ほぼこの相関関係があるように思います。瞑想をして鼻根にエネルギーを通し、額や頭の中が振動したりエネルギーが通ってくると、目を瞑っていても相応の光が見えるようになりました。
ヨーガの古典や各種の書籍には「眩しいばかりの太陽の様な光」と描かれることも多々ありますが、私の場合は光が見えたからと言って眩しいわけではなく単に相応の強さの光を感じつつも眩しくはありませんのでその描写と全く同じかどうかはわかりませんが、それはただ単に表現の違いだけで同じことなのかもしれません。
又、書籍によってはチャクラが開く時にそのように光が見える、と、一過性のような記述があります。私の場合は額にエネルギーが通ると光が見える、という相関関係であり、チャクラがしっかり開いたかというとまだそうでもなさそうですので、もしかしたら開く時にそのように強烈な光になるのかもしれません。そうでなくてもほのかな相応の光が見えています。
はたまた、流派によっては瞑想中に光が見える、としているところもあります。その教えには、その光は大した意味がないので気にしない、無視する、としています。
他の瞑想の教えでは、光は丹光であるとしているところもあります。
ヨーガの一部の教えでは、アジナから光が出て超感覚的にものをアストラル的に見る、としています。
意味がある流派とそうでない流派、様々な言及がありますが、私の理解としてはこうです。
光は、アジナとしての超感覚的な視覚そのもの。アストラル視野のための光。額から頭の中心のアジナ・松果体にかけてのエネルギー的なルート(ヨーガでいうナディ)が作られて開通すると光が見える。人によっては最初からそれなりに開いていたりするため目を閉じると相応に光が見えることがある。その光が強くなれば目を開けていても超感覚的な視野が開ける。あるいは目を開けていても視界の外側にその視野が現れる。よって、何かを超感覚的に見る時に目を大きく外側に動かす、ということをすると通常の視野角の外側にある超感覚的な視覚を使いやすいが、実のところ物理的な目と超感覚的な目とは別物なので慣れれば肉体の目を動かす必要はない。
そして、本山博先生の著作によれば、強い光が見えるのはカーラナ(原因)界であると言います。その一歩手前のアストラル界の段階においても相応の光がありますが、眩い光というのはカーラナのものであると言います。アストラルの光あるいは色は、アストラル下層では真っ黒、アストラル上層では薄いスミレ色であるとのことです。別の記述ではアストラル上層では黒と光が混ざった漆黒のような色であるとの記述もあります。どちらにせよアストラル界においては暗いという特徴があるようです。
そして、アストラル界とはそもそも感情の世界であり喜怒哀楽があります。一方、カーラナは清浄で光に溢れた世界です。カーラナであってもまだ悟りではないですが、それでも、アストラル界から離れて清浄に近づいているわけです。
そのカーラナの光がアジナにエネルギーが入ることで感知できるわけです。