私の理解するアセンションの三つの姿(統合・分離・それ以外) (1-8/18)

2026-04-21公開 (2026-04-05 記)
トピック: スピリチュアル

<とりあえずファンタジーと思っておいて頂ければ良いと思います>

今後、地球がどのような方向に向かうのか。それを考えるために、まず「手放し」について触れてから地球の行末を見ていく方が理解しやすいかもしれません。

スピリチュアルで「手放し」で高次へ、みたいなお話はよく見られます。 そしてそれは分離の二元性(非ワンネス)になり得えます。

「手放し」結論

  • 手放しというのは「結果」
  • それがあたかも、手法であるかのように勘違いされている
  • 『手放し→高次』ではなく、逆の『高次→手放し』の順序

「雑念を手放す」はまだわかりますが、「高次になるために手放す」と解釈して二元性の分離に嵌っているケースも少なくないように思います。

トラウマとか感情の「解消」が「手放し」で起こるとして、それは、比喩表現なわけです。比喩であって、本当に手放しをしていると思い込んでいるとしたら、それは分離である可能性が一定数あります。分離というのは二元性です。二元性というのは非ワンネスであるということです。

非ワンネス的な手法や理解を用いて「善と悪」の対立、「光と闇」の戦い、などをしながら自分はよく分かっていなくてワンネスを標榜しているような矛盾した方も割と見受けられます。

「手放し」→「高次」→「ワンネス」という誤解とやり方をして二元性の罠に陥っている方を散見するわけです。本当は逆です。手放しというのは「結果」です。それがあたかも、手法であるかのように宣伝されています。逆、と言うのは、高次になった結果として手放しが起こるということです。高次やワンネスのために手放しをするのではなく、順番が逆で、高次やワンネスの結果として「手放し」が起こると言うことです。手放しというのは「行動」ではないのに、あたかも、手放しをすれば何かが起きるかのようにスピリチュアルでは昔からそう広く理解されています。

更に、この種のお話でよくあるやってはいけないことは、「手放し」で他人をマウンティングし、価値観の操作、あるいは上下関係を作り出すことだったりします。そう言う行動をしている時点で自身が低次の視点にいるわけですが、本人はというとそれに気がついていないのです。

それはというと、個人としての感情や「個」というものを否定してそれ以外の純粋さを作り出そうとしていることがあるのです。その時に、一緒くたになって他人をも否定してしまっているのです。個人の感情の面を否定することで分離を作り出し、他者よりも自分が上だという固定観念のようなものが生まれ、エゴが喜びます。他者の「手放しできていない」(ように見える)場所を見つけるや、エゴが喜んで「よっしゃー!私の方が上だ!」と上機嫌になってドヤ顔で「手放しができていない!」などと指摘したりするのです。割とスピリチュアル初心者あるあるで誰しもが通る道のようにも思いますが、だからこそ、そう言う人は割と多くて相手をするのがめんどくさいですし、そういうのは側から見ていて恥ずかしいので他人にこの種のことを言うのはやめておいた方がいいと思います。

実のところ、この段階ですと、手放せば良い、と思っていること自体がエゴによる巧妙な自己容認になったりします。手放し、というのがドグマになってしまうわけですね。そうした思考を気にせずに集中状態(ゾーン)に入ることで簡単に突破できたりもするのですが、この段階で嵌っている人が一定数おられるわけです。

「手放し」を言い換えると「気にしなければ良い」「相手にしない」ということですね。波動が高まればそうなる、しかし、それは狙ってやるものではないということです。順番が違うのです。

瞑想の初心者あるあるですが、「私は瞑想ができています!」というエゴによる騙しは瞑想を始めた初期にありがちなものです。同様に、スピリチュアル初心者は「私は手放しができています!」みたいな勘違いに陥ったりします。実のところ、どちらも、実際にそうなってしまうまではわからないものなのに、頭でなんだか分かったふうになってしまうのです。考えすぎ、というものだったりします。そして、スピリチュアル初心者ほど課題に向き合う他者を幼稚だと判断する。マウンティングを取る。

