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プルシャの次元に上がろうとする時に遭遇する魔

2021-08-30 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

本山博先生が説明するところによると、必ず「魔」に遭遇するとのことです。

魔というのは、カラーナの次元に上がってきた心が、プルシャの次元、より自由な、つまり物の次元を超えた世界に行こうとすると、それに入らないように邪魔をする力なのです。 「本山博著作集8」

同書の説明によると、カラーナの次元(コーザル、原因)というのは物の力が潜んでいて、物の力というものはとても強いので物の力から完全に脱却しようとすると邪魔をしてくる力があって、それを魔と呼んでいるようです。

これによると、私の今までの理解は少し違っていて、私はサマーディ状態で「自分」というものがなくなるときに恐怖を覚えることが「魔」だと思っていたのですけど、確かに方向性としてはそうなのですけど、次元としてカラーナ(コーザル、原因)からプルシャの次元(独立した意識の次元)に行く時に現れるのが「魔」だとしたら、私がまだ知らないもののような気がしてまいりました。

思えば、胸の奥の創造・破壊・維持の力を感じて何をも可能に感じられたことによる恐怖が少し前にありましたけど、これをもってして「魔」なのかなと思っておりましたが、もしかしたら「魔」というのはもっともっと怖いものなのかもしれません。とは言いましても今から心配しても仕方がないですし、心配するようなたちではありませんけど。

本山博先生の著作を読んでいると、私の今の段階が「カラーナの次元」に一致している点もあれば、一方で、一部は「プルシャの次元」の記述と一致している部分もあるような気がいたします。

思考をどのように感じられるかという点に関してはカラーナの次元のようにも思いますが、創造・破壊・維持の公の意識という点に関してはプルシャの次元のようにも思われます。

カラーナのお話はメンタルがどのくらい成長するかというお話ですので、もしかしたらこれらは多少は独立して前後して成長するものなのかもしれませんね。であれば両方それぞれ成長してきている、という解釈もできます。

私の場合、幼少期に多少は辛いメンタル生活を送っていましたのでもともとエゴはそれほど強くはなく、と言いますかもともと強かったエゴが疲れ果てて弱くなっていた時期がありましたので、それは不幸中の幸いで、その時に弱めたエゴのおかげでプルシャの次元に上がろうとした時の「魔」がとても弱いもので期間も短くあっという間に通過した、という解釈もできます。エゴが強い人にあの創造・破壊・維持の公の意識が現れたのならば強烈に「自分」を否定する抗い難い強い「公」の力と対峙して葛藤するかもしれなくて、「魔」というのに相応しいかもしれませんね。

かと言いまして、同書によれば以下のようにありますけど、私は自覚している範囲においてはアジナもサハスララも目覚めておりませんから、まだなのかもしれませんね。

プルシャとの合一は、アジナやサハスラーらが目覚めないと生じない。アジナが目覚めて三つの次元のカルマの存在を破らないと、プルシャとの合一は生じない。 「本山博著作集8」

サハスララにまでオーラは充満しつつあるものの、目覚めるという感覚の自覚がありませんのでプルシャとの合一はまだと思った方が良さそうです。

同書によれば以下のようにあります。

今まで東西のいろいろな神秘家たちは、アストラル次元の霊との一致とかカラーナ次元での霊の一致とかプルシャ、あるいは神様との一致という、三つの次元の違いを区別しないで、その三つの次元をみなくるめて、集中の状態、部分的に合一した状態(瞑想の状態)、完全に一致した状態(三昧)というふうに、「合一」という面からだけ説いてきました。(中略)ところが実際は、アストラルの次元の霊と一緒になる時でも、また、アストラル次元を超えてカラーナ次元の霊と一緒になる時でも、初めは自分と霊とが対立していて、次には部分的に合一して、それから霊そのもののようになって霊そのものがよく分かるようになるというふうに、それぞれの次元で三つの段階を経て一つになるのです。 「本山博著作集8」

となれば、私の場合、アストラルの次元を終えて、カラーナの次元の合一を始めた、と考えるのがやはり合理的のように思います。

であれば「魔」は次のプルシャの段階ですので、それはまだ、ということになります。

この辺りは推測も含まれておりますので今後様子を見ていきます。



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