様々なスピリチュアルの嘘が浮き上がってくる

2025-10-19公開 (2025-10-11 記)
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

勉強していなければカルトに騙されます。そもそもスピリチュアルは王者あるいはしっかりと勉強をする人たちのものであり、世間で気軽に言われている「お祈り」「引き寄せの法則」はほとんど効果がないと言えます。呑気にしていれば、そういう気にさせて大金をせしめるカルトの餌食になるだけです。

その騙される大抵は「気持ちが良くなる」「楽になる」とか、そういうところを目的としています。確かに、そういうこともあるでしょう。気分が良くなることもあるでしょう。しかし、それがゴールなのでしょうか。楽になるだけであれば、よくあるような「何も考えないようにする」ということをすれば(本当にできれば)楽になることもあるでしょう。しかし、大抵の場合は奴隷化のための口実としてそれは使われているのです。思考を辞めたところで、単に、考えないだけになる人がほとんどです。その本当の意味は高次の意識に繋がるために低次の意識を止めるということですが、低次の思考を止めたところで高次の意識まで辿り着かない人がほとんどです。そしてカルトあるいは権威者の言いように使われる、操作される、共依存関係の一枠に当てはめられてしまうのです。それが本当に覚醒や自由なのでしょうか。そうではないことは明白です。

では、他の目的はどうでしょうか。例えば「能力」を目的としている人たちがいます。例えば物を手を触れずに動かす、スプーンを曲げる、はたまた心を読む、とか、そういうことが目的の人たちです。実のところ思考とは低次の次元においては物理層と被っていますので、そのようなこともあるでしょう。しかし、力が強い人がいるように思考が強い人がいて、物理的な世界に対する影響力が行使できたとして、それが一体、何だというのでしょうか。例えば、物理的に筋肉があって力が強い人を見て特別だと思うのはそれが力があるからです。同様に、精神力がある人を見てそれが特別だと思うのはそれが力があるからです。それが特別だと思うのは個人の自由ですが、それが低次の次元である以上、その次元での力でしかないのです。それが求めるものだとしたら、求めればそれは得られるでしょう。筋肉を鍛えれば強くなるように、精神力も鍛えれば強くなるのです。技術を学んで鍛えれば強くなる、そのような種類のものです。それはそれで、精神修行の助けになり、否定するものではありませんが、それが究極のゴールではない筈です。このような能力がゴールだとしたら、それは、その先が見えていないということです。とは言いましても、最初は趣味で初めても、初めて見ればその奥深さに気付く、ということもありますから、そういう興味本位が入り口でも良いように思います。最初から堅苦しいことを言っていたら幅が広がりにくくなってしまいます。能力が目的であるのなら、それはあくまでも精神力を基にした技術の修養であると心得るべきであり、それはそれとして、その次元のものであると認識すべきことなわけです。しかし、あたかもその能力が究極的な悟りであるかのように喧伝され、それがスピリチュアルの本懐であるかのように認識されている状況が多分にあります。その状況はブッダがいた2000年前からさほど変わっていないようで、様々な能力を持っていたとしても悟っていない、ということはよくあるように思うのです。そのように、能力的なものがスピリチュアルの階梯であるかのように勘違いしている人が一定数います。

そのような能力を片目に、知識こそが最上としている人たちがいます。真理は五感で捉えられるものではないために、知識こそが真理を理解するための道具であるというのです。それはそれとして一面を説明していますが、そこで終わりでは無く、直接的に知る、というところがゴールになる筈です。知識の道も、表面的な知識(間接的な知識)と、直接的な知識、と分けて考えられています。文字通りの意味を理解するところが間接的な知識で、次に、直接的な知識に辿り着くわけです。しかし、頭の良い人は「知識こそが真理」と聞いて、頭で理解して「間接的な知識」だけで自分が真理を得たと心得て(勘違いして)しまいます。これは特に大学のような客観的な知識を得る場所で顕著で、実際に直接的な知識を得る前に自分が十分に理解したと思い込んでしまうのです。それはというと自尊心から来るエゴの防衛本能であるのですが、勉強していたとしてもそのような認知が防衛本能でしかないことに特に最初は気がつかないのです。そして、当面の間、自分が理解したと思い込むような状況が続きます。そのような時に良いグルがいればそのことにも気がつかせてくれたりもするのですが、グル自身も割とそこまでのレベルに達していなかったりしますので、昔から「良いグルに巡り会うのは幸いである」と言われているように、なかなか良いグルというのはいないものだと思います。であれば、ますます勘違いが助長される傾向にありますから、自分の認知が本当に正しいのか客観的に判断したり時間的にも長くかけて自身を見つめる必要があるわけです。

また、よくある誤解として、緊張が良くないだとか、リラックスした方が良い、とかいうお話があります。確かに緊張は様々な認知を弱らせますしリラックスした方が楽なのはそうでしょう。しかし、問題なのは、その現象そのものではないのです。緊張をしているということは原因があります。リラックスしていないということには原因があります。しかし、割とスピリチュアルやカルトがよくやることは、その緊張を緩和させるために塩のお風呂に入ったりマッサージを受けたり、あるいは自分たちがやっている高額なヒーリング(という、時に詐欺まがいのもの)を受けさせるのです。原因は他にあります。その原因を取り除けば一瞬に解決するのに、短期的な処置を延々と繰り返させるのです。根本処置になっていないことがほとんどなのです。