オーラ的、チャクラ的に考えれば、特定のチャクラに問題を抱えている方は感情をうまく昇華することができません。そういう意味では、「手放し」とか関係ないとも言えるのです。手放しとかよりも、単純にチャクラの問題を解消すれば問題は解決するのです。チャクラはわかりやすい波動のそれぞれの段階です。一つでも上がればその分だけ高次になって、気持ちも楽になるのです。それを手放しといえばそうですけど、手放しは結果でしかないわけです。

それはというと、苦しみや悲しみというものを昇華する方法を知らないから「手放し」こそがその手法だと思ってしまっているわけです。スピリチュアルで頭でっかちな人にありがちな罠です。

ある意味無知なわけですが、それは、「高次」というものを理解していないからそうなるのです。マイナスの感情を「手放す」ことこそが高次へと至る道だと勘違いしているからそうなるのです。結果であるものを、あたかも手法であるかのように勘違いしているのです。

順番が逆で、高次の波動になることで、そのような感情が現れてもすぐに昇華されるのです。高次の波動が先で、感情の解消が後です。ですから「感情のことは一旦横に置いておきましょう」みたいなことが言われるわけでけど、それはというと、高次の波動が先だからです。ですが、それを何か勘違いして、感情が良くないものだとか捨てるものだとか手放すものだとか考えるのだとしたらそれはエゴの自己肯定にもなり得るし、そもそも理解が間違っているわけです。順番として「感情を捨てる」→「高次」ではなく、高次の波動が先で、感情の解消が後です。ここで言っているのは、「感情を一旦捨てたら、もうそのマイナスの感情は二度と現れない」ということではありません。生活をして他者と関わる以上、マイナスの感情は現れます。ですが、それはすぐに解消できるようになるということです。それは傍目には全く感情がなくなってしまったと見えるかもしれません。しかし、実際には素早く解消しているだけなのです。そして、その素早く解消する感情を楽しむことができる人こそ、人生を楽しめる人です。

一方、オーラの法則がありますから、他人から引き受けてしまった雑多なオーラをいちいち処理していたらキリがありません。自分の問題ではないものは受け取らない、拒否する、ということも必要です。人はあれやこれやと理由をつけてオーラとしての雑念を他人に押し付けようとしてきますから、「それは私の問題ではありません」と拒否することが必要です。これはある意味「手放し」と言えなくもないですが、元々自分のオーラではないのと、自分の課題ではないので、そもそも手放しというよりも「受け取らない」というだけなのです。手放しですらないわけです。それでも、ある程度は他者を感じる心はあります。その程度具合が必要なのではないでしょうか。

マイナスも含めて感情がなくなってしまったらそれはただの不感症はたまた精神分裂症です。もっと言えば、チャクラを閉じてしまった状態であれば感情というものはかなりなくなります。チャクラが開くと感情が豊かになるのです。その状態は「手放し」とは無縁とも言えます。

感情に関して言えば第2チャクラのスワディスタナが閉じていると感情に対して非常な恐怖を覚えたりします。ですから、非常に(感情の)「手放し」をヒステリーに言って他者にもそれを(暗黙に)強要する人がいたら、それはスワディスタナに問題を生じている可能性があります。「他人は自分を映し出す鏡」の如く、他者に自分の問題を投影してしまっているわけです。そういうこともあります。

この辺りの理解があまりできていないと、他者の感情的な面を見てすぐに「あの人は感情的になっている、手放しができていない、低次だ(低い波動だ)」と判断し、自分の波動の方が上だと思い込む、そして時に他者に対してマウンティングをする、ということにもなるのです。

