<前回の続きを読んでいきます。>
次に残る問いは、ギーターが説くサーンキヤヨーガとカルマヨーガの実践に、誰が適しているのか、ということです。
それらは、階級、信条、国籍にかかわらず、すべての人に開かれているのでしょうか。それとも、特定のヴァルナ、特定のアーシュラマ、特定の共同体に属する人だけが実践できるものなのでしょうか。
この問いへの答えは、次のように述べられます。
ギーターに示された霊的修行の方法は、たしかに全体としてインド的な性格を持ち、ヴェーダのマントラを見た聖仙たちによって受け継がれてきたものです。
しかし、ギーターの教えを注意深く考えるなら、そこに説かれている霊的修行は、すべての人間によって実践され得ると安全に言うことができます。
全世界の教師であるバガヴァーン・シュリー・クリシュナのこの福音は、特定の階級や身分のためではなく、全人類のために意図されています。これが、ギーターの際立った特徴だとされます。
主は、その教えの中で、「人間」「人」「身体を持つ魂」「身体を持つ者」といった語を何度も用いることによって、この点を明らかにしています。
サーンキヤヨーガの根本的な実践を説くときにも、主はその文脈で「身体を持つ者」という語を用い、それを全人類に開いています。
同じように、聖典によって自分に割り当てられた義務を果たしながら、すべてに遍満する神性を礼拝することによって、どの人間も完成に到達できると、主は明確に宣言しています。
献身についても、主は、女性、シュードラ、さらには低い生まれの人々も、それを実践する資格があると宣言しています。その他の箇所でも、主がある特定の修行を教えるとき、その実践を特定のヴァルナ、アーシュラマ、共同体に属する人々だけに限定することはありません。
とはいえ、すべての行為がすべての人に適しているわけではありません。
そのため、主はヴァルナ・ダルマ、すなわちそれぞれのヴァルナや社会的立場に応じた義務の区分を重視します。ある特定のヴァルナや社会的な位に定められた行為こそ、その人にとっての義務であり、別のヴァルナに定められた行為ではありません。
人の行為は、この原理によって導かれるべきだとされます。
人はそれぞれ、自分の資質と性向に応じて、ヴァルナ・ダルマによって割り当てられた義務を果たすことができます。
また、自分のヴァルナや社会的立場に固有の義務とは別に、正しい行い、献身など、人類全体に定められた義務は、すべての人によって実践され得るとされます。
一部の人々は、サンニャーサ、すなわち出家の階梯に属する人だけが、サーンキヤヨーガを実践する資格を持つと考えています。
しかし、この見方も理にかなっているとは言えません。
第二章十八節で、主はサーンキヤの観点からもアルジュナに戦うよう命じています。もし主が、サンニャーシンだけをサーンキヤヨーガの実践者として認めていたなら、その観点からアルジュナに戦うよう命じることはできなかったはずです。
なぜなら、サンニャーサの階梯は、戦争のような激しい行為はもちろん、あらゆる行為を閉ざすものだからです。しかも、アルジュナ自身はサンニャーシンでも隠遁者でもありませんでした。
さらに主は、アルジュナに霊的洞察を持つ人々のもとへ行き、彼らから教えを求めるようにも勧めています。
第三章四節では、行為を控えるだけではサーンキヤヨーガの完成には到達できないと主は宣言しています。もし主が、サンニャーシンだけをサーンキヤヨーガの実践者と見なしていたなら、行為の放棄を不可欠なものとして説いたはずです。
第十三章七節から十一節では、智慧に至るためのさまざまな手段が挙げられ、その中に、息子、妻、家などへの執着と同一化を放棄することも含まれています。
しかし、サンニャーサの階梯には、妻や子どもなどとの関係はありません。もしサンニャーシンだけが知識の道を実践する資格を持つのなら、妻や子どもへの執着を放棄することを、智慧に至る手段としてわざわざ述べる必要はなかったはずです。
さらに第十八章で、アルジュナがサンニャーサとティヤーガの性質について直接たずねたとき、主は十三節から四十節において、サンニャーサそのものではなく、サーンキヤヨーガ、すなわち知識の道について論じています。
もし主がサンニャーサという語で出家の階梯だけを意味していたなら、また、サンニャーシンだけがサーンキヤヨーガを実践できると考えていたなら、その場で明確にそう述べたはずです。
これらのことから、サーンキヤヨーガの実践は、サンニャーシンにも家住者にも等しく開かれているとされます。
ただし、サーンキヤヨーガの実践においては、サンニャーサの生活がより大きな便宜を与えることは事実であり、その意味では、隠遁者の生活の方が家住者の生活より適していると言うことはできます。