空無辺処を突破するには「手放し」が必要

2020-12-18 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

スピリチュアルでよく言われている「手放し」ですが、この段階を突破するにはまさに「手放し」が必要のように思います。

空無辺処(くうむへんしょ)とは先日書きましたようにまだ色(形)がまだほのかに残っている状態です。その残った最後の色(形)を「手放す」のです。

それ以前の「手放し」は言葉だけのもので、大した意味を持たなかったような気が致します。
ここにきて、まさに「手放し」とも呼べる、そう呼ぶのが相応しい状態になりつつあります。

元々スピリチュアルで言われている「手放し」が私にはピンとはきていなくて、私は自分で実感したものしか受け入れませんのでこの「手放し」も「ふうん。そういうこともあるのかな」というくらいで傍観していたのですが、ここにきてそのことを理解しつつあります。

とは言いましても言葉が同じだけでスピリチュアルで言っていることとは異なるかもしれないですけどね。まあ、それはそれでもいいです。スピリチュアルでは言葉の定義が曖昧で人によって色々ですから。私は言葉通りに解釈すると「手放し」がしっくりくる、というだけのお話です。

この空無辺処はほのかな安寧の気持ちあるいは何がしかの安楽なイメージ・映像が次々にやってきて自分がまるで涅槃にいるかのような錯覚にもなるようです。安楽な感覚に安住すればそれは偽の涅槃に落ち込んで安住の境地で成長が止まるでしょうし、その一方で、完全に心を停止させて安楽な気持ちになりたいという誘惑に負けてしまうとサマーディあるいは定という観点から言えば無想定というただ深く眠っているかのような状態にも落ち込むことがあるでしょうし、仏教の心という観点からすればそれは魔境ということにもなるのでしょう。

それ以前でももちろん雑念はありましたし想像で何がしかの映像が見えることはしょっちゅうで、それももちろん魔境ではあったかと思います。ですが、この段階以前であれば「手放し」は機能しなかったように思います。手放しをしようとしても離れてゆかず、それよりは「集中」が雑念を追い払う鍵になっていたように思います。それまでは。

第四禅定を超えますと集中しているという感覚が失われて、ただ周囲が遠くまで見えて、少し霧がかかったような安寧の気持ちになります。それはおそらく第四禅定の最初の段階としてスローモーションの視界として認識され、やがては、体の感覚の細かな動きを感じられるようになりました。どちらも集中しているという感覚があまりなくて全般的に観察しているという感じです。最初こそ集中が多少は残っている観察でしたが次第に観察が優勢になったように思います。

そのように、集中が次第に止んでいって観察が優勢になってくると、最初の頃のようにカニカ・サマーディとしての瞬間の観察という感じが薄れ、少し柔らかな感じになってきます。これは最初は観察が弱くなってきたと思っていたのですが、どうやらそうではなく、もともと集中が優勢だったものが集中より観察が優勢になってきたのだと今は解釈しています。

そうして進んでゆくと、まるで涅槃かとも思えた状態になったのですが、どうやらそれは禅宗的には涅槃ではなく第四禅定の無想定だったようです。そして、第四禅定の終わりから空無辺処にかけては安寧の気持ちの上に様々な想像が映像・画像・実感としてやってきて、それが涅槃と思い込んでしまうとそこで修行が停滞してしまう、ということのようです。

その状態を突破する鍵が「手放し」なのかな、と思いました。

普通に心の力を入れて突破しようとするとサマーディが解除されてしまいますし、かと言って、なされるがままほおっておいてもそれはなくなってゆきません。まさにサマーディの観察する定の力を強めなくてはならないのです。そして、それと同時に起こることが「手放し」のような気が致します。

ここで言う手放しとは「何もしない」ということではなく、特に最初は「(全体的な意思を働かせて力強く)手放します!」と宣言、あるいは、その意思に対してエネルギーを注ぎ込むことかなと思うのです。そして、次第にサマーディの力が強くなって更に色界(形)の力が弱まるにつれ、その「手放し」も穏やかなものにしてゆけばいいと思うのです。

ここで、手放しているのに力を入れてどうするの? と思われる方がいらっしゃるかもしれませんけど、顕在意識の心は継続してサマーディの状態を保っていて、その奥にある深い意識にエネルギーを注ぎ込んでその幻想、これこそマーヤー(幻想)と呼ぶに相応しいのかもしれませんが、そのエネルギーを使って幻想を突破するわけです。ですので、意思を伴った手放しであるわけです。意思というと顕在意識の心のように思われてしまうかもしれませんけど、顕在意識は落ち着いたまま、奥深い意識を動かす、ということです。顕在意識が動いてしまって幻想(マーヤー)に付き合ってしまうと囚われの状態になってしまいますので顕在意識の心は静寂の気持ちを保ったまま、マーヤーを突破するよう深い意識を働かせるのです。

まあ、言葉で書くと大げさに見えてしまうかもしれませんけど、要は、そう意図するという程度のお話です。
まだ完全に幻想(マーヤー)を突破した感じではありませんけど、きっとそうなのかな、という小さな実感があります。

「手放し」というとエネルギーが不要のように思えるかもしれませんけど意外にエネルギーがいて、エネルギー補給しながらしないといけない感じです。

「手放し」と聞くと「行為」のように聞こえてしまいますけど語弊があって、「手放し」という「結果」だと思った方がいいかもしれませんね。手放しを「する」わけではないのです。意思の力を働かせて見極めようとすると、手放しという行為が「結果」として「起こる」のです。普通の意識からすればそう解釈・説明できますし、その一方で、奥深い意識という観点からすると「手放し、という行為」と言えなくもありません。まあ、混乱するので、とりあえず「行為ではなくて結果だ」と思っておいても差し支えないと思いますし、言い方を変えて「行為ではなくて、理解だ」と言ってもそう間違いでもありませんがいずれにしても語弊がありそうです。このどれも直接的には説明していなくて、そう見えなくもない、というお話です。

どちらにせよ手放しは起きて、それは結果でもあるし、奥深い意識によるエネルギーを伴った意思でもあるわけです。



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