感情の解消というのは、高次の波動になればなるほど瞬時に解決できるようになるのです。回復が早くなるということです。低次の場合は時に解消に何年あるいは何十年とかかることもあります。同じことが時に1週間はたまた半日、数時間、時に30分、はたまた瞬時にできるようになるのです。もちろん、物によります。それでも、一時的な感情というものは生じます。その、一時的な感情が全くないわけではないのです。それは、人というのは他者との関わり合いがあるからです。

高次、と言わずとも、単純に第2チャクラ(スワディスタナ)の問題が解消してチャクラが開けば感情的な問題はかなり解消するのです。第2くらいですとまだまだですが、それでも、それなりに解消はします。本当に解消に至るには第6(アジナ、サードアイ)はたまた第7(サハスララ)も開いた方が良いですが、それは、程度問題というものです。第2より第7の方が高次と言えばそうですが、そこは、あまり気にすることではないように思います。誰でも自分の段階というものがあります。比べる必要はあまりないわけです。

この辺りを勘違いしていると、他者の課題を見ては自分と比べる、その人が劣っていると判断する、みたいな二元性の罠にはまり込みます。

傍目から見て、他者の課題は当人の課題であって、自分(読者)の課題ではないのです。ですから、基本的には関わり合いがないのです。当人にしかその課題の意味と最終地点はわからないのです。

ちなみに今、私は、そのような個人的な感情の解決とかは今はそこまで興味がないと言えばそうなのですが、かつてそれが主たる課題だった頃はあります。ですので、思い出話をすることもあるのです。

グループの特徴を見極める

それより今私が興味あるのは、この地球に関わっている勢力にそのような各種の特徴があるグループがいる、という方です。であれば、それらのグループを理解するために、むしろ、違和感を手放さない方が良いのです。時に、めんどくさいグループもいたりします。それは、そういうものなのです。そこで「手放し」をしてしまうと興味を失うということにもなり、理解への機会を失うわけです。

地球の平和のために各種グループを知識として多少は知っておく必要があると判断することもあります。そのため、不思議な、あるいは違和感のあるグループのことも調べてみたりします。その時、あまりにもカルトや団体の考え方が不思議で引け目を感じてしまうこともあります。

たまに、この種のお話で「揺さぶられるのは精神が未熟だ」として、違和感もなく揺さぶられないのが精神的に強いかのように見るお話があります。しかし、それは逆で、一見すると揺さぶられない人というのは単純で、カルトに引っかかりやすいこともあるのです。違和感や引け目はあった方がいいのです。

その自分の引け目は何だろうと考えた時期もありましたけど、結局、その引け目は割と健全な感情でした。一見すると未熟さと捉えられてしまう面もあるかもしれませんけどそうではなく、批判的精神が働くと言うのは防衛機能であるわけです。一見すると「揺さぶられない」と思われている人が容易にカルトに引き込まれてしまうのは、実は見た目と実際とが逆であったりするわけです。一見すると揺さぶられることで自身がまだまだ精神的に未熟であるかのように見られることもありますが、一周回って、そのような感受性を未熟と思うこと自体、価値基準が画一的になってしまっている現れでもあることすら自覚して内省して、価値観を新たにする機会を得ているわけです。

それはというと、カルトにおいてはそもそもの価値観が歪んでいるため、そこで生じる劣等感や引け目は、その価値観によって「押し付けられた」ものでもあります。その場合、その解消方法は、その価値基準に従うことではなく、価値観そのものを見直すことにあります。

当初は、不真実に基づく劣等感を(時にそれと自覚することなく)「引け目」として感じていたかもしれません。それは、一般的な劣等感というよりも、違和感として現れた心理的な抵抗だったとも言えます。

よって、この場合の引け目とは心理的抵抗であり、自分の価値観が揺さぶられていることを示し、そもそも自身の価値観があるからこそ抵抗しているのであり、無批判にその思想に従わない印とも言えます。

