知るもの、知られるもの、知ること(手段)
ヨーガやスピリチュアルではこれら3つのお話が度々出てきます。
最初の2つは割と自明ですけど、最後の「知ること(手段)」は、文献によっては「進行形(〜ing)」のことだったり「手段」として説明されていて、あまりはっきりとしません。
スピリチュアルでもこれが引用されていて、ヨーガの説明やヴェーダンタ的な解釈とはそれぞれ微妙に異なっていたりします。ですけど、概ね、以下の2つの解釈に分類できると思います。
■解釈1:普通の心を軸に説明したもの。ヨーガスートラ的解釈。スピリチュアルでたまに見る解釈
・普通の顕在意識の「私」が「知るもの(者)」
・物体や認識・知識の対象としての「知られるもの」
・「知ること(〜ing)」あるいは「知る手段」(としての行動を基にした)としての「(普通の)心の認識」
ヨーガスートラではこれら3つが1つになる時がサマーディ(三昧)という説明がされています。
それは確かにその通りかとは思うのですけど、これら3つ全てを観察するものとしてのアートマン(プルシャ、心の本性)が現れた状態がサマーディ、ということですので、1つになる、というのはわかりにくい表現かと思います。最初はアートマンとしての意識は出ていませんけど、アートマンの意識がこれら3つを観照する状態になることがサマーディということです。
このことが分かりにくければ、とりあえず、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」がいわゆるアートマン(プルシャ、心の本性)に置き換わる、と考えてもひとまずは良いかとは思います。この場合の解釈としては、アートマンが「私」としての「知るもの(者)」も「知られるもの」のどちらも含めて知っている状態(認識状態)になるのがサマーディということです。それは「観照」ということもできますけど、「知るもの(者)」も「知られるもの」の両方を観察している状態がサマーディということであり、それをヨーガスートラでは「これら3つが1つになる」と説明しているわけです。表現として難解ではありますけど、こういうことだと解釈すればすんなり理解できます。
この時、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」は物理的な行動のことだけでなく心の作用についても言及しているわけです。ですから、実際には「知るもの(者)」も「知られるもの」の2つだけでなく、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」としての普通の心の作用も含めてアートマンは観察しているわけです。ですから、本質で言えば3つ全てを観察しているのがアートマンということではあるのですけど、とりあえず、理解のためには2つだけをアートマンが観照するようになる、と理解しておいてもそう間違いではないと思います。
■解釈2:アートマン(プルシャ、あるいは心の本性)とそれ以外を説明したもの。ヴェーダンタ的解釈
・アートマンが「知るもの(者)」
・アートマン以外のこの世の全てが「知られるもの」
・認識対象を受け取る「手段」としての「心」(普通の心、顕在意識)
これはこれで明確なのですけど、この場合、3つのものが1つになるとかそういうことはなくて、単に3つの分類として説明されているだけです。
ですから、似たようなこの3つのお話が出てきた時、「知るもの(者)」が普通の心の顕在意識のことを意味しているのかあるいはアートマンのことを意味しているのかで解釈が大きく変わってきますので、スピリチュアルやヨーガおよびヴェーダンタの文献を読むときはそのコンテキストに注意が必要かと思います。
最初の2つは割と自明ですけど、最後の「知ること(手段)」は、文献によっては「進行形(〜ing)」のことだったり「手段」として説明されていて、あまりはっきりとしません。
スピリチュアルでもこれが引用されていて、ヨーガの説明やヴェーダンタ的な解釈とはそれぞれ微妙に異なっていたりします。ですけど、概ね、以下の2つの解釈に分類できると思います。
■解釈1:普通の心を軸に説明したもの。ヨーガスートラ的解釈。スピリチュアルでたまに見る解釈
・普通の顕在意識の「私」が「知るもの(者)」
・物体や認識・知識の対象としての「知られるもの」
・「知ること(〜ing)」あるいは「知る手段」(としての行動を基にした)としての「(普通の)心の認識」
ヨーガスートラではこれら3つが1つになる時がサマーディ(三昧)という説明がされています。
それは確かにその通りかとは思うのですけど、これら3つ全てを観察するものとしてのアートマン(プルシャ、心の本性)が現れた状態がサマーディ、ということですので、1つになる、というのはわかりにくい表現かと思います。最初はアートマンとしての意識は出ていませんけど、アートマンの意識がこれら3つを観照する状態になることがサマーディということです。
このことが分かりにくければ、とりあえず、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」がいわゆるアートマン(プルシャ、心の本性)に置き換わる、と考えてもひとまずは良いかとは思います。この場合の解釈としては、アートマンが「私」としての「知るもの(者)」も「知られるもの」のどちらも含めて知っている状態(認識状態)になるのがサマーディということです。それは「観照」ということもできますけど、「知るもの(者)」も「知られるもの」の両方を観察している状態がサマーディということであり、それをヨーガスートラでは「これら3つが1つになる」と説明しているわけです。表現として難解ではありますけど、こういうことだと解釈すればすんなり理解できます。
この時、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」は物理的な行動のことだけでなく心の作用についても言及しているわけです。ですから、実際には「知るもの(者)」も「知られるもの」の2つだけでなく、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」としての普通の心の作用も含めてアートマンは観察しているわけです。ですから、本質で言えば3つ全てを観察しているのがアートマンということではあるのですけど、とりあえず、理解のためには2つだけをアートマンが観照するようになる、と理解しておいてもそう間違いではないと思います。
■解釈2:アートマン(プルシャ、あるいは心の本性)とそれ以外を説明したもの。ヴェーダンタ的解釈
・アートマンが「知るもの(者)」
・アートマン以外のこの世の全てが「知られるもの」
・認識対象を受け取る「手段」としての「心」(普通の心、顕在意識)
これはこれで明確なのですけど、この場合、3つのものが1つになるとかそういうことはなくて、単に3つの分類として説明されているだけです。
ですから、似たようなこの3つのお話が出てきた時、「知るもの(者)」が普通の心の顕在意識のことを意味しているのかあるいはアートマンのことを意味しているのかで解釈が大きく変わってきますので、スピリチュアルやヨーガおよびヴェーダンタの文献を読むときはそのコンテキストに注意が必要かと思います。
体の感覚が希薄になる
昔、瞑想中に度々そういう状態に一時的になることは前からよくありましたけど、最近は、普段の生活において体の感覚が希薄になってきました。
自分の体や周囲の目に見えるものが幻であるかのように思えてきました。
そのこと自体はスピリチュアルやヴェーダンタが言うように「この世は幻」と言うことではあるのですけど、知識自体は30年以上前から良く知っていて、「まあ、そうなんだろうな」とずっと理解していて、もはや常識みたいに「そうなのでしょうけど」と思ってはいたのでしょうけど、最近になって、こう言うことか、と言う自覚が出てきました。
体の感覚が希薄になって、希薄になったところをふと目で確認してみるときちんと体はあるのですが、あるのは五感としての皮膚の感覚だけで、「存在」としての感覚が希薄になっているのです。
それはどう言うことかと言いますと、おそらくは、「存在」としての自分の形を心の中で作っていて、それが体の全体に対して、濃淡はあるもののそれなりに体の各所に対してその「存在」が満ちていたように思うのです。それはいわゆる普通の「私」としての自覚および感覚であって、「私」と言う個体が切り離されていると言う自覚の大元になっているものが私の体の形に似たものとして肉体に重なって存在していたように思います。
その、「私」の感覚が、最近はとても希薄になっていて、スカスカの状態になっているので、五感としての感覚はあるのですけど、それ以外の、今まであった「私」と言う感覚における体の感覚があまりない感じなのです。ふと「あれ?体がないかな?」と思って見てみるときちんと存在はしていて皮膚で何かに触れるとその感覚があるときちんとあるので目で見えている体はきちんとあるようなのですが、自分の肉体に重なって存在していた、いわゆる「私」と言う感覚が希薄になっているように思います。
今の状態は五感が割と鋭くなっていて皮膚の感覚は以前よりもダイレクトに入るようになってきていますので、五感という意味では希薄になっていなくてむしろ鋭くなってはいるのですけど、ここで言っているのは、目に見えずに肉体の私に重なって存在していた「(割と重い)私」と言う感覚が希薄になってきているということです。
よくスピリチュアルでは、肉体がなくなる前にオーラが先に抜けるとか言いますけど、死ぬ前兆だったのだとしたら嫌だなとはちょっとは思います。手足がなくなる前兆だとしても嫌ですけど、とりあえず、感覚的には死ぬこともなさそうですし手足がなくなるわけでもないかな、と思っていますけど。どうでしょうね。体の感覚が希薄になったからといって特に生活に不都合なくて、むしろ快適ではあるのですけど、ちょっと先がまだ見通せないので多少の心配がなくはない、と言ったところです。
体の感覚が希薄になるのと同時に、意識が周囲の数mにまで広がってきて、周囲の空間が何かに満たされていることを感じています。それと同時に自分の体の感覚が希薄になってきた感じですので、まあ、こんなものかな、と今は思っています。
自分の体や周囲の目に見えるものが幻であるかのように思えてきました。
そのこと自体はスピリチュアルやヴェーダンタが言うように「この世は幻」と言うことではあるのですけど、知識自体は30年以上前から良く知っていて、「まあ、そうなんだろうな」とずっと理解していて、もはや常識みたいに「そうなのでしょうけど」と思ってはいたのでしょうけど、最近になって、こう言うことか、と言う自覚が出てきました。
体の感覚が希薄になって、希薄になったところをふと目で確認してみるときちんと体はあるのですが、あるのは五感としての皮膚の感覚だけで、「存在」としての感覚が希薄になっているのです。
それはどう言うことかと言いますと、おそらくは、「存在」としての自分の形を心の中で作っていて、それが体の全体に対して、濃淡はあるもののそれなりに体の各所に対してその「存在」が満ちていたように思うのです。それはいわゆる普通の「私」としての自覚および感覚であって、「私」と言う個体が切り離されていると言う自覚の大元になっているものが私の体の形に似たものとして肉体に重なって存在していたように思います。
その、「私」の感覚が、最近はとても希薄になっていて、スカスカの状態になっているので、五感としての感覚はあるのですけど、それ以外の、今まであった「私」と言う感覚における体の感覚があまりない感じなのです。ふと「あれ?体がないかな?」と思って見てみるときちんと存在はしていて皮膚で何かに触れるとその感覚があるときちんとあるので目で見えている体はきちんとあるようなのですが、自分の肉体に重なって存在していた、いわゆる「私」と言う感覚が希薄になっているように思います。
今の状態は五感が割と鋭くなっていて皮膚の感覚は以前よりもダイレクトに入るようになってきていますので、五感という意味では希薄になっていなくてむしろ鋭くなってはいるのですけど、ここで言っているのは、目に見えずに肉体の私に重なって存在していた「(割と重い)私」と言う感覚が希薄になってきているということです。
よくスピリチュアルでは、肉体がなくなる前にオーラが先に抜けるとか言いますけど、死ぬ前兆だったのだとしたら嫌だなとはちょっとは思います。手足がなくなる前兆だとしても嫌ですけど、とりあえず、感覚的には死ぬこともなさそうですし手足がなくなるわけでもないかな、と思っていますけど。どうでしょうね。体の感覚が希薄になったからといって特に生活に不都合なくて、むしろ快適ではあるのですけど、ちょっと先がまだ見通せないので多少の心配がなくはない、と言ったところです。
体の感覚が希薄になるのと同時に、意識が周囲の数mにまで広がってきて、周囲の空間が何かに満たされていることを感じています。それと同時に自分の体の感覚が希薄になってきた感じですので、まあ、こんなものかな、と今は思っています。
アートマンの意識は自己の周囲にあまねく満ちている
あまねく、とは言いましても今は自分の周囲数m程度の範囲ではありますが、意識が満ちていることが良く分かります。「満ちている」ということを別の言い方で言えば「ダイレクトに満遍なく繋がっている」ということもできますし、昔ながらの瞑想的な言い方であれば「観照」ということもできます。
これらは、対象があってどこかから見ている、という普通の目のお話ではなくて、満ちている意識それぞれが満遍なくそれぞれの場所にダイレクトに繋がっていて特に体であればその満ちている意識が体の隅々(とは言いましても濃淡は多少ありますが)まで広がっていて体それぞれの部署とそれぞれに満遍なく意識が繋がっているわけです。リモコンみたいに繋がっているわけではなくて、満ちている意識が体と重なっていて、というか体もその意識そのものであるかのように感じられて、意識と体、そして、意識と周囲の空間とがそれぞれ繋がっているわけです。
何もない空気だけの空間であっても同じで、そこにも意識が満ちています。
この意識のことをインドのヴェーダンタでは「アートマン(真我)」あるいは「ブラフマン」と言って、古来から、その実在性が聖典で伝えられてきました。
