未来を見ようとする必要はない

2022-03-17 記載
トピック:スピリチュアル: 歴史

スピリチュアルの人で一定数、一生懸命、未来を見ようとしたり予知しようとしたりする人がいますけど、未来なんて見る必要がないのです。

見えたとしても、見ないのです。見ようと思えば見れるのだとしても、見ないのです。

それは、ドラマを見る時に、見ようと思えば先を見れるのだとしても見ないのと同じなのです。先に結論が見えてしまったらネタバレで興醒めでしょう。そんなつまらないことをする必要はないのです。

先が見れたとしても、見ないのです。

だからこそ、人生は面白いのです・・・ と言うこともできますけど、と言いますか、そもそも、何が起こったとしても全部楽しい出来事ですので、わざわざ未来を見ようとする必要すらなくて、全部、全て良い素晴らしい愛に満ち溢れた喜びの人生ですので、わざわざ、そんな未来を見ようとする必要なんてないんですよね。

今日も楽しいし、いつも楽しい。

だから、未来を見ようとする必要なんてないわけです。

この種の未来を見るとかいうお話は、未来を見たいと思っている人は顕在意識で見たいと思っていますけど、実際のところ、潜在意識、奥深い意識、いわゆるサマーディの意識あるいはヴィパッサナーの状態の客観視の意識は過去から未来まで一通りで繋がっていますので、サマーディの意識があるときは、その、過去から未来まで一貫して繋がっている意識が自発的に割と自動的に働いてそのサマーディの意識それ自体が未来を選択する、ということをしていますので、わざわざ顕在意識で未来を見ようとか良い未来を選択しようとか、そんな面倒なことをわざわざする必要がなくて、サマーディの意識がそのあたりの細かいことをスムーズに完璧にしてくれていますので、顕在意識は短期的な日々の生活だけしていれば十分に人生はうまく回るわけです。

そのように、顕在意識は「いま」に生きていて「いま」だけを意識して、潜在意識であるサマーディの意識にはそもそも過去とか現在とか未来とかなくて一続きで繋がっていますから過去現在未来を通してトータルで判断をしている、という、その両者によって成り立っているのが人間なわけです。

ですから、サマーディの意識を認知できない人がいたとしても実際は全ての人が無意識の面で同様の意識に繋がっていて、ただ、それが暗闇(ヨーガやヴェーダンタあるいは仏教では無知と言いますけど、その無知で)覆い隠されている故に顕在意識がそのサマーディの意識を認知できていないだけで、実際は、全ての人が無意識の面に繋がっていて、その無意識は過去現在未来へと繋がっているわけです。

そのような状態の時、顕在意識としては未来を見れなかったとしても実際は全ての行動は未来や過去を見据えてトータルに判断しているのであって、ただ、顕在意識と無意識とが分断していると無意識が意図したような動きにならなくてうまくいかない時もありますけど、基本は、無意識は過去や未来を見据えた上で完璧に人生をコントロールしているわけです。

その上で、サマーディ状態になれば顕在意識の幅が広がっていって無意識の面にも意識が浸透するようになり、サマーディの意識が過去や未来を見据えた上で人生を決定していることが理解できるわけですけど、そのようなお話は、顕在意識からしたら割とネタバレで、サマーディの意識の側からしてみても「ネタバレしてしまうとその人生をあまり楽しめない」と思ったならば意図的に情報をシャットアウトして見せなくする、なんてことも普通に行われています。あるいは、見せた方が人生がうまくいく、と判断した上で、意図的に部分的に未来を見せる、なんてこともしています。

顕在意識の見える幅は狭いですけど無意識の面であるサマーディの意識はとても幅が広くて英知も深いので、その辺りの判断は顕在意識では到底敵いません。ですから、瞑想するなどして顕在意識の幅を増やしてサマーディを広げてゆくのは重要ですけど、それでも程度というものはありますから、基本は将来の決定などは無意識の面にお任せして、顕在意識としては未来を見るなんていうネタバレなことはやめておいて、毎日の人生を楽しく幸せに暮らした方がいいように思います。

それでも未来を見ることはあって、それは実際には無意識の面から「見せてもらっている」わけですけど、それはそれぞれの理由があって行われていることですので、顕在意識の方からわざわざ未来を詮索する必要はないわけです。

一部、使命があって予知を伝える人とかがたまにいますけど、一般人にはあまり関係のないことなわけです。一般人は、日々を感謝しながら家族や友人知人と一緒に楽しく仲良く暮らせばそれで十分なわけです。

これは盲目的になれということではなくて、むしろ逆で、意識をクリアにして物事をはっきりと見ることによって雑念なく、かつ、感謝の気持ちと共に暮らすというお話な訳です。

未来は、実際のところ、みんな知っている・・・ というと語弊がありますけど、割と無意識による共同創造みたいなところがありますから、顕在意識が心配して未来のことを知ろうとしてもあまり意味がなくて、むしろ、無意識の面に任せてしまう方が人生はうまくいくわけです。

無意識に任せると言っても、その無意識というのはサマーディの意識で、そのサマーディの意識はしっかりと文字通り「意志」を深いところで持っていますから、その深い意識があれやこれやと水面下で考えて「あーでもない、こーでもない、こっちのタイムラインはこんな感じになってしまうので、こちらにしようかなぁ」みたいなことを深々と考えた上で選択しているので、顕在意識はあまりそんなことを意識することは普段はないのですけど、実際は誰しもが(きっと、誰しもが)そうして水面下の意識で人生を考えてくれているわけで、顕在意識からしたら、その水面下の意識の邪魔をせずに水面下の意識が計画してくれた人生に沿ってうまくいくように、いわば、顕在意識が水面下の意識の邪魔をしないようにしてあげれば割と十分なわけです。それでも、人生というのは実際に行動しなければ変わって行きませんから、顕在意識が何もしなくていいというわけではなく、無意識の意図を感じ取ってフットワーク軽く行動してゆけばそれで割と十分なわけです。

瞑想が進んでくると、サマーディの意識の意図がわかって、「これこれこういう意図があって、こちらのタイムラインだとこうなってしまうから今のタイムラインを選んだんだよ」、みたいなサマーディの意識が考えたことが顕在意識に降りてきて、顕在意識からすると「あぁ、そうなんだ。じゃ、これでいいのかな」みたいに納得した上で行動するようになります。これが基本であって、顕在意識がわざわざ未来を見るなんて、そんなネタバレなことをする必要はないわけです。

むしろ、ネタバレを避けるために意図的に見ない、という面の方が多くて、見ることはできるのだけど、これ以上見てしまったら面白くなくなってしまうな・・・ と思って、見ない、というのはよくあるお話です。