雑念が出ても放っておく、という教え

2021-07-27 記載
トピックスピリチュアル

瞑想の流派によっては「雑念が出ても放っておきましょう」という教えがありますけど、その教えは瞑想の集中状態あるいはサマーディの、特に心のサマーディの観照状態において正しいように思います。

ですけど、それ以前であれば、それは単なる標章としてしか機能しないように思います。

雑念が出ても放っておく、という教えに従って本当に放っておくならば雑念が拡大していって雑念のループにより雑念が強くなり、怒りや憎しみ、嫉妬などの思いがより強くなるのが(瞑想をあまりしていない人にとっては)普通のように思います。

雑念が出ても繰り返さない、という教えをしているところもありますけど、それは「結果」としてはその通りですけど、そのようにしようとしてもできるものではありません。

もし、心でそのことを意図するのならば、瞑想ができているイメージを作り上げて「私は雑念が出ても放っておくことができています」「私は雑念が出てきても繰り返しません」という、雑念でしかない心の思いを何度も繰り返すことでその気になる、というようなことも簡単に起こります。これは瞑想初心者にありがちなことで、おそらくは誰しもが通る道ですのでそれほど悪いことではなく、むしろ、瞑想をして少し経験を積んだ証となるものですけど、そこで立ち止まるわけにはいかないのですよね。

結果として雑念をループさせない、というのは良いとして、それ自体が「手段」ではないのですよね。

ですから、雑念をループさせないための手段を考える必要がある訳です。

それは聖典に記載されていて、マントラを唱えるとか、眉間に集中するとか、聞こえる人であればナーダ音を聞くことで心を一点に縛りつける、というようなことをおこないます。これらは手段としては違いますが、いずれにしても彷徨う心を縛り付けて1点に集中させる、という点においては共通しています。これらの手段のうち、通っている流派で教えている方法があればそれをすればいいですし、あるいは、選べるならば自分に合ったやり方をすれば良い訳です。この段階において良し悪しはさほどなく、好みと、自分に合った志向があるだけです。

この段階では「雑念が出ても放っておく」ということはなくて、雑念が浮かぶ場所である心の動きを封じ込めて1点に縛りつけることで他のことが心に浮かばないようにするわけです。マントラを唱えて集中しているときは雑念が入ってきませんが、油断すると雑念が入ってきますのでそこは意思の力でマントラに集中を何度となく戻す、ということをおこないます。眉間に集中する場合もそうです。眉間に集中していると雑念が入ってきて眉間への集中が途切れたりしますが、ふと気づいて意思の力で眉間への集中を戻してあげます。これは目を瞑っているとなかなか気付けない場合もありますが、急いでいなくて時間に余裕がある場合は少しづつ行えばいいと思います。ナーダ音に関しても同様で、ナーダ音に集中することが基本で、雑念が入ってきてもそれは放っておいて、ふと気づいてナーダ音に意識を戻してあげます。

この種の、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の集中に戻す、というのが基本としてあります。このお話は、心は基本的に1つしか考えることができない、ということをベースにしています。瞑想の集中の対象にフォーカスして、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の対象に集中しましょう、という教えです。

瞑想において雑念が出ても放っておく、というのは基本的にはこういうことを言っているわけですけど、その先に、サマーディ状態において心の観照状態というのもあって、それも表現としては割と似ていて雑念が出ても放っておく、ということにはなるのですけど、心のサマーディにおいては心の背後にあるアートマン(真我)が観照している状態ですので、状態としてはかなり違うわけです。



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