実際のところ、インドで伝わっているこの種のお話は基本的には勉強のお話ですが、ヨーガや瞑想などをすることによってこれらを勉強だけでなく実際に経験できて継続的にその状態になることができることを最近は実感しています。
瞑想で言えば「観察」ということもできますけど、顕在意識による観察ではなくて、アートマン(真我)による観察のことです。それを言い換えれば「観照」ということもできます。
このアートマン(真我)をハイヤーセルフということもありますけど、ハイヤーセルフは様々なコンテキストで使われていて定義がはっきりしないため、アートマン(真我)の方が適切かと思われます。。
意識が空間に満ちていて、その空間には自分の体も含まれて、その意識が体をダイレクトに動かしていることを実感し、それと同時に、体の感覚が希薄になっています。
これは、言葉だけを聞くと「ロボットみたいになったこと?」と思われるかもしれませんが、逆で、アートマンと肉体および普通の心(顕在意識)とが一体になっている状態ですので、より人間らしくなっていると言えるかもしれません。かといって特に愛想が良くなったとかそういうことはそんなにはなくて意識の状態だけのお話ですけど、アートマンと人と心を言い換えればキリスト教で言うところの三位一体と同じことかなという気も致します。
キリスト教では三位一体として父(神)・子(キリスト)・聖霊が1つとうたっていますけど、(キリスト教徒にこんなこと言うと怒られてしまうかもしれませんけど)それぞれがアートマン(としての意識)と人間の肉体と普通の心が一体になることを表現しているのだとすれば、同じことであると言えると思います。
比喩的に言えば神の意識と言ってもそう間違いではないアートマンの意識が自分の周囲に満ちていて、体と心および周囲の空間をも貫いて一体になっているわけです。
これらは、対象があってどこかから見ている、という普通の目のお話ではなくて、満ちている意識それぞれが満遍なくそれぞれの場所にダイレクトに繋がっていて特に体であればその満ちている意識が体の隅々(とは言いましても濃淡は多少ありますが)まで広がっていて体それぞれの部署とそれぞれに満遍なく意識が繋がっているわけです。リモコンみたいに繋がっているわけではなくて、満ちている意識が体と重なっていて、というか体もその意識そのものであるかのように感じられて、意識と体、そして、意識と周囲の空間とがそれぞれ繋がっているわけです。
何もない空気だけの空間であっても同じで、そこにも意識が満ちています。
この意識のことをインドのヴェーダンタでは「アートマン(真我)」あるいは「ブラフマン」と言って、古来から、その実在性が聖典で伝えられてきました。
実際のところ、インドで伝わっているこの種のお話は基本的には勉強のお話ですが、ヨーガや瞑想などをすることによってこれらを勉強だけでなく実際に経験できて継続的にその状態になることができることを最近は実感しています。
瞑想で言えば「観察」ということもできますけど、顕在意識による観察ではなくて、アートマン(真我)による観察のことです。それを言い換えれば「観照」ということもできます。
このアートマン(真我)をハイヤーセルフということもありますけど、ハイヤーセルフは様々なコンテキストで使われていて定義がはっきりしないため、アートマン(真我)の方が適切かと思われます。。
意識が空間に満ちていて、その空間には自分の体も含まれて、その意識が体をダイレクトに動かしていることを実感し、それと同時に、体の感覚が希薄になっています。
これは、言葉だけを聞くと「ロボットみたいになったこと?」と思われるかもしれませんが、逆で、アートマンと肉体および普通の心(顕在意識)とが一体になっている状態ですので、より人間らしくなっていると言えるかもしれません。かといって特に愛想が良くなったとかそういうことはそんなにはなくて意識の状態だけのお話ですけど、アートマンと人と心を言い換えればキリスト教で言うところの三位一体と同じことかなという気も致します。
キリスト教では三位一体として父(神)・子(キリスト)・聖霊が1つとうたっていますけど、(キリスト教徒にこんなこと言うと怒られてしまうかもしれませんけど)それぞれがアートマン(としての意識)と人間の肉体と普通の心が一体になることを表現しているのだとすれば、同じことであると言えると思います。
比喩的に言えば神の意識と言ってもそう間違いではないアートマンの意識が自分の周囲に満ちていて、体と心および周囲の空間をも貫いて一体になっているわけです。
禅定からプルシャの独存、そして「空」との合一へ
仏教で禅定は色界4つ(形のあるものが4つ)・無色界4つ(形のないもの=心の世界が4つ)の合計8つで、その後、滅盡定を経て金剛定にてプルシャ(アートマン)の独存、最後は「全体」としてのブラフマンへの合一というステップになります。
このあたりは明確に記されている書物が少なくて、きちんとこの辺りを理解して書いている書物は手元にあるものでは2つあり、1つは本山博先生の書物で、もう1つは油井真砂先生の「信心と坐禪」です。
テーラワーダ仏教も色界禅定から無色界禅定の途中までは割合とわかりやすいのですが、無色界の後の方の記述は曖昧で、はっきりとしません。
ヨーガはその最終目的地がプルシャの独存で、ヨーガスートラなどが詳しいです。
インドのヴェーダンタは最終目的地である「個」としてのアートマン(サンキャ哲学におけるプルシャに近いもの)と「全体」としてのブラフマンに関する記述はとても詳しいです。
チベット仏教、特にゾクチェンの見解は瞑想をする上で理解の役に立ちます。
どれも1つで全てをカバーしているわけではないのですが、手に入りやすい文献としては本山博先生の見解がとても参考になります。
最後の段階は「空」とも比喩されますけど、いわゆる「悟り」と同義だと思って頂いて良いかと思います。それまでは「空」を垣間見たり理解する段階ですけど、最後にはその「空」と一体になるわけです。この最後の段階は「覚醒」とも言えるかもしれませんけど、覚醒という言葉だけであればもっと早い段階で起こるといえば起こりますので、全体のブラフマンとしての自覚であれば最後の段階にならないと起こらないわけです。
本山博先生の著作はヨーガだとか超能力だとかそういうテーマも多いのでチャラチャラしているかのように誤解されることもあるのですけど、インドのスワミとの交流もあってかなりヨーガに詳しいですし、文献を読むと、この人はわかっている、というのが伝わってきます。
私が最近になってようやく理解した上記の階梯にしても本山博先生の著作でその裏付けがなされたわけですし、その著作は30年以上前に書かれたものだったりします。まさに大家ですね。
最近読んだ本山博先生の著作によれば、仏教は元々ブッダが愛に飢えていた節があり、色界と無色界に分けるだけで良いものを、色界に含まれている欲界をわざわざ別にしていたり、最終目的地にて愛を説くというのは結局はブッダが愛に飢えていて、それは母親が早くに死別して無償の愛を受けられなかった欠乏感によるものだ、と述べていて、そうかもしれない、と思わされました。
それによれば、仏教の禅定の最後の方を通り抜けてブッダが明らかに悟っていて、それはまさに上記のような階梯であるということです。
ブッダに関しては色々と誤解があってヴェーダ系と対立していたとか言われていたりもしますけど、境地からすれば同じ境地に達していたのだと思います。であれば、世間で言われているような、仏教がヴェーダ系よりも上だとかヴェーダの方が仏教の方が上だとか比べるのはあまり意味がなくて、どちらも同じ境地なわけですよね。
そのことが、本山博先生や油井真砂先生の著作を読むとよくわかるわけです。
このあたりは明確に記されている書物が少なくて、きちんとこの辺りを理解して書いている書物は手元にあるものでは2つあり、1つは本山博先生の書物で、もう1つは油井真砂先生の「信心と坐禪」です。
テーラワーダ仏教も色界禅定から無色界禅定の途中までは割合とわかりやすいのですが、無色界の後の方の記述は曖昧で、はっきりとしません。
ヨーガはその最終目的地がプルシャの独存で、ヨーガスートラなどが詳しいです。
インドのヴェーダンタは最終目的地である「個」としてのアートマン(サンキャ哲学におけるプルシャに近いもの)と「全体」としてのブラフマンに関する記述はとても詳しいです。
チベット仏教、特にゾクチェンの見解は瞑想をする上で理解の役に立ちます。
どれも1つで全てをカバーしているわけではないのですが、手に入りやすい文献としては本山博先生の見解がとても参考になります。
最後の段階は「空」とも比喩されますけど、いわゆる「悟り」と同義だと思って頂いて良いかと思います。それまでは「空」を垣間見たり理解する段階ですけど、最後にはその「空」と一体になるわけです。この最後の段階は「覚醒」とも言えるかもしれませんけど、覚醒という言葉だけであればもっと早い段階で起こるといえば起こりますので、全体のブラフマンとしての自覚であれば最後の段階にならないと起こらないわけです。
本山博先生の著作はヨーガだとか超能力だとかそういうテーマも多いのでチャラチャラしているかのように誤解されることもあるのですけど、インドのスワミとの交流もあってかなりヨーガに詳しいですし、文献を読むと、この人はわかっている、というのが伝わってきます。
私が最近になってようやく理解した上記の階梯にしても本山博先生の著作でその裏付けがなされたわけですし、その著作は30年以上前に書かれたものだったりします。まさに大家ですね。
最近読んだ本山博先生の著作によれば、仏教は元々ブッダが愛に飢えていた節があり、色界と無色界に分けるだけで良いものを、色界に含まれている欲界をわざわざ別にしていたり、最終目的地にて愛を説くというのは結局はブッダが愛に飢えていて、それは母親が早くに死別して無償の愛を受けられなかった欠乏感によるものだ、と述べていて、そうかもしれない、と思わされました。
それによれば、仏教の禅定の最後の方を通り抜けてブッダが明らかに悟っていて、それはまさに上記のような階梯であるということです。
ブッダに関しては色々と誤解があってヴェーダ系と対立していたとか言われていたりもしますけど、境地からすれば同じ境地に達していたのだと思います。であれば、世間で言われているような、仏教がヴェーダ系よりも上だとかヴェーダの方が仏教の方が上だとか比べるのはあまり意味がなくて、どちらも同じ境地なわけですよね。
そのことが、本山博先生や油井真砂先生の著作を読むとよくわかるわけです。
アートマンの独存からブラフマンへ
私が内なるガイドから教えて頂いたところによれば、これはもはや、深さと広がりの面で終わりがないお話だ、ということのようです。それ以前は段階的な変化が割と大きくありましたが、これからは程度問題であって、終わりがない、ということのようなのです。
と、言いますのは、まず、その一歩手前であるアートマンあるいはプルシャの独存という段階は心の本性あるいは仏の心と言っても良いものが現れてくる段階で、そこには大きな変化があります。それ以前はまだアートマン(あるいはサンキャ的に言えばプルシャ)は現れておらず、アートマンの独存の段階で新たなる世界へと踏み出したわけです。それは顕在意識と対比するところの無意識の世界ということもできますけど、アートマンが出てくるということは、元々無意識だった世界の一部が意識の世界へと変わるということでもあります。
その時、最初はまず自分の体の近くから始まって、やがて広がってゆくわけですけど、その時、主に2つあるいは3つの観点から広がってゆきます。
・自分からの距離(物理的な距離と時間的な距離の両方)
・深まり
最初は感覚は薄くて、やがて、感覚が深まっていきます。
また、最初は自分のほんの近くの、体のハートの部分だけだったものが体全体に広がり、体から周囲数m、というように次第に広がっていきます。それは距離的なものもあれば、時間的なものもあります。
このどちらもそれぞれ起こりますので、深まりつつ、広がってゆくわけです。最終地点というのはヴェーダンタで言われていますように一応は「全体」としてのブラフマンに辿り着くということにはなっていますけど、距離が広がることと、その感覚が深まることにおいては、終わりがない、ということのようなのです。ですから、アートマンの独存に関しては「達成」があるのですけど、ブラフマンに関しては程度の違いだけがあって、「終わり」というものがない、ということのようなのです。アートマンの独存がスタート地点と言っても良いかもしれません。
人によっては自分の周囲が自分と同一視できるのであればその距離感と深まりにおけるアートマンですし、あるいは、地域、あるいは国全体が自分のアートマンになる人もいるかもしれません。完全なる「全体」ではないのであれば人によってはずっとアートマンと言い続けるかもしれませんし、ちょっと広がったらブラフマンと言う人もいるかもしれません。ですけど、アートマンとブラフマンのお話は相対的なお話で、ブラフマンを知るとは言ってもアートマンを知ることによって同じ質であるブラフマンを知る、ということですから、ブラフマン自身に本当になるのは生きている人間にとってはないのかなと思います。そのように教わりました。完全なる宇宙全体のブラフマンは生きている人間には不可能で、概念としてのブラフマンは宇宙全体のことですから、修行者がアートマンからブラフマンへ、というように言うときは相対的なお話でブラフマンを知った、という状態のようです。
ヴェーダンタでは個人としてのアートマンが実はブラフマンと同一であると解いていて、そのことは真実ではあるのですけど、どうやら、どの程度までそのように認識できるのかは個人差があるようなのです。これは聖典の記述とも一致します。聖典や過去の聖者の文献によれば、アートマンの質を知ることでブラフマンを知ることができる、と書かれてあったりします。それは、本質としてブラフマンと同一なものが自らにあって、自らの質であるアートマンとブラフマンとが同じであることを実際に体感して知るのが一応のウパニシャッド(ヴェーダンタ)の最終地点になっています。そのことを「ブラフマンを知る」とか「ブラフマンになる」みたいに比喩的に書かれていますけど、実際には、アートマンが広がっていくことによってブラフマンを少し知る、と言うことのようです。
