禅的に解釈する最近の静寂の境地

2020-12-17 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

先日に続いて油井真砂さんの著書を読んでいきます。禅宗の視点がとても興味深いです。

第四禅の境地というものでは(中略)その慧眼に映った涅槃境というものもも、僅かに影を映したに過ぎない幻相であるということになるのである。(中略)無想定というのは(中略)無為恒常の無念無想境が開顕(かいけん)して来るのだが、そこを直ちに涅槃境と心得て何時までも枯木死灰のような無為の座を守って非色非心の法を修するようになる外道定である。「信心と座禅(油井真砂著)」

とのことですので、禅でもきつく戒められているのは周囲のことだと思います。多少ながらスピリチュアルや禅あるいは仏教を学んだ人であれば日本であれば割と初心者であっても禅のこれらの教訓は話くらいは聞いたことがあるように思います。

ただ、同書によればこれは必ず通る道だと言います。そういえばテーラワーダ仏教でも似たようなことが書かれてありましたね。

尤も、この定は、佛教の内道修行をしている者の上へも、色界から無色界へ転ずる時の一時的な必然現象として現れる中間定になっているから、この点で、4空定後の無色界から法界へと転ずる時の滅尽定(めつじんじょう)と並べられて二無心定と呼ばれる難定になっているのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

同書では、この段階の注意として「仏にあったら仏を切れ」のような、とてつもなく有名なお話が載っています。それがこの段階のようです。

私に照らし合わせてみると最初の静寂の境地が涅槃っぽく見えたりもしましたが実は涅槃というよりも第四禅定あるいは無想定だったのかもしれませんね。少なくとも禅宗ではそのように言う感じでしょうかね。私の場合はもしかしたら涅槃かと思っていた境地でいたのは一時的でしばらくしたら胸の奥から突き上げる感覚が出てきてその安住に眠らせないといわんばかりに揺れ動く状態へと導かれましたけど。そして最近、それを超えてまた違った涅槃っぽい境地に達するようになりましたが、これはこれで違う境地のように思います。

少なくとも最初のものは禅的には涅槃ではなくて第四禅定あるいは無想定だったのであればそれも納得です。
最近の別バージョンもきっと同じようなものですかね。ただ、そこにも書いたように体の状態は異なりますけど。

私は、もしかしたら涅槃は一時的なもので悟りがその先かと思っていたのですが、禅宗の涅槃はもっと悟りに近いもののようですね。私はもう涅槃は終了かとも思っていましたけど、禅的に言うとまだ涅槃は達成していなくて本当の涅槃はまだまだ先のようです。

禅宗の言うところの涅槃はもっと永続的で確実な宇宙意識との繋がりがあるようです。私が体験したのは単に平穏の静寂の境地の極限、という感じでしたので、私も禅宗の用語に合わせた方がいいのかもしれません。

同書には、この無想定は涅槃と勘違いしやすい、という趣旨のことも書かれてありますね。涅槃と勘違いしてしまってそこに安住してしまう人がいるとのこと。

とは言いましても、私はそれにずっと浸ると言えるほどに熟練していたわけではなく、瞑想の終わりに度々、静寂の境地が極まった際に涅槃っぽい感覚になった、というお話ですし、それが禅宗的には涅槃でなくて第四禅定あるいは無想定だったとしても無想定に浸るとか無想定を超えるとかそんな大それた話にはまだなっていなくて、ようやく安定して度々、第四禅定あるいは無想定にまで達することができるようになったというくらいです。

上にありますように、これはきっと必ず通るところなのでしょうね。

無想定という名前にあるように何も思わない定(静慮、瞑想)の状態のようですけど、私は必ずしも想念がゼロになっていたわけではなくて、最初に静寂の境地に到達する瞬間には雑念が急速になくなっていきましたけど、その後は薄い感覚で多少の想念は存在していました。ですので名前の通りに想念が全くない定というわけではないので、私の状態とはちょっと違うかもしれません。ただ、その状態で何かの想念が起伏してもそれにはほとんど影響されません。完全に想念がなくなるわけではないですから、無想定とは違うのかもしれませんけど、ほとんど影響されなくなるという点と雑念が極端に減るという点では無想定と言えるかもしれません。

まあ、そのようにわかりにくいからこそ、せっかくここまで来たのに落とし穴に落ちる人がいるのかもしれないですね。

言い方は色々あるとは思いますけど、要は、無念無想の状態で眠り込むかのように安楽な瞑想をしてはいけない、ということですよね。

安楽な状態ではありますけど、そこはゴールではない、というのは感覚としてわかっていました。しかしながら何を次に行えばよいのかいまいち決め手がなくて、そんな時にこの本を入手したのでした。

ふと思ったのですが、無想定や滅尽定に眠り込まないために禅宗は半眼なのですかね??? そういえばチベットのゾクチェンも眼を開けた瞑想とかしていますね。もしかしたら、この無想定の段階を超えるには眼を開けた瞑想の方がいいのかもしれません。まだこれは仮説ですけどね。

ですけど、確かにそこを超えるのは眼を開けていた方がいいのかもしれませんけど、そこに至るには眼を閉じた方がしやすい気もするのですけど、どうでしょうかね。

最初に達成した涅槃っぽい静寂の境地が第四禅定で、そこから一時的に無想定に達してはいたけれども胸の奥から突き上げる感覚で次の段階に導かれた、と考えるのが自然かもしれません。