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瞑想は雑多な感覚から無、そして有に至る

2021-12-16
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最初はモヤモヤとした雑感・雑念の多い状態と対峙して、やがて無の境地に至り、次はまた有になります。

無にも概ね2つのプラトーの段階があって、最初はいわゆる集中の歓喜の状態、言い換えればゾーンの状態です。これは無と言うほどまだ無ではありませんけどそれなりに無想が現れてきている状態で、ゾーンですと割と短期間なことがほとんどですけど、集中が高まって対象と一体となって歓喜が湧き起こります。そのゾーン状態がまずありますが、次の段階である、本当の無とも言っても良いのが静寂の境地です。

静寂の境地になりますと体の感覚もほとんどなくなって、一番わかりやすいのは体の感覚ではありますけどそれだけではなくて意識としても消えて、思考が一時的にでもなくなったかのような感覚になります。これらは「無」の段階で、流派によってはこれもサマーディと言っていますしサマーディには色々と種類がありますのでサマーディであることには変わりがありませんけど、サマーディのうちでも割と初めの段階のように思います。

その静寂の境地だけでも日常生活を豊かに暮らすには割と十分で、ポジティブに軽やかに人生を送ることができるようになります。その前の段階ですとゾーンをたまに体験するくらいですので、静寂の境地に入ることが(度々でも)できると言うだけでも人生が豊かに幸せに穏やかになるわけです。

それだけでも十分ではあるのですがその先に至ると、サマーディの次の段階に相当して、そこではもはや「有」になります。その前の静寂の境地ですと体の感覚やら思考とかが「消える」と言う状態でそれ故に「無」に相当する段階でしたけど、この「有」の段階になると、静寂の境地で静かになった顕在意識、普通の意識、表層の意識の更に奥に、文字通り奥深い意識というものが潜在意識あるいは無意識の側から湧き出てきて、元々無意識だった部分の一部が顕在意識の端っこの方に仲間入りをするようになるのです。その、奥深い意識は文字通り意識でありますから何がしかを認識する能力を持っており、静寂の境地そのものは顕在意識にとっては実はこの段階になっても変わらないのですが、顕在意識が静寂の境地で静かになっている、そのまた奥で、文字通り奥深い意識が体や思考などを背後から自動的あるいはシステム的あるいは機能的と言ってもよいくらいの動きと力で背後で強く働いている意識というものがあるのです。文字では自動的と言っても機械的というわけではなくそこは有機的な働きになっていて、有機的な人間の意識の奥深いものが、システム的と言ってしまうと語弊があるかもしれませんけどかなり有機的かつ機能的にシステムのように奥深い意識が常に働き続けているわけです。

その段階になると表層の顕在意識を働かせようがあるいは表層の顕在意識を静寂の境地で沈めようがあまり関係がなくなってきて、そうは言いましても最初は影響がありますけど次第に影響がないようになってきて、奥深い意識、それは最初は観察として現れますけど実際には意図としての意識の面もあって、その奥深い意識が常に観察あるいは意図をするようになってくるわけです。

そうなってきますと、もはや奥深い意識というのは基本的に常に動いている状態になって、あまりにも顕在意識が惑わされていたりしない限りは奥深い意識は動き続けていて、その状態はもはや「無」と言い表すんには不適当で、であればそれを言い表すいい表現はないかというと、比喩的ではありますけど「有」ということになるわけです。

瞑想にそれほど熟達していない場合は雑多な混乱した意識しかなくてそれを表現としては「有」と言えなくもありませんけど、ここで言っているのは「混乱した有」から「無」に至り、次には「無と同居することもできる有」あるいは「整理された有」とでも言える状態に変わってゆく、ということなわけです。

これは単なる哲学の理屈のお話ではなくて、そういう哲学もあるのでしょうけど、この種のお話は実際に自分で瞑想をして見出すべきことであるわけです。



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