プラティヤハーラの段階にある数々の落とし穴

2020-09-16 記載
トピックスピリチュアル

■集中瞑想を否定する人はプラティヤハーラの段階にいる

瞑想初心者でプラティヤハーラをしている段階ですと集中と観察が相反するものとして作用し、集中をすると観察が妨げられる作用が起こります。一方、ディヤーナ以降に進みますと集中しても観察が妨げられにくくなります。

5.プラティヤハーラ(制感) 集中すると観察が妨げられる。
6.ダーラナ(集中)
7.ディアーナ(瞑想) 集中と観察が共存し始める。
8.サマーディ(三昧)

プラティヤハーラは感覚から離れて雑念のしがらみから(少しだけ)解放されることですが、それを「観察」と表現している流派もあります。

初心者の場合はプラティヤハーラをまずは目指しますが、その段階ですと、集中すると観察が妨げられる感覚になります。

これは、プラティヤハーラがまだできていない段階ですと意思が自我と深く結びついており、集中しようとすると自我が強くなってしまうからです。

一方、ディアーナ以降になりますと自我の抑制が効いておりますので集中というものが自我の抑制として作用し、自我が安定し、瞑想が深まるわけです。かと言って観察が弱まるわけではなく、ディヤーナからサマーディに移行する頃には次第に五感を超えた意識が生まれてきて、その新たなる感覚が「観察」を司るようになります。ですからプラティヤハーラもサマーディも両方とも「観察」と表現できますけど、それはかなり違う状態なわけですね。

5.プラティヤハーラ(制感) 集中すると観察が妨げられる。観察瞑想。集中をある程度否定する観察瞑想。
6.ダーラナ(集中)集中瞑想。
7.ディアーナ(瞑想) 集中と観察が共存し始める。
8.サマーディ(三昧)観察瞑想。自我は集中によって安定。五感を超えた観察。集中によって五感を超えた観察が妨げられない。

この、プラティヤハーラとサマーディの状態はかなり違うものであるのに、言葉の説明としては部分的に似通っています。それ故に、各種の誤解が生じているような気が致します。

見たところ、特に瞑想初心者、スピリチュアル初心者はプラティヤハーラを達成することが悟りのように思ってしまう方がぼちぼちいらっしゃるようです。その場合、「集中」を否定して「観察」することが重要だと言われるわけですが、その説明を聞いてみるとサマーディっぽいことを言ってたりもするのですけど何か説明が食い違っており、どうやら段階としてはプラティヤハーラにいるのだとわかったりするのです。

おそらくは・・・、プラティヤハーラのところでプラトーが存在して、人によって何世代も転生をして、人によっては10回、20回と転生をして、それでもプラティヤハーラから上にはいけない・・・。そんなものなのではないかなと思います。

ですから、プラティヤハーラをして悟りだと称している人のことを責めることはできないと思います。

この視点を持って世の中の宗教を見てみれば、特に世俗宗教と化して世襲が継いでいるような流派が庶民に寄り添うと称してプラティヤハーラが悟りだと教えを説いているような気が致します。世間的にはそれは顕教として分類されるのだとは思いますが、宗教を見る上でプラティヤハーラをしているのかそれ以上をしているのか見極めるのは重要であるように思います。

プラティヤハーラは世俗の権益と迎合しやすく、権力が人々を操りやすくするために利用してきたと言う歴史もあると思いますし、それ以上の真理を知ってしまうと自由になってしまうからあえて教えてこなかったと言う腹黒い事情もあるかと思います。顕教にいる人は権力的なものと結びつきやすいのだと思います。

プラティヤハーラの顕教のわかりやすい教えが真理で悟りだと思ってしまった人々は本質が分からなくなり、よくある宗教のように「○○さえすれば救われる」「○○をしていれば良い」などと道徳を解くようになるわけです。

それ故にプラティヤハーラは悟りと混同されることがあり、最近の宗教者は世襲制が多くて真理がわからなくなっていますから、尚更、世間が一応は納得してもらえるような道徳的なところにしがみつくわけですが、宗教者としてはそれでは全く不十分であるわけですよね。

宗教者でなくともテクニックとして瞑想だけをしている人も同様で、求めるところが世俗の利益や単なるリラックスであれば求めるところはプラティヤハーラ、あるいはダーラナのゾーンで歓喜に至るところがゴールになるかと思います。

本人が何を求めるのも自由で、それは好きにすればいいとは思いますけど、プラティヤハーラを悟りのように扱うのはやめていただきたいところですね。それは悟りを貶める行為です。観察瞑想と名乗るのは自由ですけどプラティヤハーラのことを観察瞑想と言うのであればその自覚くらいはしていただきたいのです。そうでなければ、説明であれやこれや悟りのことを言っていて、でも、実はそれはプラティヤハーラでした、みたいな喜劇が生まれてしまいますからね。