ヴェーダンタをただ読んだだけではゼロイチのお話のように解釈することもできて、アートマンの次はブラフマンを知る、という意味に読めたりしますけど、そこには程度のお話があるということのようです。最初はアートマンを知って、それがブラフマンと同質のものであることを知るわけです。その後、次第にその範疇が広がっていって、ブラフマンの全体に近づいていくわけです。近づくと言うこともできれば、同質化すると言うこともできますし、ブラフマンに溶け去る、と言うこともできます。川の水が大海に溶け込む、という比喩を用いたりします。
ですから、どうやら、ここから先は深まりと距離において成長があるだけ(だけ、というよりももっと重大なことではありますけど)ということのようです。ここで、距離、と言っていますけど、量子力学において言われているように時間と空間とは対になっていますから、遠くの距離まで見れるということは、遠くの時間まで見れる、ということでもあるようです。
文字通り「全体」としてのブラフマンになることはこの短い人生において達成することはなくて、比喩的なブラフマンとしてある程度の広がりを体験してゆくことになるようですから、これからは、この深まりを楽しむ段階にあるようです。
私の場合、体の周囲がそれとなくほんの少しわかる程度ですのでまだまだな感じではあります。
川から海にたどり着いてみたらあまりもの大きさに圧倒されている、という感じもあります。
一応、これが「故郷」と比喩してもいい場所かもしれません。長い旅路の一つの終着地点に到達して、新たなるスタートを切ったわけです。
と、言いますのは、まず、その一歩手前であるアートマンあるいはプルシャの独存という段階は心の本性あるいは仏の心と言っても良いものが現れてくる段階で、そこには大きな変化があります。それ以前はまだアートマン(あるいはサンキャ的に言えばプルシャ)は現れておらず、アートマンの独存の段階で新たなる世界へと踏み出したわけです。それは顕在意識と対比するところの無意識の世界ということもできますけど、アートマンが出てくるということは、元々無意識だった世界の一部が意識の世界へと変わるということでもあります。
その時、最初はまず自分の体の近くから始まって、やがて広がってゆくわけですけど、その時、主に2つあるいは3つの観点から広がってゆきます。
・自分からの距離(物理的な距離と時間的な距離の両方)
・深まり
最初は感覚は薄くて、やがて、感覚が深まっていきます。
また、最初は自分のほんの近くの、体のハートの部分だけだったものが体全体に広がり、体から周囲数m、というように次第に広がっていきます。それは距離的なものもあれば、時間的なものもあります。
このどちらもそれぞれ起こりますので、深まりつつ、広がってゆくわけです。最終地点というのはヴェーダンタで言われていますように一応は「全体」としてのブラフマンに辿り着くということにはなっていますけど、距離が広がることと、その感覚が深まることにおいては、終わりがない、ということのようなのです。ですから、アートマンの独存に関しては「達成」があるのですけど、ブラフマンに関しては程度の違いだけがあって、「終わり」というものがない、ということのようなのです。アートマンの独存がスタート地点と言っても良いかもしれません。
人によっては自分の周囲が自分と同一視できるのであればその距離感と深まりにおけるアートマンですし、あるいは、地域、あるいは国全体が自分のアートマンになる人もいるかもしれません。完全なる「全体」ではないのであれば人によってはずっとアートマンと言い続けるかもしれませんし、ちょっと広がったらブラフマンと言う人もいるかもしれません。ですけど、アートマンとブラフマンのお話は相対的なお話で、ブラフマンを知るとは言ってもアートマンを知ることによって同じ質であるブラフマンを知る、ということですから、ブラフマン自身に本当になるのは生きている人間にとってはないのかなと思います。そのように教わりました。完全なる宇宙全体のブラフマンは生きている人間には不可能で、概念としてのブラフマンは宇宙全体のことですから、修行者がアートマンからブラフマンへ、というように言うときは相対的なお話でブラフマンを知った、という状態のようです。
ヴェーダンタでは個人としてのアートマンが実はブラフマンと同一であると解いていて、そのことは真実ではあるのですけど、どうやら、どの程度までそのように認識できるのかは個人差があるようなのです。これは聖典の記述とも一致します。聖典や過去の聖者の文献によれば、アートマンの質を知ることでブラフマンを知ることができる、と書かれてあったりします。それは、本質としてブラフマンと同一なものが自らにあって、自らの質であるアートマンとブラフマンとが同じであることを実際に体感して知るのが一応のウパニシャッド(ヴェーダンタ)の最終地点になっています。そのことを「ブラフマンを知る」とか「ブラフマンになる」みたいに比喩的に書かれていますけど、実際には、アートマンが広がっていくことによってブラフマンを少し知る、と言うことのようです。
ヴェーダンタをただ読んだだけではゼロイチのお話のように解釈することもできて、アートマンの次はブラフマンを知る、という意味に読めたりしますけど、そこには程度のお話があるということのようです。最初はアートマンを知って、それがブラフマンと同質のものであることを知るわけです。その後、次第にその範疇が広がっていって、ブラフマンの全体に近づいていくわけです。近づくと言うこともできれば、同質化すると言うこともできますし、ブラフマンに溶け去る、と言うこともできます。川の水が大海に溶け込む、という比喩を用いたりします。
ですから、どうやら、ここから先は深まりと距離において成長があるだけ(だけ、というよりももっと重大なことではありますけど)ということのようです。ここで、距離、と言っていますけど、量子力学において言われているように時間と空間とは対になっていますから、遠くの距離まで見れるということは、遠くの時間まで見れる、ということでもあるようです。
文字通り「全体」としてのブラフマンになることはこの短い人生において達成することはなくて、比喩的なブラフマンとしてある程度の広がりを体験してゆくことになるようですから、これからは、この深まりを楽しむ段階にあるようです。
私の場合、体の周囲がそれとなくほんの少しわかる程度ですのでまだまだな感じではあります。
川から海にたどり着いてみたらあまりもの大きさに圧倒されている、という感じもあります。
一応、これが「故郷」と比喩してもいい場所かもしれません。長い旅路の一つの終着地点に到達して、新たなるスタートを切ったわけです。
スピリチュアルの言う「感じること」
ニューエイジやスピリチュアルでは「感じること」が重要視されていて、普通に読むと五感と言うことですけど、実際には、そこでは心の本性による覚醒の働きであるリクパのことを意味しているわけです。
それを、比喩的に、わかりやすくいうと「感じること」になるのかなと思います。
ただ、そこには誤解の入る余地があるように思います。
普通にこれを聞くと、体の感覚や視覚など五感を感じればそれでいい、みたいなお話になってしまいますけど、そうではないわけで。
ただ、このあたりは説明している側もよく分かっていないことが多くて、五感で感じてゆっくり生活すればそれがスピリチュアル、みたいな理解が基本にある気がしますけど実際はそれが普通の五感でのお話なのかそれとも心の本性のお話なのかでかなり違ってくるわけです。
もしこれを五感のお話だと理解してしまうと、何もかもを受け入れてくれるような静かな環境に依存してしまうようなことになります。最初の初心者のうちは仕方がないのですけど、本来のスピリチュアルは心の中にあるものですので、周囲の環境に依存した静かな心ということであれば、環境に依存してしまっているということでもあります。それが初心者であるという自覚があるならばまだいいのですけど、スピリチュアルを静かな環境を選択したり作り出す道具として用いてしまい、他人を攻撃する口実としてスピリチュアルを使ったり、あるいは、感覚の激しさに耐えきれなくなって爆発してしまうようなキレやすいスピリチュアルになってしまいます。結果、自分の心地の良い環境を追い求めて山の中に籠ったり、自分に対して心地よく接してくれる人を追い求めた挙句に自立していなくて他人をコントロールしようとする変なスピリチュアル教祖にハマってしまったりするわけです。
心の本性を用いて覚醒(リクパ)をする場合は五感も感じますけど五感を見る者としての心の本性が働くわけです。その観照の働きのことを覚醒と言ったりリクパと言ったり悟りと言ったりもしますけど、とても微妙なお話で、比喩的に言えば簡単に「感じること」ということもできますけど、「感じる」と言ってしまうと誤解が混じってしまう余地があるわけです。
スピリチュアルな教師から「感じれば良いのですよ」と言われたら「ああ、そうか!」と、物分かりがいい簡単なお話かのように思えて、既にそれができているかのような錯覚に陥ってしまう可能性があるわけで、このような簡単な表現はわかりやすい一方で、よくわからない状態に陥ってしまう危険性もあるわけです。
かと言って、厳密に言ったところで誰も興味を持たずにスルーしてしまう可能性も大きいわけで。なかなか難しいですね。
わかりやすく言って誤解を招くようなスピリチュアルな教師は必要悪なのかもしれませんね。そういう人と私とは個人的な関わり合いはないですけど。
それを、比喩的に、わかりやすくいうと「感じること」になるのかなと思います。
ただ、そこには誤解の入る余地があるように思います。
普通にこれを聞くと、体の感覚や視覚など五感を感じればそれでいい、みたいなお話になってしまいますけど、そうではないわけで。
ただ、このあたりは説明している側もよく分かっていないことが多くて、五感で感じてゆっくり生活すればそれがスピリチュアル、みたいな理解が基本にある気がしますけど実際はそれが普通の五感でのお話なのかそれとも心の本性のお話なのかでかなり違ってくるわけです。
もしこれを五感のお話だと理解してしまうと、何もかもを受け入れてくれるような静かな環境に依存してしまうようなことになります。最初の初心者のうちは仕方がないのですけど、本来のスピリチュアルは心の中にあるものですので、周囲の環境に依存した静かな心ということであれば、環境に依存してしまっているということでもあります。それが初心者であるという自覚があるならばまだいいのですけど、スピリチュアルを静かな環境を選択したり作り出す道具として用いてしまい、他人を攻撃する口実としてスピリチュアルを使ったり、あるいは、感覚の激しさに耐えきれなくなって爆発してしまうようなキレやすいスピリチュアルになってしまいます。結果、自分の心地の良い環境を追い求めて山の中に籠ったり、自分に対して心地よく接してくれる人を追い求めた挙句に自立していなくて他人をコントロールしようとする変なスピリチュアル教祖にハマってしまったりするわけです。
心の本性を用いて覚醒(リクパ)をする場合は五感も感じますけど五感を見る者としての心の本性が働くわけです。その観照の働きのことを覚醒と言ったりリクパと言ったり悟りと言ったりもしますけど、とても微妙なお話で、比喩的に言えば簡単に「感じること」ということもできますけど、「感じる」と言ってしまうと誤解が混じってしまう余地があるわけです。
スピリチュアルな教師から「感じれば良いのですよ」と言われたら「ああ、そうか!」と、物分かりがいい簡単なお話かのように思えて、既にそれができているかのような錯覚に陥ってしまう可能性があるわけで、このような簡単な表現はわかりやすい一方で、よくわからない状態に陥ってしまう危険性もあるわけです。
かと言って、厳密に言ったところで誰も興味を持たずにスルーしてしまう可能性も大きいわけで。なかなか難しいですね。
わかりやすく言って誤解を招くようなスピリチュアルな教師は必要悪なのかもしれませんね。そういう人と私とは個人的な関わり合いはないですけど。
胸の内にまだ残る「個」の核を包んでいるつぼみが開けてくる
おそらくアートマンの独存という段階に私はいて、まだ私は「個」として存在しています。「個」とは言いましても自分の内なるアートマンの質はブラフマンと同一だと自覚していて、自分の周囲の数mまでは自己同一視できている状態ではあるのですが、未だ、いわゆる「全て」と同一にはなっていない状態です。
その、同一できていない状態はと言いますと、まだ「個」が残っている、ということでもあります。その「個」とは、概ね感覚的なもので、胸の中にまだ「個」が残っていると認識されていて、その「個」は、感覚で言いますと若干の緩やかな「緊張」のようなものとして認識されています。
緊張と言っても少しの緊張ではあります。体の周囲はいわゆる「無限」「空」あるいはアートマンとも言える「空間」に溶け込んではいるのですが、胸の内に至るまではまだその無限と完全に溶け込んではおらず、それは感覚としては「緊張」に似たようなものとして感じられているということです。
それはトラウマとはまた違ったもので、この段階に至ってもまだトラウマというのはあるようで、とは言いましても以前よりトラウマの解消はとても早くなってきており、10秒とか30秒でほぼ解消できて、以前のように数分ということはないですし、かなり以前のように数日とか数ヶ月悩まされてるということも、もちろんないです。トラウマの解消の方法も変わってきていて、トラウマが出てきてもすぐに気付けるというのが第一で、それに加えてトラウマを結晶化して抜き出すということをしています。最近はお腹のあたりにモヤモヤと眠っていたトラウマを水晶あるいはダイヤのような形に結晶化して取り出しました。ですけど、ここで感じている胸の中の「緊張」のようなものは、トラウマとはまた違った種類のものです。内なるガイドによれば少し前に取り除いたダイヤのような結晶が最後の大きなトラウマだった、ということのようですから、今回のはトラウマとはまた違うようです。
それは、比喩的に言えば「空じられていない私」ということになるかと思いますが、まだ最後に残された「私」が感覚的には「緊張」として認識されていて、もっと具体的に言えば、胸の中それ自体は緊張というよりもコアのような感じで、それがあるゆえにその周囲の、例えば肩のあたりにほんの少しの緊張が生まれている、という感じです。
ヨーガではリラックスすることが重要とか言われていますけど、この肩の緊張は単に肉体的な緊張ではなくて「私」が存在することによる弱い緊張ですので、それが完全にリラックスできる日が来るのかはよくわかりませんけど、なんとなく、この「私」という胸の内の感覚が完全に空じられてブラフマンと一体化すると完全なるリラックスができるのでは・・・? と思っておりますが、どうでしょうかね。