そして感覚として抵抗および危険信号が働くというのはむしろ健全な印であり、自律的思考がそこに働いていることが見て取れます。

また、それは内面的な自己像が崩れることへの「エゴの抵抗」とは異なり、外部に対する違和感として現れます。

単純に、見た目通りだと判断するのか。あるいは、その見解を最初は得ても、それを内省し、本当にそうなのか価値観を見直すのか。そこに、精神的な成熟度の違いが現れてくるわけです。

結局、この種のお話の根本を辿ると、「強いか弱いか」という野生的な価値基準でものを見ている、というところに行き着くのです。人の心というものを単純化して見ており、「揺さぶられる人は精神的に弱くて未熟」という価値が生まれるのは「弱肉強食、強いものが偉い」という論理に根ざしているわけです。人は理性的になればなるほど一見して弱く見えることがあります。

精神的に未熟であれば野生的で強い、そして動じない強さとして見えることもあります。しかし、その種の、動じない強さとして見えるものが、実は心理的な脆弱性のサインであるわけです。

実のところ、元々野生的な人がスピリチュアルやカルトにハマる図式は、ある意味、なるべくしてなる場合も多いように思います。多少ながら真実を知ることで目覚めていく一歩が、そのような極端なグループに関わることだったりします。

様々なグループを見て引け目を感じたならば、その分析をします。そこで「手放し」をしてしまったら、状況への理解の機会を失ってしまいます。時間をかけてでも理解をして、解消をしていく方が良いわけです。そして一度理解したのならば、もうその課題や問題は繰り返さなくなります。卒業したからです。

この種の解消の仕方はそれぞれで、散発的に現象として現れたり心像として浮かび上がる種類のものもあります。継続することもあります。私は継続というのは今はほとんどなくなりましたが、時折現象面に現れたり、時折思い出して、であれば、それを整理するのです。そういう意味では、最終的な解決までには少なくとも私は解消に時間がかかるとも言えますが、他者との関わり合いがありますので、そこは大した問題ではないと思っております。スピリチュアルでよく言われているような「必ず手放しが必要だ」という前提ではないので、時に長く持っていることもありますし、特に解消が必要とも思われない状況も多々あります。

なので、きっと何度も何度も同じ話が繰り返されるわけです。お話の解決と謎解きにはまだまだかかるものもあります。ただ、謎が全て解決できなくてもさほどの問題ではないので、そのうち忘れるものもあります。大抵の場合、しばらく忘れていたお話が多いです。そのくらいのお話であっても懐かしくも思うこともありますし、当時の嫌な気持ちを整理するために言葉にすることもあります。

低次も含めてワンネス

そして、私は必ずしも「高次が良い」という立場を取っておりませんので、そこが読者にとって根本的な理解の齟齬になることもあります。

「低次を切り捨てて、高次」というスピリチュアルな考えは二元論に基づきます。何かを切り捨てている時点でワンネスではないのです。ワンネスというのは低時も高次も含めてワンネスであり、低次を切り捨てるのは分断を生み、時に善と悪あるいは光と闇という対立を生み出すのです。

その前提に立てば、切り捨てるかどうかとか、手放すかどうかではなく、もっとこの世界の実在に根差した、どのような存在がこの世界に関わっているかを理解する上で重要な視点を得続けることこそがこの世界に平和をもたらすために重要なのです。

もし、誰かが「そういうことを含めて手放しだ」というのなら、それはそれで当人の文脈で判断すればいいと思います。低次であってもそれはワンネスという前提の「手放し」もあれば、低次を手放すという意味の手放しもあるわけで、当人の解釈によるところが大きいわけです。手放しという言葉とワンネスという言葉の解釈は一定ではなく、幅があります。分離によるワンネスとして理解している方も一定数おられるわけです。

低次を含めたワンネスを公言しているのにも関わらず二元性の感情や観点に基づく発言が出てくるとすれば、それは言葉で自身を騙しているだけの可能性があります。エゴが存続するために、巧妙に理屈で騙してくるわけです。それは割とよくあることで、ある程度は致し方なくて防ぎようがないという面もあり、二元性の状態ではそういうものだと理解して、本当のワンネスに向けて探究を進めれば良いわけです。

