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肉体あるいは心の否定で真我に辿り着く

2022-05-21
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

西洋のスピリチュアルやインドのヨーガあるいはヴェーダンタの教えを見ると、「肉体とは私ではない」みたいなお話をよく目にします。

一方で、日本の場合、「心は私ではない」というお話が多いように思います。

実際、どちらも本当の私ではないわけですけど、これら2つの段階で、まず肉体というのはわかりやすいお話で、心というのは微妙なお話です。その両方を超える必要があるのですけど、西洋やインドなど海外一般の場合は、割と最初のお話が多い気も致します。肉体は私かどうか、というお話はどちらかというと西洋人など日本人以外に突き刺さるお話で、日本人はそもそも肉体を私とはそこまで深く思っていなくて心こそが自分だと思っている方の方が多いと思いますので、肉体が私ではないと言われたとしても「まあ、そうかな。そうなんじゃないかな。」と普通に受け止めて「それで?何が言いたいの?」となるように思います。肉体は私ではない、みたいなお話を西洋やインドのスピリチュアルを輸入した人が、たまに「どうだ!」とドヤ顔で披露している場面を昔は見ましたけど、聞く側からすると「で、何なの?」と、白ける場合も多かったように思います。まあ、最近は流石にYoutubeとかで情報が出回っていますのでこんな話でドヤ顔する人も最近はほとんど見ませんけど。そもそも、日本人は肉体が自分だと思うような機会も少ないわけで、あまり意識していなかったことを改めて言われると「そうかも。肉体が自分かも?」と思ったりするかもしれませんけど、そもそもの日本人の精神のルートを辿ると、肉体を自分だとは思っていないわけです。ですけど、海外は、ちょっと事情が違うわけです。

今でこそ情報が溢れていますけど、昔に西洋人がスピリチュアルで「肉体は私ではない」みたいなお話を聞くと「おお、そうなのか」と思ったりしたのかもしれませんし、実際、書物を見ると聖人にそのようなことを言われた西洋人が困惑する、みたいなお話も出ていたりしますので、それが普通だったのでしょう。そういうお話は、スピリチュアルな人でなければ「そんなわけない。肉体が私だ」と一蹴することがほとんどな気もしますが、スピリチュアルだったとしても、特に昔は、こういうお話はなかなか面に出てこなかったわけです。西洋人など海外の人はまず肉体が自分かどうかというところで悩み、一方、日本人は、心が自分かどうか、というところで悩むような気が致します。スピリチュアルとは言っても、最初に悩むところが違うわけです。

肉体に関しては、西洋人など海外の人の場合、肉体が自分かどうかという点でまずつまづくわけです。肉体に関して、日本人が思うのと同じように「そりゃそうだろうけど、だから何?」にはならなくて、否定するか困惑してその先に進まないか、あるいはスピリチュアルを勉強していたら普通に頭で納得して終わりな気が致します。日本人のように、「まあ、そりゃそうかもね。それで終わり?で、本題は何?」みたいに次の話になりにくい気が致します。西洋人など海外の人には、肉体と「私」という感覚はよく結びついていてこの種のお話は腑に落ちるのか、あるいは、そこで詰まってしまうのかなぁ、と思うわけです。

ですけど、日本人の場合、そもそも肉体と「私」が結びついていませんから、西洋の輸入のスピリチュアルあるいはインドから輸入したヴェーダンタなどの精神世界のお話で「肉体は私ではない」と言われても「まあ、そうだよね。それで?」って感じで、もっとはっきり説明してください、というお話になりやすいように思います。日本人からしたら、そもそも日本人は肉体を私とはそれほど思っていないので、そんなお話をされたところで、別の意味で困惑してしまうわけです。特に、海外で勉強してきた人がドヤ顔で説明したりすると、特に困惑は深まるわけです。まあ、最近は日本人であったとしても西洋の価値観が植え付けられているのでそうでもなくて西洋と同じように驚きを持って反応するのかもしれませんけど。そうだとしたらそういう人は日本人であったとしてもちょっと退化してしまったということで悲しいですけど。

スピリチュアルでは実のところ2つのことを言っていて、肉体のお話と、心(思考する心、ヨーガで言うところのブッディやマナスやチッタ、及びその逆反応であるアハンカーラというエゴあるいは自我の感覚)の2つの両方について「本当の私ではない」と言っているわけです。

ですけど、その両方について言っているのにも関わらず、地域によって重点を置いている場所が違うのが、その地域の平均的なスピリチュアルの段階を物語っているようで興味深いわけです。



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