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「創造・破壊・維持の公の意識」が頭にまでじわじわと浸透する
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身体のオーラがあるような、ないような境地で非想非非想処に至る
識無辺処から無所有処へ入りつつあるのだろうか
2021-01-02 00:00:00
トピック:
スピリチュアル
:
瞑想録
油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。
・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)→これから
・無所有処(むしょうしょ)→これへ
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
同書には、識無辺処を成して無所有処に移る段階について以下のように記されています。
最後に殘された一つの依所(えしょ)としての識心がただ重苦しくとざされてしまうのである。開破の氣が迫ったのである。そうして、迫りきったところでぱっと開けるのである。とざされた識心が、瞬間ぱっと開破されるのである。これで、最後に殘された依所としての識心が空じられたのである。
「信心と座禅(油井真砂著)」
これは、次第に「自己」としての心がなくなっていって「宇宙」としての意識に変わってゆく、変わってゆくというよりは自己と宇宙の区別がなくなる、という心境だということです。そうして、この識無辺処の終わりには最後に残された自己としての心の認識の部分が「空じられる」、ということは、自己としての心がなくなるということなのだと思います。
とは言いましても、他の部分を読むと、大体はなくなるものの完全にゼロというわけではないようです。大きなくくりとして、この段階で宇宙的な意識と統合されて宇宙と自己との区別がほとんどなくなるということなのかなと解釈致しました。
完全に「自己」がなくなったかと言うと私の場合はそうではありませんけど、まずは
胸の奥の創造と破壊と維持の意識が胸いっぱいに広がった
後、
「創造・破壊・維持の公の意識」が頭にまでじわじわと浸透する
ようになりましたので、この状態が該当しているかもしれません。この状態において、まだ片隅に「わたし」は存在しておりますが、この
「創造と破壊と維持」の意識は必ず公
の意識ですので、基本は公の意識がほぼ優勢になっている状態です。
同書の記述が大きな意識の変革の段階を示していて、完全に自己がゼロにならなくても良いという段階のお話であれば、
頭にまでじわじわと浸透した
段階で「わたし」というものがなくなるのは一段落しましたので、識無辺処を完成して無所有処に移り始めたと解釈しても良いかもしれません。
自己が宇宙の広さと完全に融合し得る入所を得たからである。方所を絕したところに悠悠自適し得る妙機を得たからである。
「信心と座禅(油井真砂著)」
確かに、完全に融合した感じではありませんが、「融合し得る入所を得た」ということであればそういうことかな、とも思います。であれば無所有処に入りつつあるということなのかもしれません。
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