昔の記憶への拒否反応が消えるとトラウマは記憶になる


昔の記憶が時折、ふと蘇ってくることは誰しもあると思います。その、蘇ってきた時に拒否反応があるとトラウマとして認識され、ないと単なる記憶でしかないと思うわけです。どちらも同じ、記憶という根拠に根付いたものでありますけど、その記憶に対して、拒否反応があるからトラウマになるわけです。

瞑想をしていて、最近は、過去の記憶がその時のオーラの状態も含めて感じられています。それは以前もそうだったと言えばそうですけど、以前は、過去の記憶がオーラと共に蘇ってくると、それに対して拒否反応が伴ってトラウマとして現れていたように思います。それが、最近は、拒否反応なしに、ただ記憶とオーラの状態が蘇ってきて、そのオーラの状態というのは必ずしも楽しいものばかりではなくてその時の辛いオーラの状態が再現されたりするわけですけど、そこに対して拒否反応がなくなると、ただオーラが湧き上がってきて、そして、そのエネルギーが尽きると不意にそのオーラが消えてなくなったかのようになるのです。

オーラが消える割と直前までオーラが割としっかりと自分の周囲に留まっていたかと思うと、次の瞬間にはオーラが不意に消えてなくなります。そして、割と記憶と共にあったオーラのうち、オーラの方だけが、比喩的に言えば「味わい尽くされて」、それは体験し尽くされて、オーラを感じるだけ感じた後に、不意にそのオーラはエネルギーを失う、あるいは、もしかしたら私の根本(ハイヤーセルフ、あるいはアートマンの根本エネルギー)のところにオーラが分解されて融合することでオーラが根源に還ったかのようにも思われます。そうしてオーラの役割を終え、漂っていたオーラが不意に消え去るかのように認識されるように思うのです。

オーラの分解、味わい尽くし、ただ感じること、それらが同時に起こって、当時の記憶とオーラのうち、オーラの方が役割を終えて根源に戻るようにも思うのです。

スピリチュアルでこの種のことは昔から言われていたわけですけど、実際のところ、すぐに実践しようとしてもなかなか難しいことのようにも思うのです。ある程度の基礎があって、ようやくそのような状態になるように思います。


■記憶と共にあったオーラが分解され、ハイヤーセルフの愛だけになる

それは言い換えれば「受け入れ」でもあり、「癒し」でもあります。もしかしたら「手放し」とでも言えるかもしれませんけど、結果として手放ししているように見えるかもしれませんけど実際は何も手放していませんので言葉としては「手放し」はそこまで適切ではなくて、単に味わい尽くされてオーラが分解されて消費されてゆく過程だと思うのです。

「癒されて」、という言い方も語弊があるかもしれなくて、別に、何も癒されてはいないと言えばそうで、結果として癒されているように見えるかもしれませんけど、この種のオーラの味わいはハイヤーセルフ(あるいはアナハタの愛)の意識を基礎としていますから、基本として愛と感謝の気持ちが湧き上がっていることを前提としていて、その上で、拒否反応がなくなって、こうした「味わい尽くし」が起こるわけです。記憶とオーラが不意に奥底から湧き上がってきて当時の記憶とオーラが再現された時に拒否反応がなかったとしたら、その時に起こるのは、当時のオーラが感じられるだけになる、ということです。

それはハイヤーセルフの愛と感謝を基礎としていて、再現された浮かび上がってきたオーラが割とすぐに分解されて不意に清浄の静寂な意識に戻るわけです。

ただオーラを味わい尽くすだけで記憶が浄化される、と比喩的にいうこともできるかもしれません。こうして、瞑想をする度に過去の記憶とオーラが蘇り、当時のオーラが再現され、そのオーラを味わい尽くして感じているうちに、そのオーラの体験は不意に終わってハイヤーセルフの愛だけの状態に戻るわけです。

それは、いくつかの基礎を基にしているように思います。

静寂の境地
ハイヤーセルフの愛

これは、大乗仏教的に言えば「空性と慈悲との統一」と言えるかもしれません。

大乗仏教の教えにおいても、その実践においても、空性と大いなる慈悲との統一こそが、最高に重要な原理だと考えられている。それは大乗の教理のまさに真髄である。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

静寂の境地と感謝との合一とも言えるかもしれません。


■自分は安全だという経験あるいは知識が拒否反応を止める

その上で、更に、トラウマの克服には、ある種の「訓練」あるいは「慣れ」が必要のようにも思うのです。この種の「(過去のオーラの)味わい尽くし」は、経験にもよるように思います。

・記憶やオーラを拒否しなくても大丈夫で自分は安全だという経験

トラウマはある種の危険察知にも使われていて、実際、予兆など未来の出来事に対してはトラウマや「違和感」は特に自然界では重要で、これがないと生存率が下がるほど重要のように思います。

ですけど、それは時と場合によるわけで、必ずしもトラウマのようなものに頼らなくても、安全は確保できるわけです。

そうして人生の経験が積み重なってくると、トラウマのように反応的なところから一歩進んで、自分は安全だという基礎あるいは経験が積み上がって来ます。

流派によってはこの「安全」という原則を理屈で積み上げます。例えば、インドのヴェーダの伝統では「自分(アートマンあるいはハイヤーセルフ)というものは永遠で満ちていて無くなることがない」と言われていて、その理解は絶対安全の境地に至らしめます。それがありすぎたり間違った理解をしているとインドの文化のように自分勝手で自分が最高で自分は絶対に正しいという自分勝手な生き方にも繋がってしまいますけど、正しく理解することでこの「安全」というものはきちんと確立できます。絶対安全なのはエゴ(自我)ではなくてアートマンの方なのですけど、よくわかっていない人はエゴの方が絶対安全だと思い込んで自分の生き方を正当化して自分は絶対に正しいと思い込みますけど、実際にはアートマンの方だけが不可侵なわけです。

そのように、アートマン(あるいはハイヤーセルフ)としての自分は安全だという認識が高まってくるにつれて、エゴが不意に拒否反応を示すことが減ってくるわけです。

これはあくまでも説明のためだけのもので、実際には、「ただ味わい尽くされる」という状態だけが起こるとも言えて、その時にアートマンがどうのこうのなんて考えたりしなくて、分解して説明すると上記のような基礎があって、それ故に、自分は安全なので拒否反応をする必要がなくなる、ということです。

流派によってはこれを「知識(による理解)」というかもしれませんけど、割とこれは経験で自分が安全だという状態に慣れてゆくもののように個人的には思います。

もちろん住居の環境にもよりますから、いくら知識で安全と思い込んでも実際は危険な住環境や人付き合いというものもあるでしょう。一方、安全な環境に長らく暮らしていると、やがて、経験として自分は安全だということが分かってくる、言い換えれば、安全だということが経験されて、安全という経験が積み重なってきて基礎となるのです。

そのように、安全な環境にしばらく留まることが、拒否反応を止めること、言い換えればトラウマの克服には重要のように思います。それは時に数十年という単位で起こることで、完全な克服にはそのくらいはかかるように思います。