霊(スピリット)を神様だと思い込まないこと

2025-06-14公開 (2025-05-11 記)
トピック:スピリチュアル: 回想録

スピリチュアルあるあるなお話として、スピリットが言うことをまるで神様の言葉かのように盲目的に受動的に受け止めてしまうことがあります。少し勉強すれば分かることですが霊(スピリット)とは体(肉体)がないだけで普通の人間と同じであり、体がある人間から何か言われてもそのまま盲目的に受け止める人はあまりいないのに対して、体がいない人間である霊(スピリット)に言われたら何やら真実のように思い描いてしまうわけです。これはスピリチュアル初心者あるあるなわけです。

実のところ、これと同じような勘違いが多く横行していて、とても有名な神様が守護霊あるいはガイドとしてついていると自称しているスピリチュアリストが大勢いますけど、そのような有名な神様は個人につくことはほとんどなくて、あるとしても大勢の人を見ているのですが、それよりも、個々の守護霊が「そう言った方がより真実味を帯びて真剣に聞いてくれるから」ということで有名な神様を名乗っているだけのことが大半なのです。

霊の世界では嘘はつけませんので、「貴方は本当に・・・ですか」と直接的に聞いてみたら「いいえ、違います。私は・・・です」と教えてくれる場合が多々あります。そもそも本当に高次の神様は名前なんて教えてくれないことがほとんどで、それなりの時間が過ぎて「あ、あの神様かもしれない」と思うことはあっても、易々と名乗ったり、まるで戦国の武士が戦いの最初に名乗りを上げるように「やあやあ、我こそは・・・・なり」というように自己主張はしないものなのです。そういうということは、それはちょっと低次な神様であって、時に調子に乗ってしまう守護霊・スピリットもいるわけで、お茶目な姿だと思って大目に見るくらいがちょうど良いのではないかと思います。

そして、それなりに有名なスピリットであっても悟っているとは限らず、有名な神様であっても悟っていない場合も多々あります。

更には、この基本と組み合わせてハイヤーセルフあるいはグループソウルはたまた分霊という現象を理解する必要があって、自分自身の分霊が分かれた大元であるグループソウルというものがあるわけです。そして個としてのハイヤーセルフがあって、そのどちらも霊(スピリット)なわけです。

ですから、ハイヤーセルフも霊(スピリット)の1つであり、完璧ではなく、はたまたグループソウルにしてもハイヤーセルフよりは大きいとはいえ完璧ではないのです。スピリチュアルで「ハイヤーセルフに繋がればそれで終わり」かのような幻想を抱いている方が大勢おられますが、確かにそれは第一歩ではありますけど、それはただ単に物欲にまみれた世界から真実に目を向け始めたというだけのお話で、それで終わりではないわけです。むしろそれはスタートであり、自分自身たるハイヤーセルフがグループソウルから分霊として分離した時の目的を思い出してその目的を達成することこそが大切なわけです。

更に話は進んで、そのグループソウルが悟っていないとするならば(大抵の場合は悟っていないのですが)、その悟っていないグループソウルが目的としたことすらも的外れである場合があり、よって、元々の目的を達成することが本当は必要ではないかもしれないのです。グループソウルとハイヤーセルフは元々同一のものでありましたから、それは侍従関係ではなく、命令と従属によってではなく、それぞれ同じ「私」という関係性によって成り立つ間柄なわけです。ですから、オーラの総量的にはグループソウルの方が大抵は大きくてハイヤーセルフの方が小さいとはいえ、その質としては同じ「私」でありますから、ハイヤーセルフが分霊として探索を続けた結果、そこで得た英智によって元々の(分霊になった時の)目的がそこまで意味がないことが判明したのならば、必ずしも目的を達成する必要はなく、「あまり意味がない」という見地の元、「では、本当に意味があるのは何なのだろうか」と探索を続けることこそがハイヤーセルフには求められるのであって、元々の目的を必ずしも達成する必要がないどころか、更に自主的に探索を続けることこそがハイヤーセルフには求められるわけです。

