経験する静寂の境地から経験しない静寂の境地へ

2020-11-27 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

少し前までは、静寂の境地に入る時は何かに吸い込まれるような感覚を伴って意識が静寂になる急激な変化の体験と共に特に視覚の感覚が細かくスムーズになることによって静寂の境地を経験しておりました。

最近は、その経験がそれほど激しくなく緩やかに静寂の境地へ到達するようになったように思います。

少し前までは、頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至るような感じで、感覚にはっきりとそれとわかるものがありました。最近は、それらの経験がそれほど激しくなく、静寂とヴィパッサナーの観察が日常と融合した感じになってきました。

以前は、瞑想の前と後の静寂の境地がとても違うものでしたので「経験」「遷移」を伴って静寂の境地、平らな境地の静寂の境地に達していたわけですが、今は割とその境地と日常の境地との差が減ってきています。完全に同一ではありませんが。

このような変化が起こってきた時、最初は「瞑想がどうも調子が悪いのかな」とも思ったりしましたが、最近の理解としてはそうではなく、単に、瞑想と日常の状態との差が減ってきたために「体験」としての激しい感覚がなくなってきただけなのかなと解釈しております。

これらの状態は、ミャンマーの瞑想の本に記されていることのような気が致します。

少し前の状態は以下に相当するように思います。

■預流果への到達
大体においては非常に澄み切った気持ちが、次々と生じ続けて現れます。その時、心そのものしか存在しないような虚ろな気持ちで満足し、安楽の状態になっています。寛いでいます。この時の精神状態を念じることはできませんし、念じようとしてもはっきり分からないのです。
(中略)ただ、澄み切った安楽な精神状態が続くだけです。しかし、かなり時間がたつにつれて、こうした澄み切った精神状態が力を落とし、普通の状態に戻っていきます。(中略)また叡智の力が十分になりますと、諸行の停止する前のような平安な状態に達します。(中略)初道果にたびたび達したのです。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」

これらに表現されているような、安楽になったり戻ったり、という静寂の境地への度々の到達は初道果である預流道果の状態だったように思います。預流道果に度々達して静寂の境地をその都度、一時的に体験していたわけです。

それと、以下の記述が私の少し前の状態に似ています。

対象と念じる心がうまくかみ合わず、互いにずれているように思われるかもしれません。これは、心身における無常・苦・非我の様相を徹底的に理解したいという気持ちが強すぎることによる不満なのです。(中略)しかし、絶望してはいけません。これは、心身行が好ましくないことを、ありのままに正しく悟ることや、行捨智(下記参照)のように無関心でいられないために、念じるのがうまくいっていても、うまくいかないと思い込んえしまうことによって生じた不満なのです。(中略)間もなく安楽に念じることができるようになります。そして、一生懸命に念じていれば、気持ちが次第に澄み切ってきて、最後は、現れたことや悟ったことだけで満足できない気持ちや不満は完全に治ってしまいます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」

これはそうですね。少し前までは、静寂の境地の筈なのにどこか瞑想がうまくいかない気がする、という感じがありました。それは、別の表現をするのならば心がこの新しい状態に慣れていなかっただけであるとも言えると思います。

■行捨智/激しい努力もせず、諦めもせず行を続ける智慧
さほど力を入れて念じなくても、心身の微妙な動作や状態まで自然に悟り続けられます。そして、特別に観察しなくても、心身が無常・苦・非我のうちのいずれかの状態として、はっきりと次々に悟られています。
「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」

私はこの最後の状態の入り口に達しつつあるという感じですかね。何かまだうまくいかないという気持ちがほんの少し残っていますが、そのまま続けていれば自然に悟り続けられる状態になるのかなと思います。ここでいう悟りとは同書での悟りのことであり、私の思う悟りとは異なりますが、それはそれでいいとします。

ヨーガですとこれらの階梯をひとまとめにして「雑念とか経験とかは気にしない」とかしてしまいますけどそれは大雑把すぎると私には感じていて、弟子たちは自分の状態を知りたいのでありますから、仏教、特にテーラワーダ系のこれらの階梯は参考になるように思います。ヨーガ系で細かい経験とか先生に言っても「そんなのは経験に過ぎないから重要ではない」とスルーされてしまいますけど、仏教のように細かく階梯を見て自分の状態を知れるのは良いと思います。これは個人的な感想であり、ヨーガのシステムをどうこう言っているわけではありません。両者にはそれぞれ良いところがあって、ヨーガはおおらかで万人を受け入れる素養があるところが良くて、仏教は勉強には向いているものの実践はしにくいという面がありますので実践はヨーガで理屈はヨーガだけでなく仏教の要素も取り入れると自分に対する理解が深まると思っています。