対象と意識を切り離す

2022-09-15
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

意識から対象を切り離すこと。言い換えれば「対象を手放すこと」あるいは「認識の(対象への)繋がりを断つ」ということが純粋な「意識」が立脚して自由になる肝のような気が致します。

その前段階としては、(対象のある)サマーディ(三昧)というものがあって、そこでは、「見るもの、見られるもの、見ること」が一体となるという状態があります。最初は(対象のある)サマーディ(三昧)から始まって、集中により対象と一体化します。そして歓喜の状態になったり対象のことがよく理解できるようになるのですけど、それはそれとして段階としては必要で、それはそれで(仕事などで)有用だったりするわけですけど、そこを超えて、純粋な精神の世界、いわゆる(ヨーガでいうところの)プルシャの世界に行くためには「対象」を切り離して純粋な精神だけになる必要があるように思うのです。

一方、「切り離す」段階においては、これらのうち「見るもの(意識)」だけを切り離すのです。それは、ある意味、本当のサマーディあるいはもっと進んだサマーディの状態に対応しているようにも思います。

その辺りのことを書いてあるのがヨーガ・スートラの2章です。

(2-17) 見られるものと見るものとの結合こそが、除去すべき苦の原因である。
(2-23) 見られるものと見るものとの結合は、臣下たる力(見られるもの)と主君たる力(見るもの)の両方が、各自の実体を把握する原因になる。
(2-24) 両者の結合の原因となるのは無明である。

「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著) 」より


■見るもの(プルシャ)を独立して認知する

無知(あるいは無明、アヴィディヤ)があるからこそ「見るもの(真我、プルシャ)」が対象(見られるもの、プラクリティ)を知りたいという衝動になる。その際、本来は「見るもの(真我、プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」は別のものであり、「見るもの(真我、プルシャ)」は独立して存在している筈が、無知の働きにより「見るもの(真我、プルシャ)」が対象(見られるもの、プラクリティ)と同一視されてしまっているわけです。ここで「対象」とすると物体かと思われるかもしれませんけど、それも含まれますけど、もっとざっくばらんに言えば、「この世界(プラクリティ)」と自分(プルシャとしての純粋意識)とを同一視している、ということです。

よって、知覚している自分というものが世界という純物質的世界(プラクリティ)の中にいる、という錯覚、あるいは、やもすると知覚されたものが自分自身(知覚するもの)であるという錯覚が生じるわけで、その理由が無知(無明)、ということになります。

ここでいう「見るもの(真我、プルシャ)」とはざっくばらんに言えば要は(自分の)「精神」あるいは(自分の)「意識」であるわけで、無知がある状態で自分の意識あるいは精神が対象物を認識したときに、認識それ自体が自分自身であるかのように錯覚してしまうわけです。それが無知によって引き起こされていて、悟りの妨げになっているわけです。

瞑想が進んでくると、認識それ自体を識別できるようになってきて、「見るもの(プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」が別物だということがわかってきます。「見るもの(プルシャ)」とは、いわゆるアートマンのことです。

ヨーガ・スートラではサンキャ哲学を基にしておりますからプルシャ(純粋精神)という言い方をしますが、ヴェーダンタではアートマンと言います。実のところ概念は違うのですけど、ひとまず似たようなものだと思っておいて差し支えないと思います(きちんと勉強した方がこれを聞くと、いやいや違うんです、と言いたいかもございませんが)。


■無知を取り除くというよりも、単に認知する

アートマンという場合はサット・チット・アーナンダと言われていて、サット(Sat)が存在、チット(Cit)が純粋意識、アーナンダ(Ananda)が満ちていること(満ちているから至福)、という意味になるのですけど、プルシャというと純粋意識のことで、プルシャとプラクリティ(純粋物質)とが対になっています。

瞑想が進むと、やがて、このような意味における純粋意識(プルシャあるいはアートマン)が存在していることが実感できるようになってきます。それこそが「見るもの」であるわけです。

「見るもの」が独立して存在していることが認識できるようになれば、もはや「見られるもの」との同一視はなくなってゆくわけです。そこは認知のお話ですから一気に完全にとはいきませんけど、次第に、段階的に認知が変わってゆくわけです。

そうして、対象と意識とが切り離されてゆくわけです。

実際のところ、見るものである(プルシャあるいはアートマン)と見られるものである純粋物質プラクリティは世界に重なって存在しておりますが、認知として、プルシャを識別するということです。

そして、その説明として、よく仏教あるいはヨーガやヴェーダンタの人は「無知が原因であるから、無知を取り除けば良い」と言います。その無知とはエゴだったり雑念だったりしますので、エゴや雑念を取り除くことが無知を取り除くことだ、というわけです。

それはそれで一般的にはわかりやすい説明で、ある程度の真実を表しているとは思いますが、そういう路線で瞑想や修行をしてある程度進んだときに、それだけでは足りなくなってくると思うのです。

と言いますのも、その無知の説明では、見るもの(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)の説明になっていないからです。見るもの(プルシャあるいはアートマン)が独立して存在していることを認知することが悟りへの鍵であるわけですから、ここは重要なわけです。