階梯で言いますと私はアートマンの独存という状態にいて、まだブラフマンとは合一していない状態かと思います。
十牛図で言いますと「第五図 牧牛」から「第六図 騎牛帰家」ですね。
■第五図 牧牛
気付きによって真実を得ることもあるが
迷いによって我を忘れてしまうこともある
対象のせいでそうなるのではなく、ただ心より生じている
だから鼻索を強く引いてためらわないようにせよ「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」
ここで真実と言っているのは心の本性(セムニー)が覚醒状態(リクパ)にあるということで、気付きの状態(リクパの覚醒状態)で真実であるアートマン(あるいはプルシャ)の自覚を得る、ということです。迷いによって我を忘れる、というのはリクパの状態から落ちてしまう時もある、ということです。ですから、この段階では時々、ただ気付きを再確認するということが必要です。
■第六図 騎牛帰家
牛と童子がぶつかり合うこともなくなり、ついに1つとなって家山へと帰ってゆく。(同書より)
同書によれば牧牛の段階はプルシャの独存で、騎牛帰家は(一時的な)ブラフマンとの合一、ということのようです。同書では騎牛帰家の段階で「プルシャ(アートマン)の離脱」が起こってブラフマンと合一すると書かれてありますけど、私にはその自覚はないですから、それはまだですかね。理屈で言っているだけで実際はただブラフマンとの合一、ということなのかなとも解釈できますけど、どうなのでしょう。実際にプルシャの離脱として認識されるのですかね。そこはまだわからないです。
おそらく、牧牛の段階ではプルシャ(アートマン)が主に胸の内に存在していてまだブラフマンと合一していない、ということかと思います。私の場合、アートマンは胸の内に強く感じられて自分の周囲数mまで自己として認識できているものの、まだ胸の内に上記のようなコアがあるような感覚で、それは十牛図のように強く「ぶつかる」という感じではないですけど、そのコアはまだ上記のように若干の弱い緊張としてありますので、まあ、それを「ぶつかる」と表現できなくもない、という感じです。自分では「ぶつかる」とは言いませんけど、表現として、十牛図の言い方で言うと確かに一致しているかな、とも思います。
私は第五図 牧牛から第六図 騎牛帰家に進む段階のようです。
これは、座った瞑想をしばらく1時間とか2時間すると緊張それ自体は解けて肩も柔らかくなるのですけど、それ自体がそのままブラフマンの合一というわけではないようです。
更に瞑想を度々しつつ何日かすると、緊張が解けるだけでなく、花の「つぼみ」が段々と開けてくるような胸の感覚が出てきます。
それは、チャクラでよく言われているような「花びら」が一枚一枚開く、という感覚ではなく、それよりも、硬く小さく纏まっている花弁のつぼみが少しずつ広がっていく感覚と同時に、皮が何枚もむけてゆくような感覚とが同時に起こります。つぼみが広がる、と言えばそうですし、緊張が解ける、と言えばそうですし、胸が「広がる」と言えばそうも言えますし、皮が何枚も何回もむける、ということもできます。この微妙な感覚を表現するならばいく通りもの表現方法がありますが、簡単に比喩的に言えば「広がる」ということでもありますし、胸にあった塊の皮が何枚もむけて「剥き出し」になる、とも言うこともできます。
これがいわゆる「チャクラが開く」ということなのかどうかはわかりませんけど、そうとも言えるかもしれません。そもそも、マニプラとかアナハタなどのオーラが優勢になる、という段階であればかなり前から体験してきていますけど、今回のように明らかに何かが開けてくる感覚はその時にはなくて、同様に、少し前に創造・破壊・維持の力を胸に感じた時は「開く」という感覚とはまた違っていました。
最初は「緊張」として胸の中に認識されましたけど、それは緊張というよりは、アナハタが開き始めた、と言えるのかもしれません。でもまあ、まだ様子見ではありますけど。
その、同一できていない状態はと言いますと、まだ「個」が残っている、ということでもあります。その「個」とは、概ね感覚的なもので、胸の中にまだ「個」が残っていると認識されていて、その「個」は、感覚で言いますと若干の緩やかな「緊張」のようなものとして認識されています。
緊張と言っても少しの緊張ではあります。体の周囲はいわゆる「無限」「空」あるいはアートマンとも言える「空間」に溶け込んではいるのですが、胸の内に至るまではまだその無限と完全に溶け込んではおらず、それは感覚としては「緊張」に似たようなものとして感じられているということです。
それはトラウマとはまた違ったもので、この段階に至ってもまだトラウマというのはあるようで、とは言いましても以前よりトラウマの解消はとても早くなってきており、10秒とか30秒でほぼ解消できて、以前のように数分ということはないですし、かなり以前のように数日とか数ヶ月悩まされてるということも、もちろんないです。トラウマの解消の方法も変わってきていて、トラウマが出てきてもすぐに気付けるというのが第一で、それに加えてトラウマを結晶化して抜き出すということをしています。最近はお腹のあたりにモヤモヤと眠っていたトラウマを水晶あるいはダイヤのような形に結晶化して取り出しました。ですけど、ここで感じている胸の中の「緊張」のようなものは、トラウマとはまた違った種類のものです。内なるガイドによれば少し前に取り除いたダイヤのような結晶が最後の大きなトラウマだった、ということのようですから、今回のはトラウマとはまた違うようです。
それは、比喩的に言えば「空じられていない私」ということになるかと思いますが、まだ最後に残された「私」が感覚的には「緊張」として認識されていて、もっと具体的に言えば、胸の中それ自体は緊張というよりもコアのような感じで、それがあるゆえにその周囲の、例えば肩のあたりにほんの少しの緊張が生まれている、という感じです。
ヨーガではリラックスすることが重要とか言われていますけど、この肩の緊張は単に肉体的な緊張ではなくて「私」が存在することによる弱い緊張ですので、それが完全にリラックスできる日が来るのかはよくわかりませんけど、なんとなく、この「私」という胸の内の感覚が完全に空じられてブラフマンと一体化すると完全なるリラックスができるのでは・・・? と思っておりますが、どうでしょうかね。
階梯で言いますと私はアートマンの独存という状態にいて、まだブラフマンとは合一していない状態かと思います。
十牛図で言いますと「第五図 牧牛」から「第六図 騎牛帰家」ですね。
■第五図 牧牛
気付きによって真実を得ることもあるが
迷いによって我を忘れてしまうこともある
対象のせいでそうなるのではなく、ただ心より生じている
だから鼻索を強く引いてためらわないようにせよ「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」
ここで真実と言っているのは心の本性(セムニー)が覚醒状態(リクパ)にあるということで、気付きの状態(リクパの覚醒状態)で真実であるアートマン(あるいはプルシャ)の自覚を得る、ということです。迷いによって我を忘れる、というのはリクパの状態から落ちてしまう時もある、ということです。ですから、この段階では時々、ただ気付きを再確認するということが必要です。
■第六図 騎牛帰家
牛と童子がぶつかり合うこともなくなり、ついに1つとなって家山へと帰ってゆく。(同書より)
同書によれば牧牛の段階はプルシャの独存で、騎牛帰家は(一時的な)ブラフマンとの合一、ということのようです。同書では騎牛帰家の段階で「プルシャ(アートマン)の離脱」が起こってブラフマンと合一すると書かれてありますけど、私にはその自覚はないですから、それはまだですかね。理屈で言っているだけで実際はただブラフマンとの合一、ということなのかなとも解釈できますけど、どうなのでしょう。実際にプルシャの離脱として認識されるのですかね。そこはまだわからないです。
おそらく、牧牛の段階ではプルシャ(アートマン)が主に胸の内に存在していてまだブラフマンと合一していない、ということかと思います。私の場合、アートマンは胸の内に強く感じられて自分の周囲数mまで自己として認識できているものの、まだ胸の内に上記のようなコアがあるような感覚で、それは十牛図のように強く「ぶつかる」という感じではないですけど、そのコアはまだ上記のように若干の弱い緊張としてありますので、まあ、それを「ぶつかる」と表現できなくもない、という感じです。自分では「ぶつかる」とは言いませんけど、表現として、十牛図の言い方で言うと確かに一致しているかな、とも思います。
私は第五図 牧牛から第六図 騎牛帰家に進む段階のようです。
これは、座った瞑想をしばらく1時間とか2時間すると緊張それ自体は解けて肩も柔らかくなるのですけど、それ自体がそのままブラフマンの合一というわけではないようです。
更に瞑想を度々しつつ何日かすると、緊張が解けるだけでなく、花の「つぼみ」が段々と開けてくるような胸の感覚が出てきます。
それは、チャクラでよく言われているような「花びら」が一枚一枚開く、という感覚ではなく、それよりも、硬く小さく纏まっている花弁のつぼみが少しずつ広がっていく感覚と同時に、皮が何枚もむけてゆくような感覚とが同時に起こります。つぼみが広がる、と言えばそうですし、緊張が解ける、と言えばそうですし、胸が「広がる」と言えばそうも言えますし、皮が何枚も何回もむける、ということもできます。この微妙な感覚を表現するならばいく通りもの表現方法がありますが、簡単に比喩的に言えば「広がる」ということでもありますし、胸にあった塊の皮が何枚もむけて「剥き出し」になる、とも言うこともできます。
これがいわゆる「チャクラが開く」ということなのかどうかはわかりませんけど、そうとも言えるかもしれません。そもそも、マニプラとかアナハタなどのオーラが優勢になる、という段階であればかなり前から体験してきていますけど、今回のように明らかに何かが開けてくる感覚はその時にはなくて、同様に、少し前に創造・破壊・維持の力を胸に感じた時は「開く」という感覚とはまた違っていました。
最初は「緊張」として胸の中に認識されましたけど、それは緊張というよりは、アナハタが開き始めた、と言えるのかもしれません。でもまあ、まだ様子見ではありますけど。
サマーディ状態でオーラの調整をする
サマーディでは雑念は割とすぐに消えてゆきますが、オーラの状態の調整は昔と変わらずした方がいいように思います。
雑念に関しては3段階あって、弱い力のチェルドル、中間のシャルドル、最終的なランドルとあるわけですけど、私の今の状態はシャルドルで、ランドルになるとどうかはわかりませんけど、少なくとも今の状態においてはオーラの調整が必要のようです。
オーラの状態は揺らいでいて、何をするかというと特に今までと変わらず座ってあぐらをかいて瞑想をしながら眉間に集中するわけですけど、眉間に集中することでオーラが安定してきます。
この状態ですと、自分がまどろみの中にいることを感じたりします。
オーラが安定していない状態においては以前は雑念が出てきましたけど、今はただ単にオーラの揺らぎを感じてそれを見ているだけです。感じる、と言いますけど、目ではないですけど一応は視覚のようなもので煙あるいは濃い霧のような異空間のような不思議な空間が瞑想中の視界のようなものに入ってきて、その煙の中に様々な意識体が不意に現れては何かを主張したり不意な行動をしたりどこかに行ってしまったり、という揺らぎの空間があって、それを観察しているわけです。
これはおそらく、オーラが安定していないと見なくてもいいものが見えてしまう、ということだと思います。見えているのはアストラル的な異空間かと思いますが、それはそれほど高い次元のものではなくて、単に人間の想念あるいは死後の意識体などが生活しているアストラルな空間のように思います。
それは見る必要が本来なくて、もっと高い波動になればそのようなところにフォーカスしなくなるわけです。
スピリチュアル的に言うと、波動が少し落ちているからそのようにアストラル的なものが見えてしまうわけです。
スピリチュアルの波動の法則で言われているように、人が見えるものは自分の波動に即したものでありますから、アストラル的なものが見えるということは波動が落ちているわけです。
そのような時は瞑想をして普通に眉間に集中してしばらくするとエネルギーが満ちてきて、やがてはオーラが安定してゆきます。オーラが安定していない時はエネルギーは下半身が優勢になっていますが瞑想をすることでバランスを取る、あるいは、頭の方にまでエネルギーを上げてあげます。そうするとオーラが安定して、アストラル的なものも見えなくなります。
そのようにオーラが不安定の時は頭のあたりにもやもやとしたオーラの雲がかかっている状態ですので、瞑想をして眉間に集中することでそれらを取り払うことができます。取り払うと言ってもどこかに捨ててしまうということではなく、単に安定させて、特にそのような浄化されていない頭のオーラは吸い込まれるように喉のヴィシュッダで浄化されるようです。
瞑想をしていると、概ね2段階のエネルギーの上昇があります。最初は雑多なエネルギーの上昇、やがてはしっかりとしたエネルギーの柱の上昇、そして、その2つ目の上昇の後に頭にあったモヤモヤとしたオーラが急に喉のヴィシュッダに吸い込まれていきます。吸い込まれるときは少しずつというよりはスイッチが入ったかのように急に吸い込まれていく感じです。これが他に人にも同じかどうかはわかりませんが、私の場合、割とこの3段階を踏むことが多い気がします。日によってはオーラが安定していれば3段階目だけだったり2段階目と3段階目だったりしますけど、オーラが安定しない場合は3段階を踏んでオーラを安定させます。
これらの状態変化は割と昔からあったのですが、アートマンの意識が現れ始めて以降、これらの状態変化と並行して、常に自分の体のオーラの状態を観察しているアートマンの意識が現れています。
アートマンの意識があるからと言ってオーラが常に完璧に安定しているというわけではなく、アートマンの意識というのは奥深いところの意識でありますから、人間として生きる上でのオーラの安定は今まで通りメンテナンスしてあげる必要があるようです。当たり前と言えば当たり前のことですね。
