私は光、という実感が強まる

2021-12-19 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

スピリチュアルではよく「私は光です」みたいなことが言われますけど、実際のところ、そのような理屈はよく理解できるのですがそこまで深く実感を伴うということはあまりなかったように思います。

光それ自体は瞑想中に「見たり」「感じたり」ということはしょっちゅう、あるいは、ほぼ毎回しているわけですけれども、私自身が光であるという実感は時々あったとは思いますがそこまで深く真に思い入るということはあまりなかったように思います。

最近、サハスララにエネルギーを上げることにより光が見えるという状態になって、その後、サハスララからオーラを広げて自分を卵状に包むという状態になってきたところで、ふと、自分の頭の上の方から光が差し込んできているような感覚になって、そうしているとふと、体全体が光に包まれた状態になって、「あれ。私って光のような気がする」という感じになってきました。

光とは言っても無色透明で全部消えてしまうというわけではなく、将来的にはそういう感覚にもなるのかもしれませんけど、少なくとも今のところは、光に包まれた実感のある光の存在としての自覚が少し出てきた、という感じです。

自覚とは言っても自我の自覚とは違って奥底の無意識で「そうだとわかる」という感覚で、ふと、気づいたらそうだった、という感じです。

スピリチュアルでの祈りで「私は光です」みたいなフレーズがよく出てきて、表現方法や言葉としてはそれぞれなのですけど多くの祈りでこの部分は一致していて、特に優越があるようにも思いませんので自分に合っていて唱えやすいものを選べばそれでいいのだとは思いますけど、その多くでこの「私は光」という部分が一致しているわけです。

その、多くの祈りで共通の「私は光」という理解と実感とはこういうことだったのかがわかる段階にようやく達した、ということなのかもしれません。

スピリチュアルの段階として、概ね3段階あるいは4段階があります。

・アストラル次元。感情を扱う
・コーザル次元(カーラナ次元)。論理を扱う
・プルシャの次元(個としての神意識)
・全体としての神意識

最後の段階はそうそう達しませんので大体は最初の3段階になるわけですが、このうち、まずアストラル次元では「水」として実感されたりします。白隠禅師の軟酥の法は頭の上から光の水のようなものを身体中に流して浄化するのですけど、ここで「水」として比喩されているということはアストラル次元のお話です。

昔はこの「水」の比喩と「光」の比喩との違いが良くわからなかったのですけど、最近は割と明快です。

「水」はアストラル次元。
「光」はコーザル次元(カーラナ次元)より上、コーザルやプルシャの次元など

水であってもそれなりに光っていて、コーザル(カーラナ)やプルシャになるとそれぞれ光を発していてより光の本筋に近いものになります。

スピリチュアルのワークではこの「水」と「光」が割と混同されていて、時に「水」のアストラル次元だったり「光」のコーザル次元以上だったりするわけです。どちらにせよ実態としては「光」なわけですけれども、段階に応じて感覚が違うわけです。

また、コーザル次元を普段は体感していたとしても肉体を持ってこの地上に生まれている以上はアストラル次元の体も持っていますので、コーザル次元だけになってしまうということはなくて、最初はアストラル次元を主に扱っていて、次はコーザル次元を主に扱うようになりますけどそれに加えてアストラル次元も必要に応じて扱うわけです。

どちらにしてもその本質は「光」であるわけです。