ですから、スピリチュアルで時々言われるように「ハイヤーセルフに繋がって」みたいなお話は、どこか的外れなのです。とは言いましても、説明しようとすると長くなりますので、そのように言うことでそれなりの説明になっているという面もありますので、ざっくばらんに言う時はそれでもいいか、と思う事もあります。

グループソウルからの指示は、時に、強権的な命令としてハイヤーセルフに入ってきて、個としてのハイヤーセルフがそれなりに確固たる確信と理解および意思を持たない限りはグループソウルの意思に従って動くことになります。スピリチュアルなお話を散見するに、このようにグループソウルからの強烈な意思が入ってきた時のことを「レプティリアンが入ってきた」みたいに揶揄している人を時々見ますけど、そういう場合もあるのかもしれませんけど、基本的にこの宇宙は自由というものが守られていて他者からの干渉は受け付けませんので、意識の介入があるとすればそれは自分が元々分かれた大元であるグループソウルからであり、グループソウルからの介入により確固たる意思を持って行動している人のことそそうやって揶揄するような姿は一般大衆に対してスピリチュアルを誤解させてしまい、あまりよろしくないように思います。

物事はもっと単純で、レプティリアンだとかよく分からないお話ではなくて、各自の独立した生命たるスピリット(霊)がそれぞれの意思で分霊を作り出してこの世界を探求しているのです。その時に、グループソウルの方が基本的に深い英智を蓄えていて、その上で、ハイヤーセルフとして分霊になりこの世を探索し、そして、時折グループソウルからの強力な介入があって強固に動いてしまう、というお話なのです。

基本的には各個人には自由があるとはいえ、社会に対する影響のためには他のグループソウルに属するハイヤーセルフに対する介入もそれなりに許されます。その時は全く関係ないスピリットが一時的にオーバーシャドウされるような形で暫定的に自由意志を奪われ、目的に即した行動を一時的に取ることになります。例えばジャンヌダルクを助けなかったシャルルは一時的にこの状態になり、実のところ元々のタイムラインでは普通に恩義を感じてジャンヌを助けていたシャルルではありましたが、フランスを統括している、いわゆる神様(であるところのグループソウル)から介入を受け、ジャンヌは早めに寿命を全うして天に帰るという目的を果たすために、シャルルはジャンヌを助けなかったのでした。

このような現象を何やら昨今のスピリチュアルでは「レプティリアンに乗っ取られた」みたいに揶揄して馬鹿にするような風潮が一部であるようですが、現実はそのようによく分からないお話ではなくて理由がそれぞれあるわけです。そういうお話も一部にはあるのかもしれませんが、どちらにせよ、知ったところで大した意味のないお話であり、陰謀論と同じく、勝手な想像をして楽しんでいる、そのくらいであるように思えます。

そのように、強力な意志で介入してくる存在がいて、それは時に神と呼ばれたりします。そのような存在は確かにいますが、その意識状態は様々です。意思は強力であったとしても悟っていない存在もいて、一方、意識が強力で英智も優れている存在もいます。一般的に地獄とか呼ばれている世界に強力に陣取っている存在がいて、そのような存在は英智もそこそこながら力がとても強く、それはレプティリアンとかいうよくわからない存在ではなくて、個々にそれぞれ、そういう存在がいるわけです。

自分が何に従って動くのかが重要であって、結局、そのような強力な存在を傍目で見つつも、一番の基本であるのは自分のハイヤーセルフであり、次に自分たる分霊が生まれ出た大元であるグループソウルであり、その英智を深めるために自分自身が存在していることを自覚すべきなわけです。

このことが分かれば、強力な神様(のように思われる存在、スピリット)がいたとしても惑わされることなく、自分のスピリット(自分のハイヤーセルフ、自分のグループソウル)に根ざして行動することが第一であることがわかるわけです。

