「中」で視界がぼやけるのとタマスでぼおっとするのとは異なる

2021-04-03 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

傍から見るとどちらも大差ないように見える気も致します。

しかしながら、自身の感覚ではこれは違った状態で、タマスで愚鈍な感覚に落ち込んでいる時は思考および五感の全てが鈍くなってぼおっとします。

一方で、「中」の状態では視覚がフル活動していませんので視界がぼやけるように思います。

これは、スローモーションのように体の動きを感じる状態はそれはそれで視界(目)が優勢になっている状態だったわけですけれども、五感のうち視覚だけが特に優勢になっていた状態だったわけです。

ヨーガでは目はマニプラ(ソーラプレクサス)チャクラが司っていると言われており、それはいわゆる情としての愛なわけですけれども、マニプラが活性化した状態においては視覚が活性化してスローモーションに見えたりするわけです。

一方で、感覚としては他にもありますから、例えばムーラダーラは匂いに関連していて、スワディスタナは味覚、アナハタは触覚、ヴィシュッダは聴覚に関連しているわけですけれども、その中で特に視覚が活性化したということはマニプラが動いている状態とも言えるわけです。

心というものは全ての五感を司っているわけですけれども視覚だけが優勢になってしまうと他の感覚が薄れてしまいますので、必ずしも視覚だけが活発な状態が最高というわけでもないわけです。それは、使うときに意図的に使えばいいわけで、視覚をしっかりと働かせようという意思があって視覚が動けばいいわけです。

意識の状態がサマーディに近づいてくると五感のうち優勢ないずれかから次第に活発に動き出して、私の場合、昔は味覚だったり嗅覚だったりしたわけですけど、最近は視覚が加発だった、ということのように思います。

そして、それら五感のバランスが整ってくるといわゆる「中」の状態になって、単に五感のバランスが整うだけでなくサマーディとしての根底の働きが出てくるわけです。これはリクパとか言われていたりします。

その状態は今までも瞑想の結果として出てきていたわけですけれども、日常生活の瞑想状態、日常生活にまで続くサマーディ状態としての根底のリクパの働きとしては、まだまだ弱かったわけです。

弱かったが故に、例えば視覚が活発に働くことでその奥底のリクパが働いてサマーディ状態を意識的に維持したりしてきたわけですけれども、次第にその「努力」が不要になってくると、それに応じて、例えば五感もはっきりとしたものではなくなってくるわけです。具体的には、視覚を働かせてスローモーションの状態にまで働かせなくてもサマーディを維持できるようになってくるわけです。

そうなると、特に五感が激しく働かなくて普通の生活を送っている状態でサマーディが保てるように次第になってきます。それを比喩的に「中」とか表現したりしているわけです。

この状態になると、視界を特別に働かせてはいませんので視界がぼやけたりしますけど、それはタマスの時の鈍い感覚ではなくて、ただ単に視界をそれほど使っていない、というだけのお話になります。

一方で、五感がそれぞれそれなりに動いている状態になりますから、特に日常生活で言いますと内部の感覚が常に意識されるようになります。体の中の感覚、それに皮膚の感覚もそうです。

この状態になると、いわゆる日常生活の瞑想が容易になってきて、割と普通の生活がそのまま瞑想になります。

この、日常生活の瞑想は色々なところで言われていますけど、それは意識的にするものではない・・・ というと語弊がありますが、わざわざ瞑想としてやるものではなくて、次第に瞑想が日常生活にまで広がっていって、いつの間にかそうなってゆく、という種類のものだと思います。意識が働いているからこそ瞑想状態なわけですが、意識的にそうしようと思ってやるものでもなくて、瞑想が深まってゆけば自然に日常が瞑想そのものに変わる、という種類のものだと思います。言葉で聞くと似たように思えるかもしれませんけど、行動として瞑想をしようと試みることと、自然に日常生活が瞑想に変わるのとでは相当の違いがあるわけです。