二元性の状態では、「差」を悪いものとして捉えがちです。しかし、本来、差は価値判断とは別のものです。

また、感情を悪いものと考える人もいます。それは、エゴが自分を騙すことと感情とをごちゃ混ぜにしているのです。エゴが自分を騙そうとするのは割と良くあることで、その時、感情や理性を利用して騙そうとしますが、かと言って感情や理性そのものは悪くはないのです。問題なのはエゴが巧妙に騙そうとすることの方です。

そもそも感情というのは物事を理解するための道具の一つです。ヨーガでいうインドリヤ(感覚器官)です。道具を見てそれはエゴだと思うなら解釈にずれがあります。道具なのに(それをエゴだと解釈して)手放そうとするのは自然な解釈とは言えないわけです。

感情なのだから一時的なものです。自然と手放すのが普通であり、長くマイナスの感情を保持しているのだとしたら自分あるいは他者に何がしかの問題があるということです。感情というのは拾いますから必ずしも自身の問題であるとは限りません。ですから、他者の問題であればそれぞれのケースで対応すればよいのです。

道具である感覚器官を否定する必要はありません。道具なのにエゴだと思っているのであればその間違った解釈を直すことが必要ですし、エゴが道具として使っている感覚を悪者だと見做す必要はなく、エゴが自身を騙す構造こそ見抜くべきものなわけです。

エゴというのは、「私」という間違った観念のことです。ヨーガではアハンカーラ。それを、一部のスピリチュアルでは「感情がエゴ」かのように誤認されています。感情は感覚器官の一部、道具です。一方、エゴは本当は存在しない幻想です。全く違うものである感情とエゴが何故かごっちゃに語られるのです。

マイナスの感情があるのは、感受性があるからです。それはエゴではなくて単に感情です。自身だけでなく誰かの感情を拾う場合も多々あります。それをいちいちエゴだと解釈するのは不要です。何故なら感情はエゴではないからです。

エゴとワンネス

「ワンネスになるためにエゴを捨てる」みたいなスピリチュアルなお話は昔からよく耳にします。ワンネスが先で後にエゴが消えるわけですけど、もし手段として捨てることをワンネスへ至る手段だと間違って捉えると分離の心理になりがちだということです。

大抵、修行とかは、エゴを捨てる為の「(別の)手段」なわけです。手段としての修行があって目的としてのエゴの解消があります。

ですがスピリチュアルではエゴを捨てること自体が手段のように理解されていたりします。ですので、頭で理解しただけで自分が既にできていると勘違いしてしまうことがあるのです。

エゴも含めて世界を理解することこそが必要なわけです。それこそがワンネスです。そうしたらまやかしで実態のないエゴという概念は自然に崩壊します。

そして、何故このことが大切かというと、欲望やエゴを含めた低次の人間の感情を切り離して高次だけでこの世界を引率したために世界が分断し、破壊を免れなかったからです。

この違いは、一見すると分かりにくいかもしれません。本当に高次であれば低次のエゴは不真実で実態がありませんから自然と崩壊するのですが、エゴが残っている状態のまやかしで自身が高次だと自称して善と悪との戦いに突入したら、それはこの世界の破滅をも引き起こすのです。

高次と低次を切り離す、「手放す」ということこそが、争いを生みます。というのも、人間の欲望と高次の意思とが切り離されているからです。どちらかが、どちらかに歩み寄る、ということをしなければこの世界に平和は訪れません。理想的には両者が歩み寄ることです。理想的、と言いましたが、それは比喩で、実際には、両者が必ず歩み寄る必要があります。

そもそも「高次が良い」ということではなく、この世界は低次と高次が交差しているのだから、2つの視点と理解を繋ぐことが必要で、低次と高次との融合、自分の中で理解とオーラが融合(低次と高次の融合)する、そのようなところが必要であり、「低次を手放す」みたいなお話ではないわけです。