その喜劇を見分ける方法として簡単なのがおそらく「集中を否定して観察瞑想を主張している人は(例え悟りのことを言っていたとしても)プラティヤハーラのことを言っている」と言う判断基準かなと思います。

これは顕教だけでなく密教のように見える流派であってもそうであることがあるように思えます。最近はそこまで真理が忘れ去られてしまっているのでしょうか。あるいは全て分かった上で隠しているだけと言う場合もあるように思いますが。さて、どうでしょうか。

■プラティヤハーラを超えられない流派は他派を拒否する

プラティヤハーラは世俗利益と結びつきやすく、又、流派としても自分たちの教えの中に閉じこもりがちです。

これは悪いと言っているのではなく、その段階においては必要なことなのだと思います。そのくらいの段階ですと他者のことはよくわからず、分かっていると思っていても誤解が多いのかなと思います。

色々な理由があるとは思いますけど、プラティヤハーラを悟りだと勘違いしている流派はダーラナ以降を否定しがちだと思います。

プラティヤハーラはいわば「観察」ですから、「集中」を否定するわけです。

そのパターンに落ち込んでいる流派もぼちぼちいらっしゃるように思われます。例えばゴエンカ式はその典型のように思います。あるいは、伝統的な仏教の流派でそこまで否定的ではないにせよそれっぽいところを見たことがあります。仏教は幅広く、カトリックっぽい仏教から禅のような仏教まで様々ですので一概には言えないのですが、いわゆる大衆向け仏教はその傾向が強いようにも思います。

一方で、世俗的権威と結びついたり、あるいは、結びついてはいなくても変な思い込みに支配されてしまった流派でプラティヤハーラを悟りのようにみなしている場合は他派を拒否する傾向が強いように思われます。

家系だとか一族だとか、そのようなところで宗教が代々受け継がれている場合も実力主義ではなく世襲になってしまってプラティヤハーラを超えられず、自尊心ばかりが肥大化してしまっている方がぼちぼち散見されるような気も致します。

ある程度歴史のある一族に生まれたからと言って前世もその一族だったとは限らないですし、私が見たところ、単に修行のために一族に生まれただけなのに勘違いして自分がその流派を背負っているかのように思い込む方もいらっしゃるようですしね。自分自身のことがわかっていないとこのように他の流派を否定してしまうのですね。

スピリチュアルについては多様で、昔と今とで気質が変わってきていますね。

昔はプラティヤハーラ以外は否定するようなマウンティングが多かったですし、スピリチュアルな人同士が仲が悪かったように思いますが、最近スピリチュアルやっている人は仲がいいような気が致しますね。昔はね、プラティヤハーラしかやっていないで悟りのように思っている人に指摘したら「もっとおおらかにしないと」とか「今は教師のいらない時代だから(だからあなたはその程度なのよ)」とか言われて拒否されるどころか逆にマウンティングされたりするスピリチュアルが多かったですが、最近はあまり聞きませんね。昔はスピリチュアルな領域に世俗の宗教のはぐれ組が入ってきて権威付けをしていたと言う面もあったように思います。

昔も今もスピリチュアルの多くはプラティヤハーラだと思いますが、最近は整理されているのと、スピリチュアルの領域に本質を知った人が続々と参入してきているのが大きい気が致しますね。その一角には宇宙由来の魂も大勢いらっしゃるように思います。そのような宇宙的な背景もあるのか最近のスピリチュアルは割と仲がいい気が致しますね。新しく入ってきたスピリチュアルな人が、昔からいた権威と結びついている面倒なスピリチュアルを駆逐した感があります。まだあるにはあると思いますけど目にすることは少なくなったように思います。

そう言うわけで、私はスピリチュアルの方面に可能性を感じるのでこれらの記事もスピリチュアルとして位置付けているわけです。本質はどれも変わらず一緒だとは思いますけどね。

■プラティヤハーラのレベルでは相手を自分の流派に変えさせようとする意思が働く

これは自分の流派が一番だと思っている裏返しですけど、理屈としては全ての宗教や流派の根元は同一なので尊重すべきだと頭では理解できたとしても、プラティヤハーラのレベルではその意味をきちんとは理解できませんので、何某かの「わかっていない」行動が出てきます。これもその1つです。

サマーディのレベルに達したことで全ての宗教や流派の根元は同一だと理解することと、プラティヤハーラのレベルにいて頭でだけそのことを理解することでは納得度と態度・行動が異なってくるのも当然だと思います。

