引き寄せの法則により輪廻に巻き込まれる

2026-01-31公開 (2026-01-28 記)
トピックスピリチュアル

それは、良いことどころか、果てしなく続く「喜びと、苦しみ」の連鎖を生み出すのです。作り出した現実により更に悪い状況にすらなり得ます。輪廻に巻き込まれるということは、解脱や昇天を求める人からすれば良くないことであるわけです。それを呑気に、求める現実を創造して喜んでしまっているのがお花畑のスピリチュアルの現状なのです。

苦しい状況から脱却する、という、そのような点において多少の意味はあるでしょう。ですが、そのくらいのお話であるかと思います。

又、そのような法則が存在していて、実際にそれが可能である、ということを「理解」する段階としても、それはある程度の意味を持つように思います。そのように現実を創造していることに意識的になることで、それが本当に幸せなことなのか、後ほど俯瞰的に見られるようになるためにも、その前段階としての理解を得るためには多少の意味があるとも言えるわけです。

現実を創造するというのは想念がサムサーラを作り出すということです。サムサーラとは、想念が作り出した幻想のことです。そのサムサーラは現実化します。サムサーラが強固になって定着する物質化され、現実のものとなります。

この法則により現実を作り出すことに喜ぶ人がいます。と言いますか、意識的に行うかどうかに関わらず全ての人は引き寄せの法則を既に行なっていると言えます。引き寄せたからこそ今いる自身の人生が存在しているわけです。いわば、引き寄せていない現実は存在しないと言えます。であれば、最初からあったものをわざわざ引き寄せの法則とかいう名前をつけて、あたかも誰かが作ったり特別な技術であるかのように(時には大金を払って)教えているのがスピリチュアル・ビジネスの現実なのです。そのような状況で誰かが喜んだとして、その喜びとは、サムサーラの輪廻を更に加速させることになることが大半なのです。

サムサーラに巻き込まれると、最初は王様のような暮らしを夢見ます。やがてそれに飽きると、亡者の暮らしに憧れます。また未来の姿を想像し、現実化し、進んだ時代の社会を経験します。そして時には古来の暮らしを夢みて、時代を遡ったかのように、素朴な暮らしを体験します。また王様のような暮らしを経験したくなります。そこには喜びもあれば苦しみもあります。

人は、それが人生だ、と言うかもしれません。喜びもあって苦しみもあるのが人生だと言うかもしれません。シェークスピアもそう言っていたかもしれません。

そして、それを生み出すのが、引き寄せの法則なのです。

引き寄せの法則は、解脱やモクシャ(自由)の観点からすれば良いことではなく、輪廻を作り出す元です。その引き寄せの法則は想念によって発動します。ですから、想念がなくなれば輪廻が終わり、無限の高次の自分と繋がるのです。

引き寄せの法則は行うべきことではなく、逆に、引き寄せの法則を理解した上で、それを発動させないことです。想念を止めること、そうすれば引き寄せの法則は発動せず、輪廻は終わり、モクシャ(自由)・解脱へと至ります。

このことを知ってか知らずか、世間のスピリチュアルは呑気にも引き寄せの法則を謳い、大金が必要なセミナーに参加させ、それで自分の求める現実を作り出させているのです。それがこの世界において現実を創造し、と言いますか最初からそうであっただけのことであり、自覚的になったというだけのことなのです。

もしかしたら、人によっては盲目的で、自分の人生を自分で作ろうとしてこなかったかもしれません。他者から与えられる人生観に従って、誰かに求められるばかりに人生を生きてきたかもしれません。そういう人が他社の人生観を脱却して自身の人生を生きることには、多少の意味があると言えなくもありませんが、私の見たところ、自分の人生を生きずに他者に従って従者のように決まった生き方をしていた方が自身の精神が成長することの方が多いように思うのです。

自分の生きたいように生きて、それでいて精神が成長することは稀のように思います。それは、よほど自制心がある人のみ、自分で自分を律してモラルや道徳にも沿い、清く正しく生きられるように思います。多くの場合、自分の自由なように生きられるようになったら堕落するのです。お金を得たり、自分に自由にさせてくれる旦那を得たり、そのような引き寄せの法則は普通に可能です。それを求めれば、その現実はやってきます。それは当たり前のことで、習わなくても自覚的になればそれだけで法則は発動します。それは、ただ単に、スピリチュアルとか関係なしに後押ししてくれる誰かがいてくれれば、それだけでいいお話なのです。大金は不要で、必要なのは、相談できる友人なのです。

そうして大金を得たり自分を好きにしてくれる旦那を得たとして、相手はどうなるというのでしょうか。お金を払った側や旦那は一時的にはそれなりに喜んでくれるでしょう。しかし、やがてその払ったお金が実はそこまで価値がなかったものであることに後から気がついたり、旦那にしても、自由にばかりしている妻がいたら後ほど幻滅することでしょう。この世は相互に与え合う法則で成り立っており、一方的に片方に引き寄せるということにはなっていません。引き寄せの法則を謳う人は一方的に引き寄せるかのように説明するかもしれません。それはある意味その通りで、自分の想念が現実を作り出すからです。一方、カルマの法則もありますので、そして作り出した現実は作用と反作用の法則に従います。与えたものは相応に返ってきますし、与えられたものは、自分が望むにせよ望まないにせよ、与えることを最終的には求められます。それを拒否するならば、やがて強制的な変化を求められたりします。何故ならそれがこの世界の法則だからです。