マッサージにしても、筋肉をほぐして一時的に緩和することがほとんどです。一方、根本原因を治すマッサージもありますがそのようなものは希です。ヒーリングにしても、本当にヒーリングしようとするならばその人のオーラに触れる必要があり、そうなると、気をつけないとオーラが接触してカルマを交換してしまうため、気軽にヒーリングなどは受けない方が良いし、気軽に自分がそのようなことをしない方が良いのです。単純に気のレベルでエネルギーを送るくらいならば割と簡単に誰でもできますので、そのくらいのヒーリングであれば害もないように思いますが、そうであれば高額は取らない筈です。カルトは世界最高のヒーリングを喧伝して高額ヒーリングを売ってきますので、そういうのには関わらない方が良いのです。大抵はコスパが悪すぎるのです。ヒーリングやマッサージなどは、全て、ヨーガのエネルギー・ルート(ナディ)あるいは中国の経絡に基づいています。体の不調というのはエネルギー的な不調なのです。ですから、どこかの調子が悪ければどのエネルギー・ルートが細くなっていて通りが悪くなっているのかをまず診断し、そのルートが塞がっているのであれば通してあげる、あるいは、細いのならば太くしてあげる、というのが本当のヒーリングなのです。しかし、大抵の場合は外部からエネルギーを与えて一時的に気持ちを良くして終わりで、エネルギー・ルートに影響を与えられていないことがほとんどなのです。あるいは体の周囲に広がっているエネルギー・ルートの調整をしているようなヒーリングも一部にはありますが、自分が認知できていなければ下手にエネルギー・フィールドを動かしてしまい、逆に不調になってしまったりするのです。そのような状況で、不慣れなエネルギー施術者に自分の体を預けるというのはあまりお勧めできることではないのです。

エネルギー的な不調に対して、「緊張」「頭痛」「不調」といった症状が出ます。そして、その対処方法はもちろんエネルギー的な対処になるのです。

しかし、カルトあるいはよく分かっていないスピリチュアルなカウンセラーは「考えすぎ」「考えないようにする」というような、精神分析的な、心理学カウンセラー的なアプローチをすることが多いのです。それはかなり的外れなのですが、それでも、当人は「霊視ができる(30分5千円)」「チャクラを開けることができます(1つ100万円)」とか、高額メニューを並べていたりするのです。そしてカウンセリングの内容は霊視とはかけ離れた、単に心理学カウンセラー的な内容に終始したりすることがよくあるのです。結局、自分もよくわかっていない霊視だとかチャクラだとかいうお話を持ち出して、自分の心理学カウンセラーの知識を用いてそのようなメニューをこなしていたりするのです。そもそもメニューを見れば内容がおかしいのです。ツッコミどころが満載で、「チャクラを1つ明けて100万円」とかメニューにありますけど、そもそも、チャクラとはそういうものではないです。チャクラというのが何なのか分かっていないので、そのような意味不明なメニューを出して、結果、スピリチュアル初心者から大金をせしめるのです。もしかしたら当人は本当にできると思い込んでいる、あるいは、思い込まされているかもしれませんが、開くとしても肉体に近い経脈がそうして多少は開くとしても、高次のチャクラはそのようなものではないです。多少開きやすくなるということがあっても、基本は自分が努力で開くわけで、その勉強代としての金額だとしたらもしかしたら意外に受講者は満足しているのかもしれませんが、メニュー内容としては欺瞞に満ちています。

そのように、聞こえの良い言葉で宣伝して実際は違う、というのがスピリチュアルには多くて、それはマーケティング的には良い効果があるかもしれませんが、スピリチュアルの本懐は「言葉がそのまま現実化する」というところにありますので、そうして、言葉と現実とが分離したマーケティングで聞こえの良い宣伝をしている人は、そのような「言葉が現実化する」というレベルにまだ達していないと言えます。とは言いましても、それ以前の低いレベルの人が、それよりも更に低いスピリチュアル初心者に宣伝をして受講者を集める、というのは、割とスピリチュアルの理解度における階層を構成しているのかもしれません。どちらにしても、そのように、聞こえの良い宣伝で人を集めるのは割と低いスピリチュアルなレベルでしかないわけです。スピリチュアルなことが分かってくるとだんだんとそのような喧伝の多くが嘘あるいは単なる宣伝文句でしかないことがわかるわけですが、初心者はわからないわけです。

スピリチュアルは、結局、エネルギー的なことに辿り着きます。自分が扱える宇宙エネルギーの大きさこそがスピリチュアル的な高低であるわけです。それが高次のエネルギーかどうか、強いかどうか、それが決め手になるわけです。

そして、自分の体においてそのような大きなエネルギーを扱うには、エネルギールート(ヨーガでいうナディ)が開いていないといけないわけです。特に、不調などは体の各所および頭の中のエネルギー的なルートと密接に関わってきます。ですから、多くの場合は問題の根幹はエネルギーであるのに、精神分析で心理学カウンセラー的に対処しても、問題の根幹には辿り着かないのです。

