ジーヴァとしての私がアートマンに包まれている

2022-05-20
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

一般的にはエゴが自我ということになっていますけど、用語的には、エゴはヨーガやヴェーダンタで言うところのアハンカーラに相当してブッディの反作用がアハンカーラということになっていてエゴ(=アハンカーラ)それ自体は考える器官ではなく、揺れる心としてのマナスや記憶としてのチッタ及び思考するブッディとがそれぞれあって、エゴはブッディの反作用であるところのアハンカーラでしかないわけです。ですから、上記の表現はヨーガ的に捉えるとちょっと違う解釈も成り立ってしまうわけですけど、ここで言っているのは、エゴをジーヴァ(仮そめの私を自分と思い込んでいる世俗的な自分)と対比して、ジーヴァがハイヤーセルフに包まれている、というお話です。

上記のように、エゴがハイヤーセルフに包まれている、というとスピリチュアル的にはわかりが良いのですけどヨーガやヴェーダンタ的には「何のこっちゃ」という感じになってしまって、ヨーガやヴェーダンタの言葉を使うならばジーヴァがハイヤーセルフに包まれている、とでも表現すれば同じことなわけです。

ただし注意として、ヨーガやヴェーダンタそれ自体はこんなこと言っていません。この部分はあくまでも私の解釈になります。

ジーヴァとしての私(=エゴ=アハンカーラ、ブッディ、マナス、チッタを含む)がハイヤーセルフ(=アートマン相当、ヨーガ・スートラのサンキャ派に基けばプルシャ相当)に包まれているわけです。

ハイヤーセルフはアートマン相当で、アートマンとはヴェーダンタでは Sat Chit Ananda と説明されていて、空間にあまねく満ちている時空を超えた純粋意識でありますので、ジーヴァとしての私は個というところに閉じ込められていますけど、アートマンは空間に満ちているわけです。

とは言いましても私の段階ですと自分の周囲の空間だけにその認知は限られてはいるのですけど、周囲の空間全てが神そのものであることを感じて生活することができるわけです。

主にアートマンを感じるのはハートの奥であって、ハートを中心に至福や愛や感謝を感じるわけですけど、それが周囲の空間にまで広がっているわけです。そして、ハートと割と同じところの空間に重なるようにしてジーヴァとしての私(エゴ、アハンカーラ、ブッディ、マナス、チッタ)が存在しているわけです。

そのように、ジーヴァとしての私がアートマンに包まれているわけです。