一瞥を最終的な悟りだと勘違いしないこと

2020-12-13 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

昔からこの種の人たちはいて、新興宗教を立ち上げたりスピリチュアル・リーダーを名乗ったり悟りを得たとか覚醒したとか言っている人の中で割とこういう人が混じっています。全部とは言いませんけどね。それぞれです。ですけど、こういう人は一定の割合は必ず混じっているように思います。

先日、他者の手助けでも幽体離脱できて真理・悟りを垣間見ることができるというお話をしましたけど、そのように全く修行していなくて「勘違い」していて「斜め上」を向いている人であっても他者の助けがあれば一時的な覚醒・悟りの状態を体験できるのですよね。ですけど、それはあくまでも一瞥であって、それをもって最終的な悟りだと勘違いしない方がよいです。

実際は、その一瞥の悟りを自身の指針にしてその後の修行に励むようにとの恵みを頂いたようなもので、その後の人生で同様の悟りの状態ではなかったり惨めなものだったりするのであれば所詮はその悟りは一瞥でしかなかったということです。

まあ、こういう一瞥はいつにでもあって、瞑想中だったり幽体離脱だったり、一瞥の悟りはレベルはそれぞれ違うにせよ小さな悟りなんてしょっちゅうで大きな悟りだってたまにあります。ですけど、大きな悟りの最終状態が日常生活で24時間継続して続くようでなければ最終的に悟ったとは言わないのですよね。ある程度続くのであればそれは一応は悟りと呼んでも良い状態だとは思いますけど、その後も悟りが深まるように努力、というと語弊があるかもしれませんが、努力のようなものを続ける必要があるわけです。

一瞥しただけで悟りを得たと思って修行を辞めてしまったり他者に論じたりする人はとてつもなく多いです。ですから、そんな他人をいちいち気にしていても仕方がなくて、それ故に、色々言っている人がどのレベルにいるのか見極めが必要です。

言っている内容が本物であったとしても一瞥の内容を喋っているのかそれとも常に神意識と同一化していてそこから発しているのか、その違いはとてつもなく大きいです。

一般的には、このような一瞥は弟子がグル(霊的指導者)から与えられるインスピレーションによって起こることが多いような気が致します。

グルのお恵みによって弟子に悟りの状態を一時的に体験させるわけですね。その時は弟子ははっきりとその悟りがグルの恩恵によるものだとわかっていますので勘違いはしないのですが、最近のスピリチュアルですとセミナーや瞑想中に一時的な悟りを垣間見ただけで悟りを得たかのように勘違いしてしまう風潮がある程度はあるように思います。

見分け方は色々とありますが、「見るとお腹がジンジンと痛くなる」とか「いいこと言っている気もするのに何故か疲れる」ような人のことはすぐに離れたり見るのを止めます。マニプラ以下が優勢で情としての愛のレベルにいるのか、あるいは背後にいるのが妖魔系、あるいは稲荷系の可能性がありますね。いわゆるエネルギーヴァンパイアの類です。
それと、ヒステリー系スピリチュアルあるいは自己啓発系スピリチュアルも私は興味ないです。こちらは天狗系の可能性があります。

私が思う本物は、ただただ神を語ります。神のみを語り、神の恩寵と恵みがその言葉や態度の隅々からにじみ出てくるのが本物の覚者です。そうなってくると今のスピリチュアルのひと目を引くような風潮とはちょっと離れて、割と地味なものになりますけど、その本質は神の意識に溢れていて後光がさすような感覚を受けることもあります。

分かってしまえば割とすぐに見分けがつきますけど、まあ、最初はわかりにくいですよね。わからない内にそのように中途半端なグルのところに集うのも決して無駄ではなくて、それすらも学びであるので何も無駄なものはないのだとは思います。

勘違いして他者に教え始めてしまう一瞥の覚者にしてもそれは本人の学びで、教えるということを通じて自分が学んでいるわけです。それにしても特に問題があるわけではなく、そこに集うということは、同じレベルの人たちが先生と生徒という枠を超えてお互いに学び合っているわけです。

何も無駄はなくて、勘違いにしても全てが神の恩寵であるわけですね。ほんと、この世界は素晴らしいことだらけです。神の意識に満ち溢れています。