どこをどう転んでも他者になれることはなくて、自分は自分なわけです。

ただ、スピリットの世界はこの地上のように肉体を持つわけではありませんので、魂(いわゆるスピリット)そのものが他のスピリット(魂)に丸ごと飲み込まれてしまう、いわば食べられてしまうことも多々あります。その時は、実のところ消化されるというよりは経験や英智までもが取り込まれるような形になります。強力な力を持つものの混乱しているような荒ぶれる神は強力なスピリットであり、スピリットではあるものの強力なオーラを持っているわけです。基本的に個別のハイヤーセルフおよびグループソウルで英智を蓄えて来た場合は混乱が少ないわけですが、他者の魂(いわゆるスピリット)を取り込んでしまった場合は混乱があるわけです。

ですから、油断して自身の意思を他者に委ねたり、はたまた、「オーラをもらう」ということで自身の成長を繰り返しているとその代償を払うことになります。それは、相手の(強い)オーラをもらいすぎたことにより、最後は魂(スピリット)が丸ごと食べられてしまうのです。それは融合するということです。

これは本来の自由意志に基づいて成長しているスピリットとは違い、融合により成長してきた魂であり、それなりにスピリチュアルに精通しなければこの違いは見抜けないのです。

基本的にこの世界は自由が保障されていて、それは知識を得るため、「知る」というモチベーションがこの宇宙の基本原理であるわけですが、それを融合という方法で行っている存在がいるのです。

これは良い悪いのお話ではなく、そのような融合によって社会が進化する、ということも起こります。

何事もサイクルで起こります。

・融合し、混乱する
・個に分離し、安定する

これが繰り返されます。

神様にしても同じサイクルがあり、安定の神様と、不安定な神様があります。神様とはいっても力のあるスピリットのことです。はたまた、力がそこまでなくて普通の人としてのスピリット(ハイヤーセルフ)にしても同じことがあります。

個としてのレベル(ハイヤーセルフ)でも英智を蓄え、一方、グループソウルの単位でも英智を蓄積します。グループソウルは個として分かれたハイヤーセルフが帰還するときに融合し、一時的な混乱の後に静まります。安定します。そしてまた分霊ができてハイヤーセルフとして探索の旅に出ます。

神様と言われるような強力なスピリットにしても同じことで、分霊を作り出してハイヤーセルフとして探索に出るのです。力の強さ、英智の多さの違いはあっても基本は誰しもが同じなわけです。

ですから、この世界は全てスピリットだとすれば「拝む」だとか「崇拝する」という対象は基本的にはなくて、あるとすれば自分が分霊として分かれた大元であるグループソウルでありますが、それすらも元々は自分自身だったわけでありますし、分霊ということはオーラの総量や質の違いは多少あっても基本的にはどちらも同じ「私」でありますから、「拝む」あるいは「崇拝する」という対象にはならないのです。

その拝むというのが自分自身の根幹に繋がること、すなわちハイヤーセルフと繋がること及びグループソウルと繋がることであるならば一般的な拝みや崇拝とは少し違いますがそれなりに意味はあって、社交辞令的に拝みや崇拝と言いつつも実はそういうことである、としても良いのかもしれません。この辺りを説明しようにも一般的には理解されにくいことでありますから、ざっくばらんに拝みや崇拝と言いつつ、こういうことであると心の内で理解しておくくらいがちょうど良いのかもしれません。

どちらにせよスピリットは絶対神ではなく、肉体を持たない人間と基本的には同じであるわけです。

一方、更に高次の創造神というような存在もいるのですが、そのくらいになりますと個のことには関わり合いませんので、個がコンタクトするような存在ではないわけです。大地そのものあるいは地球はたまた宇宙そのものが創造神でありますから、個の悩みとかそういうものは聞かないわけで、ましてや守護霊につくなどということもないわけです。