最初の段階として一般的に言われているエゴだとか雑念だとかいう意味における無知を取り除くのは重要かとは思いますが、実際のところ、その先の段階においては、そもそも「無知(無明)」という実態は(その段階ではそれほど)なくてそれは単なる認識の状態を表現している言葉に過ぎない(ようになる)わけですので、(その段階において)実態がそもそもない「無知」とやらを取り除くなどということはできないと思うのです。そのような段階があるわけです。


■無知を取り除くというよりも、単に認知する

アートマンという場合はサット・チット・アーナンダと言われていて、サット(Sat)が存在、チット(Cit)が純粋意識、アーナンダ(Ananda)が満ちていること(満ちているから至福)、という意味になるのですけど、プルシャというと純粋意識のことで、プルシャとプラクリティ(純粋物質)とが対になっています。

瞑想が進むと、やがて、このような意味における純粋意識(プルシャあるいはアートマン)が存在していることが実感できるようになってきます。それこそが「見るもの」であるわけです。

「見るもの」が独立して存在していることが認識できるようになれば、もはや「見られるもの」との同一視はなくなってゆくわけです。そこは認知のお話ですから一気に完全にとはいきませんけど、次第に、段階的に認知が変わってゆくわけです。

そうして、対象と意識とが切り離されてゆくわけです。

実際のところ、見るものである(プルシャあるいはアートマン)と見られるものである純粋物質プラクリティは世界に重なって存在しておりますが、認知として、プルシャを識別するということです。

そして、その説明として、よく仏教あるいはヨーガやヴェーダンタの人は「無知が原因であるから、無知を取り除けば良い」と言います。その無知とはエゴだったり雑念だったりしますので、エゴや雑念を取り除くことが無知を取り除くことだ、というわけです。

それはそれで一般的にはわかりやすい説明で、ある程度の真実を表しているとは思いますが、そういう路線で瞑想や修行をしてある程度進んだときに、それだけでは足りなくなってくると思うのです。

と言いますのも、その無知の説明では、見るもの(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)の説明になっていないからです。見るもの(プルシャあるいはアートマン)が独立して存在していることを認知することが悟りへの鍵であるわけですから、ここは重要なわけです。

最初の段階として一般的に言われているエゴだとか雑念だとかいう意味における無知を取り除くのは重要かとは思いますが、実際のところ、その先の段階においては、そもそも「無知(無明)」という実態は(その段階ではそれほど)なくてそれは単なる認識の状態を表現している言葉に過ぎない(ようになる)わけですので、(その段階において)実態がそもそもない「無知」とやらを取り除くなどということはできないと思うのです。そのような段階があるわけです。


■無知とエゴと雑念のお話を切り離した方がわかりが良い

この「無知」について、私はしばらく、この「無知を取り除く」という言葉自体に惑わされていましたけど、この段階に至るとエゴとか雑念とかそういうことではなくて、もう、直接的に、ただ単に「見るもの(真我、プルシャ)」を「見られるもの(プラクリティ)」と同一視しない、というだけのお話なのです。そのことを比喩的に「無知を取り除く」と言おうと思えば言えるかもしれませんけど、この段階での無知には実態があまりありませんから、無知という言葉はこの段階では物凄く語弊のあるお話だと思うのです。この段階においては無知を取り除く、というより、ただ単に、ヨーガ・スートラの文言そのままに「同一視しない」あるいは「両者を結合しない」、というお話なわけです。この無知の克服は段階的に行われ、次第に、完全に無知は克服される、と言います。完全なる解放までは多少の無知と付き合いつつ、少しづつ無知を克服していくわけです。

仏教やヴェーダンタでは伝統的に「厚い無知によって覆われているから認知できない」というお話をしており(本当の真実を個別に伝えているのかもしれませんけど)、そういう説明は比喩としてはそれなりに成り立つとは思いますけど、必ずしもエゴがあるとは限りませんし、同様に、必ずしも雑念があるとも限らないと思うのです。エゴが強いことを比喩的に「厚い無知」と言えるといえば言えますけど、逆に、無知だからといって必ずしもエゴが強いとは限らないと思うのです。同様に、無知だからと言って必ずしも雑念が多いとも限らないわけです。これらのお話でエゴや雑念を前提としてしまうと、窓口が狭くなってしまいます。エゴと無知を結びつけない方がわかりがいいと思いますし、雑念と無知を結びつけない方が同様にわかりがいいと思います。無知だからと言ってエゴが強いとか雑念が多いとかいう扱いをしてしまうと、素直な人たちが戸惑ってしまうことにもなります。

それよりも、ただ単に「同一視している段階」「真実を見出している段階(純粋精神を見出している)」という方がわかりがいいと思うのです。窓口も広がります。この場合「無知」の説明にエゴとか雑念とかはあまり要らなくて、ただ単に、認知の状態の階梯を示しているだけなわけです。

ヨーガ・スートラの文脈そのままに、ストレートに解釈して、「見られるもの」と「見るもの」を結合(同一視)しているかどうか、という点だけで判断するのです。そして、結合(同一視)していたら無明(無知、アヴィディヤ)ですし、結合していなければ無明ではない、というシンプルなお話な訳です。