結局、引き寄せと言っても、単に、現実を創造しているだけに過ぎないと言えます。それは普通のことです。

そうした法則を学ぶことによって、その、作られる現実に変化があるかというと、それは当人次第であり、求めるものが変われば現実も変わる、というだけのお話です。

もしかしたら、引き寄せの法則とか言っておきながら実際は波動を上げることを教えているかもしれません。波動が上がれば求める現実が変わって、より清浄で道徳的な現実を想像するようになり、やがて現実化し、実際の物質としてこの世界にその観念が実際に創造されます。それは多少の意味があると言えますが、永劫の時を見た時に、そのような波動の上昇は、物質化のサイクルと共に、波動の上昇と下降を繰り返すのです。

この宇宙は現在カリユガという暗黒時代であると言われています。4つある時代において悪い時代にいます。そして、やがて長い時を経て上昇したとしても、モクシャ(自由)に到達していなければ、また、下降のサイクルに入ってしまうのです。引き寄せの法則だけでは、モクシャには至らない、解脱は不可能なのです。そこがポイントです。短期的に波動が上昇したとしても、それは宇宙全体で起こっていることです。そうして喜びを得る時代がやがてやってきます。その後、長い黄金時代を経て、再度、下降の時期がやってきます。そのサイクルを作り出すのが引き寄せの法則であるとも言えるのです。サムサーラの連鎖により、喜びと苦しみのサイクルは続きます。

それを抜け出し、自由(モクシャ)になる道、それが存在してることすら多くの人には知らされていません。とは言いましても日本には仏教により解脱や無心などの概念が伝わっており、よく理解している人は少なくても、それなりに概念は広がっていると言えます。その点は救いがあると言えます。

最近のスピリチュアルで騒がれている引き寄せの法則とは、そのように、昔からサムサーラとして説明されてきたお話を、あたかも良いことかのように説明しているお話に過ぎないのです。それは単によく知らずして語っているのか、あるいは、都合の良い部分だけ切り出して喋っているのか、とにかく、元々の文脈とはかなりかけ離れたお話になってしまっているのです。そして、それを有り難がって高額セミナーに大金を払って喜んで大勢が参加しているというのが現状なのです。

ブッダも同じようなことを話していました。楽しみがあり、執着が生まれ、苦しみとなり、そして輪廻します。この辺りのお話を知ってか知らずか「引き寄せの法則」は、永遠に自分の都合の良い現実が生み出せると勘違いしているのです。楽しみがずっと続けば飽きます。そして堕落します。やがては、苦しみとやらを味わってみたくなります。そして苦しみを経験します。また楽しみと楽な生活が欲しくなります。王様のような生活がしたくなります。執着します。そしてまた飽き、堕落します。それを永遠と繰り返すのです。輪廻をしてしまうのです。「引き寄せの法則」は、求めれば与えられる、という、ただそれだけのお話で、その楽しみと苦しみの輪廻から抜け出すお話ではないのです。

ということであれば、その教えられている内容とは新しくもなく、進歩でもなく、むしろ、基本すぎることを着色して表現を変えているだけであり、基本のところである「人は、願望によって動き、現実を生きる」ということを、あたかも凄いことかのように(無知だからでしょうか)教えている、教えてもらっている、という、そのくらいのことでしかないのです。

結果、引き寄せの法則により更なる現実を作り出し、輪廻のサイクルに引き込まれていくのです。

真実を知れば、そのような大金を払うセミナーに参加することが馬鹿馬鹿しく思えることでしょう。それは古来から既に言われてきたことでありましたし、大金を払わずとも古来からの聖典に普通に書かれてあることです。教えている人も大勢います。世間知らずな無知な人が、可哀想なことに、マーケティングの煌びやかな宣伝と謳い文句に惹かれて大金を失っていくのです。様々なところで色々な人が本当の知識を素朴に教えているのにも関わらず、現代に生きている多くの人はスルーしてしまっているのです。

マーケティングの宣伝は、その意味というよりは、人が集客できる、引き寄せられるキーワードを使います。ですから「本当の知識」だとか「隠された知識」だとか、人が惹きつけられる言葉を使うのです。そのように、言葉だけで何とでもいうことができます。昨今はAIもあり、言葉はとても巧みになっています。試験勉強に強い人というのはどの世界にもいるものです。他者を惹きつけられる表現を様々に勉強し、考え、他者から奪うことしか考えていない詐欺師が、本当っぽいことを語ったりするのです。

古典や本当の知識は変わらないのです。それをオウムのように繰り返すことができる人は大勢います。その先で、本当にそのことを知っているのか、あるいは、セミナーに誘導して大金を得たいだけなのか、はたまたカルトに入信させる目的があるのか、その先の部分はそれぞれ違うわけです。