一方で、アートマンの意識があると上記のようにシャルドルなどの状態になって「観察力」は激しく向上していますから、雑念の解決あるいはオーラの状態は昔よりもずっと詳細に把握できて、結果、解決も早いわけです。
雑念に関しては3段階あって、弱い力のチェルドル、中間のシャルドル、最終的なランドルとあるわけですけど、私の今の状態はシャルドルで、ランドルになるとどうかはわかりませんけど、少なくとも今の状態においてはオーラの調整が必要のようです。
オーラの状態は揺らいでいて、何をするかというと特に今までと変わらず座ってあぐらをかいて瞑想をしながら眉間に集中するわけですけど、眉間に集中することでオーラが安定してきます。
この状態ですと、自分がまどろみの中にいることを感じたりします。
オーラが安定していない状態においては以前は雑念が出てきましたけど、今はただ単にオーラの揺らぎを感じてそれを見ているだけです。感じる、と言いますけど、目ではないですけど一応は視覚のようなもので煙あるいは濃い霧のような異空間のような不思議な空間が瞑想中の視界のようなものに入ってきて、その煙の中に様々な意識体が不意に現れては何かを主張したり不意な行動をしたりどこかに行ってしまったり、という揺らぎの空間があって、それを観察しているわけです。
これはおそらく、オーラが安定していないと見なくてもいいものが見えてしまう、ということだと思います。見えているのはアストラル的な異空間かと思いますが、それはそれほど高い次元のものではなくて、単に人間の想念あるいは死後の意識体などが生活しているアストラルな空間のように思います。
それは見る必要が本来なくて、もっと高い波動になればそのようなところにフォーカスしなくなるわけです。
スピリチュアル的に言うと、波動が少し落ちているからそのようにアストラル的なものが見えてしまうわけです。
スピリチュアルの波動の法則で言われているように、人が見えるものは自分の波動に即したものでありますから、アストラル的なものが見えるということは波動が落ちているわけです。
そのような時は瞑想をして普通に眉間に集中してしばらくするとエネルギーが満ちてきて、やがてはオーラが安定してゆきます。オーラが安定していない時はエネルギーは下半身が優勢になっていますが瞑想をすることでバランスを取る、あるいは、頭の方にまでエネルギーを上げてあげます。そうするとオーラが安定して、アストラル的なものも見えなくなります。
そのようにオーラが不安定の時は頭のあたりにもやもやとしたオーラの雲がかかっている状態ですので、瞑想をして眉間に集中することでそれらを取り払うことができます。取り払うと言ってもどこかに捨ててしまうということではなく、単に安定させて、特にそのような浄化されていない頭のオーラは吸い込まれるように喉のヴィシュッダで浄化されるようです。
瞑想をしていると、概ね2段階のエネルギーの上昇があります。最初は雑多なエネルギーの上昇、やがてはしっかりとしたエネルギーの柱の上昇、そして、その2つ目の上昇の後に頭にあったモヤモヤとしたオーラが急に喉のヴィシュッダに吸い込まれていきます。吸い込まれるときは少しずつというよりはスイッチが入ったかのように急に吸い込まれていく感じです。これが他に人にも同じかどうかはわかりませんが、私の場合、割とこの3段階を踏むことが多い気がします。日によってはオーラが安定していれば3段階目だけだったり2段階目と3段階目だったりしますけど、オーラが安定しない場合は3段階を踏んでオーラを安定させます。
これらの状態変化は割と昔からあったのですが、アートマンの意識が現れ始めて以降、これらの状態変化と並行して、常に自分の体のオーラの状態を観察しているアートマンの意識が現れています。
アートマンの意識があるからと言ってオーラが常に完璧に安定しているというわけではなく、アートマンの意識というのは奥深いところの意識でありますから、人間として生きる上でのオーラの安定は今まで通りメンテナンスしてあげる必要があるようです。当たり前と言えば当たり前のことですね。
一方で、アートマンの意識があると上記のようにシャルドルなどの状態になって「観察力」は激しく向上していますから、雑念の解決あるいはオーラの状態は昔よりもずっと詳細に把握できて、結果、解決も早いわけです。
最近の瞑想の手順
基本:あぐらをかいて座り、眉間に集中する。
1.雑多なオーラを下半身から上半身に上昇させる。この時、上昇するように意図することはなくて、行うこととしては、単にあぐらをかいて眉間に集中するのみ。集中していると、不意にこのようなオーラの上昇が発生するので発生するまで眉間への集中を続ける。
2.もう少し固まったオーラが下半身から上半身に上昇する。行うことは同じ。上昇を意識することなく、単に眉間に集中する瞑想を続ける。頭の方にまでオーラが上昇する。まだこの段階では頭の全てがオーラで満たされなくても良い。頭の下半分だけでも良い。
3.頭の中あるいはその近くにあるモヤモヤとした雨雲のような薄黒い煙のようなタマスのオーラを喉のヴィシュッダに吸い込ませる。この時も、吸い込むことを意識することなく、ただ単に眉間に集中を続けるのみ。眉間に集中しているとやがてこのような状態が発生し、頭のモヤモヤが取れる。不意に発生して急に吸い込まれて意識がはっきりする。
4.体の中でオーラが行き届いていない場所があればそこにオーラを満たすよう意識する。この時は集中の場所をその該当場所に合わせる。この時は眉間に集中する必要はありませんが、常にその場所に意識しても良いし、眉間への集中とを交互に行っても良いです。例えば、私の場合は割と頭の頭頂あるいは頭の左上など局所的にオーラが行き届いていない時があって、それは「感覚がない」として認知されており、例えば頭頂あるいは頭の左上の感覚がないということはそこにオーラが行き届いていないということですから、そこにオーラが満たされるようにその「感覚がない」場所あるいはその周囲に集中します。感覚がないのですから厳密にはその場所そのものには集中できないのですが、その周囲に集中して、オーラをその「感覚がない」場所にも届かせるようにオーラを移動させるように圧力のようなものをかけてあげます。その後、すぐに反応があることもあれば、何回か瞑想をしてから変化が起こる場合もあります。変化としては、その場所に急に不意にオーラが満たされることと、それと同時に、意識の面においてもリラックスが相応に深まります。緊張が取れます。
5.同様のサイクルを続ける。最初は割と大きな変化から始まり、やがては少しの変化になります。そして、安定が深まっていきます。そこにおいても基本は眉間への集中の瞑想です。体全体への観察・観照状態が深まって常時サマーディ状態で行動できるようになれば座った瞑想をする必要がありませんので座った瞑想を解きます。そうは言いましてもしばらくすれば少しずつサマーディ状態から落ちてきたりもしますので座った瞑想で整えてあげるということは必要ですし、自分の状態を確かめるために座った瞑想をするということは続けます。ですけど、次第に座った瞑想というものが必要なくなってゆきます。
状態が悪い時は1から始まって状態が良ければ4から再開、というようにその時々に応じて行うことは変わりますけど、基本は単に眉間に集中するだけですし、必要なことが自然に起こりますから、特に何をするという意図をしなくても基本は眉間に集中した瞑想をするだけで良いわけです。1まで落ちることはそうそうなくて数ヶ月に1度あるかないかですけど、4番のように体の一部分、特に頭頂あるいは頭の左上のあたりにオーラが行き届いていない時は割とあって、そのような時に瞑想をしてオーラを充満させてあげる、ということはよくしますけど、その時も、一応はオーラが充満するように意図はしますしその周囲を意識するということは行いますけど基本は眉間への集中の瞑想を常に行うわけです。
補足
この瞑想の手順とは別に、瞑想以前の問題として、もし調子が凄く悪い場合は死霊が(右肩に)ついている可能性があるので右肩(あるいは人によって違うかもしれませんが)を探って死霊あるいは何かの意識体をオーラの手のようなもので掴んで引き抜いておきます。そうすることで急に緊張が取れてリラックスできるようになります。何かに取り憑かれている場合は瞑想をして状態が回復してもすぐにまた調子が悪くなりますのでこれをするのは重要です。瞑想とか言う場合にこの種のお話はほとんど聞くことがありませんけど、経験上、取り憑かれていて瞑想の妨げになっている時は時々ある気が致します。特に街に住んでいて様々な悪霊に遭遇する頻度が高い場合に起こりやすいと思います。田舎の人はさほど心配いらないかもしれません。瞑想してうまくいかない場合はこれが原因であることも度々ありますので、右肩を探って掴んで引き抜いてみて、何も反応がなければなんでもないと言うことですし、もし急に緊張が取れたのでしたら何かが憑いていたということになります。時々、その意識体が胸のハートにまで触手を根のように伸ばしていてエネルギーを吸い取っている場合もありますので、その根も含めて引き抜いてあげると急に緊張が取れてリラックスできる、と言うような変化も時には起こります。このように取り憑かれている場合は鏡を自分で見てみれば目に緊張があって、慣れるとわかりますし、他人と目があった時にそらされる場合が多い時は取り憑かれている時が多い気が致します。特にスピリチュアルでなくても誰しもがこの種のことを直感的にわかっていると言うことだと思います。ただ、わかることと対処法は別ですので、取り憑かれている場合はしっかりと対処してあげる必要があります。古典的なヨガ瞑想とかではこのようなお話はなくて割とスピリチュアルの範疇ですけど、これは瞑想以前のものとして割と重要です。マインドフルネス瞑想などは科学的だと謳っているのでこのようなお話はできないみたいですけど、瞑想と言うのは目に見えない世界と対峙しますから、実際のところ、この種のお話とは切り離せないのです。科学的な瞑想と言っているところは、理解できない現象が起こったら例外として除外するかあるいは現実に目を背けて「そんなことは起こらない」と言って現実を否定したりしますけど、本当に瞑想を深めようと思うならば現実に向き合って対処する必要がありますし、そうなると、この種の死霊の問題を避けては通れないわけです。このようなことが起こらなかったり遭遇しないあるいは遭遇しているのに気が付かないのだとしたら瞑想がそれほど深まっていない、と言うことでもあります。そういえば本山博先生は「修行を進めていくと必ず魔に遭遇する。必ずね」と言っていましたが、それは真実だと思います。その時の対処方法は知っておく必要があります。実際には、誰しもが魔に遭遇していてもそれに気づいていなくて瞑想をすると気付き始めて対処もできるようになる、と言うことだと思います。漫画から言葉を借りるならば、瞑想をそれほどしていなくて魔に遭遇している状態は「極寒の地で全裸で凍えながらなぜつらいのか分かっていないようなもの(元はハンターハンターの台詞)」と比喩することもできるかと思います。
1.雑多なオーラを下半身から上半身に上昇させる。この時、上昇するように意図することはなくて、行うこととしては、単にあぐらをかいて眉間に集中するのみ。集中していると、不意にこのようなオーラの上昇が発生するので発生するまで眉間への集中を続ける。
2.もう少し固まったオーラが下半身から上半身に上昇する。行うことは同じ。上昇を意識することなく、単に眉間に集中する瞑想を続ける。頭の方にまでオーラが上昇する。まだこの段階では頭の全てがオーラで満たされなくても良い。頭の下半分だけでも良い。
3.頭の中あるいはその近くにあるモヤモヤとした雨雲のような薄黒い煙のようなタマスのオーラを喉のヴィシュッダに吸い込ませる。この時も、吸い込むことを意識することなく、ただ単に眉間に集中を続けるのみ。眉間に集中しているとやがてこのような状態が発生し、頭のモヤモヤが取れる。不意に発生して急に吸い込まれて意識がはっきりする。
4.体の中でオーラが行き届いていない場所があればそこにオーラを満たすよう意識する。この時は集中の場所をその該当場所に合わせる。この時は眉間に集中する必要はありませんが、常にその場所に意識しても良いし、眉間への集中とを交互に行っても良いです。例えば、私の場合は割と頭の頭頂あるいは頭の左上など局所的にオーラが行き届いていない時があって、それは「感覚がない」として認知されており、例えば頭頂あるいは頭の左上の感覚がないということはそこにオーラが行き届いていないということですから、そこにオーラが満たされるようにその「感覚がない」場所あるいはその周囲に集中します。感覚がないのですから厳密にはその場所そのものには集中できないのですが、その周囲に集中して、オーラをその「感覚がない」場所にも届かせるようにオーラを移動させるように圧力のようなものをかけてあげます。その後、すぐに反応があることもあれば、何回か瞑想をしてから変化が起こる場合もあります。変化としては、その場所に急に不意にオーラが満たされることと、それと同時に、意識の面においてもリラックスが相応に深まります。緊張が取れます。
5.同様のサイクルを続ける。最初は割と大きな変化から始まり、やがては少しの変化になります。そして、安定が深まっていきます。そこにおいても基本は眉間への集中の瞑想です。体全体への観察・観照状態が深まって常時サマーディ状態で行動できるようになれば座った瞑想をする必要がありませんので座った瞑想を解きます。そうは言いましてもしばらくすれば少しずつサマーディ状態から落ちてきたりもしますので座った瞑想で整えてあげるということは必要ですし、自分の状態を確かめるために座った瞑想をするということは続けます。ですけど、次第に座った瞑想というものが必要なくなってゆきます。
状態が悪い時は1から始まって状態が良ければ4から再開、というようにその時々に応じて行うことは変わりますけど、基本は単に眉間に集中するだけですし、必要なことが自然に起こりますから、特に何をするという意図をしなくても基本は眉間に集中した瞑想をするだけで良いわけです。1まで落ちることはそうそうなくて数ヶ月に1度あるかないかですけど、4番のように体の一部分、特に頭頂あるいは頭の左上のあたりにオーラが行き届いていない時は割とあって、そのような時に瞑想をしてオーラを充満させてあげる、ということはよくしますけど、その時も、一応はオーラが充満するように意図はしますしその周囲を意識するということは行いますけど基本は眉間への集中の瞑想を常に行うわけです。
