分は読み取れず、ただ、そのように他者の考えを読み取ったことでヒステリーになって精神を壊します。そのようにヒステリーになるのであれば、そのようなサイキック能力など本当に必要でしょうか? そのように他者の考えを聞いたとして、そのような手法は正当なスピリチュアルの進化に沿っていませんので、ただ単に能力に特化したようなやり方は、やがて精神崩壊を招きます。それはというと能力重視で精神性の高さをそこまで重要視していないがために、能力に特化する過程で精神が焼き切れてしまい、混乱し、廃人になってしまうのです。能力があるように見えてヒステリーだったり人間性が備わっていない人が多いのは、その人が何を重視しているのかという点において能力を重視しているからそうなってしまうのです。
よく似ているように見えて違うお話があって、能力の重視はそのような精神の崩壊を招きがちですが、一方、エネルギーに注目するというのは正しい方向に導きます。波動の高さと低さを認知し、何が波動が低いのか、高いのか、エネルギーの強さと弱さ、そのようなところに集中すれば、ただ能力が高まって思考を読めれば良いとかいう能力重視の考えとは一線を画すでしょう。
実のところ、スピリチュアルのやり方においてテクニックのようなものがあって、他者の思考を読み取るという技術に特化するのであれば割と簡単にできるのです。それはというと低次のオーラを使う方法で、それは、他者のカルマをも共有してしまうために、相手のカルマに影響されてしまうのです。低次のオーラというのは粘着性があって、オーラあるいはエーテルはたまたアストラルの領域において他者の考えを抜き取るのです。エーテルの領域は体に近く、カルマもありますがそれよりも感情を引き受けてしまいます。アストラルはもう少しカルマに近く、カルマと感情と引き受けます。カーラナ(原因)を読み取るというのはなかなか難しいですが、その場合はあまりカルマに影響を受けず、カーラナであれば学びに使えるように思います。しかしながら、エーテルあるいはアストラルの領域で他者の考えをただ聞いたり感情を感じ取っているだけの場合、大抵はそのくらいなわけですけど、そうなると、カルマに影響されてしまうのです。ですから、テクニックで他者の思考を読み取る、というのはお勧めできないのです。自分が何をやっているのかも理解せずに自分のオーラを他者に伸ばして繋げる、みたいなテクニックを教えている人がぼちぼちいて、それはカルマを共有しますのでお勧めできませんし、読み取られた方もその読み取った方のカルマをもらってしまうので、読まれた方も迷惑なのです。
やもすれば、そのようなオーラの接触は攻撃とみなされて、当人は攻撃のつもりはなくても攻撃とみなされれば反撃されてしまうこともあります。スピリチュアルな攻撃や反撃というのは恐ろしくて、軽く数ヶ月あるいは数年はたまた一生続くような術をかけられてしまうこともあります。術を解除もできずにスピリチュアル能力が閉ざされてしまうこともあります。それは場合にもよりますが、基本的には一度やられて壊れたものは修復は難しく、できるにしても時間がかかります。しかも、そうやってリスクを負って手に入れた情報が正しいとも限らず、表面的なことも多々あり、本当の理解に至るには程遠いことも普通にあります。リスクとリワードが見合っていないのです。であれば、安易に他者に対して手を出さないのが良いわけです。他人の思考を読みたいとかいうサイキックに憧れる浮ついた気持ちは、たまにそういうお遊びの雑談も面白いですけど、本気にしてやらない方が良いわけです。それよりも、普通に勉強した方がよほどスピリチュアルな成長の助けになるように思うのです。サイキックなんかに憧れないことが肝心のように思います。生まれながらにサイキックな人は最初からそうですし、サイキックな人はすべからくしてそうであり、そうでない人はすべからくしてそうでないわけですから、あまり無い物ねだりしても仕方が無いですし、元からサイキックな人は「勘だけに頼ってはいけない」と気がついて勉強を始めるかどうかは地頭の良さにも左右されて、勘だけで生きていく人はよほど勘が優れているか或いは頭が悪いかのどちらかで、大抵は勘だけでは駄目だと気がついて普通に勉強を始めるわけです。
スピリチュアルでサイキック能力とか何とか言っていますけど、そういうのの相手をしない方が基本的には良いわけです。