そのような状況ですから、見る方に目がなければ、「本当の知識」と宣伝している偽物と、そうは宣伝していない本当の知識とが、区別がつかないことでしょう。本当の知識に辿り着くためにも、その前提の段階で、まず、素質というものが必要になるわけです。頭でっかちに知識を得て本当の知識を得たと思っている人が大勢います。そのような人に付き合っても、そこまで意味がないことも多いのです。

世も末であると言えますが、それもまた、引き寄せというサイクルを理解するという一つの段階にいるのかも知れません。まずは知って、次に、どうするのかを見極め、その作り出した現実が本当に幸せなことなのか、一見すると幸せな生活と、時にやってくる心の闇とに自覚的になり、本当の自身の幸せとは何か他にあることに気がついて求め始める人が多少はいるかもしれません。そうなるまでは、ひとまず自身が今いる現状で幸せだと思ったり欲しいと思った現実を作り出していくわけです。そのように、引き寄せの法則の他に絶対的な幸福があることに気がついて求め始めるまで、短期的な視点において現実を引き寄せるとか、そのような様々な瑣末なスピリチュアルのお話に翻弄されることが続くように思うのです。

無限なる意識とは自分自身であり、それは、思考が止まった時に一体となる。であれば、思考はたまた願望をすることは、無限なる意識と繋がることとは逆のことであるわけです。とは言いつつも実際には常に全ての存在は常に無限なる意識と繋がっていますから、何も意識せずとも自身の現実を常に作り出している、とも言えるわけです。では、思考が止まった時に現れる無限なる意識とは何かというと、それは対象ではない、主体も対象も行為もない存在であり、「理解する対象」ではなく、「理解そのもの」「意識そのもの」「知識そのもの」である、それと一体になる、直接的に繋がる、意識を意識する、と、そういうところが自由(モクシャ)であるわけですが、大抵の場合そこには行き着かず、単に、自身の現実を叶えるためにテクニックを行使することに終始するのです。

実のところ、そうして、テクニックを行使して自身の器にそぐわない現実を作り出すということは、あまりにも大きな幸せを手に入れるということでもあり、それは器にそぐわないが故に儚く、早く失われてしまうものなのです。結果、そこに現れるのは「執着」であり、その現実がなくなりそうになると起こるのは「憤り」、そして、他者が自身を脅かしていると思い違いをすることで争いが起こります。時にそれが拡大し、他者との抗争、はたまた国同士の戦争にも繋がります。そして、負けた側は死ぬか、はたまた奴隷となるか全てを失うのです。そのようなテクニックや引き寄せを行わずに、自身に与えられた環境で幸せに暮らしていれば争いも起こらず、死ぬこともないし、奴隷もないし、失うこともないかもしれないのです。

引き寄せの法則とかオブラートに包んでいますけど、要は「欲望を叶えるテクニック」でしかないのです。そして、その行き着く先は他者からの(意識、無意識的、相手の自発的という建前の)強奪です。そして、奪われた他者にしてみれば恨みを生み出し、争いの火種となります。嫉妬やヒステリー、ありとあらゆる人生の感情がそこにひしめき合います。

そして、カルマの法則のテクニックにより、更にそのような厄災を避けようとする人がいます。そうすると、その厄災は他の人のところに行くのです。そうして他者が不幸になります。一時的にはそのように引き寄せはたまたカルマの法則を駆使し、幸せになることもあるでしょう。しかし、そのしわ寄せは長期的に自身に返ってくるのです。子供がいなければ自分はそれでもいいと思うかもしれませんが、やがて自分自身がどこかに生まれ変わるわけですから、自分がその結果を受け取る、ということになることもあるのです。全く同じ人が受け取ることはそれほどなくても、他者の残したプンニャ(良き行い)により、子供たちが育つわけですし、逆に、他者の残したパーパ(悪い行い)で子供は苦しむのです。そして、環境に残した良い影響と悪い影響は、子孫に影響を与え続けます。

結局、たくさん手に入れれば、カルマの法則により、より多くを与えることになります。逆に、沢山与えれれば、沢山得ることになります。これが基本です。

一方、様々なテクニックを用いて、その法則を自身の利益のために利用しようとしている人がいます。そうすると、本来ならば良き行いを積み上げて良い生活や世界に住めるはずの人や、やがて知識を得て自由(モクシャ)に到達できるかもしれない人の邪魔をしてしまったりするのです。邪魔をするどころか、誰かの願望のために使役させられ、時間や自由を奪われることにもなります。であれば、引き寄せの法則を使って他者を操っている人は悪ということになるのです。

引き寄せの法則を使うことで自分がサムサーラの輪廻に勝手に巻き込まれるのは自分の勝手と言えますが、他者を巻き込むのは迷惑でしかないわけです。実のところ、この現在の社会というのは、その迷惑な方が主流になって社会が動いています。他者を隷属化させることで、社会が動いているのです。

では、そこから抜けるにはどうすれば良いのかというと、その手段は引き寄せの法則ではありません。知識を得て、そのサムサーラの輪廻から抜け出すことです。まずは、自分が求めているものが何なのか、それは財宝なのか旦那なのか、そこを見極めるところから始まると言えます。