この種のお話は、スピリチュアルで「手放し」を強くすり込まされてきた人にとっては理解が難しいかもしれません。手放しをしている(ように見えるかどうか)が恐怖観念として自身の中にできていて、その恐怖を避けることが「手放し」だという条件反射的なものがあると、その暗黙の恐怖が他者にも強く伝播してしまうのです。それこそが非ワンネスであるわけですが、当人は「避けること」あるいは「低次を滅すること」こそがワンネスであると思い込んでいます。ここに理解と認識の齟齬があります。高次という概念で、意識が分離してしまっているわけです。

そういう人は往々にして、自分たちを「高次元のこっち側」として線引きしてしまうのです。それが分離です。

部分的には、そのように解釈してしまうのは辿ってきた歴史を見れば致し方ない面もあるとは思います。その歴史を踏まえて、その自身の理解を正したり、これからどうしていくのを決めるのはそれぞれの人に委ねられているのです。

世界を救う

世界が何故、何度も破滅してしまったのか。

何故、どうしてライトワーカーが動いたのに何度も地球がやり直しを強いられているのか。それを解釈すると、どうやら、そのあたりに鍵があるようなのです。

人間の欲望を肯定しなければこの世界は存続しないのです。

「手放し」では、かつてレムリアで起きたような、低次を切り離して高次だけのアセンションになってしまいます。そうなれば、また長い時をかけて低次の自分を助けるためのループに入ってしまいます。

今度のアセンションは、低次をも含めて完全なるアセンションにすべきなのです。

そうしなければ、また、高次が低次を忘れた分離の世界に長い間住むことになります。

それはもう、前回に分離のアセンションを経験した人は既に後悔している筈です。今、外の世界から来ていてそのような由来がある人は、低次の自分を助けようと決心してきていると思います。分離のアセンションは、かつてレムリアで起きたような長い悲しみを生むのです。

いわば、そのような悲しみから逃れるために高次への手放しというストーリーが作られた、とう面もあるかと思います。それは一時的には必要なことでも、本当に必要なのは低次の感情と高次との融合である筈です。

「手放し」を主張している当人は、自分は既にそのようなことを克服していると思うかもしれません。しかし実際には、「その時」になってみないとわからないのです。

その時、どのような結果になるのか。

分離によるアセンションになるのか、それとも、統合されたアセンションになるのか、あるいは全くアセンションできないのか。

そもそもこの時期のアセンションと無縁の人であればあまりこのあたりは心配する必要はありません。無縁な人はただ単にこの地球での生活が継続するだけです。ですが、完全なるアセンションを目指していて、この地球に低次を置き去りにするという悲しみをまた経験したくないのであれば低次を「手放す」という考えにはならないはずです。その自覚があるかどうかはそれぞれですが。

  • レムリア方式のアセンション(分離によるアセンション、悲しみ。悲しみに耐えれないので「手放す」)
  • 統合されたアセンション(低次と高次が統合されているため「手放し」ではない)
  • アセンションしない(地球に残る。死ぬわけではない)(欲望の追求が可能、それが許された自由の世界)

それとは別に、単純に、この地球が存続するためにある程度は人間のエゴを肯定する必要もあります。それは、以前に言及したエルサレムや3つの宗教の融合のお話とも関わってきます。

更には、オーラの法則があります。押し付けられてしまった負のオーラは自身の中に蓄積します。そして、死後高次に帰るときは、大抵の場合は分離が起こって高次だけが昇天し、低次は地上に近いところに残されます。それが普通です。

ただ、そうしてしまうと高次の本元のいわゆるグループソウルからしたら、自身の分身の一部が地上に残されてしまって帰れない状況になってしまうのです。これが、いわゆる、よくある「分離」による高次への帰還です。これはなるべく避けた方が良いのですが、一部はそうなってしまっているように思います。

(続きます)

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