補足
この瞑想の手順とは別に、瞑想以前の問題として、もし調子が凄く悪い場合は死霊が(右肩に)ついている可能性があるので右肩(あるいは人によって違うかもしれませんが)を探って死霊あるいは何かの意識体をオーラの手のようなもので掴んで引き抜いておきます。そうすることで急に緊張が取れてリラックスできるようになります。何かに取り憑かれている場合は瞑想をして状態が回復してもすぐにまた調子が悪くなりますのでこれをするのは重要です。瞑想とか言う場合にこの種のお話はほとんど聞くことがありませんけど、経験上、取り憑かれていて瞑想の妨げになっている時は時々ある気が致します。特に街に住んでいて様々な悪霊に遭遇する頻度が高い場合に起こりやすいと思います。田舎の人はさほど心配いらないかもしれません。瞑想してうまくいかない場合はこれが原因であることも度々ありますので、右肩を探って掴んで引き抜いてみて、何も反応がなければなんでもないと言うことですし、もし急に緊張が取れたのでしたら何かが憑いていたということになります。時々、その意識体が胸のハートにまで触手を根のように伸ばしていてエネルギーを吸い取っている場合もありますので、その根も含めて引き抜いてあげると急に緊張が取れてリラックスできる、と言うような変化も時には起こります。このように取り憑かれている場合は鏡を自分で見てみれば目に緊張があって、慣れるとわかりますし、他人と目があった時にそらされる場合が多い時は取り憑かれている時が多い気が致します。特にスピリチュアルでなくても誰しもがこの種のことを直感的にわかっていると言うことだと思います。ただ、わかることと対処法は別ですので、取り憑かれている場合はしっかりと対処してあげる必要があります。古典的なヨガ瞑想とかではこのようなお話はなくて割とスピリチュアルの範疇ですけど、これは瞑想以前のものとして割と重要です。マインドフルネス瞑想などは科学的だと謳っているのでこのようなお話はできないみたいですけど、瞑想と言うのは目に見えない世界と対峙しますから、実際のところ、この種のお話とは切り離せないのです。科学的な瞑想と言っているところは、理解できない現象が起こったら例外として除外するかあるいは現実に目を背けて「そんなことは起こらない」と言って現実を否定したりしますけど、本当に瞑想を深めようと思うならば現実に向き合って対処する必要がありますし、そうなると、この種の死霊の問題を避けては通れないわけです。このようなことが起こらなかったり遭遇しないあるいは遭遇しているのに気が付かないのだとしたら瞑想がそれほど深まっていない、と言うことでもあります。そういえば本山博先生は「修行を進めていくと必ず魔に遭遇する。必ずね」と言っていましたが、それは真実だと思います。その時の対処方法は知っておく必要があります。実際には、誰しもが魔に遭遇していてもそれに気づいていなくて瞑想をすると気付き始めて対処もできるようになる、と言うことだと思います。漫画から言葉を借りるならば、瞑想をそれほどしていなくて魔に遭遇している状態は「極寒の地で全裸で凍えながらなぜつらいのか分かっていないようなもの(元はハンターハンターの台詞)」と比喩することもできるかと思います。
満ちているものが体をダイレクトに動かす
体と重なって体およびその周囲に満ちているものがアートマン(真我)です。その満ちているものが体をダイレクトに動かしているのですが、もともと誰しもがそのようになっている筈ではあるのですが自覚があるのがサマーディ(三昧)の状態で、自覚がないのだとしたら普通の状態です。満ちているものが感じられなくて体を動かしている場合は普通の状態です。ですから、普通に「ダイレクトに体を動かす」と言われた時に「まあ、そうだよね」となりがちなのですけど、満ちているものを感じられているかどうかが大きな違いなわけです。
満ちているものはアートマン(真我)なわけですけど、その質としてはブラフマン(全体)と同一であると聖典には書かれてあります。アートマン(真我)とは個としてのブラフマン(全体)であり、実際にはアートマン(真我)とブラフマン(全体)は同一です。ですけど限られた意識においてはアートマンが切り離された個として認識されているためにアートマンが個とはなってはいるものの、それは実際にはブラフマン(全体)と同一であるということです。
このダイレクト感は最初は割と切り離されたものとしてはっきりと認識されます。
ですから、最初は、アートマン(真我)と物理的な体が別物として存在しているかのように感じられ、特に最初は体とは重なっておらず「外側」に存在していて外側から段々と近づいてくるかのように認識されます。私の場合は最初は胸の少し離れた後ろにあって、感じ始めた最初の瞑想の中で少しずつ身体に近づいてきました。
最初はそれは単に創造・破壊・維持の意識として始まり、最初はそれが体をダイレクトに動かしているという感覚はなく、単にそのような3つの意識、特に創造と破壊としての意識が強く感じられた状態でした。
その後、不意に意識が高まり、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感するようになりました。
最近は更に進んだのかあるいはもしくは後戻りしたのかもしれませんけど、おそらくは安定してきたのか、割とこの状態が普通になってきて、普通、と言うのは、特別感が薄れてきたと言うことで、アートマンとしての意識と体とが更にぴったりとくっついてきて、ダイレクトと言うよりはアートマンの意識が体にぴったりとくっついた感じになってきました。
体をダイレクトに動かしていると言う時は、まだ少しアートマンとしての意識と体とがほんのちょっと離れた状態で、離れているからこそ「動かしている」と言う感覚があって、それ故に「ダイレクトに動かす」と言う実感がありました。
ですけど、最近は、更にアートマンが体と一体になってきましたので、言葉としては割と同じ「ダイレクトに動かす」と言う言葉で表現するくらいしか言葉が見つからないのですけど、距離が近くなってきて、割とアートマンと体とが一体になってぴったりとくっついて動かすような感覚に変わってきました。
これはとても微妙なお話で、状態そのものを見ると割と昔と変わらないと思うかもしれませんし、普通のことだと思われるかもしれませんけど、少し前にアートマンが離れていてダイレクトという感じだった時はその時々において気付きを入れてあげることにより雑念が溶解すると言う感じだったのが、ここに来ると、まだ力は弱いものの、体や心がどのような状態であろうとアートマンの意識が浸透する、という状態の前兆のようなものを感じます。
シャルドルにおいては気付きを再確認することで雑念が溶解する状態だったのですが、それは、アートマンの意識と体とが一体にならずに離れてるが故にそのように気付きを入れた方が安定する段階だったと言える気が致します。
その次の段階であるランドルは書物によれば瞬時の雑念の自己溶解と説明されていて、そのような表現もできるように思いますけど、そう表現するよりは、もはやアートマンが離れておらず体や心に浸透しているが故に瞬時に観念や五感の入力及び雑念も含めてアートマンが直接的に瞬時に体や心を認識できる状態であり、それ故に雑念が瞬時に溶解すると言うこともできますけど、溶解すると言うよりは、アートマンが体や五感及び心に浸透しているが故に瞬時に気付けるが故に心の認識が素早く完了する状態というのが基本にあって、それゆえに雑念も素早く気づけて次の雑念を自分が生み出すことが少ない状態、ということなのかと思います。
それは消える、というよりは、素早く目の前を通り過ぎるようになります。雑念の繰り返しが起こらないが故に素早く消え去るように感じられるようになります。雑念そのもののスピードが早まるというわけではなく、単にそれをありのままに見られるようになって単に通り過ぎてゆくだけになりますので、繰り返しが起こらないが故に素早く消え去る、ということです。
ですけど私の場合、そのようにアートマンと体とが一体になっている力がまだ弱いため、しかしながら、力が弱いのにも関わらずアートマンの意識が更に体や心と密着して一体になりつつあって、おそらくは過渡期のようなもので、一時的に多少の不安定さがあるのかな、という気が致します。
このように段階を経る時の一時的な不安定さはスピリチュアルの成長にはつきもので、意識が朦朧としたり、色々な症状があるように思います。
まあ、あるいは、このように解釈しているだけで、実際にはちょっと後戻りしているだけ、という場合もあるにはあるかと思います。そのような可能性も含めて、これから状態を見ていきます。
満ちているものはアートマン(真我)なわけですけど、その質としてはブラフマン(全体)と同一であると聖典には書かれてあります。アートマン(真我)とは個としてのブラフマン(全体)であり、実際にはアートマン(真我)とブラフマン(全体)は同一です。ですけど限られた意識においてはアートマンが切り離された個として認識されているためにアートマンが個とはなってはいるものの、それは実際にはブラフマン(全体)と同一であるということです。
このダイレクト感は最初は割と切り離されたものとしてはっきりと認識されます。
ですから、最初は、アートマン(真我)と物理的な体が別物として存在しているかのように感じられ、特に最初は体とは重なっておらず「外側」に存在していて外側から段々と近づいてくるかのように認識されます。私の場合は最初は胸の少し離れた後ろにあって、感じ始めた最初の瞑想の中で少しずつ身体に近づいてきました。
最初はそれは単に創造・破壊・維持の意識として始まり、最初はそれが体をダイレクトに動かしているという感覚はなく、単にそのような3つの意識、特に創造と破壊としての意識が強く感じられた状態でした。
その後、不意に意識が高まり、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感するようになりました。
最近は更に進んだのかあるいはもしくは後戻りしたのかもしれませんけど、おそらくは安定してきたのか、割とこの状態が普通になってきて、普通、と言うのは、特別感が薄れてきたと言うことで、アートマンとしての意識と体とが更にぴったりとくっついてきて、ダイレクトと言うよりはアートマンの意識が体にぴったりとくっついた感じになってきました。
体をダイレクトに動かしていると言う時は、まだ少しアートマンとしての意識と体とがほんのちょっと離れた状態で、離れているからこそ「動かしている」と言う感覚があって、それ故に「ダイレクトに動かす」と言う実感がありました。
ですけど、最近は、更にアートマンが体と一体になってきましたので、言葉としては割と同じ「ダイレクトに動かす」と言う言葉で表現するくらいしか言葉が見つからないのですけど、距離が近くなってきて、割とアートマンと体とが一体になってぴったりとくっついて動かすような感覚に変わってきました。
これはとても微妙なお話で、状態そのものを見ると割と昔と変わらないと思うかもしれませんし、普通のことだと思われるかもしれませんけど、少し前にアートマンが離れていてダイレクトという感じだった時はその時々において気付きを入れてあげることにより雑念が溶解すると言う感じだったのが、ここに来ると、まだ力は弱いものの、体や心がどのような状態であろうとアートマンの意識が浸透する、という状態の前兆のようなものを感じます。
シャルドルにおいては気付きを再確認することで雑念が溶解する状態だったのですが、それは、アートマンの意識と体とが一体にならずに離れてるが故にそのように気付きを入れた方が安定する段階だったと言える気が致します。
その次の段階であるランドルは書物によれば瞬時の雑念の自己溶解と説明されていて、そのような表現もできるように思いますけど、そう表現するよりは、もはやアートマンが離れておらず体や心に浸透しているが故に瞬時に観念や五感の入力及び雑念も含めてアートマンが直接的に瞬時に体や心を認識できる状態であり、それ故に雑念が瞬時に溶解すると言うこともできますけど、溶解すると言うよりは、アートマンが体や五感及び心に浸透しているが故に瞬時に気付けるが故に心の認識が素早く完了する状態というのが基本にあって、それゆえに雑念も素早く気づけて次の雑念を自分が生み出すことが少ない状態、ということなのかと思います。
それは消える、というよりは、素早く目の前を通り過ぎるようになります。雑念の繰り返しが起こらないが故に素早く消え去るように感じられるようになります。雑念そのもののスピードが早まるというわけではなく、単にそれをありのままに見られるようになって単に通り過ぎてゆくだけになりますので、繰り返しが起こらないが故に素早く消え去る、ということです。
ですけど私の場合、そのようにアートマンと体とが一体になっている力がまだ弱いため、しかしながら、力が弱いのにも関わらずアートマンの意識が更に体や心と密着して一体になりつつあって、おそらくは過渡期のようなもので、一時的に多少の不安定さがあるのかな、という気が致します。
このように段階を経る時の一時的な不安定さはスピリチュアルの成長にはつきもので、意識が朦朧としたり、色々な症状があるように思います。
まあ、あるいは、このように解釈しているだけで、実際にはちょっと後戻りしているだけ、という場合もあるにはあるかと思います。そのような可能性も含めて、これから状態を見ていきます。
ヨーギーにとってのアートマンがヴィパッサナー(観)
ヴィパッサナーというと仏教のような印象がありますが、実際のところヴェーダンタで語られているアートマンがヨーギーにとってのヴィパッサナー(観)なわけです。
仏教はその教義において「無我」(アートマンがない)ことを標章していたりしますけど、その境地においてはヴィパッサナー(観)を言っていて、実際のところ、同じことだったりします。
これはどういうことでしょうか。
そもそも、ブッダがアートマンを否定してアートマンによる解脱を解くバラモンたちを説き伏せたのは、本当にアートマンを否定したのでしょうか。言い伝えによればブッダはそこでアートマンを否定して、それを根拠に仏教は無我、アートマンがない、ということを根拠にします。