プラティヤハーラのレベルですと、例えば「全ての宗教や流派の根元は同一だから、みんな私の流派に属するべき」と考えてしまうわけです。一方、サマーディのレベルに達すると宗派や流派なんてどうでも良いことがわかりますから相手の宗教を尊重しますし、他の宗教の良いところは取り入れたりもします。

教義に凝り固まっている「信じなくてはならない」宗教はプラティヤハーラのレベルなのですよね。そして、自分たちだけが最高の真理を知っていると思っているのもプラティヤハーラのレベルの特徴です。

おそらくは誰しもが通る道ですので別に悪いこととは言いませんけど、あらかじめそう言うものだと思っておいても損はないと思います。

あるいは、知ったところで更なるマウンティングに使われるだけかもしれませんので、何も言わないのが本当はいいのかもしれませんけどね。何を伝えてもうまく自分の利益に誘導してしまう人がいるので、このようなお話をしたとして、相手に対してマウンティングするためにオウム返しをするのだとしたら本末転倒なわけです。まあ、マウンティングに使うとしたらその程度のレベルなわけですけどね。

何を言ったところで本質がわかっている人はわかっているし、何も言わずにマウンティングされまくっていて下に見られていても実際は本質がわかっている場合もあります。本質がわかっている人はマウンティングなんてどうでもよくて、ただ単に、めんどくさくて付き合う必要もないと思うくらいのことです。

そのように、プラティヤハーラのレベル同士ではマウンティングが始まり、お互いの流派の良いところを認める代わりに自らの流派が優っていることを証明しようとします。そうしてまた分裂が始まるわけですよね。

どんなに努力してもプラティヤハーラのレベルではお互いを理解することはなく、次なる段階に進まないと本質の理解はないわけですね。

このようなプラティヤハーラのレベルにおいて、例えば「家系」だとか「宗教の本家の一族」だとか言う特権意識が生まれ、自分たちの流派は正しくて絶対だと言う認識が代々生まれ続けるわけですね。

由緒正しき仏教の本家の家系の物語について最近認識が変わったのですが、もともとこれは「ずる賢い男が由緒正しき家系に入り込んで食い物にする物語」かと思っておりました。しかしながら、今思うに、由緒正しき本家の家系においても、プラティヤハーラを超えられずに世俗的な権益を求める人たちの良い道具になってしまっていてサマーディに達することができないと言う先祖代々の悩みがあるようなのです。であれば、このようなプラティヤハーラを超えられずに他の流派と不和を起こしてしまうのは必ずしも意図しているわけではなく、超えられないからこそ不和を起こしてしまうと言う先祖代々のカルマを背負っているとも言えるわけです。

余談になりますが、どうやら、この物語に出てくる、どこぞの馬の骨とも知れない欲望だらけの男を何故本家の家系に受け入れて家族にしたかと言うと、この母親である「お節介おばさん」が次のように考えたようなのです。「この欲望だらけの男は、我が家系を食い物にしようとしている。よくいるような、修行だけしに来て看板だけもらってあこぎな商売をする人か、あるいは、権力者が宗教を利用するかのような、そのような下世話な意図を持っているのが見え見えだ。普通なら追い返すところだ・・・。しかし、この者は魂としても若く、未熟で、まだ矯正できそうであることと、先祖代々のカルマを解消するためにはこのような欲望だらけの男を身近において理解し、それを矯正するという経験を積むのが我が一族のためなる」と判断したようなのです。由緒正しき仏教の本家のカルマというものがあるのですね。そのために自分たちの家庭に欲望まみれの人を入れて学ぶというのは、どこか私の今生のやり方に似ていて共感を覚えます。なんで由緒正しき仏教の本家にあんな欲望まみれで、しかし表面はよくて、しかし時にヤクザのような人がいるのか不思議だったのですが、根がヤクザでこのような事情があって子供の頃から矯正されて躾けられてある程度の振る舞いをしているのだとしたら理解できます。そういう人もいるのですね。最初はいい人かと思いましたけど怖い人だとわかりましたのでもう関わり合いたくはないですけどね。

そのように、表づらは良くてもプラティヤハーラでは相手を完全に受け入れることはなく、自分の方へと相手を迎合させようとします。

まあ、私なんかは、その意図が分かったとしてもわからないふりして相手がどう動くのか、どのような表情をするのか観察するのが割と趣味みたいなもので相手のいいようにさせてみることが多いですけどね。私のことを単純なカモだと思っていてニヤニヤと笑いを堪えられなくなっている詐欺師の腹の中まで透けて見えていますけどとりあえず私は「そうですね。ああ、わかります」とか言ってとりあえず話を合わせているので、まあ、引き出せるだけ相手の情報を引き出してあげるのはこっちですけどね。