確かに、認知が歪んでいる場合は心理学的アプローチも役に立つこともあるでしょう。それは認知の問題であり、自分で気がつかない箇所もあるかもしれません。心理学アプローチが有効なのは割とエネルギー的に健全な場合のお話であり、大抵の場合、エネルギー的に問題を抱えているように思うのです。あるいは、エネルギー的な問題があることに気がついていない場合も多いように思うのです。

私の場合、長らく、問題が別のところにあると(周囲からの言動により)思い込まされていました。ですが、特に最近になって確信を強くしたのは、他者の(歪んだ)認知を拒否する過程で、特に頭の周辺のエネルギーを強く塞ぐような自己防衛反応に至った、ということです。

アドラー心理学において、困難に遭遇した時に行動する3つのタイプがあり、回避、対処(挑戦)、攻撃(非難)というものがありますが、特にこの最後において、私は何故か周囲から攻撃としての発言を受けることが多く、認知が歪んだ発言を多く受けてきました。今ならば、そのような人は、自己のエゴを守るためにひねくれて他者(私)を攻撃して来たと言うことが分かりますが、そのように、ひねくれている、しかし、(肉体的な)力が強い、という厄介者を退けるために頭の認知を閉じたのです。そのことが、今にまで後を引き、ヨーガで頭のエネルギーを使うことを困難にしているのです。

瞑想で最近は頭のエネルギーを活性化させていますが、頭が一回り大きくなってきたような感覚があります。それはというと、元々思春期に周囲の言葉の暴力により頭の成長が妨げられ、今になって、ようやくヨーガの方法を使って本来は思春期に起こる筈だった頭の成長が起こってきたように思うのです。

思春期の時期に周囲から言動の暴力を長く受けた人が頭が正常に成長しないという研究結果もあったかと思いますが、私はその被害者であったと言えます。そのような人は私だけではない筈です。

そして、結局、多くの人がエネルギー的な不調にあって、結果、本来はエネルギー的な対処が必要なところを、エネルギー的な対処と言いつつ期待させておきながら延々と対処療法としてのエネルギー補充しかしないようなカルトがいたり、はたまた、スピリチュアルを謳いながら心理学カウンセリングでお茶を濁したり、霊視を謳いながら不正確な直感を言っているだけだったり、「世界で唯一」を謳ったり、はたまた、「考えないこと」というような古典的な誤解のあるお話を持ち出して黙らせようとしたり、本筋が分かっていないカウンセリングが多く横行しているのです。

とは言いましても、私自身は見習いですので大したことはできませんので他人のことをとやかくいうなというお話もあるかと思いますが、大抵の場合は大きなことを言って大したことができていない人が多い状況かと思います。

最近の理解では、結局、頭のエネルギーをどうにかしなければスピリチュアルな問題は解決しないということです。それは昔から言われていたサードアイ(アジナ・チャクラ)のことであり、結局、古典的なそこに行き着くわけです。様々な回り道をしましたが、結局、基本に忠実に居れば良かった、ということになるように思います。

大抵の場合、ある程度やってみて、言われているようにならなかったからそれは嘘あるいは間違いだと見做す人が多いように思います。しかし、ある種の出来事はそのハードルが高いが故に、なかなかそうはならないのです。また、落とし穴も多いのです。かなりの場合において、エゴの防衛反応により「自分ならできるはず」「自分ができないということは、何かが間違っている、これは正しくない」と見做してしまうのです。ですが、本当のところというのは遙か彼方にあり、しかし、自分が届いていないだけということを認めることができない人が多く、よって、自分ならば達成できる筈なので文献の通りならないということは文献が間違っていると見做してしまうわけです。そして、そういうときに、カルトの手が忍び寄ってきます。「ここに本当の教えがある」「これ(イニシエーション等)を受ければ貴方も覚醒できる」という甘い謳い文句が喧伝されており、数十万あるいは時に数百万というお金がそこに費やされるのです。実際は、自分で瞑想しても同じ、あるいは、むしろ自分でやった方が早いわけですが、往々にして、そのようなカルトは成果泥棒および恩着せがましいので成果は全てカルトのものになってしまうのです。言葉ではワンネスだとか非自己だとかエゴをなくすだとか聞こえの良いことを言っているカルトが、結局は「成果泥棒によりカルトの権威を高める」、というマーケティングの手法のサイクルを用いて、他人のふんどしを使って集客力を高めているのです。実際は参加者の努力であるものが、カルトの成果とみなされ、そしてそれが宣伝として使われるということです。

結局、必要なのは自己鍛錬です。瞑想をして、時にヨーガをするのも良いでしょう。そして大切なのは自分の仕事をきちんと行うということです。自分の仕事が一番時間が長いわけですから、そこで精神修養もできればそれが一番の成長になるわけです。

時に、浮ついた気持ちでスピリチュアルの喧伝に騙されて大金を費やしても、結局、自分の精神修養が一番大事であるというところに戻ってくるわけです。