しかしながら、ブッダは非想非非想処を超えた境地に達したということであればそれは心と体を超えた境地に達したということであり、ヴェーダンタによれば心の次にはまだ段階が少しあるものの、その先にはアートマンがあるわけです。ですから、ブッダが体や心の段階を超えてアートマンに達したと考えるのは筋が通っているわけです。
ヴェーダンタによれば人間の体は5つの鞘(パンチャ・コーシャ)に分かれていると言います。
■パンチャ・コーシャ(5つの鞘)
1. アンナマヤ・コーシャ(annamaya-kosa)物理的な体
2. プラーナマヤ・コーシャ(pranamaya-kosa)エネルギー(プラーナ)の体
3. マノマヤ・コーシャ(manomaya-kosa)マインドと5つの感覚器官にの体
4. ヴィニャーナマヤ・コーシャ(vijyanamaya-kosa)知性と5うの知覚器官の体
5. アナンダマヤ・コーシャ(anandamaya-kosa)カラーナ(原因)体、コーザル体。
ブッダが非想非非想処を超えた時には少なくともマノマヤ・コーシャとヴィニャーナマヤ・コーシャは超えている訳で、であればおそらくはアナンダマヤ・コーシャも超えたのでしょうからそこはアートマンの世界な訳です。
このように、アートマンの世界にブッダが達したのがおそらく確実であると思われる以上、上記の会話だけを取り出して「ブッダはアートマンを否定した」とは言えないと思う訳です。であればブッダが言っていたことは以下の2つの可能性に絞られます。
・ブッダはヴェーダンタを勉強していなかったので言葉がすれ違っていた。
・ブッダはヒンドゥが作り出した階級社会にあぐらをかくバラモンを批判した。
ブッダは王子の生まれですのでおそらくヴェーダンタもそれなりに勉強していたのではないかと推測されますが、そこはよくわかりません。
私はそれよりも、2つ目の、バラモンという特権階級に対する批判としてアートマンを否定して見せて「あなたの修行は足りないのではないか」と辛辣に指摘して見せたのではないでしょうか。
ブッダほどの人がアートマンを理解していなかったとはとても思えません。アートマンを理解した上で、体制にあぐらをかいて修行も大してしないバラモンとは一線を引く立場だったのではないかと想像するのですがどうでしょうか。
それを後世の人が誤解してアートマンの否定と解釈するのは個人の自由ですけど、境地を見てみると仏教が説くヴィパッサナー(観)とヴェーダンタが説くアートマンはとても似ていて、同じと言っても差し支えない気が致します。
誤解がないように申し上げておきますと、それぞれの流派の人はおそらく別物として捉えていると思います。ですから、流派の人に「同じでしょう?」と言っても通じないと思います。あくまでも私の解釈として、同じに見える、ということです。
仏教はその教義において「無我」(アートマンがない)ことを標章していたりしますけど、その境地においてはヴィパッサナー(観)を言っていて、実際のところ、同じことだったりします。
これはどういうことでしょうか。
そもそも、ブッダがアートマンを否定してアートマンによる解脱を解くバラモンたちを説き伏せたのは、本当にアートマンを否定したのでしょうか。言い伝えによればブッダはそこでアートマンを否定して、それを根拠に仏教は無我、アートマンがない、ということを根拠にします。
しかしながら、ブッダは非想非非想処を超えた境地に達したということであればそれは心と体を超えた境地に達したということであり、ヴェーダンタによれば心の次にはまだ段階が少しあるものの、その先にはアートマンがあるわけです。ですから、ブッダが体や心の段階を超えてアートマンに達したと考えるのは筋が通っているわけです。
ヴェーダンタによれば人間の体は5つの鞘(パンチャ・コーシャ)に分かれていると言います。
■パンチャ・コーシャ(5つの鞘)
1. アンナマヤ・コーシャ(annamaya-kosa)物理的な体
2. プラーナマヤ・コーシャ(pranamaya-kosa)エネルギー(プラーナ)の体
3. マノマヤ・コーシャ(manomaya-kosa)マインドと5つの感覚器官にの体
4. ヴィニャーナマヤ・コーシャ(vijyanamaya-kosa)知性と5うの知覚器官の体
5. アナンダマヤ・コーシャ(anandamaya-kosa)カラーナ(原因)体、コーザル体。
ブッダが非想非非想処を超えた時には少なくともマノマヤ・コーシャとヴィニャーナマヤ・コーシャは超えている訳で、であればおそらくはアナンダマヤ・コーシャも超えたのでしょうからそこはアートマンの世界な訳です。
このように、アートマンの世界にブッダが達したのがおそらく確実であると思われる以上、上記の会話だけを取り出して「ブッダはアートマンを否定した」とは言えないと思う訳です。であればブッダが言っていたことは以下の2つの可能性に絞られます。
・ブッダはヴェーダンタを勉強していなかったので言葉がすれ違っていた。
・ブッダはヒンドゥが作り出した階級社会にあぐらをかくバラモンを批判した。
ブッダは王子の生まれですのでおそらくヴェーダンタもそれなりに勉強していたのではないかと推測されますが、そこはよくわかりません。
私はそれよりも、2つ目の、バラモンという特権階級に対する批判としてアートマンを否定して見せて「あなたの修行は足りないのではないか」と辛辣に指摘して見せたのではないでしょうか。
ブッダほどの人がアートマンを理解していなかったとはとても思えません。アートマンを理解した上で、体制にあぐらをかいて修行も大してしないバラモンとは一線を引く立場だったのではないかと想像するのですがどうでしょうか。
それを後世の人が誤解してアートマンの否定と解釈するのは個人の自由ですけど、境地を見てみると仏教が説くヴィパッサナー(観)とヴェーダンタが説くアートマンはとても似ていて、同じと言っても差し支えない気が致します。
誤解がないように申し上げておきますと、それぞれの流派の人はおそらく別物として捉えていると思います。ですから、流派の人に「同じでしょう?」と言っても通じないと思います。あくまでも私の解釈として、同じに見える、ということです。
体のサマーディから心のサマーディへ
今までは基本的に物理的な体をダイレクトに動かすというサマーディでした。
それは、ヴェーダンタでいうところのアートマン(真我)が「私」の本体で、物理的な体が「動かされているもの」という関係です。
ここでアートマン(真我)のことを少し説明しておきますと、物理的な体および心(マインド)はアートマン(真我)ではないのですが物理的な体あるいは心あるいはその両方がそれ自身を「私」だと誤認していて、誤認している自分自身のことをヴェーダンタでは「ジーヴァ」と言います。ここで、ジーヴァとしての私とアートマン(真我)としての私、の2つの私が出てくる訳です。
上で言っているのは、アートマン(真我)の方の私が物理的な体をダイレクトに動かしている実感のあるサマーディ状態、ということです。
心が司令して体を動かす、というのは普通のことで、それはサマーディのお話ではありません。一方、アートマン(真我)がダイレクトに体を動かす、というのはサマーディのお話です。
そのようにアートマン(真我)と物理的な体、という関係だった訳ですけれども、最初は割とそのアートマン(真我)と物理的な体は離れていて、やがて、それは近付いてきました。
アートマン(真我)と物理的な体とは割と別物といえば別物なのですが一体になって動いていて、最初は離れていると感じられていたものが、最近はその感覚がかなり密着してきた、ということです。肉体の体に以前より更に密着して存在しています。
アートマン(真我)はダイレクトに動かすだけでなく感覚として認知もしていますから、体を動かすと同時にそれを把握している訳です。心が行うように明示的な指示というよりは体の各所の感覚を同時に感じている訳です。
そのアートマン(真我)の感覚は少し前までは肉体だけで、心に関しても以前より更に自由になったとはいえ、心に関してはそのくらいでした。
しかし、ここにきて、ほんの僅かではありますが、アートマン(真我)が心(マインド)をダイレクトに動かしているという実感が瞑想中にだけ少し感じられるようになりました。
肉体よりも心はもっと微細で微妙なものですので感じるのは難しいのですが、瞑想をしていると、マインド(心)の奥底にあるアートマン(真我)がマインドを動かしていることをわずかに感じられます。
日本語で心と言ってしまうと魂とかアートマン(真我)に相当するところまで含まれてしまうかのような広い意味がありますけど、ここで言っているのは、思考する心である英語のマインドのことです。そのマインドとしての心が肉体と同じようにアートマン(真我)によって動かされているのだ、という実感が出始めています。
肉体の方は日常生活においてもアートマン(真我)が動かしているという実感がありますけど心の認知の方はまだ弱くて、瞑想中にしか感知できていない状況です。とは言いましてもその感覚がわかってしまえば同じことだと思いますので、あとは深めれば良い、と思っております。
それは、ヴェーダンタでいうところのアートマン(真我)が「私」の本体で、物理的な体が「動かされているもの」という関係です。
ここでアートマン(真我)のことを少し説明しておきますと、物理的な体および心(マインド)はアートマン(真我)ではないのですが物理的な体あるいは心あるいはその両方がそれ自身を「私」だと誤認していて、誤認している自分自身のことをヴェーダンタでは「ジーヴァ」と言います。ここで、ジーヴァとしての私とアートマン(真我)としての私、の2つの私が出てくる訳です。
上で言っているのは、アートマン(真我)の方の私が物理的な体をダイレクトに動かしている実感のあるサマーディ状態、ということです。
心が司令して体を動かす、というのは普通のことで、それはサマーディのお話ではありません。一方、アートマン(真我)がダイレクトに体を動かす、というのはサマーディのお話です。
そのようにアートマン(真我)と物理的な体、という関係だった訳ですけれども、最初は割とそのアートマン(真我)と物理的な体は離れていて、やがて、それは近付いてきました。
アートマン(真我)と物理的な体とは割と別物といえば別物なのですが一体になって動いていて、最初は離れていると感じられていたものが、最近はその感覚がかなり密着してきた、ということです。肉体の体に以前より更に密着して存在しています。
アートマン(真我)はダイレクトに動かすだけでなく感覚として認知もしていますから、体を動かすと同時にそれを把握している訳です。心が行うように明示的な指示というよりは体の各所の感覚を同時に感じている訳です。
そのアートマン(真我)の感覚は少し前までは肉体だけで、心に関しても以前より更に自由になったとはいえ、心に関してはそのくらいでした。
しかし、ここにきて、ほんの僅かではありますが、アートマン(真我)が心(マインド)をダイレクトに動かしているという実感が瞑想中にだけ少し感じられるようになりました。
肉体よりも心はもっと微細で微妙なものですので感じるのは難しいのですが、瞑想をしていると、マインド(心)の奥底にあるアートマン(真我)がマインドを動かしていることをわずかに感じられます。
日本語で心と言ってしまうと魂とかアートマン(真我)に相当するところまで含まれてしまうかのような広い意味がありますけど、ここで言っているのは、思考する心である英語のマインドのことです。そのマインドとしての心が肉体と同じようにアートマン(真我)によって動かされているのだ、という実感が出始めています。
肉体の方は日常生活においてもアートマン(真我)が動かしているという実感がありますけど心の認知の方はまだ弱くて、瞑想中にしか感知できていない状況です。とは言いましてもその感覚がわかってしまえば同じことだと思いますので、あとは深めれば良い、と思っております。
心の観照の2つの段階
観照においては心の動きをはっきりと把握できますが、それは瞑想が進んで心の動きが緩やかになった時に可能になります。
その、はっきりとした心の動きの観照というのはどうやら2種類あるようです。
1つは、心そのものを観察できること。この段階では、心の動きはまだぼやっとしたものとしか感じられませんが、それでも観照と言えば観照です。
もう1つは、心の動きをその背後にあるアートマン(真我)がダイレクトに動かして観察していることを感じられること。これが本来の観照のような気がしてまいりました。
この2つは実際にはかなり明確に違っていて、最初のものは最初こそ観照かと思ったのですが今から思えば観照というよりは観察していた、というくらいのものだったようにも思います。
観照となると、はっきりとその背後にあるアートマン(真我)を認識できるようになります。
アートマン(真我)は、単に見ているだけでなく、意図を送り出してくる源でもあります。その両方の面があります。
心のように具体性はそこまでありませんが、意図がそこに感じられて、意図の源でありかつ観察者であります。
その、心の背後にあるアートマン(真我)を認識できて、働きかけてくる意図と観察という両面があることがはっきりと自覚できている状態が観照だと思います。
その、はっきりとした心の動きの観照というのはどうやら2種類あるようです。
1つは、心そのものを観察できること。この段階では、心の動きはまだぼやっとしたものとしか感じられませんが、それでも観照と言えば観照です。
もう1つは、心の動きをその背後にあるアートマン(真我)がダイレクトに動かして観察していることを感じられること。これが本来の観照のような気がしてまいりました。
この2つは実際にはかなり明確に違っていて、最初のものは最初こそ観照かと思ったのですが今から思えば観照というよりは観察していた、というくらいのものだったようにも思います。
観照となると、はっきりとその背後にあるアートマン(真我)を認識できるようになります。
アートマン(真我)は、単に見ているだけでなく、意図を送り出してくる源でもあります。その両方の面があります。
心のように具体性はそこまでありませんが、意図がそこに感じられて、意図の源でありかつ観察者であります。
その、心の背後にあるアートマン(真我)を認識できて、働きかけてくる意図と観察という両面があることがはっきりと自覚できている状態が観照だと思います。
心を鎮める段階と心を動かす段階