まあ、プラティヤハーラな人は損得勘定で動きますので所詮そのレベルですよ。本気になって付き合う必要もないです。

相手の流派を受け入れるのも自分たちの流派に入れるための口実でしかないですし、あるいは、自分たちの流派が相手より優れていると相手に納得させてマウンティングを取るための単なる導入のアイスブレイクでしかないわけです。

プラティヤハーラな人の認識は、そんなもんです。色々説明したとしても自分の流派のことを傷付けられたと感じて逆に怒り出すことも多いので、わざわざ説明なんてしません。好きにすればいいんです。まあ、話しかけられたら「○○は凄いよいですよね」とか適当なことを言ってあげると勝手に喜んでくれます。私なんかは全部の流派はそれぞれ優れていると思っていますのでその発言は嘘ではないですし、実際に凄いと感じることも多いです。私は社交辞令はあんまり言わないですからね。割と適当で、それは神様がぽんっと口に出させた発言ですけど、それで喜んでくれるならそれでいいですよ。そんな感じで、プラティヤハーラな人との会話はこのブログで書いているような込み入ったことではなくて、神様がポンと口に出させた簡単で良い言葉くらいで軽く流しています。プラティヤハーラは雑念から逃れる「観察」が目標になるレベルなので、あまり難しいことを言わずに、会話をするにしてもそのくらいで十分なのだと思います。

そのように、プラティヤハーラのレベルですと争いが絶えず、心の安らぎに達しません。しかしながら、ひとまずの目的地としてはプラティヤハーラは必要であると思うわけです。

■プラティヤハーラのレベルでは相手をコントロールする意思が働く

顕教などの「わかりやすい教え」「道徳的な教え」を相手をコントロールするために使うのがプラティヤハーラのレベルです。
例えば、本質から目を逸らし、「わかりやすい教え」で煙に巻くために顕教の教えが使われたりします。

あるいは、「わかりやすい教え」さえ理解していれば悟ることができるかのように説くのも、本質から遠ざけてコントロールしやすくするために使われるテクニックです。

「わかりやすい教え」は解釈が幅広いですのでマウンティングに利用しやすいです。

何か本質的なところに気付きそうになった時、「わかりやすい教え」で分かった気になります。しかしながら、それはあくまでも顕教の道徳的なお話であって、密教の本質ではないのですよね。密教の本質を求めている人がまずそんなにいないですけど、本質に目を向けさせる代わりに顕教の教えで終わりにしているところが罪作りなわけです。

悩みがあって宗教や真理を勉強している人に顕教のわかりやすい教えで満足しなさいと説くのは真実を隠しているということであり、かなり深い罪であると私なんかは思います。それは口調では優しいですし顔ではニコニコしていますが、その教えで悟ることはできず、ただ単に、それは相手をコントロールするための手段として用いられているだけのことです。

・・・これ、きっと実例がないと分からないと思いますので、そのうち何かあったら書きたいと思います。前にあった実話は、細かいところを忘れてしまいましたので。

言葉では色々と言っていても、本質を見ると、結局は顕教はプラティヤハーラを解いているのです。顕教の「わかりやすい教え」はプラティヤハーラであり、雑念からの離脱を解いており、雑念に惑わされないようにしましょう、穏やかに生きましょう、と解いています。もちろんそれ自体は入り口ですし良いことですが、プラティヤハーラができればそのまま悟りだと解いているところが罪作りなのです。そんなわけがありません。

この種の勘違いは古典的な流派にもその毒を撒き散らしており、プラティヤハーラ相当しかしていないのに自分はそれなりの境地に達したと思っている方がぼちぼちいらっしゃるような気が致します。プラティヤハーラ相当ですと、グル等の監視がなければ自分一人では必ず他者と比べ始め、相手をコントロールしようとする意思が働き始めます。しかもそれが顕教の「わかりやすい教え」を手段として用いてコントロールを意図されると厄介です。慣れれば胡散臭い人はすぐに見分けることができますけどね。

ただ、本人は良かれと思ってしている場合もありますので、指摘すると自分はそんなつもりではない、と言ったりします。そのように、プラティヤハーラで止まっている場合は自分が何をしているのかすらわかっていない場合もあります。行動としては現世利益をしていても言葉では真理を説く、と言うような分離状態であることに自分が気付けないのがプラティヤハーラのレベルです。ですから、プラティヤハーラのレベルの人が大勢いる団体は真理を説いていながら現世利益を求めたりするわけです。そのような団体では往々にして顕教の「わかりやすい教え」が自分の現世利益の行動を覆い隠して誤魔化すための道具(方便)として使われてしまうようなおかしなことにもなっていたりするわけです。