瞑想は止観と言われていますように「止(シャマタ)」と「観(ヴィパッサナー)」の要素があるわけですけれども、サマーディ(三昧)に至る以前であれば基本的にシャマタの段階なわけで、そこでは、心を鎮める、ということを行います。
静かに生活し、心を穏やかにして、雑念がなるべく入ってこないようにします。とは言いましても雑念は止まることがありませんからこの段階ではまだ雑念に悩まされることも多々あるのですけど、なるべく静かな環境を選ぶことで心を穏やかにします。穏やかにすることで心のコントロールがしやすくなります。瞑想を続けることで雑念が減って、心が静まった瞬間が休まる時間になります。雑念は途切れ途切れに現れますけど、雑念が出てから次の雑念が出るまでの間が広がってゆき、その、雑念が出ていない「隙間」にとても寛げるようになります。これがシャマタの段階です。
シャマタにおいては「心の静止」が重要になってきます。心が動いているときは「苦」で、心が止まった時は「楽」になります。
その段階を経て、サマーディにまで達すると、段階的な変化ではあるのですが、心が動いている時でも休まるようになってきます。
私の場合、最初は物理的な体に対する観察(ヴィパッサナー)としてのサマーディから始まったように思います。その後、最近は心を観察するサマーディの段階に少しずつ入ってきたように思います。
これはとても微妙なお話で、例えるならば昔は「砂の上に文字を書くような心の動き」で、今もそれは基本的にはそうなのですけど瞑想をしていると砂の文字の濃さが減ってくる瞬間があって、その時は心をその背後から観察できていて、背後から観察できているときは心のヴィパッサナー状態で、そのように心のヴィパッサナーができている瞬間は心の動きが「砂の上の文字」ではなく、「空中に浮いている文字」のように、自由な心として認識されるわけです。
これは、シャマタの段階で心を鎮めていた時とは全く違って、心の観察ができる範疇において逆に心を意識的に動かしてゆく、ということが訓練になるように思います。
心を鎮める、という動作も基礎として必要で、心のサマーディ状態から落ちてしまった場合に心を鎮めることで心のサマーディ状態に引き戻す、ということを行います。その基礎があった上で、心のサマーディを強くしていくために可能な限り心を意識的に動かす、ということをするわけです。
それは割と普段の生活において行えることで、仕事をしながらなるべく心のサマーディを保つ、ということができるかと思います。
まだ私の場合は心のサマーディの力が弱くてそれほどではありませんけど、ことあるごとに気付きを深めることになります。
これは、この前段階であるシャルドルにおいて「時々、ただ気付きを再確認するだけで自動的に雑念が自己溶解する]]ということとは違って、心を動かし続けていて、その背後からなるべく観察してあげよう、というお話です。
おそらくは、シャルドルにおいてはまだ心のトラウマがまだそれなりに残っていたのですが、最近になって最後の大きなトラウマが解消されたように思えて、それ以降、シャルドルのように雑念が自己溶解というよりは、心が動いたままで観察するという心のサマーディの段階に少しずつ入ってきて、少しずつではありますがランドルに入ってきたようにも思います。
究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
これは、文字通り読むと雑念のことかとも思っておりましたが、雑念やトラウマと大きく対峙するのはシャルドルまでで、この段階になると、雑念やトラウマはまだほんの少し残ってはいるもののそれに悩まされることはほとんどなくなって、トラウマの力もかなり弱くなって、そうなると心のサマーディ状態が可能になってくるのかな、と思います。
ただ、究極的とは言ってもランドルの中にも段階があって、ランドルの初期状態としては心のサマーディはまだ弱くて、少しこの状態が続きそうな感じです。
静かに生活し、心を穏やかにして、雑念がなるべく入ってこないようにします。とは言いましても雑念は止まることがありませんからこの段階ではまだ雑念に悩まされることも多々あるのですけど、なるべく静かな環境を選ぶことで心を穏やかにします。穏やかにすることで心のコントロールがしやすくなります。瞑想を続けることで雑念が減って、心が静まった瞬間が休まる時間になります。雑念は途切れ途切れに現れますけど、雑念が出てから次の雑念が出るまでの間が広がってゆき、その、雑念が出ていない「隙間」にとても寛げるようになります。これがシャマタの段階です。
シャマタにおいては「心の静止」が重要になってきます。心が動いているときは「苦」で、心が止まった時は「楽」になります。
その段階を経て、サマーディにまで達すると、段階的な変化ではあるのですが、心が動いている時でも休まるようになってきます。
私の場合、最初は物理的な体に対する観察(ヴィパッサナー)としてのサマーディから始まったように思います。その後、最近は心を観察するサマーディの段階に少しずつ入ってきたように思います。
これはとても微妙なお話で、例えるならば昔は「砂の上に文字を書くような心の動き」で、今もそれは基本的にはそうなのですけど瞑想をしていると砂の文字の濃さが減ってくる瞬間があって、その時は心をその背後から観察できていて、背後から観察できているときは心のヴィパッサナー状態で、そのように心のヴィパッサナーができている瞬間は心の動きが「砂の上の文字」ではなく、「空中に浮いている文字」のように、自由な心として認識されるわけです。
これは、シャマタの段階で心を鎮めていた時とは全く違って、心の観察ができる範疇において逆に心を意識的に動かしてゆく、ということが訓練になるように思います。
心を鎮める、という動作も基礎として必要で、心のサマーディ状態から落ちてしまった場合に心を鎮めることで心のサマーディ状態に引き戻す、ということを行います。その基礎があった上で、心のサマーディを強くしていくために可能な限り心を意識的に動かす、ということをするわけです。
それは割と普段の生活において行えることで、仕事をしながらなるべく心のサマーディを保つ、ということができるかと思います。
まだ私の場合は心のサマーディの力が弱くてそれほどではありませんけど、ことあるごとに気付きを深めることになります。
これは、この前段階であるシャルドルにおいて「時々、ただ気付きを再確認するだけで自動的に雑念が自己溶解する]]ということとは違って、心を動かし続けていて、その背後からなるべく観察してあげよう、というお話です。
おそらくは、シャルドルにおいてはまだ心のトラウマがまだそれなりに残っていたのですが、最近になって最後の大きなトラウマが解消されたように思えて、それ以降、シャルドルのように雑念が自己溶解というよりは、心が動いたままで観察するという心のサマーディの段階に少しずつ入ってきて、少しずつではありますがランドルに入ってきたようにも思います。
究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
これは、文字通り読むと雑念のことかとも思っておりましたが、雑念やトラウマと大きく対峙するのはシャルドルまでで、この段階になると、雑念やトラウマはまだほんの少し残ってはいるもののそれに悩まされることはほとんどなくなって、トラウマの力もかなり弱くなって、そうなると心のサマーディ状態が可能になってくるのかな、と思います。
ただ、究極的とは言ってもランドルの中にも段階があって、ランドルの初期状態としては心のサマーディはまだ弱くて、少しこの状態が続きそうな感じです。
瞑想は有から無、そしてまた有になる
瞑想は最初は具体的な対象があるところから始まります。呼吸だったり眉間だったり何がしかの集中する対象があるわけです。そしてやがては集中が極まり、いわゆるゾーンのような状態になって、そこまで集中が高まると今度は無の境地へ入っていきます。
無の境地はそれ自体である程度の達成で、その段階では顕在意識が集中してゾーンに入ることで物事がありのままに見れて心が静まった状態になるわけです。
このゾーンを無というのか有の集中とするのかは言い方だけのお話で状態としては同じで、雑念が消えて心が静まるので無ではあるのですけど集中の対象はありますので完全な無ではなくて集中の対象としての有はあるのですけど無心と言ってもいい状態かと思います。
そのように、最初は何かの具体性のある「有」としての瞑想から始まって、有を極めると「無」の世界へと入っていくわけです。
その「無」の世界は何もないかというとそうではなく実際にはゾーン状態において対象を識別している心が働いているわけですけれども雑念に惑わされない状態になっているが故にアスリート等が高パフォーマンスを出すことができる領域なわけです。
ですから、無心とは言いつつも心はあって、ですけど、強い集中のゾーン状態に頼っている無心の状態なわけです。それをゾーンというのか無心というのかは言い方の違いだけで割と同じことだと思います。
そのように、有と無の極みとしてのゾーン状態があるわけですけれども、それは瞑想で言いますとダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)という状態なわけで、まだサマーディ(三昧)ではないわけです。
サマーディの前までは割と「無」としての心の平安、静寂の境地と言ったものに頼っています。
しかし、サマーディになりますと急にその「無」だった筈の世界が「有」として開けてきます。この段階になる以前は自分の内側に入っていって「無」の境地を探究していたのが、サマーディになると「外側」の世界が自分と少しずつ同等になってきて世界を「有」として認識し始めます。
これはとても微妙なお話で、サマーディ以前に「外側」というと欲望の世界を意味しますが、サマーディであれば「外側」も「自分自身」なわけです。その、自分自身である世界を「有」として少しずつ認識し始めるのがサマーディの段階なわけです。
心を鎮めましょう、というお話はサマーディ以前であっても以後であっても基本ではありますけど心を無にするというお話はサマーディ以前のことで、サマーディ以後であれば心は常に存在していて世界を認識していますから無にはならないわけです。
最初はサマーディの力が弱くてサマーディから落ちた時に無になってからサマーディ状態に戻る、ということはありますけど、サマーディ状態であればそれは有なわけです。
瞑想を始める前の有の状態とサマーディの有とは全く違う状態ではあるのですけど傍目から見たら違いが分かりにくく、瞑想を始める前に外側の世界を楽しむことは単なる遊びでしかないですけどサマーディで外側の世界を遊ぶことはそれ自体がある種の修行のようにもなるように思います。サマーディ状態を保ったままどれだけ外側の世界で活動できるか、という行動の範囲はサマーディの深さに比例すると思いますし、最初は静かな行動でもサマーディ状態から落ちてしまいますけど、次第に、段階的に、少しずつ複雑な作業においてもサマーディ状態を保てるようになってきているような気が致します。これが、チベット仏教でいうところの「サマーディを生活と混ぜてゆく(セワ)」ということなのかな、という気も致します。
無の境地はそれ自体である程度の達成で、その段階では顕在意識が集中してゾーンに入ることで物事がありのままに見れて心が静まった状態になるわけです。
このゾーンを無というのか有の集中とするのかは言い方だけのお話で状態としては同じで、雑念が消えて心が静まるので無ではあるのですけど集中の対象はありますので完全な無ではなくて集中の対象としての有はあるのですけど無心と言ってもいい状態かと思います。
そのように、最初は何かの具体性のある「有」としての瞑想から始まって、有を極めると「無」の世界へと入っていくわけです。
その「無」の世界は何もないかというとそうではなく実際にはゾーン状態において対象を識別している心が働いているわけですけれども雑念に惑わされない状態になっているが故にアスリート等が高パフォーマンスを出すことができる領域なわけです。
ですから、無心とは言いつつも心はあって、ですけど、強い集中のゾーン状態に頼っている無心の状態なわけです。それをゾーンというのか無心というのかは言い方の違いだけで割と同じことだと思います。
そのように、有と無の極みとしてのゾーン状態があるわけですけれども、それは瞑想で言いますとダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)という状態なわけで、まだサマーディ(三昧)ではないわけです。
サマーディの前までは割と「無」としての心の平安、静寂の境地と言ったものに頼っています。
しかし、サマーディになりますと急にその「無」だった筈の世界が「有」として開けてきます。この段階になる以前は自分の内側に入っていって「無」の境地を探究していたのが、サマーディになると「外側」の世界が自分と少しずつ同等になってきて世界を「有」として認識し始めます。
これはとても微妙なお話で、サマーディ以前に「外側」というと欲望の世界を意味しますが、サマーディであれば「外側」も「自分自身」なわけです。その、自分自身である世界を「有」として少しずつ認識し始めるのがサマーディの段階なわけです。
心を鎮めましょう、というお話はサマーディ以前であっても以後であっても基本ではありますけど心を無にするというお話はサマーディ以前のことで、サマーディ以後であれば心は常に存在していて世界を認識していますから無にはならないわけです。
最初はサマーディの力が弱くてサマーディから落ちた時に無になってからサマーディ状態に戻る、ということはありますけど、サマーディ状態であればそれは有なわけです。
瞑想を始める前の有の状態とサマーディの有とは全く違う状態ではあるのですけど傍目から見たら違いが分かりにくく、瞑想を始める前に外側の世界を楽しむことは単なる遊びでしかないですけどサマーディで外側の世界を遊ぶことはそれ自体がある種の修行のようにもなるように思います。サマーディ状態を保ったままどれだけ外側の世界で活動できるか、という行動の範囲はサマーディの深さに比例すると思いますし、最初は静かな行動でもサマーディ状態から落ちてしまいますけど、次第に、段階的に、少しずつ複雑な作業においてもサマーディ状態を保てるようになってきているような気が致します。これが、チベット仏教でいうところの「サマーディを生活と混ぜてゆく(セワ)」ということなのかな、という気も致します。